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「今日一日生きて」・9、15、日先日合唱団の帰りに、女性の団員さんと共に難波発の南海電車に乗り込み、発車を待って座っていた。そこに元気の良さそうな全盲のおばあさんが乗り込んで来て、左右の空いている座席を探すべく、座っている人々の膝を白杖で探りながら車内を進んで行った。口の内では何やらぶつぶつ言っている。僕と団員さんの前もそのようにして通り過ぎた。とたん僕の隣の団員さんが、おばあさんのところに飛んで行き声を掛けた。ちょうどその傍に優先座席が空いていたので、彼女はそこにおばあさんを誘導するつもりだったのだ。座席を誰かに取られぬ前にという焦りもあり、団員さんもかなり慌てておばあさんの腕を掴んだ。「そこの優先座席が空いています」と声を掛けたところ、おばあさんは色をなし「結構です!いりません!」と声を荒げた。いらない訳がないのだ。おばあさんは座りたくて座席を探していたのだから。団員さんはそれでも重ねて「あの、席が空いていますら」となおもおばあさんを誘導しようとした。おばあさんは「いらないんです!鞄をひっぱらないで下さい!」と一層声を荒げて拒絶した。周りの乗客は全員「こういう情景はよく目にするが、人の親切に対して障害者の多くがこのような態度を見せる。連中は大体において捻くれている。そりゃ障害を抱えて大変だろうなと思うし、それでも一人で町を歩こうというのは感服もするが、かといって他人の親切に対してあのような態度が許されるのか」と憤りを抱いたはずだ。諦めて席に戻った団員さんに僕は呟いた。「今の情景は僕にとって、人の振り見て我が振り直せです」と。おばあさんの態度は、同じ視覚障害者としての僕を考え込ませてしまったのだ。団員さんは酷く落胆していた。これをまず障害者側の立場から説明しておきたい。我々見えない者が町を歩く時には、極度に緊張し、極度に集中した状態にある。それだけでかなりのストレスを受け、心にも全く余裕のない状態である。そこに物にぶつかったり、人にぶつかったりすると飛び上がるほどの驚きと恐怖を感じる。それでも恐れに負けまいと続けて前に進む。周りからはそんな風には見えなくても、皆そのような精神状態なのだ。車椅子の人とて、見える分相手の顔や表情が分かるとしても、また違う意味で張り詰めた緊張があるだろう。この極限の精神状態の中、急に大声で声を掛けられたり、急に物も言わず腕を掴まれたりすると、その相手の用件を理解できないまま、思わず緊張が爆発して罵声を浴びせたりするようなことが起こる。僕もよく歩いているときに、大きな男性の手に無言で突然腕を掴まれ引っ張られることがある。「エレベーターがこっちにあるから来い!」ということらしい。おそらく職人さんか労働者の方なのだろう。彼らは人と話したり、声を掛けたりすることが苦手という人がいるだろうし、やむを得ない行動かもしれない。しかしやはり突然の恐怖からついカチッ!と来て、手を振り払うことがある。だから今回のおばあさんの態度も、僕としては理解できなくもないのだ。しかしそれでも、僕はここではっきり言わねばならない。このおばあさんや僕の態度は甘えである。我々はそこを乗り越えなくてはならない。それが障害者としての義務である。何故なら、手を差し伸べる側のそれはほとんどの場合100パーセントの親切であり、我々の抱える障害に対しての敬意、そして共感でさえあるからだ。次に手助けする側の心情について考えてみたい。声を掛けた者が今回のような不快な思いをすると「障害者は難しい、どう接していいか分からない。だからもう関わるまいと誰もが思うのだ」と思うことだろう。声を掛けて下さる方には「極度の緊張状態」というものを理解いただいていればいいと思う。それは普段の健常者にはあり得ない精神状態で町を進むことであり、声を掛ける方も極めて落ち着いて、そして出きるだけ相手の余裕のある時を見計らって声を掛ける。そのような配慮をいただくと問題は起き難いと思われる。「町で私たちが障害者の方にできることは何ですか?」と尋ねられることがある。そんな時僕は「何もせずほったらかしておくということです」と答える。本当に困っていれば障害者の方から声を出して助けを請えばいいのだ。これは我々ができなくてはならないことだ。ホームから落ちて命を落とすのも、誰のせいでもない、自分の責任である。柵を設けてくれなかった鉄道会社の責任でもないし、周りで止めてくれなかった人々のせいでもない。自分の意志で町に出て来た己の責任である。
2013.09.15
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・9,11、水極東による日露戦争で日本に敗退したことも引き金となり、1917年ロシア革命がロシア全土に勃発した。それはニコライ皇帝による長い帝国主義弾圧から立ち上がった人々の革命であった。これは当時の政治事情による当然の発露であり、様々な悲惨な歴史を経て、様々な人々の様々な思想が混在する時代でもあった。そこにはもちろん平和と自由を求める美しい表面の情熱と、裏の利害が存在する。それゆえいくつもの派閥に分かれたり、またくっついたりして、方針を何転しながら組織が変化して行く。そんな中、コミンテルンという一つの派閥が生まれる。これは調べてみると成り立ちがとてもややこしく、どうもはっきりとはしないのだが、1919年の創立時には、元々資本主義とも共産党とも相容れない共産主義を重んじる団体のようであった。しかし後には共産党そのものとなり、何と日本共産党はこのコミンテルン日本支部として1922年に創立されている。コミンテルンの主たる目的は、一つに他の国にも思想を広げ、地球全部を共産主義にすること。二つには労働者が中心となり、富裕層や知識人たちを追い出すか殺害。そして彼らが最初にそのターゲットと定めた三つの国。それは日本・ドイツ・ポーランド。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは、1936年11月25日に日独防共協定を調印した。加えてコミンテルンの目標として、日本を内側から崩壊させるために、中国を利用することも活動内容に組み込まれている。これは以前ここでも述べた、松本という参議院議員がスターリンに呼ばれて、日本をロシア共産党と変革してしまう手下として起用したことと繋がりのあう話ではないだろうか。ここからは僕の妄想である。コミンテルンがやろうとしていたことは、純粋に世界を良くするために行われていた活動とは、どうも思えないということである。まだまだ勉強不足で、彼らの団体を成している思想、人種、目的がはっきりと掴めないのだが、それは戦争という殺し合いとは違う方法で世界を征服しようとする行為にも見える。世界が武力による領地の奪い合いで躍起になっている時に、結わばもっと進んだ頭で世界を統一しようとする活動。共産主義という柵で国々を囲うことができれば、ある意味領地獲得と同様の征服も可能なのかもしれない。彼らの恐ろしいところは、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、各国の知識人、ブルジョワ層に取り込み、内側から彼らを手馴付け骨抜きにする。そしてプロレタリアート層を先導して資本主義を根絶やしにし、結局のところの独裁国家を作る。その反面アメリカ、イギリス・フランスなどの資本主義国ともきっちり連係を取り、まず日本・ドイツ・ポーランドを確実に手中に収めて行く。共産主義が裏返せばファシズムであることを、彼らは熟知していたのかもしれない。コミンテルンがロシアでもなく、アメリカやイギリスでもなく、ユダヤの流れを汲むものたちの活動であろうことは、やはり僕の頭をかすめることだ。当時確かにロシア国内にユダヤ人による革命藩の団体が存在したことは事実であり、日露戦争前に、すでに彼らは日本人に近づこうとしている。コミンテルンは1943年に解散したということになっているが、何のそれは表向きのことだけで、今なお日本は彼らのターゲットとして根気強くその裾を踏まれ続けていると僕は思う。その証拠が、まず1960年代の学生紛争。若者にマルクス主義を浸透させ、プロレタリアートから教育界までの組合を強硬なものとし、多くの反日家を育てた。若者はみな社会主義、共産主義を支持し、日本国にそのイニティアシブの変更を求め続けた。彼らコミンテルンに育てられた日本の若者は、今なお中年、熟年層となり反日家として多く存在する。ここではそれが良いことか悪いことかは論ぜず、コミンテルンの仕事を目で追ってみるということを主眼にしたいのだが、日本の当時の若者は、彼らコミンテルンの世界征服の一端を担わされたということであり、まんまと乗せられ、踊らされたとも言える。彼らコミンテルンのやり方である「人々に気付かれぬよう懐に潜り込んで、その内部からターゲットを骨抜きにし、最後には自分たちの思い通りにする」は、今現在も日本にちゃくちゃくと施されていると僕は想う。彼らは時代に対応し、形を変えて相手の心を掴む術を心得ているので、今や流行らない共産主義という柵にはとっくに見切りをつけ、看板を違うものにかけ替えているはずだ。だからすでにそれはコミンテルンですらないし、彼らの頭脳、能力は我々の想像を超えた聡明なものなのだ。中国・韓国の日本への嫌悪。日本や韓国の教科書の内容。日本と中国に太いパイプで繋がる大きな宗教団体。この辺りが、今の彼らがせっせと作る柵かもしれない。何故彼らが日本・ドイツ・ポーランドをターゲットにするかというと、これら三国のナショナリズムが、彼らの目的に最も合致するからだろう。要するに従順で真面目で、そして騙されやすいのだ。
2013.09.11
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・9、2、月旅順では、児玉源太郎の戦略が功を奏してほぼ日本側優先となったころ、日本からの申し出で数日休戦が実施された。不思議なことにこのころの戦争は休戦というものが存在したのだ。その間は、たいがい戦場の死体を片付ける作業に当てられる。日本軍が日本兵の死体を処理している横で、ロシア軍もロシア兵の死体を片付けている。一人の日本兵が微笑んで近くのロシア兵に敬礼を送ると、向こうも微笑んで敬礼を返して来た。その時そのロシア兵は茶菓を手渡して来たという。その話を乃木が喜んで、茶菓を幾つか記念に欲しいと部屋に持ち帰ったという。その後日本軍は要塞もほぼ歓楽させ、203高地からの攻撃で旅順港停泊のロシア旅順艦隊を滅亡し、ほとんど勝ち目はないと見たロシアのステッセル将軍は降伏を申し出る。要塞の上から砲撃するロシア兵と、下から砲撃する日本兵は、その報告を聞くと攻撃の手を止めた。そこでまた不思議なことは、最初に要塞からロシア兵が飛び出して来て、その辺りで皆踊り始めた。それに日本兵も混じって日露抱き合って踊り、戦いが終わったことを狂気のように喜んだという。またある日本兵は一升瓶を下げて要塞内に登り、ロシア兵と酒盛りを始め、皆酔った勢いで、旅順市内の酒場に日露兵肩を組んで飲みに出掛けたという。これは軍法からいうと違反になるそうな。しかし互いの間でいざこざは一度も起こらなかった。このころ、ロシアには騎士道、日本には武士道がかろうじて残っていて、国を挙げて相手国と戦うという宿命と、個人の友情は別の者と考えられていた。戦争にも礼儀と秩序と敬意が重んじられ、こちらの攻撃で相手の指揮官などが死ねば慰問さえ送られた。日露戦争は、騎士道と武士道の最後の秩序ある戦いだったと言われている。司馬氏はこの項の最後に「これを見ると、本来我々人間は殺し合うことに向いていないのだ」と書き加えている。
2013.09.02
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・9、1、日読み進める「坂の上の雲」では、今ようやく203高地を陥落させたところである。203高地を取り合って、日本とロシアの陸軍が死闘を展開し、それは世界でも類を見ない悲惨さを呈したというのは有名な話だが、読んでみるともちろん203高地を巡っての戦いも悲惨ではあるが、その前の旅順要塞攻撃の方が呆れるほどの地獄である。これらはすべて乃木将軍と伊地知参謀コンビの無能さから、日本人の指揮官が日本人の兵隊を大量に殺略するという悲劇となったと書いてある。これには乃木将軍崇拝説と無能説の相反する研究結果があるようだが、司馬氏は無能説を唱えている。彼ら指揮官はただ「突撃!」と命令を下し、若い男たちを意味のない死に追い詰めた。一度やってだめなら、ネズミでも違う方法を考える。しかしこの野木・伊地知コンビはただただ兵に銃剣だけを持たせて、敵の大砲と地雷に何度でも向かって突撃させた。命令を受けて突撃する若い男たちも、確実に死ぬと分かっていて向かわねばならないところに地獄がある。203高地も含めて、この二人の指揮によって無益に殺された日本兵は、何と6万人という。しかしその乃木希典が何故現在では英雄とされているのか。陸軍総司令官の児玉源太郎が見るに見かねて旅順に出向き、乃木に替わって指揮を取り、何ヶ月も掛かって夥しい兵士を死なせるだけであった戦いを、何と2時間足らずで勝利へと持って行った。なぜ児玉源太郎が乃木の窮地を救ったことは歴史から黙殺されてしまったのか。もちろん児玉自身が乃木の名誉のために自分の功績を自ら消したようだが。司馬氏の記述が本当だとすると、伝えられる歴史とはかなり危ういものだ。さて我々がここから学べることは、組織という団体の中で何時の間にか育つ「システム」というものである。これがいつも村上春樹が危惧する「硬直したシステム」というものだ。僕なりに要約すると、こういうことだろうと思う。誰かが道のない荒地に苦労して道を切り開く。最初に道を切り開いた者は誰からも尊敬される。後進の者は皆何処に向かうのかもはっきりは分からないまま、その道を歩いて進む。道を切り開いた者は何故道を切り開かねばならないかを理解していて、迷いの無い情熱で坂を登る。そして後進の者たちのために、自分たちの迷路の苦労を繰り返さなくてもいいようにマニュアルを残す。後進の者はそのマニュアルを熟知することに心血を注ぐ。そして先輩たちが残したマニュアル通りに進めば間違いはないと思い込んでしまう。そのうちマニュアルが神となり、それを少しでも破るものは罪人とまで罵る。しかしもちろん状況は刻々と変化し、その変化を敏感に察知してそれに対応して行くことが求められるのだが、後進のものは切り開く苦労も喜びも知らぬまま、何を求めているのかも見失い、今持っているものを守ることだけを主眼にして進もうとする。いわゆる「組織の官僚化」である。ここに「硬直したシステム」が生じる。国でも、軍隊でも、会社でも、その他どんな組織でも年月が経てばこの腐敗に陥る。だから国を初め何にでも「誕生、繁栄、衰退、滅亡」が存在する。「日露戦争で、日本がロシアに勝ったのは、いわば両国が四つに組む中で、ロシアが自分から膝を着いて倒れたのだ」と司馬氏は序文で述べている。それは長い年月の中で、人々の心に優越感に満ちた官僚的な硬直したシステムと、自己の出世欲だけが蔓延し、それが組織として化石するからだろう。太平洋戦争のころの日本が丁度これに当たる。
2013.09.01
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