全35件 (35件中 1-35件目)
1

國立能樂堂資料展示室で、初心者向けの「能楽入門」展を觀る。面、装束、道具などが、五番立に沿って所狭しと展示されてゐる様は壮觀にて、能樂からも大いに取材し、模して演じる活動をしてゐる私にとって、これだけの真物(ほんもの)が一堂に會した企画展はまさに目から得られる榮養分にて、かつて國立劇場で今は亡き講師から、「いいもの(本物)をたくさんよく見ておくことだ」と何度も云はれたのがすなはちここぢゃと、良いことを教はってそれを現在(いま)實行できてゐることに、感謝する。
2025.07.31

學習院大學内の學習院ミュージアムにて、「芸術と文化のパトロネージュⅡ まだまだ開く玉手箱」展を觀る。皇族貴人のお眼鏡にかなったことで近代に入っても命脈を保てた傳統工藝品の展覧會第二彈、我々庶民の生活にはなじみのない精緻極める調度品類を見ても、しょせんは雲上人の世界となんら感興を催せないが、米粒様の文様を織り出した“穀”と云ふ生地で仕立てた緋色の袍、二世五姓田芳柳の清明な水彩画、實忠ゆかりと傳はる二月堂焼經の古筆切れなど、(※案内チラシより)私でもなんとなくその価値が見える文物のなかで目から鱗だったのが、勸修寺門跡の鎮守社に傳はってゐたと云ふ三十六歌仙を描いた額で、(※同)古へには優れた和歌を奉納することは神佛への善き手向けとして尊ばれた云々、能樂で和歌を禮賛する曲が多いのはこの風習が背景にあったからかと、遺物を史料教材として殘しておいてくれたおかげで、かつての日本人の価値觀が、たしかに私の心に傳はる。
2025.07.30

今日の午前8時25分頃、露國カムチャツカ半島沖にてマグニチュード8.7の地震發生云々、4mの津波が發生云々、露國領沿岸の工場が水没の被害云々、日本の沿岸部にも津波警報が發令云々、東京では13時11分に晴海で20cm、橫濱では11時40分に30cmを觀測云々、夕方に東北地方以外は津波注意報に切り替はったが、警戒は繼續云々。東京圏の鐵道は東海道線、常磐線、京濱急行の一部など沿岸部を通る路線が運休、併走の緩行線が帰宅時間帯に大混雑云々。津波の危険のある各國では避難者たちの車で道路が大渋滞云々、東日本大震災が發生したあの時のまま、ヒトはなにも變はらず。ヒトが滅亡する時、そのいちばんの原因はヒトであったと、誰が記録してくれるだらうか。
2025.07.30

文京區湯島の國立近現代建築資料館にて、「日本の万国博覧会 1970-2005」展の第一部と第二部を通して觀る。もともと十九世紀に各國の優品を集めた展覧會として始まった萬國博覧會は、やがてその時代の高水準な技術と文化を、各國が威信をかけて披露する場へと發展していく。日本がその威信の最頂點にあったのが、昭和四十五年(1970年)に大阪の千里丘陵で開催した「日本万国博覧会」──EXPO'70であったことは、日本の各パビリオン(展示館)の緻密な設計図の數々が、明瞭に語ってゐる。(※案内チラシより)鉛筆で繊細に引かれたその図面たちは、當時の人々が心に描いてゐたであらう未来(ゆめ)を實現化させる、その第一歩を記した記念碑でもあり、そこに朱色で書き込まれた設計者からの直球表現の“ダメ出し”は、萬博實現の最前線にゐた男たちの、生々しいこゑのやり取りを自分もその場にゐて聞くようで、歴史資料としての価値をより高めてゐる。日本自動車工業會のパビリオン「自動車館」では、當初は何か模型も展示する計画だったことが設計図に書き込まれた文言から窺へるが、(※案内チラシより)それについて、「模型の展示はディズニーがあれ程金をかけてもあの程度なのだから、日本の場合は避けた方が良い」と記されてゐることは、令和現代にもそのまま通じる鋭い指摘と傳言であり、この未来設計図は令和からさらに先をも見越してゐるのだと、驚嘆させられる。第二部は大阪萬博以後、日本で開催された四度の萬博を「萬物との調和と共生」の觀點から考へる内容で、昭和四十五年(1970年)の大阪萬博が「人類同士と技術の調和」、昭和五十年(1975年)の沖縄海洋博物館が「人類と海洋の調和」、昭和六十年(1985年)のつくば科学萬博は「パビリオン(各國展示館)同士の調和」、平成二年(1990年)の花博は「植物との調和」と、それぞれの主題のもと、設計者たちがおのれの持てる技能を最大限に活かして図面を引いた軌跡が實物を通して紹介されるなか、平成十七年(2005年)の愛・地球博では地球環境との調和を謳ひながら森林樹木を伐採して空中回廊を造ったことは狙いと矛盾してゐると非難云々、ここへ来て人類の萬國博覧會に對する認識と意義に變化が顕れはじめたこの事例に、私は興味を惹いた。開催者にとっては「大勢の来場者(ヒト)を實験臺にした未来世界の提案」、しかし来場者の大半にとっては「モノ珍しき祭り見物」──(※展示室内、條件付きで撮影可)ニンゲン同士の思ひの調和は、結局どこにあるのだらうと、どうせ私のアタマでは答へを出せない小ムズカシイことを考へたがる癖が、嗚呼また始まった……。
2025.07.29

日本橋高島屋の高島屋史料館TOKYOで、「団地と映画」展を觀る。かつて“ウサギ小屋”とも揶揄された戰後ニッポンの住宅事情を象徴する團地が、現代社會と人間の生活文化に及ぼした影響について、團地を舞臺にした映画作品に絡めて見ていく内容かと思ったが、(※展示室内一部のみ撮影可)“団地団”なる集團を結成した六人のクリエイターが團地愛とも團地論ともつかぬことをそれぞれ勝手に語り倒してゐるだけで、本題がイマイチ見えてこない。かく云ふ私も成人する前年まで團地で育ったクチだが、その頃の記憶と照らし合はせても、地面(つち)の上の住まいだらうが、「長屋を積み上げたやうな」住まいだらうが、結局ニンゲンが平面か立体かの違ひで集まってゐるだけで、ヒトのヒトへの好奇は、何ら變はることはない。それがクリエイターと云ふ好奇な表現を生業とする人たちには、たまらなく魅力的なの素材(ネタ)空間に映るのだらう。團地住まひしか知らずに育った經験として、あんな壁と床と天井の一枚を隔てただけの四方を大ぜいの他人に囲まれて長く生活するなど、いまの私にはとても耐へられない。あそこを故郷だとは、いまも思ひたくない。團地が現代生活にもたらした例として思ひ出したのは、故人六代目三遊亭円楽がマクラで、昔(※昭和)は名人が高座に現れると、客席からその名人の住んでゐる地名で掛け聲がかかったと話してゐた。曰く、六代目三遊亭圓生は新宿區柏木町(現在の北新宿、西新宿界隈)に住んでゐたので、「柏木!」、八代目林家正藏(彦六)は台東區稲荷町で「稲荷町!」八代目桂文樂は上野の黒門町で「黒門町!」現在さういふ名人がゐたら、「○○團地!」「○號棟!」だったりするんですかね──と、實際に團地住まひの噺家がゐたことに引っかけて(二代目桂小南師のことらしかった)、客席を沸かせてゐた。
2025.07.28

ラジオ放送の金剛流「忠度」を聴く。平家の公達にして、藤原俊成門下の優れた歌人でもありながら「勅勘の身の悲しさ」で千載和歌集では“よみ人知らず”とされ、やがて時間(とき)が解決したものか、のちには忠度の名で十一首も和歌集に選ばれ、歌人としての名譽を回復した平忠度の、世阿彌から追慕曲。……にしては感興を催さない單調な謠ひっぷりだったが、解説者の大學先生が平忠度の境遇について、「人は儚いものですが、人の情は深いものですね」と、味のある言葉を添えたことに、風情の軍配を上げる。能樂の作品解説をするセンセイは、たいていが小ムズカシイ言葉を使って話しをムダに小ムズカシくしたがるものだが、かういった切り口で語ってくれたなら、平忠度も喜んでくれるだらうに。
2025.07.27

東京都大田區の「大田文化の森」で開催された“夏祭り”にて、現代手猿樂を演じる。三十分の出演時間をもらへたので、解説と舞台上で面をかける實演を交へながら「猩々」と「すゑひろかり」の二曲をつとめ、また舞臺進行の担当者に傳統藝能を分かる方がおられたおかげで話しもよく通り、大いに助かる。無事に舞臺をつとめたあとでほど近い池上本門寺を久しぶりに訪ねると、折から吹き抜ける風が猛夏の熱を和らげ、やうやく氣持ちも落ち着く。目に見えない力を見た一瞬だったのだと思ふ。
2025.07.26

昼間に手猿樂師としての用事を済ませ、神保町で面白い資料を手に入れてから、御茶ノ水驛よりそのまま線路がつながってゐる千葉縣木更津へ、キッチンカーを出店してゐるC-Styleを應援しに行く。ちゃうど客の切れ間だったやうで、着いた時には私ひとり、オススメの“北京ダックレープ”を初めて注文して、しばしお話しさせていだいて、(※了承を得て掲載)やっと心地良くなった夕方の風に吹かれながら、さてこれに乗ってどこへ行かうかナと歩き出す。
2025.07.25

JCII PHOTO SALONで、「JTB旧蔵ストックフォトから見る日本 示戚と宣揚 戦中の国策写真 1」展を觀る。戰前のプロパガンダ機關「冩眞協會」からJTBへと所有が移り、のちに大半が國立國會図書館、殘りがJCIIの保管となった第二次大戰中のおぞましき宣傳用國策冩眞の數々、展示室内のそれら全てが創られたウソに他ならず、大衆が真實を知らされることなくこんな物ばかりを見せられてゐた歴史に、ただ怖氣を催す。これら嘘で塗り固められた報道冩眞は、内閣情報局が編集した國策宣傳誌「冩眞週報」に掲載され、隣組の回覧雑誌として大衆に流布させることで官による情報統制に絶大な威力を發揮云々。戰場で失明した傷痍軍人が療養施設で治療を受けながら「再起奉公」への希望に笑顔を見せる──?軍用犬として應召されたイヌの、「ぼくはいよいよ戰地へ行けるんだ。日頃の訓練が物を云ふ時がきた。」云々を書いた記者など、ばかなんぢゃないかと唖然とするよりほかにない(上↑の画像のポスターに使はれてゐるのが、それにあたる)。そして現在でも神社などで奉納される「浦安の舞」、近代になってからの作であることは知ってゐたが、昭和十五年(1940年)十一月十日の“皇紀二千六百年奉祝祭”に合はせて、昭和天皇の御詠歌より多忠朝が特別に創作云々の事情は初耳、かういふものをうっかり現代手猿樂に取り入れないやう、無知であることの恐ろしさをここでも自戒自戒。そして國策宣傳の心得として、谷川徹三氏が昭和十六年三月號の同じプロパガンダ誌「報道冩眞」の木村伊兵衞との對談“冩眞と對外宣傳”で、こんなことを述べてゐる。「大東亜共榮圏に對しては日本の古い生活面なんか見せることはない。さういふものを見せたら、何だ俺達と同じぢゃないかと思ふ。科学日本、新文化日本、武力日本、さういふものを見せなければならぬ」──自分たちに都合の良いものだけを選択、造り替へた上で大衆に傳へる報道屋の精神は、令和現在も脈々と受け繼がれてゐる。真を冩すこの偉大な文明は、ウソの世界を冩すことで、ヒトのウソの真を冩し出したのだ。
2025.07.24

歌舞伎座七月興行の昼の部で、新歌舞伎十八番の狂言を二題樂しむ。「大森彦七」は初めて觀る芝居で、市川右團次の演し物。湊川合戰で楠木正成を討ち取った大森彦七が、その後正成の怨靈に悩まされると云ふ「太平記」の挿話より福地櫻痴が脚色した史劇“風”狂言、般若面をつけて鬼のフリをした正成の娘が懐剣を抜いて大森彦七に仇討ちを挑むなど旧態依然な構想に、けっきょく“活歴物”が失敗した理由が仄見えて興味深かったが、(※「大森彦七」 初代中村吉右衞門の大森彦七、五代目中村福助の千早姫 大正十年六月 新富座)それ以上に右團次が師匠三代目市川猿之助ゆずりのしっかりと腰の据はった芝居を魅せてくれたことが嬉しく、やはり三代目猿之助(おもだかや)の本當の後繼者は、この優ただ一人と再認識する。それだけに、副将格の序幕役者な扱ひになってゐることを、とても殘念に、勿体なく思はずにはゐられない。「高時」は初めて客席から觀る狂言、「太平記」でこき下ろされた北條高時の暗愚ぶりを視覺化した史劇“風”の一幕、高時を翻弄する烏天狗に扮した大部屋連が跳躍を高々と連發する大熱演なれど、あまりやり過ぎると「そこはアンタたちのウサギ跳びを見せるところぢゃないヨ」と煩く映るので要注意。(※「高時」 八代目松本幸四郎の北條高時 昭和二十七年四月 歌舞伎座)この狂言でも三代目猿之助門下の女形が高時の愛妾役で、しっかり大歌舞伎の一員としての芝居を魅せる。劇界ならではの魑魅魍魎のために一門と云ふまとまった姿にこそならなかったが、三代目市川猿之助の遺産は、間違ひなく現行の歌舞伎を支へる人財としてそれぞれに活きており、さうした本物の傳統繼承に思ひがけず三代目市川猿之助の追善興行を觀たやうな、心温まる幸せを覺ゆ。
2025.07.23

アプロ赤坂でC-Styleが月イチでやってゐるライヴに、初めて出かける。大半を占める常連さんたちのノリを見ながら乗っかって、しっかり樂しんだ五十五分。せっかく来たのだからと物販にも立ち寄りつつ、ファンの一人一人と歡談するメンバーの姿を眺めて、そのエネルギーにただ畏れ入る。付かず離れずが、私の場合は上手くいく。
2025.07.22

昨日行はれた参議院議員選挙、大方の予想通りに與党が過半数割れし、私も一票を投じた新興政党が大躍進云々。既存野党はもうタカが知れてしまってゐるので票が伸び悩んだも道理なれど、キャンキャンうるさいだけの二位女を比例當選させてしまったのは、有權者の大失態だ。そのほかダメどころかダメダメなのが落選するのも道理なれど、では新興政党がどれだけのシゴトをするかについては、未知數なだけにまた話しは別なり。私が記憶してゐる限り、政權交替が善政のきっかけとなった例は無いのである。とは云へ議席を獲得した以上は、長らく野放しにしてきた物価高騰の抑制と、流入しすぎた異國人の取締り、この二件について、まずはしっかり仕事をしてほしい。私は民意の代行者を選んだのであり、政党を選んだわけではない。仕事をしない、出来ないのであるなら、馘首するだけのこと。それはどこへ行っても、同じことだ。
2025.07.21

川崎驛に隣接のアートガーデン川崎にて、清朝の七寶焼工藝士だった人物の子孫が傳承し製作した、宮廷工藝品の數々を觀る。精緻を極めたそれらの輝きは、富と權力とは運命に選ばれた者のみが手にすることが出来る魔術であり、またその魔術が人を高貴にすることを、いやと云ふほど我ら俗人に見せつけてくる。かうした藝術文物と國の權力とは常に連動したものであることが入り口で渡された小冊子に麗々しく語られてゐるのを見て、かういふものはただ作品だけを見て感心するに留めておくべきと悟る。まだもう少し時間に余裕があったので、川崎大師の風鈴市まで足を伸ばす。が、涼を呼ぶ音色よりまわりの雑音のはうが盛んで、その目と耳に煩い有様に、こんな行事だったかナと首を傾げてから、例年は平日に出かけてゐたことを思ひ出し、私らしくないことをやったとおのれのマヌケをそこに置いて、はやく去ることにする。
2025.07.20

待ちに待った、参議院議員通常選挙に行く。今回は特に行く。忘人も云ってゐた、「落としたいヒトを落とすため」。そして我が町内でもやけに目に付くやうになった、入り込みすぎた異國人の取り締まりと對策を謳ふ候補者に、「本當にやれよ」と念じて投票する。期日前投票を活用した有權者數は過去最高の2145,220人云々、政治はすなはち“まつりごと、今日は樂しい知らせがもたらされる、さういふおまつりになりますやうに。
2025.07.20

橫濱市歴史博物館の開館30周年記念特別展「横浜の文化財」を、Part1 修復(4/26~6/1)とPart2を通して觀る。Part1では、かつての所有者が生きた時代や環境による価値觀から、その文化財の形が改變されてゐたことが修復作業より發見されることがあり、それを本来の形に戻す復元作業も修復作業のうちに入ること、また文化財はその土地の歴史と結びついた“証言者”であることから、どこかの時代で諸事情により土地から引き離される(移転や移動)とその証言を聞き取れなくなり、かと云って無縁物として粗略にも出来ず、後世で取り扱ひに困ることになるなど、歴史ある古い物だからとただ保存すればよいと云ふものでもないことを知る。興味深いのは、本来の目的を終えた文書──いはゆる反故紙がほかの目的に転用されて殘った結果、“正史”では謎とされてゐた事情がたまたま發見されたその反故紙の文言から解明の手がかりを得られる例のあることで、有名なのは紙背文書だが、今回の展示では古刹の襖の下張り、また着物を包むたとう紙にも転用された例が紹介され、(※フラッシュ無しで展示物の撮影可)それは初めて知っただけに、「ほう……」としばし見入る。もうひとつの見ものは經歴不詳の近代画家笠木次郎吉による「明治期庶民風俗図」、繪巻物とやうに橫長なのはもともと1905年に加國で開業したデパートのエレベータードアの上に飾るために制作されたからで、その經緯については笠木次郎吉らしく不明、その後は海外で所有者を転々としたが、昨年に當博物館が購入し本邦初公開云々、ほかの洋画家にはない風合ひの作品世界に私も惹かれる一人ゆゑ、これはいいものに出逢へたと嬉しくなる。Part2では地域の行事や風習、藝能など、人によって“形”が表現され、「伝承」されてきた文化財を考察する。つまり、「人」と云ふ担ひ手を失なふとたちまち消滅するものであり、あとは殘された道具類から往年を推測するしかない。その一例として私の興味を惹いたのは、東海道の神奈川宿と川崎宿の間にある鶴見は江戸時代以前には「釣海」と云ってゐたが、江戸へ向かふ途中の德川家康が鶴見橋で鶴を見たことから「鶴見」となり、(※道中繪図に見る鶴見橋)件の橋は神君家康ゆかりの橋であることを理由に、修繕などの諸費用は地域住民の負担ではなく全て「御普請」(公費)で賄はれた云々。(※かつて鶴見橋だった現在の鶴見川橋)しかしこの傳承は當時から地元民が村の負担回避と權益を守るために創作したものであり、江戸幕府が瓦解すると神君家康の威光も消え、橋と地名の謂れ因縁もいつしか地元民からも忘れ去られ、わずかに當時の文書だけが、歴史を知る手がかりとなる。もうひとつは人が演じることで傳承される“藝能”で、演者を失ひ道具だけが殘された場合、それらの価値は殘念ながら低くなる。道具は、人に使はれ續けることで、真の歴史の証言者となり得るからだ。七月十九日には關連企画として、橫濱市の無形民俗文化財となってゐる“佐相社中”の神代神樂が博物館内のホールで演じられ、私が觀たのは「天孫降臨」、藝能はその場ですぐに形が消えてしまふまさに“一期一會”、觀た人が記憶することで、その藝能がそれぞれの心に記録されると云った實体験を味はふ。神樂も演じる形態はさまざまであり、時には歌舞伎芝居から取材し、演技もそれに近い曲目もあったやうで、過去には神樂師がそのまま歌舞伎役者に転向した例もあった云々、(※神樂師から転向した“市川蓮之助”)かうして記憶することで歴史の傳承ともなる一例を、私はここでも實体験して樂しむ。
2025.07.19

今年は週の前半に臺風の余波らしきによる降ったり止んだりのイヤラシイのがあったくらゐで、ビショビショのジメジメ續きをほぼ免れたのは幸ひ幸ひ。今日からは心置きなく夏である。熱い暑いと云ひながら、毎年けっきょく色々なことをやってゐる夏。たしかに異様な氣候で戸惑ふこともあるが、しかしそれで氣特ちが挫けぬうちは、私は私らしくゐられることがもっともよく確かめられる、活力な夏。
2025.07.19

上野不忍池の夏祭りで開かれてゐる、青空骨董市を覗きに行く。昼下がりの熱暑下、ふつうならば外にはゐたくない日差し、しかしこの時期のこの場所はさういふものゆゑ、肌寒かったりしたら、却って調子が狂ふかもしれない。かうした催しは、本當に「覗いた」だけで終らなかった時が樂しいときで、一日のいろいろな予定のなかで少しでも時間をつくって、かうした意義があったとき、私は「上手く生きてゐるなァ」と、おのれの活力を實感するのである。
2025.07.18

鎌倉市雪ノ下の神奈川縣立近代美術館 鎌倉別館で、「コレクション展 木茂先生の挿絵考」を觀る。讀物において重要な要素である挿繪について、あちこちの美術館長や大學教授を歴任した青木茂氏の蒐集品を並べた展覧會、幕末から昭和にかけて近代の讀物界を支へた画家たちの、生活(いのち)を懸けてふるった挿繪の數々はいづれも見るべき要素にあふれた傑作揃ひ、世界地誌書の「輿地誌畧」を彩る豊富な外國風景の挿繪は、海の向かふの遠い國への憧憬を髣髴とさせ、私もそこを訪ねてみたい旅情すら誘ふ。が、明治以降の作品については、ただ氏の蒐集當時の記憶や印象を何かからの抜粋文で語るばかりで、それが何の作品の挿繪なのか、一點一點について肝心の解説がなく、(※案内チラシより)魅力に富んだ作品揃ひなだけに、そこに籠められた“情報”が解ればさらに真価が傳はるのに、ともどかしく思ふ。併陳の「近代の洋画」はその要素を濃縮させた小展で、まずはよく見ておけば今後に間違ひはないだらうと感じる。鎌倉驛への戻り道は、ヒトが煩い小町通りを避けてその手前で折れ、旧川喜多邸前を通り線路を渡っていくことにする。やっとムダなヒト影がなくなってヤレヤレと安堵してゐると、途中で「巌窟不動尊」と大きく書かれた看板に出くはし、路地の奥がそれらしいので、立ち寄ってみることにする。江戸時代までは東隣に存在した松源寺が管理してゐたが、明治時代に廢寺となってからは地域の人々によって守られてゐるこの不動尊、源頼朝がやって来る以前から存在してゐたとされ、もともとは山の上にあったやうだが、現在は二代目となって今の場所にまします。その二代目はかつて鎌倉界隈の特徴でもある岩を穿った奥にましましたが、崩落の危険が出てきたため、外に設けられたお堂に移さるる。その脇に置かれた楕円の石は「重輕石」と云って、願ひ事を念じつつ持ち上げて重く感じれば身の丈に合はぬとて叶はず、輕く感じれば叶ふ靈石云々。私の願ひはただひとつ。ドキドキしながら石を抱へると、難なく持ち上がる。今日は樂しい御縁を結べたと、不動尊に改めて合掌する。
2025.07.17

両國國技館内の相撲博物館で、「大相撲100年史」展を觀る。大正十四年(1925年)四月、摂政宮(のちの昭和天皇)の臺覧相撲の御下賜金で東京大角力協會が摂政賜杯を制作したのを機に、それまで東京と大阪で別個が存在し、それぞれで興行してゐた協會を合併する機運が興り、同年十二月二十八日に財團法人日本相撲協會が設立、(※展示物の撮影可)昭和二年(1927年)に東西は正式に合併して、いらい時世や時流と上手く折り合ひ、時には翻弄されながら、今日まで歴史を刻む。さうした歩みを証言する戰前からの數々の資料のうち、私の記憶にもっとも新しく、またこれからも決して忘れてはならない記録が、令和二年(2020年)早々に發生した人災疫病禍による初めての無觀客興行、この疫病禍では勝武士と云ふ若手力士が感染して亡くなっており、その事實もしっかり自分の心に記憶しておくことが故人への供養と、氣持ちを新たにする。そして“平成の大橫綱”、若乃花と貴乃花の両關取が冩った一枚。その後のことはどうであれ、この兄弟橫綱が角界にもたらした絶大な効果は無視できるものではないはずだ。そして門外漢な私に相撲を生で觀戰するきっかけを與へてくれた、戰前の三十三代橫綱・武藏山關の手形に會って、(※往年の三十三代橫綱 武藏山)いまここに立ってゐるのもあの出逢ひゆゑと、その大きな手を福の招きと見る。
2025.07.16

東京都文京區の印刷博物館で、「黒の芸術 グーテンベルクとドイツ出版印刷文化」展を觀る。1400年頃に独國の地方貴族出身とされる金細工職人グーテンベルクが發明した活版印刷術は、“ディ・シュヴァルツェ・クンスト(die schwarze kunst)”──“黒い”魔術と呼ばれ、旧約聖書のいはゆる“42行聖書”から始まったこの画期的な技術はやがて欧州全体に廣まり、(※記念繪葉書より)宗教關係の書籍はもちろん、中世の欧州を席巻した黒死病を背景に、“正しい態度で死ぬ方法”を説いた「往生術」(1493年)や、あらゆる階級の阿呆を乗せた船が阿呆の國をめざして航海する様子を散文詩体で綴り、文盲の讀者も想定して銅版画の挿繪をふんだんに取り入れた題名もズバリ「阿呆船」(1495年)といふ念の入った風刺的文學など、和訳の活字本はないかしらんと私の興味をそそられるほどの、旺盛な印刷出版文化の幕開けとなる。しかし、グーテンベルク本人については、印刷事業による多額の負債に絡んだ裁判記録より斷片的にしかわからない、謎多き人物云々。独國で長らく活字の標準書体となる“ブラックレター”──いはゆる“ゴシック体”の生みの親となった人物である、なにかを創(はじ)める非凡な人間と、それを良く思はぬ凡庸なニンゲンとはいつの世も一對と、その辺の事情は推察するしかない。十八世紀にはすでに不便との聲が上ってゐたブラックレターは、二十世紀には独國の自立を強く謳ふナチスのプロパガンダに頻用され、しかし他國を支配するには世界共通の活字書体である“ローマン体”を用ゐたはうが好都合であることから、1941年に公用書体としてのブラックレターは廢止さるる。(※縦長の字体で尻に角度をつけてゐるのが特長の“ブラックレター” 案内チラシより)人の創った文化がヒトの思惑に翻弄される、愚かしいがしかしこれが現實の一片、これも“魔術”なのだらうか。
2025.07.15

ラジオ放送で、寶生流「楊貴妃」を聴く。いまや冥界にある楊貴妃を描いた曲、どこか視界のぼんやりとした幽幻味を感じさせたら成功なのだらうが、それよりも先に自分が假死状態になってしまひさうな試練曲。しかしそれで自分も楊貴妃に出逢へたならば、それなりに面白い曲にもなるところだが、常になにかに追はれて現世を生きてゐる我々である、この傾國の美女に巡り逢へるヒマもなく、たちまち浮世の獄卒に枕を蹴飛ばされて叩き起こされ、飴と鞭に追ひ立てられ、夢まぼろしはしょせん夢まぼろしでしかない虚しさばかりを、思ひ知るのである。
2025.07.14

彼岸の入りとのこと、元日以来のお墓参りに出かける。そして墓前にどっかり安坐して、しばらくサシでの會話を樂しむ。ご無沙汰をしてゐた詫び、近況報告、そしてこれからの展望について──佛壇の位牌と、墓前と、どちらに“存在”を感じるかと云へば、私は墓前にそれを感じる。今日は特にさう感じる。今日は呼ばれて、私は出かけたからだ。
2025.07.13

川崎市教育文化會館イベントホールにて、「阿波根昌鴻 写真展」を觀る。戰後十年が經った1955年(昭和三十年)三十一日の午前八時頃、沖縄本島西部の伊江島に上陸した侵駐米夷は、ブルドーザーで島民たちを追ひ立てて住居や畑をことごとく破壊し、跡に爆撃演習場を造る。かうした強制的な土地接収により先祖傳来の土地を奪はれた一人である阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)氏は、沖縄と住民の“いま”をカメラで數多く冩眞に記録しながら、生涯をかけて沖縄の平和活動に身を投じる。(※案内チラシより)當時の「思ひ出すだけでも氣が狂ふほどの苦しみ」に向き合って闘ふ一般人の姿は、何もしない本土政府との合はせ鏡のやうなもので、そもそも米夷の壮絶な沖縄上陸戰を「本土決戰の前哨」くらゐにとらへてゐた日本政府にとって、沖縄とはそれだけ遠い問題なのだらうか。(※同)しかし一方では、かつて私がとてもお世話になった沖縄出身の方が、「米軍の駐留が支那への抑止力になってゐるんだよ、アイツら(米軍)が本當に撤退してみろ、たちまち支那と露國が攻めて来るぞ」と真剣に話してくれたのを聞いて、報道屋が決して本土には傳へない沖縄の人のいろいろな考へを初めて知ったことを思ひ出し、私はいつか自分の目と、耳と、足で現實を見たいと關心のある沖縄に、やはりいつか一度は訪れたいと、改めて強く思ふ。
2025.07.12

川崎市平和館のミニ企画展「チャンギから考える 未来のための過去との付き合い方」を觀る。現在は空港となってゐるシンガポールのチャンギには、かつて英國の植民地だった時代の1936年に刑務所が作られ、1942年に英國が大日本帝國に降伏すると、(※「シンガポール英軍の降伏」 宮本三郎 筆)そのまま大日本帝國の捕虜収容所となって捕虜たちへの激しい虐待が行なはれ、1945年に日本が連合國に降伏すると、今度は連合國による日本人戰犯の収容所となり、英國が中心となって開いた法廷では978人のВ級戰犯が起訴され、223人が収容所内の絞首臺“Рホール(Punishment HaII)”で死刑執行云々。このチャンギ裁判は連合國の戰犯裁判でもっとも厳しいものとされたが、1894年いらい植民地支配してゐたシンガポールを奪はれ、また自國兵を虐待された英國の私的な恨みと報復も絡んでゐたと思はれてなられない。日本人死刑囚の遺書や言傳を収容所外へ持ち出すことは厳禁で、遺品もすべて焼却処分されたが、戰犯の教誨師を務めた二人の日本人僧侶が命懸けで密かに遺言を日本へ持ち帰ったものが2000年代になって寺の庫から數多發見され、戰犯とされた人々が最後になにを思ひ、なにを傳へやうとしたのか、その聲を手紙といふ形で、直接に聞くことが出来る。日本人兵士、ときには日本軍に従事した企業の社員までが現地の捕虜たち、そして當時シンガポール人口の七割を占めてゐたと云ふ移民系支那人に行なった壮絶な虐待の様子は、一人一人の起訴内容を讀んでも怖氣立つものがある。とても人間とは思へない殘酷な行為、これこそが戰争が駆り立てた狂氣と云ふものだらう。しかし裁かれた加害者たちの遺書にはいづれも、「軍務に精励」「帝國の軍人として何等疚しいことをしたわけではなく」「自分は皇國のために立派に働いて死んでいく」「任務の為」「御國のため一生懸命御奉公」など、最後まで清々しいくらゐに揺るがぬ強い愛國心が綴られており、さうした勤勉とされる日本人の心を巧みに利用し叩き込んだ愛國教育の果てに、私は洗脳の恐ろしさを思ひ知らされずにはゐられなかった。さうした本土の裏切り者たちに裏切られた人々のなかで、「國の為一生懸命務めたものが戰犯といふ名で引懸ったのです、戰に負けたから戰犯といふ名を付けられたと思ふ外ありません」との最後の言葉を遺したこの方は、戰争とは善惡の外にある愚行と云ふ真理を、よく見抜いておられたのだと思ふ。ミニ企画展の域を超えた深い言葉と聲の數々から、しょせん日本人も加害者であった事實を正面からはっきり受け止め、知っておく重要さを、教へられる。
2025.07.11

閉まりかけたエレベーターのドアを、“開”ボタンを押して急いで乗り込むと、なかに大年増がひとり乗ってゐて、露骨に舌打ちをした。私が半笑ひで「しつれい」と詫びてみせると、そのことで調子づいたのか、今度は大げさに溜息をついてきたので、私は可笑しくなって吹き出す。そして私は先の階で降りる際に、「シアワセになりなさいヨ」と、その大年増へ祈りのコトバをかけて差し上げる。私はああいふ不景氣な生き方をしてゐる生き物を、距離を保った上で眺めるのが好きだ。あんな調子で生きゐて何か樂しいことでもあるのかしらんと、眺めてゐるこちらは樂しい。昔の人は上手いことを云ったものだ、「他人(ヒト)の不幸は蜜の味」と。
2025.07.11

日本新聞博物館ニュースパークで、『戦後80年・昭和100年 報道写真を読む 「一億人の昭和史」から「毎日戦中写真アーカイブ」へ』を觀る。昭和六年(1931年)の日中戰争勃發から第二次大戰終結の同二十年(1945年)にかけて、戰火の真っ只中へ海外特派員として派遣された約六百人の新聞記者たちの、文字通り命懸けで殘した最前線の記録、そして戰後も國の没収破棄から記録媒体を守り抜いた報道人としての意地──(※條件付きで撮影可)までは立派な話しだが、問題は記者たちが仲間を失ないながら目の當たりにしたで戰火の事實を、どこまで正しく國民に報道してゐたか、だ。それがあくまで國民の戰意高揚を図る為政者の先棒担ぎとしてのネタ拾ひであったことは、女子どもや馬や犬、鳩までも動員した様子、侵攻した熱帯の東南亞細亞諸國を自転車で移動し、その自転車を日除け代はり地べたで假眠する民間徴用の日本兵たちといった、生々しく過酷な現實の一片をとらえた冩眞とは異様に乖離した鼻息荒い戰況記事に、彼らのシゴトの真骨頂がはしなくも現れてゐる。さうした自分たちと、その親分なる權力者に都合よく事實を歪曲した情報を浮世に發信し、感情を煽る欺瞞ぶりは令和現在まで不變普遍であり、むしろそれを改めたら彼らの存在意義が失はれるくらゐのものである。報道屋の嘘を知るためには、かうした“本物の嘘”を、多く見ておくことだ。
2025.07.10

神奈川縣立金澤文庫で、企画展「斜読 徒然草─近世読書のたのしみかた─」を觀る。かつては金澤北條氏の三代目貞顕の家人「かねよし」として稱名寺との連絡役もつとめてゐたことが近年の研究で明らかになったと云ふ兼好法師のしたためた随筆「徒然草」は、成立後三百年も知られずにゐたが、木版印刷が普及した江戸時代になって廣く知られるやうになる。そこに綴られた普遍的な人間像などへの共感が大流行を呼んだわけだが、斷絶してゐた三百年の間に浮世の習慣や風俗は大きく變化したため、本文の内容を理解するために注釈書が多く刊行されたのも、また木版印刷技術の賜物なり。「徒然草は天臺宗のもっとも重要な教義である摩訶止觀を日本の人々がわかるやうに説明した書物」などと、せっかく平易に綴られた原典を小難しいコトバで小ムズカシくしたがるのがゐるのはいつの世も同じやうで、高屋近文と云ふ神道學者がおカタい漢文で痛烈に批判した「徒然草明汙稿(つれづれぐさ めいおこう)」に並べる“珍賞”“屑”“不容曲”“狥物”“毒手”など、穏やかでない字面を眺めてゐると、むしろ他人(ひと)の才能や名聲が面白くないタダのヤキモチ焼きなのではないかと思へて、ここにも普遍的なのがおるわい、と可笑しくなる。この企画展でも中心で取り上げてゐる第五十三段の、僧がお氣に入りの稚児相手に酔った勢ひで鼎を被り舞い踊ったあとで外れなくなった顛末など、現代でもゐる氣になる異性(ここでは同性だが)を前にやたらハイテンションな哀しい男の例そのままで、讀み繼がれるのが本當の古典ならばアレも男の古典かと、いよいよ理解が深まった兼好法師の觀察眼。
2025.07.09

千代田區九段の昭和館にて、警視廰勤務の警察官にして冩眞家でもあった石川光陽が記録した、米夷の空爆によって破壊された“モダン東京”と、東京タワーを象徴とする復興までの軌跡を、二期にわたり多角的に訪ねる。昭和十三年八月に大田區森ケ崎(大森南)上空で發生した飛行機同士の衝突墜落事故現場の冩眞から、以前にその供養塔(地藏)をたまたま訪ねたことがあることを思ひ出して「これが……」としばし見入り、空襲で焼け出され、殘った家財道具を積み上げたリアカーを曳いて親戚を頼って避難する少年に、同情はすれど何もしてやることは出来ず、ただ「氣を付けて行きなさい」と聲を掛けるしかなかったと云ふ一コマに被災することへの無力感を痛感させられ、東京を散々に焼き拂ひ、かの少年をさういふ目に遭はせた當事者の米夷が戰後に侵駐して東京で火災予防運動を主導するなど「どのクチで……!」と、憤りの念やみがたし。終戰から十三年後に竣工した東京タワー、その足許の芝神明町に住んでゐた祖母の一族は、「あんなもん、行ったことねェ」。トウキョウ人の私も、わざわざ上りたいとは思わぬ。が、イベントホールで開催された故人安倍晋三元首相の追悼冩眞展を觀に、敷地に入ったことはある。今日は、その安倍晋三元首相の命日。政治に無關心なハズのヒトが、わざわざSNSなどに無關心を表明して實は意識してゐることを晒すマヌケの多いことが印象的だったあの事件、そして昭和館そばの日本武道館で國葬が行はれた日の劇場型な騒ぎ、石川光陽が存命ならば警察官としてなにを思ひ、あの光景をフィルムに収めたことだらう。
2025.07.08

新宿の京王百貨店で、「ザ・ドリフターズ展」を觀る。昨夏の上野松坂屋での開催以来二度目だが、今回も氣になったので出かけてみる。展示品に新たな“發掘”も加はるなど内容が前回より増強されて、(※一部を除いて展示物の撮影可)いつまでも觀てゐられる懐かしく樂しいひととき。子どもの頃は表面だけを見て笑ってゐたコントの數々をいま改めて觀ると、大人でなければ感じとれない奥深さがあることに氣付かされ、それがあの頃とは違ふ笑ひになってこみ上げてくる。長らく全國の子どもに笑ひを提供したドリフターズだが、その本當は味はひはむしろ、大人向けであることを知ったのが、私にとっての『秘寶』。
2025.07.07

觀世流銕仙會による「三輪」を、ラジオ放送で聴く。三輪山そのものを御神体とする古代大和人の信仰をそのまま傳へる三輪明神は、もともと伊勢神宮の天照大神とは同体であると曲中で語られ、さらに話しは有名な天岩戸傳説にも廣がっていく。すなはち、神樂の起源。そして、「面白い」の由来。だから、藝能は面白いものでなくてはならず、しかしそれが一番難しいのであり、ところがそれに叶ったものとなかなか出逢へぬところに、私は神様が與へた意味の厳しさを、つくづく思ひ知らされる。
2025.07.06

去る六月二十一日に麻疹(はしか)を發症した神奈川縣の十代男性、當日は午前九時から約六時間、大阪・關西萬博の會場内にゐて、いくつものパビリオンを見物云々、該當者は感染の可能性に用心云々。私が今回の萬博を見物したのは六月十九日、件の感染者とは入れ違ひなのでまずは安心したが、麻疹は非常に感染力が強く、手洗ひやマスクでは防げない云々、なにも件の男でなくても、たくさんの人が集まる場所には本當にナニが混ざり込んでゐるかわかったものではないと、改めて人塵(ヒトゴミ)への嫌惡を覺ゆ。ヒトの多くゐる屋内、室内、車内など、換氣性に乏しい場所ではこれからも人災疫病禍並みの用心が必須と、もう一度は行くかもしれぬ關西萬博に先立ち、兜の緒を締め直すには良き知らせ。「ヒトを見たらドロボーと、そしてバイキンと思へ」五年前、いかにしてあの疫病が日本にもたらされたか、あの恐々の日々を忘れるべからず。
2025.07.05

JR線の木更津驛から、久留里線に乗ってみる。八高線の高崎~高麗川間と同じく、東京圏では今や珍しい氣動車による運行で、房総半島内陸の上総亀山までの32.2kmを、一時間十分ほどかけて結ぶ。驛間も短く、ゆっくりコトコト走るのは、もともとは大正元年(1912年)に縣營の輕便鐵道として開業した歴史の名殘りだらう。かつては安房鴨川方面まで延伸する計画もあった痕跡が、上総亀山驛からしばらく直進した先で線路がぷつりと切れてゐる様子に見ることが出来る。乗客は大半が私と同じ考への“お仲間”たち、しかし私が乗った日時には地元住民の乗降もそこそこあり、乗降車數の著しい低下から廢止(※時期は未定)が決まってゐる久留里~終點の上総亀山間でも、わずかだが同様だった。歴史的には昭和十一年(1936年)に延伸した區間である久留里~上総亀山間約10Kmの廢止については沿線住民の反對も根強く、(※上総亀山驛前にて)確かに一人二人の利用しかなくても、その一人二人にとってそれは大切な“ライフライン”である。しかしその一人二人からのわずかな収益では莫大な維持費を賄へないと云ふJR(經營者)の苦悩もある。(※木更津驛の連絡橋にて)結局、「みんなで利用しませう」と云ふことになるのだが、今回の私のやうな“お得なきっぷ”での利用では路線にお金が落ちないため實収益とはならず、またこちらとしても、正規運賃でそんな遠くまでは……、と云った逡巡はある。(※上総亀山驛に住むツバメの一家)そもそも久留里線は道路状態の惡かった地域一帯の交通の利便性を補ふ目的で敷設されたもので、第二次大戰末期の昭和十九年には「不要不急線」とされて昭和二十二年まで休止してゐたことからも見えるやうに、利用者減を理由とする久留里線の一部廃止は、とうの昔からすでに決まってゐたことのやうにも思へた。
2025.07.04

橫濱市開港記念會館の地下展示室にて、「横浜の運河 変わる役割と町並み」展を觀る。年始めに神奈川大學みなとみらいキャンパスで開催された企画展示へ“非文字資料”を増補した内容で、港町ヨコハマを支へた在りし日の水運と現在の面影とを、鮮明に記録した冩眞より復習──雁木や橋詰など──のつもりで、改めて觀る。“非文字資料”とは、文字通り文字ではない資料のことで、夜間の町内で打たれる拍子木の音を我々は單純に「火の用心」と捉へるところを、研究者たちは「夜警」「防災」と捉えてその方面の研究資料とする云々。やうするに一歩踏み込んで考へてゐると云ひたいやうなのだが、「火の用心」も「防災」もけっきょく意味は同じ、單にコトバを置き換へただけぢゃないか、と私には映る。能樂公演の前座に「作品解説」と稱して出て来る學者センセイがまさにそれだが、話しをなんでも小難しくしたがるのはこの方面の人たちの惡癖である。
2025.07.03

東京都葛飾區亀有のかめありリリオホールにて、加藤健一事務所公演「八犬伝誕生秘話 滝沢家の内乱」を觀る。晩年に目が不自由になった瀧澤馬琴(曲亭馬琴)が、長年執筆を續けてきた「南総里見八犬傳」を、先立った息子の嫁に口述筆記させて完成を見るまでの葛藤の軌跡──を、瀧澤馬琴と嫁お路の二人芝居で劇的に見せていくのかと思ったが、前半は舌の病ひと下し腹に苦しむ病弱で嫉妬深い息子、何かとヒステリックな老妻、そして禮儀作法すら知らぬポヤっと陽氣な田舎娘じみた嫁と云ふ、「役に立たない」家族に振り回される馬琴の苦悩絶えぬ家庭状況を、やけに暗転を繰り返して見せ續けるばかりで話しに進展性がなく、後半になっていよいよ目が利かなくなった馬琴に、嫁お路が覺悟の代筆を申し出る場面でやうやく芝居らしいヤマ場となるが、結局そこでおしまい。そんな「南総里見八犬傳亅の完成後に義父馬琴から“滝沢琴童”の雅號を貰ふに至る嫁のお路は、前半で「トンイ」を上越す天然ばりな健氣さを見せる演技が光り過ぎて、夫との口論に一歩も退かぬ氣の強さや、一度は無斷で實家へ帰る嫁の辛い心情といった、もうひとつの面が見えにくい。また扮装も前半は日本髪の鬘をのせてゐたのが、後半にはなぜか洋髪じみた地頭で登場し、その姿が水商賣のオンナのやうで、實際のお路は生きてゐなかったはずの昭和に話しが飛んだのかと錯覺させられたのには困った。主役の滝沢馬琴は、いかにも舞臺人らしい明朗な聲とセリフが身上か。(※滝沢馬琴)馬琴の妻と息子はそれぞれ有名役者による聲のみの出演、録音時の表情までも髣髴とさせる“クセ強”な人物像ぶりに、なるほど役者はカラダすべてが資本と、今さらながら當たり前なことに感心する。本編終演後には初日特典のミニイベントとして、加藤健一の熱唱で加藤忍と日舞師匠が歌謠舞踊を見せたのは、とんだお座興。
2025.07.02

七月が始まり、晴天下から覆ってくるやうな湿った熱氣に、梅雨はどこへ行ったと呆れる。が、私の日常に雨は無益でしかないので、そのまま行方不明でよろし。この蒸し暑さに、近所では藤が時間を勘違ひして二度咲きしてゐるのを見る。そして今日は“半夏生”、關西の農家ではこの日にタコを食べる風習があることを、ラジオで聴いて初めて知る。タコの足(吸盤)のやうに苗や稲がしっかり土に根付きますやうに、と願ひをこめてのこと云々、實際にタコには疲勞回復の効果があるタウリンが豊富に含まれており、經験からさういふことを知ってゐた先祖には、ただ尊敬しかない。いまの夏は氣力も体力も激しく奪っていく。……と云ふことで、私も近所のスーパーで一番高いタコのパックを買ってきて、これから本番の炎暑に備へる。
2025.07.01
全35件 (35件中 1-35件目)
1