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・4、30、火僕は何だか国の詐欺ばかり暴露するために書いているようだが、いろいろ調べていると、本当に国の打ち出して来る呼びかけのほとんどが、彼等の利益を目論んだ運動ばかりであることに愕然とするのだ。特に日本国民が大好きな「もったいない」「節約」「物を大事に」というような精神を逆手に取った政策で国民を動かし、我々には分からない複雑な仕組みで利益を手にする。例えば下記の武田氏の説明にも大いに憤慨するものである。何時の間にかやらなくなって、そのことに疑問も抱かない我々でもあるが、以前使った後の牛乳パックを綺麗に洗って、回収ボックスに入れたものだ。ペットボトルも集めて回収車が回収して回った。武田氏が指摘するように、なるほど確かにそのリサイクル資源を再び製品にするためのエネルギーがどれほど必要かまでは考えが及ばなかった。元の製品を作る何倍も石油が必要となれば、何のためにリサイクルしているか分からない。ここが武田氏が以前から訴えている「ゴミを減らせば国が衰退する」というところに繋がるのだろう。家庭からでるゴミ(金属など不燃焼物以外)は全部つべこべ言わずに焼けばいい訳で、実際それが可能であるようだ。環境省がリサイクルを推し進めるのは、もちろん天下り団体を作るためである。官僚が政府を思いのままに動かし、彼等によって国の予算が見る見るうちに食い荒らされて行く。そんなことが行われている一方、税金は年々上げられて行く。我々は官僚の遊んだ後始末と、これからも変わらないお小遣いを約束するために利用され続けているのだ。もちろん国という船が前に進むためには、頭脳明晰な官僚がいてこそである。しかし今のまま彼等が国を食い物にし続けて行けば、必ず国は衰退し続けるだろう。国の衰退は、これまた戦争への道であると僕は考えている。他国から蜂の巣にされる原因だし、それを防ぐために核保有とか軍備強化ということになり、今までの日本がそうであったように、景気を上げるために戦争を始めるような考えに及ぶのだ。となると、リサイクルが国の不幸への道とも言えるかもしれない。ーーーーーーー集中講義録・エネルギー資源を理解する(6) 「物がある」と「資源がある」の違い「energy_recycletdyno.156-(8:50).mp3」をダウンロードリサイクルは資源を浪費しますが、多くの人が「リサイクルは資源の節約になる」と考えたのは、「物」と「資源」の区別をしなかったためと思います。目の前に使った空の「ペットボトル」や「牛乳パック」があるとします。普通の人はそれが「まだ使える物」とか「資源」では無いかと思うのはある意味で仕方が無いと思います。「資源とは何か」というのを私たち資源学者が教えるのは、大学の工学部の資源関係の学生に対してで、一般的には「資源とは何か」など普段の生活では関係がないからです。それを逆手にとって環境省と御用学者が「ゴミも資源になる」等と言い、可哀想にダマされた小学生が「ゴミも分別すれば資源」などという標語を作らされたのは実に無残なことです。小学生を騙すのですから、かなり悪辣な大人です。・・・・・・・・・資源とは「その資源を回収するのに、回収される資源以下の価値の資源を投入して回収できるものを言う」ということです。目の前のペットボトルは確かに「物」ですが、それが「資源」というためには、「ペットボトルからペットボトルができた」というのでは資源では無く、「石油から新たに作るペットボトルと、市中から回収したペットボトルのどちらが石油などの資源を使わないか」によって決まります。市中から回収したペットボトルは、新しく石油から作るペットボトルに対して最低でも3.5倍の石油を使いますから、「物」であっても「資源」ではありません。リサイクルを始めた頃、「リサイクルしてはいけない」という本に私は「東京湾に浮かぶ油が石油だといっても、それを回収しても石油は採れない」と言っていました。海に薄く浮いている油を回収するためにその100倍以上の船の燃料を使うからです。もし、環境省や御用学者が本当に環境のことを考え、誠実だったら、リサイクルを始める時に国民に懇切丁寧に「資源とは何か、これから私たちはどのような知識が必要か」を説明して、それに合致するもの(鉄くず、アルミ、貴金属、使用済みの紙の約20%など)をリサイクルするべきでした。そしてそれらはすでに「零細企業」によってリサイクルされていたのに、それを「御用業者」に統一して利権をむさぼったのがリサイクルだったのです。この醜悪なリサイクル制度に荷担した新聞、環境団体は一度、ハッキリと反省して、それを発言し、美しく誠実な日本を取り戻してもらいたいと思います。今から15年ほど前、日本人は「リサイクルしないと!」とカッカときていたので、私が資源のことを説明すると、激しくバッシングされたものですが、今では冷静に考えてもらえると思います。私たちは環境関係の一部の人のために「環境」を大切にしようとしているのではないのです。(平成25年4月15日)武田邦彦
2013.04.30
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・4、29、月 「我々が自然エネルギーを使うと自然破壊に繋がる」と武田氏はいう。 例えば水力発電でダムを作れば、川のエネルギーを使って成り立っている自然の動植物は生き絶え、生態系に異常が生じる。 川の話は分かる。 しかし風力発電や太陽光発電がどうして自然からエネルギーを奪うことになるのだろう。 木や土は風が吹くから表面から水分を飛ばすことができる。 風が吹かなければ地面は苔だらけになり、木の表面で呼吸できなくなるという。 人間が風力発電を多量に行えば、自然が必要とする風を奪うことになると。 太陽光発電にしても同様、日の光を自然の動植物から奪っていることになると。 だから「自然エネルギーは自然破壊」と武田氏は随分前からそのことを訴えている。 よく分からない。 風や日の光をどうして自然から奪うという理論になるのか。 その辺りの説明は彼の本を読まなければ判然としない。 なるほど、それが一つの狙いである訳だ。 ここで彼の訴えることは大事な理論だろうが、それが本のPRに繋がっているとは。 まあ意地悪い言い方はこのくらいにして、どうしてもその理由がブログで説明されなければ、本を買うしかないかもしれない。 今までの経験上武田氏がこういう言い方をする時には、そこに利権が絡んでいることが多い。 不合理な自然エネルギーを綺麗な言葉で国民を欺きながら進める国の後ろには、役人と??が蠢いているのかもしれない。 ーーーーーー 集中講義録・エネルギー資源を理解する(5) 自然エネルギーの基本 「energy_sizenenergytdyno.155-(10:55).mp3」をダウンロード 「自然」というのは動植物、山や川などを指していますが、自然が「今の状態」であ るのは、自然がエネルギーを消費しているからです。だから人間が自然からエネルギ ーを取ると自然は変化します。 その典型的な例が「水力発電」ですが、ダムの公害と言われて私たちは一度、勉強し たのですが、すぐ忘れたようです。 太陽光、風力、水力、地熱・・・すべては自然が使っています。そして今の日本人が 使っているエネルギーは日本の自然が樹木、水力などで使っているものより遙かに多 いので、太陽光、風力などについても安心してはいられないのです。 自然を愛する人は自然エネルギーを好むことはあり得ないと思います。少し酷な言い 方ですが、補助金をもらって太陽光発電をつけている人は、1)乞食、2)自然破壊 の2つをしている人とも言えます。 「儲かれば人を騙して良い」というこれまでの環境省的な言動から脱皮することが第 一に必要でしょう(最近のPM、黄砂、花粉、放射性物質などを考えると、一体、この 20年。環境省は何をしていたのかという憤りさえ感じます。) (平成25年4月15日) 武田邦彦
2013.04.29
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・4、29、月昨日日曜日は、寝屋川サモックホールでのリサイタルであった。ピアノの大橋邦康さんと去年南港サンセットホールで開催したコンサートをもう一度という声をいただき、実現した企画である。本来一月のサモックホール催し物として取り上げていただいていたが、僕の体調不良で昨日4月28日に延期されたものである。一時間も前から少しずつお客様が集まり、開演時間には満杯の人で溢れ帰り、我々出演者は階段の下の倉庫のような所をくぐって出場しなくてはならないほどになった。ドイツ歌曲・イタリアカンツォーネ・日本歌曲・オペラアリア・それに何だか訳の分からない曲も含めて、その合間に大橋さんとのふざけたトークも挟んで会場は大いに盛り上がった。一部の終わりには僕の急遽思いついた提案で、フニクリフニクラを客席の皆様と合唱。皆様衒うことなく大きな声で参加。後半は「しゃべり過ぎ!」と後で皆にバッシングを受けないように、極力トークは抑え、演奏に集中。それでも曲説明や、大橋さんとの打ちあわせなしのトークでやっぱりしゃべり過ぎたようであった。さて偶然にも二年続けて4月28日がクニちゃん・トシちゃんコンサートとなった訳で、これはやはり来年も、と考えない訳には行かない。ここで断言してしまうと実現しなかった時が残念なので「心向き」ということだけにとどまらせていただきたいと思う。演奏終了後は、皆様と握手でご挨拶。その後関係者で美味しい居酒屋で祝杯。僕は数ヶ月ぶりのビールを飲み、ジョッキー一杯で結構いい気持ちになる。ご来場いただいた皆様には、心から感謝いたします。
2013.04.29
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明日4月28日は、今年1月20日の演奏会の振り替え公演です。1月は体調を崩し皆様に大変ご迷惑をお掛けいたしましたが、この振り替えコンサートではどうやら元気に皆様をお迎えできそうです。明日の演奏会をどうかお忘れなきよう、1月の際のチケットをお持ちの上「寝屋川サモックホール」にお越しいただければ有難く存じます。開演は15:00です。皆様のご来場をお待ちいたしております。
2013.04.27
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・4、25、水太宰治の「人間失格」を二回読んだ。僕はこの本を初めて読んだのだが、大概の人は中学生か高校生の時に読むのだろう。想像を絶する陰惨な話であった。不思議なことに、後書きでこの主人公は別の第三者で、その男が綴った手記をもとに太宰が小説化したように読者に説明している。しかし調べると、この本こそが太宰の告白小説であると見る人がほとんどのようだ。実際太宰の言ってきた事実と、この主人公は多くの部分で重なる。後書きに「この男の手記には少々誇張した部分が見て取れるが」とあるように、実際よりも太宰の手で誇張された部分もあるのだろう。しかしそれにしても、太宰の実生活と彼の内心はこんなにも苦痛に満ちたものであったのだろうか。僕は最初に「津軽」や「御伽草子」のようなコミカルな作品から入ったので、そのギャップに同一人物の作品であることを疑うほどである。物語の中では、主人公は何度も自殺を思い込み実行できずにいて、知り合った女性と共に川に飛び込み、自分は死に切れず女性だけを死なせている。太宰の実生活を見ると、合計四回の自殺を企て、一回目は一人で、二回目、三回目は女と共に川に身を投げ、すべて自分は死に切れず女だけを死なせている。そしてようやく四回目にまた別の女性と川に身を投げ、死ぬことに成功している。彼の亡骸が水から上げられたのが、彼の誕生日である6月19日であったというのは有名な話らしい。物語の中では主人公は対人関係に異常な恐怖を持ち、常に巨大な自己嫌悪に苛まれ、そのためか他人に対してぶち切れることが出来ず内にこもり精神を病み、酒に溺れ、喀血すると酒を止めるためにモルヒネに手を出し中毒へと落ちて行く。そうしてもう一つの主人公の特徴は、大変な良い男で、出会う女はすべて彼に手足を投げ出すことになる。「はにかむように微笑み、いつも暗く沈み、弱くて脆く、しかもその原因がまれに見る好人物である美質からなるそこに女性はどこかを動かされ、ほっては置けない感情を揺り起こさせるのだ」と彼自身の女を酔わせる原因を検分している。主人公はその自分の能力を最大限に利用して、父に勘当されて金がなくなると様々な女のところに転がり込んでいる。そう、この父こそが彼の自己嫌悪に苛まれる弱さのもとであるようだ。そして昼間から酒を飲み、酒代がなくなると女の着物や帯を質屋に入れてまた飲む。しかし実際の太宰は潔癖なところがあり、女の妾のような生活は決してできる男ではなかったそうだ。最後脳病院に入れられ廃人同然のような身の上までになり、そこで彼は「人間失格」と呟く。太宰はこの物語を「ネガティブなドンファンを描きたい」と語っていたそうだが、そこにあまりにも彼自身が重なり合い、その陰惨な人生に自画像とも言える主人公が出来上がったのかもしれない。この本には賛否両論があるだろう。だが僕は無類に好きである。何故だかとても引かれ、また何度でも読み返すことだろう。おそらくそこに巨大な自己嫌悪に押し潰されて行く正直な人間の姿が描かれているからだろう。村上春樹の「ノルウェーの森」の何処かにもあった。「この病院にいるものこそが真っ直ぐで、歪んでいると思われる者は表を元気に歩き回っている。世の中の歪みに耐え切れないものがここに来る」と。
2013.04.24
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・4、17、水今また福島原発から汚染水が漏れて、それを貯めておく貯水タンクを建設すると言っている。しかしこのタンクも、日に400トン出る汚染水で三年で一杯になるという。それでとうとう海に垂れ流すという意見が出て来て、漁業関係者が反対しているとやら。僕はこの茶番劇に苦笑せざるを得ない。まず、原発を動かせば、日に相当の汚染水が出る。国内52機稼動していた原発の汚染水は、1957年以来ずっとどこに処分していたのだろう。テレビでは漁業の人間が「汚染水を海に捨てるようなことがあれば、我々の命取りです」と訴えていた。決して「国民の命取りです」とは言わない。行く行くは反対する漁業関係者に何処からか便宜が図られて、水揚げされる魚は通常よりも高く買い取られることになるのかもしれない。となると、できるだけオーバーに反対した方が得である。武田氏は数日前のブログで「原子力人は今はもういない。我々は原子力が人々を救い、国を活性化し、豊かな暮らしを齎す素晴らしいもので、だからこそ危険を制御し、安全な原発を目指して日夜研究に明け暮れていた。そしてそれを誇りに思っていたものだ。しかし今は、福島の事故が起こり、今までの自分たちの何かが大きく間違っていたことを素直に認め、謝罪し、一から見直さねばなないはずである。しかし利益を失うことを恐れ、頑として今までの原発を守ろうとしている。だから我々が呼んだ原子力人という人たちは、今はもういない」と。しかし僕はいつも思う。稼動すればどうしても出る汚染水、原発建物から常時微かに漏れている放射線、処理できない使用済み核燃料。このような問題を50年以上解決できずに、なお原発を推し進めて来た者の一人の武田氏は、何処かに「国民を犠牲にしても」という心がなかったか。その証拠に今なお「原発は将来琵琶湖のほとりに建設すればいい」などと述べている。そして音声の方では「現在の原発関係者の中にはアウシュビッツ現象が起こっている」という。これは「上から命令が下りて来て、自分たちはその一部の部分で指令通りに動いているだけだから、罪は全くない」と思ってしまう現象だそうな。そこで武田氏が述べた事柄に呆れた。「私は以前から日本にも国防軍(軍隊)が必要であると言って来たが、このアウシュビッツ現象を見ると軍の暴走が想像できる。だから軍を持つのはやはり危険が伴うだろう」と述べている。当たり前である!何処まで人間を信じるお人よしだろう。軍の暴走は、70年前にいやというほど見て来たはずではないか。それによって国民がどれほど地獄を味わうことになるか、何故忘れることができるのだ。ーーーーーーー子どもの被曝 専門家は科学的では無くアウシュビッツ現象「genshiryoku_100millitdyno.151-(6:14).mp3」をダウンロード福島の子どもたちの被曝が止まりません。残念ですが、現在の日本人の特殊な精神状態と政府、NHK、東大教授などの指導層の利己的幻想のもとではなかなか解決が難しいように思います。でも、不思議です。確かに医療などの分野で被曝しても元気な人やガンにならない人がいることは確かです。「1年100ミリ以下ではハッキリとした傾向はない」というのも確かです。でも、今、問題になっているのは、「全員が全員、被曝して病気になる」と思っている人はいません。1学年200人、小学校全体で1200人のお子さんがいるときに、もし50人も健康障害が起こったら大変です。それでも24人に一人ですから、他の23人は被曝しているのに、病気にならないのです。「1年100ミリシーベルトまでは明確な関係がない」というのは、24人に一人ならOKといっているわけですが、お母さんが心配しているのは、1200人の小学校で50人も障害がおこるような事は親として注意してあげなければならないということで、実にまっとうです。1200人で50人というと、交通事故でケガをしたり死んだりする人が500万人という数ですから、日本社会では容認されない災害です。つまり1年100ミリまで良いというっている「良い」は「日本が野蛮な国で危険が一杯なら他の危険と同じ」と言っていることなのです。・・・・・・・・・ところで、チェルノブイリ周辺の住民やイラクの劣化ウラン弾による子どもの白血病の報告が続いています。私はこれらの報告を聞くにつれ、「被曝で子どもたちがどうなるのかわかっていないのだから、守ってあげないと」と強く思います。チェルノブイリではすでにヨウ素の放射線はずっと前に無くなっているのに、最近まで甲状腺の異常が続きました.理屈では説明できないことです. イラクの劣化ウラン弾の放射線量、体内への取り込み量などからまったく被害がでないはずなのに、明らかに障害者がいます.これらの「事実としての障害者」がすべて「事実では無い」とか、「ダマシだ」というにもその理由は無く、むしろ「本当では無いか」と判断した方が良いと思います.その点で「どうかわからないが、おそらく大丈夫だから子どもに被曝させる」という考えを持つ人を理解する事はとても難しいことです。私は「わからないから、しばらくは子どもに被曝させないように全力を尽くす」ということが正しいと思われるからです。「100ミリまではハッキリした傾向は見られない」ということと、「子どもが100ミリ以下の被曝なら安全」というのとは全く違います.もし今度、「100ミリまでOK」という人がいたら、「100ミリまですべての子どもが安全と言うことですか?」と聞いて欲しいものです。そして「安全だ」と言ったら、ここに書いてあることを言ってもらって子どもを守って欲しいと思います.わからない事をわかるように言って、子どもを被曝させるのはかなり残虐な行為ですが、第二次世界大戦の時にドイツが行ったユダヤ人の虐殺も、「政府が言った」、「おれは一部しか担当していない」という二つの条件で行ったものです。つい最近まで「被曝が危ない」と言っていた人が変わったのはこのアウシュビッツ現象に他なりません.私が求めたいのは、「意見が変わる」というのは良いにしても、なぜ「意見を変えたのか」の説明を必ずすることで、もし有識者、指導者が「説明無しに意見を変えた場合」はその人の意見を聞く必要は無いというのを徹底できればと思います。(平成25年4月14日)武田邦彦
2013.04.17
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・4、16、火悪者のために地球が放射能で一杯にされ、真っ赤になってしまう。宇宙戦艦ヤマトは、その放射能物質を除去する装置を手に入れるためイスカンダルに向かう。ウルトラマンに出て来るバルタン星人は、人間が放射能に弱いということを知り、地球征服のために人類滅亡を企てる。「なぜあんなものに人間は弱いのだろう」といわんばかりに笑う。その代わり彼等はスペシュームに弱い。ウルトラマンはシュペシューム光線で彼等をやっつける。しかしこれらもすべて大気中に蔓延した放射能を想定した物語で、地下深く染み込んだセシウムを想定してシナリオを書いた者はいない。これから30年、半減期を迎えるまでは汚れた実や葉っぱや根っこを草木たちは実らす訳である。そして完全にセシウムが土壌から消えるのは100年以上掛かるのでは?染み込んだセシウムはもちろん川に流れ続け、海を汚し続ける。今取り組んでいるショスタコービッチの「森の歌」の中に「森の緑、国の命」という一説が出て来る。全くその通りで、森が我々人間の、またすべての生息する生き物の命を司るのであるが、「雨・土・森・雲・川」という循環も、綺麗な土というフィルターがあってこその命の循環ということであり、人間の仕業で簡単に「死の循環」に変わり得る訳である。しかし何を言っても、一旦ばら撒かれた汚物は物によっては半永久に消えない。我々にできることは、これ以上愚かな行いを継続しないことだけである。手塚治をはじめ、いろんなアニメ作家が50年前から危惧して来た放射能による我々の自滅は、今プロローグを過ぎ、一体何処に向かっているのだろう。ーーーーーーーーーー今(2013年4月)、食材でなにが汚染されているか?「genpatsu_shokuzai01tdyno.145-(10:09).mp3」をダウンロード原発事故から2年経って、人の心は変わっていきますが、セシウム137の半減期は変わりません。土から穫れる食材は土壌が汚れていれば、どうしても汚染されてしまいます。「被曝と戦う」と言っても、人間の体は毒物が入れば打撃を受けます。そこで、2年経って、食材はどうか、民間で食材の汚染を調べていただいている複数の方から情報を頂きました。国や農水省が「大丈夫」というなか、民間の測定の方が本当に頑張っておられます。今回はCRMS 市民放射能測定所 福島さんの情報です。[__。]このグラフが一番、的確と思います。福島県の測定ですから、強く汚染されているという事になりますので、これでおおよその危険性がわかると思います。離れているところはこの状態より安全と思ってください。かなり危険・・・・・・・・「野生キノコ、原木シイタケ、イノシシ肉、クマ肉、海底のサカナ(ヒラメなど)、川魚(アユなど)、栗、ユズ、コゴミ、タケノコ、干し柿、切り干しダイコン危険・・・・・・・・・・・キウィー、ブルーベリー、フキノトウ、コシアブラ、タラの芽、セージ、ローリエ、タイム、ミント、大豆、小豆、ツルムラサキ、ほうれん草、小松菜、菜の花、茎立ち菜、レンコン、芋がらこのうち、特に最近、汚染が目立つ食材が多くなってきたのが国産大豆です。宮城県の大豆が90ベクレル(1キロ)、その他の地方でもかなりの汚染が見られます。また柑橘類はかなり安全になってきましたが、タケノコは神奈川県でも数ベクレルはでるようです。また、かつて注意を要したのに、最近は安全になったもの・・・豚肉、鶏肉、リンゴ、ナシ、シソ、玄米、白菜、ジャガイモ、ヤーコン、ダイコン、ニンジン、タマネギ、なす、トマト、キュウリ、イチゴという感じです。食材の種類と全体の危険性は棒グラフが上の方にあるものはやや危険、下の方にあるものはやや安全ということです。たとえば、キノコ類や肉サカナは注意が必要、野菜はかなり安全という感じです。また、このブログでくり返していますが、たとえば「赤痢」などの病気ですと、食材にばい菌がついているとそれが体内で殖えるので病気になりますが、放射性物質は殖えないので、「平均値」になります.その意味で、産地が福島や東北、関東のものばかりではなく、平均的に西日本や北海道のものを買うことも大切です。まれに汚染されたものがあっても、平均になりますから。また、福島の子どもたちの内部被曝が少ないとの報道がありましたが、体内の放射性物質はそれほど正確には測定できません。その意味で、国のお金をもらっている東大が誠意のない測定をしていると私は判断しています。今回の場合、どのような裏取引が行われたかはわかりませんが、このような時、先輩後輩で電話が来て「反対派が福島の被曝を騒いでいるので、ちょっと測定してくれないか。金は出すから」ということになり、それを東大の先生が請け負うという関係です。税金ということは忘れています。もし「福島の子どもたちの被曝が少ない」というなら、土壌の汚染はどうなったのか、食材への移行係数はどうか、体内の滞留はなどを明らかにしてこそ大学の調査ですが、単にいい加減なボディーカウンターなどの測定をしただけのようで、学問的説明がありません。東大のも地に落ちたものです。ところで、民間の測定で、千葉県柏の測定所、文鳥姉さんのページ、マダムトモコの厚労省日報ダイジェスト、朝田さんのプロジェクトなどからの情報も次回に提供します。まずは全体像をこのグラフから見てください。(平成25年4月11日)武田邦彦
2013.04.16
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・4、9、火 今、バージニア・ウルフの小説を読んでいる。 まだ途中までだが、話は海辺の町の小さな世界で静かに進行して行く。 これはなかなか難しく、僕の頭では付いて行けない行き詰まりを感じる。 おそらく誰かの手で訳されたものであることと、イギリス人の著者の視線と表現にまだ慣れていないことが原因だろうと考えている。 それで行き詰って来ると一休みして、漱石の「三四郎」を読み返す。 これはすでに何度か読み返した作品だが、今回もまた新しい発見が幾つかある。 何と言っても漱石の作品の中では一番好きなものなので、定期的に読み返して心地よくなることを僕の中のどこかが要求するのだ。 広田先生が語ることの中に「今の者たちは皆がイブセンのようなものだ」というのがある。 もちろん今というのは明治の終わりごろのことだが「封建時代には皆が利他主義であった。 誰かのために、誰かに繋がって生きていた。 ところが維新以後個人の露悪家が当然のように存在するようになった。 要するに皆が自分という城の中で殿様になった訳だ。 これはべつに悪いことでも何でもない。 ただ社会という箱の中で其々の露悪が張り通せない結果、再び利他主義に帰って行くことになる。 いつまでたっても際限がない」と、まあセリフそのままではないが、大体このようなことを論じる。 そしてその後「まだある、その上近頃は偽善でもって他人に不快を与えて目的を達する複雑なやり方が出て来た。 偽善でもって利己主義を利他主義で満たすということだ」という話が出て来る。 これは今正に社会を覆っている人々の複雑な心の内そのままである。 漱石は社会と人々の心中の変化を敏感に捉え、そこを小説全体の大きなテーマとして、そこに美禰子という女性を据えて何層にもベールを重ねて表現している。 もちろんこれは男の目から見た女である。 しかし女が知らない女の本質の一面であろう。 そして今もなお継続している露悪家としての女である。 男はこのようなどう考えても妻にはできそうにない女に強い魅力を感じ、絡み取られてしまうものなのだ。 三四郎の初恋の相手としてはどうにも適わず、苦い、そして甘い思い出となる。 ほとほとうまい小説である。 またよく読んでいると、世次郎を峰子の全く対角線上の存在として据えている。 広田先生いわく「与次郎は浅瀬の川の流れのようなもの、常に考えが移り浅い。 しかしアメリカ人が金に執着して憚らないと一般で、露悪家として真っ直ぐで嫌味がない、愛すべき悪戯者だ」と評する。 ここに漱石の巧妙に隠された問題定義があるように僕には思える。 それは現代の日本人にも太く共通するテーマである。 著者にとっては、読者がそれを問題定義と取っても、ただ掘り下げずにさらりと読んでもどちらでもいいと思っているのだろう。 そのようなテーマが、明治の学生、学者、芸術家などの周辺の生活に包まれて、僕に当時のロマンとして伝わって来る。 街路のガス灯、銀行やレストランや美術館のような石造りの西洋館。 それと古風な門構えの残る封建時代からの日本家屋。 このようなアナクロリズムが、メタフォリカルに僕を明治の懐かしい世界に引き入れる。 何故僕はここまで日本の明治の時代に引かれるのか。 それが当時の中流階級、下級階級に関わらずだが。 その答えは、とうに分かっている。
2013.04.09
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・4、3、水 下記の武田氏からの報告記事を読んで、唖然としてしまった。 よくもまあ国はそのような下劣なやり方ができるものだ。 我々は、このような下等な政府が取り仕切る国に生活していることを真剣に嘆かねばならないはずだ。 まず福島の事故で、この国の一体何が露になり、何が変わってしまったのか。 自分たちの今まで確保されていた年収と小遣いを守るため、取り戻すために多くの人たちが悪に手を染めている。 もしくは政治家や役人とグルになって甘い汁を吸っていたことが、ただ自己により脅かされて、その悪事が露見しているだけなのだろうか。 農家が非人間的に振舞う原因に、大きな組織的な動きがあるのではないか。 例えば農協である。 この農協が太いパイプで政界に繋がり、持ちつ持たれつの関係で儲けて来た。 彼等は政治家や官僚を動かすだけの力を有している。 議員を見れば農協出身者で溢れているではないか。 だから「給食に福島の食材を使う都市にはたっぷりご褒美を上げる」というような内々で進めてきた予算配布を、環境省が制定するようなことが起こる。 すべて札束をチラつかせて跪かせるやり方。 人の欲を利用して、ことごとく人々を悪の手下として行く。 恐ろしいことに、教育委員会もグルでなければこれは実現することではないのではないか。 これを見ると、福島ではどんどん危険な野菜と米を栽培、出荷し、それらをベクレル表示できないということはものすごく危険であるという証拠である。 土壌は2年経って少しはましなのかと思ったが、何のそんなはずもなく、やっぱり大人は自分の利益のために子供を平気で犠牲にし続けるつもりである。 武田氏も音声での説明で、憔悴した暗い声でこの事態を嘆いている。 突き詰めれば、公立の学校というものを無くさねばならない。 学校と名のつくところはすべて私立にして、各学校独自のやり方で給食を出すことができるようにする。 もちろん費用は公立同様という訳には行かないが、何か手があるはずだ。 まず野菜は地域で栽培。 米は農家と直接契約。 肉も個人の牧場を通して食用までのパイプを確立する。 コストは、そりゃ一食300円という訳にはいかないが、何とかなるのではないか。 成長期の子供に健全な栄養を供給するのに、一食分300円ということ自体がおかしい。 子供を守るためには、金が掛かるものだという常識を浸透させる。 農協さえ邪魔しなければ可能性はゼロではないように思えるのだが、無理なのか。 大阪市が少しずつ始めているように、そのうち私立の学校に学ぶ子供たちにも補助がでる日も来るかもしれない。 そう、国が運営するものはすべてだめである。 ーーーーーーーー 原発短信 給食の補助金(子どもを被曝させればお金をやる?) 「gensiryoku_kyushokuhibakutdyno.107-(9:24).mp3」をダウンロード 原子力関係の国の予算は1年で4500億円あります。そのうち700億円を福島を中心とし て苦しんでいる農家や漁民の作物などに使えば、生産者も助かります。それなのに原 子力村はお金を一切出さず、汚れた食材を子どもに食べさせるのに熱心です。 この4月から「福島県産の「野菜」を 給食に 取り入れる 市町村 には、「食品購入 費」という 補助金が出る」ということになりました。なぜ「福島産」だけを優遇す るかというと汚染されているからです。「風評」ではありません。もし「風評」とい うなら、1)これまで汚染された食材をどうしたのか? 2)出荷する食材のベクレ ル表示、はどうしても必要だからです。 大人は汚染された食品を食べたくないので売れ残る。だから子どもに強制的(給食) として食べさせるという方法です。しかも「安全だ」ということだけをいって「数値 」は公表しないようです。 今まで日本の食材は世界でも誇ることができるぐらいに衛生的で安全でした。農薬の 基準も厳しく、化成肥料すら忌避するようになっていましたが、この決定に政府ばか りではなく、福島県や教育委員会も支持しているのです。 給食に出すぐらいなら、まずはスーパーで強制的に福島産の食材を買う法律を作るべ きです。原発の事故は大人の責任ですから、どうしても子どもを被曝させるぐらいな ら、大人が被曝しましょう! (この重要な問題をときどき、このようにレベルの低い記事を書かなければならない というところに福島原発事故の異常さがあります。) (平成25年3月18日) 武田邦彦
2013.04.03
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・4、2、火 明治時代の小説を読んでいると、尋常科や中学でも必ず生徒は教育勅語を朗読するか、暗記させられるかするようである。 学内の式典でも、常に校長は生徒、町の有力者、市議会議員の前で暗記した教育勅語をすらすら空で言う。 ある小説では一人の校長が天長節の式典で教育勅語を暗記で朗読中、途中で三行ほど飛ばして言ってしまい、その重い罪のため免職になる話が出て来る。 参列者は生徒も含めて皆教育勅語を暗記しているし、校長が言い間違ってもすぐ気付くということだ。 その理由は「教育勅語は明治天皇勅令の教えである」という有難くも厳粛なるものであるという扱いがあったようだ。 修身の授業では必ずこの教育勅語について訓戒があり、お談義があったようで、生徒にすれば毎回毎回退屈な時間であったことだろうと思う。 その後日露戦争に突入することで教育勅語は軍事教育に大きく利用されるようになって行き、特に「もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕える」という部分が強調された。 これもまた天皇陛下からの尊い命令であった訳だ。 教育勅語は太平洋戦争までずっと学校内で利用し続けられ、それが今の人々の眉を潜めさせる理由なのだろう。 教育勅語が軍事教育に利用されたのが明治天皇の意思であったのか、政府と軍が天皇勅令を利用したのかは分からない。 このような発令は政府や役所が出しても、おそらく誰も重要には取り扱わない。 天皇陛下が発令するから庶民にとって重要だったのだ。 だから王というものが正しく存在すれば、国全体を速やかに素晴らしい倫理と道徳と行動の国に作り上げることができる。 しかし宗教と一般で一旦国に危機が訪れると、簡単に誰かがそれを危ない方向に利用し始める。 でも結局戦争のような非常事態がなければ、皆常識的な筋の通った素晴らしい考えを持っているということだ。 国でも夫婦でも恋愛でも友情でも、我々の頭の上に危機、もしくは欲望が訪れた時に初めて人間関係の本質が問われるのだろう。 平和な時代には誰にでも悪の追放を唱えることはできる。 今は良くも悪くも国民に対するこのようなマインドコントロールは不可能だ。 それをやりたいと国が思えば、天皇の代わりに金がいる。 ーーーーーーーー 体罰考(18) 教育勅語は「悪の権化」か? 「taibatsu_tyokugotdyno.104-(9:32).mp3」をダウンロード 「教育勅語」と聞くと多くの人が身を引きます。先日、ある女性にいる席で教育勅語 を読み始めましたら、厳しい顔をされたので、読み終わった後、お聞きしたら「教育 勅語って、そんなものなのですか!」とビックリされていました。 やはり「教育勅語には触れてはいけない」と思っておられたようでした。これも戦後 教育の結果なのでしょう。戦争後、教育勅語は悪の権化とされ「日本の教育はどのぐ らい教育勅語から離れることができるか」が問われるようになりました。その教育勅 語はどのようなことが書いてあるのでしょうか? 教育勅語は1890年、今から122年前の日清戦争の前に発布されています。その現代語 訳を以下に示します。 「父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い 、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳 と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い (教育勅語そのままの口語訳) 父母、兄弟、友人との関係は「正しく」書かれていると思います。特に今から122年 前でまだ家父長制や男女が平等で無かったと言われた頃、「妻は夫に従い」などとい うのではなく、「夫婦は調和良く協力し合い」とあることを多くの人は知らないと思 います。夫婦は対等で協力するものとされていて、実に先進的です。 「慎み、博愛、学問、知能、徳」、「世のため人のため、法律を重んじ、非常事態に 備える」ということも素晴らしいことに思います。表現の方法としては「法律に従い 」を「法律を守り」、「勇敢に仕える」を「勇敢に行動する」ぐらいに修正すればま ったく立派な教育方針と言わなければなりません。 この教育勅語が批判され、悪の権化と言われた結果、父母、兄弟、夫婦、友人との関 係は崩れて離婚の多い夫婦、家庭内暴力を振るう子ども、兄弟のいがみ合いが増えて きました。また「慎みの無い日本人」が多く出現したことも合意されるでしょう。 そして、人間は社会的動物であり、社会が安定し国家が存在するのに恩恵を受けてい るのに、自分だけが得をする、権利だけを主張する人を育てました。 ・・・・・・・・・ 今、社会や教育、家族の現状に問題点を感じている人で、この「教育勅語」の文章と それに基づく教育が不適切だと感じる人は少ないと思います。でも、それが現代の日 本では「教育勅語」という言葉さえ発するのを憚られる(はばかられる)という状態 なのです。ここにさまざまな問題が発生する理由の一つがあります。 なにが「正しいか」というのはもちろん「形式的」なものではなく、「その人に言っ ていること、そこに書かれていること」の内容が「正しいかどうか」を決めることは 当然です。 でも、野蛮な状態では「殿様が言ったから正しい」とか、「偉い人に従う」というこ とが主力で、その人が何を言おうと中身は問わないということでもあります。それに 対して文明とは「自分自分が判断力を持ち、何が正しいかを判断する」という状態で もあります。 「あいつは魔女だ」というのは野蛮で、「もし魔女らしければ裁判に訴える」という のが文明ということです。その意味で、これからの教育を考える時私たちは「教育勅 語というものに書いてあるから排斥」というのではなく、真に子どもたちのために「 現代の日本では何が正しいとできるのか?」について考え直してみなければならない でしょう。 (平成25年3月20日) 武田邦彦
2013.04.02
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