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今の住まいに越してきて三年がたつ。残念なことにわたしたちは決して地域に根付いた生活をしていない。ご挨拶をするひとは何人かいるが、それ以上のことはない。おとな四人で住まうわたしたちは学校とも縁がないし、社交的でもないし。これといった特技もないので、住人のひとと接点がないのだ。この地域の祭りもイベントもわたしたちにかかわりなく過ぎていく。さびしくもあり気楽でもあり、その気持ちがあい半ばする、というのが正直なところかもしれない。そんななかでわたしは勝手になじみのひとを作っている。と言っても、そのひとと話すことはない。ただ一方的に観察させてもらっているだけだ。そのひとたちのことは「くもりときどき思案」のほうに書いた。☆進化するホームレス☆物憂げなドイツ文学者その後もこのふたりとは時々会う。いや、見かけることがある、というほうが正確かな。ホームレスのひとのねぐらは変わるようだが、夏の間はうちの近くの公園のベンチで寝ているのをよく見かける。公園の水道で洗濯をして鉄棒に干す。ついでに体や髪を洗ったりもする。洗濯物は子供たちの歓声を聞きながら乾いていく。彼も日光浴しながら体を乾かす。その洗濯した服を着ている彼とコンビニで会うこともある。挨拶はしないが、気になってなんとなくちらちら見てしまう。カップめんとパックの日本酒を買って帰ることが多いようだ。お湯を入れてもらって店の横手の地べたに座って食べていたりする。通りですれ違うこともある。彼はきつい天然パーマなのですぐに見分けがついてしまう。このごろ左足をすこし引きずっている。なにか炎症を起こしているのかと思ったりする。一昨日は駅前のベンチで彼を見かけた。なんだか見慣れない派手なシャツを着ていたので、一瞬彼とはわからなかったが、天然パーマで彼と知れる。仲間とならんで座っていた。それなりに話が弾んでいるようだった。アルコールが入っていたのかもしれない。ちょっと彼が笑っていた。なんとなく彼の手の指に目が行った。彼の左手の小指に銀色の指輪がはまっていた。おや、恋でもしましたか?なんてことをまた勝手に想像する。そして、今日は汐留の明日の神話を見てきたのだが、その行きに駅で「物憂げなドイツ文学者」を見かけた。彼はなんだかこぎれいで、黒いシャツにジーンズ姿だった。白髪交じりの髪もきちんと切りそろえてあった。そういう格好で彼は分別された新聞、雑誌用のゴミ箱をあさっていた。ああ、相変わらず励んでいますね、と思ってみていると、ゴミ箱から出てきた彼の手には金属製のトンクのようなものがあった。それは真新しいように見えた。彼はしかつめらしい顔をしてそのトンクでゴミ箱のなかの新聞をえり分け、はさんで引き上げ、おもむろに紙袋に入れる。その袋にはSOFMAPの文字があった。それぞれの暮らしがそんなふうに変わっているのだなあと思った。ただそう思った。
2006.08.30
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NHK教育の「からだであそぼ」という子供向け番組で森山開次というひとをはじめてみた。彼はダンサーである。金髪の染めた長い髪を妙な按配に刈り上げた色の白いひとでちょっと得体のしれない感じがする。(森山開次)その番組で彼は、動物や昆虫や、機械や・・・いろんなものになりきる。つまり森羅万象を彼のからだで表現するのだ。くるりくるくると転がってぴたっと止まって立ち上がって、両手を伸ばし片足を上げてポーズを取る。アシンメトリにデザインされた、ぴたっとからだに張り付くダンスウエアのしたで無駄のない筋肉が躍動する。時にユーモラスに時に鬼気迫って森山開次のからだが画面に満ちる。その予想のつかない動きが印象深く記憶に残る。今日のトップランナーに彼が出ていた。無言で舞う彼がしゃべった。思いのほか柔らかな声で静かな語り口調だった。幼い頃はあまり外で遊ばない子で、家のなかでも、設計の仕事をする父親を気遣って静かに暮らしていたのだという。それでも注目されたくて彼は宙返りを練習するようになる。粗大ゴミのマットを拾ってきてその上で練習する。それが嵩じて、体操を習いもする。が、交通事故にあって断念する。中学ではバレーボールを始める。アタッカーの動きがかっこいいと思ったからだ。しかしパスの練習をしているうちにセッターをやらされることになってしまう。それがいやでやめて今度は軽音楽部に入り、ギターを始める。入って間もないころに文化祭があって舞台に立つことになったがあがってしまって失敗してしまう。で、それもやめて、自分がなにをしたいのかわからないまま大学へ行った。ひとり暮らしをし、新聞配達のバイトをした。朝夕の配達をしていると疲れて学校へいかなくなった。そんな21歳のときに森山開次はダンスに出会う。ダンサーとしてはとても遅いスタートだった。なにしろ基本がない。体が硬い。開脚をしても、他のひとはぺたっと床に着くのに彼はかなり隙間ができる。他のひとたちを二階から見てるような感じでした、と振り返る。それでも少しずつ柔かくなっていくのが実感できるのがうれしかった。そういう進歩があったから続けられたという。ダンサーとして何を大切にしていますか?という質問に彼は足裏の感覚、と答えた。ソロダンサーにパートナーはいない。床が自分を支えてくれる頼もしいパートナーであるから、その床をしっかり掴む足裏の感覚を大切にしています。彼はそう穏やかに言い添えた。32歳の彼は振り返って思う。ダンスを始めたのは21歳で、遅いスタートかもしれないけれど、自分はバレーボールや新聞配達をしてきたその動きを通して自分の体とずっと向き合ってきたのだと。新聞配達の動きっていい動きなんですよ、と言いながら彼がその手を動かしてみせた。前へ横へと動く腕は流れるようにしなやかに動き、優雅な雰囲気さえ醸すのだった。ああ、ここにも人生のオセロがある。何をしていいのかわからないけれど、とりあえず学資を稼ぐために続けた新聞配達がこんなふうに意味があるものに変わっていく。こういうインタビューのあいだに彼の「KATANA」というダンスのビデオが流れた。上半身裸の彼の体の隅々にちからが行きわたる。その場の空気を切り裂くようにきっぱりと彼が動く。飛ぶ。回る。前へ後ろへ、右へ左へ。金髪が揺れる。彼が止まる。エネルギーが貯められていく。腕が動く。足が上がる。体が傾き、しなる。横隔膜がせりあがり、胃のあたりがへこみ、体の線が鋭くなる。静かなちからがみなぎる。たわめたちからがまた爆発する。踊り終えた彼が観客の反応に感激しながら、静かに頭を下げる。そして顔を上げる。その額に大粒の汗が光っていた。
2006.08.27
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どのおはなしだったか忘れてしまったが、萩尾望都さんの作品の一コマに前に住んでいた横浜中区の愛育園そばの坂の途中から元町へ抜けるトンネル手前の信号がそっくりそのまま描かれていた。いや、そんなのはよくある風景で、わたしの思い込みなのかもしれないがそれに気づいたときわたしはなんだかズルのようにも感じたのだった。が、同時にまるっきりのフィクションでどの絵柄もすべて望都さんのおつむからひねり出されてるってわけではないんだなと思うとなんだかほっとした記憶がある。なるほど、取材というのはこんなふうに生かされるのかと思ったのだった。今日、図書館からの帰り道、空模様がだんだんあやしくなって灰色の雲が広がり始めたころのこと信号待ちをしていてふっと右手のほうを見ると2ブロックほどさきに建築中のビルがあった。そのビルの屋上にはよく見るクレーンのようなものが稼動しておりまだ外装がなく鉄骨のみえる建物は網のようなもので覆われていた。その網のなかにあかりがついていた。小さなあかりが各階にまばらに灯っていた。そのあかりは網を通してみると光の按配が実に美しくて植物の葉に落ちる朝露の玉のように見えたのだった。「あ、あさつゆ」と思うとなんだか詩人が美しい比喩を発見したような気分になってしまってなんだかすごい儲けものをしたようでこれはきっと小説かなんかで使えるに違いないとか思ってわすれないようにしなくっちゃと思って「あさつゆあさつゆ」と呟きながら信号がかわった横断歩道を渡ったのだった。すると向こうから電動車いすに乗ったひとがわたってきた。濃紺にTシャツにめちゃくちゃ派手な幾何学模様のボトムだった。頭にはバンダナを巻いた中年のその痩せた男性はものすごく日に焼けていた。そのひととすれちがうと今度は「電動車椅子でどこまでも」なんてタイトルがうかんできてあのひとが日本国中旅にでていろんなひとに出会って困難にも出くわして、その旅の長さ分日に焼けていくなんていうおはなしはおもしろいかもしれない、と思ってしまうのだった。そして、あ、さっき思ってたのはなんだっけ、と思って振り返ってビルのことをおもいだして「あさつゆあさつゆ」と呟き横断歩道を見て「車椅子のひやけ」と呟いたのだった。こんなふうに町を歩くとなんだか町には気になることが山ほどあってあ、あ、あ、とそのたびに足が止まる。デジカメをと思うがそんなときにかぎってわすれている。ではケータイ写メでと思うと電池切れになってしまう。こんなものに頼らず、全部覚えていたらたいしたものなのだが今日、その後、こころにとめたはずの他のことが、・・・ほら、もう思い出せない。
2006.08.26
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7月、朗読の教室にひとりの小柄な老人が入ってきた。名前を源次郎さんという。年は84歳、度のきつそうなメガネの奥でヘラジカのような目がいつもうるんでいる。痩せて背中の真直ぐなひとで、その背中が律儀な人生を送ってきましたと告げているようにかんじられる。朗読の教室ではまず発声練習をする。思いっきり息を吐いて1・2と数えて息をすう。自然にお腹に入ってきた空気であーという声をだす。まっすぐな音、地に響く音、遠くまで届かせる音。息の続く限りあーーーーーと声を出す。あえいうえおあお、の練習もするし「外郎売」の言い立ての練習もする。最初は恥ずかしい思いが先にたって喉が開かないのだけれど他のどのひとも自分のレベルを自分であげていっているのだと気づくとだんだん自分も素直に自分の声に向き合えるようになりからだが声の出し方を覚えていく。ひとおとりの基礎練習のあとその日の教材に入る。慣れてくればお決まりの順番なのだけれど慣れないうちはどれもこれもとまどうことばかりだ。源次郎さんも最初は事情が飲み込めずどうなることかの連続だったようだ。何を聞かれてもさて?という顔つきをしていた。だれひとり知り合いのいない教室、もう顔なじみになったものたちがずらりと並ぶなかにあたりをうかがうようにおずおずと入ってきた源次郎さんは緊張しているのか、なかなか声がでなかった。声のバルブがきつく閉まっているような感じのかすれ声だった。しかし訓練されてはいないのだけれどだとだとしく一節を読む声が印象的だった。ろうそくが揺らぐように震えるそのかすれ声に味があった。どんなふうに生きてきたのですか?と問いたくなるような声だった。あるとき、外郎売に出てくる外郎をご存知かときかれて源次郎さんは薄くなった髪を撫でながら「知っていたかもしれないけれど年を取ったからわすれてしまいました」と律儀に答えた。わたしはこの返答がとても好きでノートの隅に書き取ってある。自分を図り損ねないことは強さなのだと思うしこれでいいのだと今の自分を抱きしめる言葉だとも思う。朗読の教材は童話や民話、詩が多い。ことばあそびや教材を元に朗読劇を作ったりもする。今日の教材は民話で東北地方の方言で書かれてあった。それを劇のように仕立てて三人ずつが皆の前に立って演じた。源次郎さんも皆に前に立ち東北弁のナレーションのパートを読んだ。多少間違いながらもしっかり読んだ。やはり少々かすれ気味で揺らいだ声だったがなんとも味わい深い語りだった。思わずだれからともなく拍手が鳴った。その後で源次郎さんは「家でひとりいて誰ともしゃべらないと声がでなくなるんです。ここでこうして皆さんの前で声がでてよかったとわたしは思っています」と感想を述べた。人生の終盤に入って、知っていたはずのことを忘れてしまう頃になっても人の前にたって、スポットライトを浴び、拍手をもらうことは深い意味のあることだ。ひとはだれしも褒め言葉を栄養にして生きるのだ。源次郎さんのはにかんだ笑顔をみてそう思った。
2006.08.23
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京都の実家のちかくにある古い古いおうちじつはすだれ屋さんでこんな看板が出ていたりするこのなかのくらがりでおじさんがすだれをつくっていたりする。こんなそらが広がる京都で。
2006.08.18
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軽井沢の夜は冷えてくる。カーディガンをはおり、ソックスをはく。昔の乙女は冷え性だ。それでもハートは熱い。ふっと恋の話の封印を解いてしまったりもする。聴き手は眠たい目をこすりながらちょっとどきどきする。親しいおんなが集まってふわりとした気分になったなら、ふっともらしてしまう言葉もあるらしい。もらした言葉がたがいの距離を縮めることもあるらしい。魅力的な女性ならば、申し出があったりする。思慮深い女性であれば、相手を慮りながら思案する。そんな思案のとき、さちこさんはこう答えたのだという。「みちみち考えましょう」アルコールに満ちたわたしの脳みそに、この言葉は思いがけずツボだった。おかしいし、奥深い。「みちみち考えましょう」なんだかいい。思案しても思案してもたどり着かないことを、みちみち考える。移動しながら考える。これはなんだか極意のようだ。どこへたどり着くかなんてわからぬ人生だもの、みちみち考えて生きましょう!そう言って友人が地ビールをクイッと飲んだ。軽井沢にくる直前、次男の嫁候補が来るに当たって、そのもてなしに奔走し、計画が全てうまくいって、相手のことも気に入って、みなでたのしくすごした日の夜のこと、友人はご主人にビールを飲む?と聞いた。ご主人が飲むと答えたので、友人はそのつもりでお風呂あがりにビールを用意した。友人はふたりの息子の行く末がそれなりに見えた安堵感と、自分自身が2度の手術を乗り越えて此処まで生きてこられたことの喜びを、この区切りに、そのわずかなビールをご主人と共に飲むことで分かち合いたいと思っていた。口にはしなかったがささやかな祝杯のつもりだった。ところがお風呂からあがったご主人は、少し前に骨折してまだ痛み止めを飲んでいるからという理由で、「やっぱりビールはやめておく、君、飲みたかったら飲んでもいいよ」と平然と言った。友人はカチンときて、「もういい、もう飲まない」と言った。なんで飲みたかったかという思いを告げれば、ご主人は「なんだ、そうか、言ってくれればよかったのに」と答えることだろう。結婚生活が何十年であっても、わからないひとには永遠にわからないことがあるのだと友人はいった。こういうことがあるたびに、いくら長くいっしょにいても、なにひとつわかってもらっていなかったのだと感じてしまう。このひとと分かち合えるものがないのだと気づいてしまう。いつだって自分の目の前にあるものしか見えてなくて、そのことに傷つけられる。嫌なことはまるでなかったことになってしまい、その折に抱いた思いも積み重なっては行かない。そのくせ友人のことが一番大事だとぬけぬけと言い放つ。その厚顔ぶりに腹がたつ、味噌もクソもいっしょにしてるくせに!と友人は軽井沢の闇に向かって吠えた。さちこさんはなにも語らぬ夫のことを吠えた。わたしもここでは書けないようなことを吠えた。酔っ払いは吠えるものだ。それからベッドに入った。部屋の都合でわたしとさちこさんが並んで寝た。なにしろ吠えたものだから、さちこさんは興奮がまだ冷めやらないようで暗がりのなかでガールズトークが始まった。わたしはもう限界が近かったのだけれど、いろいろ個人的なことを聞かれると答えてしまう。わたしの答えが、どれもおもしろいとさちこさんが笑う。あなたは素直なのねえ、と感心されてしまう。そういえば小学校のときに兄嫁に「はい」という返事が素直でいいと褒められたことがあった。数少ない褒められ体験だった。いろいろあってもそんなささいなことが自分の背骨を伸ばすのかもしれないという気がしてくる。さちこさんも子供のころのことを話す。医者の娘のつらさを聞く。いつもいない父。親であって親でない母。その母を独り占めしようとする姉。陰日なたのある使用人。それでもがんばっていい人のためになにかをするひとにならなくっちゃという使命感。そんなふうにジェシカ・ダンディーの面立ちは作られていったのだ。それでも不幸の数では負けない。「わたしかわいそうなひとだから」で始まる誰かを励ますための不幸話は居眠りしてても出来る。そんなふうに見えないといわれながら、あれこれ披露しているうちに、さちこさんはだんだん自分の問題はそれほど深刻ではないと思い始めたらしく、うん、わたし、なんだかがんばれそうだわ、と言い出した。どうやらそこらへんでなっとくしたらしく、さちこさんは寝た。むろん、わたしも。最後に見た時計は3時を回っていた。カタンとヘンな音がしたりした。くまが徘徊していたのかもしれない。翌日、ふたりの話し声で目が覚めた。なんて元気なひとたちなんだと感心する。わたしは頭の奥のほうがなかなか目覚めず、脳みその表面で対応しているような感じだった。なにしろ台風が去ったその日、いかな軽井沢とはいえ30度越え、日はじりじりと照りつける。日傘からはみ出た腕が焼かれていく。それでもさちこさんはすこぶる元気で、精力的に旧軽井沢のショップを見て周り、宅配便で送ってもらわねばならないくらい買い物をした。友人も付き合っていたが多少呆れ顔でもあった。わたしはなんだかピントが外れたままの望遠鏡で景色をながめているような気分だった。4時の新幹線に乗るさちこさんを駅で見送った。わたしの切符は4時22分発だ。じゃあね、と手を振って、わたしは自分のわすれものに気づく。買ったお土産を友人宅にわすれてきた。友人宅まで片道10分、往復20分。出発まではまだ30分あった。さあどうする?わたしも宅配便で送ってもらうか、と一瞬思う。しかし、あのお土産のなかには「花豆のおこわ」が入っている。家に帰って食べようと楽しみにしていた。わたしは取りに帰った。じりじりと焼かれながら往復20分。へーへー言いながら「花豆おこわ」を抱えて急いだ。友人に挨拶もそこそこに改札へむかった。新幹線の座席に座ったかと思うと知らぬ間に眠っていた。気がつくと大宮だった。友人にメールを打つとやはりうたたねしたと返ってきた。そのメールをみながら、さちこさんが迷走台風だったのかもしれないと思ったりする。そして翌日の新聞でイギリスの空港でのテロが未然に防がれたという出来事を知る。もしも、と考えると空恐ろしい。また多くの犠牲者が出たかもしれなかった。わたしが軽井沢へいくとなんだか世界がざわざわするのね、なんて勝手なことを・・・。・・・・おしまい。
2006.08.13
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夕刻、その家に現れたのは友人が中学時代から付き合っているさちこさんだった。友人が入院している病院で一度ばったり会ったことがある。大きな声で笑う明るいひとだ。さちこさんて誰に似てる?と聞かれたらジェシカ・ダンディーと答えるだろう。ドライビング・ミス・デイジーで好演したあのおばあさんだ。そう、なんだか威厳があって、賢そうなのだ。似てると思うがさちこさんには告げない。きっと、やだー、わたし、もっと若いわよーとぺチンと肩を叩いて文句言われてしまうだろうから。くわしいことはよく知らないのだけれど、友人がいうには、さちこさんは井伏鱒二の小説「本日休診」のモデルになったという医者一族の一員だそうだ。もう亡くなったが、お母さんが開業医で、共産党員だったお父さんは離島で診療していたという。二人姉妹のおねえさんは医師になり、さちこさんは薬剤師になった。以前から時々、友人から彼女の話を聞いていた。さちこさんは普通のサラリーマンと結婚し、二児をもうけ、四人の孫がいる。医者一族で医者に無縁なひとと結婚したことは、彼女なりのレジスタンスだったのだろうと友人は言う。なにしろ、おかあさんとおねえさんの抑圧がすごかったから、と。「それにしても彼女、スクランブル交差点でも決して対角線を歩かずに二辺をカクカクって曲がっていくようなひとなのよ。妙なところがクソ真面目で、融通がきかなくて考え方がなんだか窮屈なの」とは友人の弁だが、融通無碍の友人からするとだれでも窮屈かもしれんな、とも思う。「ご主人といっしょにご飯を食べてて、自分が最後に食べようと思って少し残しておいた納豆をご主人がなにも言わずに食べてしまったことが許せなくて、自分の茶碗に残ったご飯をご主人の顔の前に突き出して、『このご飯どうしてくれるのよー』って怒るひとなのよ。どうしてくれるって言われても困るわよね」というのも友人の弁だ。思いのほか、闘争心はあるらしい。さちこさんが来ると聞いて、わたしのなかでは、横断歩道と納豆とジェシカ・ダンディーが浮かんできて、いっしょになってぐるぐるとまわるのだった。さちこさんは酒好きでガンガン飲む。このたびはガンガン飲みたいわけもあるらしい。友人は舐める程度しか飲めないので、自然にわたしがお相手することになる。が、わたしもこのところ発泡酒350mlでほわんとなってしまうくらいに弱くなってしまっている。とはいえ、心優しく気弱な(?)わたしは、もともと嫌いじゃないので勧められると断れない。というか、さちこさんはわたしのグラスが空くとすかさずビールを注ぐのだ。わんこそばのような感じで。残すのが嫌いなので無理してでも空ける。するとまた・・・。そんなふうにして酒屋で買った普通のビール500ml缶3つと地ビール350ml缶2つをふたりで空けた。軽井沢というところは標高1000メートルあって、軽い高山病にかかるひともいるらしい。わたしはてきめんお腹が張って困った。そんなひとがそんなところで、こんなにアルコールを摂取するとどうなるかというと、もうもう人事不省なくらい眠くなる。目の前の友人の丸い顔がぶれてきたりする。そうかあ、とうなづいて下に降りた頭が上がらなくなってそのまま寝てしまいそうになる。そんなわたしを見かねた友人に「あ、寝る?」と聞かれて「いや、寝ない」と答える。大晦日の幼児のようである。今回はさちこさんの言い分を聞く会のようなかたちになっていて、そのまま寝てしまうとなんだかそれはもったいないほど、話は盛り上がっていたのだ。「中学のとき、わたしがちょっとガラのよくない子と付き合い始めたら、このひとが手紙をくれたのね。いろいろ書いてあって、最後にひょろひょろした横線が何本か書いてあって、さちこは今こんなふうな道へ踏み込みそうになってます。これをみて反省するように、って書いて矢印つけてあったの。この線はなにかしらって思ってたら、『よこしま』ってことだったの」とさちこさんが言うと「よこしま」という言葉に涙を浮かべて大笑いする友人は、そんなことは覚えていないという。最近、お母さんが亡くなってもろもろ解放されたさちこさんは、これまで言いなりになってきたジコチューのおねえさんに反旗をひるがえした。これまでは姉妹がもめるとお母さんが悲しむだろうと思って胸の中にたくさんの悔しさ、我慢をおさめてきたが、もういいんだと思い定めて、宣戦布告するように大声でおねえさんの横暴に逆襲したのだという。「えらい!」と友人は褒める。抑圧されて言えなかった言葉があふれるように出てくる。言葉が奔流になってさまざまなところへ及ぶ。解放された感情は高ぶったまま家族に向かう。するとそこで夫婦にも新たな摩擦も生まれてくる。何も言ってくれない夫の問題が浮かんでくる。なにも考えていないのではないか、という結論にいたったりする。そこから急に話はさちこさんの高校時代の恋に及んだ。「絵を描く人でね。さちこくんは無垢な白いひかりの結晶のようだって言ってくれたの。うれしかったわ。家庭のなかで居場所がなかったわたしに理解者があわられたのよ」そうしてふたりは付き合うのだが、さちこさんは堅実な考えの持ち主で、絵描きになるそのひとを支えるためには自分が働かなければならないと考え、資格を取るため猛烈に受験勉強をし始めた。実力テストの前日の夜、その彼から電話があった。「象の風船が手に入ったんだ。これから川原で風船あげにいかないか」という誘いだった。さちこさんは行きたいとも思ったが、この実力テストを落とすと受験に差し支えてしまうから行けない、と答えてしまった。なにしろふたりの将来がかかっているのだから自分ががんばらなくっちゃと思っていた。ところがそれからしばらくして、彼氏は別れようと申し出てきた。君はもう無垢な白いひかりの結晶ではなくなったから、という理由だった。きみと別れて僕は旅に出ますともいうのだった。さちこさんは愕然とする。誰のため、なんのための勉強だったのか、と。その失意を慰めるように次のボーフレンドが現れたり、家庭教師のひとが現れたりするおはなしはもうもう笑い無しでは聞けなくて、かなりのアルコールでしびれたようになっていたたわたしの頭は妙な感じで冴えてくるのだった。・・・・つづく
2006.08.13
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9日、迷走する台風の行方を案じながら長野へ向かった。しかし、誰かの日ごろの行いがいいのか、たまたまか、長野に向かう途中から空が明るくなり、新幹線を降りるころには雨がやんでいた。駅に降り立って、やっぱり涼しいと感じる。台風の接近で重たくなった空気を吸ってきた肺がなんとも軽やかな空気に満たされる。これがなによりのおもてなしなのかもしれない。友人の実家の一族が夏のあいだだけ借りている一戸建てに呼んでもらうのは4度目になるだろうか。軽井沢の駅から旧軽側に歩いて10分ほどのところにあり、そのお宅の森のように茂った木のあいだをくぐり抜けて玄関にたどり着く。2001年9月11日に私はこの家にいた。前日から泊まっていた。その日も台風が来ていたのだったか、何しろ大雨が降り続いた。庭の飛び石が水につかるくらいに降った。自治体の広報車が出てがけ崩れの注意をしていた。夏の盛りを過ぎた軽井沢は次第に静かになっていく。空気が冷たくなっていくのに比例して人がいなくなる。もともと属していた社会へひとりかえりふたりかえりしていく。たちのよくない病気の手術後、友人はここで療養していた。元のポジションに戻ることが免疫力を下げることがわかりきっていた。そこで彼女は実家に身を寄せていたが、今は母親ひとりになってしまった実家にいると、それはそれなりに精神的な負担も大きいので、いられる限りは軽井沢で過ごす、と決めていた。そこへ呼ばれた。その日の雨は分厚いカーテンのようにわたしたちふたりを世界から切り離した。病人はごろごろするのが仕事なのだから、部位は違うが同じように病気で手術したことのあるわたしはそのお相手には最適だったかもしれない。互いの息子が幼稚園のころからの付き合いで、しっかりものの彼女とうっかりもののわたしはトータルすれば私のほうがお世話になっていることは多いのだけれど、それでも互いが大切で、いやになるほどいろんなことが起こったそれぞれの15年のあいだに、こころのほんとうを飾ることなく話せる相手になっていた。屋根を打つ激しい雨音を聞きながら夜中じゅう、話した。どこの糸口からでも話が始まって、いろいろに飛んで広がって、おかしくて悲しくて、泣いたり笑ったりして、時間が過ぎた。病気や家族のこと姑とのこと、互いが抱える問題は一朝一夕に解決しそうもないのだけれど、それまでの流れを知りながら、その瞬間の思いを聞き会うことで、それぞれの思いがすこしでも軽くなることを、わたしたちは知っている。次の日も雨は降り続いた。この家の大家さんのおばさんが食べ物がないのでは、と案じて「花豆のおこわ」を差し入れてくれた。雨のなか、大きな雨靴はいて合羽を着込んで、旧軽の和菓子やさんまで買いにいってくれたという。花豆というのは黒豆の3倍くらい大きな黒っぽい豆でパックのなかでもち米のなかにまぎれている姿は、嫌われ者の虫を連想させて、いささかひるんでしまうのだが、食べてみるとこれがなんとも鄙びた味がして美味しい。主張する味ではないが、ホッとする味で、なじむと後を引く。大家さんの思いもいっしょいいただいた。そんなふうにして時を過ごして、思いを残しながら、遅れた新幹線の乗ってようやく家に帰りついた。そして、ほっとしてつけたテレビに、あのビルにつっこむ飛行機が映っていた。たくさんのひとのいのちが一瞬にして消えていったテロの日。忘れられない日だった。それからいくつかのクッションを経てもとのポジションに戻った彼女は3年前に再発し、また手術をした。人生にはいったいいくつこんな落とし穴が用意されてるのだろうと思う。その穴から抜け出し、立ち上がるまでには気力が必要だ。しかし、それからたくさんのことを割り切り、賢く生活を立て直し、新たな空間を得た彼女には、息子の結婚、孫の誕生といううれしい贈り物が待ち受けていた。生きていることのご褒美のように、今年もうひとりも息子も嫁候補を引き合わせた。裏道の大木の影のなかを歩きながら「地味なかんじの子だけど、息子にお似合い」そういって彼女は笑った。笑いながら涙を浮かべていた。今年は私のほかにもうひとりお客さんがいた。・・・つづく
2006.08.12
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台風接近と聞いて空を見る。明日からちょっと長野へおでかけなのに大丈夫かなあ・・・。なんだか懊悩・苦悩・不安みたいな空模様。嵐をよぶおばさん、だったりして。
2006.08.08
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そう、これこそが夏なのでございます。ちょっと動けば汗ばんで、はー、今日も暑いわねーといいながらそうめん茹でて夏野菜のてんぷらを揚げたりするのでございます。季節の境がよくわからなくなってなんだかけじめなく時間が流れていくような日々がずいぶん続きましたがきっぱりと夏なんだなあという日差しでございます。洗濯物がきっぱり、しゃきんと乾いて水遣り忘れると植木が萎えて油断するとあちこと蚊にくわれてくわれたとこをああ、痒いと掻きながらこくこくこくと冷たいお茶飲んで昼下がりにはうとうととしてみたりしております。買い物かご提げて日傘を差して坂道を下っていくとふっと風とすれ違います。ああ、ありがたいと思います。焼けたアスフェルトの打ち水がゆらゆらと陽炎になって立ち上っていくときの匂いがああ、夏なのでございます。みなさまはいかがお過ごしでしょう?いよいよ暑くなりました。どうぞ、ご自愛くださいませ。
2006.08.05
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