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1月号の生活の発見誌に次のような記事があります。代表幹事をやって症状が良くなったのは、主体的に集談会の運営に関わることで、視点が症状から自分以外の外側に向いたからのようです。世話人活動を通して回復していくという発見会の仕組みは、50年以上前に当時の長谷川洋三会長が中心となって周到に作り上げられました。世話人活動という実践の中で、自然に神経質者の自己中心性が克服されていくようになっているのです。それは第一に、与えられる一方の立場から与え合う立場に変わったということである。そのために、自分の悩みや症状だけにかまけていられなくなり、仲間のこと、後輩のことを考えざるを得なくなったのである。こうなれば、自分中心のカラから出ざるを得ない。症状に向いていた注意は、おのずから世話役の仕事に向かい、やがて症状のことを忘れるときが多くなる。私は対人恐怖症ですが、強迫神経症が治るということについて次のように考えています。強迫神経症真っただ中のときは、症状にどっぶりと浸かっています。治るというのは症状100%の状態が少しずつ減ってくることだと思います。減ってきた部分は症状以外のことを考えている。たとえば仕事のこと、趣味のこと、目標達成のこと、集談会の運営のこと、介護のこと、配偶者のこと、子供のこと、ペットの世話のこと、花の手入れのこと、病気のことなどです。長谷川先生は、集談会に参加するときは世話活動をしてみなさいと言われています。私の経験では、図書係、司会、幹事、代表幹事、忘年会、新年会などの企画実施。野外学習会、一日学習会、一泊学習会、1泊2日の支部研修会、集談会発足20年、30年、40年、50年の記念事業、心の健康セミナーの企画実施をさせてもらいました。予想される問題を解決してより良いものにすることは私の得意とするところです。どうすればみんなに喜んでもらえる行事になるかを必死に考えていました。そのようにして注意や意識が外に向くようになってきたと思います。なんとか無事に終わった時はやればなんとかなるという自信につながりました。はずみがついて、会社の仕事にも応用できるようになりました。最近実行しているのは、ベランダで花を育てる、メダカを飼う、自家用野菜の手入れをする。庭木や果樹の世話をするということです。神経症で苦しんでいる人は世話をするものを持っておくことは、神経症の予防に欠かせないものだと思っております。
2024.02.18
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「かくあるべし」が強いと、自己否定感がでてきます。事実本位になると、自己肯定感がでてきます。今日は、自己肯定感と自己否定感を取り上げてみたいと思います。自己肯定感にはどんなものがあるのでしょうか。自尊感情・・・自分には価値があると思える感情。唯我独尊の立場。自己受容感・・・ありのままの自分を認めることができる感覚自己効力感・・・自分にはできると思える感覚自己信頼感・・・自分を信じられる感覚自己決定感・・・自分で決定できるという感覚自己有用感・・・自分は何かの役に立っているという感覚自分は自分の味方であるという絶対的な感覚を持っている。注意や意識が外向きで、意欲的で積極的な行動がとれる。自己内省一辺倒ではない。バランスが取れている。小さいときから雑多な経験を積み重ねている。特に成功体験の積み重ねが今の自分を支えている。少々の困難な状況は手を尽くして乗り越えることができる。親子の関係が良好であった。親が心の安全基地としての役割をきちんと果たしていた。他人との人間関係は、尊敬・信頼・協調関係で成り立っている。自己否定感で一杯の人はどんな感じでしょうか。自責感情・・・自分には何の価値もないと思える感情自己否定・・・ありのままの自分を認めることができない感覚自己無力感・・・自分は何もできないダメ人間だというという感覚自己嫌悪・・・自分が嫌で仕方がない感覚。内部分裂している。依存体質・・・絶えず他人に頼る。自分で決断できない。自己中心・・・絶えず自分に意識が向いている。悲観的否定的である。観念優先・・・頭でっかちで、事実を軽視・無視している。自分のなかに現実の自分とその自分を非難・否定する二人の自分を抱えている。注意や意識は内向きで、意欲が乏しく消極的、悲観的である。小さいときから雑多な経験が不足している。社会体験不足。成功体験がほとんどないので、やる前から懐疑的、逃避的である。親子の関係が、過保護、過干渉、放任状態であった。他人との人間関係の距離感が持てない。信頼関係が持てない。他人を見ると自分を攻撃してくるように見えてしまう。自己否定感で一杯の人はどうすればよいのでしょうか。森田では、二人の自分を一つに統一することだ言われています。雲の上のようなところにいる観念的な自分が、現実の世界で苦悩している自分のところに降りてきて、寄り添うようにするということです。どんなに問題を抱えていても、現実の自分を擁護していく態度に転換することです。事実本位の生活態度を身に着けて、観念や理知は補助的に活用していく態度を身につけることです。その手順は森田理論ですでに確立されています。社会体験不足と心の安全基地の確保ですが、長らく集談会に参加した経験からすると、集談会の中で雑多な役割を果たすことでかなりの社会体験ができます。また、集談会の仲間は心の安全基地として頼りになる存在です。これを継続することで、自己否定感が遠のいてゆき、自己肯定感で満たされていくと確信しております。
2022.03.01
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今日は自由に生きることを考えてみたいと思います。それを考えるにあたって、まず自由業の人のことを考えてみましょう。士業、開業医、塾、店舗、職人、飲食業、町工場などを自ら代表者となって切り盛りしている人です。自由業の人たちは、まず売り物がなければなりません。社会に役立つ技術や能力、商品が必須です。絶えずイノベーションを心掛けて改善、改良していく努力を継続する必要があります。それを社会に認知してもらうために、自ら営業する必要があります。短期、中期、長期の経営計画も必要になります。会計、財務、法律の知識も必要になります。従業員を雇う場合は、人事労務の知識、マネージメント力も必須です。実際には周りの人の協力を得て、切り盛りしていくことになります。会社などに雇用されている人達との違いはなんでしょうか。取り組むことに自由があるという事だと思います。私たちがあこがれている自由があるのです。頭で考えたことは、人に迷惑が掛からなければどんなことにも挑戦できる。自由を考えてみると、言論の自由、思索する自由、選択する自由、決断する自由、行動する自由があります。自らの頭で考えて、行動できるというフロンティアスピリットが働いています。自由の獲得は人類の悲願でした。差別や偏見、抑圧や隷属からの解放運動でやっとつかみ取った成果なのです。自由を獲得して、民主的な話し合いで解決する社会を作り上げてきたのです。しかし自由の裏には責任があります。これが厄介なのです。何でも自由にしてもよいが、その結果には責任を持ってくださいという事です。失敗したとき、何とか見逃してくださいというわけにはいかない。他人に依存することも、責任転嫁することもできないという事です。すべての責任を自ら背負っていくしかないのです。順風満帆に進行すればこんなに楽しいことはない。ところが失敗すれば奈落の底に突き落とされてしまうのです。自己破産や生きる意欲が根こそぎ奪われるような状況は何が何でも避けたい。ですから自由の獲得は人類の悲願ではあったが、実際に自由の身になってしまうと右往左往する人が後を絶たないのです。そこでどんなことが起きるのか。せっかくつかんだ自由な生き方を自ら放棄してしまう人が出てくるのです。サメの周りには小さな小魚が絶えず付きまとっています。サメの巨大な力を利用して自分の安全を確保しようとしているのです。自由に泳ぎ回りたいという気持ちは封印しているのです。命さえ守られるのならば、自由などはどうでもよいという気持ちになっているのです。人に依存する生き方は、安全と食料、必要な生活物資は確保できるのです。しかも考えなくても済む。いわれたことを適当にこなしていればよいのです。努力する必要がない。責任を取らされることはない。上司が責任を取らされるのです。自分は安全を確保してうえで、依存して生きていけるので、精神的にはずいぶん楽ができるのです。このように自由と依存を考えた場合、自由な生き方を選ぶ人は少なくなってしまいます。自由な生き方を放棄した人は、束縛、強制、制約、拘束、服従、制限、指示命令のもとで生活していくことになります。砂を噛むような味気ない人生だが、自由人として生きていくことはリスクがとてつもなく高いと思っているのです。命さえ保障されれば、生きがいとか人間らしく生きるといったことは問題にならない。自由人としての生き方を選択するのか、心身ともに誰かに依存した生き方を選択するのか、すべての人間に問われているのだと思います。さらに言えば日本という国体の問題でもあるわけです。
2020.06.19
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水谷先生が森田先生のところに入院されていたときにこんなことがありました。水谷青年が、一年草の草花に一心に水をやっていました。森田先生がやってきて「君は何をしているのだ」といわれました。この草花は一年草で、花はすでに咲きつくし、自然に枯れるべき運命にある。じっと見ると誰にでもすぐに分かることだ。君にはそれが分からないのか。水谷青年は、森田先生に「見つめよ、見つめよ」と繰り返し指導されていました。普段からその言葉を繰り返して反復していたそうです。学校から帰ると、すぐに草花のところにとんで行って水をやっていました。森田先生の言葉にとらわれて、先生の言われたとおりに実行しなければいけないと自分に言い聞かせていました。いつも草花のことを気にかけていなければならない。ほかのことは放り投げても、草花から目を離してはいけない。草花に注意や意識を無理やりでも振り向けていなければならない。そういった「かくあるべし」にがんじがらめに縛られているために、心は草花には向いていないのです。一年草の草花がその命を終わらせようとしていることにはまったく気づかない。その時意識はどこに向いているのか。自分の行動を見て、森田先生が「君は私の言ったことを忘れないで、きちんと実践している。大したものだ。これからもこの調子で頑張りなさい」などいう評価を期待しているのだ。あわよくばみんなの前で、水谷君を見習って行動するようにと誉めてもらうことを期待している。森田先生の「見つめよ」という言葉は、じっと見つめていると何らかの感情や連想が沸き起こってくるはずだ。もともと備わっている豊かな感情を泉のごとく湧きださせることを狙っているのだ。事に触れ、時の経過とともに、様々な豊かな感情が生まれてくる。森田ではそれがないとなにも始まらない。感情が湧き出てくると、関心や興味が湧き、気づきや発見や工夫などを思いつくようになる。それをもとに行動していくと、生活はどんどん建設的、生産的、創造的に発展していく。水谷青年と森田先生の決定的ともいえるようなすれ違いはいかにして生まれたのか。水谷青年は劣等感が強く対人恐怖症といわれている。そういう人は他人の言動に振り回されやすいという特徴があります。裏を返せば、自己信頼感が持てない。自己肯定感がないわけです。自分はこう思います。自分はこうしたいのです。自分はこうして生きていきます。そういう芯のようなものが確立されていないので、他人に振り回されてばかりなのです。今まで地に足のついた生活習慣がないために、小さな成功体験の積み重ねができていないのです。小さな成功体験を積み重ねていると、自信がついて、自分はやればできるという自己信頼感が育ってきます。そのためには、まず森田の言う「凡事徹底」の生活習慣を維持することが大切になります。これはやる気になれば誰でもできます。そのうえで高良武久先生は、「これは誰にも負けないという特技・専門分野を持ちなさい」と言われています。10年一つのことに取り組めば、誰でもその道のエキスパートになれるでしょう。それが自信となり、その後ろ盾があると、どのような人生の艱難辛苦に対しても、立ち向かっていけるようになるのです。対人恐怖症は、あってもほとんど問題にならなくなるのです。感情を発生させて、生活を活性化する前に、自己肯定感を作り出すことに取り組む必要があります。
2020.05.10
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石原加受子さんの「自分中心」の生き方というのは、自分の感情、気持ち、意志、五感、身体感覚を大切にする生き方です。この反対の生き方は、「他人中心」生き方です。湧き上がってくる自然な感情を無視、否定する生き方です。自分の感情や気持よりも、他人の言動に振り回されて生活している状態です。自分の意志を抑圧して生活しているので、生きていくのが苦しくなります。それは行動と自分の感情や気持との間でミスマッチが起こり、たとえ行動していても勇気を奮い立たせて動いているので、かえって息苦しいのです。「自分中心」の生き方は、森田理論でいうと、事実、現実、現状を受け入れていく「事実本位」「あるがまま」の生き方ということになります。「他人中心」の生き方は、「○○しなければならない」「○○してはならない」という「かくあるべし」を前面に押し出した生き方です。「かくあるべし」を前面に押し出した生き方・考え方は、事実、現実、現状を無視、否定するので、苦しみや葛藤が生まれてきます。神経症の発症の大きな原因となっています。「他人中心」の生き方をしていると、自分が物事に対して、それをどう感じているのか。どう思うのか。どんな気持ちがするのかというような感性が働かなくなります。自分中心の視点で捉えないと、自分の欲求や気持ちや感情に気づかなくなっていきます。感度が鈍くなると、五感で味わう気持ちよさや、快感、満足感、充実感、幸福感といった「生きる喜び」や好きなことに夢中になっているときの興奮や好奇心、探求心といった「心の躍動感」も喪失していくのです。(最近、心が休まらないと思ったとき読む本 石原加受子 中経出版 92ページより要旨引用)私たち神経質者は、生まれながら豊富な鋭い感性を持っているのです。ところが、自分の感情、気持ち、意志、五感、身体感覚を粗末に扱い、無視し続けていると、その最大の長所が徐々に失われてしまうということです。ヤスリをかけて優れた長所を削っているようなものです。実に残念な結果となります。そうならないためには、「自分中心」「事実本位」「あるがまま」「自然に服従、境遇に柔順」の生活態度を身に着けることが大切になります。森田理論を学習していくと、そのための道筋が幾つも用意されていることに気づきます。あとは、生活の中で積極的に応用し活用していくことが大事になります。
2019.04.29
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藤田英夫さんは、現代は人間が「ロボット症候群」に陥っているのではないかと言われています。ロボットの特徴とはなにか。まず夢を持たない。問題を背負うこともなければ、悩むこともない。困っているロボットを見たことがない。問題意識もなければ、疑問も持たない。やる気もなければ、さぼる気もない。自動的に動くことはなく、他力を加えないと動かない。力を加えてさえいれば、それが作用する範囲でいつまでも動く。指示・命令どおり完璧に動く。間違いなど起こさない。頭で分かっていることだけをやり、分かっていないことは何一つやらない。状況が変わっても、けっして臨機応変に対応することはない。これに対して人間の場合はどうか。まず、欲望を持たずには生きていけない。さらに言えば夢を持たずにはいられない。そのために、絶えず問題を背負っていて悩みは果てることがない。人間は問題意識もあれば、頭の中では疑問でいっぱいだ。やる気もあれば、さぼる気もある。他力によって動くとは限らず、しかし自発的に動くことが多い。指示・命令どおり完璧に動くことはとても難しい。よく間違いや失敗を起こす。頭で分かっていないことでも、やらざるをえなくなればやる。状況が変われば、即それに対応する。人間は閃きや感性などの心で感じて動く動物である。これらを持ち合せていることが人間たるゆえんである。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン参照)それでは「ロボット症候群」に陥った人の特徴はどのようなものなのか。まず生の欲望、夢、希望、目標を持たなくなり、努力することを止めてしまう。確かにそうである。自らすすんで夢や目標の達成に向かって挑戦するということをしなくなる。その分、他人が目標達成のためにチャレンジしているのを見て楽しんでいる。でもそれだけでは生きていくことがつまらなくなる。そこで物質的な豊かさや刹那的快楽を無制限に求めて心の渇きを癒そうとしている。そのためには、働き蜂のように人間関係や過重労働に耐えながら、必死になって働かなければ生存は保障されない。その結果、身体疾患や精神疾患を病み、苦しむ人が増えてきた。年金暮らしや親の庇護にある人以外は、そうした社会の仕組みの中から抜け出すことはほぼ不可能となっている。次に、会社では指示・命令・強制されたこと以外は手をつけなくなった。言われたことだけを何の疑問も持たずにただ淡々とこなすようになってきた。すると物事を深く考えるという人間だけにそなわっている能力が衰退してきたのだ。しだいに大脳を使って考える機会が減少して、思考能力、感じる力、感性などは衰えてきた。つまり静かに大脳の廃用性萎縮現象が起きてくるようになった。今や五感力の喪失の時代とも言われるようになってきたのだ。それに伴い現実の問題を解決する能力も衰退してきた。それは人間が人間力を発揮する機会を奪われて、人間が道具力としてのみ評価され、人間のロボット化が深刻な状態になってきたことの証である。苦役労働に耐えて生活費を稼いでくる生活を続けて、一方では所有欲や快楽欲求に振り回されるようになってきた。今ややりがいや生きがいなどということはほとんど考えなくなった。つまり人間のロボット化の完成である。ロボットと同じように、新しい気づきや発見もなければ、問題意識や疑問も湧きおこらない。またいったん問題が発生しても解決能力がないので右往左往するばかりで、解決の糸口さえ見つからない。問題を自らこじらせて拡散させ、破滅的な方向に発展していくことも多い。会社では最近成果主義がはびこり、業務遂行能力や特殊技能のないものはリストラに追いやられる。でも今まで指示・命令に素直に対応する教育をしておきながら、急に問題意識を持て、オリジナリティを発揮して会社の利益確保のために貢献しなさいと言われてもどだい無理な相談ではなかろうか。さらに自分のこれからの人生をいかに生きていくかを考え、人類の将来への幸せに思いをはせることはできなくなっているのではなかろうか。我々はもはやロボットとして生きながらえているだけなのではないか。これらの問題に対して、森田理論を学習すればするほど、人間本来の生き方を目指しているように思えてならない。「ロボット症候群」から抜け出して、本来の人間の在り方に回帰していく道の一つを森田理論は明確に打ち出していると思う。私たちはそれを大いに深耕させていこうではありませんか。それが自分の人生と人類の将来にかかわってくるものだと思います。
2016.03.27
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金子みすずさんに「光のかご」という詩があります。わたしはいまね、小鳥なの。夏の木のかげ、光のかごに、みえないだれかにかわれてて知っているだけうたうたう、わたしはかわいい小鳥なの。光のかごはやぶれるの、ぱっとはねさえひろげたら。だけどわたしは、おとなしく、かごにかわれうたってる、心やさしい小鳥なの。この詩は、悲しい詩ですね。また自分のことを言われているようです。金子さん自身も26歳で自殺されているが、この詩を見ると「かくあるべし」で身動きできない状態で苦しまれていたのではないでしょうか。私も物心ついたときから親に叱られたり、脅されて育てられてきた。そのうち親の言動に怯えるようになってきた。いつも親の言動ばかりに注意が向いていた。そして自分の気持ちを抑圧するようになった。しだいに自分の素直な感情を表現したり、自分の気持ちを主張できなくなった。そのうち親だけではなく、世間からの「見捨てられ不安」にも絶えず怯えて、他人の思惑を過度に気にかけながら生活するようになった。自分の感情、五感の感覚、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望を大切にして考え行動していきたいと思いながらも、どうしても他人の思惑に翻弄されてしまうようになってきた。思えばつらい人生だった。金子みすずには「わたしと小鳥とすず」という詩もある。わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、とべる小鳥はわたしのように、地面(じべた)をはやくは走れない。 わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、あの鳴るすずはわたしのようにたくさんのうたは知らないよ。 すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。「みんなちがって、みんないい」という言葉は素敵な言葉ですね。競争社会、能力社会で常に人を出し抜くことばかり考えている現代では考えられない考え方です。金子みすずは、みんなそれぞれの個性を発揮して生きていく唯我独尊の世界を目指していたのだろう。
2016.03.07
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欧米では同性愛者が社会的に認知されていてなんの問題もないように思っていたがそれは違っていたようだ。アメリカでは同性愛者が偏見の目で見られていないのは、ニューヨークやロスアンゼルスといった、ごく一部の大都市に限ってのことである。中西部から南東部にかけての地域では、「神を冒涜するもの」とみなされて、激しい差別を受けているそうだ。日本では会社帰りに同僚や上司と少人数で一杯やることが頻繁にある。男同士が肩を寄せ合うようにしてショットバーや居酒屋などでひそひそ話をしていても誰も気にとめない。かえって男性と女性がひそひそ話をしているとあらぬうわさをたてられることが多い。これがアメリカでは反対になる。男同士の方が問題になるのだ。同性愛者と判断されてしまう危険性があるからだ。だれもが、絶対に同性愛者と見られたくない。危険視されるからだ。その恐怖心は相当なものがある。だから男同士で飲みに行く習慣が無い。男同士で深酒、泥酔するまで本音を出し合ってむしゃくしゃした気持ちを発散するということが無い。そんなことをすると社会人不適格者として排除されてしまう社会なのだ。アメリカ人もつらいのである。自己責任の思想がここでも貫徹されているのだ。こういう風潮だと自分の抱えている不満や愚痴などのつらい思いを吐き出す機会が無くなる。家に帰って奥さんにでも聞いてもらえばいいではないかとも思うが、それは女性差別主義という烙印を押されかねないのだ。ここが日本と大きく違うところだ。アメリカ人は不平不満や悩みを自分で抱えてしまいやすいのだ。ではどこで本音を吐き出すのか。それはかかりつけの精神科医であり、心理カウンセラーなのだ。自分の愚痴や悩みについては、お金を支払って聞いてもらう。アメリカという国は多くの人がかかりつけの弁護士や精神科医を持っているといわれる。日本では「赤提灯での愚痴」が日本人の心の健康を支えてきた面がある。我々でいえば集談会の仲間たちが反論しないで悩みを聞いてくれている。アメリカではそういう習慣がないというのが問題を大きくしているのである。森田を学習しているものとしてここで一つ確認しておきたいことがある。自分の仕事や生活上の問題点、不平不満は何らかの形で吐き出さないとフン詰まりになってしまうということである。ため込んでいるとストレスがたまり最終的には大爆発ですべてが終わってしまう。不平不満は小さいうちにどんどん吐き出していくほうがよい。その際有効なのは信頼できる人に聞いてもらうことである。それも不可能ならば、次善の策としては日記のようなものに書いていくことである。注意したいのは思いついた不平不満をやたら吐き出すのはとても見苦しい。相手にしてもらえなくなり、仲間から排除されてしまうことになる。またリラックスできる場所や時を選ぶことも必要である。また一方的に話すだけではなく相手の愚痴や悩みも聞いてあげて受け止めてあげる態度が必要である。とにかく吐き出さないと身体及び心に問題を発生させることは心しておきたい。要は他人中心の建前の人間関係と本音で言い合う自分中心の生の欲望の発揮のバランスを意識していないといづれ行き詰まる。
2015.04.27
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こんな話がある。今の学校の運動会の徒競争では一等賞、二等賞、三等賞の表彰をしない。私の頃はそれぞれ色違いのリボンをもらった。リボンをもらえた時は誇らしかったものだ。今は順位を付けることはよくないと思われているのだ。弱い人や負ける人を差別することになるからだそうだ。だからなるべく足の速い人は早い人同士で走らせる。遅い人は遅い人は遅い人同士で走らせる。あるいはゴールにはみんな手をつないでテープを切るということもあるという。これは運動会に限ったことではない。勉強やスポーツの成績で子供を差別しないようにしているのだ。私の高校の時は全成績が一覧表にして配布されていた。今は学力テストの成績や、足の速さで順位をつけることはタブーとされているのだ。学芸会では一つの主役を何人もの子供が演じたりする。ストーリーにお構いなしに、舞台上にシンデレラたちや桃太郎たちがずらりと並ぶ。あるいは場面ごとにシンデレラや桃太郎が入れ替わるという。そうしないと保護者がクレームをつけてくることもあるという。実に奇妙な光景だ。昔は考えられないことだ。「主役と脇役」という「差別」を嫌がり、みんなを平等に扱うという意図があるのだという。ある県では20年前から、「学級委員長」を選出していないという。委員長になれない子を差別することになるからだという。森田理論を学習しているものから見るとこれらは明らかにおかしにことだと思う。普通、子どもは勉強ができる子供もいればできない子供もいる。スポーツが得意な子どももいれば苦手な子どももいる。リーダシップがあってみんなをまとめるのがうまい子もいれば、その他大勢の方がよいという人もいる。つまり子供はそれぞれ得意なこともあれば苦手なこともある。それが当たり前の事実だ。それなのに大人がそれを認めるとできない人がかわいそうだ。それは差別ではないのかというのだ。まさに究極の「かくあるべし」の押し付けです。事実は事実のままに認めていくというのが森田理論である。今の教育は違いを認めるということは、差別になるからダメだというのだ。でもこれは断じて差別ではないと思う。その人と他の人の能力の違いであり、特性、個性のちがいなのだ。それが個々に違っているから面白い。それはもっと尊重しないといけないと思う。また違いを人と比較するのはダメだという人もおられますが、私はそうは思いません。十分に比較して他人と自分の違いを十分に認識することはとても大切だと思います。違いが分かれば自分の得意な面や苦手な面がはっきりと分かります。それが分かれば自分の得意な面に焦点を当てて伸ばしてゆけばよいのではないでしょうか。比較するのがいけないというのは、比較したあとに是非善悪の価値判断をするからおかしなことになるのです。自分の欠点と相手の長所を比較してよいわるいと判定することは意味がないことです。自己嫌悪、自己否定に陥ってしまうからです。さて、子供たちのそれぞれが持っている得意な面を評価してあげないと、子どもたちはまともに成長できません。つまり実力があり、能力がいくら高くても、評価されず無視されると、やる気や意欲がでてきません。するともともと備わっていた力や能力は磨きあげることをしないので錆ついてしまいます。能力を獲得して、自信をつけて運命を切り開いていく力は生まれてきません。最後には課題や目標を持てない無気力、無感動な子どもをたくさん作りだしてきます。そういう子供たちの注意や意識はどこに向かうのでしょうか。自分の身体や心に向いてきて、自己内省力が強く働いてきます。そして他人の思惑がいつも気になり、生きた心地がしなくなるのです。これはある意味で対人恐怖症を持った神経症の発生と同じからくりです。これを象徴するようなことがあります。大学生が昼食を一人でトイレで済ますというのです。一人で学食に行って食べると、友達がいなくて、孤立している人だと他人に見られるのではないか。そんな人間に見られるということが耐えられないというのです。これは基本的に対人恐怖の人と同じ心の現象です。つまり他人中心の生き方になってしまって、自分中心に生きていくということができなくなってしまっているのです。対人恐怖の原因が、小さいころからの教育の弊害として現れているのだ、ということは理解しておく必要があると思います。そしてそういう間違った教育は今後早く是正する必要があるのではないでしょうか。(なぜ若者は「ひとりランチ」をするのか 和田秀樹 祥伝社参照)
2015.04.26
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生活の発見誌の3月号に一人で仕事を引き受けて苦しんでいる人の話があった。その方は介護の仕事をされている方でした。他の職員の方は依頼を断ることができるのに、この方はすごくまじめで責任感が強くて断ることができないのだそうです。真面目に引き受けていましたが、つらかったそうです。そしてついにうつ病になりました。こういうことは対人恐怖症の人はよくあります。私も経験があります。他の人の依頼を断ると相手から非難されたり、拒否されたり、無視されるようになるのではないかと考えてしまうのです。これは事実とは違いますが、そういうマイナス思考が習慣となっているのです。だから本来は喜んで納得して引き受けていないのに、現実は自分の仕事を遅らせてでも引き受けてしまうのです。心と体がバラバラです。その結果苦しんでいるのです。依頼する人はあの人は断ることはないから依頼しやすい相手となって、たびたび依頼してくるのです。他の方は「私できません」等というので依頼しづらいのです。そういう意味では主従関係が出来上がっているのです。でも、もともとプライドの高い我々はどうして私ばかりにやらせるのだろうという被害妄想に取りつかれてしまうのです。我慢に我慢を重ねて耐えていても、最後にはダムが決壊するみたいに感情を爆発してしまうのです。これは自分の気持ちをごまかしているから起きることなのです。今は自分の仕事が手いっぱいだ。身体が休息をとりたがっている。この次にまた厄介な仕事が待ち構えている。等の事情を無視しているのです。森田的にいえば対人的な不安や恐怖に対してやりくりをしているという事なのです。そうはいっても自分の都合を優先してはっきり断れないのが対人タイプなのです。それがよいところでもあるのです。でもなんとかしないといけません。いつも我慢したり耐えたりしているとストレスだらけになるのですから。そこで提案です。依頼された時相手にこう聞いてみたらどうでしょうか。まず納期はいつまでにやったらよいのでしょうか。自分の仕事や都合を優先させてそのあとでも間に合うのでしょうか。どの程度の範囲の仕事で時間はどれくらいかかるのでしょうか。自分の能力で十分できる仕事でしょうか。身体への負担、精神的な負担はどの程度でしょうか。今抱えている自分の仕事との兼ね合いはどうでしょうか。他の人の仕事の量や能力、進行状況はどうでしょうか。他の人に分担してもらう事はできないでしょうか。何人かに分けることはできないのでしょうか。それらを自他ともに確認してみるのです。これはどうしようか揺れ動いている状態です。とにかくすぐにイヤイヤ引き受けるとか、すぐに断るというのはまずいのではないでしょうか。時と場合にもよりますが、それは極端だと思います。自分の正直な気持ちや都合、他人の状況をよく観察して考慮したうえでどうするのかを判断してみてはいかがでしょうか。状況を把握する態度を大切にするとその後の展開は少し変わっていくのではないでしょうか。これは森田理論で言うと、まず過不足なく事実を観察するということになります。
2015.03.17
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現在勤めている会社で不平不満を人事担当者にストレートにぶっつける人がいる。例えば有給休暇を自由にとらせてくれない。入社時に聞いていなかった仕事をさせられる。自分の立て替えた金銭の処理が遅い。正社員はよく休みをとりすぎる。そのしわ寄せは我々のところにくる。細かい事務書類でいちいち細かい指示をされる。間違えるとえらい剣幕で怒られる。等々。聞いているもっともとだなと感じることもある。少し彼の方から妥協してもいいのではないかと思う事もある。その人は現在64歳である。この会社の定年は65歳である。でもすぐに退職というのではなく、70歳まで嘱託として雇用延長が可能なのである。雇用延長は1年ごとの更新となっている。それには条件がある。今まで仕事を誠実にこなしている人。仕事に耐えうる体力がある人。人間関係のトラブルを起こさない人。自分勝手の事をしない人。等である。雇用延長にあたっては審査があるのです。それらに該当しないと判断されると退職勧告をされます。この方の場合は現状ではとても難しい。会社の推薦を得ることが困難なのである。でも本人は70歳まで雇用延長を希望している。それは年金が少ないのと、老後が心配なので多少なりとも蓄えを作りたいのだという。どうしたらよいだろうかと相談しに来られた。私の助言は森田理論をふまえて次のように話した。自分の意志や希望をもっと自覚する必要があるのではないか。現在はそれが希薄ではないのか。そのためにはどうするか。ライフプランを作ってみたらどうか。これから先せめて90歳ぐらいまで生きていくとして、はたしてどれくらいの支出が必要となるのか。生活費、冠婚葬祭費、固定資産税などの税金、健康保険料、介護保険料、その他医療保険、車両維持管理費、趣味や交際費、家電製品の買い替え、家の修理費、葬式費用等に分けてシュミレーションしてみる。老後は年金が主体となる。奥さんが専業主婦だったというから年金は生活するだけでぎりぎりだろう。後は退職金や貯蓄を切り崩す。不動産を処分することぐらいしかないだろう。そういった生活で90歳ぐらいまで食いつなぐことができるのかどうか。詳しく分析してみれば結論出るだろう。自覚すれば仕事の見方が変わってくる。現在は社会保険関係が会社によって保障されている。賞与もでる。恵まれているのである。仕事をすることで規則正しい生活ができる。健康にも役に立っているのである。そうなると、不平不満をストレートに会社の人事担当者にぶっつけるというのはよくないという自覚がでてくる。それでもあえて言うというのは、辞めさせてくださいと言っているようなものである。でもあなたの場合は我慢できることはできないだろうと思う。口に出すことによってストレスを発散しているからである。それが今までのやり方だった。さらに不満や不平は我慢したり耐えたりしないで、吐き出す方がよいという考えもある。一面では精神衛生上役に立っていると思う。でもそれによって仕事を続けられないというのは本末転倒である。あなたにとっても不本意なことだろう。そこで提案だが、吐き出す相手を変えてみたらどうだろうか。人事担当者の前ではとりあえず「はい、よく分かりました」と答える。絶対に矛先を人事担当者に向けてはならない。でもそこで不平不満があるのなら私宛に話してみたらどうだろうか。私に話せばストレスが発散できるのなら聞いてあげる用意がある。私はあなたの話を聞いて交通整理をしてあげてもいい。会社の理不尽さについてはどう交渉するかはお互いによく考えてみよう。またあなたが我慢して妥協した方がよいことはそれなりに教示させてもらう。またどうにもならないで不平や不満が解消しないこともなかにはあるだろう。そういう場合もあることは分かって欲しい。でもあなたが本当に望んでいる事は70歳まで元気に働いて、少しでも生活の足しにしたいということではないのですか。私はそのためには、少し物足りないけれども、あなたの力になるという覚悟を決めますよ。彼は性格上不本意な様子ではあったが、一応納得はしてくれたようです。幸運を祈りたいものである。
2015.03.03
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私は自己中心でどうも相手への思いやりがなくてダメな人間だという人がいます。そういう自分が嫌だというのです。そういう人の頭の中には、自分のことはさておいて、困った人がいればすぐに助けてあげたいという気持ちがあるのです。他人中心の気持ちが強いのです。それは果たして良いことなのでしょうか。ホームから落ちた人を助けるために飛び込んでいく人がいます。川や海でおぼれた人や流されている人を見ると救助に行く人もいます。火災の中取り残された家族やペットを助けるために飛び込んでいく人がいます。それはそれで素晴らしいことです。それは多くの人から賞賛されます。私も否定はしません。それはとても勇気のいることです。でも普通は多くの人は見て見ぬふりをしているのです。なんとかしてあげたいと思いながらも手も足も出ません。それは自分がかわいいからです。人間には強い自己保存欲求が備わっているからです。自然の創造主はすべての人間を自己中心に作っているのです。それが偽らざる事実なのです。すべての人間はもともと自己中心的にできているのです。そう考えることができれば納得できます。だから恥じたり、罪悪感を持ったりすることはありません。むしろ自己中心に磨きをかけることを提案します。言い換えれば、自分の正直な気持ちを押さえつけたり、我慢したり、耐えたりすることはまちがいのような気がします。相手の思惑に沿うように考えたり、行動することは考えものです。これは相手の機嫌を損なわないように、相手に好かれるように思考したり行動するために、自分の気持ちを無視したり、抑圧したり、否定して生きることになります。相手に合わせて生きることです。これは自分中心の生き方を無視して、他人中心の生き方を基本にしているので苦しくなるのです。ですから大切なことは、自己保存欲求に従ってどこまでも自己中心を貫くことだと思います。これが出発点です。基本です。自己をないがしろにして他人中心の生き方は「偽物」だと思います。「人」と「為」をくっつけると「偽」(にせもの)という字になります。生き方が自然ではない。人間本来の生き方ではない。「偽物」ということになります。森田では自分自身の好奇心や興味に沿って、意思、思い、目標、希望を前面に出す生き方を勧めています。これを「生の欲望の発揮」といいます。それを追及していくことが一番です。その次に、生の欲望には必ずそれを制御する気持ちが湧きあがってきますので、それを活かして、欲望とのバランスをとった生活を心がけましょうと言っているのです。この順序を守ることはとても意味があると思います。
2015.01.27
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外村仁さんのお話です。日本の企業が外国との交渉において気になることがあるといわれる。日本の企業の担当者はプレゼンの時自分の言いたいことはすべて言っているつもりになっている。ところが、外国人からしてみると、日本人は何を言いたいのか全く分からない。たくさんの選択肢は豊富に説明してくれるのだが、自分はこれをお勧めしたいというものの提案はない。私の仕事は豊富な選択肢を提供するのが任務である。その先の選択権はすべてあなたにあります。自由に選んでくださいという考え方である。これは海外企業を相手のプレゼンでは通用しない。サービス精神のつもりで、先方の意見をまず最大限に伺おういう気持ちなのかもしれない。でも外国人にしてみれば、情報だけ取って、自分はこうしたいというプラスになる提案は全くしない。仕事に対する真剣さに欠けているとみるのである。また自分の意見を述べないということは、責任回避ではないのかとみられる。情報過多のプレゼンをして「私はやることはすべてやった」ということで相手に丸投げする。そして相手がその中から一つを選択するとする。すると「私が勧めたのではなく、あなたが選んだのだから、どんなことがあっても自己責任ですよ」という言い訳を用意しているように感じる。さらに、責任回避を感じるのは「うちの会社はこう思っている」という言い方をする。自分はこうしたいというように、決して自分の意思を明確にしない。はたしてこの人は真剣にビジネスに取り組んでいるのだろうか。交渉相手として信頼できるのだろうかと懐疑的になってしまう。相手を思いやるということはとても大切なことです。これは日本人の良いところです。でもその前に自分の気持ち、意思、希望はしっかりと持っている。それをできる限り表現する。相手に伝えていく。という作業が重要なのではないか。相手の思いと自分の思いを双方で共有していく。そこから双方の食い違いをどう埋めていくのかを調整しあっていく。この流れがビジネスのみならず、コミュニケーションにおいて必要なのではないか。ここで日本人の思いやりの良さが存分に発揮されるとよいのではないでしょうか。(スティブ・ジョブズ驚異のイノベーション カーマイン・ガロ 日経BP社 373ページより一部引用)
2014.11.11
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昨日の新聞によると全国の小学校が2013年度に把握したいじめは前年度より1421件多い11万8805件で過去最高を更新したと報じている。いじめは学校のみならず、会社でも、近隣関係でもどこでも発生する。昨日に引き続きいじめを考えてみたい。「人はなぜいじめるのか」という本ではいじめにとらわれやすい人は、親に愛されたという感覚を持っている人が少ないといっている。自分が存在することを他者から望まれ、共に生きていきたいと求められているという、存在することへの「基本的肯定感」はまず両親から与えられる。これが欠落しているのである。確かにそうであるが、過干渉、過保護、無関心、自由放任で育てられて大人になった人はどうすればいいのか。もはや過去はやり直すことはできない。そういう人は身近な友達、恋人、配偶者、子供、会社関係、学校、集談会の学習仲間、ボランティアの仲間、趣味や同好会の仲間、同級生、親せき、町内会の仲間などの付き合いの中で暖かい人間関係を一つでも持つことが大切なのではなかろうか。私は幸いにも、集談会と老人ホームの慰問活動の仲間との暖かい交流を持つことができた。つらいことがあっても、親身になって聞いてくれる人がいたので、乗り越えることができたと思う。次にこの本では無宗教の人もいじめにとらわれやすいといっている。意外なことのようであるが一理ある。外国では無宗教の人は危険人物とみなされるという。外国人はそれだけ宗教への信仰は深い。さしずめ日本人の多くは、外国では危険人物とみなされることが多いだろう。宗教は心のよりどころとなるものである。欲望の暴走を止めて生きるための指針となるものであろう。宗教を持っている人は心のよりどころを持っている人である。人の思惑に振り回されることは少なくなるだろう。日本人は仏教が宗教という人が多いと思うが、葬式宗教であり生き方とは程遠い。だからといって新興宗教を勧めているわけではない。でもここで大切なことは、宗教の信仰というよりは、心のよりどころとなるものがあるかどうかというのがもっと大切なのではなかろうか。そういう意味では森田理論学習をして、神経質者としての生き方を学び、心のよりどころを得るというのは、外国人が宗教を持っているのと同じような意味合いがあるのではなかろうか。森田理論を体得すると生涯にわたって迷いがなくなる。自信を持って生きていくことができる。これが大事なことだと思う。神経質性格を持っている人は、是非森田理論で心のよりどころを獲得してほしいものである。
2014.10.18
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不安、恐怖、不快な感情の対応について考えてみました。まず不安、恐怖、不快感は、我慢を続けているとどんどんたまり続けてきます。自然に消えてなくなるというよりは、蓄積され大きく育っていくケースが多いのです。ごみや便秘でもそうですが、有害物の蓄積は心身ともによくありません。どこかで解放させて楽にしてあげることが必要です。よく腹の立つことがあって、我慢に我慢を重ねていたのに、堪忍袋の緒が切れて大爆発することがあります。これは、大爆発することによって、一時的にたまっていたひずみが解放されるので楽になるのです。しかし、そのようなやり方では後々まで遺恨を残してしまいます。だから不満は、できるだけ小さいうちに、その都度処理することが大切です。親業でいう受容と共感的聞き方、私メッセージ、勝負なし法を学ぶのは、このことと関連しています。イッセー尾形の一人芝居を演出している森田雄三氏は、こんな面白い提案をしています。深刻な声で相手の悪口をいうのはいただけません。これを誇張して、うそを交えて話すようにすると、注意が話の工夫のほうに少し向きます。ユーモアも加わってきます。これは言葉を変えれば無責任に話すということです。この頃合いを会得すると、人間関係がスムーズになります。たとえば、「うちの課長は怒ると頭から湯気を出すんですよ」「彼が笑うと唾が飛んできて、吸ってたタバコの火が消えました」「近所のおばちゃんが笑うと、口の中は金銀パールの詰まった宝石箱のようなんですよ」「ねちねちと怒る部長の大きなくちびるを見ていると、激辛の明太子を食べたくなるんですよ」怒りをネタにして、みんなの喜ぶようなユーモアに変える。そうして、怒りを解放させてやるというのはとても素晴らしいと思います。怒りに向いていた注意が話の構成に移りますし、周りの人も喜んでくれます。川柳やユーモア小話のよいところは、意識が創作意欲を刺激して、怒りの解放にとても役立つことです。森田理論学習でも取り上げて作品を披露しあうことはよいことです。それともう一つ、吐き出す相手を間違えてはいけません。本人を前にして吐き出すのは芸がない。田舎のお母さんや、たまにしか合わない同級生、以前勤めていた会社の同僚。酒場のマスター、おでん屋のおばちゃんなどなど。要は話を聞き流してくれる人だ。つまり受容して共感してくれる人に話すことだ。それも真剣になって聞かずに、何かをしながら軽く受け流してくれる人がいいのだ。横綱格は、居酒屋を切り盛りしているおかみさん。藤原紀香のCMにありました。「ふん、ふん、それでどうしたん」と軽く聞き流してくれるような人が一番です。くれぐれも相手と勝負をするのではなく、怒りを吐き出すことが目的なのだということをお忘れなく。
2014.07.02
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2006年に亡くなられた平井信義さんという人がいる。子どもの育て方でこの人の果たした影響は計り知れないものがある。子育て中のひと、これから親になる人、孫のいる人はぜひこの人の本を一冊は読んでほしいと思う。アマゾンドットコムで検索してもらえればいくらでもある。「心のめばえにほほえみを」から一部抜粋してご紹介します。レストランで食事をする時のこと。欧米では、メニューが一人一人に渡されます。それぞれが違った注文をします。料理の選択には、自分の嗜好はもとより、腹具合や懐具合によるわけで、相手が安いワインを飲んでいても、自分が上等のワインを飲んでいても一向に平気です。そのような経験をして帰国した直後、私は三組の家族と中華料理屋へ行きました。メニューが一つしかなかったので、年上の私に、「どうぞ」と渡されました。私は嗜好と腹具合を考えて、料理を注文しました。するとどうでしょう。大人たちは「私も、私も」という状態で、私のオーダーに右をならえをしたのです。私は驚いてしまいました。ところが7歳ぐらいの男の子が一緒に来ていて「ぼくラーメンを食べたい」と言い出しました。私は、きちっと「自己主張」できる子供だなとうれしくなったのですが、隣の席に座っていた父親が「みんな同じものを食べるのに、わがままを言うんじゃない」と怒った口調で言ったのです。その言葉に対して子どもは逆らうことはしませんでした。私は、わがままという言葉が、みんなと一緒に行動しないことに対して言われる日本の社会に対して憤りを感じました。平井さんは「意欲」と「おもいやり」を3歳までに育てておけば立派な青年に成長するといわれています。日本人は人と違うということで悩みます。人の思惑に合わせて生きることを重視しています。欧米人は人と同じということで悩みます。自分の意思をはっきり示すことを重視しています。欧米人は自分の気持ちをはっきりと人前で言える、自立した人間になることを目指します。日本人は自分の気持ちを我慢して抑えて、耐えることを教えます。チームワーク、人の輪があっての自分という考えなのです。森田理論では、自分の感情から出発すること。自分の気持ちや意志を大切にして素直に表現することの大切さを学習します。対人恐怖症から解放されるためには、これらの自覚を深めて、生き方を修正する必要があるのではないかと思っております。
2014.05.27
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他人中心の人は、いつも他者の顔色や反応をうかがいながら考えたり行動しようとするために、自分の感情や意志を見つめる機会が持てなくなってしまい、自分の意志で考え選択することができなくなってしまっている。その上、人の心や気持ちをうかがいすぎているために、「自分が主張すれば嫌われてしまうのではないか。見捨てられてしまうのではないか」と考えたり、「主張するには、相手と戦わなければならない。相手に勝たなければならない」と考えて、「責められるのが怖い。攻撃されるのが恐ろしい」からと自己主張をするのをあきらめてしまっているのだ。それで結局我慢して、心の中で相手を責めて、相手に振り回されながら不平不満を募らせていくという悪循環に陥っているのである。我慢する、耐えることが習慣になっているために、不満やストレスがどんどん蓄積されていく。それが耐えきれなくなると、最後には爆発する。超新星爆発、ダムの決壊のような現象を起こす。そして修復不可能なほど人間関係は悪化する。(もう他人に振り回されない 石原加受子著 11ページを参照)これに対して自分中心の人は、自分の感情、五感の感覚、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望を大切に、第一に優先して考え、行動しています。そういうことが実践できている人です。自分の気持ちが楽か、自分の体が楽かを重視する。そういう人は自分の中で葛藤がなくなり、楽になります。そのためには自分の気持ち、感情に気づく自分の○○したい。○○したくない、といった欲求に気づく自分の「好き嫌い、快、不快」といった感情を基本にする相手よりも、まず自分の意思を最優先する自分の気持ちを基準にして「断る、引き受ける」を決める。相手の気持ちを思いやることは大切だが、順序が逆になってはならない。まず自分の気持ちを明確にして、その次に相手の気持ちを推し量り妥協点を見出していく。どんなに理想から離れていても、現実の自分を認める。理想としては自分を大好きになる。自己を肯定する。自分のどんな感情、どんな気持ちも受け入れて味わい、実感する。自分の意志を尊重し、それを実感する。自分のために、自分を自由に表現して生きる。
2014.04.21
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人の言うことが気になってしかたがない。人から何かを言われると傷つけられた、責められたと感じてしまう。一生懸命、人に合わせようとして、へとへとに疲れてしまう。自分を批判されているようで相手が恐ろしくなってしまう。みんなと一緒でなければ、取り残されたような気持ちになって落ち込んでしまう。自分が人と違うことをやったり考えたりすると、悪いことのように感じてしまう。反対に、相手の悪口を言わないではいられない。不平不満が募って、それを考えるとつらくなる。人に何か言われると腹が立ってしかたがない。自分ではそのつもりがないのに、なぜか人と衝突してしまう。自分では怒っているつもりはないのに、何恐ろしい顔をしているんだといわれたことがある。他人の言動にとらわれていると、自分の容姿、欠点、ミス、失敗などが気になるようになります。するとすぐに自分を否定してしまいます。すぐに飛躍して、自分の人格や人間性を否定してしまい、もう自分は生きていく価値はない。そんな自分は死んだほうがよいのではないかと短絡的に考えるようになります。たとえば自分がハゲだとすると、自分は価値のないつまらない人間だ。きっとみんなもそのような目で見ているに違いないと思ってしまうのです。ハゲていることは、自分の人間性や人格とは関係のないものです。ハゲは遺伝で自分の責任ではありません。出来ないことにくよくよ悩むよりも、あっさりとその現実を認めてしまえば楽に生きられます。その悩みに向かうエネルギーを生の欲望の発揮に使うことが大切です。また料理の苦手な主婦の方がいます。料理が下手だから結婚できない。自分はダメな人間だと考える必要はありません。料理が下手なことはあなたの人間性や人格とは関係ありません。料理が下手な自分をあっさりと認めてしまうと、料理が上手になりたいと具体的に行動することができます。自己否定してしまうと生きることがつらくなると思います。(もう他人に振り回されない 石原加受子著参照)
2014.03.13
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自己中心な人は自分勝手な人です。自分の利益になることなら、いくら他人に迷惑をかけても構わないという人。人から何を言われても平気、身勝手、わがまま、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人のこと。自分中心、自分本位というのは、自分の感情を否定しない、無視しない、抑圧しないで感じとしっかり向き合い、正面から受け止めること。そして自分のやりたいこと、自分のやりたくないことにはっきりと自分の意思を示せることです。自分中心、自分本位の生き方のできる人は、他人を責めたり、無視したりしません。他人の気持ち、感情を尊重します。他人の○○したい。○○したくない、といった欲求を尊重します。他人の「好き嫌い、快、不快、苦楽」といった感情を尊重します。他人の意思を尊重します。他人の「断る、取り組む姿勢」を心から認めます。つまり自分の「かくあるべし」を相手に押し付けることはありません。だから他人と調和しています。相手の気持ち、感情、言動の自由な動きを「あるがまま」に認めて尊重します。無意識の感情や気持ちと意識している感情や気持ちが寄り添っているので葛藤や悩みがありません。森田理論は今まで認識の誤りの是正を中心に学習してきましたが、これからはそれに加えて他人中心の生き方を自分中心の生き方に変更することも付け加えたいと思っています。森田理論学習はそのように変化していくべきものだと考えています。
2014.03.12
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会社を休みたいときに、みんなが忙しくても平気で休む人がいます。やりたくない仕事は拒否するので、仕方がなく、他の人で手分けをして仕事をしている。上司の指示にいつも逆らって、自分勝手な人がいます。思い付きで、自分の好き勝手なことをして、他人に迷惑をかける人です。そんな人は他人の思惑に左右されることはありません。自分の気持ちや意志を大切にしています。自分中心的な生き方ができるので、悩みがなく活き活きと生きてゆけるように錯覚します。でもこれは人間関係がすぐに破たんすると思います。これは自分中心ではなく、自己中心主義の考え方です。本能のままに行動するようなものです。普通の人がそんなことをすると、罪悪感が湧いてくるはずです。人間の心には精神拮抗作用といって、あることを考えれば、それに反対する考えも自然に沸き起こってくるようになっています。自分の気持ち、意志を持つことは大変大事ですが、そのあとは周囲の状況をよく見て自分の気持ちや欲望と調和を図ることが大切です。そして中庸を心得て生活することです。
2014.03.12
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2014年3月号の体験談にこんな話がある。64歳女性の話である。姑との軋轢で苦しんだ人である。姑は大正生まれの気の強い人で、私が言い返すと何倍にもなって返ってくるので、そのうちだんだん、私は自分の言うことを抑えるようになってきました。母と祖母の確執を見ていたので、自分が我慢しさえすれば、この場が丸くおさまるのであればそうしようと思いました。姑は私が主人に何か家事を頼もうとすると、あまり良い顔をしませんでしたから、ことを荒立てたくない私は、いい嫁を装うために自分のできることは自分でやろうと思いました。私が言わないものだから、主人もそれでいいと思ったのでしょう。主人はどんどんわがままになっていき、私は一人で歯を食いしばるように、姑や子供の世話をしてきました。これは他人中心の生き方です。このような話は家庭だけではなく、職場でも、親せき関係でもよくあることです。他人中心の生き方は自分の感情や気持ちを拒否、無視、抑圧、否定するので、ストレスがどんどん積み重なってゆきます。最後に大爆発をしては後の祭りになる可能性が大です。自分の感情やこうしたいという気持ちを我慢したり耐えたりするのは問題の先送りです。問題が小さいうちに解放してやるということが必要です。しかしこの方の体験談を読んでいると、自分中心の生きた方に変えられています。長野から東京への森田理論学習の会に参加されたのです。姑に事情を話して了承を取り付けられました。そして片道3時間もかけて参加されたというのです。その後は毎月集談会にも参加するようになりました。代表幹事も引き受けられました。弾みがついたのだと思います。現在は退職されて、カルチャーと集談会、ボランティア、時々登山の日々だそうです。この方は、他人中心の生き方を自分中心の生き方に転換されています。不安や怒り、イライラした感情なども自分が耐えるだけではなく、自分が楽なるためにどうやって解放していこうかと考えるようになるとさらに良い方向へと向かいます。
2014.03.09
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落合博満選手のバットはミズノの久保田さんが作っていた。1995年(平成7年)シーズン終了後、40歳を超えた落合選手が岐阜の工場にやってきた。久保田さんが作ったバットを2本持っていた。その2本を並べて一本のバットのグリップが細いという。計測すると0.2ミリ細かったそうだ。久保田さんは落合さんに聞いた。「私の中では、0.2ミリの誤差が許せない理由が十分に理解できません。どうしてダメなんでしょうか。」落合選手はバッティングのメカニズムを丁寧に説明してくれた。バットは強く握ってはいけない。ボールがバットに触れた瞬間に、ギュッと握りしめる。その時バットのグリップが細いと手の中でグリップが遊んでしまう。ゆるんでしまう。だからダメなんだ。落合選手はバットは棒のように使っていけない。鞭のように使うのだ。グリップを絶対に強く握ってはいけない。バットが下に落ちるぐらいソフトな握りでよい。また落合選手はその工場内で木目が乱れて、見た目のよくない素材に「なんでこんなにいい顔をしたのがだめなの」といったそうだ。このヒントは1978年に来日したピート・ローズ選手が語っている。彼は、みんなが喜んで使っている3ミリの木目で固い材料のバットではなく、10ミリの幅の木目で柔らかいバットを使っていた。ローズ曰く。広い木目のバットを使うのは、ボールとの接触時間が非常に長いからである。ミート時の一瞬の判断でボールを左右に打ち分けるためにはボールのツキが長い柔らかいバットを使う必要があるのだ。落合選手も同じだ。落合選手は、長い選手生活の中で自分の感性、感覚を大切にしてこられたのがよく分かる。理屈や理性ではない。自分の五感である。こうゆう人が森田理論でいう感じから出発するというのである。見習いたいものである。(匠道 講談社刊参照)
2014.02.22
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良寛さんにこんなエピソードがある。地蔵堂という地域に伝わる話である。この町を大きな川が流れている。渡し船があり、権三という船頭がいた。良寛さんを一人乗せた時、「この坊さんは世間から生き仏と崇められているが、どんな人間か試してやろう」と思った。船をわざと揺らしたところ良寛さんが川に落ちた。権三がしばらく見ていると泳げない良寛さんが溺れそうになった。仕方なく権三は手を貸して船の上に助け上げた。良寛さんは、向こう岸につくと涙を流して「助けていただいてありがとう。権三さんは命の恩人だ」といったという。普通他人から無礼千万なことをされると、怒りがこみあげて相手を非難するのではないだろうか。今なら裁判に訴えるという人がいても不思議ではない。私はこの話を聞いて思った。良寛さんには無意識の信念として、人間に対する信頼感があったのではないか。人間は人に対して悪事を働くことはないはずだ。困った人がいると力を貸したり、助け合うのが人間の本来の姿である。という性善説でもって行動されていたのではないか。こういう無意識の信念を持っていると、目の前の出来事を、常に前向きに良いほうにとらえるのである。そしてその連鎖が生まれる。次から次へとプラスの出来事が自分の周りに引き寄せられてくるのである。こういうプラスの無意識の信念はどうしたら生まれるのだろうか。3つあると思う。1、 今に生きることである。忌まわしい過去の出来事に悩んだり、これからのことに取り越し苦労していると今がおろそかになる。今現在に集中しないと、観念的になり、是非善悪の価値判断に意識が向くようになる。するとマイナスの無意識の信念が作られてくる。2、 自分、他人、物の存在価値を意識して、利用したり活用することを心がける。森田理論学習でいう事実を受け入れて、自然に服従する態度を作り上げることである。「かくあるべし」で現実や事実を否定、拒否、抑圧、無視していると、マイナスの無意識の信念が出来上がってしまう。3、 自分中心に生きることである。自分の感情、気持ち、意志に反したことはしない。好きか嫌いか、快適か不快か、楽しいか苦しいか、そうした感情から出発することである。感情を素直に表現する。他人の意向ではなく自分の意志を第一に打ち出して生活する。良寛さんは過去や将来のことに思い煩うことなく、今現在を大切にされている。欲は最低限度に抑えて、どんな理不尽なことでもそのまま受け入れている。普段は詩や短歌、書道をたしなみ自然に溶け込んで生活されている。
2014.02.21
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他人の言動に対して、不安や恐怖を感じる。それはいい。でも、怯えたり逃げたりしていると、相手はますます調子に乗っていじめたり、批難したりやりたい放題の状態になる。自分の不安や恐怖の感情を言語化して、自己表現していけば相手に響く。相手を責めるよりももっと効果が期待できるのである。また相手を叱責するエネルギーを自分の感情を味わうことと、表現することだけに集中できるので、無駄なエネルギーを使い果たすことがない。相撲でも恐ろしさのために、つい引き落としなどの技をかけるとその力を利用されてすぐに土俵を割ってしまうことがある。アフリカの草原でも、ライオンに追われた動物が逃げれば逃げるほど追い掛け回される。ある時、ライオンに追われた小動物が体を反転させ、歯をむいて最後の戦いを挑もうとした。勝手の違ったライオンはすぐにはとびかかることができなくなった。しばらく付近をあてどもなく動き回っていた。学校や会社のいじめなども、いじめられて恐ろしがって怯えていると、ますますいじめがエスカレートしてしまうという。自分の感情としっかり向き合う。自分の気持ちや意志を持つ。自分の気持ち意志を表明することは大切なことだと思う。
2014.02.05
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石原加受子さんの「もう他人にふりまわされない」という本に無言電話の話がある。無言電話を受けた人にとって電話の主が誰か分からないのは不気味なものです。相手がある程度分かっても、もし知らない誰かと思うと気持ちが悪い。かける人は相手の反応によって随分違うそうだ。たとえば、相手が・怒って対応する・平静にこたえる・やさしい言葉をかける・黙ってすぐ切る・怯えるなどによって違う。かけた人は、相手が嫌がって興奮してくればくるほど喜ぶそうだ。・相手が怒るとすごく愉快。勝ったって感じ。また怒らせたくなってまた無言電話をする。・「無言電話は止めてください」といわれると、もっとかけてやろうと思う。・「どなたですか」は、言い方による。相手が少しでも私を訝っているような気配があると、脈があるなと思う。・「もう君とは終わったんだ」といわれると、相手に何の影響も与えていない。気にもかけていないんだと思うとむなしくなる。相手が自分中心に淡々と答えると、かける側も案外激しい感情は湧いてこない。・やさしい言葉をかけられたら、堂々と会う勇気はないから、また電話をするでしょうね。・無言電話だと分かるとすぐ切られる。何度かけてもすぐ切られると、そのうちかけるのが馬鹿らしくなる。・怯えて対応する。これは最高。相手が怯えているというのは最高の報酬となる。気持ちがすっきりして愉快になる。目的達成だ。相手の攻撃に対して怒りや恐怖や怯えで対応すると、相手への攻撃をさらにエスカレートさせる。つまり無言電話を何回もかけるようになる。無言電話の話から学ぶことは何か。
2014.02.05
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2014年2月号「生活の発見」誌のセルフケア・プログラムは大変参考になった。まずアサーションについてですが、これは「自己表現」のことだそうです。対人表現には3つのタイプがあるという。1、 攻撃タイプ 「かくあるべし」で相手を責めたり、皮肉を言って相手を責める。2、 非主張的タイプ 相手の反応を勝手に予測して、自分の気持ちを抑え、十分に自分の気持ちを表現できない。我慢したり、耐えたりしてマイナスの感情を蓄積していく。3、 上手な自己表現タイプ 相手を尊重しつつ、自分の気持ちも大切にして、自分の気持ちを過不足なく伝えることができる。例として、やっと終業時間が来ました。車で通勤しているあなたは、旅行用品をゆっくり見て回ろうと思っていました。ところが同僚が、もうすぐ仕事が片付くので車で送ってほしいという。こんな場合1、では、「人の気持ちも聞かずに勝手なことを言われても困るよ」と反発します。2、では、自分の気持ちを抑えて、「ああいいよ」と安請け合いします。でも心の中では、自己犠牲のためストレスがたまります。3、では、「悪いけど、今日は帰りによるところがあるんだ。ごめん。また都合が合えばいつでも送るよ」などと言って丁寧に断ります。3が最も良いことはすぐにわかりますが、現実には1や2の対応が多いのではないでしょうか。特に対人緊張の強い人は、人の思惑を気にして、自分の意向、気持ちを押さえつけたり、無視したり、否定することがあります。そういう小さい我慢をため込んでいくと、処理しきれない大きな問題になってゆきます。仕事をやっていて気づくことですが、その場その場で小さい問題をきちんとけりをつけずに放っておくと、もつれた糸のようにがんじがらめに絡まって、解くことができなくなってしまいます。この場合も同じです。第一に優先すべきは、自分の感情、気持ち、意向です。そういう姿勢を確立することが第一です。そのあとで、相手の意向とすり合わせをしてゆくのです。この順番を守らねばなりません。これが逆になるから、神経症への道を突き進んでいくのです。森田理論学習でしっかりと学び体得していただきたいと思います。
2014.01.31
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森田先生の水の使い方は徹底されていた。風呂の水は洗濯やふき掃除に、庭の打ち水に、草花にと使える限り活用された。無駄に使うということはない。いろいろと工夫して、そのものの持っている能力を引き出して存分に発揮させていこうとする強い意志があった。無駄ものという考えは入り込む余地がない。自分、他人、物、お金、時間には存在価値があるという考え方なのである。人間や物に対する愛が感じられる。そういう視点で、神経症を見ると自分のエネルギーを無駄に使っているように思う。対人恐怖の人は、基本的に他人の思惑、他人の気持ち、言動に注意を払っている。自分のことより他人中心に生きているのである。すると、他人を観察して、他人の思惑の分析や対策に時間をかける。また自分の感情が暴走して破壊活動をしないように、感情を抑圧することに時間を費やす。そして相手に対してどう行動をとろうかと迷うようになる。相手の出方を様々に想定して、行動のシュミレーションをすることに時間を費やす。すると自分のために使う時間というのは限られてくる。5分の1ぐらいしか残されてはいない。これらの時間をすべて自分のことに使うことができるとしたらどうだろう。自分のやりたいこと、挑戦してみたいこと、物を作ること、改善すること。興味や好奇心に従って、楽しいこと、体が喜ぶこと、人が楽しむこと、人のためになること、将来に希望が持てることなどにエネルギーを投入することになるとどうだろう。無駄がなくなり、時間が有効に使えて、自分も周りの人も気持ちがよいのではなかろうか。春のそよ風、紅葉の秋晴れのようなすがすがしさを感じる。ところが神経症にかかわっている人は、自ら暴風雨の中、日本海に船を出しているような状態のような気がする。貴重なエネルギーを無駄にしているのである。
2014.01.12
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集談会でこんな話を聞いた。あるご夫婦の話です。奥さんが夫にむかって、「もし生まれ変わったらまた私と結婚したい」と聞いたそうです。すると「今度は別の人と結婚したい」といってショックを受けたというのです。そのくせその奥さんも、「私は絶対に今の夫は嫌だ」というのです。その夫は、定年まで勤めて家族を養い、家のローンも完済、子供も大学までやったそうです。何が気に入らないのでしょうか。これは「やまのかなたの空遠く幸いすむと人の言う」ないものねだりの考えではないだろうか。他人と比較して、まだまだ上がいる。まだまだ私たちは物足りない。他人と比較して価値判断するという思考中心の態度ではないのだろうか。森田理論学習でいえば、「かくあるべし」優先の生活態度である。自分が結婚する時の感情を忘れているのである。結婚するときは、妥協したとしても、将来に夢を膨らませてうれしかったはずである。あなたの選択は間違いなかったのです。ところが結婚してしばらくたつと、頭で考えた自分の価値観が前面に出てきて、相手の欠点ばかりが目に付くようになってきた。こういう人は高い買い物をしたとしても後から後悔することが多い。ローンを組んで家を買った。高価な車を買った。その時はこれがベストと思っていたが、しばらくすると友人の家がよく見える。他の車がかっこよく見える。自分は失敗した。取り返しがつかないことをしたといって悩む。これはいつも他人や、他のものと比較して、どちらが上か下かと価値判断している人の特徴です。存在価値をおろそかにして、利用価値、経済的価値、他人の評価価値を最大の物差しにして生活しているのです。そういう人は満足することはありません。いつも満たされない欲望を追い求めて、飢餓状態にあります。こういう人は森田理論でいう、自分たちの存在価値を見直してほしいと思います。また、感じから出発するということをよく学習してほしいと思います。その時々の、自分の好き嫌い、快不快、苦しい楽しいという感じから出発する。他人の思惑を考慮したり、他人と比較して自己否定する必要はありません。自分の気持ち、感情、意志、五感、体感などを優先して、自分本位の生活を心がければ、今がまるっきり違って見えてくると思います。過去のことに思い煩い、将来の不安におびえることは少なくなるのではないでしょうか。
2014.01.11
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集談会で連絡係りを引き受けている。集談会の内容や開催場所、参加者の人数などを教えてあげる係りである。ところが神経症で今まさに苦しんでいる人で、自分の悩みを相談してくる人がいる。それも時間無制限で、何度も、気が向いたらすぐに電話してくる人もいる。私が当初苦しみのさなかにあった時は、藁でもつかみたい気持ちだったので、その気持ちはよく分かる。そこでなるべく私の経験の範囲で話してあげるようにしている。ところがそういう状態が、日常化すると大変なことになる。まず自分の生活が乱れてくる。家族にも迷惑がかかる。また電話をかけてくる人は、同じ内容の話を繰り返されるので、返答のしようがなくなるのです。終いには、自分が苦痛になるのです。その態度はそのうち相手にも伝わります。相手は何度も電話をしているうちに、応対してくれるのが当たり前という気持ちになっています。それなのに冷たいような態度をとった。自分を拒否した。無視した。否定した。というようにとられるのです。これは友人や会社でのクレーム処理や同僚との人間関係の中でも発生することがあります。森田理論ではこの問題をどう考えるのか。私は自分の苦痛を我慢して相談に乗るふりをすることは苦しみを増すばかりだと思います。最後になって爆発することになるかもしれません。優先することは、いまイライラしているという感情を大切にすることだと思います。その気持ちを相手に伝えることです。「今、他にしなければならないことがあるので、日を改めて電話してもらえませんか」「いまイライラして考えがまとまらないんです。冷静になりたいので一旦電話を切らせてもらってもいいですか」「仕事中なので、家に帰って相談に乗りますので夜の9時に電話してもらえますか」「電話は苦手なので、メールをお願いしてもいいですか。」また電話がかかってきたら、「今なら30分だけは時間が取れます。30分経ったら、また別の日にしていただいてもよろしいですか。」とあらかじめ時間をくぎる。とにかくだらだらと対応していると、自分も苦痛になるし、相手も自分の対応に不信感を持ちます。最初が肝心です。まだ相談に乗るかどうかわからない時に、自分の対応のスタンスを相手に伝えておくということが大切だと思います。小さいうちに自分の気持ちやスタンスを相手に伝えておくことです。私は以前有名な先生に講話をお願いしたことがある。以前私に患者の相談に乗るように依頼があったので、融通がきくと思っていた。ところがその先生が言われるには、講話を引き受けるには条件が3つあるといわれる。一つは、聴衆を100名以上集める。二つは、交通費は全額支払う。三つ目は、講師料は5万円以上支払う。二つ目を除いてハードルが高すぎて実現できなかった。その時は腹が立ったが、それぐらい自分の気持ちを伝えたほうが、自分が納得して引き受けられるかもしれないと思った。とにかく、少々相手が気分を害しても、まずは自分の気持ちを優先したほうがよい。気の進まない講話は断るに限ると思う。
2014.01.10
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16、 嫌なこと困ったことが起きた時、逃げないでどうすればよいか考える。17、 自分の欠点や弱み指摘されたら認めるし、失敗したときは責任を取るようにする。18、 好きでない人、気の合わない人とも一緒に仕事をしたり、活動したりできる。19、 やりたいこと、ほしいものなどがあれば、自分で計画を立て実行に移していく。20、 その時々の自分の気持ち・体調などによく気が付いてそれに応じて動ける。21、 腹が立つことがあったら、感情的になることはあっても、相手に伝えようとする。22、 気のおけない仲間とならよくおしゃべりをするが、改まったところでは黙っている。23、 何かをやり始めるとき、「きちんとできないのならやめておこう」と思うことが多い。24、 自分の言うことやすることに対して、人が賛成してくれるかどうか気になる。25、 自分のやりたいことがあったとき、人を誘って一緒にやろうとすることが多い。26、 職場や近所で不満がある時、当人には直接言わず、他の人に愚痴を言う。27、 人の役に立ってあげたり、人の世話をするのは好きだが、ナマイキ・エエカッコシイといわれたくない。28、 自分と違う意見の人や、やり方の違う人と何かするとき、妥協しないで自分のやり方を通す。29、 外で嫌なことがあると、つい家族や親しい人に八つ当たりしてしまう。30、 自分の意見や要望をストレートに言えるが、思い通りにならないと落ち込む。1番から10番までの○の数を数えてください。これをAとします。次に11番から20番の○の数を数えてください。これをBとします。最後に21番から30番までの○の数を数えます。これをCとします。Aの数が多い人は、非常に消極的で、自分の気持ちをコントロールすることや自己表現のできない人、受け身な態度で、すぐに自分が犠牲になってしまうような人がとりがちな行動や感じることです。Bの数が多い人は、精神的自立、自己表現ができていて、積極的に自分を生かしていこうという態度です。Cの数が多い人は、自分自身は積極的になりたいに、まだそれが身についていなかったり、やり方が分からなくてうまくいっていない時の状態です。ちなみに私はAが7個、Bが2個、Cが4個でした。AとCが多く、Bが少ない人は森田理論学習が役に立つ人だと思います。森田理論学習によって、他人の思惑に翻弄されている状態を少し緩めてやりませんか。
2014.01.10
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自分の感情、五感の感覚、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望を大切にしているかどうか判定するテストがあります。質問は30あります。○か×でお答えください。どちらかわからない時は、△にしてください。これは「自分でできるカウンセリング」川喜田好恵さんの本に載っています。1、 人から何か頼まれると、困る時でも「いや」と言えず、後で後悔する。2、 困ったことが起きると、オロオロしてしまい、自分で何かをするより人に頼りがち。3、 いやな人・嫌いな人の顔を見られないし、そんな場にはいかないようにする。4、 いやなこと・腹の立つことがあっても、自分さえ我慢すれば丸くおさまるときは、そうする。5、 仕事や家族のグチは、親しい友人にも言わないようにする。6、 自分の意見を困ることが多いし、思うことがあっても人に聞いてからいう。7、 家族の機嫌が悪くなることや、子供がいやがることは、自分がしたくてもあきらめる。8、 失敗したり、嫌なことがあった時は、自分を責め、忘れようとしてもつい落ち込む。9、 人にものを頼んだりするのは苦手だし、わからないことを聞くのも恥ずかしい。10、 自分の好きなことのためにお金を使うのは後ろめたいと思う。11、 自分のできることを人に伝えたり、自分の能力を使って何かをするのが好き。12、 買い物・映画・旅行など、気が向けば一人で行くし、一人で外食することもある。13、 人にものを頼まれたり、聞かれたりしても、できないことは断ったり、知らないといえる。14、 時とともに自分の考えや態度が変わることもあるが、自分なりに納得している。15、 自分が人と違っていてもいいと思うし、違っていても気にならない。
2014.01.10
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私の知っている女性の課長さんで正月3日から仕事をしている人がいた。スーパーなどで働いている人ではない。事務の仕事である。その方は普段も12時ぐらいまで仕事をしていることが多い。みんなが休んでいるのに、その人だけ仕事をするというのはしんどいと思う。「私はこんなに頑張っているのに、どうしてみんなは休んだりできるの」仕事が趣味を兼ねているという人は少ないわけだから、そうした不満はたまっていくばかりだと思う。時には辞めたくなるのではなかろうか。その人はよく「私は要領が悪くて仕事が遅いので仕方ないんです」といわれる。そうして、我慢していると心だけではなく、体調面でも不具合を抱えることになるのではないだろうか。考えてみれば私もそうだった。管理職の仕事を抱えながら、部下と同じ量の実務を抱えて、いかにもできる課長というように仕事をしていた時があった。当然残業続きで、たまには徹夜もあった。朝雀がチュンチュン鳴いている中を、シャワーを浴びに家に帰り、また会社にとんぼ返りしたこともあった。土曜日、日曜日も何時間かは会社に出ていた。心身ともきつかった。そのころは胃潰瘍で、治療を続けながら仕事をしていた。管理の仕事よりも自分の実務の仕事に追われ続けた。これは部下を信頼して任せられなかったのである。部下の思惑を気にして、気軽に仕事を依頼することができなかった。全部依頼してしまうと、部下から不公平だといわれるのではないかと恐れていた。またルーティーンの仕事がないと、自分で積極的に仕事を見つけないといけないというのを恐れていた。つまり他人の思惑ばかりを考えて、自分の意志や気持ちを押さえつけていたのです。その後、自分の実務はほとんど部下に振って、実務の仕事を無くしてみた。すると毎日ヒマで遊んでいられるかというととんでもないことだった。部下が休めばそのフローをしなければならない。仕事が滞っているところには、すぐに介入しないとならなかった。業務の改善にも取り組む必要があった。部下の公私にわたるトラブルにも相談にのる必要もあった。新入社員の教育もあった。他部署や上司との折衝。得意先との関係改善などがあった。今までは手を抜いていた仕事である。管理職になると全く仕事の内容が変わってくる。対人関係の悪化を恐れて、今までのように実務にしがみついていることは、自分もしんどいし、会社も迷惑である。部下も「なんだ、あの上司は。管理能力がないダメ上司」と噂するようになる。先ほどの女性管理者も上司に相談して、実務を部下に降ろして管理職としての自分の役割をはっきりしないと、いずれ破綻するのではないかと思う。他人の目を気にするのはやめて、自分の気持ち、意志をしっかりと持つことだと思う。
2014.01.09
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2014年1月号で青木羊耳さんがプラス思考について語っている。マイナス思考に、「もう60歳になりました」「今更パソコンなんかできませんよ」「どうせ女に生まれたんだ」「どうせ男に生まれたんだ」「どうせ結婚して子供もいるんだ」こんなマイナスの言葉ばっかり使ってはいけない。これらは自分で限界を作って、挑戦を最初からあきらめたり、自分の境遇を否定しているんですね。お先はたかが知れていますね。これを次のように言葉を変えるだけでプラス思考に早変わりします。「やっと60歳になりました」「これからパソコンをはじめます」「せっかく女に生まれたんだ」「せっかく男に生まれたんだ」「せっかく結婚しないで一人身で身軽なんだ」「せっかく結婚して子供もいて孫もいるんだ」魔法の言葉のようですね。将来がまだまだ明るく開けてくるような気がします。また自分の今の境遇を肯定しているような気持ちがします。
2014.01.08
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私の集談会の代表幹事は、幹事・世話人の勧誘がとても上手です。見ていると、声をかけた人は絶対に引き受けなければならないといった気持ちはさらさらないのです。うまくいくか、あるいは断られるか五分五分といったスタンスです。断られれば、「まだ少し早かったですね。またいつか時期を見てお願いしますね。」と言って一旦引き下がるのです。そしてまた何か月か経って、「そろそろどうですか」と声掛けしているのです。感触が悪ければ、差しさわりのない言葉で引き下がります。また依頼内容も、相手を見て、幹事会に参加してもらうだけにしたり、そのうち連絡係り、会場予約係り、お菓子係りなどを依頼したり臨機応変なのです。押したり引いたり見事なものです。人に依頼して断られると気分を害するという人は、この人のように断るのは相手の自由だという認識をしっかり持つことが必要だと思います。すると自分に何かを依頼された時も、自分の都合を優先して断ることができるようになると思います。つまり自分の気持ちを自然に打ち出すことができるようになります。それと、意外に役に立つのは、断られたとき狼狽しないように、定番の対応言葉をいくつか用意しておくことが有効だと思います。「ちょっと荷が重いですか。ごめんなさいね。これ以上の負担はかけませんので、集談会だけはぜひ続けてくださいね」など3つぐらい用意しておけば、ムカッとして不機嫌な態度になることはないと思います。対応言葉を用意できれば、断られて元々という気持ちで気楽に声掛けができるかもしれません。ご自分でも工夫してみてください。集談会でうまくいけば、職場などでいくらでも応用できます。
2014.01.06
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集談会でよくある話です。「世話係りをお願いしたら、断られたんです。」相手にも都合があるのは分かるんですが、断られると自分を否定されているようで、傷つくんです。だから、「世話役や幹事になってください」とお願いするのは気がすすみません。嫌な思いをするくらいなら、まだ自分がしたほうが楽なんです。そのうち、会場予約、お菓子係り、会場設営、連絡係り、会計係りなどを全部引き受けている人はいませんか。これは正直言ってきついのです。そのうち、イライラしてきて、「なんで私が全部しなければいけないのよ」「ちょっと見ればわかるのにどうして手伝ってくれないの」「代表幹事なんか引き受けなければよかった。」「もう全部投げ出して、集談会に出席するのもやめようかしら」「何もかも嫌になっちゃった」このケースでは、小さい我慢を重ねて、耐えているうちに、限界を超えて、もう何もかも嫌になってしまっているのです。全部の役割をこなすことは本心ではないのです。表面的には取り繕ってきたのですが、無意識の感情は、みんなに協力してもらい無理なく発見会活動を継続したいという気持ちなのです。
2014.01.06
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2003年2月18日、韓国大邱広域市中央駅で地下鉄放火火災により死者192名、重軽症者148名という惨事があった。この事件でなぜこれほどの死者が出たのか。ほとんど一酸化中毒死である。また放火された車両の死者はわずか6名だった。ほとんどは放火直後に真横に入線した1008号列車に乗っていた人であった。運転手はスピードを落としてホームに入線中に、隣の列車から火が出ていることは分かっていたはずだ。また仮に入線したとしたら、車掌はドアをすぐに開放して乗客を避難誘導できなかったのか。ドアは閉められたままだったという。また乗客は最初のうちどうして平然と椅子に座っていたのか。疑問は多い。私はこの事件を見て思うことは、我々人間は、進化の過程で、危険なめに合うと偏桃体ですぐに恐怖を察知するすぐれたレーダーを持っている。危険を感じると即座に戦うか、逃げるか判断して、素早い行動をとるようにできている。その機能が、運転手にも車掌にも、鉄道運行管理者にも乗客にも働かなかったということではないのか。肉体が脅威にさらされていること、恐怖の感情が直感的に働かなかったということだ。これは感情をコントロールしようとしてきた現代人すべてに言えることだ。狩猟採集時代に、もし仮に現代人が生きていたとすれば、すぐに猛獣の餌食となっていることだろう。これは普段、感情を抑える、我慢するという態度が習慣づいているということではないのか。そうすると命に係わる事態が、目の前に迫っても回避できない。また、他人の動向を見て自分の行動を決定するという行動様式では、即座に逃げるという対応が不可能になるという事例ではないだろうか。自分の五感を信頼する。自分の感覚を大切にする。自分の感情を第一に優先する。これらは、切羽詰まった時に、一瞬の選択として生死を左右するという教訓だ。
2014.01.05
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正月のおせちを作っていると夫が来て、「評判悪いのにおせち作るの」といわれた主婦のつぶやきが載っていた。頭にきたので、投稿したのだと思います。それも一つの解消法です。これに対して、そんなのはスラッと流せばいいのよ。という投稿もありましたが、それができないから投稿しているのではありませんか。普通の主婦は、怒りをそのまま夫にぶっつけるのではないでしょうか。「あなたは何もしないでテレビを見てるだけじゃない。掃除を始めるとちょっと出かけてくるとか言ってどこかに行ってしまう。全く手伝わないで、勝手なんだから」「あなたは、正月はカップラーメンとレトルト食品やピザだけでいいの。私と子供は外食するから、あなたは自分一人で好きなものを食べてよ」などなど。この対応はどうでしょうか。これらの対応は主語が「あなた」になっています。相手に怒りをぶっつけて、自分の気持ちをスッキリさせようとしています。この対応だと、相手を自分の考えているようにコントロールしようと働きかけることになります。相手は自分の思うように動かすことはできません。あなたは自分の考えと相手の言動のギャップでさらに傷つくことになります。さらに、夫と自分の力関係が一方的で、夫がいつも家来のように自分を扱っているとすると、自分の気持ちを表現しないで我慢するということがあるかもしれません。対人恐怖で悩んでいる人にありがちです。我慢したり耐えると、その不平不満はどんどん蓄積されて、夫に対する憎しみは、恨みとなって固定されるでしょう。森田理論でいうと、自分に湧きおこった感情を、そのままに伝えるということになると思います。「私はすごく傷ついた。作る意欲がなくなった。冷静でいられないから一人にして」この場合、夫がどう反応するかは、夫にしかわかりません。また、自分の感情を表現する前に、事実を確認してみてはどうでしょうか。「評判が悪いといったけど、あなたがとって評判が悪いの。子供たちの評判が悪いの。おじいちゃんやおばあちゃんの評判が悪いの。」「味付けがよくないのかな。それとも黒豆とか、煮しめとか、揚げ物のメニューに問題があるのかな」事実を確認して改善点が見つかればよいのですが、夫の気持ちに対して腹が立ったのなら、それを抑えることなく受け止める。そして私メッセージで吐き出すことが有効であると思いました。
2014.01.01
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集談会で介護の話がよく出ます。年老いた親の介護をどうするかということです。毎日付き切りで、食事、洗濯、入浴、排せつの世話をするのは大変です。ましてや認知症などを抱えているとさらに苦労します。さらに仕事を抱えていたりすると困難です。森田先生はそんな時は、嫌だなあと思いながら、仕方がないと思いながら手を付けてゆけばよいといわれています。行動することによって、不快な感情が流れていくといわれています。私たちは普通、自分の親の介護は何が何でも自分でしなければいけないと考えます。思考が優先して「かくあるべし」で自分を追い込んでゆきます。そうなるととてもしんどい。自分もしんどいし、介護されるほうも親身に面倒を見てくれないとストレスがたまります。ある時、介護は嫌だという自分の気持ちを否定してはいけないのではないですか。という方がおられました。その方が言われるには、自分の気持ちを最優先して、そこから考えてみるほうがよい。いやいや介護に取り組むのは親に対して失礼だから、そんな考えを持ってはいけないと考えるほうがおかしい。その結果として、森田先生のようにいやいや行動してもよい。または介護施設に預けてもよい。ヘルパーさんに頼む。兄弟姉妹に協力を要請してみる。いくらでも対応方法が考えられます。でも自分が選んで方法については、責任を取らないといけません。たとえば介護施設に預けて、兄弟姉妹や親せきから「ろくでなし」と責められたら、その責任は自分で取らないといけない。これは自分の気持ちや意志を尊重することは自由にしてもよいが、その結果は自分で背負っていくということです。これがまさに森田理論的な対応だと思いました。
2013.12.30
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私は人と仲が悪くて人間関係が悪化してもよい。ただ家族のために餌をとってきて、なんとか暮らしていけばよいのだと気持ちを入れ替えることができました。すると気持ちにゆとりが出てきたのです。ハンドルでも「あそび」があります。「あそび」がないとちょっとしたトラブルが、自分の一生を左右するような大きなトラブルに発展することがあります。いっぱい、いっぱいのところで頑張るというのは、それはそれで尊いことだと思います。私はその道は遠慮したということです。その方向で特化して仕事に取り組むようにしたのです。当然熱意といったものはありません。みんなの足を極端に引っ張ると辞めさせられることがありますので、そこそこの仕事はします。でもやりすぎはいつも抑えるようにしていました。とにかく餌をとるのが目的ですから、気持ちとしてはのんべんだらりとその日一日を過ごすことに注力しました。上司からしてみると、なんとかならないのかと苦々しく思われていたかもしれません。でも普通の会社では、そんな理由で解雇することはできないのです。また神経質者は完全欲が強すぎますから、それぐらいの気持ちでちょうど普通の人と同じぐらいの仕事をこなしているのだと思っていました。転職をしたいと今すごく悩んでおられる方がおられると思います。森田理論を応用してこのような考え方もあるのだというところを学んでほしいと思います。
2013.12.28
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「かくあるべし」で、「嫌なことがあっても、我慢して仕事を続けなければいけない」「家族を路頭に迷わしてはいけない」「そんなことに耐えなれない自分はだめな人間だ」「次の仕事が簡単にあると思っているのか。あっても給料は下がってしまう」「現実の苦しみから逃げてはいけない」などと自分を責めないでほしいのです。自分はやめたいのだというその気持ちだけは否定しないで、きちんと向き合って、しっかりと受け止めて自分をいたわってやってほしいのです。仕事を続けるか辞めるか決定権を持っているのは自分です。そういう自由を与えられているという点はしっかり認識したほうがよいのです。その認識を持てるかどうかがとても重要なことです。もしそこを土台にして仕事にあたると、取り組みが変わってきます。仮に経済的な理由で辞めることはできないと判断したとします。森田の精神拮抗作用で考えると、どうしてもその方向で着地することが多いでしょう。するとだめなのかというと決してそうではありません。仕事に対する目的、会社での人間関係はいい意味で明確になります。これが重要なのです。私は集談会で、会社で仕事をするのは、人間関係を改善しないと仕事に集中できないと愚痴をこぼしていました。ある方が、「仕事というのは第一に、自分の食い扶持を得てくることが目的だ。あなたは月給鳥という鳥になって餌をせっせととってきなさい」といわれました。私はこの言葉で「ガアーン」と頭を殴られたような衝撃を受けたことがありました。そうか、出世しなくてもよい。管理職にならなくてもよい。実際には管理職になりましたが、大きな成果を上げるということははなからあきらめて、早く閑職に変えてもらうように祈っておりました。実際に出世街道を駆け上った人もいましたが、途中で成果を上げられずに、結局辞めざるを得ない状況に追い込まれた人を数多く見てきました。
2013.12.28
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仕事についている人は、一度は仕事を辞めたいと思われたことがあるのではないでしょうか。人間関係がうまくいかない。上司と折り合いが悪い。仕事がきつい。残業が多すぎる。仕事が難しすぎる。仕事が単調すぎる。出張が多すぎる。ノルマがきつい。通勤時間がかかる。給料が安すぎる。ボーナスが少ない。休暇が取れない。得意先との接待で疲れる。得意先やエンドユーザーとのトラブルに巻き込まれた。などいろんな理由があるでしょう。私は人の思惑ばかり気にしていました。仕事上の人間関係、特に上司との関係で悩み辞めたい気持ちでいっぱいでした。58歳の時に早期退職優遇制度が実施された時、すぐに手を挙げて辞めました。それまでは、辞めたいと思いながらもその思いは果たすことはできませんでした。家のローン、子供の教育費、生活費を稼がなくては生活できなかったからです。転職ということを森田理論ではどうとらえたらよいのでしょうか。私は転職したいという気持ちは最大限認めてやるべきだと思います。そういう気持ちがあるということは抑える必要はありません。逆に抑圧したり、無視したり、否定することからますます仕事に身が入らなくなるのだと思います。その気持ちはもっともな気持ちだと思います。大体人間の行動というものは、森田理論でいっているように、見つめる、感情が発生する。こうしたい、こうしたくないという感情の高まりが起きる。その過程を踏むことによって、自由で積極的、建設的、創造的行動につながるようになっています。ところがほとんどの仕事は、生活費を稼ぐためにいやいや仕方なくしているというのが現状だろうと思います。つまり感情の高まりがない中で、いきなり仕事を押し付けられているようなものです。いやいや取り組んでも、そのうち興味がわき、積極的に仕事にかかわれるようになればいいのですが、ほとんどの人はそうはなっていないと思うのです。それはあなたの取り組み方の問題ではなく、仕事の成り立ち、仕組みそのものの抱えている問題であると思っています。
2013.12.28
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私は、他人が何かにつけて自分を無視している、自分のことを馬鹿にしていると先入観を持ちながら生活していました。それを自分一人で抱えて苦しんでいました。決して自分の思いを言葉に出すことはしませんでした。いつも我慢していたのです。我慢しないで、その気持ちを正直に出すことは人間関係を決定的に壊してしまうと思っていました。しかし、心の中では他人のことを憎んでいました。恨んでいました。そして、心の中でこう呟いていました。「あの人さえいなければ自分の人生はバラ色になるのに」「どうしてあの人は自分を傷つけることばかり言うのだろう」「どうしてあの人は無神経なのだろう」「よくあんな態度で生きていけるものだ。」「いつか罰が当たるに違いない。罰が当たればいいのに」「自分も相手を無視してやろう」「相手にかかわらないようにしよう」自分のことは棚に上げて、相手のことを非難ばかりしていたのです。非は自分ではなく、すべて相手のほうにあると思っていました。自分の心の中で思っていることは、態度で相手に伝わっていたと思います。相手は相手で、あいつは、常に警戒していないと、いつ喧嘩を吹っかけてくるかわからない。冷たく突き放してやろうという気持ちだったのでしょう。潤滑油のない歯車が回っているようなものです。その態度がますます私の気分を刺激して、人間関係が悪化してしまったのです。最終的には、あるちょっとした事件をきっかけにして、感情を爆発して、すぐに修復不可能な状態に陥ることになりました。いつもこのパターンにはまっていると、もう人と付き合うということを避けるようになりました。嫌な思いは二度としたくないという気持ちが強くなってきました。付き合いをあきらめて、一人で過ごすことがまだましなのです。精神的に楽なのです。これは結果的に、人間関係から遠ざかり、自分の活動を狭めて、孤立していく道だったのです。一人寂しく生きていく道につながってゆきました。自分を守ることができない自分に対して、言いようのない絶望感を感じていたのです。天気でいえばどんよりと黒い雲が空を蔽い、今にも大雨が降ってくるような感じです。どこで歯車がくるってしまったのでしょうか。今考えると、我慢する、耐えて、自分の感情や気持ちを抑圧してきたことに原因があったと思います。自分の感情、気持ち、意志をしっかりと持ってそれを打ち出していくほうが、ストレスをためることがないので、人の輪の中に入っていくことができたのではないかと思うのです。森田理論の言う通りのことを実践すればよかったのです。難しく考えないで、自分本位にシンプルに生きてゆけばよかっただけのことです。
2013.12.28
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私メッセージで対応すると、その後上司との人間関係がめちゃくちゃになるかもしれません。でも、我慢して耐えるほうが、自分に与える影響は計り知れないものがあると思います。この上司はワンマンで自己中心で織田信長のような上司です。こういった上司に対して、自分の感情を素直に表現するとこうなるでしょう。間違ってもミスの言い訳をしたり、かっとなって殴りかかってはいけません。火に油を注いで、下手をすると解雇されてしまいます。そうかといって、我慢すれば上司は図に乗って同じようなことを繰り返すでしょう。しまいには家来のように扱われます。我慢したり耐えたりしていると、それがたまり大変なストレスとなります。そして、ある日突然、火山の大爆発のようなことが起きるのです。私も何度か見てきました。即刻解雇になります。ところで「あなたには失望した」と部下に言われると、上司にはとてもこたえると思います。主語を「私」にして、私に沸き起こった感情、気持ちを少しでも伝えることができればよいと思います。それが感情を拒否したり、無視したり、抑圧したり、否定しないということなのです。不快な感情に正面から向き合い、きちんと受け止め、感情を味わうことだと思います。口頭でどうしても言えない場合は、「トイレに行ってきます。顔を洗って出直します」と言って、人のいないところで、独り言で言葉に出して表現してみることです。あるいは、感じたままを文章にしてみるのです。相手を非難するのではなく、最愛の自分を守ってやるために全力を尽くすということです。これで不快な感情をため込まないことになるのです。感情は小さいうちにうまく処理してしまうことが大切だと思います。ただ耐えるだけ、我慢していれば流れるというようなものではありません。そして行動すれば感情は流れるというのは、体験してみると分かりますが、心の中で長らくとどまり葛藤を起こすことになります。
2013.12.27
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会社で自分のミスで会社に粗利で100万円の損失を出したとします。意地の悪い上司はみんなの前で、「このどあほうが。これだけの粗利をあげようと思うと1000万の売り上げを作らないと元はとれなんだぞ。どうしてくれるんだ。仕事ができないんだったら辞めてくれてもいいんだ。代わりはいくらでもいるんだ。」と言って叱り飛ばします。私の勤めていた会社でもこれに近い上司がいました。こんなときどう返答しますか。押し黙ったまま我慢しますか。我慢は最悪の対応ですね。後々まで尾を引きます。我慢していても態度を見れば、怒っている、震えているのはすぐわかります。それを見て上司はますます追い打ちをかけます。森田では不愉快な感情はそのまま受け入れます。そしてその不愉快な気持ちを私メッセージとして表現できれば最高だと思います。こんな流れになると思われます。「そんなふうに無能力者扱いされると、私はとても傷つきます。」「なんだと。上司に向かってたてつくのか。間違えたのはお前じゃないか。反省して謝らないのか。このくそバカが。」「会社に迷惑をおかけしたのは謝ります。でもそんなふうに自分のことを否定されると、私は恐ろしくて仕方ないんです」「なにを寝ぼけたことを言っているんだ。損失の穴埋めはどうするんだ。お前にはできないだろう。だからバカ者だといってるんだ」「そんなにバカ、バカと言われると、私には返す言葉がありません」「反省もしないでよくもそんなことが言えるもんだ。顔を洗って出直して来い。」「ああ、もうたまりません。私は少し中座して休ませてもらいます。私はあなたには失望しました。私はとても残念です。」
2013.12.27
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小柴さんはニュートリノをとらえてノーベル賞を受賞されたました。話を聴いていると、能力があって自由自在に生きておられるかのように見えます。でも東大の物理学科では最下位の成績だったそうです。今だったらとても母校の教授にはなれなかったと思われます。それでも育った時代が、小柴さんに幸いしたようです。小柴さんの言葉です。日本人は先生や年上の人が間違ったことをしても、「先生それは間違っています」とは決して言わない。自分の息子を他人に紹介するときでも「うちの子はとても良い子です」とは言わない。逆に「愚息です。うちの子は出来が悪いです」というのがたしなみのように思っている。アメリカはその点全く違います。たとえノーベル賞をもらったような先生でも、講演していて間違えると、若い大学院生などがすぐに誤りを指摘する。言われた先生も「まてよ、そうかもしれない。うーん。そうだお前の言うほうが正しい」と素直に誤りを認める。私がアメリカから帰ってきて、国内でいろいろと学会がありました。その時私の教わった先生とか全国の有名な先生が講演で間違ったことを私が指摘すると、大変ひんしゅくを買って、以後研究に支障をきたすということがありました。これはあの人は偉大な先生だから、あの人は博士だからということで、あの人に逆らってはいけない。逆に反論されて、批難されたら自分の立場がなくなる。逆らって自分の意見を述べて、そのあと冷遇されては自分の将来に傷がつく。だから我慢するに限るということになる。研究者としてのポリシーはどこにあるのか。そういう小さい我慢を続けていくと、大きな我慢に膨れていく。我慢はストレスになり心も体もむしばんでいく。どんな不快な感情でも我慢する。けなげに耐え抜くという態度はよくない。森田理論学習では不快な感情は、押さえつけてはいけないという。一人で声をだして呟いてみる。紙に書き出してみる。私メッセージで沸き起こった感情を相手に話してみる。こうするだけでも感情はため込まないで済むという。これはぜひ体験で確かめてもらいたいと思います。私はこういう態度で、これからも生きていこうと思っています。
2013.12.22
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この方は自分中心主義を提唱されています。他人中心主義の反対です。この方は60冊以上の本を書かれています。私は取り急ぎ10冊程度読みましたが、どの本も大変参考になりました。森田理論学習との関係では、どんな感情でもあるがままに受け入れる。自分の○○したいという気持ちを大切にする。主題はこれですが、具体例が豊富です。どの本も掘り下げて詳しく書いてありました。森田理論学習を掘り下げて、現実問題を考えてみたいという方はぜひ読んでみることをお勧めいたします。応用森田・生活森田の研究には欠かせない本だと思います。
2013.12.17
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先日のプロフェッショナルはイチローだった。イチロー曰く。ピンクのTシャツを着て球場入りしたとします。その時、多くのチームメイトが「なんだそのTシャツは。女の子みたいじゃないか」と、ケチをつけました。すると自分は次の日は、もっと色の濃いピンクのTシャツを着て球場入りをするというのです。自分がよいと思ったことは、人からぼろくそに言われても、自分の信念を通すというのです。自分を感覚を信じているのですね。他人からどんなにダメ出しをされても、自分は自分を信じる。自分は自分にとって、最大の理解者である。これは分かっていてもなかなかできることではありません。森田理論の核心をついている言葉だと思います。森田理論学習を続けていると、その方向に向かっているなと感じてはいます。
2013.12.17
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以前集談会でこんな話を聞きました。ある中年の女性の方が私は集談会に毎回出席したいのだけれども、主人が、私が日曜日に一人で出かけることをすごく嫌うのです。食事の準備も万端整えていても不機嫌なのでなかなか出席できません。私は「そうなんですか。それは仕方ありませんね」と一応その方に同意しました。ところがよく考え見ると、いつも相手に合わせて自分のやりたいことを我慢しているという態度が、対人恐怖の原因になっているのではないのかと思いました。その方が自分の意志を大切にして、出かけたいところに行くのは私の自由だ、と思って行動するのが大切なのではないかと思いました。もしそういえないのは、私のわがままを無理やり押し通してはいけない。押し通せば主人が腹を立てて私を叱りつける。それを根に持っていつまでも不機嫌になる。すると私が深く傷ついてします。そんな嫌な思いをするぐらいなら、私の気持ちを抑えたほうが気が楽だ。これは出かけるということに、罪悪感を抱いているのです。罪悪感を抱いて無理して出かけると、心から喜ぶことはできません。出かけるときにうそをついたり、不機嫌そうな態度が口をついて出たり、行動に表れたりします。そのふてくされた態度を見て、ご主人もまたエスカレートして非難するということになるかもしれません。夫婦の人間関係は、こうしたちょっとしたボタンの掛け違いがたくさんたまることによって、破滅に近づいてゆくのです。こんな時は、自分が自分の行きたいところへ出かけるのは自由なのだ。その代りあなたが行きたいところへ行くのも自由ですよ。私はそれに対しては無条件に容認しますから。という関係性を持つことが大切だと思いました。自分の気持ち、意志を第一に優先して行動することは、人間関係に良い影響を与えると思います。
2013.12.17
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それは意識を自分の感情に向けていくこと事だと思います。そして自分はどうしたいと思っているのか、あるいはどうしたくなのか考えてみることが重要です。自分は急いでいる。早くいかないと電車に間に合わないかもしれない。だからイライラしている。目的は電車に乗り遅れないようにしたいことだ。すると、口に出てくる言葉は、「すみません。急いでいますので、前を開けていただけませんでしょうか」となるのではないでしょうか。相手が気を利かせてくれれば、うまくいきます。仮にうまくいかなくても、自分の気持ちを伝えることができたということは大きな意味があります。それは怒りや恨みの感情をため込まなかったということです。不快な感情を表現することによって流すことができたということです。反対に、我慢して耐えた。でもそのせいで電車に遅れてしまったとすると、非常識な人に対する恨みは残ったまま。さらにその感情は強化されてしまいます。「感情の法則」が示すとおりになります。つまりここで最も大切なことは、嫌な感情を無視したり、否定したり、抑圧しないで向き合ったということなのです。受け入れたということなのです。そして、次に自分のしたいことに焦点を当てて相手にしゃべったということです。相手を責めたり、非難したりしてはいない。ただ自分の気持ちを相手に伝えているということです。この違いは決定的なものです。この違いは、大きな差になって、生き方そのものに大きく関係してきます。自分の不快な感情をがまんしてため込まず、その時々で小さなうちに受け入れていく。これを森田理論学習で体得してゆきましょう。
2013.12.16
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長いエスカレーターに乗っていて、みんな片方によっているのに、一人だけが反対方向に立っていて、つかえていて前に進めないことがあります。自分が急いでいるとしたらどうでしょう。そんな時は「どうしてこの人は無神経なのだろう」とイライラして腹が立ちます。でも普通は、仕方ないので我慢しています。この我慢するという対応はこれでいいのでしょうか。きっと我慢しているのは、こんなことで腹を立ててはいけない。また言葉に出して注意して、相手とけんかになって、自分が傷つきたくない。不快な気分を味わいたくないという気持ちが働きます。つまり「かくあるべし」で自分を抑えているのです。仮に「そこに立っていては、急いでいる他人が迷惑するじゃありませんか」と相手を非難すると、相手もムカッとして、言い争いになる可能性が高いでしょう。これをよく考えてみると、一つの特徴があります。こういう時の自分の意識は、すべてその相手に向いています。相手は無神経で、どうしようもない人だ。社会人として常識がない。ダメな人だと価値判断しています。心の中では「この馬鹿が」と思いながらも、実際には我慢して耐えているだけなのです。その不満は解消されることなく蓄積されていきます。いずれ小さな不満が、大きな不満に発展していくでしょう。おそらく頭の中は、相手を誹謗中傷する気持ちでいっぱいになっています。問題なのは、こういう人は、何かにつけて、耐えて我慢しているのです。会社でも、学校でも、家庭でも同じような対応をとっています。そして心の中でいつも相手を非難したり、無視したり、否定する傾向があります。つまり自分の「かくあるべし」を押し付けているのです。そしていつもイライラして、怒りまくっているのです。それが顔や態度に表れているのです。人間関係がうまくいくはずがありません。どうしたらよいのでしょう。答えは森田理論学習の中に用意されています。
2013.12.16
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