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本著が目指すのは、英語で仕事ができる人。 たとえ文法が完璧でも、発音がひどければビジネスパーソンとして信頼されない。 アルファベットと1から10までの数字の発音から始め、 優れた発音教材を使って、ネイティブに近い発音を頭と体に叩き込む。 その上で、超重要83単語(p.133)を深く理解し、 さらにインターネット上の辞書を活用して、発音や慣用句まで一度に学ぶ。 勉強は毎日1時間より、週に2~3回、3~4時間まとめて行うほうがよい。 スピーキングとライティングは、英会話学校の活用がお勧め。本著から分かったのは、手間暇かけ、集中して勉強しないと、英語力は向上しないということ。初級レベルでも、高校3年生までの英語を再度やり直すことが要求される。しかも、カタカナ英語じゃ役に立たないので、正しい発音を身につけないとダメ。予想以上に、そこに示された道筋は、なかなかに険しいものであった。
2011.02.27
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タイトルを見て、英語の早期教育や社内英語公用語化に対する 批判的視点からの著作かと思い購入したが、全く逆の内容であった。 要は、英語だけ出来てもダメ、それ以上に必要なものは何かを論じた一冊。 英語はできなきゃ始まらない、というところからスタートしている。 そして、著者は「二級市民で終わっていいのか?」と問いかける。 二級市民とは、使われるばかりのヒラ社員のことだそうだ。 著者が論じたいのは、上に上がりたい、部下を持ちたいと思いながら、 ヒラ社員のまま処遇され、使い減らされる人についてだという。そして、現在の学校教育では、社内の一級社員を養成するには不十分だという。それを補うキーワードは、情操教育と体育、異文化理解、ロジック(論理力)の4つ。その上で、著者は子供を若いころ(できれば十代)に海外留学させることを薦めている。論理力・説明力が強まり、情操教育が進み、将来が今までとは違った視点でひらけるから。実際、英会話教室に通っても、なかなか英語が上達しない。それは、学ぶ側に真の向学心が欠如しており、辛抱がなく、効率も悪いため。また、国内のインターナショナル入学は、子供のアイデンティティに歪みが出る恐れもある。最も効果的なのは、十代での海外留学だという。留学の最大のメリットは、異文化を直接体験できること。また、外国人の発想と行動様式を受け入れ、理解できるようにもなる。ただ、アイデンティティの喪失にも繋がる「かぶれ」には、注意を要する。さらに、優越感に浸ったり、外国語に頼りすぎるようにならないように。また、著者はグローバル人材として目指すべき語学習得レベルを第一外国語は仕事でほぼ不自由を感じないレベル、第二外国語は日常会話程度としている。そして、子供を一級市民にするためには、理系科目をしっかり勉強させて論理性を養い、海外留学をさせることとする。留学が、その人の人間形成に、とてつもなく大きな影響を与えるということが、著者自身の記述から、本当に強く伝わってくる一冊だった。
2011.02.27
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ポンペウスと同様、 いや、それ以上にカエサルの死は、あまりに唐突であっけなかった。 マルクス・ブルータスや、真の首謀者カシウスらによって、 元老院会議が始まる直前、ポンペイウス回廊で暗殺されてしまったのである。 それは、カエサルをこのままパルティア遠征に出発させた場合、 彼がそれに成功してくるのは間違いなく、 もし、凱旋後にカエサルが王位を希望した場合、 誰もそれを阻止することはできないと考えたから。暗殺は成功した。しかし、それによって引き起こされた変化は、暗殺者の期待したものとは随分違っていた。キケロらを除けば、誰も暗殺者たちを拍手喝采でたたえることはなかった。カエサルの遺言状に従い、ローマの政治は継続されたのである。その遺言状で、カエサルが後を託したのが、オクタヴィアヌスである。カエサルの妹の孫に当たるオクタヴィアヌスは、当時まだ18歳だった。暗殺者たちとは別に、この遺言状に失望したのがアントニウスである。カエサルの右腕として活躍し続けた自分こそが、後継者に相応しいと信じていたから。その後、アントニウス、オクタヴィアヌス、レピドゥスによる第二次三頭政治が始まるが、カエサルの後継者争いは、実質アントニウス対オクタヴィアヌスの様相を帯びていく。ところが、アントニウスはクレオパトラの虜になってしまう。一時的にはクレオパトラを忘れようと努めていたが、結局結婚に至る。西方でのオクタヴィアヌス勢力拡大を受け、パルティア遠征に出発したアントニウスであったが、エジプトとの関わりを強めたため、味方となるべきはずの中東連合を敵に回すことになった。そのため、アントニウスは遠征に失敗し落胆、自信を失ってしまった。その後のアルメニア遠征には何とか成功した。しかし、それを受けての凱旋式に臨んだアントニウスの発言は、ローマの人々にとっては、全く信じられない内容であった。それは、地中海世界の東半分をクレオパトラに贈与してしまうものだったからである。そして、アントニウスと、30歳に達していたオクタヴィアヌスとの直接対決が始まった。このアクティウムの海戦にも敗れ、ローマ世界の東半分を失ったアントニウスは、「クレオパトラ死す」の虚偽の報を受け、短剣で自らの胸を刺す。虚偽の報を伝達させた張本人・クレオパトラは、それを後悔し訂正しようとするが、既に時遅く、駆けつけた彼女の胸の中でアントニウスは死んでしまう。カエサルとの間に誕生した息子の命を奪われ、その他の子どもたちにも、エジプト王を継承させることが出来なくなったクレオパトラは、毒蛇によって自らの命を絶ったのであった。そして、オクタヴィアヌスは私有地としてエジプト王国を領有することになった。
2011.02.27
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ポンペイウスに勝利し、エジプトの内乱を終結させた後も、 まだまだ、あちこちで闘い続けねばならなかったカエサル。 「来た、見た、勝った」で有名なカッパドキアでの勝利、 北アフリカやスペインでの、ポンペイウス派の一掃がそれである。 そして、それらを華々しい勝利で飾りった後に、 国家ローマの内なる乱れの元凶を取り除くべく、国家改造に着手。 それは、ローマが採用してきた独自の共和制そのものが機能しなくなり、 もはや個別の政策では解決できない深刻な問題への対処であった。 人間にとっては、ゼロから起ちあがる場合よりも、 それまでは見事に機能していたシステムを変える必要に迫られた場合のほうが、 よほどの難事業になる。 後者の場合は、何よりもまず自己改革を迫られるからである。 自己改革ほど、とくに自らの能力に自信を持つのに慣れてきた人々の自己改革ほど、 むずかしいことはない。 だが、これを怠ると、新時代に適応した新しいシステムの樹立は不可能になる。 グラッグス兄弟以降のローマのエリートたちの苦悩は、まさにこの点より発していた。(p.109)現代にも通じる、とても奥の深い記述である。ここまで『ローマ人の物語』を読み進めてきた者にとっては、どんなビジネス書の文章よりも、スッと胸の内に染み込んでくることだろう。それが故、企業のトップやビジネスマンの推薦図書に、いつも本著の名前が挙がるのだ。カエサルが着手したのは、暦の改定、通貨改革、市民権問題や、元老院、市民集会、護民官、終身独裁官などに関する政治改革、金融改革、行政改革、「解放奴隷」登用、属州統治、司法改革、福祉政策に組合対策、治安対策、交通渋滞対策、清掃問題、贅沢禁止法といった社会改革、首都再開発、その他公共事業等々、実に様々で多数の事柄についてである。 それにしても、教師と医師は、人間社会での彼らの職業の重要さを 歴史上はじめて公式に認めた人として、カエサルには感謝してしかるべきかと思う。 教師と医師へのローマ市民権授与は、まもなくイタリア全土に広まり、 その後もローマ人の移り住んだ植民都市や軍団基地にまで波及し、 果てはローマ帝国の全域に及ぶようになるのだから。(p.191)そして紀元前44年、カエサルはパルティア遠征を公式に発表する。9年前の、ガリア戦役でクラッススがカッレで喫した完敗を、そのまま放置しておくわけにはいかなかったからだ。しかし、カエサルがパルティアに向け出発する日は、訪れなかったのである。
2011.02.27
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『ユリウス・カエサル ルビコン以後』の始まり。 このシリーズも、文庫版では上・中・下の三冊でワンセット。 「賽は投げられた」の一声で、自軍と共にルビコン川を越えたカエサル。 これにより、ポンペイウスとの一大決戦の幕が切っておろされた。 ところが、カエサルの電撃作戦を知ったポンペイウスたちは、ローマを脱出。 カエサルは、ルビコン越えから二ヶ月、一兵も失わずイタリア半島を手中にした。 しかし、それはかつて海賊一掃作戦を成功させたポンペイウスが、 地中海沿岸都市のクリエンテスを総動員しての決戦を選択したからだった。スペイン全土を制し、マルセーユも陥落させ、執政官となったカエサルは、遂にギリシア西岸に上陸、ドゥラキウムでポンペイウス軍と対峙する。ところが、この三ヶ月に及ぶ包囲攻防作戦でカエサル軍は敗北、南へ敗走。しかし、次のファルサスの会戦では圧勝し、今度はポンペイウスが逃げる番に。海上を逃げるポンペイウスを、カエサルは陸路づたいに追う。その途上、ポンペイウス側についていた諸国から、次々に使節の訪問を受けることに。それに対し、カエサルは非難もせず罰も与えず、それらからの間接税を半額に減らした。これにより、東地中海諸国はポンペイウスの地盤から、一斉にカエサル派に鞍替えしたのである。決戦に敗れ、行く先々のオリエント諸国で門前払いをくらいながら逃げ続けるポンペイウス。小アジアにもシリアにも行き先の亡くなった彼は、エジプトへと向かう。しかし、客として歓迎すると答えたエジプトも、実際にとった行動は違ったのである。アレクサンドリアに入港する直前、あまりにあっけなくポンペイウスは殺されてしまう。 この相互扶助関係は、親から子に受け継がれていくものと、ローマ人は思って疑わなかった。 だが、このローマ独特の人間関係をローマ人以外の人でも尊重するとしたら、 それは、尊重したほうが利益になると思った場合なのである。 敗れるのに慣れていず、しかも行く先々で扉を閉められ意気消沈していたポンペイウスは、 この人間性の現実を直視する力を失っていた。 いや、挫折というものを知らないで生きてこられた彼には、 もともとからしてなかったのかもしれない。 カエサルならば、「苦境は友を敵に変える」と書くぐらいだからわかっていたのだが。(p.263)カエサルにポンペイウスの生首と指輪を届けたエジプト。そこでは、共同統治者の姉と弟が対立し、追放された姉・クレオパトラが兵を集め、王位奪回を計画中という内戦状態にあった。カエサルはアレクサンドリアに上陸すると、姉と弟の和解と共同統治の再開を裁定する。ところが、これに納得できない弟王はカエサルに兵を向け、アレクサンドリア戦役が始まる。これに勝利したカエサルは、二ヶ月間休暇を取り、ナイル周遊をクレオパトラと共に楽しんだのだった。 ***読み進めるにつれ、なぜ塩野さんが、カエサルという人物に対し、これほどまでに特別な感情を示すのかが、次第に分かってきた。それは、やはり彼が歴史上稀にみる軍人であり、政治家だからであろう。その最大の特徴は、徹底した「寛容」の姿勢を貫いたことである。 ただし、カエサルという男は、他者を憎悪するという感情を拒否した人間だった。 憎悪とは、対等か、でなければ上位にある者に対していだく感情であるからだ。 他者に対しての絶対の優位を自負していたカエサルが、 憎悪という、劣等感の感情を拒否したのも当然だった。(p.190) 同国人同士が闘う内戦では、勝ちさえすればよいというものではない。 勝ちさえすればよし、となれば、スッラになる。 カエサルは、スッラのやり方を踏襲することを嫌った。 ただ単に嫌っただけでなく、有益でないと確信していた。(p.253)
2011.02.27
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まさに同じ時代を生きてきた人の半生記。 同じような価値観の中で、同じようなものを見聞きして育ち、 そして、同じような現在に直面している。 そのことを最も強く感じた一冊。 もちろん、一つ一つの状況は、香山さんと私では相当に違う。 私の父は産婦人科医ではなかったし、ジャイアンツには全く好感が持てない。 また、単身で東京学芸大附属に行くほどの学力はもちろん、発想すらなかった。 さらに、東大受験や一浪後の東京医科大学入学、精神科就職とも無縁である。私は香山さんのように「誰・彼に勝ったところで、そこに何の価値があるのだろう」と言えるほど、自分と他人とを比較せずに済ませてしまうことは、未だに出来ないでいる。また、「一番になりたくないという気持ちがすごく強い」なんていう言葉を聞くと、それは、一番になってる人だけが言える台詞じゃないのかと思ってしまう。それでも、学校におけるポジションや受験の失敗、その他諸々のことや、本著における彼女の言葉には、色んな所で親近感を感じてしまった。それは、やはり同じ時代を生き、同じように年齢を重ね、同じような立場・状況で家族や世間と繋がっているからだろう 受験に失敗して診察に来る子が悩みを抱えてしまうのは、 親や学校などの過剰な期待がある場合に多いですね。 「自分が本当にそこに行きたかった」というより、 「あなたならできる」と期待されて失敗してしまった場合です。(p.52)香山さんには子どもがいない。その分、冷静に受験における親子関係を見つめている。というか、精神科医師として積み重ねた経験からの客観的知見であり、真実である。ただ、親としては、なかなか客観的になりきれない。そこが辛いところ。もし、香山さんに子どもがいたら、どういう風に述べたのだろうか。 大きな夢のために、つまんない(=パンのために働く)ことを手放したとき、 自分の毎日の生活さえマネージメントできていないことに気づく。 すると、それだけでものすごく自信喪失してしまって、 大きな夢どころじゃなくなったりもするんです。 そういう意味では、実は「生活のために働いている」というのは、ものすごく大事なことだし、 そのことを「くだらない」とか「つまらない」って 自己卑下する必要はまったくないのではないでしょうか。(p.68)これも、バブル経済と自分探しのブームが去った現在、不況下における厳しい現実であり、真実である。そして、今後のキャリア教育をいかに進めていくのか、その鍵がこの言葉の中に確実にある。この辺の考え方は、内田先生と通じるところがあると感じた。 親のほうも、親子の構造を変えたくないんだと思うんですね。 自分たちは母、父で、子どもたちはずっと子ども。 それが逆転して、子ども世代が一家の主となり、 親は隠居してその世話を受ける老人となるという構造に逆転することがイヤなんだと。 なぜそうなるかというと、核家族だからなんですよね 代々三世代同居だった家の場合は、それらの逆転の流れを自然に受け入れてきたはず。 (p.153)それにしても、香山さん同様、いつまでも親離れができず、そしてさらには、子離れの方も全く出来ていない自分。これからどうしていけば良いんだろう……。本当に色んな意味で考えさせられることが多かった一冊である。
2011.02.20
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自分自身はかなりの家電好きだと思っていたが、 その業界のことを、本当の意味で知らなかったことに気付かせてくれた一冊。 本著を読めば、家電業界の変遷がとてもよく分かる。 ヤマダ電機を通して、それについて知ることが出来るのが本著の大きなメリット。 昭和30年代からの家電ブーム、それと共に始まった流通機構の系列化。 先陣を切る松下、それを追う三洋、早川(シャープ)、八欧(ゼネラル)、 そして、重電三社(日立、東芝、三菱)の巻き返しによるシェア争いの激化。 一方、メーカーの押し込みと乱売合戦で、系列販売会社や代理店は経営難に。松下幸之助は、地域販売制度と事業部直販制の導入、月賦販売制度の改革を実行すると、オークラ会で家電6社(日立、東芝、三菱、三洋、早川、松下)に、生産の自主調整を訴える。これによって、乱売合戦に終止符が打たれ、束の間の均衡が訪れる。しかし、ダイエーが家電製品の安売りを始めると、家電メーカー、特に松下との対立が鮮明に。一方、専売店である系列店に対して、混売店は大型店舗化していき、家電量販店へと発展。1972年には、全国の家電量販店79社が集まり、日本電気専門大型店協会(NEBA)を設立。NEBAの有力会員同士では、福岡(ベスト)、中国(デオデオ)、大阪(上新)、名古屋(エイデン)、東北(デンコードー)、北海道(そうご)のように、地域ごとに勢力均衡が保たれていた。これらNEBA会員企業は、メーカーとの良好な関係を望んだため、メーカー、地域家電販売店、家電量販店の三者間に、牧歌的時代が訪れる。ところが、北関東では群馬・前橋の山田昇と栃木・宇都宮の小島勝平との激戦が始まった。そこに茨城・水戸の加藤修一(カトーデンキ、現ケーズデンキ)も参戦して、上州戦争が勃発。この上州戦争には、既存の大手家電量販店も参戦し、その一つであるダイイチ(現デオデオ)に倒産寸前にまで追い込まれたヤマダだったが、徹底した激安価格でそれを退ける。その後、上州戦争に勝利したコジマとヤマダは、全国的に多店舗展開を開始。すると、NEBA家電量販店は、次々に倒産・転廃業、吸収合併へと追い込まれていった。そして、これらの地方都市の郊外に出店する「ロードサイド型」だけでなく、ターミナル駅傍に店舗を構える「レールサイド型」カメラ系量販店(ヨドバシ、ビック)も急成長。こうして家電市場は、その構造を複雑に、大きく変えていったのだった。そして、その中で常に騒動の中心にいるのがヤマダ電機である。 ***1997年10月、ヤマダは上州戦争の報復戦として、デオデオの本拠地・広島に都市型実験店をオープンする。さらに2002年11月には、「宣戦布告」と明言した上で、2号店までオープンする。ところが、ヤマダの安売りは、デオデオを倒すことができなかった。 それに対して、ヤマダ電機では自前のサービス部門をもたないため、 デオデオと同じような即日対応はできない。 しかも連絡を受けて消費者の自宅へ修理に出向くのは、 ヤマダの社員ではなく修理業務を委託した業者である。(P.96)これについては、家電量販店について言うと、何もヤマダだけに限ったことではない。しかし、それらの量販店のサービスや対応と比べても、首を捻る機会が多いと私も思う。 ヤマダ電機の人材育成の遅れは、ビジネス誌『日経ビジネス』編集部が行った 「2007年版アフターサービス満足度ランキング」(2007年6月11日号)にも、 数字となって表れている。 「家電量販店」部門で、ヤマダ電機は18社中18位、つまり最下位なのである。 満足度指数はわずか17ポイントで、トップのマツヤデンキの64.9ポイントの約4分の1。 その理由を『日経ビジネス』はこう記載していた。 《特に「問い合わせの対応」では満足度がわずか2.9。 「電話に出ない」「店員が少ない」「長く待たされる」など、 現場の人員不足による不満が多い》(p.144)私の住む地域の店舗では、「店員が少ない」と感じるのは平日の夜くらいで、逆に土日の昼間などは、来客よりも店員の数の方が多いほどだ。しかもヤマダの店員は、1度目を付けると執拗にその客を追いかけ回し、ジロジロと監視するかのように覗き込んでくるので、ゆっくりと商品を見ることが出来ない。 ***2006年3月、ヤマダは大阪に都市型大型店LABI1なんばをオープンする。2007年7月にはLABI1池袋を、2010年4月にはラビ新宿東口館オープンする。ところが、ヤマダは地域一番店にはなれないでいる。ビックやヨドバシの牙城を、切り崩すことが出来ないのである。 郊外店には郊外店固有の「売る」ノウハウがあり、 都市型店には都市型店なりの「売る」ノウハウがある。 それを無視したら、どういう結果が待っているか - そのことを池袋と新宿で ビックカメラとヨドバシカメラを圧倒できなかった現実が教えている。(p.214)消費者の購買意欲を刺激しない、空疎な空間が広がっている。家電以外の部門に関しては、その傾向がより顕著である。それは、ラビだけでなくテックでも同様である。それ故、店舗改装が頻繁に行われているが、一向に充実空間は創造されない。 つまりヤマダ電機もダイエーや西友の二の舞になる恐れがあるというのだ。 今のヤマダ電機に必要なのは「専門性」と「ローコスト経営」の徹底化である。 ローコストに大きな効果が期待できるのは、仕入れ値の割引と、 経費でもっと大きな比重を占める人件費の削減である。(p.218)この「ローコスト経営」こそ、ヤマダがここまで急成長してきた最大の要因である。しかしそれが、これまでに様々な問題を引きおこしてきたのも事実である。 法令違反を犯すまで歪んだヘルパー問題も、 ヤマダ電機の売上高による仕入れ価格の差別化の要求も、 つまるところ、ヤマダの成長戦略の産物なのである。 しかもそれらは、社会の至るところで歪みだしている。(p.153)年商3兆円、市場シェア30%という大構想。それは、成長し続けるしか生き残る道がないヤマダ電機の宿命なのか。そして、その命運を握るとも言われる中国進出は、果たして成功するのか。さらに、FC事業の今後の展開についても、目が離せない。
2011.02.20
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ここまで「ローマ人の物語」を読み進めてきたが、 一冊一冊は、それほどのボリュームではないのにもかかわらず、 読み終えるためには、随分と時間がかかってしまっていた。 それは、一気に読み終えられず、途中で休み休みの読書になっていたから。 なぜなら、もともとカタカナが苦手な私は、 人名・地名ともにカタカナの連発になると、それだけでもスピードが落ちるのに、 世界史や世界地理には本当に疎いため、いちいちその話の流れを理解しつつ、 場所の確認まで、地図で新たにし直さなければならなかったからである。ところが、本巻は遂に一気に読み終えてしまった。それ位、本巻は面白い。その立役者の一人が、カエサルのライバルとして立ちはだかったヴェルチンジェトリックス。分離しがちなガリア人を見事統合し、反ローマ体制を築き上げた男。そして、もう一人は言わずと知れたカエサル。難局を持ち前の軍事的手腕と胆力、判断力、カリスマ性によって切り抜ける姿は、まさに英雄。勝利目前のヴェルチンジェトリックスが、アレシア攻防戦で策を誤ったにしても、あの状況から、勝利を手中に収めてしまうのは、やはり「持ってる」としか言いようがない。 私には、戦闘も、オーケストラの演奏会と同じではないかと思える。 舞台に上がる前に七割がたはすでに決まっており、 残りの三割は、舞台に上がって後の出来具合で定まる点において。 舞台に上がる前に十割決まっていないと安心できないのは、 並みの指揮者でしかないと思う。 戦闘も戦争に似て、長い準備の後の数時間で決まる。 三十日余りもの準備期間をもったアレシア攻防戦も、実質三日の闘いで決まった。(p.131)五万にも足らない戦力で、内側八万、外側二十六万もの、前と後の二方からの敵を撃破。ヴェルチンジェトリックスは、自ら進んで捕らわれの身となる。そして、ガリア戦役の8年目は、もっぱら戦後処理に費やされることになった。この年について、カエサル自身が『ガリア戦記』を記すことはなかった。ところが、ガリア戦役の6年目、三頭政治の一角を担っていたスラッススが、パルティア遠征に大失敗し、没していた。カエサルがヴェルチンジェトリックスと闘っていた頃、ローマでは元老院派が、またもポンペイウスに接近、今回はその取り込みに成功していた。そして、執政官マルケルスにより、カエサル軍がローマに南下中との情報が流されると、元老院は、ポンペイウスに、国家の盾となってカエサルに向け進軍するよう要請。さらに、勢いづく反カエサル勢力は、遂に元老院最終勧告まで提出し、元老院とポンペイウスに従わないものは、国賊として裁判なしに死刑にするとした。カエサルは、このまま武装解除せず、本国と属州との境界・ルビコン川を渡ると、国賊として、ポンペイウス率いるローマ正規軍と闘うことになってしまう。カエサルは青年時代に体験した、マリウスとスッラとの対立が生み出した悲劇を思い返し、自らとるべき行動について迷いに迷ったものの、遂に意を決し兵士たちに叫んだ。 進もう、神々の待つところへ、 われわれを侮辱した敵の待つところへ、 賽は投げられた! ***さて最後に、私が本著で最も印象に残った言葉を記しておく。 カエサルも書いている。 人間は、見える危険よりも見えない危険のほうに、 より心を乱されるものである。(p.134)
2011.02.13
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ユリウス・カエサル ルビコン以前[中]に当たる本巻は、 前巻から主役となったカエサルの2冊目となるお話し。 彼は40歳になると俄然頭角を現し、小カトーやキケロ等の元老院派に対抗して、 ポンペイウス、クラッススと三頭政治を実現、それをリードする立場に。 そして、8年にも及ぶガリア戦役が始まる。 当時、地中海世界に比べ、まだまだ未開の地とされていた西ヨーロッパ世界に、 カエサルが乗り込み、その実情をローマ世界に知らしめることになる。 その大きな役割を果たしたのが、彼自身の手による『ガリア戦記』。本著も、この『ガリア戦記』基づき、お話しが進んで行く。現在のスイス、フランス(南部を除く)、ベネルクス三国、ドイツ西部にまで広がるガリア、さらにその北東部、ライン川を越えたところには、ガリアを脅かし続けているゲルマニア。それらの地での戦いは、そのいずれもが、決して楽なものではなかった。そして、カエサルは、目を国外だけでなく、国内にも向けねばならない。反カエサルの態度を露わにしている元老院派が、虎視眈々と彼の失脚を狙っているから。元老院派は、三頭政治を崩そうと、その一角であるポンペイウスに接近する。しかし、カエサルは「ルッカ会談」と呼ばれる三頭会談で、この難局を乗り切る。ガリア戦役も4年目に突入すると、いよいよドーヴァー海峡を渡り、ブリタニアへと進行。しかし、地中海しか知らないローマ人にとって、大西洋はまさに魔物が住む海であった。初回の遠征では、この大西洋の自然の脅威によって、絶体絶命の状況に追い込まれてしまう。それでも翌年、2度目の遠征では一応の戦果を得て、大陸に帰還することになった。ところがその年の冬営中に、エブロネス族の長の策謀に軍団長がまんまと引っかかり、一時に十五個大隊をも失うという、強烈な打撃を被ってしまう。が、カエサルは状況を把握するやいなや、ネルヴィ族とエブロネス族を相手に、鮮やかな戦いぶりを繰り広げ、この危機をも乗り切ったのだった。ガリア戦記5年目を終えたところでで、本巻は終了。 ***さて、本巻で私が最も心に残ったところを紹介。 敵地で戦う総司令官にとって最も直接的な課題は、 戦闘指揮とほとんど同じ比重を持つ重要さで、兵糧確保がある。 戦争は、死ぬためにやるのではなく、生きるためにやるのである。 戦争が死ぬためにやるものに変わりはじめると、 醒めた理性も居場所を失ってくるから、すべてが狂ってくる。 生きるためにやるものだと思っている間は、組織全体の健全性も維持される。 その最もはっきりした形が、 一兵卒にもわかるようにはっきりした形が、食糧の確保だった。 カエサルは、その重要性を生涯忘れていない。(p.91)分かっていながらも、それが出来ずに自滅していった例は、枚挙にいとまがない。
2011.02.13
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スタートは、船長からのメッセージを受け取った 麦わら海賊団の他の8人のクルーたちが、それぞれの場所で、 どんな奮闘振りを見せていたかを、ササッと紹介。 中でも、ゾロがミホークに頭を下げる場面は、グッと来る。 それにも増して、レイリーによるルフィーの修行は、 これまでの戦い方の発想を大転換、スゴ技習得を目指す驚愕もの。 見聞色の覇気、武装色の覇気、そして、覇王色の覇気。 いよいよルフィーも打撃だけでなく、覇気を操る超能力者に。そして2年の時を経て、シャボンディ諸島に集結する乗組員。しかし、そこには何と偽の麦わら海賊団が。そんなゴチャゴチャした状況の中で、海軍と遭遇してしまう。あのPX-5が行く手を阻もうとするが、それを一撃瞬殺するルフィー、そしてゾロ&サンジ。そんな雄姿を満足げに見送るレイリーに、ルフィーが叫ぶ。「“海賊王”に!!!おれはなるっ!!!!」目頭にうっすらと光るものをたたえながら、冥王が叫ぶ。「頂点まで行って来い!!!」全員乗組員が揃ったサウザンド・サニー号。いよいよ、魚人島に向けて出発!
2011.02.13
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433ページもあるのに、思わずイッキ読みしてしまった。 さすが重松さんだなぁと思いながら……。 本著は、ゲーム『ロストオデッセイ』のために書かれたお話。 制作総指揮は『ファイナルファンタジー』の生みの親である坂口博信さん。 さらに、キャラクターデザインは『SLAM DANK』の井上雄彦さん。 蒼々たるメンツであるが、それでも、この中で重松さんは異質である。 だが、お話しは、本当に重松節全開である。 『流星ワゴン』や『カシオペアの丘で』と同じ感動が蘇ってくる。本作は、433ページの中に31もの超短編が詰め込まれている。だから、サクサクと読み進めることが出来るのだが、内容は決して軽くない。短いお話の中に、命というものの重みや深さを、ギュウギュウ詰めにしたうえで、「生と死」を見事に描き出したストーリーとして、解き放っている。異色作ゆえ、手に取る前は多少なりとも抵抗感があったが、実際には、一読の価値大いにありの、まさに重松作品である。
2011.02.06
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さて、いよいよユリウス・カエサルが主役として登場する新シリーズのスタート。 これまで「われらがカエサル」と言う言い回しを、何度か使っていることから、 塩野さんは、結構カエサル好きだと思われ、文庫版『ローマ人の物語』では、 ルビコン以前に上中下3冊、ルビコン以後に上中下3冊の計6冊を費やしている。 しかし、本著(8)においては、その半分以上がこれまでの復習である。 それは、塩野さんが、この『ローマ人の物語』という作品を、 人物を描きながら、時代を描くことを目指しているからであり、 カエサルが40歳になるまで、彼自身がローマの主役ではなかったためだ。つまり、彼が40歳になるまでの主役は、マリウスやスッラ、ポンペイウスらであった。そして、彼らが主役のお話は、『ローマ人の物語(7) 勝者の混迷(下)』で、既に語られている。それ故、本著全215ページ中のうち、37歳になった彼を描き始める142ページまでは、ほぼ、既出のエピソードが繰り返される結果となっている。しかし、それはそれで、ひじょうに興味深いものとなっている。同じ事象でも、視点を変えれば、違ったものが見えてくるからである。さらに、当時のローマにおける教育や住宅、結婚や成人式といった社会の様子については、新たな記述が多数見られ、それがまた面白い。
2011.02.06
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もうすぐ二十歳になる人にプレゼントしようかと思いたち、購入してみたのだが、 ちょっとピント外れで、残念だった(プレゼントには使えそうもない)。 結構売れているようだし、ネットでの評価もそんなに低くないのだが、 私としては、自己啓発本としても、あまり惹かれる部分がなかった。 大学院を卒業してまもなく、目にとまった博物館建設計画の新聞記事から、 これこそ、自分にとって大変魅力的な職場であると感じた著者は、 館長に繋いで欲しいと、博物館の事務局に毎日電話し続け、面接にこぎつける。 そこで、展示設計責任者の女性から、こんな言葉を頂戴するのである。 「ちょっと言っておきたいんだけど、あなたにこの組織は合わないと思うわ。 押しが強すぎるもの。」著者は、涙を流しながら率直に謝り、指摘してくれたことに感謝を示したという。しかし、それはこういう考え方に基づいてである。 たいていの人はエネルギッシュで情熱的だと言ってくれるけれど、 気づかないうちに誤解されていることがわかってよかったと伝えました。 わたしの熱意が誤解されていたのです。その後、著者は担当者と打ち解け、採用に至ったのだが、果たして、これは「誤解」という言葉を使うべき場面なのだろうか?私は、この部分だけでなく、本著の至るところで、著者の言動に、かなりの違和感を感じてしまった。その理由は、三ツ松新さんの本著「あとがき」の中にある日米の「新奇探索傾向」と「損害回避傾向」の違い故かも知れない。 もしあなたが大きなリスクやグローバルな戦いなど、 大きな話になんとなく違和感を覚えるなら、 それはあなた一人ではありません。 そんな時は、あまり横文字に踊らされることなく 自分なりの「異質な方法」をとればいいのです。(p.230)この一文で、スッキリと本著を閉じることが出来た。でも、本著をもうすぐ二十歳を迎える若者に手渡すことは、恐らくしないだろう。なぜなら、彼は数ページ捲った段階で、早々に表紙を閉じてしまいそうだから。プレゼントには、別のものを考えるとしよう。
2011.02.06
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私が佐渡さんのステージを実際に目の当たりにしたのは一度だけ。 それは、2001年7月のフェスティバルホール。 宮本亜門さんの演出した、バーンスタインの「キャンディード」。 学生時代に演奏したキャンディード序曲の流麗なメロディーが、私は大好きだった。 しかも、レニーや小澤征爾氏とも関わりが深い、新進気鋭の指揮者の登場。 ワクワクしながら出かけたそのステージは、期待に違わぬ素晴らしいものだった。 歩く度にステージをミシミシと唸らす中島啓江さんの迫力も凄かったが、 何と言っても、オケピットの中の佐渡さんからは、凄いオーラが沸き立っていた。本著は、そんな佐渡さんの手による一冊だが、小澤さんの『ボクの音楽武者修行』と並ぶ、素晴らしい出来映え。ちなみに、私が小澤さんのステージを目の当たりにしたのも一度だけ。1994年12月のザ・シンフォニーホール、ボストン響を指揮したベルリオーズの幻想交響曲。それにしても、佐渡さんのサクセス・ストーリーは凄いの一語。阪大オケを振ったビデオが事務局長の目にとまり、タングルウッドから招待状が届く。そして、そこで小澤さんに出会い、さらに師匠レニーと出会うことになる。さらに、ブザンソンなんかは、まさに千秋真一のモデルは、佐渡裕だとしか思えない展開。しかし、それ以上に本著が魅力的なのは、人間・佐渡裕を包み隠さず、オープンにしていること。高校生の時、レニーのチケット完売を諦めきれず、同級生と京都会館に忍び込むも御用となった話、大学生の時、指導していた女子校の吹奏楽コンクール審査結果に不満で、控え室に乗り込んだ話、海外に出かけ始めた頃、語学が苦手で、常に不安とコンプレックスを感じながら過ごした話等々。さらには、レニーの言葉が関西弁で表現されているところが、何とも心地良く、彼の人柄や、佐渡さんへの心遣いといったものが、よく伝わってくる。そして、今年ついにベルリンフィルを振る世界的指揮者となった佐渡さんのターニングポイントともいうべき場面は、人生というものについて改めて考えさせられた。 が、再び落とされてしまったのである。 これは、僕が指揮者として活動を始めて以来、 始めて自身を砕かれたと言っていい悔しい経験であった。 しかし、その一週間後に、タングルウッドから招待状が届いた。(中略) もしこのとき採用されていたら、ダメもとのタングルウッドにわざわざ行くより、 すぐにでも指揮者になれる可能性のあった “名古屋フィルの副指揮者”の方を僕は取っていたと思う。(p.60)まさに、人間万事塞翁が馬である。
2011.02.06
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今年になって読んだ本の中で、一番付箋を貼った本。 それもそのはず、本著は私が興味を持ってる分野を合体させたような内容。 成熟拒否を象徴する「打たれ弱さ」「他責的傾向」「依存症」という 現代の三つの問題について述べた後、「対象喪失」に言及している。 そこで引き合いに出されるのは、「奈良放火殺人事件」「うつ」「薬物依存」「ラカン」 本としては、『オレ様化する子どもたち』『バカ親って言うな』『 欲ばり過ぎるニッポンの教育』『日本のしつけは衰退したか』『死ぬ瞬間』等々、 私がこれまで読んできた本、そのジャンルとピッタリと重なっていた。 *** 親がわが子に期待をかけるのは、親の期待が、親の自己愛 -とりわけ傷ついた自己愛-の再生にほかならないからである。 親が、自らの果たせなかった夢を わが子に託して実現させたいという欲望を抱いているからこそ、 過剰な期待をかけて、時には暴力に訴えてまで頑張らせようとするわけだ。(p.32)星飛雄馬だけでなく、イチローや福原愛、宮里藍、横峯さくら、石川遼も、親の期待を背に、幼少時からスパルタ教育を受け成長した。成功者である彼らは人生の勝者で、夢破れ別の道に進まざるを得なかった者達は敗者なのか?それとも、誰もが皆、親の期待・願望に振り回されただけの被害者なのか? 「人間の欲望とは、他者の欲望である」と言ったのはフランスの精神分析家ラカンだが、 たしかに、我々は、両親、祖父母、兄弟姉妹、教師や友人など、 さまざまな欲望を取り込んではじめて、自ら欲する存在になる。 まさに、「他者の欲望」を背負って、走り続けるわけである。(p.36)そう、自分自身の願い・希望と信じているものも、元を正せば、本人が生まれたときから持ち合わせていたものでは決してない。人生を歩む中で、巡り会った様々な人々の考えや思いに影響を受けながら、それらが様々な形で組み合わさり、自分の感性に染み込みながら生じてきたもの。 「両親のナルシシズムは(子どもへの)対象愛に変身することで、 子どもの頃のナルシシズムの本質をあらわにするのである」(p.39)それにしても、親が自分の願望を子どもに託すことは、そんなに悪しきことなのか?子が親の願いを受け継ぎ、その実現に向けて突き進むことは、自己犠牲に過ぎなのか?もちろん、自我が芽生え、本人の意志が親の願いとは全く別の場所にあると分かったとき、それを無視して、親の意向だけを無理矢理押しつけようとするのは、まさに虐待である。 *** 大人になるというのは、「何でもできるようになること」ではなく、 むしろ「何でもできるわけではないということを受け入れていく」過程だからである。 幼児的な万能感をひきずり、自己愛的イメージにしがみついたまま、 現実の自分と向き合うことができないのは、 まさに子どものまま、ガキのまま、なのである。(p.46)本著の肝となる一文である。大人になるのが、何でもできるわけではないということを受け入れていく過程であるのは、人として、それなりに経験を積んできた者ならば、誰でもが理解できるはずだ。ところが、現代社会は残念ながら、次のような状態になってしまっている。 つまり少しずつ「断念」しながら「現実適応」していかざるをえないことが多いのだが、 それがどうしてもできない人が非常に増えている。 自己愛的イメージと現実の自分とのギャップを受け入れられない、「成熟拒否」の一面だと思う。 「あなたには無限の可能性がある」という幻想を教え込み、 挫折や失敗などの「対象喪失」に直面させないことを重視してきた「けがをさせない」教育が、 厳しい現実社会に耐えられない人間を数多く生み出すことになったのだと考えられる。(p.68)それが「幻想」だと分かっていながら、現代社会は、「キミは出来る」「誰でも出来る」というメッセージばかりを、なぜ送り続けているのか?失敗の経験ゼロで、人生を乗り切れることなど絶対にないと分かっていながら、失敗した時に、自分で立ち上がる力を養うチャンスを、なぜ極力排除しようとし続けるのか? その根底に潜んでいるのは、病院では「何をやっても許される」という一種の甘えであり、 これも幼児的な万能感に由来する。 モンスターペアレントの多くも、学校では「何をやっても許される」という感覚を抱いている。 だからこそ、「対応が悪い」「態度が気にくわない」「誠意がない」などと責め立て、 自分勝手な要求をし、場合によっては暴力を振るうわけで、 いい年をした大人の根底に潜むこの幼児的な万能感にメスを入れない限り、 モンスターペアレントもモンスターペイシェントも根絶することはないだろう。(p.100)そして、結論。どうすれば、成熟拒否を象徴する「打たれ弱さ」「他責的傾向」「依存症」という現代の三つの問題を解決できるのか。著者が示したのは、次のようなものである。 それゆえ、転ぶ回数が多ければ多いほどいいというものでもない。 大切なのは、転んだとき、 1)他人のせいばかりにしない 2)敗因を分析する 3)自分で起き上がる この三つの練習を積み重ねていくことだ。(p.247)
2011.02.06
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