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文学学校終了。ひろい会場でばったりAJさんに会った。AJさんは以前エッセイの教室でいつもわたしの前に座っていたおばあさんだ。愛想がいいひとではないがときどき口にする警句が寸鉄でわたしは恐れ入っていた。AJさんはひとり暮らしだが当時から社交ダンスや海外旅行などで忙しく日を送っている。AJさんとは何ヶ月か前に歌舞伎座の出口でもばったり会った。夏の文学学校の会場では三年続けて最終日の土曜日にばったり会っている。なんだか不思議なご縁だ。今日は川本三郎、藤田宣永、阿刀田高各氏のありがたいお話をみっちりきいてでは、おつかれさま、というので近くのビアレストランでビールを一杯だけ飲んだ。AJさんはグラスワインを飲んだ。枝豆をひとつ真ん中においてふたりで食べた。それらが全て空になるまでAJさんの作品をおさめたフロッピーがお釈迦になった話やAJさんが昨日は前橋の文学館まで萩原葉子展を見に行った話、ふたりがヘビースモーカーだったころの話などをしてやがておひらきになる。去年はAJさんに奢ってもらったから今年はわたしが支払う。じゃあと言って反対方向の京浜東北線に乗る。先の約束は何もない。どこかでまたばったり会うのだと信じていたりするがもう会えなくてもそれはそれでいいのだと思っていたりもする。
2006.07.29
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毎年この時期、有楽町の読売ホールに六日通して通う。近代文学館が主宰する夏の文学教室なるものに参加するためだ。と言っても何かお勉強するわけではなく涼しいホールで半分居眠りしながら作家さんの講演を聴くだけなのだ。一日3人六日で18人もの有名作家さんのお話が聴けるなんてなんともミーハーごころをくすぐられる。第43回目になる今年の通しのテーマは「文学にみる『食』と『暮らし』」だ。明日は青木玉さんと坪内典稔さんが登場する。もうもうわくわくする。講演と講演のあいだは10分間休憩がある。高齢者が多いことと冷房がよく効いているので自然女子トイレが込み合ってトイレ待ち行列ができる。ふっと気づくとその行列の最後にいつも同じひとが立っている。誰かが来るとそのひとは列を外れる。人が来ないと最後尾で待つひとの顔になる。白髪交じりの小柄なおばさん。おとなしそうなそれでいて芯がありそうな文学を語っても違和感のない顔つきなのだが目があうと蜆貝のような眸が自信なさそうにあらぬほうをむく。かと思うとこずるそうな顔つきになってこちらをうかがう。不似合いなピンクの花柄のワンピースにスカーフを巻いている。肩からはなにかがぶら下がり手にはなにかしらが詰まった紙の袋、背中に麦藁帽子。足元はふるびたビーチサンダル。全体に不潔な感じはしないが日焼けした脚はそう清潔でもない。こころを病んだひとか、家のないひとか、あるいは家に居場所のないひとか。そんなマイナスの連想ばかりがひろがる。わたしは因果なことに他のことはすっかり忘れてしまうくせに気になったひとの顔をいやになるくらいよく覚えている。このおばさんは去年もここにいた。おととしも見かけた。参加者の顔をして会場の前にいたりトイレに並んでいるが決して会場には入ってこない。今日は一階のエレベーターの前に立っている姿を見かけた。人の集まるところにすーっと寄っていき誰かが自分に気づくとすーっと場所を変える。ただ涼を求めてここにいるだけなのかもしれないがある意志をもってここにいるひとのような気がする。わたしは意味もなく想像する。このひとは遠い昔、田舎から大好きなひとを慕って出てきてしまった座敷わらしではないか。田舎を捨ててきてみたものの好きな人とはぐれてしまい、帰り道がわからなくなってこのビルに棲みつき、いつしか不思議なちからも失って次第に年を取ってしまったのではないか。好きになったひとが文学が好きだったからこの会場にくるかもしれないと思ってずっとずっと、43年も待っているのではないか。そんなことあるわけないじゃん、と思いつつもなんとなくその想像を捨てられずにいる。
2006.07.25
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今月は贅沢をして歌舞伎座の泉鏡花の芝居4本とも観た。「夜叉が池」「海神別荘」「山吹」「天主物語」玉三郎と海老蔵、澤瀉屋一門の出演。一門の右近、段治郎、春猿、笑三郎、猿弥はスーパー歌舞伎から観ているがどんどん上手くなって役を広げていく。物語は、現実と幻想、聖と俗、重なりあいながらも遠いおのおのの世界の住人が対峙する。泉鏡花の芝居で「あなた」という呼びかけの言葉がとても際立つ。おまえでもあんたでもなく「あなた」。玉三郎が「あなた」と口にするときこころが波立つ。ああ、とりわけ天主物語の玉三郎の美しかったこと。ことさらになにかを強調することなく自然な動きや言葉運びで幻を際立たせていく。そのどこかあきらめに似たようなため息がなんとも美しい。そして図書之助に告げるこんな台詞もけっして歌い上げない。「白金、黄金、球、珊瑚千石万石の知行より、私がわが身を捧げます。腹を切らせる殿様のかはりに私の心を差上げます、私の生命を上げませう。然うおっしゃる、お顔が見たい、唯一目。……千歳百歳に唯一度、たった一度の恋だのに」身のうちから流れるように出た言葉がしみじみとせつない思いを感じさせる。力みのないなめらかな所作もまたそこだけ白く光って記憶にとどまる。そして昨晩、教育テレビで「アマテラス」を見た。和太鼓の「鼓童」と玉三郎がコラボレーションした舞台だ。かつて一部分だけ玉三郎の演出の鼓童のライブに行ったことがある。和太鼓、笛、鉦に琴や胡弓などの新しい楽器が加わり直線的だった音とやわらかな揺らぎが交錯した印象的な舞台だったが今度は両者が同じ舞台に立った。アマテラスに扮した玉三郎のゆったりと大きく優美な動き残像さえもわが身で演じるような計算された流れるような動き。玉三郎ひとりを見ていると当たり前のように演じられて気づかないがアメノウズメに扮した鼓童のメンバーの女性と並んで踊ったときにはっと気づかされる。違う。その動きの滑らかさが違う。それはアマテラスの大きさ、品格の表現でもあるのだろうが踊るということへに魂のこめ方が違うのだと感じる。そこにいるのは玉三郎であって彼でなく意志を持ったエネルギーが彼のからだ備わった技を借りてはるかないのちのメッセージを送り続けているようだ。スサノオを演じたのは藤本吉利さんだ。このひとが太鼓を叩くとわたしはせつなくなる。その太鼓の音が生きるということを感じさせる。人生のどの場面でもつらいことがあって踏ん張って踏ん張って歯を食いしばって乗り越えていく。言葉にすればそんな感じだろうか。舞台では大太鼓の音が高鳴って、どの動きにもちからがこもる。アマテラスと対極的に荒ぶる魂がほとばしる。光と影を表すような薄布がふたりの感情の波立ちや高ぶりをあらわす。やがて戦いにこころ萎えたアマテラスは姿を消す。雨の岩戸の前でなされる歌舞音曲。鼓動のメンバーの無骨なちから強さに涙が出る。筋肉内の乳酸との戦い、その苦悶の表情、あえぐ肩、滴る汗。バチが打ち鳴らすリズムに心臓が共鳴する。生きている実感をそこに示す。舞台はアマテラスの再びの登場で大団円を迎える。それにしても和太鼓が刻むリズムはなぜこうもこころを動かすのだろう。理屈を突き抜けたはるかかなたにその不思議があるようだ。そんなことを思っていると今夕テレビのリモコンの押し間違いで9チャンネルが映った。そこでは林英哲さんがインタビューを受けていた。偶然なのだが、このひとを検索すると「和太鼓奏者、1952年生まれ、広島県出身 「鬼太鼓座」「鼓童」の創設メンバーとして活躍後、ソロに転向しジャンルを超えた活躍を続けている」こんな言葉が出てくる。インタビューにいろいろ答えていた。そのほとんどは忘れてしまったし、一字一句は正確ではないがこんな言葉が記憶残っている。「ひとり太鼓の練習をしてると、忘我の状態になることがたまにあって叩いてる太鼓の中の空洞が時間軸のようにどこまでも伸びていって自分というもののはじまり、あらゆるもののはじまりにまでその時間軸が繋がっているような気がすることがあります」「ちいさい子に太鼓を聞かせると熟睡します。それはおなかのなかでたくさんのノイズのなかで聞こえていたおかあさんの鼓動と同じだから安心するんでしょうね。心臓はリズムを持ってますから」「人間関係で嫌なこともあるし、社会ではたいへんな事件が起こったりして国と国がいがみ合ったり裏切ったりしてああいやだなあと思っていても太鼓を叩いているうちに、ああどんなマイナスなこともこの世界でバランスが取れていることなんだっと思えてくるんですね。楽天主義ではないのですが、そのバランスがあるからどんなことが起こっても世界は大丈夫だって思えてくるんです」そのインタビューのあと、和太鼓を叩く林さんの姿が映った。ちから強く、そして速度を上げてバチは振り下ろされた。ただ見入っていた。
2006.07.24
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仔細あって、息子2とふたりだけで外食をすることになった。どこに行こうかと訊くと、デニーズと答える。「えっ?なんで?」「近いから」そう、ベランダから真下を見るとそこはもうデニーズの駐車場だ。仕方なくそこへいくことになる。息子2はステーキを頼む。思いのほか早く出てきたステーキにナイフを入れて「おっ、簡単にきれる」と驚く。「そんなことで驚くの?」「すっと切れないことが多かったから」わたしは中華粥と冷奴を頼む。「メニューがずいぶん変わったなあ」「よく来るの?」「昔、バイトしてたじゃん」ああ、そうだった。高校時代だったかね。石川町駅の中華街のなんとか門そばのめちゃくちゃ忙しいデニーズの厨房に入ってあかぎれ作って皿洗ってたね。何枚も皿割ってバイト代から差し引かれてた。デザートの盛り付けとかもしてたらしいね。新しい店長と折り合いが悪くてやめたんだっけ。「お子さまランチ、お待ちどうさまです」隣りの席の男の子の前に皿が届く。ケチャップライスに旗がさしてある。「君はあのくらいの頃はこういうとこに入ると直ぐ飽きてテーブルの下にもぐりこんだり仕切りの上に寝たりしたんだよ」と絶対に覚えていないであろうころのたびたびの不行跡を母が告げると「なんてお行儀が悪い子なんだ。親のしつけが悪いんだ」息子は切り返す。なんだか笑ってしまう。「しゃべれるようになったら、あんたは注文取りに来たウエイターのおにいさんに1タス1は?2タス3は?とか訊いて、答えないねえ、とか文句言ってたよ」「はは」「これ、少し食べる?」「いらない。そっちは?」「いらない。にいちゃんじゃないから」「にいちゃんはほんと『ちょっとちょうだい』だもんね」「なんでも味見してみたいんだよね」「にいちゃんね、居酒屋でひとりで晩御飯食べたことあるんだって」「酒飲まないで?」「うん」「なに食ったの?」「焼き鳥とご飯かって言ってたかなあ」「金なかったのか」「そこのおじさんがすごくフレンドリーなんだって」「にいちゃんに?」「うん、買い物はどこでするの?とか何線乗ってるの?とか訊くんだって」「へえー、にいちゃんに?」「そう、にいちゃんに!」「ははは」「ふふふ」ふたりは息子1のとっつきにくい仏頂面を思い浮かべて笑う。「いや、にいちゃんは笑うと案外可愛いからサービスでにこにこしてたのかもしれない」母はどこまでも親ばかで「はは、そうかもな」弟は寛大だ。帰りにプチ氷苺無料券をもらう。「こういうの、財布に入れといて使うのわすれるんだよね」「うんうん」「気がつくと期限がきれててね」「親子だねえ」「そうじゃない家族もいるよ」「せっかくだからってそのために行ったりするんだよね」「ははは」こんなにたくさんしゃべった息子2を見るのはひさしぶりのことだった。
2006.07.22
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ということで上野の公園の噴水などを・・・。上野へルーブル展を見に行った。古代ギリシャ美術・神々の遺産美の原型にふれたような気持ちになる。日本では縄文の時代にかの地ではこのような文明が!!とまたおなじみの感慨に打たれる。ああ、人類のトップランナーだと思ったことだった。
2006.07.16
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梅雨が終わるのかしら、と見上げた夕刻の空どういうわけかはわからないが、わたしはあまり空を見ない人間のようだ。全く見ないわけではないが他のものに比してあまり注意をはらっていないと思う。しかし、今日は空を見上げる日だった。保坂和志さんの「季節の記憶」という小説に季節の変わり目に感じるズレ、昨日までの季節感とどこか違う今日であると感じるような「気持ち以前の言葉」から洩れる感覚というのが出てくる。そういう感覚を持つと居心地が悪いからひとは「木の芽どき」とか「風立ちぬ」とかいう言葉を作っておさめようとする。それらの言葉は「人間のからだがそれまでの季節のあいだに作り上げて、馴れ親しんだ体内の調節機能と季節とのあいだでズレが生まれた瞬間を指している」のだという。そしてそんなときはいつもはやらないことをやってみたくなるらしい。今日の暑さはわたしにとってそういうズレの日だったのかもしれなくてだからこんなふうに空を見上げたりしたのかもしれないと思ったりする。年齢を重ねるということは季節を重ねることであり年取って季節の記憶が増えたからこそ感じるそういう種類のズレだそうだ。なんだか納得してしまう。
2006.07.14
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9時34分のバスに乗って、終点まで行く。すると10時10分前くらいに朗読の教室に着く。間に合うように出たつもりが踏み切りで足止めをくらいでは、と暑いのにがんばって歩道橋を上り下りして停留所にむかったというのに、無情にもバス停の3メートル手前で9時34分のバスを見送ることとなった。次のバスは9時43分にくる。ああー、なんということだ、と汗が吹き出た。と、ひとつ手前のバス停にドアを閉めて停車しているバスがあった。JRの駅からやってきた中年女性が出口のドアを叩いて「あけて」と言っている。おもわず「前のりですよ」と教える。そのひとが前に回って「あけて」といいかけているのに無情にもバスはドアを開けることなく出発した。ああー無情、いずこもおなじ憂き目だなあーと思っているとそのひとが近寄ってきた。「さっきはありがとうございました」「いえ、残念でしたね」そのひとの行き先はこちらのバスも通るところなのでいっしょに次のバスを待った。千葉の流山市からこのちかくにある実家の墓参りに来たというそのひとは朝の8時半に家をでてきたという。独身のおにいさんがパーキンソン病で八王子の施設にはいっているものだから近くに嫁いだおねえさんがお墓の面倒を引き受けている。お盆には用事があるのでちょっと早めにお墓参りにきたのだとその人は言った。そのお寺さんというのが、光福寺で、それはいのちで書いた大きな銀杏のあるお寺さんだった。まあ、となんとなくめぐり合わせのようなものを感じているとこちらの田舎はどちら?と聞かれて「京都です」と答えると実はそのひとも転勤族で枚方市に住んでいたという。こっちへ戻るときは京都から乗りましたよ、とも。そして互いに地元に溶け込めない転勤族の悲哀を語りあった。「分譲地のなかの借り上げ社宅に住んでましてね、そんなところでは、どうせ転勤族だからって深い付き合いをしてもらえないんですよ。わたしはウツになりかけました」とその人は言った。おなじように知らない土地でなんとかそこに馴染もうと努力して暮らしてきた人間の人懐こくありたくも相手のいることでなかなかうまくはいかない、からまわりする微妙なこころもちや距離の取り方がちょっとだけでも、わかりあえるような気がした。ようやくバスが来て乗り込むとあとから乗ってきたおばあさんが「これ、あそこいきますか?」と聞く。「あそこじゃあわからないなあ」と運転手さんが言うがおばあさんは思い出せない。「原中学校前ですか?」と運転手さんが聞くと「はい」とおばあさんは答え、わたしの横に座った。わたしはいっしょに乗った転勤族のひとと話していたのだがおばあさんは、前置きなしに話始めるのだった。「おねえさんが死んだのよ。驚いちゃった。ほんとに簡単にひとは死ぬのねー。でもきれいな顔だったわ、生きてるみたいだった」おばあさんはわたしの横で抑揚のない口調で淡々とおねえさんの死を語り続ける。こちら側では転勤族のひとが「うちは次男だからお墓がなくて、手にいれるのに本当に苦労しました」なんて話をする。悩ましいことだった。バスが動きだし、転勤族のひとは三つ目の停留所で降り、おばあさんは「原中学前」ではなく「伊藤中学前」で降りた。そしてわたしは終点で降りて朗読教室へ向かった。
2006.07.12
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千鶴子さんが夫婦喧嘩をした。それは50数年の夫婦生活最大の夫婦喧嘩だという。「うまれてはじめてだったわ」「なにがですか?」「わたし、ほんとうに腹がたって、そこいらのもの 手当たり次第、夫に投げつけたの」「へー、ほんとに投げたんですか? 絵に描いたような夫婦喧嘩ですねえ」「そうもう、切れたの、わたし」「いったい何が原因なんですか?」「何がってわかんないんだけど・・・」「わかんなくてもの投げたんですか?」「ちがうの、夫がわたしのこと『うそつき』っていったの」「へえー?なんでうそつきっていったんですか?」「それがわからないの。『あんたにはいろいろ悪いところがあるけど 一番悪いのはうそつきってことだ』っていうの」「そんなあー」「わたし他のひとにそんなこと言われたことないし 自分でもぜったいうそつきなんかじゃないと思ってるし」「ええ、千鶴子さんがうそつきなら 世の中のたいがいのひとはうそつきです」「身近な人間が一番悪いこと思うのね」「うーん、それが長くいっしょにいるってことなんでしょうね」「でもねえ。われながら感心したんだけどねえ・・・ 見境がなくなるってこのことかしらって思ってたんだけど あとから投げつけたものをひろってみたら どれも投げても割れないものだったの。 なんか腹が立ってとっさに時にも 無意識に選んでるのね。 だから被害はなしなの」80歳の同い年夫婦の夫婦喧嘩でものが飛んだ。原因は「うそつき」というひとこと。いまだ必要以上のことはしゃべらない冷戦状態で書痙で字をかくと手が震えるご主人は宛名書きをすべて千鶴子さんに頼んでいたのに意地をはって、株券の書き換えの住所氏名を震える字で自分で書いたのだという。「敵はまだ怒ってるみたいね」「もう、仲良くしてくださいよ」「あなたがそう言ってたって言っとくわ」うーん、どうなるんだろう。このふたり・・・。
2006.07.06
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「都会では自殺する若者が増えている 朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は 今日の雨 傘がない 行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ 君の町に行かなくちゃ 雨に ぬれ 冷たい雨が 今日は心に浸みる 君の事以外は 考えられなくなる それはいい事だろ ...」汗でシャツを濡らし35年のあいだに生まれた名曲の数々を2時間弱、地熱のような尽きぬエネルギーで、時に熱く時にクールにたっぷり歌い続け、なおもなりやまぬ拍手で迎えられ、さっぱりと赤いアロハシャツに着替えて、再び現れたアンコールの場面、「アジアの純真」「カニ食べに行こう」の2曲で若々しく大いに盛り上がったあと、ライブの最後の曲がこの歌だった。遠い遠い昔、試験勉強をしていた夜のまんなかではじめてこの歌を聴いた。ちっぽけなラジオから流れてきた。若者であった自分のこころに軋むようにねじ込まれたこの声この歌詞。甘く豊かな声がひどく重たいものに押さえつけられ苦しみながら、なおも思いのたけを伝えようとしている、とそのとき感じたこの歌い手が、はるかな時空を飛び越えて、「会いに」来てくれた。いや、遠い昔の少女が今の彼に会いに行った。井上陽水ライブ!なんとこころおどるまろやかな時間だったことだろう。困ったような照れくさそうな、それでいてそのこともおもしろがっているような、あたたかみのあるMCをはさんで、彼は新しい曲懐かしい曲を次々に歌った。昨晩有楽町国際フォーラムAホール1階7列11番の席で聞いた。彼の眉が上がるさまもつぶさに見て取れる席だった。ホールはひとで満ちていた。駆けつけた人たちの顔はそんなに若くはないようにみえた。立川志の輔の独演会の客層に近いように感じた。おつむがさびしくなったり白いものをいただいたりしらぬまに肉がたるみ、こしまわりもゆたかになった男女が席を埋める。来し方、みはるかすかなた、人生のどの場面か、なにかしらのエポックで彼の歌を聴いたひとたちがその思い出と共に聴き入る。どのひとの振り子もたくさんの時間を経巡り戻ってきたと感じ入る。氷の世界、夢の中へ、少年時代、リバーサイドホテル・・・・。懐かしい曲が衰えることを知らない豊かな声量で目の前で歌われている。いつまでも張りのある声。胸の奥の鬱屈にまで響いていく。「都会では自殺する若者が増えている」その歌詞を噛み締める。遠い日、京都の片田舎でこの曲を聞き胸痛めた少女が時を経て移り住んだ都会でこの歌詞を胸のなかで反芻する。自殺することなく生き続けた昔の若者が彼に会いにきている。ライブになれた若者の声が響いた。「ようすーい!」彼の名をそんなふうに呼んでもいいのか!と驚いている自分がいた。
2006.07.05
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「文さんはどうしてご主人のことをかかないんですか?」とメールで問われたことがある。そういえば、とお気づきになるかたもおられるだろう。ここの日記475件のうち、息子ふたりは登場するがその父親はほとんど現れない。現れないが、いないわけではない。我が家はあくまで四人家族だ。しかし、自分のことは書かないでもらいたい、という申し出を受けている。いずれよいことばかりは書かないであろうという推測があるのかもしれないが「プライバシーだから」という言葉が添えられた。わたしという人間のまんなかには文章を書くということがあってものごとをそこから眺めているようなところがある。当たり前のくらしが興味深い文章になる確率は少ない。事件がおこり、それに対して思いがめぐっていく。そんな非常事態の顛末が興味深い文章の核になることが多い。それは同時に書かれるほうにとっては苦痛であるかもしれない。文章が書かれる人間の痛点をえぐってしまうことも少なくない。世の中ではそういう小説家が訴えられたりもしている。こちらはノーペイで書いているのにそれで訴えられてどうする!と思う。というわけで、平和のためにこれからもそのラインは守っていくつもりでいる。ああ、書きたい書きたい書きたいと思うことは山ほどあってううう、とうなったりもするのだが、平和は大切だ。今に腕を上げて向こうから「書いて欲しい」とお願いされてみたいものだなあ、と夢見ないこともない。
2006.07.01
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