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ガンジス川の 下流域(現在のビハール州辺り)に位置し、 ラージャグリハ(王舎城)を首都とした国で 仏典上の摩訶陀国です。 紀元前800年頃までにはこの地域にも アーリア系の住民が浸透していました。 インドにおいて鉄器時代が始まった時期だったこと、 当時インド最大の鉄鉱石の産地であり、 かつガンジス川を介した水運と森林資源が存在した こともあり、この地方は急激に発達しました。 マガダ地方は身分制度が緩い地域(言い換えれば無秩序) であったことが知られ、 しばしばガンジス川上流域地方の バラモンなどの知識人達から 身分制度の乱れを批判されました。 これはマガダ地方が 当時のアーリア系住民にとっては新天地であり、 伝統的なバラモン教の習慣や権威の 影響力が小さかったことと関係します。 マガダは古いバラモン教系文献では キーカタとも呼ばれて、 マガダという名もバラモン教文献に 早い時期から登場しますが、 どちらの名も軽蔑の念を込めて使われていました。
2020年09月30日
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十六大国の中には、 実際には政府と呼べるような統治機構を備えておらず 「国家」として扱うかどうかが 議論の対象になるような国もあり、 16という数字自体は非常に観念的なものです。 一般的に十六大国が言及される場合、 『アングッタラ・ニカーヤ』で上げられた 16国を指します。 アンガ、バンガ(ヴァンガ)、マガハ(マガダ)、 カーシー、コーサラ、バッジ(ヴァッジ)、 モリー(マッラ)、ヴァッチャ(ヴァツサ)、 アッチャ、パーダ(パーンダ、パウンドラ)、 マラヤ、マーラヴァ、コッチャ、アヴァーハ、 ラーダ(ラータ)、サンブッタラがそれで、 これらの中でも マガダ、コーサラ、ヴァンサ、アヴァンティの4国は 後に強大となり、 現代の学者の中にはこれらだけを指して 四大国と呼ぶ人もいます。
2020年09月29日
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インド・アーリア人を中心とした 諸部族の間で勃発した統一王朝前の時代の戦争です。 この戦争は、インド・アーリア人の内部抗争ですが、 ここに関係のない非アーリア人の諸部族も巻き込んだものです。 優秀な司祭長ヴィシュヴァーミトラを軍師としたプール族は、 パンジャーブの諸部族と連合し、 勢力を伸ばし始めていたトリツ族・バラタ族に対し、 戦いを挑みました。 しかし、ヴァシシュタを司祭長とする スダース王に率いられたバラタ族・トリツ族は、 逆にプール族を中心とした十王の軍に勝利し、 インド・アーリア人の諸部族の中での 覇権を確立してしまいました。 バラタ族の社会は、 いくつかの部族集団によって構成されており、 部族を率いたものを「ラージャン」と称し、 ラージャンの統制下で戦争などが遂行されました。 ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、 部族の構成員からの支持を前提としており、 その権力は専制的なものではありません。 この戦争の後の原始仏教の時代に、 周辺の強国を数えてリストにする作業が行われ、 16国を大国として並べる定型化が生じたのです。
2020年09月28日
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ヴェーダ期(紀元前1700年-紀元前1100年)になると、 以前はハラッパー文化だった都市が H墓地文化となった事を示す墓地が発見されました。 インダス文明の遺跡では、 墓地が居住域から分離されるかたちで 築かれるのが一般的です。 文明期になって都市的密集型居住様式が一般化し、 集落内部の居住人口が増大した結果、 墓地を集落から分離する必要が生じたと考えられます。 また居住域と墓地分離は 単に有効な空間利用にとどまらず、 生と死にまつわる社会的観念が それまでと大きく変化した可能性を示唆しています。 この墓地からは火葬の跡も発見されていることから、 この文化からヴェーダの宗教 (紀元前1000年-紀元前500年)が形成された と考えられています。 ヴェーダの宗教は、 後のバラモン教やヒンドゥー教の原型です。 この文化と同時期に栄えた赭色土器文化は、 ラージャスターンからヒンドスタン平野へ 進出しています。
2020年09月25日
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インダス川には多くの支流があり、 インダス川がしめている流域は かなりひろいものです。 そのためか、 今日までにインダス川流域から 多数の古代都市の遺跡が発掘されており、 さらにインダス川からすこしはなれたところにも、 似かよった都市が発見されています。 インダス文明は、 じつに東西約一〇〇〇キロメートル、 南北約一〇〇〇キロメートルの 広大な地域におよんでいるのです。 前1800年頃からインダスの都市文明は 衰退期に入ったと考えられており、 衰退の原因については、まだ定説はありませんが、 気候の乾燥化、河川の氾濫、 焼煉瓦製造の燃料として森林を伐採したため、 などが考えられています。 夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、 インダス川流域に位置する モヘンジョ・ダロなどの大都市から 周辺への移住が起き消滅したとかんがえられています。
2020年09月24日
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インダスの埋葬は、 地面に穴を掘って遺体を埋葬する 土坑墓を用いました。 長方形の土坑が多かったが、 楕円形のものも造られました。 遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、 いわゆる仰臥伸展葬が主体です。 足を曲げた形で遺体が葬られているものも 頭は北に置かれました。 ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通ですが、 例外もあります。 副葬品は土器が一般的で、 頭の上、 すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置きますが、 まれに足元、つまり南側に副葬した例もあります。 腕輪、足輪、首飾りなどの 装身具をつけたまま埋葬された例もあり、 その場合は銅製の柄鏡も出土しています。 重要な点として、 被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、 インダス文明の合理的・民主的性格を示していると思われます。
2020年09月23日
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パラッパは城塞や 市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる 大通りにみられる計画性、 文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、 煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や 土器の形や文様などから 支配者・管理者・運営者が居たのではなかろうか と思われます。 都市は、信仰・宗教世界の運営・統括する人たちの 宗教的・政治的中枢で 排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、 ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた 清潔な都市でした。 計画性は、主だった出土品の均質性にも現れています。 宗教では、印章などに表現される 「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神 または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも 計画性は現れています。
2020年09月16日
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モヘンジョ・ダロと並び称される標式遺跡 (時期区分名命名の契機を与えた遺跡)として知られ、 集落は遺跡の北側の下層から発見されました。 手づくりの多彩文土器を伴うのが特徴です。 すでに紅玉髄や凍石製ビーズの生産を行っており、 後のインダス文字の起源と考えられる文字が 土器の表面に線刻されています。 「城塞」と城門によって隔てられた 二つの「市街地」の区分けが明確になり、 「城塞」は、南北約400m、東西約200の 南北方向に長い平行四辺形で、 「城壁」は、焼成煉瓦で被われた日干し煉瓦で築かれ、 その基部の厚さは12m、 北西と南東の隅に「見張り台」を置き、 北側と西側に「城門」を設けています。 「城塞」の南側150~200mの地点には、 土坑墓からなるR37墓地が営まれた。 焼成煉瓦を多用し、インダス式土器一式のほか印章や、 紅玉髄を始めとする各種貴石製ビーズ類が出土しています。
2020年09月15日
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インドの西、今日のパキスタン領に、 有名なインダス川があります。 この地域へ都市文明がつたわった(都市ができた)のは いつごろか、まだだれも正確には知りません。 ただ前二三世紀にはすでに すばらしい都市がさかえていたことが、 発掘・調査から知られています。 インダス川の下流流域にある モヘンジョ・ダロの遺跡がそのひとつです。 モヘンジョ・ダロは現地の言葉で「死の丘」を意味し 非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、 地元民は恐れて近よらない禁忌の領域でした。 メソポタミアの都市は神殿だけがすばらしく、 民家はそまつでしたが、 おどろくことにモヘンジョ・ダロの都市は 街路が整然とならんでおり、 都市計画にしたがって建設されたことをしめしています。 また、個々の人の住宅も立派で、 二階だての家(古代としてはすばらしい)が、 ずらりとたちならんでいます。 そしてこれらの家の中には、 浴室もあり、台所もあり、 多くの部屋にわかれているのです。 この都市には水道や排水設備もととのっているのです。 そのうえ、都市の中には市場もあり、 公衆浴場も発見されています。 ここでは、 国王と少数の貴族だけがいばっていたのではなく、 多数の市民がゆたかな生活をたのしんでいたらしく、 合理的・民主的な高度の文明が さかえていたことをしめしています。
2020年09月14日
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紀元前2500年頃から1500年頃まで、 インド西北(現在はその大部分はパキスタンに属する)の インダス川流域に成立した、都市文明です。 代表的な遺跡が、 下流域(シンド地方)のモヘンジョ=ダロ、 上流域(パンジャーブ地方)のハラッパーなどで、 彩文土器、金属器、印章などを伴う 高度な都市文明が生まれました。 インダス文明は世界最古の三大文明中, 先行するメソポタミア,エジプト両文明を はるかにしのぐ規模でした。 その都市文明の特徴は、 ①街路が整然と東西南北に並ぶ都市計画。 ②家屋は焼煉瓦造りで、 下水・井戸・浴場などの衛生施設を持つ。 ③公共的な建造物と思われる 沐浴場(宗教的施設)、学校、公会堂、倉庫などを持つ。 ④インダス川を利用した潅漑農業と、 水牛、羊、象などの家畜の使用。 ⑤彩文土器を使用する。 ⑥青銅器を使用する(鉄器は知られていない)。 ⑦印章の出土(印章には象形文字が描かれている)。 ⑧シュメール人のメソポタミア文明との共通性がみられる、 などです。
2020年09月11日
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ヘブライ人を率いて 「出エジプト」の途上にあったモーセが、 シナイ半島のシナイ山で、 ヤハウェ神から授けられた戒律です。 旧約聖書の『出エジプト記』第20章にあります。 「十戒」(Ten Commandments)は 以下の10ヶ条からなります。 1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。 2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。 3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。 4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。…… 5.汝の父母を敬え。 6.汝殺すなかれ。 7.姦淫をしてはならない。 8.汝盗むなかれ。 9.隣人について偽証してはならない。 10.汝の隣人の家財をむさぼってはならない。 この第1条に一神教の原理、 第2条に偶像崇拝の禁止、 というユダヤ教の特徴が現れています。
2020年09月10日
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旧約聖書に物語られている、 ヘブライ人(イスラエル人)がモーセに率いられて、 エジプト新王国の支配から逃れて パレスチナに脱出したこと。 旧約聖書によれば、 パレスチナで牧畜に従事していたユダヤ人 (これは後の名称。自らはイスラエル人と称し、 エジプトではヘブライ人と言われた)が、 飢饉に遭遇し、豊かなエジプトに移動して、 農耕生活を営みました。 しかし新たなエジプトの王(ファラオ)が イスラエル人の豊かな生活をねたみ、 奴隷として都の造営などに使役することにしました。 ファラオはイスラエル人の反発を恐れ、 男の子を皆殺しにすることを命じましたが、 一人の男の子だけは葦船に乗せられて助けられました。 その子が成長してモーセとなったのです。 モーセに率いられたイスラエル人は エジプトから脱出しましたが 紅海を前に追いつめられました。 モーセがヤハウェ神に祈ると、 紅海がまっぷたつに割れて道が出来、 イスラエル人は逃れることができ、 エジプト兵があとを追ってその道に踏み込むと、 海はもとどおりになって溺れ死んでしまいました。 エジプトから逃れたイスラエル人は、 シナイ半島のシナイ山で 神からモーセに十戒が授けられました。
2020年09月09日
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アメンホテプ4世 (英: Amenhotep IV、紀元前1362年? - 紀元前1333年?)は、 古代エジプト第18王朝の王(ファラオ) (在位:紀元前1353年? - 紀元前1336年頃?)です。 彼の行った改革は、アマルナ改革として有名です。 アテン神を崇拝し、 治世5年目(前1367年ごろ)に アテン信仰の導入を始めましたが、 伝統的な神々への崇拝を禁止しませんでした。 この頃、アテンへ捧げる神殿の他に、 従来の神々へ捧げる神殿も建築しています。 しかし即位5年目に名前を 「アテンに仕える者」を意味するアクエンアテンに改名し、 即位7年目にアテン神へ捧げる 首都アケトアテン(現アマルナ)を建設し 王朝発祥の地テーベを放棄し、 首都を遷都し即位9年目に入ると、 アメンホテプⅣ世は旧来のエジプトの神々を排斥し、 アテンが唯一の神であると宗教改革を推し進めました。 この改革に関しては、 アメン・ラーの力に対抗する 王の試みのひとつであったと考えられます。 アメン(アモン、テーベの町の守護神)を祭る神官勢力が 王を抑えるほどの強い勢力になったことを アメンホテプ4世が嫌い、 宗教的権力を王権と一本化することを狙ったのです。 彼らの宗教ではアテンのみならず、 伝統的なエジプト宗教と同じく 王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされたから 実際には二神教でした
2020年09月08日
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紀元前13世紀末から紀元前12世紀初頭に掛けて、 東地中海で活動した民族ですが、 その系統や実体は不明で、 さまざまな名称をもつ民族からなる集団であったようです。 原住地は小アジア西海岸とエーゲ海諸島という説が強く、 彼らが移動を開始した理由は不明ですが、 「海の民」は単一の民族ではなく、 複数の異民族によって構成された混成集団で 飢饉が原因で豊かな土地をめざして移住を企てたのです。 その結果ヒッタイト、ミケーネ文明を衰退に追いこみ、 エジプト新王国にも侵入するなど、 西アジアに大きな変動をもたらしました。 東地中海沿岸地域に侵攻し、 破壊・略奪を行ったとされる「海の民」は、 侵入地に定着し、そこで新しい天地を切り拓いていく という生き方を選ばず、彗星のごとくあらわれて、 去っていく――のこるは破壊の跡だけでした。 バルカン半島からエーゲ海を経由して、アナトリア、 そして最終的には、北アフリカに位置する エジプトのナイルデルタ地域にまで到達した。 ヒッタイトやギリシャのエーゲ諸王国を滅ぼすなど 強い力を保持していましたが、エジプトでは敗北しました。 「海の民」は、 実態の把握ができない集団ではありましたが、 歴史上、確かに存在したのです。
2020年09月07日
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カデシュの戦いは、前1286年頃、 シリア・パレスチナの領有権をめぐり、 エジプト黒人王国のラメセス2世と、 アジアのヒッタイト王ムワタリと の間で戦われた戦争です。 カデシュは現在のシリア西部の地名で オロンテス川近くにある交易の要衝でした。 エジプト黒人王国は 早くからシリアに進出していましたが、 小アジア(アナトリア)を本拠とした ヒッタイト王国が急速に勢力を伸ばしてきたことによって、 両国はシリア・パレスチナの勢力圏をめぐって 争うこととなりました。 一時はヒッタイト軍が優勢でしたが、 ラメセス2世の勇戦によってエジプト軍が態勢を立て直し、 決定的な勝敗は決せず終にわりました。 戦いは、引き分けに終わったのです。 その後、前1269年頃には、 エジプトとヒッタイト両国の間で、 平和同盟条約が締結されました。 この条約は現在知られている 世界で最古の国際条約といわれています。
2020年09月04日
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王の勢力が大きくなるにしたがって、 ピラミッドも大きくなり、 前二七世紀にもっとも大きな三つのピラミッド (クフ、カフラー、メンカウラー)が建造されました。 なかでももっとも大きなクフ王のピラミッドは、 高さが一四六メートルあり、 平均二トン半の石材を二三〇万個つかっている と見積られています。 大ピラミッドをつくるのに 一〇万人の労働者が農閑期の三カ月を 二〇年間はたらきました。 その労働者の三分の一が石材をきったり運搬したりし、 もう三分の一は、直接建築にたずさわりました。 そしてのこりの三分の一は 食事の準備や休けい所づくりの雑務をしました。 これだけの人数で 雑務をしなければならないのですから、 いかに多くの人手かがわかるでしょう。
2020年09月03日
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なぜエジプトではやくから統一国家が完成され、 またその王権が壮大なピラミッドを建造するほどに 強大になったのでしょうか? それには二つの要因がみられます。 第一に、エジプトでは、 ただ一本のナイル川の両岸で、 幅二〇キロメートルていどの細長い地域にしか、 みどりの地帯がなかったのです。 ナイル川には、 たえず船舶が上下して荷物をはこび、 すべての人が ナイル川にたよって生活していたので、 利害関係からみても、 一つにまとまるほうが便利だったのです。 第二の要因は、 エジプトが「神王国家」だったということです。 エジプトでは国王が神そのものとされていました。 国王の権威は いろいろな神の化身として強化されました。 第一に守護神であるタカの化身とされ、 第二に愛の女神ハトホルの化身とされました。 このように、 エジプトの国王は多数の人民を支配し、 また神として尊敬されたので、 多数の人民を動員して、 大ピラミッドを建造することができたのです。 大ピラミッドが建設されたのは、 前二七世紀であり、 一つのピラミッドをつくるのに、 一〇万の人間が動員されています。 ただし、はたらいたのは一年のうち、 収穫からつぎの種まきまでの 農耕をやすんでいる三か月だけです。
2020年09月02日
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神官の書記生たちは、 数学は計算や測量調査をするために、 天文学は暦の作成や占星術的な予言をするために、 神学は病気を治し悪霊を退散させるために というふうに、これらの学問を かれらの義務課程中で発展させて記録したようです。 かれらは、 化学技術や冶金術や染色法などの知識については、 めったに記録していません。 こういう知識は別な伝統、 すなわち経験を口伝えしていた 職人の伝統に属していたからです。 当時、 聖職者の伝統と手工業者の伝統とのあいだには 溝があったのです。 紀元前1100年ころのエジプトの一文書には、 「どんな重労働もしないようにくれぐれも心がけ、 評判の高い長官になってほしい。 書記生になれば、なんの手仕事もしないですむし、 命令もだせる。 わたしは、かまど口のところで ワニのような指をして仕事をしている 鋳物師を知っているが、 その男はウジ虫よりも、 もっと鼻もちならない臭いがした。 わたしは、いままでに 役所の委員を命ぜられた鍛冶屋も知らないし、 使節に任命された鋳物師に会ったことはないのだ」 と父が息子に忠告しています。
2020年09月01日
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