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・3、31、日 武田氏も新しく出した本の宣伝に躍起である。 そんな意地悪な言い方は良くないかもしれない。 彼にとってはそれだけ心血を注いで書いた本なのだろう。 でも確かに「正しいとは何か」というテーマは興味深いものである。 彼の本を読まずして、販売PRをいやらしいと批判するのもフェアではないだろう。 以前大きな会社の経営に成功された年配の知り合いが居た。 バブルを乗り切り、ピンチを乗り切ってこられた彼の経営能力には感服したものだった。 だが彼の行動を見ていると、趣味で関わる団体にも何百万の寄付を行ったり、やらなくてもいいばら撒きをあちこちで行ったりしていた。 そのことによって周りの者、特に団体のオーナーはすっかり平伏してしまい、その底知れぬ財力に恐れを成してしまう訳である。 そして彼は団体内で特別扱いとなり待遇を受ける。 結局それがやりたいのだ。 彼は何を言っても金の前には人は屈せずには居られないことを人生を通して痛感して来ているのだ。 常識を超えた寄付も「これは運営に対する好意です」と言えば、渡す方ももらう方も正当な理由が付く。 そして本人は、金の力で人を跪かせられる自分の力に酔いしれたいのだ。 この資本主義社会においては、それこそが一生の幸せと認識されている。 万人の意識が同じくしてここに常識化している以上、その幸せの定義を無視するのはなかなか難しいことである。 しかしこれが我々の本来の生きる意味のようなものを見失って行く原因であろう。 財力を手に入れるためには何でもやるようになって行く。 武田氏が言うように、よしんば財力を手に入れたとしても、それを果てしなく膨らますことへの欲、失うことへの恐怖にいらいらせねばならないのかもしれない。 でも僕の思うに、富の手に入れ方に幸せ、不幸せの分かれ道があるのではないか。 信念を持った仕事をして、そこで自分の能力が花開いたために結果ついてきた富と、何やら胸を張って公言出来ない方法で手に入れてきた富とでは、違いがあるのではということだ。 自分がやりたいとは思わない仕事でたくさんの給料をもらって生きるのと、情熱を傾けられる仕事をして貧乏生活をするのとでも、僕はやはり後者を選ぶだろう。 「正しいがいったい何の役に立つ、正しいを頑固に守り続けて生活が豊かになるか? ボーナスが増えるか?何の心配のない老後が約束されるか?」と誰もが憤ることだろう。 そう、人からバカなやつだと言われながら何故に「正しい」を貫かねばらない。 それは自分の中だけのポリシーであり、死ぬ時に満足を得るだけの施ししか与えられない。 それでもそれを自分のために守り続けるかだ。 すべての国が核を持ち、兵と軍備を整えて「いつでも」という空気が世界を覆っても、核も兵も持たず殺し合う間違いに何処までも強い意志を持ち続け、他国から蜂の巣にされても満足に微笑んで死んで行く。 それと同じぐらい勇気と意志が必要とされる殺伐とした現代なのだ。 ーーーーーーーー 「正しい」とは何か?時事編(1) フェアー 「tadashii_okanenyusutdyno.115-(10:28).mp3」をダウンロード 欧米の言葉で「フェアー」、日本では明治天皇の「万機公論に決すべし」。 今日(2xxx-xxx-xxxxx)の報道では、そんな記事にあふれていた。原子力委員会の委員が自分 のNPOに電力会社のお金をたっぷりもらっていたこと、ある大学が厚労省の研究費を 秘匿していたこと、全柔連が何もやらずに補助金だけをもらっていたこと、それにア メリカで日本の自動車部品メーカーがカルテルであげられたこと、の4つだ。 原子力委員だから電力からお金をもらっても法律には違反しない。厚労省からの研究 費をどのように発表するのか明確に決まっていない可能性もある。柔道の指導などの 報酬はもともとそれほど報告などの必要は無かったのだろう。そして、日本では企業 の談合で消費者により高いものを交わせる談合は普通のことだった。 でも、それはすでに明治時代に否定されている。それが「万機公論に決すべし」とい う明治天皇の五箇条のご誓文である。すべてはオープンにして、そこで公明正大に戦 おうでは無いか、人間だから心の中に闇はあるけれど、それを抑えて日本のために「 万機公論に決すべし」ということだ。 人間は自分で額に汗して働き(額に汗するというのは肉体労働だけではない)、正当 にお金をもらい、それを正しく使う。決して後ろめたいお金を他人からもらわず、も らったお金はつねに公開できる・・・そう言う「正しい人生」を送ることが幸福につ ながるという確信がいる。 もし、自分に力があれば稼ぎは多くなるだろうし、もしそれほどでも無ければ貧乏に 甘んじることもある。でもそれはそれでよい。ただ、一つだけ望みたいことは「フェ アーである」ということだ。 私は「誰々の子どもだから・・・」というのは嫌いだ。なぜ嫌いかというと、「誰々 の子ども」だけなら良いけれど、有名な親を持たない子どもはそれだけハンディを負 うことになる。だから、フェアーでは無い。かならず競争はフェアーに、オープンに したいものだ。 ところが不思議なことに、力があったり恵まれたりしている人はとかく「ズル」をす る。ズルをする必要の無い人ほどズルをする。江戸末期、日本に来たスイスの遣日使 節団長アンベールは日本の印象について、 「若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっている のを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きて いるのを見た。」 と書いている。 人間は不思議なものだ。「大商人は莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中」 であり、「人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きている」。 幸せは普通の人にあり、大商人は不満と恐怖のなかで生涯を終えるだろう。 「正しい」ということは人に幸福を与える。 (平成25年3月25日) 武田邦彦
2013.03.31
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・3、25、月 男が女に気に入られるために様々に体つき、声色、所作、服装など流行に沿って変えて行くのは、自然の法則に適っているということか。 しかし女性から見て本当の孔雀の羽は、その生き方、仕事への情熱、窮地に立たされた時の腹の据え方、リーダーシップなどであるはずだ。 なるほど今日女性はかわいい服、ニャンニャン声、ミニスカート、女らしい髪型など、孔雀の羽で男性を引き付け、適齢期までに何とか相手をゲットすることに一所懸命である。 でもやはり女性としての筋の通った考え方、ポリシー、独自の生き方などこそが孔雀の羽であるはずだ。 それを追求して行くと「人間に惚れる」ということがなくなって来た、もしくは薄くなって来たとも言えるかもしれない。 「人間に惚れる」という現象は、そうインスタントに短時間に起こるものではないはずだ。 惚れられる人格も惚れる度量も、懐かしいかつての日本人にあった言い尽くせぬ社会の成り立ちであった。 「窮地に立たされた時」というのがポイントである。 平穏な日常では誰でも他人に優しくできる。 自分が、もしくは自分と相手が窮地に立った時、男はその逆境に耐えられるだけの粘りと根気と頭脳を持ち、また絶望の中に居て、なおさら相手を励まし信じる勇気を備えた女性。 これらが男女関係のうちで最も大事な孔雀の羽であると僕は考える。 ーーーーーー 女性の幸福な人生(4) 孔雀の羽 「danjo_kujakutdyno.113-(10:33).mp3」をダウンロード 孔雀の羽は実に美しいものですし、一枚の羽だけでも見事は色彩とデザインで作られ ています。なぜ、孔雀の羽はあれほど美しいのでしょうか? 言うまでも無く、美しい羽を持っているのは孔雀のオスだけでメスは見栄えの悪い何 の特徴もない鳥です.読者の方も「孔雀のメス」といってもすぐには思い出さないで しょう。 動物の世界ではオシドリでもライオンでも、立派で美しいのは常にオスで、メスはな んとなくかすんでいます。ここに「生物の秘密、オスとメスの役割」が見事に現れて いるのです。 人間でも基本的には同じなのですが、結婚というのは常にオスが申し込み、メスが同 意するというステップを踏みます。「そんなのは男女同権じゃ無い」という声が聞こ えそうですが、実は「選択権はメスにある」ということなのです。 動物で力の強い方はオスですが、オスはメスに「求愛」をするだけで、「決定権」は メスにあります。オスがいくら頑張ってもメスがOKしてくれなければ結婚できません 。どんなに力の強いオスでもメスに強制をすることはゼッタイにありません。 そこで、オスは「メスにOKしてもらうために」最大限の努力をします。昆虫の一種で は「豪華なプレゼント方式」を採るものもあり、死ぬような努力をしてメスが好きな ものを獲得し、それをメスに渡してメスがプレゼントに気を取られている間にすばや くセックスするという不届き者もいます。 さらに、メスにプレゼントをして、メスが気に入っている間にセックスをして、また 素早くそのプレゼントを取り上げて他のメスの所にいくというさらに不届きもののオ スもいます。 孔雀のメスは「羽が見事なオス」が言い寄ってこないとOKしません。その結果、オス はあれほどキレイな羽を持つようになったのです。つまり、動物は「メスがOKしてく れないと」ということでオスの体の形や行動が変わるのです。まさに「メスの好みが オスの体と性質を決める」のが事実です。 オスは「行動派」であり、メスは「コントロール派」です。メスは自ら積極的な行動 もせず、単にオスが来たら「イヤっ!」と言えば良く、オスはメスが「イイワ」と言 うまで羽を綺麗にしたり、餌を探してきたりするのですから哀しい存在と言えば言え そうです。 「オスはメスが作る」という動物の原則は人間にも当てはまり、「女が男を作る」と いうのが正解です。戦争が続いた時でも女性は戦争に行きません。「あなた、頑張っ てね」と言うと、男性は勇敢になり、戦争で突撃して死にます。それが1000年近く続 いてきたというワケです。 ところで、先回、お話をしたように現代の男性は兵役がなくなり、戦争で死ぬことも できず、加えて仕事で腕力を使う機会もなくなりました。男はブラブラし始めました 。それを見て、女性は「台所の仕事をして、子どもを見て」と言っています。それが 現在です。 つまり、戦争がなくなり女性としては、それまでの戦略の変更が必要になったのです が、そこで選択の道が二つありました。 1)自分が男性になる(孔雀の羽を獲得する)、 2)女性のまま男性のコントロールを変える。 なにしろ、戦争が終わってあたりを見渡すと、あまりの惨状と変化で女性の間で「こ れからどうするか?」を議論する十分な時間と準備はありませんでした。そこでとり あえず、 a)うっかり1000年間、戦争をしていたら男性のコントロールにミスがあって、余り に女性に地位が低くなっていた、 b)欧米ではどうも女性は男性になるのが良いと言っている、 ということになり、 その結果、1)、つまり「自分が男性になる」という方を選択したのです。 もちろん、すぐ孔雀の羽が生えるはずも無く、また孔雀のオスでも自分の意思で豪華 な羽が生えてきたのではなく、メスのコントロールで作ったものなので、それをメス が自分で作ろうとしたのですから、大変な苦労が始まったのです。 さて、今、戦後の試みが一段落して、女性は「自ら羽をつけるべきか」と、「男性の コントロール方式を変えた方が良いのでは無いか」の岐路に立っているように見えま す。女性が「自ら羽をつける」というのは人類の歴史でも初めてのことですし、また 動物界でも珍しい試みですから、男性がお母さんの胎内にいるときにテストステロン を浴びるのに対して、女性はそれに相当するホルモンをどこで受け取るかなど多くの 課題が残っています。 でも、女性が自ら羽をつけるのは画期的なことかも知れません。生物の将来に向かっ て大きな第一歩になるのか、それとも失敗に終わるのか、そこが難しいところです。 (平成25年3月22日) 武田邦彦
2013.03.25
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・3、23、土 我々は自分たちの人生において「正しい」とはなにか?を常に自分の頭で考えることができなければならないと常々僕も思う。 ここで述べられているのは科学的環境の問題についてだが、我々はその日常の中で自らの行動にそれを問わねばならない。 しかし「正しい」という観点を社会や他人の定義することに合わせたり流されたりしては意味がない。 「正しい」の定義は常に自分の中にだけある。 よって物を盗むことを「正しい」とする個人も存在することになる。 自分にとっての「正しい」を冴えた頭で定めて行くのはとてもとても難しい。 それはすでに哲学でもある。 しかしまた人間社会の中で生きる限り、他人に理解される「正しい」もどうしても必要となって来る。 では我々はオギャーとこの世に産まれ、一体何処で自分なりの「正しい」に行き着く思考を身に付ける、もしくは植え付けられるのか? 家庭、教育、信仰などの自分を取り巻く環境一般であろう。 そんな様々な条件の中でも、我々は兎に角「自分の頭でものを考える」という訓練を積まねばならない。 まず一つ下記の武田氏の例だ。 今我々は中国から飛んで来る黄砂、PM、花粉に苦しんでいる。 何故そう思うかというと、テレビ報道や他のマスコミでそう言っているからではないのか。 黄砂が本当に我々の体に悪い影響を及ぼしているのか? PMは本当に悪い影響を及ぼすほど飛んで来ているのか? 武田氏はこれらに疑問を投げかけている。 『{事実→整理→意見}という順序が必要だ。決して{好き嫌い→意見→事実}にならないように注意しなければならない』と言う。 しかしその思考順序は訓練になるが、武田氏の疑問が本来的を得ているのか? 実際我々の気管支の中では非常なアレルギーを起こしてはいないのか? こういった環境の問題は、測定する術も、科学的知識も持たない我々にとって「何が正しいか」を考える術さえない。 しかしすべてにおいて自分の頭で考えようとする訓練にはなる。 そして自分の頭で考えようとすれば、この日本では必ず疎まれることになる。 アンリ・シャルパンティエという洋菓子のメーカーが僕は嫌いである。 僕自身の舌が悪いバター、悪い砂糖、儲けだけが目当てのポリシーのない営業を感じ取るからだ。 もちろんこれは僕自身の感じることで、それは間違いかもしれない。 しかし皆口を揃えて「美味しい美味しい」とそれを食べる。 でも有名なメーカーの名前に舌自体が機能せずに、思い込みだけが機能しているということはないだろうか。 武田氏の理論で言えば「中国は嫌いだから、黄砂もPMも悪い」と同じだ。 人に惑わず、社会に惑わず、アルプスのおんじを目指す。 ーーーーーーー 「正しい」とはなにか?横糸編(1) 黄砂とPM 「tadashii01kousatdyno.94-(9:14).mp3」をダウンロード 3月に小学館から「「正しい」とはなにか?」という本を出しました。多くの方が「 何が正しいか」を考える時に、高校時代に勉強したソクラテス、カントなどを思い浮 かべるかも知れません。でも、それだけでは日常的に起こることについて「正しいか どうか?」を自分で判断するのはかなり難しいのです。 たとえば、消費税アップに伴って自民党は「消費税アップ還元セール」のようなもの をスーパーなどでやるのを禁止する法律を作ろうとしています。私のように「日本は 自由主義国家」と思っている人にとっては、「なぜ還元セールが悪いの?」という気 がしますが、自民党は「悪い」と思っているらしいのです。 また家族で親子げんかや夫婦げんかが絶えない人もいますが、「なぜ、ケンカするの ?」ということをあまりしっかりとは考えていない人もおられます。私は大学で15年 ぐらい「正しいとはなにか」という講義をして来ましたが、良く学生が「先生の講義 を早く聴いておけば良かった。ケンカをしなくてもすんだのに」とレポートに書きま す。 そこで、本の出すのに合わせて、本は「ある考えに基づく縦糸」のようなものですか ら、「ガリレオ放談」(小学館のブックピープル)と「ブログ」で横糸を書きたいと 思います。第一回は黄砂とPMです。 ・・・・・・・・・ 黄砂は数1000万年前から絶えず大陸から日本列島に降ってくるもので、「自然現象」 だ。一方、PMは石炭を焚いたりディーゼル発電などからでる人工的な物質です。黄砂 が無機質、PMは有機物なので、水と油のような違いがあり、まったく別もので、また 「黄砂にPMがくっつく」などということはない。 中国の砂漠などの大地から黄砂が発生するが。黄砂は太古の昔から日本に飛んできて 、日本の大地を作り、食物を育て海を豊かにしてきた.黄砂は弱アルカリ性なので、 とても良いものだ。 ところが、役所や最近の報道はややいい加減なので、黄砂とPMを両方「大気汚染物質 」として一緒に測定したり、記事に書いたりしている。もともと、アメリカで大気中 に浮遊する微小物質がPM10とかPM2.5 のような指標で示すことが決まったときには「 砂塵のような天然物を除く人工物」となっていたが、日本の大気汚染法令では天然物 を除いていない。 黄砂は粒径が数ミクロン(4ミクロンぐらいが中心)だから、PM10にもPM2.5 にも入 る。PM2.5は2.5ミクロン以下と報道されることもあるが、2.5ミクロン以下の粒子が5 0%ある粒子群を言っているので、4ミクロンの黄砂も入る。 ・・・・・・・・・ このように現在のPMの発表や規制値は「いい加減な定義、測定、発表」ということで 行われ、それを元にして「中国はケシカラン!」と非難している人がいるが、このよ うなことは「事実を曲げて相手を非難する」ということになるので、「南京事件で中 国が事実に異なることを言っている」というのと同じレベルになってしまう。 またPMの最初の事件は1953年12月のロンドンスモッグだが、ロンドンスモッグも含め て何回かあったが、隣の市や隣の国に人的な影響があったことはない。その意味では 中国のPMが日本に影響を及ぼすというためには歴史的な事実、流体計算、気象解析な どを十分に行う必要がある。 第一、PMの報道がほとんど東京などの都市に限定されていて、中国からのPMと分離す るのは詳細な分析をするか、もしくは日本の地方の測定値を公表する必要がある。 ・・・・・・・・・ この例は「正しさ」を考える上での前提条件のような初歩的な例で、まずは事実を正 確に整理しなければならないことを示している.「どれが正しいか」、つまり自分の 意見を定めるためには、{事実→整理→意見}という順序が必要だ。決して{好き嫌 い→意見→事実}にならないように注意しなければならない。 (平成25年3月17日) 武田邦彦
2013.03.23
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・3、19、火 また日記が一週間書かれずに過ぎてしまった。 忙しくて書かなかったというよりは、書きたいと思えることが出てこなかったのだ。 でもちょっとこの辺りで何か掲載しないと「また病気か?」と皆様に余計なご心配をお掛けしてはいけないので、とりあえずパソコンの前に座ったという具合である。 最近僕の頭の中で検分されたことのうち、ある切っ掛けから我々が服を着て生活していることの本来の滑稽さについてでも書いてみよう。 今太宰の作品の合間に、箸休めとしてまた漱石の「吾輩は猫である」のページを適当に途中から読んでいる。 この本はどちらにしても一回ずつの連載で雑誌に掲載された娯楽のようなものだから、一回ずつの項が一応完結したよもや話になっているので、めちゃくちゃにページを開いてその項を読んでもなんら差し支えない。 その中に猫は一年中毛衣を着て生活しているが、暑くても脱ぐことはできない。 人間はと言えば本来の肌の上に何枚も布を重ねて、その不自然な姿で公然と道を歩いている。 それはいいが、服というものを着ない他者を著しく蔑む傾向がある。 本来の人間の姿である真っ裸で道を歩いてもみろ、途端に犯罪者扱いである。 猫をはじめ、服を着ない動物おもまた軽蔑の対象となる。 寒いから何か身に纏うという行為が、今では知能の発達した、あるいは賢者の象徴であるがごとく構えている。 例えばこれから温暖化が進み20度気温が上がっても、人間は裸で生活することは出来ないのではないだろうか。 芥川龍之介の「河童」の中にも、何も着ないで性器を丸出しにして生活している河童に「君たちはパンツも履かずにいることをおかしいとは思わないのかね?」と河童世界に迷い込んだ人間が尋ねる。 するとその河童はじっとその男の顔を不思議そうに眺めて「僕は君たちが性器を隠していることこそがおかしくてたまらない」と鼻眼鏡がずり落ちるぐらい笑い転げる。 テレビに映るアマゾンの奥深くに生活する部族などを見ると、男女共にほとんど裸体である。 その場合彼等女性の裸体をそこに見ても、何らエロティシズムは感じない。 また別の観点から、僕がドイツに住んでいたころ度々近くのサウナに出向いた。 驚くべきことに、ドイツではサウナは混浴なのだ。 もちろんドイツだけではない訳だが。 それで、そう広くないサウナで、男女が真っ裸で世間話などする。 規則として自分で持ち込んだ大きなバスタオルは、汗が座る部分に落ちないように敷いてその上に座る習わしだから、手には何も持っていないことになる。 誰もどこも隠さないで、外国人である僕などはよく「何処から来ているの?」などと老人やお姉さんなどに話しかけられてしばらく世間話をする。 最初はそれはどぎまぎしたものだが、すぐに慣れてしまって、そうなると隣が若いお姉さんでも何も思わなくなってしまう。 産婦人科の医師が毎日の作業の中で、女性の性器を見ても何も思わなくなるのと一般である。 このサウナ内の現象は、僕にはとても不思議なことであった。 ということは、服を着るようになってから初めてエロティシズムというものは発達したのかもしれないとも思われる。 それでこの話の結論だが、我々が裸を人に見られること、着替えているところすら見られることを嫌う慣わしはどこから来たものかということである。 本当は醜悪で、何も理解していなくて、人を犠牲にしても自分だけは助かりたいというような臆面を隠して、決して露見しないように生きる我々の本性と呼応するのかもしれない。
2013.03.19
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・3、10、日 パート2 今とうとう太宰 治に取り掛かっている。 明治の作家のものを好む僕が、今の今まで太宰に手を付けなかったのには理由がある 。 僕が20歳のころ、女友達と映画を観に行った。 何を見ようかと悩んでいると「太宰治のことを作品にしたものがあるから、それが観たい」と彼女が希望したので、我々は映画館を探して入った。 客はまばらで、男ばかり。 女性は僕の友達だけ。 かわいいワンピースの彼女は場違いという感じで、男たちは皆彼女をじろじろ見ている。 何だか変だなと思いながら映画が始まると、セックスシーンばかり。 それは手の込んだポルノだったのだ。 しかしそんなものに太宰の一生を題材として使うとはけしからん監督である。 でもその時たしか最後まで映画を観たと思う。 でも太宰がどんな人で、どんな人生を送ったか何一つ分からなかった。 何しろ暗い映像と、太宰役がものの言わない苦悩に満ちた人間だったことだけが印象として残った。 その記憶があって、どうも太宰に手を付ける気が起こらなかったのだ。 今回最初に「津軽」という話から読んだ。 これは彼が故郷である津軽を始めて旅行して回る随筆のようなもので、驚いたのが太宰という人は大変にひょうきんで、語り口は軽快で面白く、電車の中でまた何度も噴出した。 ちょっと漱石のひょうきんさとも似ているかもしれない。 親しみ深さが湧いて、「惜別」「御伽草子」「灯篭」なども読み進んだ。 これらの作品でも、僕の長年抱いていた太宰への印象は180度変化した。 ちょっと太宰の語り口を真似して、僕自身のことを短い随筆にしてみる試みを図ってみた。 何しろ語彙の乏しさから全く真似にならないようだが、とりあえず書いてみる。 ●たなごころ 見えないということは全くいけない。 様々にいけない理由はあるが、人間としての品位さえ疑われるようなことになるからいけない。 漱石の「夢十夜」の中に、父親の背中に背負われた目クラの子供が「目クラはばかにされていけない、親にまでばかにされていけない」というセリフがある。 まあ確かにばかにされがちであるのは確かだが、実際よりも品位を落とされて見られることは、また別の口惜しさがある。 誰かが僕と話すために横に腰を下ろす。 普通なら目を見て、顔色や表情を見て、所作などから互いの友情や好意や憎悪を感じる。 見詰め合えば友情も愛もそこに読み取ることができるに違いない。 ところがこちらと来たら全くそのコミニュケーションは絶たれたものである。 じゃあどうするかというと、相手の声の音色や使う単語、言葉と言葉の間の空白に含まれた感情などで図ることになる。 それから好意を相手に感じ出すと、人はもっと目の中を覗き込み、微妙な笑みを交わすだろう。 我々はどうするか。 自然に手が伸びて、隣に座を占める相手の膝をぽんと叩いたり、肩に手を置いたりしてその好意を示したり、体温を感じたりしたくなる。 これはどうなのだろう。 見えないものからすると、当然の、またいとおしむべき行為であると思うのだが。 盲学校在学中、たしかあれは高等部卒業の時に、卒業式で校長先生が我々への送る言葉として与えて下さった訓示であると記憶している。 校長先生は左手の掌(たなごころ)を高く掲げて「いいか、これはお前たちの目だ。 この目で見たい、知りたいと思うものを何でも触って感じろ。 恐れてはななない。 貪欲に知りたいことを求め、感じたいものを追い続ける心を持ち続けるんだ」と述べられた。 僕はその言葉に痛く感動した。 しかし現実の社会では膝や肩をぽんと叩かれる女性からは「もう茶木さんには触られまくりですよ」や「茶木さんの手癖には馴れないと」などと悪口(あっこう)をいただく。 僕もその感想を受けて自らに問いかけてみる。 「僕は隣に座る女性に対して、新地のバーに座る鼻の下を伸ばした金持ちのおっさんと同じ心持でいるのか? ちょっとでも隙を見て女性に触りたいと思っているのか? その自問自答には否と答えが出た。 その証拠に、よーく自分の行動を観察していると、横に座るのが女であろうが、男であろうが、犬であろうが、どれでもやはり触っているのである。 家にいる犬がうっかり僕の横に座ろうものなら、頭の上から尻尾の先まで弄繰り回されて、いつも少々迷惑の呈である。 この間もふと気が付くと、70代男性の膝をぼんぼん叩いて話しに夢中になっていた。 「分かった分かった、茶木め、自分の行動に上場なる理論を関与して、女性を触ることまで正当化たらしむるつもりか」と思われることだろう。 決して社会的不条理を正当化しようとしているのではない。 ただちょっと大目に見て欲しいと願っているのである。 見えない者の他人へのコミニュケーション方法として、いや、もうよそう。 客観的に見れば、セクハラおじさんである品位をいかにせんともし難い。 いわんやこの問題こそが我々見えぬものの社会参加、自立支援の眼前に横たわるるべき課題である。
2013.03.10
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・3、10、日 さて、まあこれでテレビに映る北極南極の映像がトリックであり、実際の現地の状況が報道とは全く違うということが分かった。 1、南極の氷がざーざー解けている映像 南極では、氷が生まれているところと、解けているところがもともとある。 だから年中氷の量は変わらずにいる訳である。 ただどういう理論で解ける部分があるのかは説明がないので分からない。 カメラはその解けている部分だけを映して「ほら南極では温暖化でどんどん氷が解け、海の水面が上昇しています」と言っている。 これは明らかにトリックで、産婦人科を映さず、火葬場だけを映しているのと同じと言う。 実際には南極の温度は変わらず、氷の量も全く変わっていない。 ICPPの報告書類で「南極の気温が上がれば氷の量は増える」とされたものを、日本で「気温が上がれば氷は減る」とわざと誤訳して発表した。 南極はマイナス40度、その気温が上がっても精々5度ほど。 氷は0度を上回らなければもちろん解けはしない。 もし地球の温度が40度上がれば、我々人間は生きてはいられない。 2、アルプスの氷 アルプスの氷が解けて山の上の方だけになり、老人がそれを見上げて「こんなことはわしの人生で初めての情景だ」と悲しそうに山を見つめている。 古生代と中生代の間に第一氷河時代があり、それから恐竜、ネアンテルタール人、アダムとイブと進んで来た。 そして今は第二氷河時代の中にあり、1000年後には全球凍結を迎えるだろうと言われている。 第一から第二の氷河時代までは大体2億年ぐらいだろうか(計算は間違っているかもしれない)。 その間にも小さな暖かい時期、寒い時期を繰り返して来た。 この寒暖の差は、太陽のエネルギーの勢いがちょっと強まったり弱まったり、また地軸の変動などで起こる自然なことだそうだ。 この周期は500年単位だそうで、日本でも500年前には国全体の川が一年中凍りつくような現象があったとか。 そんな小さな気温の上がり下がりを繰り返しながら、恐竜時代のような暖かい(今よりも20度は暖かい)から氷河時代を行ったり来たりしているということだろう。 今は氷河時代の中のそんな小さな気温変化の暖かいところにいて、まあそれを温暖化と呼べないこともないが、そのせいでアルプスの氷も解け、以前は山の下まであった氷と雪が今は上だけになっている。 でもこれは長い歴史の中で何度も繰り返された現象で、何も悲しむべきことでもないらしい。 3、北極の氷が解け、白熊が暑がっている 今は人工衛星からの映像で誰でもすぐに確認することができるそうだが、北極の氷も全くその面積は変わっていない。 氷の厚さは少々薄くなっている可能性があるということだが、それも自然なことで気にする必要はない。 テレビの映像でよく見るがりがりに痩せて辺りを徘徊する白熊も、べつに氷が解けて食べるものがなくなってのことではなく、魚の群れがやって来ないなどの理由で一時的に食べることに窮烏していることのようだ。 さてこれらの映像のトリックで輩は何をしようとしているか。 環境省が「環境税」なるものを制定して、予算を何処かに持ち去るためである。 これはアメリカが最初に行った詐欺で、それをアメリカの映像をそのまま使って日本でも同様の詐欺を行っているのである。 しかしここで大きな問題は、小学生を混乱に導き、嘘を植え込むことになることだと武田氏は憤りを露にする。 全くだと僕も思う。 予算狙いでこのような大きな嘘を着く方法は、おそらくアメリカ人ではなく、その後ろにいる別の人種ではないかと僕は睨んでいる。 世界に抜きに出たその知能と悪知恵を、アメリカが利用しないはずがない。 そのことをすでにヒットラーが知っていたとすれば。 ーーーーーーーー 集中講演録・地球温暖化(第五話) 「syutyu05hokkyokutdyno.83-(14:00).mp3」をダウンロード 最終回は、「地球温暖化」という「科学」に対して、小学校の理科で教える内容に反 するようなことが報道でくり返されたのですが、その具体的な例を北極と南極の現象 で解説します。 [Bandicam_2xxx-xxx-xxxxx_xxx-xxx-xxxxx。] 科学技術立国とか教育の独立性という概念はすでに日本にはないように思いますし、 また表現の自由がとんでもない方向に進んでしまっているという現状もその原因をジ ックリ考える必要があると思います。 (平成25年2月24日) 武田邦彦
2013.03.10
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・3、4、月 一歩外に出ればとても良い人手、家に帰れば妻や家族に暴力をふるって暴れるという 男が以前は多くいた。 今もおそらくあるところでは多いのかもしれない。 何故男がそうなるか、僕なりに考えを巡らせ、同じ男として何とかその心の内を理解 してみようとした。 昔は戦争があり、男は男らしく、勇気と開所と度量を有するものであると育てられた 。 もちろん母親からもそのような男こそが男であると諭された。 しかし実際は気が小さく、稼ぎもなく、名誉、地位も手に入らない。 戦争がないから、男らしく国民や家族のために、国のために死ぬことさえもできない 。 なのに家の中で威厳を保つ昔からの習慣だけが残っていた。 妻に向かって暴力を奮うことでのみ、自分の中の、また親から植え付けられた男象を 満たそうとする。 そこには社会の中での自信のなさ、プライドを持つチャンスさえ手に入れられないジ レンマが根源にある。 誰もが認める威厳、皆に一目置かれる人格が欲しい。 だが自分には一生そのような自信を手に入れることはできない。 また育った環境の中で、その自信を殺ぎ取られて大人になったという例も多いようだ 。 親から暴力を受け続ける。 自分は殴られ蹴られ続ける、価値のない人間なのだと思い込まされてしまう。 深い深い傷を抱えて大人になり、手を伸ばしても指先に触ることもない自信を求めて やり返してこない力の弱い女性に暴力を向け続ける。 そこから自分の力で這い上がって来るものは皆無に等しいかもしれない。 さて今の男たち。 何をプライドとし、何に向かって命を掛けるか。 敵を殺すことだけにその答えを求めるのは、余りにも幼稚で無学である。 だが一動物である我々人間も、結局他の動物が自然に取っている行動から逸脱するこ となど無理なのかもしれない。 平和な今、男たちが命を掛け、女たちはそんな男たちに畏敬の念を持つことに幸せを 感じ、男たちも自分の欲の中で女性をいとおしむというようなことは望めなくなって 来ているのだろう。 これが国の衰退に繋がる現象とは誰も考えないかもしれない。 ーーーーーーー 女性の幸福な人生(2) 出産と徴兵 「joseikoufukuheiekitdyno.67-(10:30).mp3」をダウンロード 社会や国家に対する女性の最大の任務は「2人の子どもを産むこと」でした。昔から 国の力は「人の数」でもあり、夫婦2人で2人の子どもを産んでくれないと人口が減 少するからです。国は基本的には国が衰退することを望まないからです。 そこで、女性は子どもを2人産むのですが、ということは産前産後で、10月10日 の2倍かそれより少し多い時間の自由を失うことになります。この世は男女でできて いますから、女性が1年半から2年の時間を費やして国家のために任務を果たすので すから、それに応じて男性も人生の時間を国家に捧げなければなりません. それが男性の「1年半から2年の兵役」になりました.つまり、おおよそ25才まで に女性は二人の子どもを産み、男性は兵役を終えてそれぞれ国家に対する最低の任務 を果たします. 25才から50才までの25年間、女性は子どもを育て家庭を守り、掃除、洗濯をし て子どもを育て、男性は戦場にでて命を捧げます.個人の人生や幸福はもちろん大切 ですし、国家の安全がもっとも大切だからです. そして50才を過ぎると、女性は娘がまた2人の子どもを産んでいますから安心して 人生を終えることができ、男性は戦場で死に、あるいは傷つき、あるいは戦友を弔い ながら人生に終止符を打ちます. ところが寿命が延びて女性は50才以後、つまり閉経後の人生が長くなり、男性も定 年後の時間が多くなりました.この問題はとても大きいので別の機会に譲るとして、 まずは戦争があった時代の男女の役割分担を知ることは、現代の男女の問題を理解す るのにとても大切なことです。 戦争が終わり平和が訪れ、男性は兵役も戦場も無くなりました.その勢いがそのまま 続いていたのが、戦後の高度成長からバブルまでの時代で、戦場はそのまま職場とな り、帝国は日本株式会社となって企業戦士が誕生したのです. そして今、男性は企業戦士でもなくなり、すっかり「存在意義」を失ったのです.現 代の女性問題は男性の価値の喪失と深く関係しています.第一回のこのシリーズに「 現代女性の問題」を5つ示しましたが、実は男性の深い悩みがその裏にあって女性を 苦しませているのです. つまり現代の女性問題が根深いのは、女性が子どもを産み、仕事をするという相矛盾 したことをするようになったからばかりでは無く、男性の価値と50才以後の人生の 二つの矛盾が絡み合っているからです.そのことを男性はうすうすは気がついている のですが、プライドもあり黙っているので表面化していないのです。 だから女性が幸福になるためには、男性の問題を解決する必要がありますが、男性は 特に困っていないので解決に消極的で、女性は女性の問題としてとらえているので、 苦しむというのが真実の姿なのです。 (平成25年2月18日) 武田邦彦
2013.03.04
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