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人間は自由を制限されることを嫌います。いつも自由気まま、自分の思い通りに行動したいと考えています。しかし社会的動物である人間が自由気ままに行動すると大混乱に陥ります。ルールを無視して、欲望が暴走すると人類の将来はありません。例えば次のようなことが起きます。MR検査では身体を固定されて、細い筒のようなものの中に入れられます。身動きできないのでパニックになって気が狂いそうになります。それがイヤで検査を拒否すると、自分の健康状態を掴むことができません。仕事をしている人は最低限のノルマを果たす必要があります。営業マンの場合は自分の給料の3倍の利益を出さないと会社がつぶれてしまいます。コンサート会場では、スマホはマナーモードにしておく必要があります。また会場内では飲食は控えなければなりません。幼い子どもがいるときは、キッズルームがあればそこで聞くことになります。信号機が赤の場合は停止しなければなりません。信号無視は重大事故につながります。信号のない交差点では、一時停止して安全を確認する必要があります。スポーツでは様々なルールがあります。格闘技などで、ルールを無視すると単なる殴り合いになります。これらの規制は何を意味しているのでしょうか。自由というのは、社会の取り決め、共通認識、規則、ルール、法律、しきたりという枠内でのみ許されているということだと思います。それらを無視して、自分の思い通りに行動すると社会が大混乱します。社会的な生き物である人間にとって決して許されるものではありません。このことは特に子育ての中で大いに活かしていく必要があります。親は子どもに対して、やってはいけないこととやらなければいけないことを、強制力を持って教えていかなければなりません。社会のしきたり、ルール、規則、社会常識、命にかかわる危険な行為、法律などを厳しく教える必要があります。それがしつけと言われるものです。一度で身につかないものは何度も教えていく。子どもが自由に行動してよいというのは、親が決めたルールの範囲内でのみ許されるということです。好き勝手になんでも自由にさせていると、欲望が暴走して放縦児になります。一旦放縦児が出来上がってしまうと手に負えなくなります。親が幼い子どもに、自由に行動できる範囲を教えることは、子どもが大人になったとき、自ら欲望の暴走を防ぐことができるようになります。親は子どもに、我慢力、忍耐力、自制心を身に着けさせるという大事な役割を持っているということです。次に、規制の枠内では子供に対して、自由に行動させることが肝心です。少々のことには目をつむって、敢えて冒険させることです。少々の困難に立ち向かっていく勇気、意欲を育てていくことが大切になります。その時に参考になるのは普段の親の生き方です。森田理論で人生観を確立した人は、好奇心旺盛でいろんなことに挑戦していますので、子どもにとってはとても役に立つと思われます。
2024.08.12
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親になったら子どもをきちんとしつけることが大事になります。その一つに我慢できる子どもに育てるというのがあります。大平光代さんのしつけ方が参考になります。おなかがすいて泣いた時、あわててミルクは作りません。「ミルクを作ってくるからちょっと待っていてね」と声をかけて、台所に引っ込みます。激しく泣き続けてもそのままにしておき、頃あいを見はからって「お待たせ」とミルクを持っていくのです。そしてその待たせる時間を少しずつ長くしていきました。抱っこをせがまれた時も同じ。「お母さんは今、お片づけをしているからちょっと待っていてね」と声をかけてから、台所に入ってしまいます。泣きわめいてもそのままにして、10分ほどたってから出て行って「はるちゃん、お待たせ」と両手を差し出します。でも敵もさるもの、すねて寄ってこない。「じゃあ、いいのね」私が台所に戻りかけると、ギャーギャー大泣き。そこで手を差し伸べると、飛びついてきました。こうしたことを繰返していくうちに「待っていてね」と声をかけると、ちゃんと待っていられるようになりました。長時間ワーワーギャーギャー泣き叫ぶのを聞いていると、抱いてやるほうがどんなに楽かと、何度思ったかしれません。でも負けてしまうと、「泣いたり、ごねたりすれば、なんでもいうことを聞いてもらえる」と親をなめるようになってしまいます。スーパーへ買い物に行った時もそうです。買い物中に「ジュースが欲しい」と泣き叫ぶことがあります。その場で買い与えれば泣きやむわけですが、私は「お買い物がすんでからね」と言い聞かせるだけで、そのままにしていました。とにかく、「あなたのいいなりにはなりません」ということを教えないといけないのですから。すると子どもはしだいに、泣いても言うことを聞いてもらえないということを自覚するようになりました。ミルクを飲まないときは、「次はお昼まで飲めないよ、それでいいの」と言い聞かせ、その間で「おなかがすいた」といっても飲ませません。はじめは目に涙をいっぱいためて抗議をしていましたが、泣いても無駄だと分かってから、口元に少し力を入れてモグモグ。ミルクを吸うまねなのです。そうやって、けなげに耐えている様子を見ていると、子供心にも我慢することを理解してくれたようで、嬉しくなります。私はダメという場合は、ちゃんとその理由を言葉で説明するようにしています。そして約束したことはどんな小さなことでもきちんと守ります。「ミルクを作ってくるから少し待っていてね」と事前に説明し、その通りにすることで、最初泣き叫んでいた子どもも「お母さんはミルクを持って必ず私のところに来てくれる」ことを学習します。我慢することと同時に、人を信頼する基礎が培われるわけです。自分の思い通りにならないことがあるということを自覚できることは大変重要なことです。我慢することができるようになった子どもは、一つの能力を獲得したのだと思います。この能力を持って大人になった子どもは柔軟性があります。人との調和、調整能力としていきてきます。こういう人がリーダーとして活躍できるのだと思います。そして現実、現状、事実を受け入れることにつながります。それは神経症とは無縁の世界に身をおくことにつながります。(今日を生きる 大平光代 中公文庫より引用)
2024.08.07
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樺沢紫苑氏のお話です。先日、ピアノの先生をしている私の友人から、次のように相談されました。「お母さんが厳しすぎる子供は、なかなかピアノが上達しません。そういうお母さんに、どう接したらいいのか悩んでいます」ピアノの上達を強く願う気持ちはわかるのですが、「どうして、そんな簡単なところで間違うの!」「練習が少ないから、なかなかうまくならないのよ!」と、ヒステリックに子供を叱責するお母さんが多いのだそうです。ピアノ教師を目の前にしていても、そういう態度をとっているのです。家ではもっと厳しく叱っているのかもしれません。こうなると当然、子供は萎縮してしまい、「やらされ感」の中で、いやいやピアノの練習をするようになります。いくら練習をしてもほめられることがない。だから、子供たちは無気力になる。だから、練習に熱が入らない。だから、上達せずにやめてしまう。こうした「負のスパイラル」に陥って、さらにピアノから遠ざかります。一方、上達していく子供のお母さんは、「あまり細かいことを言わない」「ほめ上手」といった特徴があるそうです。こうしたお母さんは、子供の自由意思を尊重します。子供の「ピアノが好き」という気持ちを、あと押しするような接し方をしているのです。ちょっと失敗したからといって怒りませんし、「練習しなきゃいけません」とか「○○しないといけません」といった強制もしません。またこうしたお母さんは「叱る」ことよりも「ほめる」ことを重視します。手放しで絶賛したり、過剰に持ち上げるわけではありません。子供との距離が近すぎず、それでいて遠くならないように心がけて応援し続けているのです。ノルアドレナリン型の指導、つまり「叱る」型の指導は、長期間でみると絶対にうまくいきません。それどころか、無気力な人間を作ってしまいます。それに、普段からささいなことで叱っていると、人として間違った行動を是正したいというときに、効果が出なくなってしまいます。叱ることは非常に重要ですが、毎日起きるような小さな失敗まで、叱るべきではないのです。それよりもドーパミン型の指導を主軸として、「しつけ」という部分でノルアドレナリン型指導をとり入れていく。そのバランスが重要です。(脳内物質仕事術 樺沢紫苑 マガジンハウス 105ページ)
2024.07.26
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子どもを持った親は子どもが自立して生きていけるようになるまできちんとサポートしていく必要があります。身体を成長させる。愛着の形成、好奇心、興味や関心を育てる。自分の強みや特徴を知る。困難を乗り越える自立心、自制心、忍耐力、我慢力を育てる。良好な人間関係の築き方、社会の仕組みやしきたりやルールを教える。ファイナンスの知識を教える。手を出してはいけないことと手を出さなければいけないこと、危険なことを教えることなどがあります。子どもは何も知らないわけですから、親が先頭に立って教えていく必要があります。時にはきちんと叱るということも必要になります。これは「かくあるべし」押しつけることとは違います。子ども自身が大ケガをすることが予想されるとき、人様に多大な迷惑をかけることなどは、親は心を鬼にして子どもを真剣に叱らなければいけません。子どもの時に、しっかりと叱らないと、善悪の判断力が身につかなくなります。それが大人になって命取りになることもあります。不祥事を起こして社会から排除されるようなことも起きます。叱るというのは、「わが子が将来生きていくのに必要な価値観を真剣に伝えること」です。逆に、𠮟ることはいやだから、子どもに嫌われたくないからといった理由で、わが子の正すべき行為を見逃すのは、愛情不足と言わざるを得ません。3歳を過ぎた子どもは言葉が分かるようになります。ごまかす、言い訳を言う、話をそらす、笑いをとるなどの様々な対応方法を持ち合わせるようになります。そこで、より必要になるのが、「親の真剣さ」です。目を直視してしっかりと叱る必要があります。注意点は「ここぞ!」という瞬間にスイッチを入れることです。いつまでもダラダラ叱らないということも大切です。短く、真剣に叱った後は、「わかりましたか?」、返事は「はい」もしくは「ごめんなさい」、ここで切り替え、すっぱり日常生活に戻ることが大切です。(モンテッソーリ教育で自信とやる気を伸ばす 藤崎達宏 三笠書房 183ページ)神経症に陥ると神経症と格闘することばかりで、子どものしつけや教育が放置されてしまうことがあります。これは子供の将来にとって大きな問題です。集談会で話し合いや子育ての学習をすることが必須と考えますが如何でしょうか。そのときに森田の考え方が大いに役に立つと考えます。
2024.07.20
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赤ちゃん鳴き声分析器というものがあるそうです。赤ちゃんが泣いたとき、人間に代わって機械が分析する。今泣いたのは、空腹か、退屈か、不快か、眠たいのか、ストレスがあるのか瞬時に見分ける機械である。親は機械の分析結果に基づいて、対応すればよいことになります。親は赤ちゃんを観察する必要がなくなる。育児の手間を省くことができるようになります。何も考えなくても的確な対応が可能になります。その結果、親と赤ちゃんのスキンシップが少なくなります。親は子育てを機械的に処理するようになります。子育ての中での気づき、発見、喜び、感動は希薄になります。この考え方を推し進めていくと、親が育児にかかわらなくても、育児専門職の人が多くの赤ちゃんをまとめて世話した方が効率的だという考え方になります。親は仕事を続け、あるいは自分のやりたいことに専念した方がよい。赤ちゃんにとっても親にとってもメリットが大きい。効率重視の考え方ですがそれで問題はないのでしょうか。実はこの考え方に基づいて、イスラエルのキブツで保育士による集団育児の実験が行われた。母親は体力が回復するとすぐに働きに出た。授乳の時だけ施設に立ち寄って母乳を与える。母親との接触時間はごくわずかだった。生まれたての子どもを、母親と切り離して、多くの大人がかかわりを持ち、かわいがり、十分なスキンシップをしたが、安定した愛着が育つことはなかった。この実験から得られた教訓は、赤ちゃんはすくなくとも生後1年6か月の間は母親がつきっきりで身の回りの世話をする必要がある。母親は赤ちゃんの欲求を感じとり、欲求に応じて速やかに対応しなければならない。これは他人に肩代わりしてもらうことはできない。母親とのスキンシップが人間同士の信頼感、安心感を作り出す。なんらかの理由で親子のスキンシップが遮断されると、他人は自分に危害を加えるかもしれないという被害妄想で苦しむことになる。これは愛着障害と呼ばれている。愛着の形成に失敗すると後で取り戻そうとしても非常に困難となる。この時期を無難に過ごし、いったん愛着の絆が形成されると、それは容易に消されることはない。心の中に「安全基地」「ベースキャンプ」を持っていて、そこを足がかりにして冒険に出かけることが可能になります。子を持った親は子育ての学習をする必要があります。ただ食事を与えていれば、健康に育つというのは短絡的です。生活の発見会でもファミリー集談会というのがあります。今の社会、子育てはほとんど個人に任されていますので、生活の発見会の集談会などで子育てについて話し合うことは大切だと思います。
2023.12.28
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人間は0歳から1歳6か月の間は愛着の形成期と言われています。この間は母親は子どもにつきっきりで世話をすることが必要になります。母子一体の期間を無難に通過すると、次第に親離れが始まります。自立の第一歩です。親離れは他者信頼感に支えられています。他者信頼感は、親や他人は自分に危害を加える恐ろしい生き物ではない。親は自分を犠牲にしても危険なことから私を守ってくれる。ピンチになったときに親身になって相談に乗ってくれる。そういう安心感や包容感が持てるようになるのです。自立すると、目標や夢に向かうことができるようになります。社会の中で他人と折り合いを付けながら暮らしていけるようになります。この感覚は一生ものですから、愛着の形成期を無難に通過した人は、人間関係で躓くことは少なくなります。これは子どもの成長過程を学習しないと分かりません。理解できて初めて応用が可能となります。親になったら、子どもの成長過程、モンテッソーリの自主性を育てる教育、母親の役割、父親の役割、子供との付き合い方などは人生の必須科目となります。私は森田理論の基礎的学習を終えた人は、こういう実践的な学習に取り組む方がよいと考えています。森田学習の応用編として、集談会のプログラムに取り入れるのは如何でしょうか。森田は理論と行動が両輪として作動しないと、うまく機能しないと言われていますので、応用や活用面の学習は必要になると思います。不幸にして愛着の形成が不十分な場合はどうするか。遅まきながら「心の安全基地」を作り上げるように心がけることです。自分の話をよく聴いてくれて、いたわり、励ましてくれる人を見つけることです。そう思える人が一人もいないという人は、生きていけなくなると思います。集談会には尊敬できる先輩がたくさんいます。それ以外にも趣味の会に入っていると、「心の安全基地」に該当する人が見つかることがあります。問題なのは、心の問題を抱えながら家から出ないで一人で悩んでいる人です。内向的な人は、悲観的なことばかり考え、自己否定感が強くなります。愛着障害を癒すために、世話をするものを持つことも有効です。子ども、孫の世話をする。親の介護をする。集談会の世話活動をする。ペットの世話をする。草花の世話をする。果樹や庭木や自給野菜の世話をする。集談会で、他人の役に立つことをしながら、腹を立てることはできないと聞きました。いくつか世話をするものを持っている人は、心が穏やかになります。
2023.11.14
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森田理論に砕啄同時(そったくどうじ)という言葉があります。砕は卵から雛が生まれるときに、自然に成熟して殻を破って出てくることである。啄というのは、母親がそれを嘴でツツキ破ってやることである。これがもし親鳥が慌てて早く殻を壊せば、雛は早熟で生育することはできない。これに反して成熟した雛が、殻を破ることができなければ、窒息して死ぬことになる。すなわち雛が完全に生育するには、砕と啄が同時でなくてはならない。(森田全集第5巻 40ページ)モンテッソーリ教育では、赤ちゃんには11の敏感期があるという。敏感期というのは子どもが人間として必要な能力を獲得する期間のことです。その時期に十分な環境を整えてやれば、子どもはきちんとその能力を身に着けることができます。その時期を見逃してしまうと、後から習得することがとても難しくなってしまう。ここでは敏感期の一例をご紹介します。・言語・・・-0.6歳~5歳半ぐらい・・・胎内で親の声を聞いています。周囲の言語をイントネーション、アクセントも含め難なく習得できる時期です。・秩序・・・1歳半~2歳半が特に強い・・・順番・場所・やり方・位置などにとてもこだわります。いつも同じことが安心感になります。順序だって考え、行動する力が付く時期。・感覚・・・0歳~3歳半、触角は2歳~3歳半・・・視・聴・触・嗅などの感受性が敏感になる。感覚印象の吸収期を過ぎると、およそ2歳半を境に印象を分類・整理する時期へ移る。豊かな感性や感受性を身につける時期です。・数・・・4歳~6歳・・・量や手順などに興味を持ちます。置く場所、順序、多い、少ないなど、日常生活の中の数的な要素に敏感になる時期。・挨拶や礼儀・・・3歳半~6歳・・・「おはよう」「こんにちは」「ただいま」「おかえり」が大好きになる。朝晩の挨拶をはじめ、季節や年中行事の挨拶、外国語の挨拶にも興味をもちます。人間関係の基礎的能力を身につける時期です。親になる人は敏感期の内容と時期を学習することが大事になります。そして子どもをよく観察して、環境づくりを心がける。これだけで子どもの能力は飛躍的に伸びることになります。神経症で格闘している人も多いのですが、子どものしつけや教育は待ったなしです。森田の学習と同時進行で取り組む必要があります。詳しく知りたい人は、「モンテッソーリの子育て」クレヨンハウスをごらんください。
2023.09.10
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先日スーパーに買い出しに行った時のことです。3歳から4歳位の男の子どもが棚からお菓子を持ってきて、お母さんに「これ買って」とお願いしています。お母さんは、「おうちに帰れば同じようなお菓子があるよ」と元の棚に戻そうとします。するとその男の子は駄々をこねて暴れはじめました。床に座り込んで、服を床にこすりつけています。慌てたお母さんは、「みっともないことはやめて。服が汚れるでしょ」と言っています。そのうち周りの目を気にして、「今日だけだからね」と言って買うことにしたようです。こんな光景はよく目にします。どんなことを心がければよいのでしょうか。まずスーパーに行く前に子供と話をするのはいかかでしょう。その時、子どもの意志をある程度尊重して、次のなかから自由に一つ選択させる。1、買い物についてきてもよいけど、見るだけにする。2、100円までのお菓子なら自由に買ってもよい。3、今度来るときには好きなお菓子を買ってもよいので、今日はがまんする。4、今日はお兄ちゃんと家でお留守番する。自分で選択したことは、必ず守らせたいところですが、なかなか難しい面があります。安田さんが形外会で子どもの夜泣きの話をされています。森田先生の回答は次のようなものでした。うるさいと思うのも純な心である。子どものことだから仕方がない。我慢しなければとか型にはまっては少しも進歩はない。一方叱りつけたり、懲らしめたり、菓子を与えて機嫌をとるなどの軽率な行動はもっといけない。神経質者はどちらかに態度を決めなければ収まらないということが多い。どうしてよいか分からないときは、うるさいなという純な心はそのままにして、態度を保留にすることである。不快な感情に振り回されても、決して軽率な行動をとってはならない。ああうるさい、どうしてやろうかとああも思いこうも工夫して、子供を観察したり、他のことをしていると、いつとはなしに、子供は泣きやんでくる。なるほど子供は泣くだけ泣けば泣きやんでくるものだという法則を発見する。(森田全集第5巻 676ページ要旨引用)感情の法則の4では、「その刺激が継続して起こるときと、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるものである」とあります。不快な感情をつつきまわしていると、火に油を注ぐようなことになってしまいます。スーパーで駄々をこねる子供の場合は、子供を気にしながらも、少し距離を置いて買い物を続ける。すると駄々をこねていた子供は、お母さんが取り合ってくれないので、駄々をこねても意味がないことが分かる。いつの間にか、わめき散らしていた問題行動が収まることがあるようです。京都 龍安寺の石庭
2023.08.09
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先日子育てで大変参考になる話を聞いた。その父親は3人の男の子を育てられたそうです。その子ども達がそれぞれ中学1年生になると、夏休みに岡山から九州一周旅行に出したそうです。これが中学2年になるとスポーツクラブなどでレギュラーになる。中学3年になると受験勉強があるので難しくなるということでした。もちろん一人旅です。期間は10日間です。深夜のブルートレーンで出発したそうです。まず別府を目指す。その後は電車やバスや船を乗り継いでの旅です。宿泊先は国民宿舎、ビジネスホテル、民宿などをあらかじめ予約しておく。大分~宮崎~鹿児島~熊本~長崎~佐賀~福岡~別府から愛媛へ上陸。最後は瀬戸大橋を渡って岡山に帰る。それぞれの県でどこを訪れるかは子供たちの希望を優先する。観光案内を見て、子供達に10日間の大まかな日程を立てさせる。行き先が決まると電車やバスの時刻表を見て細かい日程表を作らせる。概要が固まったら親が最終チェックと助言を行う。そして、必需品のチェックリストを作らせる。実際に準備させる。子どもにまかせながらも親がきちんと見守ることが大切だということでした。中学1年生の一人旅はとても不安になるそうです。今までいつも親と一緒に行動していたのですから無理もありません。行く前になると友達と一緒に行きたいなどと言う。あるいは歯が痛い。腹が痛い。熱があるなどと言ったという。あげくの果てには、出発後健康保険証を忘れたなどと言う。そんな言い訳や弁解は一切許さず、有無を言わせず送り出した。ただし岡山駅までは家族全員で見送りに行ったそうです。出かけてみると分からないことやトラブルに遭い予定通りにはいかなかった。例えば、大型台風が上陸して電車が止まったこともあつた。自分がもたもたしていて予定の列車に間に合わなくなったこともあった。今のように携帯電話がある時代ではない。自分で打開するしかないのだ。すると子どもは、予約した宿泊先にたどり着くために、別のルートを開拓していた。親が子どもに教えられることも多かったという。旅先では中学1年生の冒険を応援してくれる親切な人との出会いがあった。カメラを持って行かせたが、最初は景色の写真が多かった。そのうち見ず知らずの人に撮影してもらった自分の写真が多くなった。次男は家に帰ってから、宿泊先などに感謝とお礼のハガキを出した。すると、感激した宿泊先から学用品などの贈りものが届いたという。これらの成功体験は、子どもに自信と積極性を植え付けた。その後の成長につながっていったと思う。3人ともきちんと自立できた。獅子は我が子を千尋の谷に突き落として、這い上がってきた子どもだけを育てるという。現代は我が子を敢えて困難に挑戦させる機会はほとんどなくなった。甘やかせて、好き放題にさせていることが多い。あるいはスポーツクラブ、習い事、塾などに通わせている。親のみならず、祖父母までが一緒になって、貴重な経験の場、成長の芽をことごとく摘み取っているような気がしないでもない。子供の自立と成長を考えるなら、心を鬼にして子どもや孫を突き放すことも必要なのではないか。過干渉、過保護、自由放任の環境の中で育った子どもたちは、自立することができず、依存的な人間として生きていくことになるのではないか。子どもはそのときは喜んだとしても、大人になったとき問題が出てくるのではないか。孫の教育を見ていて歯ぎしりすることが多いと言われていた。
2023.07.25
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神経症で苦しんでいる人は、愛着障害を抱えているように思います。そして、子どもの発達過程に沿った育て方をされてこなかったという問題があります。岡田尊司氏やモンテッソーリ教育を学習して自分の抱えている問題点が分かっても、今や時遅しという気持ちを持っている人もいらっしゃるかもしれません。でもその辛い経験を、子どもや孫、今子育て真っ最中の人たちに伝えていくことができたら、こんなに役立つことはないのではないかと思うのです。自分の辛い経験を反面教師として活用できれば、過去を否定することはなくなります。災い転じて福となすことになります。特にモンテッソーリ教育は実に多くのことを教えてくれています。1歳半から3歳頃の子どもには「敏感期」と言われる時期があります。第一反抗期とも言われています。この時期の子どもは、自分の中にある「秩序」や「ルール」に従わなければならないという、抗いがたい衝動を持っています。ですから、親が子どもの持っている秩序やルールを無理やり変更しようとすると泣いて抵抗するのです。親たちは「またイヤイヤが始まった」思っているかもしれませんが、子どもは何かを嫌がっているというよりは、自分の中にある秩序に従いたいと強く思っているだけなのです。・ある目的のために(物事には順序という秩序があることを知るために)・ある時にだけ(2~3歳のとき)・何かに対して(順序に対して)・非常に強く反応する(敏感になる)この「秩序の敏感期」は、順序、習慣、所有、場所と4つに分かれています。関心のある方は、下記の図書をご参照ください。敏感期は「その時期には獲得することがやさしいけれど、後になると非常に難しい」という特徴があります。親が子どもの「秩序」「運動」「社会的行為」「言語」の敏感期を知っていて、子どものこだわりを受け入れることができれば、子どもは生きていく上で必要不可欠な能力を獲得できるのです。そのために親は子どもにどんな「敏感期」があるのかを学習しておく必要があります。これに関してはモンテッソーリ教育理論を学習すればよく分かります。次に子供が2歳から3歳になったとき、今どんな敏感期にあるかを観察して見極めることです。見極めることができたら、特に危険なこと以外は、子どものやることなすことをなるべく口を挟まずに見守るようにするとよいのです。これだけで子どもは自分一人でいろんな能力を獲得していくようになっているのです。
2023.06.09
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子どもを叱るということは、「かくあるべし」押しつけることでいけないことなのでしょうか。藤崎達宏氏は、子どもを叱ることは必要だと言われています。子ども自身が大ケガをすることが予想されるとき、人様に多大な迷惑をかけることなどは心を鬼にして真剣に叱らなければいけません。子どもの時に、しっかりと叱らないと、同じことを繰り返すようになります。時には命取りになることもあります。叱るというのは、「わが子が将来生きていくのに必要な価値観を真剣に伝えること」です。この部分さえブレていなければ、体罰は論外として、親は自信をもって𠮟るべきです。逆に、𠮟るのがめんどくさいから、子どもに嫌われたくないからといった理由で、わが子の正すべき行為を見逃すのは、愛情不足と言わざるを得ません。3歳を過ぎた子どもは言葉が分かるようになります。ごまかす、言い訳を言う、話をそらす、笑いをとるなどの様々な対応方法を持ち合わせるようになります。そこで、より必要になるのが、「親の真剣さ」です。目を直視して逃げを許してはなりません。注意点は「ここぞ!」という瞬間にスイッチを入れることです。そしていつまでもダラダラ叱らないということも大切です。短く、真剣に叱った後は、「わかりましたか?」、返事は「はい」もしくは「ごめんなさい」、ここで切り替え、すっぱり日常生活に戻ることが大切です。(モンテッソーリ教育で自信とやる気を伸ばす 藤崎達宏 三笠書房 183ページ)森田理論を学ぶと叱責は「かくあるべし」を相手に押し付けることと学びました。叱責は悪いことだからしてはいけないという考え方に染まっています。子育てにおける叱責は、子どもへの愛情の裏返しということが分かります。注意点としては、子どもを叱責する場合、いつまでもネチネチと叱責し続けることがあります。また、過去の過ちを蒸し返してしまうこともあります。これは百害あって一利なしと心得たいものです。
2023.05.19
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森田先生はモンテッソーリ教育を評価されています。自信とやる気、自己肯定感を身に着けさせるために有効だということだと思います。この本によると、3歳から6歳までの子供に両親がどうかかわるかが、その子の人生に大きな影響を与えていることが分かります。たとえ神経症で苦しんでいても、子供がいる方は、子育てを優先する必要がある。神経症で格闘するよりも、子育てで格闘する方がより建設的であるということになります。この著者である藤崎達宏氏によると、子供の成長過程はほぼ解明されているという。つまり何歳何か月になると、どの成長過程に入るということはすでに分かっている。このことを「敏感期」と言われています。敏感期には、運動能力、言語能力、社会のルール、社会性、興味や関心、好奇心、感性、読むこと、書くこと、数へのこだわりなどがあります。敏感期を逃してしまうと、その分野を後から獲得することが困難になる。そのことを親が十分に理解して子供に寄り添うと、子供の潜在能力はどんどん大きく発展させることができるそうです。そして自信とやる気が育ち、自己信頼感、自己肯定感が育つ。他者への信頼感、思いやりも育ちます。子供を持った親は、子供の成長過程を学習して、子供の能力を最大限に伸ばすという使命感を持つ必要があります。子育てに失敗したと思っている人は、今現在子育てで奮闘している親たちに、反面教師になって、このことを伝えていくことが有効です。(実践版 3歳から6歳までのモンテッソーリ教育で自信とやる気を伸ばす 藤崎達宏 三笠書房)
2023.05.18
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中国系アメリカ人のエイミー・チュア氏の子育ては独特です。欧米人の親は子どもたちの自尊心を極度に心配することに私は気づきました。子どもたちが何かに失敗したときに、彼らの感情を傷つけまいとし、テストで平凡な成績しか残せなかったり、発表会で大した演奏しかできなくても、ことあるごとに、あなたは優秀なんだからと言って、子どもたちに自信を与えようとします。つまり欧米人の親は子どもの心理面を気遣うのです。中国人の親は違います。彼らは子どもたちには弱さではなく、強さがあることを前提としているので、結果として欧米人の親とは全く違った行動を取ることになります。例を挙げてみましょう。子どもがテストでAマイナスを取って帰宅したとします。欧米人の親なら、ほとんど子供をほめることでしょう。でも中国人の親の場合、非常にショックを受けて、どこが間違っていたのか、子どもたちに問いただすのです。打ちひしがれた母親は、数十の、いえ数百の練習問題を準備して、子どもがAを取るまで、つきっきりで勉強させることになります。自分の子どもが満点を取れると信じているからこそ、中国人の親は子どもに完璧さを求めるのです。それができない子供に対しては、努力がまだ足りないのだと決めてかかります。この考え方があるから、普通の成績をとった子供は、常に非難されたり、罰を受けたり、恥をかかされたりという目に遭うことになります。中国人の親は、自分の子どもたちは恥をすすぎ、進歩していく強さがあるのだと信じているのです。(タイガー・マザー エイミー・チュア 朝日出版社 68ページ)欧米人の親は、子どもがミスや失敗をした時、子どもがそのことで自信をなくすことを恐れています。子どもを非難、否定したい気持ちを抑えて、慰めたり、励まします。森田理論を勉強した人は、自分の「かくあるべし」を子どもに押し付けてはいけないと肝に銘じていますので、欧米人と同じ対応を取りやすいと思います。エイミー・チュア氏は、親が子どもの傷を癒すことよりも、もっと大事なことがあるといわれているように思います。目標に今一歩到達していないときに、親は子どもを慰めてはいけない。子どもの緊張感の糸を切って、弛緩状態に陥れることは百害あって一利なしだ。子どもが、ホッとして気を抜くようなことを親がしてはいけない。親がすべきことは、子どもがもっと大きな高みに挑戦していくように、子どもに寄り添い、叱咤激励していくことだ。子どもに嫌われても、それが親の責務だ。その能力を子供は先天的に持っているのだから、その芽を親が勝手に摘み取ってはならない。中国の親がよく分かっているのは、何をするにしてもうまくなるまでは楽しいことなどないということです。そのためには努力が必要ですが、当の子どもたちは放っておけば努力などしませんから、親が子供たちの希望など無視することが重要なのです。子どもは反抗しますから、親の方に不屈の精神が求められます。最初が一番大変なので欧米の親は、たいていここであきらめてしまいます。しかし、きちんと取り組めば、この中国式のやり方は好循環を生むのです。(同書 40ページ)親として思うに、子どもたちの自尊心のために良かれとやっていることが、子どもたちにあきらめを生んでしまったら、それは最悪のことではないでしょうか。その一方で、自分にはできないと思っていたことができると知ったときほど、自信がつくことはないのです。(同書 82ページ)友だちのような親子関係は、緊張関係がないので楽ができますが、それでは将来子どもが大人になった時、困難を乗り越えていくたくましさを持てなくなってしまうかもしれません。
2023.01.10
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昨日の続きです。マナー・・・「ほかの人に不快な思いをさせない」というマナーも、子どものうちからきちんと教えるべきことです。スーパーやレストランに行く前には、あらかじめ「騒いで言うことを聞かなかったら帰るよ」と伝えておきます。お店は子どもにとって楽しい場所ですから、外出先で子どものテンションが上がってしまってから注意しても遅いのです。そして、その約束を破ったら、すぐに帰ります。ある日レストランに行ったときのことです。隣のテーブルの2歳くらいの子どもが騒ぎ始め、お母さんが何回注意しても言うことを聞きませんでした。すると、お母さんは食事をお持ち帰りにして、すぐさまお店を後にしたのです。つぎにそのレストランでその親子を見かけたときは、その子は静かに食事をしていました。アメリカでは、「お店で騒いだら帰らなくてはいけない」ということを学習させるために、あえて小さな子どもをレストランに連れていく親も多いようです。しつけをするうえで、「今回だけは特別」「もう一つだけ」「あと一回だけ」。それまでルールを徹底してきても、このような「例外」を作ったとたん、ルールは崩れます。一貫性のない子育てをしていると子どもの意志力を鍛えることが難しくなります。子どもが我慢する習慣を身につけている最中に親がルールを破ってしまうと、意志力を身につける訓練がそこで後退してしまいます。母親と父親の間でも、しつけに関して一貫性を持つ必要があります。うちの娘は、お願いごとがあるとき、私に対しては普段通りの態度でお願いをするのに、夫には泣きながらお願いをします。これは、夫がかわいい娘に泣かれてつい要求に応えてしまったために、娘が「パパは泣けばお願いを聞いてくれる」と学習したからです。「ママはダメでも、パパはいいと言ってくれる」と学習させてしまうと、子どもの自制心を鍛えるのが難しくなります。(世界一の子育て 中内玲子 フローラル出版 211ページより引用)ここで子どものしつけをまとめてみたいと思います。しつけとは、子どもが大人になって、やるべきことから逃避したくなった時、あるいは欲望が暴走しそうになった時、自動的に制御機能が働くような人間に育てていくことだと思います。ダメなものはダメなのだと自分を律することができる人間になることは大切なことです。しつけとは、子どもが自分の身体をいたわり、他人に迷惑をかけないで社会にうまく適応できるようになるために、親や祖父母が一時的に子供と対立しても、心を鬼にして取り組むべき課題であると思います。森田理論では、人間には精神拮抗作用が備わっているといいます。欲望の暴走を自ら制御できる仕組みのことです。その制御機能をきちんと作動させるためにはしつけの役割は大きいと言えます。親になった人は、神経症と格闘しながらでも、子どものしつけにも心を砕いてほしいものです。また一旦しつけの時期を逃してしまうと、後で取り返しがつかなくなることを肝に銘じておきましょう。
2022.11.03
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親になったら、夫婦が協力し、子どもをきちんとしつけるという目標に向かって行動することが大切になります。子供のしつけは、子供の将来のために、親は心を鬼にして取り組まなければなりません。子供が立派な社会人として自立してくれれば、こんなにうれしいことはありません。しつけは親が強制力を持って、子どもを親に従わせることです。ともすると親子喧嘩になります。しつけ方が問題になります。喧嘩はお互いに気まずくなりますので、しつけを放棄してしまう親もいます。そして学校の先生に丸投げしてしまう親もいます。反対に過保護になる場合もあります。逆に過干渉になることもあります。間違いやすいのは、しつけは親が子供に「かくあるべし」を押し付けていることにはならないのかということです。本当にそうなのでしょうか。きちんとしつけないと、子どもが健全に成長して、きちんとした社会生活を送ることができなくなります。後の祭りになってしまいます。それは親にとっても、子どもにとっても不幸なことになります。今日は子どものしつけについて考えてみました。子どものしつけについては中内玲子氏のお話がとても参考になります。「ダメ」と言ったのに子どもに泣かれて言うことを聞いた場合、子どもは「泣けば親は言うことを聞いてくれる」と学習します。これは、「泣けば言うことを聞くよ」と教えているのと同じことです。私は「やるべきことはやる」「ダメなものはダメ」を徹底しています。私が決めている「やるべきこと」「やってはいけないこと」は、「安全」「健康」「衛生」「マナー」に関わることです。これらは一度悪い習慣が身につくと直すのが大変なので、幼いうちからしっかりとルールを守らせます。安全・・・駐車場で走り回るのは非常に危険ですから、「必ず手をつなぐ」というルールを守らせます。チャイルドシートやシートベルトも嫌がる子が多いですが、かといって「つけなくていいよ」とは言いません。子どもがどんなに嫌がっていても、安全のためにルールを守らせ、守らないとどんな危険があるかその都度伝えます。健康・・・好き嫌いをせずに食べる、早寝をして十分に睡眠をとるといった健康にかかわることも守るべきです。子どもがご飯を食べたがらない場合は食べるように食べるように促したうえで、30分など時間を決めて時間内に食べなかったら食事を下げます。ご飯を食べずに、食後のデザートを先に食べたがることもありますが、「デザートはご飯のあと」というルールを徹底します。食事のタイミングもルールを決めて、「もうすぐご飯だからお菓子はなし」「食事の時間にきちんと食べなければ、その後はお腹が空いても食べられない」と宣言し、その通りに実行します。夜は早寝を心がけ、平日でも週末でも同じ時間帯に寝ます。睡眠ルーティンをつくることを心がけ、子どもが寝たがらなくても、就寝時間を守れるように心がけます。3歳くらいまではお昼寝の時間も十分にとります。衛生・・・手を洗う、顔や体、髪の毛を洗う、歯を磨くといった衛生習慣も嫌がる子が多いと思います。かといって、汚れたままでは不潔ですし、肌トラブルや虫歯につながります。髪の毛を洗ったあとにお湯で流すのも嫌がる子が多いのですが、嫌がっても洗わないわけにはいきません。シャンプーハットを被せるおうちもあるようですが、それだと顔に水をつけることに慣れず、自分で顔を洗えるようになるまでに時間がかかることもあります。喩えなかれても、赤ちゃんのうちから水に慣れさせるほうが、のちのち親も子も楽になります。次のマナーについては明日の投稿とさせていただきます。(世界一の子育て 中内玲子 フローラル出版 208ページ)
2022.11.02
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子供の成長にとって、母親と父親が本来の役割をきちんと果たすことが欠かせません。今日はそれぞれどんな役割があるのか考えてみたいと思います。母親・・・子供が生まれると母親には愛情ホルモンと言われるオキシトシンが多量に分泌されます。これにより「自分の命よりも子供の命」を優先的に考えるようになります。寸暇を惜しんで子供の世話をするようになります。愛着障害(岡田尊司 光文社新書)によると、子どもが1歳6か月を過ぎるまでは、母子密着が欠かせないと言われています。人間に対する信頼感はこの期間の母親と子供のかかわり方に大きな影響を受けます。母親は母港、安全基地としての役割を果します。母親がその役割を果さないと、子どもは安心して行動できなくなります。何か問題やトラブルが起きたときに、一目散に母親の元に逃げ帰れば大丈夫という安心感がないと課題や目標に目を向けることはできなくなります。人間不信に陥ってしまうと、積極的、建設的、創造的な生き方はできません。では、母親との愛着の形成だけで、人生という大海原に漕ぎ出していくことができるのか。必要条件ではありますが、十分条件にはなりません。また父親が子育てにおいて、母親と一緒になって母性を発揮しているだけでは、子どもの自立を考えてみた場合マイナスに作用する危険性すらあります。父親・・・愛着の形成を無事通過した子供を自立へと導くのは、主として父親の役割となります。神経症や仕事を隠れ蓑にして、その役割を放棄することは、子育ての資格がない父親と言われても仕方がありません。しかし「言うは易く行うは難し」です。母親が作り上げた母港、安全基地から子どもを外に連れ出すという役割ですから、良薬口に苦しという側面があります。でも心を鬼にして父親がその役割を果さないと、子どもは自立できません。父親の役割を学習によって再認識して、意識して行動することが欠かせません。ではどういう役割を果していくべきなのか。まずは基本的な生活習慣、規則正しい生活習慣を身に着けさせることだろう。そして、誰しも社会のメンバーである以上、基本的なモラルやルールを守って生活しなければなりません。たとえばモノを欲しいという欲望はあっても、盗んではいけないとブレーキをかけるのが社会的規範だ。それは本能でも遺伝でもない。社会で快適に生きていくために、教えなければならないことだ。ゴミの分別が分かりやすい例だろう。ペットボトル一つにしても、ラベルを剥がして蓋を取って資源としてリサイクルするというルールは、ペットボトルが登場したころには考えられなかったことである。嘘をついてはいけないとか、自分がされてイヤなことはしないとか、友だちを裏切ってはいけないとか、お釣りをごまかしてはいけないとか、列に割り込んではいけないといった基本的な社会的規範を教えるのは、まさに父性の役割にほかならない。次に、興味や関心のあること、好奇心のあるものに思い切って行動を促してやることも父親の役割だ。そして距離を置いて、暖かい眼で見守り続けることだ。父親も絶えず課題や目標を意識して生活する。父親の生き生きした生き方を子どもに見せることだ。そして子どもに絶えず刺激を与えて鼓舞していく。子どもは親の指示・命令は聞かないが、親のやっていることはよく真似る。大きな壁や問題が起きた時は、子どもが大きく成長するチャンスとしてとらえて、極力口出しはしない。見守りながら、無言の応援を送り続ける。乗り越えたときは、ほめたたえて、一緒になって大いに喜ぶ。行き詰ってアドバイスを求められれば、適切に対応する。そして自立の時を迎えれば、手元に置いておきたくても、少々不安でも、「可愛い子には旅をさせる」つもりで潔く送り出してあげる。
2022.07.23
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脳神経外科医の林成之氏のお話です。何かを「好き」と感じること、好きになることは思考や記憶など中枢的な脳の働きの一つの有力な起点となるのです。一般的にいっても、「好き」は興味の始まり、学びの起点となる大切なものです。ですから教育においては、子どもたちの「好き」を親や先生が絶対に妨害しないことが大切なのです。そこで思い出すのは、私の小学校時代の担任のことです。その先生は私たち生徒に「勉強しろ」と強制することは一度もなく、子供の学ぶ力を自然に引き出し、その能力を楽しく伸ばすことをしてくれました。たとえば私が授業中に窓の外を見ている。先生が「林、何をよそ見している」と叱る。私が「鉄道を通っている汽車をみていました」と答える。すると、先生は「よし。それじゃ午後から、全員であの鉄橋までの距離がどれぐらいか測りに行こう」などと言いだすのです。そうして生徒たちの歩幅をメジャーで測り、「鉄橋まで何歩かかるか、みんなで数えながら歩いてみよう」と実際に生徒たちを引き連れてミニ遠足に連れて行ってくれる。あるいは、「今日はみんな、夕ご飯を食べたら、もう1回教室へ集合だ」と呼びかけ、夕方遅く集まってきた子供たちに本を読んで聞かせたりする。夏休みにはクラス全員を近隣のお寺まで一泊旅行に連れて行ってくれました。暗いお堂の中でみんなと枕を並べながら、先生の話を聞くのがどんなに楽しかったことか。とにかく、そうした(奇想天外な)先生のアイデアやプランに子どもたちはいつもワクワクさせられて、学校に行くのが楽しくて仕方がありませんでした。先生は遊びだけではなく、学びの方もしっかりと生徒に教えてくれました。わずか22~23人のクラスでしたが、大学に行くだけで大騒ぎになるような小さな田舎の町で、その一つのクラスから大学進学者が5人も出、そのうち2人は大学教授になったのです。それは、その先生が子供が興味をもつことなら、勉強とは無関係なことでも邪魔することなく、むしろ、それを起点にして勉強も好きになるように仕向けてくれ、学ぶ方向へと導いてくれたからにほかなりません。小学校の先生は、決して子どもの「好き」の芽を汚いとかあぶないといった基準で摘まんだりしませんでした。そういう先生を子どもたちは当然好きになります。先生を好きになれば、その先生の言うことや教えることにも興味を持ちます。その結果、学ぶこと、考えることが好きになる。まさに教育の原点と言えるやり方です。それが何であれ、何かを好きになることが栄養物となって脳を活性化し、思考力や記憶力を高めて私たちの頭をよくしてくれるのです。(望みをかなえる脳 林成之 サンマーク出版 194ページより引用)
2022.03.21
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お母さんが、公園などで遊んでいる子供に対して、「もう遅いからおうちに帰りましょう」というと、子供は「イヤだ。まだ遊びたい」と反抗することがあります。こんな時、「ダメなものはダメなの。どうしてお母さんの言うことが聞けないの」と無理やり子供の手を取って遊びを中止させる親がいます。こうなりますと、普通、親と子供は言い争うことになります。森田理論で考えてみましょう。親と子供は経験の数が違います。力の差も圧倒的です。その親が権威や権力を利用して、「かくあるべし」を押し付けている。子供の気持ちを汲み取るという考えが入り込む余地がない。子供を自由自在にコントロールしようとしているのではないでしょうか。この時の子供の気持ちはどうなのでしょうか。今すぐに遊びを止めることはむずかしい。せめてきりのよいところまで遊ばせてという気持ちなのではないでしょうか。その気持ちを少しは分かってほしいというところでしょう。子供のもう少し遊びたいという気持ちを尊重できれば、「分かった。じゃ、後5分だけ待ってあげるよ」という言い方ができます。こういう対応は子供に対して好影響をもたらします。まず、自分の気持ちをきちんと受け止めてもらえたという信頼感です。仮に自分の気持ちがかなえられなくても、自分の気持ちや考えをきちんと聞いてもらえたということが大きいのです。自分の気持ちや考えを受けとめてもらったという、うれしさを味わった子供は、大人になった時、他人の気持ちや考えを受け止めることができるようになります。他人を見ればいつも対立的になるという関係を避けることができるようになるのです。親が二者択一で是非善悪の価値判断を押し付けないということは、子供にとっては、考え方や意見の違いが発生したら、話し合いで譲ったり譲られたりするのだという態度が自然に身につきます。人間が二人以上集まれば、考えていることはそれぞれ違うわけですから、人間関係は話し合い、交渉、説得、妥協、協調によって解決策を探ることが欠かせません。そういう基本姿勢を持っているかどうかは良好な人間関係を維持するうえで欠かせません。それと反対の立場は、自分の意志や考えに固執して、相手に全く弁明の余地を与えないで、自分の「かくあるべし」押し付けている人です。こういう人は、常に他人と対立して、苦難の人生を送ることになります。
2021.08.21
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少し前の話ですが、娘夫婦が孫を連れて我が家にやってきました。近くの森林公園に昆虫館があるので、さっそく出かけました。男の子の孫はカブトムシが気にったようです。その後売店に立ち寄りました。そこでカブトムシのおもちゃを見つけました。今すぐにどうしても欲しいというのです。父親はおもちゃよりも本物の生きたカブトムシの方がよいといってそのおもちゃを買うことをあきらめさせようとしました。孫はその後すぐに生きたカブトムシを買ってもらえると思ったようです。ところがまたいつかという話になり、その後1時間近く泣きわめいていました。根負けしてとうとう近くのホームセンターで買うことになりました。こういうことはよく目にします。幼児がスーパーのお菓子売り場で、「これ買って」とお母さんを困らせている光景を目にすることがあります。泣きわめいてフロアーに体をこすりつけて自分の意志を押し通そうとしています。特に男の子はエスカレートしやすい。親からしてみると人目もあって気が気ではありません。可愛い我が子とはいえ、「ダメ、ダメ」と叱り飛ばし、時には「どうしてお母さんの言うことが聞けないの」と叩いたりします。そして「もう買い物には連れてこないからね。それでもいいの」とダメ押ししています。私はそういう子供は、むしろ意志が強くねばり強いと思います。その特徴をうまく伸ばせてやれば、少しぐらいの障害物を乗り越えて挑戦する立派な大人になるかもしれません。いつも否定していると、そのうちに挑戦をあきらめてしまう子供になる可能性が大です。でも現実問題も無視できません。こんな時は森田理論を応用してみたいものです。森田では、「かくあるべし」を押し付けないで、相手の目線に立って話しすることをお勧めしています。例えば、スーパーでの「このお菓子が欲しい」が始まった時は次のようになります。「これを食べてみたいのだね」「うん」「どうして食べてみたいと思ったの」「この前○○ちゃんが食べてたのを見ておいしそうだったから」「そう。○○ちゃんが食べていたのをみて自分も食べてみたいと思ったのね。その気持ちはよく分かったよ」ここで肝心なことは、子供がどうして食べたいと思ったのか、子供の気持ちに寄り添うことが大切です。子どもは自分の気持ちを聞いてもらえたということで、少し安心します。そのうえで、「今日は別のお菓子を買ったでしょ。そのお菓子もあなたの選んだものよね。二つも一緒には買えないけど、どちらにしたいの」このように話しすれば、「分かった、前のでいい」とか「こっちにする」とか返答するでしょう。こういうやり取りをすることが肝心です。大人の世界でいえば話し合いをするということです。いつも一方的に親のやり方を押し通すと、子供のやる気の芽を前もって摘んでしまうことになります。いつも子どもの気持ちや意志を叶えていると、放縦児を作り出してしまいます。まず子供の気持ちに寄り添って素直に聞いてみる。そして、子供に親の気持ちを伝える。交渉の過程で、時には親が根負けすることもあるでしょう。これは子供にどんな困難なことがあっても「自分の意志を押し通す」という教育になります。時には、頑固一徹で親の意思を押し通すことがあるかもしれません。その時は、子供は、いつも自分の思い通りにならないことがあるものだという体験ができます。いつもどちらかが一方的に主導権を発揮していることは問題だと思います。譲ったり譲られたりの関係が自由自在に行われることが大切になります。こんな親子の関係を維持することで、子供は人間関係の距離感を会得していくのです。
2021.08.20
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昨日の続きです。親に対する恨みや怒りに対してどう対応すればよいのでしょうか。これを、取り除こうとすることは森田理論ではお勧めしていません。どんなに激しい怒りの感情も、台風と同じ自然現象ですから取り除くことはできません。感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志の力でコントロールできるものではありません。ですからそれにエネルギーを投入することは無駄な努力に終わってしまいます。このことが分かっていないと、不快な感情を取り除こうとするのです。凝り固まった親に対する怨みや怒りはどうすることもできないと観念することです。この法則が体験的に分かっている人は、無理で無駄なことにエネルギーを投入しません。森田では、恨みや怒りはそのままに放任するという方法をお勧めしています。憂うつでやりきれない感情を持ったままに生きていくことをお勧めしています。そんな事をすれば、ストレスで精神的にも肉体的にもダメになるのではありませんかという反発が聞こえてきそうです。確かに今までの既成観念で考えるとその通りになるかもしれません。この点森田理論の感情の法則ではどのように説明しているのか考えてみましょう。感情の法則4では次のように説明しています。感情は、その刺激が継続しておこるとき、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるものである。これは、親への恨みや怒りという感情に対して、絶えず注意や意識を向けていると精神交互作用によってどんどん悪化してくることを説明しています。最後に怨念となって固着します。ですから、とるべき手段は、次々に刺激を加えることを中断すればよいのです。精神的にも肉体的にもダメになるというのは、そのことに注意や意識を集中するために起こるのです。逆に言えば、どんなに激しい恨みや怒りであっても、継続して刺激を与えなければ、薄まってしまうのです。そして時間が経過を待ち、居場所を変え、新たな行動を起こしていけば、恨みや怒りの感情は、意識の中から消えていたという状態になります。そんな時間が増えてくれば、心の底には依然として存在しますが、恨みや怒りに振り回されることはなくなります。ここが大事なところです。森田理論では、「不愉快な感情もそのまま感じながら、必要な行動をしていくとき、感情は自然に流れ去り、行動したという事実だけが残ります」と言っています。親に対する怨みや怒りでパニックになっているときは、感情に振り回されていて、必要な行動がお留守になっているときです。規則正しい生活、日常生活に対しての凡事徹底が放置されている場合が多いように思います。親に対する怨みや怒りでいっぱいでも、介護が必要ならばイヤな気持ちを抱えたままで手を出していくのです。恨みや怒りを抱えながら行動していると、感情はもしかすると変化することがあるかもしれないと希望を持つことです。そういう親も祖父や祖母から「かくあるべし」を押し付けられて苦渋の人生を歩んできた助け合う仲間だったと思えるようになるかもしれません。それと今まさに犬猿の仲の親子関係に陥っている場合は、適度な距離を保つことが大切です。朝から晩まで一緒にいるのではなく、ある程度距離を置いて、お互い別々のことに取り組む。干渉しないでお互いに自由に生活することが有効です。あるいは離れて暮らして、時々様子を見に行くようにする。そうしないとやることなすことすべてが癪に障り、反発しあうことになると思います。森田では、こうした方法を「不即不離」という言葉で説明しています。
2021.02.24
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親の存在を嫌っている人は多いようです。親とは没交渉という人も身近な人の中にいる。親が子を敬遠し、子が親を煙たがる。何とも胸が痛む話である。子供の言い分は次のようなものである。・神経症に陥ったのは親の神経質性格に問題があり、それを引き継いでいるからだ。・勉強ができないのは親の頭が悪いからだ。・人間関係に問題を抱えているのは、親の責任だ・親は自分の意見を聞いてくれない。頭ごなしに否定する。非難する。・自分の味方になってかばってくれない。・困難からすぐに逃げてしまうのは親のせいだ。・自分のやりたいことをやらせてくれない。協力してくれない。・子供のしつけや教育に無関心であった。育児放棄をしてきた。・自己中心的で、子供のことなんかちっとも考えていない。・親が立派な大人に育てるという責任を放棄してきた。・自分が自立できないのは、親が過保護に育てたからだ。等々。最初のうちは、親から見捨てられた。憂鬱だ。傷ついた。怖い。親から愛されていないなどと言う気持ちになる。なんとかしてほしいという気持ちが強い。救いを求めて赤信号を出し続けているのである。そのうち、こういうことが積み重なって、やるせなくなる。悲しみや不安を感じるようになる。そして、ついに怒りや恨みに変わってくる。こんな親から生まれなければよかった。この親だけは絶対に許せない。親を闘うべき相手とみなすようになるのです。親とは口も利かない。反抗ばかりを考えて実行する。そのうち自立してくると、今度は反対に親に対して反撃を開始する。それも倍返し、3倍返しの仕打ちで痛めつける。こうなると固いきずなで結ばれているはずの親子は犬猿の仲になる。憎むべき相手にかわり、親子の断裂が始まるのである。人生最大の不幸の始まりである。子供を持った親は子育ての責任が発生する。その自覚を持つことは、子供を持った親にとっては必須である。しかし、自覚を持っていたとしても、子育ては一発勝負であり、経験も知識もない状態で親になる。核家族が多いので、祖父母や近所の人の援助も受けられない。つい基本から逸脱して自己流に流されてしまう。独りよがりになってしまうのです。自分たちが生き延びることで精いっぱいなので、子供のことばかりに関わっていられないという気持ちもある。神経症の人は症状との格闘で多くのエネルギーを使っているので、子育てのことは二の次になる。安易に「かくあるべし」を押し付けて、子供と対立関係に陥る。子供に寄り添い、子供とともに成長するという気持ちが希薄になる。子供を持った親は子育ての学習をすることが必要なのではないでしょうか。親業などの勉強会に参加して情報交換することが必須であると考える。また森田理論を子育てに応用していくことが大切になると思う。発達段階に応じた子供とのかかわり方。愛着障害の防ぎ方。反抗期の対応。一方的な親の「かくあるべし」の押し付けの弊害。子供の後ろ盾となって見守るということはどういうことなのか。しつけはどのように考えるとよいのか。母親の果たすべき役割は何か。父親の果たすべき役割は何か。身体面の成長をどううながしていくのか。一人の人間として子供を尊重するということはどういうことなのか。子供の好奇心を刺激して、行動力をつけていくために親ができることは何か。子供の持っている潜在能力を活かすために親はどんなことができるのか。このような方向で子育てに取り組むことで、親子の断絶はある程度は防げるのではないか。親を無視する、あるいは反抗的な大人になった後では、親子の人間関係の修復は極めて困難だと思う。その責任の大半は親にあると思う。不幸な子供一人でもなくすることが、子供を持った親が取り組むべき課題であると考える。明日は、親に対して強い恨み、怒りを持っている人はどう対応していけばよいのか考えてみたいと思います。
2021.02.23
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成長するにつれて、親のしつけや子育てのやり方に不満を持つ人は多いようです。特に自分が神経症で苦しいのは、親の気質を受け継いだからであると思っています。問題ある親のもとで生を受けたために、今の自分の苦しみがある。自分の親は、子育ての資格も能力もないのに、勝手に子供を作ってしまったことが問題だ。理想の親の元で生まれ、すくすく成長して、理想通りの人生を送りたかった。親が憎い。普段から何かにつけて親に反抗し、親をないがしろにしています。しかし、このように考えている人は、自分も親と同じような子育てを行っているのです。世代間で悪循環が繰り返されているというのが悲劇の始まりです。実はこれは以前の私の姿です。私の父親は、子育てにはほとんど関心を持っていませんでした。父親と遊んだ経験はほとんどありません。授業の参観日や運動会に来てくれたこともありません。いつも苦虫をつぶしたような顔つきで、子供を叱責していたことばかりが思い出されます。父親という心の安全基地を持つことができなかったため、何事にも臆病になりました。身の安全を確保するために、いつも困難な局面からは逃避するという習慣が身に付きました。気分に流されてしまい、後で後悔と自己嫌悪で苦しみました。課題や目標に向かって思い切って挑戦することは回避するようになりました。失敗すると自己責任になるからです。すると、雑多な経験が不足し、大人になってその弊害がもろに現れてきました。特に対人関係に現れました。他人が全く信頼できない。人間関係の悪化を恐れて言いたいことも言えない。他人から見放されては、生きていけないはずだ。ここは我慢するしかない。他人の思惑に振り回されるばかりで、生きることは苦しむことだと思うようになりました。父親は祖父や祖母から口やかましく育てられて、私以上の対人恐怖症でした。それをどこで発散していたかというとお酒でした。昼間から日本酒をのむ。それも酔いつぶれるまで飲むことが多い。肝臓を悪くして40代のころから入退院を繰り返していました。そして52歳のとき、心不全であっけなくこの世を去りました。亡くなる頃は、内臓を病み、顔が酒焼けしており、見るからに老人のようでした。今のように神経症を克服する手段は皆無であり、自分ではどうすることもできなかったのだと思います。私のように森田療法を知っていたら乗り越えられていたのではないかと思います。残念な人生でした。対人恐怖で苦しみ、親からは存在そのものを否定され、最愛の子供たちからも嫌われる。夫婦仲もよいとはいえない。どうして自分だけがこんなに苦しまなければならないのか。失意のうちに人生の幕が降りてしまった。どうして、なぜという気持ちだったのだろうと思います。森田理論の学習をした今思うことは、父親は同じ対人恐怖症を抱えた仲間だったのだと思います。それを毛嫌いしていては共倒れになってしまうと思います。お互いを否定することから生まれるのは、嫌悪と憎しみばかりです。精神的にも身体的にも悪影響が表面化してきます。ここで父親が対人恐怖症で苦しんでいるという事実を観察して、認めて受け入れるようにしたらどうなるでしょうか。自分の価値観で父親を否定することはなくなるかもしれません。目の前で苦しんでいる父親は良いも悪いもないはずです。一人の悩める人間です。その苦しんでいる事実を認めてしまうと、同情する気持ちにはなっても、父親否定はしなくなると思います。「お父さん、酒の飲み過ぎは体を壊すよ」などと温かい言葉をかけてあげられるようになるかもしれません。あるいは、たまには酒のつまみを作ってあげたり、買ってきてあげるようになるかもしれません。また父親に付き合って、酒を酌み交わすことができたかもしれません。これだけでも父親は精神的に大きく救われると思うのです。自分のことを家族のみんなが毛嫌いしているという状況の中で、一筋の光が差し込んできたようなものです。事実を認めてしまうと、そこから目線を上にあげて、仕切り直しすることができるのです。再出発することができるというのがポイントです。そしてできれば、同じ対人恐怖症の持ち主として、励ましあい、助け合いながら生きて行くことができたかもしれません。「親孝行したいときに親はなし」まさにその通りです。
2021.02.10
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森田先生の父親は、教育熱心であったようだ。9歳の時に、古文真実や、11歳歳の時に豪求という漢文の本を詰め込まれた。その後、父親は教える事を全くやめて、放任してしまった。それで14歳まで遊んだ。その後高知中学に進学したが、卒業間際までは成績が振るわなかった。中学卒業ごろからやっと上向きだした。母の訓育は、だいたい放任であったけれども、決して甘やかすようなことはなかった。私が何か不平をいう時には、母はいつも、下を見よ下を見よ、可哀相なものの事を思えと教えた。偉くなれといわれたことは、あまり覚えがない。(森田全集 第5巻 351ページ)森田正馬は、4歳頃から読み書きができたため。教員をしていた父親がスパルタ教育をしていたのである。漢文の暗記ができなくて深夜に及ぶこともあった。フラフラ眠りだすと、父は外へ連れ出して、眠気を吹き飛ばしてまで、勉強をさせていた。正馬は、こんな無謀なことは教育上、全く有害無益なことだと回想している。父親は、正馬の成績が伸びないとみると、一転して放任してしまったそうだ。それで正馬は、1年か2年はぶらぶらと過ごして14歳で高知中学に入学した。それは父親が進学させることを渋ったからである。中学の成績表を見ると最下位に近かったようだ。それが、第五高等学校、東京帝国大学医学部に進学したというのは驚きである。好奇心が強く、負けん気が強く、執着性気質という神経質性格が、正馬の向上心に火をつけたようです。それにしても父親の子供に対する接し方は、その後の人生に影響を与えていることがよく分かる。父親は子供のそばにいて、子供の興味や関心のありかを観察して、好奇心を刺激し続ける。自分の考え方や行動を押し付けてはうまくはいかない。かえって反発されて、親子関係が断絶する。そして、「もうかってにしろ」と突き放してしまうと、さらに子供の成長に悪影響を与えてしまう。母親は子供が、不平や不満を言うのを叶えてやるということはなかったようである。下の人を見て耐える、我慢することを教えていたようです。これは「かくあるべし」を振りかざして、事実、現実、現状を否定する態度をいさめていたのではないかと思う。そして現実をそのまま受け入れて、問題ある現実を少しでも改善できるように努力しなさいという事を身をもって示していたのではないかと思われます。森田の考え方のかなめの一つに「かくあるべし」を少なくして、「事実本位」の態度で生きるというのがありますが、それを母親から受け継いでいるものと思われます。
2020.07.20
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児童精神科医の原田聰志先生が子供の成長にとって大切なことを2点あげておられます。治療の難しい子供は、自分のやってみたいこと、好きなこと、興味のある事が乏しい子供たちです。森田先生は「生の欲望」というものを強調しましたが、そのような欲望の乏しい子供たちです。また、家族内の複雑な問題、家族の理解や協力が得られにくい事例も困難になります。家が安心安全な場所でなかったり、家族が協力してくれなければ、子ども達も不安を抱えながら行動することは大変なのだろうと思います。反対に、良くなる事例は、家族の協力が得られやすい事例でもあります。つまり、親が子供のことを深く考え、一緒に何とかしていこうという姿勢がみられる事例です。子ども達は、やはり家族に支えてもらうことによって不安を乗り越えることができ、安心が得られるのだと思います。(生活の発見誌 6月号 13ページより引用)最初の問題ですが、子供が小さいうちは、誰でも好奇心が旺盛だと思います。それなのに、成長するにしたがって、興味や関心が薄くなっていく子供たちが出てくる。それは親が過保護、過干渉になってしまい、子供が親に依存するようになる。あるいは親の言いなりになって、親の思惑に振り回されるようになる。こうなると好奇心のかけらは親によってことごとく摘み取られてしまうことになります。そのような育て方をされた子供たちが大人になると、自分の欲望が分からない。自立できない。自己主張ができない。意欲的になれない。生きている意味が見いだせない。好奇心がないように見える子供たちは、性格的な問題もあるでしょうが、大局的な視点から見ると親の子供に対する接し方にあるように思われます。親は子供の好奇心を刺激して、いろいろなことに挑戦させることが務めだと思われます。次の問題ですが、特に男性に多いのが、仕事や付き合い、趣味などにのめりこんで、子供との接触時間が少ない場合があります。中には子育ては奥さんにまかせっきりという場合もあります。これでは子供はまともに育たない。花や野菜などでも、肥料や水やり、手入れが欠かせません。特に男の子の場合は、父親を手本にして成長していく場合が多いのです。それなのにいつも父親が家にいない。これでは困ったときに相談することもできない。精神的にはとても不安な状態です。何を言わなくても父親が子供のそばにいる時間をできるだけ多く作ることはとても大切です。問題児になった時、「子供のことはお前に任せていたのに、どんな教育をしてきたのだ」と奥さんを責める父親がいます。これは問題です。父親が子育てを放棄したからこそ、子供たちが不安定になり、問題児になってしまったという認識が欠けています。子供ができたら、せめて中学に入るまでは、家族でいつも団体行動をするという姿勢が大事だと思われます。そのために父親は、仕事、付き合い、趣味はある程度犠牲にする必要があります。
2020.07.13
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厚生労働省によると、全国の児童相談所が2018年度に児童虐待の相談・通報を受けた件数は159850件(速報値)で、統計を開始から28年連続で増加している。内訳は心理的虐待が55.3%、身体的虐待が25.2%、育児放棄18.4%、性的虐待1.1%となっている。(中国新聞2020年2月19日朝刊より)テレビなどの報道を見ていると、その親たちが、「これはしつけの一環として行ったことだ」という。子供が虐待の結果亡くなっても、「体罰ではありません。あくまでもしつけるつもりでした」という。これは体罰としつけの違いが分かっていないか、誤解していると思う。体罰の実態は次のようなものです。・注意したがいうことを聞かないので頬を叩いた。・いたずらしたので長時間正坐させた。・物を盗んだので、お尻を叩いた。・宿題をしなかったので、食事を与えなかった。・寒い冬場に薄着で外に追いだした。暑い夏場に家の中に入れなかった。・イライラしたとき、「あんたはいらない。生まれてこなければよかったのに」などと暴言をはく。子供が、親の指示・命令に素直に従わず、勝手な行動をとったので、親がイライラして、あるいは切れてしまって、短絡的に体罰を与えて親に服従させようとしている。体罰というのは、子供をしつけようという気持ちよりも、自分たちのイライラや不快感を取り去るのが第一目的となっている。消臭剤をスプレーして、瞬時に悪臭を取り去ろうとしているようなものだ。目的があくまでも自己中心的なので、子供のことは眼中にない。自分たちのイライラ、不快感を払しょくしたいという気持ちが強いのだ。親から「かくあるべし」を押し付けられて、大人になった子供はかわいそうだ。人への信頼感が育たず、愛着障害になる。アダルト・チルドレンになる。対人恐怖症になる。そして自分たちが親になったときに、世代間にわたり悪しき連鎖が繰り返されるのである。体罰もしつけも親が主導権や強制力を持って、子供に対する点は同じだ。ではしつけと体罰の違いは何だろうか。親がきちんとしつけをしないと、インドで発見されたというオオカミに育てられた少女のようになる。その子は四足で歩いていたという。言葉もしゃべれない。人間というよりは、動物そのものだった。保護されて人間として育て直そうと試みられたが、その願いはかなわなかったという。親になると子供をきちんとしつける責任がある。それも強制力を発揮して厳しくしつけるのが親の務めである。しつける内容としては、まず規則正しい生活習慣である。食事のマナー、トイレ、挨拶、きまりごと、礼儀作法、思いやり、言葉遣いなど。次に、社会のルール、法律、仕組み、交通ルールなど多岐にわたる。きちんとした生活習慣の獲得、社会の法律やルールを身につけると、生活がスムーズに流れるようになる。社会にすんなりと溶け込んでいくことができるようになる。何も知らない子供の目線に立って、「こうしたほうがいいよ」「やってみてごらん」と行動を促す。子供の挑戦する姿を近くで温かく見守る。できるようになれば一緒に喜ぶ。円滑な生活習慣の獲得は、親から子供への愛情のこもったギフトなのである。後で、よくぞここまできちんとしつけてくれたと子供から感謝されるものである。体罰は「かくあるべし」を子どもに押し付ける態度であり、「しつけ」は子供の成長を願って、親から子供への愛情のこもった人間教育なのである。体罰としつけは似ているようであるが、全く別物である。
2020.03.30
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樹木希林さんはCMの仕事で、海外ロケも結構あったそうです。そんな時、中学生の娘の也哉子さんを連れて行くことがあった。学校は1週間でも10日でも休ませるのだそうです。也哉子さんは、「そんなに学校を休んでいいの」と言うと、「当たり前じゃない。こっちの方がよっぽど人生経験になるわよ」と言っていた。先生があわてて、「ここまで休むと、あとが大変ですよ」と言っても、「こっちの方が大事です。もっと自由に休める学校にしなさい」と先生に反発していた。自分の信念を貫き通す、物申す女優だったのです。実に爽快です。それどころか、樹木希林さんは、学校での勉強は軽く見ていたフシがある。也哉子さんは、「勉強しなさい」などと言うことは一度も聞いたことがなかった。言われない分怖ろしくなるんですよね。高校受験の時に、「みんな塾に行っているのに、私だけ行っていない」ってお願いして、熟に通わせてもらったりしました。母は、「学校で習っていることができないんだったら、どこへ行っても一緒よ」とか言うんです。自分が好きなことはとことん追求して、自分で見て、体験することが最も大事と言ってたんです。この点も森田先生の考え方とよく似ていると思います。森田先生は観念的な教育が肥大化することで、神経症が発生するのだとみていたようです。人類が築き上げてきた文化遺産を学習することは、決して責められるものではありません。ただ、それが唯一無二の教育にしてしまうことはたいへんな問題になるのだと思います。頭で理解すると同時に、自分で体験して、身体を通して体得することが重要なのだと思います。人生90年時代を生きていくために大切なこととはなんでしょう。一つは健康で丈夫な身体を作り上げること。そしていずれは親から、経済的にも、精神的にも自立して生きていけるようになること。さらに、基本的生活習慣、社会のルールや人間関係を学ぶ。最終的には自分のやりたいことを見つけていく。困難に出合っても、それを自ら乗り越えていく能力を身につけていく。これらが20歳ぐらいまでに、確立できれば、人生の荒波に向かって船を漕ぎ出すことができるでしょう。このために学校教育が果たしている役割はごくわずかです。それ以外の、人間教育が大変重要です。野外活動、家庭教育、幼児教育、体験学習、地域活動、社会教育、職業教育、人間教育、森田理論学習などです。学校教育は学習のすべてではありません。これらの中の一分野と考えるべきです。私は適応不安を感じている人に、森田理論学習をお勧めしたいと思います。森田理論は、どう生きていけばよいのかと霧なかで方向性を見失っている人には必須だと思います。また対人関係の距離の持ち方の分からない人、自分の取り組むべき課題を持ちたい人にとっても役立つ理論です。それを同じ悩みを抱えている仲間とともに学習して、生活に応用していればこんなに心強いことはありません。私は、樹木希林さんのエピソードを紹介しているうちに、「樹木希林から見た森田理論」という本を書きたくなった。森田理論はご存知ないのに、我々よりも森田理論を活用しておられるのである。特に、自己主張、人間関係の築き方、人を育てる、日常茶飯事を大切にする、ガンとの共生、死との向き合い方、人生観、人生の楽しみ方などは大変参考になる。大した女優さんだった。
2020.02.12
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戦前は子供のしつけや教育は、親が全責任を負っていたわけではなかった。親は生きていくことに精一杯で、子供に手をかけてやりたくても、実際問題困難であった。どこの家も二世帯、三世帯の大家族が普通であり、家族全体で子育てにあたっていた。特に祖父、祖母、曽祖父、曽祖母が子育てに積極的に関与していた。また隣近所の共同体が子供のしつけや教育面に口を挟むといったことが当たり前の社会であった。さらに学校では社会のしきたりやルールについて、厳しく指導していた。親だけが子供のしつけや教育を担っていただけではなく、社会全体として取り組んでいた。そこでは、我が子のことなのに他人が口を挟み、煩わしい面があったが、独りよがりの誤った子育てはある程度回避することができた。ここが重要な点です。現代社会では、子どものしつけや教育に対して、それらの影響力は見る影もなくなった。そういうしがらみはほとんど取り払われた。これは喜ぶべきことなのか。その代り、子育ての責任はすべて親が担うことになったのである。大変な責任を親だけが引き受けることになったのだ。これは戦後急速に日本中に拡がっていった。親が自由に子育てに取り組めるような時代が到来したのである。一見素晴らしい社会が実現したかのように思えたが、実際には多くの問題が噴出してきた。子育ては、自分の人生の中では決してやり直しがきかないものである。失敗したと後悔してもどうしようもない。だから試行錯誤の連続となる。知識もない、経験もない、相談する人もいない、協力してくれる人もいない中での、ぶっつけ本番を余儀なくされているのである。そんな状態でまともな子育てができるだろうか。できたとしても多くの時間と労力を子育てにつぎ込まなくてはならなくなる。夫婦共稼ぎでないと、生活が成り立たない現状ではとても無謀な挑戦のように思える。未婚や子供を産まないで一生を終える人も増加してきている。子どもを生んでも、価値観が多様化して、自分の思いこみと先入観で、方向性のない、その場限りのしつけや子育てが横行しているのが現状である。親が自分たちの快楽をとことんまで追い求めて、子どもへの虐待、放任や無関心などによる悲惨な事件は毎日のようにマスコミ報道されている。また母子密着ともいえる過保護に陥っている家庭もある。反対に「かくあるべし」を一方的に子供に押し付ける過干渉の親もいる。他人に依存し、いつまでも自立した生活ができない。他人の思惑ばかりに振り回されて、生きることが困難で、精神的に不安定な子供を作り上げている。かわいそうな子供たちが大量生産されている。これらの問題に対して、まず親は子育てについては「無知」だという自覚が必要だと思う。まずはそこが出発点だ。次にしつけや子育てについては、仲間が集まって学習することが大切であると思う。一人では学習すると、横道にそれてしまうので要注意である。そこには母親だけではなく父親も参加することが必要であると考える。いくら仕事や趣味などが忙しいといっても、子どもを持った親の最低限の責任であると思う。せめて1か月に半日程度はそういう場に参加して、みんなで助けあいながら学習していくことだ。本当は国がそういう学習の場を推進していくべきなのかもしれない。問題が起こってから、対症療法を考えていたのでは、これからもどんどんと問題が増えていくだろうと思う。その際、モンテッソーリの教育に対する考え方、親業、平井信義氏の著作、そして森田理論の学習が大いに参考になるだろうと思う。子どもは放任、無関心、過保護、過干渉ではまともに育つことは決してない。子育ては親の務めであるという自覚を持つことが国をあげて取り組むべき課題であると考える。
2020.01.31
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自分がやりたいことを持っている人は、神経細胞が盛んに活動しています。脳科学者の松本元さんは、「自分にとって価値のある情報が入ってくると、脳は活性化し、意欲的になって学習効果が上がる。その結果、その情報を処理するための回路が整備される」と指摘されている。一旦、精神が緊張状態に達すると、特に意識しなくても、次から次とたくさんのことに気づくようになる。新たな興味や関心が泉のように湧いてくる。普通の人が思いつかないような工夫や発見やアイデアもでてくる。これは先生や上司の指示や命令によって生まれてくるものではないことは誰でも分かる。普段から身の周りのものや出来事に対して、興味や関心を持って観察することが大切になる。また少しでも興味や関心が湧いてくれば、思い切って手を出してみることも大切だ。この2つが習慣になっていれば、神経細胞は盛んに活動を開始して、好循環が生まれてくる。ではいつまでもやる気のない子供に、やる気を持たせるにはどうすればいいのか。例えば親がアルトサックスを子供に習わせたい。天才的なサックス奏者にしたいと思ったとする。親はアルトサックスの音楽教室に通う。毎日アルトサックスの練習を習慣づけてその姿を子供に見せる。自分の音楽発表会に子供を連れて行く。これは子供が小さければ、小さいほど効果が上がる。つぎにコンサート情報に注目して、有名な演奏者のコンサートをピックアップする。私の好きなところでは、坂田明、ケニーGなどのチケットが入手できれば最高だ。実際にその一流の演奏家の生演奏を体験させる。むせび泣くような一流の演奏を聞くと、途端にやる気のスイッチがオンになる。するとほとんどの子供は、自分もやってみたいという気持ちが芽生えてくる。ただこの段階は、「できたらいいな」という願望程度のこともある。ここで親は「しめた」と思うかもしれない。でもこの段階では、そのうれしさをぐっとこらえて「大変だからやめときなさい」といったん突き放してみる。まだ十分に期が熟していないと、見たほうが無難だ。そうこうしているうちに、子供の方から「どんなことがあっても頑張るからやりたい」と言いだす場合がある。ここまで意思が高まってくれば、積極的に挑戦させることだ。その時親は口出しを慎むことだ。ただいつも側にいて見守っているという姿勢を維持することだ。親がバスケートボールが好きならそれでもよい。本が好きならそれでもよい。演芸ならそれもよい。親がまず手本を見せる。そしてその道で頂点を極めている人の実際の芸や技術を見せる。あとはやる気のスイッチが入るかどうかを見極める。そういう気持ちを持って子育てにあたれば、子供は必ずやりたいことを見つけることができるだろう。その段階に達すると子育てには、間違いなく合格点が与えられるだろう。
2019.12.18
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保育園などで、保護者の方からの悩み相談で多いのは、「うちの子供は友達におもちゃをゆずれない」というものだそうです。これは子供の中で「所有」という概念が育っているのです。この時期、子供の中では地球は自分を中心に回っているのです。ですから、ここにあるものは全部自分のものなのです。特に1歳から2歳くらいの子供は、自分でできることが増えることが、うれしくてたまりません。一人遊びを満喫することで精一杯です。お友達がどんなことをしているのか、どんなことをしたいのかなど考える余裕はないのです。親が子供を叱りつけて、「貸してあげなさい」などと言っても、子供にはその理由が分からないのです。あるお母さんの話では、「他のお母さん方にしつけがきちんとしているお母さんと認められたい。親の言いつけを守る素直な子供と認められたい」という気持ちが先行して、子供の気持ちは考えられなかったといわれています。おもちゃを独り占めにして、お友達に貸せないとこだわりは、「自分の所有物」を失いたくない、守り抜きたいという意識が芽生えているのです。それを親に力づくで取り上げられてしまうと、自分の所有物が第3者によって簡単に奪われてしまったという体験を積み重ねることになります。このような体験をした子供が大人になったとき、今は自分の所有物ではあるが、いつ何時奪い取られてしまうかもしれないという不安や恐怖を抱くようになります。また他人や他国に自分たちの欲しいものがあるときは、力づくで奪い取ればよいのだという安易な考え方をするようになります。あるいは経済力にものを云わせて、根こそぎ買い付けるようなことをするようになります。自分の所有物を自分の力できちんと管理するという体験は、他人の所有物に対しても尊重できるようになります。おもちゃの独り占めという現象は、自分の所有物、他人の所有物を明確にして、人間関係の改善につながる学習体験を積み重ねているとみるべきです。(モンテッソーリ流 自分できる子の育て方 神成美輝 日本実業出版社 62ページより要旨引用)
2019.12.16
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幼児の1歳半から2歳半という時期は、順番、場所、やり方、位置などにこだわるという特徴があります。例えば、ある幼児は保育園に行ったとき玄関のピンポンは自分で鳴らしていたそうです。ところがお父さんに送っていたときに、お父さんが先に鳴らしてしまいました。するとたちまち子供は大泣きしてしまいました。保育士さんは「じゃもう一度外に出て鳴らしましょう」と言いました。お父さんは「そんなに甘えさせないでください」と受け付けませんでした。ある保育園の保母さんの話ですが、公園に遊びに行こうとした時、いつもの道で道路工事をしていて通れません。2歳児のクラスの子供たちを連れた私は、手前で曲がろうとしました。すると、こどもたちは一斉に、「違う、こっちだよ」と声をあげます。なかには、泣きながら訴える子供もいます。「行き先は一緒なんだからいいじゃない」と思えることも、子供にとっては大事件なのです。なぜなら、この時期の子供は、「いつもと違う」ということが嫌で仕方がないのです。いつもの習慣にこだわっているのです。幼児は、靴は右から履く、お昼寝をする場所、服を着る順番、食卓で家族が座る位置、車に乗る位置にもこだわるのです。これらを通じで家族や社会の決まり事やルール、生活習慣や規則正しい生活リズムを養成しているのです。1歳半から2歳半の時期に最もこだわる時期があるのです。この時期にやり忘れたので後で身に着けさせようと思っても、手遅れになるということです。もしこのことを親が理解していれば、子育ての中で対応することが可能となります。例えば、保育所から帰るときにスーパーなどに寄り道する場合、子供にそのことを説明していないとトラブルになるということです。ですから親になったら子育ての学習は必須となるのです。(モンテッソリー流 自分でできる子の育て方 神成美輝 日本実業出版社 56ページより要旨引用)
2019.12.15
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何かを身につける「時期やタイミング」はとても大切なものです。それを無視して、大きくなったときにあわてて身につけようと思っても難しいのです。身につけるために、時間もかかりますし、完全には身に着けることはできません。例えば、ウグイスはある時期を逃すと「ホー、ホケキョ」とは鳴けなくなります。小さい頃に鳴き方を覚えなければ、大人になってからウグイスの最大の美点である鳴き方を身に着けることができなくなるのです。私の経験では、クロールを大人になって身につけようとしましたが、完全には身につけることはできませんでした。ところが全く泳げなかった子供が、1か月もしないうちに上手に泳いでいました。このことから、ある時期には身につけることが容易だが、その時期を逃してしまうと非常に難しいということがあるということが分かります。このことは、森田先生も、ヒナが卵の殻を破って出てくる時期と、親が外から殻をつつく時期が一致していないと、まともなヒナは生まないと言われています。子どもの発達過程の中に、自分の頭で考えて、順序よく段取りを組む能力を獲得する時期があります。そんなことに注意を払わないと思いますが、子供にとっては、自分の人生にかかわるとても大事なことです。1歳半から2歳半ぐらいの時期といわれています。少なくとも3歳までです。この間、自分が身につけた順番にとてもこだわる時期だと言われています。例えば自分一人で服を着るときに、どういう順番で着ていくのかというようなことです。スボン、Tシャツ、靴下をはく順序は自分なりにこだわっているのです。帽子を先にかぶって、その後でTシャツを無理やり着ようとすることなどもあります。親がそんな子どもを見ていると、順序が逆でイライラすることがあります。モタモタ、ゆっくりと試行錯誤しているように見えます。特に出かける時間が迫っていると、つい叱ってしまうことがあるかもしれません。こういう時期だと分かっているお母さんは、子供の行動を見守ることができます。でも一般的には、「時間がないのよ。早くしなさい。そのやり方はダメ」と言ってしまいます。順序にこだわっている時期の子供は、泣き叫んで精一杯の抵抗をします。そのうち親のほうが切れてしまって、「こっちにきなさい」と親が子供になり替わってやってしまいます。このやり方では、子供の順序よく段取りを組む能力を獲得する能力は身につきません。大人になって目標達成のためのしっかりとした段取り力を発揮することはできなくなります。小刻みな実践目標を立てて実行し、目的を果たす力や能力が獲得できていないのでどうすることもできないのです。それどころか、何でも親にすぐに依存してしまうようになります。親の言いなりになって、自分の気持ちや意見を伝えることができない人間になってしまいます。精神的な面でも親の顔色を窺うようになると、生きていくことがつらくなります。このように見てくると、育児や子育てにかかわっている人は、子育ての基本を学び、さらに仲間と情報交換をしながら対応する必要があるのではないかと思われます。その一つの方法として森田先生の本に出てくるモンテッソーリの子育てが参考になると思います。(モンテッソーリ流 自分でできる子の育て方 日本実業出版社 神成美輝 参照)
2019.12.09
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森田先生の考え方はマリア・モンテッソーリの考え方に近い。マリア・モンテッソーリは、すべての子供は、自らを伸ばす力(自己教育力)を持っていると言っています。それは、大人が子供に教え込む教育ではありません。子供は自ら、今、伸ばしたい能力を知っていて、その能力を伸ばすために、大人から見ると「なんで?」と思うような行動をとったり、同じことを何度も繰り返したりする、という考え方が前提となっています。子どもは、何度も失敗し試行錯誤を繰り返しながら「できること」を増やしていきます。大人は子どもの能力を信じ、見守っていくことが子供に対する最大の敬意になります。ですから、モンテッソーリの教育は子供の持っている内なる力を信じ、伸ばすために、大人が環境を整え見守る教育であり、主役は子どもです。大人はサポート役に徹します。これは森田でいうと感じを高めて、関心や興味を持たせる。いろいろなことを経験させる。たとえ失敗しても、何度も挑戦して、問題点や課題、気づきや発見、できたという自信を育てる。それが将来、意欲や情熱を持った子供に育てることにつながる。この考え方を教育の基礎において、実際に教育の場でいかんなく発揮されているということだと思います。ヨーロッパやアメリカでの有名起業家や著名人の中には、子供のころにモンテッソーリ養育を受けた人が多いことが知られています。例えばgoogleの創業者のサーゲイ・プリンとラリー・ペイジ、Facebookの創業者ジェフ・べゾフ、Wikipediaの創業者のジミー・ウェールズなどがいます。それだけではなく、ワシントン・ポスト紙の元経営者キャサリン・グラハム、経営学者のピーター・ドラッカー、俳優で国連平和大使のジョージ・クルーニー。元アメリカ大統領のクリントン夫妻、オバマ大統領もそうです。現在アメリカには3000を超えるモンテッソーリ教育施設があると言われています。ヨーロッパでもモンテッソーリ教育は盛んで、イギリス王室ウィリアム王子、ヘンリー王子もこの教育を受けています。「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクもそうです。子どもの幸福度ランキングが世界一位のオランダでは、盛んにモンテッソーリ教育が行われています。自主性を重んじる教育が特徴で、小学校の高学年では教科を選択することができます。学びたいことを学べる自由な環境が、幸福度ランキングに影響しているのかもしれません。今後しばらくモンテッソーリ教育の子供へのかかわり方、教育内容について、具体的に紹介してゆきたいと思っています。(自分でできる子の育て方 神成美輝 日本実業出版社 26、40ページより引用)
2019.12.08
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私はこのブログで愛着障害がその人の対人関係に大きな影響を与えていることを紹介してきました。その他、親が子供の成長過程の中に「敏感期」があるということを学習していると、子育てがスムーズになり、楽しくなることが分かりました。これはモンテッソーリの子育てのなかで紹介されています。子供や孫を持っている人はぜひ参考にしてください。「敏感期」は、その時期がくれば、どんな子供にも自然発動してくるものです。あらかじめ子供にプログラムされているものなのです。その時期をとらえて、親や保育者が環境を整えて援助してあげると、子供たちは発達段階をスムーズに通過することができる。「敏感期」にはいろいろなものがあり、また時期があります。それらを整理して、時期を外さないように見守っていくことが極めて重要になります。反対に親や保育者がその発達過程を無視すると、子供は十分に育つことができなくなる。それどころか大人になったときに問題がでてくる。生きづらさを抱えることにつながりやすい。早速紹介しましょう。言語・・・胎生7か月から5歳半。胎児の段階から母親の声を聴いています。2か国語を聴いていると、2つの言語を使うことができるようになります。離乳・・・5か月ぐらいから始まり1年ぐらいで終わります。秩序・・・1歳半から2歳半が特に強くなります。順番、場所、やり方、位置などにとてもこだわる時期があるのです。例えば食卓なども家族の座る椅子などにこだわります。いつも決められたとおりに行われるということが安心感につながるのです。小さいもの・・・1歳の後半から2歳半の時期です。小さな生き物や大人が気に求めないような小さな変化に、敏感に気づく時期です。感覚・・・感覚は0歳から3歳半。触覚は2歳から3歳まで。見る、聞く、匂う、味わう、触れるなどの五感が精錬される時期があるのです。書くこと・・・3歳半から4歳半。書くことに夢中になる時期です。この時期までに、目と手の共同作業をたっぷりしていると、書くことが楽にできます。読むこと・・・4歳半から5歳半。他人のしぐさや言動から相手の気持ちを読むことができるようになる時期があるのです。数・・・4歳から6歳。置く場所、順序、多い、少ないなど、日常生活の中の数的な要素に敏感になる時期です。挨拶・礼儀・・・3歳半から6歳。「ただいま」「おかえり」「おはよう」「こんにちは」というあいさつが身につく時期です。季節や年中行事の挨拶にも興味が出てくる時期です。運動・・・多様な動きを獲得する時期は生後6か月から1歳半。獲得した運動をさらに調整・洗練するのは6か月から4歳半。自分の意志で動かせるからだをつくる。頭から、指先までよく動かせる環境が大切になります。文化の習得・集団・モラル・・・6歳以降。発達の第二段階へと入っていきます。興味や関心が家族から友達との関係へと変化してきます。家族よりも友達やグループで何かをすることが好きになり、モラルや道徳が働きます。モンテッソーリの子育ては、子供の「敏感期」を意識して行われます。好奇心を刺激するための様々なツールを開発して、触れさせるようにされています。これによって身体の成長、しつけ、好奇心、勇気、積極性の豊かな子供に成長していくのです。親が子供の側にいて、このような意識で見守ることで、お互いの信頼関係が深まっていくのです。(0~6歳のいまをたのしむモンテッソーリの子育て クレヨンハウス 40ページより引用)
2019.12.02
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森田先生の精神療法はイタリアのマリア・モンテッソーリの影響を受けているといわれている。森田先生の考え方はこうだ。特に上から指示命令するのではなく、誰もが持っている心身の自然発動を促す。神経質性格を抑圧するのではなく、むしろこれを利用して、人間の元々持っている能力を最大限に発揮させることが肝心だ。これはモンテッソーリの教育方針そのものだ。今日はモンテッソーリの児童教育について紹介してみたい。モンテッソーリはイタリアで「子どもの家」を運営していた。2歳半から7歳までの児童を50名ほど預かっていた。貧困家庭で子供の世話が十分にできない子供を預かって教育していたのである。ここから困難に打ち勝ち、積極的で、好奇心が強く、社会に調和した子供たちが生みだされたという。時間は冬は朝9時から夕方5時まで、夏は朝8時から夕方6時までだった。教師は全員女性で、同じ共同住宅に住みこんで子供たちの模範となることが求められた。基本的な教育方針は、人間は元々あらゆる障害を自ら乗り越えて運命を切り開いていくという宿命を背負っている。そのために私たち教育者は、子供たちに完全な自由を与えて、子供たちが興味や関心を示すような教育、教材の提供、環境整備が重要であると考えた。先生が子供の活動を指示や叱責によって、子供の自然発動の芽を摘んでしまうことは、子供の生命そのものを窒息させてしまうと考えていた。間違いを指摘することもタブーとされていた。指導者は子供に奉仕するが、子供たちが自分でできることには安易に手を出さないという忍耐強い教育であった。子供に知らないことをたくさん教え込むという教育ではなく、子供たちを一人一人よく観察して記録をとることを重視していた。教師が魂を持って一人一人の子供に接して、彼らの内なる生命を目覚めさせるところに注力していた。またモンテッソーリは感覚教育を重視していた。触覚、視覚、聴覚の訓練のための様々な教具を考案している。その教具は子供たちに喜ばれ、子供の持っているエネルギーが発揮されるように工夫されていた。目隠しして物の形を識別する様々な練習器具や、紙やすりで粗さの段階が識別できる感触を訓練する器具。色と形、大きさの違いを識別できる視覚ゲーム。ハーブを使った音響の識別とリズム感覚の訓練もおこなった。このような教育によって、「こどもの家」からは、豊かな感情、鋭い感覚、すぐれた知性を備え、外からは「小さな大人」あるいは「熟慮する裁判官」に見える子供たちが育ったという。しかも、驚くことに、どの学校よりも規律がとれていたという。森田先生もこういう人間に成長してもらいたいという人間愛にあふれていた。モッテソーリの書物によって人間教育を学ばれたに違いない。
2019.11.24
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私には小学生の男の外孫が2人いる。我が家にやってくると必ずゲームセンターに行く。持参品はプラスチックの箱に入れた20枚程度のカードだ。このカードを読みこなせると、自分のキャラクターのパワーが増強されるという。このカードには力の強いものと弱いものがある。力の強いカードをゲットすると、自慢げに詳しく説明してくれる。5つのボタンとレバーなどを操り、怪獣などの敵と戦って、課題を次々とクリアしていく。目にもとまらぬ的確な操作技術とゲームにかける意気込みには恐れ入った。それを兄弟で競い合っているのだ。ところで、私は以前パチンコ依存症になりかけたことがあった。孫もゲーム依存症になってしまうのではないかと少し心配になった。これについては、堀江貴文氏が貴重な見解を述べておられる。子供がゲームに熱中しているのならば、中止させてはいけない。「あんたは勉強もしないで、ゲームばっかりして、ダメじゃないの。お金もかかるのよ。すぐに止めなさい」などと叱ってはいけない。理由は簡単。「熱中」することほど価値のあるものはないからだ。熱中するものは、ゲームでも、恋愛でも、本でも、鬼ごっこでも、もしくは勉強でもなんでもいい。熱中するものがあり、その体験を積み重ねることは、その子の宝になる。その子の自信となり糧になることは間違いない。熱中すれば、努力を努力と思わずに自然に工夫するようになる。そうすると、工夫する思考回路が育つ。よい思考を形成するうえでは、イヤイヤ取り組む勉強より、自発的に「熱中」できる何かのほうが役に立つ。親はその子が興味を持ったことを、見守り、応援してやればよい。そう考えると、子供が野球、サッカー、水泳、熟などなどに通っていて、「やめたい」といったら、すぐにその訴えを聞いてあげてほしい。普通は「そんな根気のないことでどうするの。あんたのためなのよ。いくらお金がかかっていると思っているの。せめて我慢してあと1年は続けてみなさい。そのうち興味が湧いてくるかもしれないじゃないの」などと、子供の気持ちを否定します。子供のやめたいという気持ちは、「飽きっぽい」「怠けている」ということではない。単に興味と関心がないだけなのだ。大人が興味や関心がないことを、他人から続けるように強制された場合のことを考えてみよう。こんなにつらいことはない。これが長期間にわたると、身体も精神も病んでしまう。子供の興味の対象なんて「移り気」「浮気性」で当たり前です。大人はそれを黙認して、側にいて、応援してあげるだけでよいのだ。親は子供の主体的、意欲的な活動の芽を、安易に摘み取ってはならないのである。(好きなことだけで生きていく 堀江貴文 ポプラ新書 186ページより要旨引用)
2019.11.07
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教育の起源を考えてみたい。ものごころついた大勢の子供を一カ所に集めて教育するシステムは、産業革命後のイギリスではじまったという。それまではそういうシステムはなかったそうだ。産業革命によって、工場労働、単一労働、分業制、大量生産による資本主義の時代が始まりました。この時代の要請を受けて国家による教育制度が確立したのだ。大量生産をする工場では、読む、書く、計算ができる人間が必要とされる。また指定された工場に、毎日遅刻しないで通って来る責任感のある人間が求められる。さらに一旦取り交わした約束を確実に順守して、上司の命令には決して逆らわない人間が必要になる。そして言われた通りの単純作業を黙々と定年まで続けられる忍耐強い人間が望まれる。上司、会社、国家の要請には無条件に従い、イヤなことにも我慢して黙々と取り組んでくれる人間を大量に作り上げることが教育の目的だったのだ。教育という言葉は、教えて育てると書く。つまり為政者が目的を持って子供たちを洗脳していくことが教育の中身だったのだ。学校はもともと、子供という「原材料」を使って、「産業社会に適応した人間」を大量生産する「工場」の一つだったのである。その際たるものが、戦前の日本の「国民学校」での教育であると堀江貴文氏は指摘している。戦時下の日本では国家が教育システムを利用して国民をあまねく洗脳していった。国民は天皇陛下のために命を捨てる覚悟で敵と闘わなくてはならない。国民は天皇陛下のために命を投げ捨てることを、徹底して無意識に刷り込まれた。この洗脳教育はおみごとというほかない。滅私奉公の人間が出来上がっていた。国民は国家のために働き、税金を支払い、子供を産み、お国のために喜んで戦地に赴くような人間教育を行ってきた。それが日本全国隅々まで徹底して教育されたからこそ、一億総玉砕されるまで戦うのだという人間が出来上がったのだ。(すべての教育は洗脳である 堀江貴文 光文社新書 一部引用)本来の教育は、望まれてこの世に生まれ出た子供が、生の喜びを心の底から味わうことができるようにサポートすることにある。会社や国家があっての人間教育ではないはずだ。一人の人間が先にあって、家族、社会、会社、国家が個人の生の喜びを感受するためにどのようなことを教えていけばよいのか。ここから発想して考えていく必要がある。心身共に自立して生きていくことができる人間作りが大切になる。その次には基本的な社会のルールを教える。子育てや人間関係の在り方を教える。基礎的な読み書き計算を教える。それと並行して、その人のやってみたいこと、やりたいことを見つけるためのサポートを行う。そのためは、子供たちにいろんな体験、経験の機会を用意する。興味や関心を持てるものを数多く用意して、それを見つけたらどんどん応援していく。それが将来自分の打ち込む仕事につながってくればよいのだと思います。困難に打ち勝ち、好きなものに取り組んでいける人間を養成していくことが肝心です。ここまでくれば、自分は人間に生まれてきて本当によかった。また機会があれば、また人間に生まれ変わりたいと思えるのではないだろうか。今の教育制度では、もう金輪際人間に生まれて、死ぬほどの苦悩や葛藤は味わいたくないと思う人が増えてくるのではないだろうか。ただ井の中の蛙状態なので、今の教育の問題に気づいている人は少ない。森田先生は、「教育の弊は、人をして、実際を離れて、徒に抽象的ならしむるにあり」といわれています。教育をすればするほど観念的、理想的、完璧主義に陥って思想の矛盾で苦しむ人間を作りだすといわれています。つまり「かくあるべし」でがんじがらめになり、生きる意義を見失ってしまうということだと思います。教育については客観的な視点で考えてみることが大切だと思います。
2019.11.01
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子供を育てている人、孫と接触することが多い人に是非読んでもらいたい本がある。「言葉ひとつで子供は変わる!」(安永智美 PHP研究所)安永さんは、少年非行やいじめ、不登校など少年問題に対応する少年育成指導官をされている。過保護、過干渉、育児放棄、放任がどんなに子供たちを苦しめているかを紹介されている。涙なしでは読めない本であった。今日はその中から一つ紹介したい。甘えていい時期に甘えを禁止された子供が、甘えてはいけない時期に甘えてはいけないものに甘えてしまうという一説があります。甘えてはいけないものに甘えてしまう。・・・その典型が、アルコールや薬物への依存です。他にもニコチン、ギャンブル、買い物、恋愛など、依存症と呼ばれるものは多々ありますが、どの症状を持つ人にもその根っこに「親に甘えたかったのに叶わなかった」という傷があるように思います。もちろんすべてがそうだとは言いません。ただこれまでの経験でも、たとえばシンナー依存症の子供が、幼い時に育児放棄されていたなどのケースが数々ありました。特に乳幼児期の子供の場合、「甘えるな」と禁止するより、むしろ思い切り甘えさせてあげることが必要です。甘やかすとは、わがままを聞いてあげることや、物やお金を与えることではありません。ギュッと抱きしめるなどのスキンシップ、「大好きだよ」「いい子だね」と言ってあげるなど、その子の存在をまるごと認めて愛してあげることなのです。(同書174ページより引用)
2019.08.11
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平井信義さんは、子供を育てるにあたって一番大事なことは、できるだけ自由を与えて、自発性を育てることだといわれている。私はこの話を聞いて、森田理論の「生の欲望の発揮」のことを連想した。興味や関心、好奇心のあることは、自由に何でも挑戦させる。子供はもともと誰でも旺盛な好奇心、やる気や意欲を持っている。それをそのまま伸ばしてやれば、行動的、挑戦的、自立的、創造性の豊かな人間へと成長していく。次第に親から離れて、自分一人で生きていけるようになる。親は子供の近くにいて、子供のやっていることを見るだけでよい。近くにいて見守っているというのがポイントである。未熟な子供は、やることなすことがもたもたとして遅い、きちんとできない。失敗を繰り返す。また大人が困るようないたずらをする。おどけたりふざけた言動をとる。親に反抗する。兄弟や友達と喧嘩を繰り返す。そのようにイライラするときでも、口を出さない、手を貸さないことを心がけることだ。口を出す場合は、生命の危険が差し迫っていること、自分や他人を傷つける。等最小限にとどめる。その場合でも、私メッセージを使って、「お母さんはこうしてくれるとうれしいんだけどね」という言い方にする。どうするかの主導権は子供に持たせる。体罰や強制や命令や叱責は避けるべきである。子供の自発性を育てるためにやってはいけないことが3つある。過保護、過干渉、放任することだ。過保護 親や祖父母が、子供のやるべきことを子供になり替わってやってしまうとわがままな子供になる。何でも他人に依存して、自分では決断も実行もしなくなる。過干渉 子どもがやっていることを、いちいち指示命令したり、叱責や否定をしていると、親の顔色ばかりを気にするようになる。自分の気持ちや意志を抑圧するようになる。神経症発症のの温床となる。自由放任 親が近くにいないで子供が一人で寂しく過ごしている状態だ。心の安全基地がないので、不安で一杯である。他人が信頼できなくなり、自己防衛一辺倒に陥る。正しいことと間違っていることの区別がつかなくなり、行動の抑制力がつかなくなる。子供を育てるにあたっては、「子育ての基礎」を学ぶ必要があると思う。誰でもどのように子供を育てたらよいのかは、教えてもらわないと分からない部分がある。学習しないで、自己流の子育てはほぼ失敗する。それは理想通りの子育てをしている親はいないからだ。自分が親から間違った子育てをされていると、そのやり方を自分の子供に押し付けてしまうからである。子育てを学習しないと、世代間を超えて間違った子育てがどんどんと伝播していくのだ。その結果まず子供や孫が苦しむ。それが天に唾するようなもので親にも跳ね返ってくる。親の子育て次第で子供の生き方の大半が決まってしまうということは、十分に意識する必要がある。平井信義さんの参考図書を紹介しておきたい。「子どもを叱る前に読む本」「子どもの能力の見つけ方・伸ばし方」いずれもPHP文庫である。
2019.06.21
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子育てについて、樹木希林さんは次のように語られています。人を頼まないでやるって事は大変ですよ。それが本当の子育てなんですよ。それもお金がなくて人が雇えないなら別だけれども、 いちおう稼いでて人を雇わないでやるっていうことはね。へたへたになって帰ってもご飯を作ってやるということがね。これがなかったら私、役者をやっていてもしょうがないと思って、頑張っているのですけれどね。(役者よりも子育ての)比重が、それは大きいですよ。だから役者やってた時にひとつの台詞で胸にくるんですよ。日常生活はやっぱりね。それは離婚も結婚も色々あるでしょうけれども、それなりに一生懸命やって、傷ついたり、嬉しかったりしている人たちはやっぱり会ってて素敵ですよね。適当に女優というところであぐらをかいている人は、やっぱり素敵じゃないですね。それはもう、私、どの世界でも一緒だと思うのですよ。(一切なりゆき ~樹木希林の言葉~ 文芸春秋社 27頁より引用)樹木希林さんは、素敵な女優というのは、いくらお金があっても、仕事が終われば、どんなに疲れていようとも、家に帰ってご飯を作っているといわれているのです。食事を作るためには、買い出しも必要です。何を作ろうかと思案します。そして実際に手間暇をかけて料理を作ります。終われば後片付けも待っています。それ以外にも、洗濯や掃除の家事もあります。樹木希林さんは、食事以外の家事にも心を込めて取り組まれていました。多少夫が協力してくれたとしても、役者をしていればめんどくさいと思うこともあるでしょう。でもそれを言い訳にして放棄していては、子供はまともには育たないといわれているのです。子供にこずかいをふんだんに与えて、好きなものを買って腹いっぱい食べなさいでは済まないということです。こずかいでは不満はないかもしれませんが、子供には寂しい思い出しか残りません。そういう女優さんの子供さんで大人になって薬物に手を出して、何度も逮捕されている人もいましたね。あんなに不自由のない生活をさせていたのに「なぜ、どうして」というのは、とても残念な発言です。日常茶飯事を柱にして、丁寧に取り組むことが何よりも大切だということが分かります。日常生活に手を抜きっぱなしの生活は、砂の上に家を立てて喜んでいるようなものです。身体は楽になりますが、精神的にはどんどん空虚になり、生きてても何にも面白いことがないというようになります。そして最後には残念な人生で幕引きということになります。
2019.05.04
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愛甲修子さんによると、子供は他の子供たちと遊びを通じて人間関係の在り方を学んでいくといわれている。そしてルール遊びの中から、社会のルールを学んで、自分の本能的な欲望が暴走しないように制御できる能力を身に着ける。そして、その遊びにも発達段階があるといわれている。1、愛着形成期母親と赤ちゃんの間で形成される絆であり、最強のセイフティネットとなる。2、感覚遊び期赤ちゃんのガラガラ遊びは聴覚を中心とした遊び、メリーゴーランドは視覚を中心とした遊び。「高い高い」や「毛布ブランコ」は固有受容覚や前庭感覚を中心とした遊び、指しゃぶりは臭覚や味覚を中心とした遊び、自傷行動は固有受容覚や前庭感覚を中心とした刺激遊びである。3、模倣遊び期養育者のまねをして遊ぶ。例えば、鏡台の前に座って口紅を塗ったり、お料理をしている様子をまねたり、日常の様子をまねる。4、ごっこ遊び期お母さん役、お父さん役、赤ちゃん役、お姉さん役などを決めて、それぞれが役になりきって遊ぶ。テレビのヒーローやお姫様になって遊ぶこともある。5、ルール遊び期おにごっこ、だるまさんがころんだ、すごろく、トランプなどルールのある遊びができるようになる。6、自律期がまんができるようになる。己の身体と気持ちを律することができるようになる。(愛着障害は治りますか 愛甲修子 花風社 99ページより引用)子供たちは遊びの発達段階を順番に通過することによって成長する。まず愛着の形成が可能になる。つぎに五感や身体感覚を育てていく。遊びを通して、ルールを学び、ルールを守るという自制心を育てていきます。さらに人間関係を学び、社会を生き抜いていく力を育てているのです。愛着の形成、五感や身体感覚を鍛える遊び、模倣遊び、他の子供とのなりきり遊び、ルール遊びの発達段階を着実に経ることによって、子供はまともに成長していくのだという認識を大人が持たなくてはなりません。そうすると、子供を見る目が変わってくる。過保護、過干渉、放任、虐待は減ってくると思う。私の場合は、1の愛着形成期、4のごっこ遊び、5のルール遊び期、6の自律期の段階を踏んでこなかったと思う。家の中で一人で過ごすことが多く、近所の子供たちとルール遊びをした思い出はほとんどない。それが本能的な欲望が暴走したときに、我慢することができない人間になってしまったのかもしれない。今では、そのような場面、場所に立ち入らないというということで、かろうじて本能的な欲望を制御しているような状態である。また異性と遊んだ記憶は全くない。その経験不足が、いまだに異性を避けるという態度になってしまっているのかもしれない。
2019.04.24
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愛甲修子さんは、愛着の形成は胎児期から始まっているという。そしてそのプロセスは8つありピラミッドを形成している。一つ一つをクリアーして、次の段階に進むことができる。1、胎児期胎児は母親と一心同体で生きている。その命は、すべて母親に委ねられている。2、出生期赤ちゃんは産道を通って、子宮内から外界へと生まれ出る。臍帯を通しての胎盤呼吸から肺呼吸に変化させて、母親の胎盤から切り離されて生きていくことになる。3、自他未分化期赤ちゃんは養育者に抱っこしてもらい、おっぱいを飲ませてもらって、養育者と一体化した状態で生きている。4、共感期赤ちゃんと養育者とが同じ対象を見たり、聞いたり、味わったり、触ったりすることで、感覚器を通して共感し合えるようになる。5、自他分化期養育者との間に愛着の絆ができると、見知らぬ人と養育者を区別するようになる。養育者以外の人に不安を覚え、養育者に安心を覚えるようになる。6、後追い期養育者に急にまとわりつくようになり、後追いが始まる。7、移行対象期赤ちゃんは言葉によって養育者に甘えることが可能になる。養育者の膝を基地にして、次第に行動範囲を広げていき、移行対象が養育者代わりとなって養育者がいなくなっても大丈夫になる。8、内在化期養育者が内在化されて、一人で過ごすことが可能になる。(愛着障害は治りますか 愛甲修子 花風社 52ページより引用)このような愛着の発達過程を経ることで、子供は他人への信頼感・安心感を獲得していく。胎児から1歳6か月までの間で、母子の間で愛着の形成が滞りなく行われると、それは一生ものになる。当たり前で簡単なことのようだが、現代社会では愛着障害を抱えて、他人に不安や怖れを感じる人が多いのである。信頼関係を気づくことができないので、他人の言動に振り回されるようになる。愛甲さんは、愛着障害を抱えている人は、2歳から4歳の時の、第一反抗期はないという。親に反抗するというのは、親が自分を見捨てないという確信が持てた場合にのみ可能になる。親が心の安全基地だという発達段階を経て、初めて、第一反抗期が訪れる。親から分離して、自立への第一歩を歩みだすことが可能となるのである。また愛着障害を持っている人は、依存症に陥りやすいという。母親に十分に甘えるという発達段階が抜け落ちると、甘えだけが暴走して、依存対象にしがみつくようになる。依存症はアルコール、ギャンブル、薬物、ネットゲームなど様々ある。親子での愛着の形成の不全感が残ると、信頼という絆がないので一人ぼっちの「甘え」が不特定多数の人や物などへしがみついてあがくことになるのです。私は対人恐怖症、社交不安障害を抱えている人は、愛着診断テスト(岡田尊司さんの愛着障害という本に記載されている)を行い、愛着の再形成を行ったほうがよいと思う。森田理論学習は愛着障害の修復とともに行うことを提案したい。
2019.04.23
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生後1歳6ヶ月までに形成されるという愛着の形成は、おおむね次のような段階を踏むと言われている。1 、 自閉期生後間もない赤ちゃんは、自分の心と身体、自分と母親との区別がまだつかない。2 、共生期母と子がくっつきあう時期で、このとき、母親と「一心同体」という融合体験を持っているか否かが、その後の自我の発達の基礎となる。3 、分離開始母親との融合関係が満たされると、母親からの分離が起こり始める。この時期の子どもは、母親の顔や衣服のまさぐったり、自分の指をしゃぶったり、シーツを手探りしたりしている。この移行対象に触れながら、母親と自分が一体ではなく分離したもので、自分とは別のものであるということを認識していく。4 、分離初期「いない・いないいないバー」は、母親との別れの練習とも言える。急に大切なものがいなくなった! いや、やっぱりいた!という体験は、母親はいなくても現れるのだという安心感につながる。8ヶ月頃から人見知りが始まるが、これは自分と対象とが分化して、見知った者には安心感、見知らない者には不安を感じるわけで、自我発達にとっては大切な経験である。5 、分離過渡期を経て分離の完成①養育者から離れて、自分独自の行動がより自由になる。②動けることによって視界、つまり外界の見え方が一変し、子供は母親の膝を基地にして、出かけては戻るを繰り返して、次第に行動半径を広げて行く。エリクソンは、基本的信頼関係を築くことが、乳児期の発達課題だとしました。母親との信頼関係の獲得が核になって、身近な人への信頼、仲間への信頼、人間への信頼へと、信頼は大きく広がっていき、愛すること、他者のうちに自己を見出すことができるようになって、精神的に安定した人間に成長するのだと唱えました。この発達過程を通過することなく成長すると、人間の基本的信頼関係を獲得することができなくなる。これはイスラエルのキブツでの実験で明らかになっている。人は自分に対していつも対立的で、自分に危害を加える存在のように感じるようになるのです。何か問題が発生したときは他人が助けてくれるという安心感が持てなくなる。そのために、外部の対象物に働きかけるよりも、自分を守るという自己防衛にエネルギーの大半を注がざるを得なくなる。森田でいう、「生の欲望の発揮」「物事本位」の生活が困難になってくるのです。専守防衛的な生き方は、生産的、創造的、建設的な生き方ができなくなるので、じり貧で閉塞的な生き方になってしまう。生きている喜びや開放感が味わえなくなってくる。1年6か月までの母親と乳幼児の関係が、その後のその子の人生に大きな影響を与えているというのは大変な驚きであるが、これは事実である。愛着障害については、岡田尊司氏の「愛着障害」(光文社新書)の中に、「愛着スタイル診断テスト」がある。これによると、基本的には安定型、不安型、回避型の3つがある。そして、そのバリエーションを含めて8種類に分類されている。対人恐怖症、社交不安障害の苦悩を抱えている人は、ぜひとも診断することをお勧めしたい。自分の状態が分かれば、あとは愛着障害の改善に向けて舵を切ることができる。愛着障害は、ある程度修復可能だ。決してあきらめることはない。そういう方向に向かわないと、他人はとてつもなく恐ろしいだけの存在となる。その他の参考図書として、岡田尊司氏の「愛着障害の克服」光文社新書「愛着障害は治りますか」愛甲修子 花風社などを参照してもらいたい。
2019.04.22
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最近児童虐待の報道が毎日のようにある。これは氷山の一角で、実際には児童虐待、育児放棄のすそ野はかなり広がっているのではないかと推測している。政府もこれ以上放置しておけないとみて、対症療法的な対策を打ち出そうとしている。今日はこの問題を今まで投稿してきた記事の中から考えてみたい。普通子供が生まれると、母親の体の中にはオキシトシンが多量に分泌される。これが分泌されると、今まで自分ことしか考えていなかったような人が変身する。子供がいとおしくて仕方がないような気持ちになり、子供のためなら命さえ惜しくないと思うようになる。このオキシトシンの分泌が不十分だと、親は子育てに無関心になっていく。子供を産んでもすぐに子供を放りだしてしまう。子供も親になつくことはない。やがて親子の関係を絶って別々に生活するようになる。オキシトシンの働きが活発だと、その人は対人関係で積極的になるだけではなく、人に対してやさしく、寛容で、共感的になりやすい。 逆にオキシトシンの働きが悪いと、人になじみにくく、孤立的に振る舞うようになり、また過度に厳格になったり、極端な反応をしやすくなる。またオキシトシンは、ストレスや不安を抑える効果がある。オキシトシンの働きがよい人は、不安やストレスを感じにくく、うつやストレスに関連した病気にかかりにくい。その差は何によってきまるのか。その最大の原因は、幼いころに安心できる養育環境で育ったかどうかということなのである。つまり愛着形成期を、無難に過ごしてきたかどうかがその後の人生に影響を及ぼしているのである。 安心できる環境で育った人は、脳内にオキシトシン受容体が増え、オキシトシンがスムーズに作用するので、その働きがよい。ところが虐待されたり、育児放棄を受けたりした子どもでは、オキシトシン受容体が脳内にあまり増えないため、オキシトシンの働きが悪く、ストレスに敏感になってしまう。つまり児童虐待をする親は、愛着障害を抱えている場合が多いということである。夫婦の二人ともが愛着障害を持っていると、子育てはとても困難になる。この方面の対策を立てることが大切である。愛着障害を起こさないための子育てを学習する。愛着障害を起こしている人は、その修復が必要なのである。もう一つ次のようなことが考えられる。動物行動学やっているケーニッヒという人が、青サギをたくさん飼っていました。 餌とかいろんなものを十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えてゆくそうです。あるところまで増えていくと、そのうちだんだん減ってきて、そして最後には絶滅したそうです。 同じような実験はネズミでもおこなわれていて、環境を整えていくと最初は増えるのですが、やがては減ってしまう。どうゆうことが起きるかというと、卵を産んでもかえさないとか、子供ができても餌をやらないとか、子育てをしなくなるのです。その結果としてサギが減ってしまうということです。つまり自分たちの欲望がある程度叶えられてくると、さらに加速がついてくるのです。自分が自分の人生を精一杯楽しみ、子育てのような面倒なことを嫌がるようになるのです。子育てのために自分の時間を浪費したくない、お金もつぎ込みたくない、自分の自由にならないものとはかかわりたくない。その結果子孫の繁栄には気が回らなくなるのです。 日本社会も少子化といわれて久しい。人口減少が続き、将来は7000万人ぐらいまで落ち込むと予想している人もいる。 結婚しない人、結婚しても子どもを作らない人、生んでもせいぜい1人か2人。それは教育費がかかり過ぎる。養育費がかかり過ぎる。 子どもをたくさん作ると親子共倒れになるという不安がある。 自分たちが出来るだけ物質的に豊かな生活をしたい。 そのエネルギーが過剰になると、子育てには向かわなくなる。この世に生きている自分さえ楽しく愉快に過ごせればよい。 不足分を次世代を担う子どもたちに期待しようという気持ちは無くなる。そうしてあくなき欲望の充足に浸っていくうちに子どもたちは少なくなり、子どもたちは将来に希望を見出すことはできなくなっているというのが実態ではなかろうか。 欲望のあくなき追求は、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のシーンを思い出す。グルメ三昧でムシャムシャと夫婦で美味しいものをむさぼっているうちに、ブクブクと肥り最後には姿かたちも豚になってしまうという話である。とても見にくいシーンであったが、人間そのものを風刺しているようであった。欲望は不安という機能を活用して、暴走させてはならないのである。
2019.04.10
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愛着障害を抱えていると、人間関係がうまくいかない。他人は自分を守ってくれるどころか、非難し否定する存在だと思ってしまう。愛着障害の原因は1歳から3歳ごろの母親との関係にあるといわれている。幼児にとって母親は母港のような存在だ。歩けるようになると、母港から離れて少しずつ探検をするようになる。その時に、不安になるとすぐに母港に引き返す。そこで、自分は母親に守られているという安心感を得て、再度冒険に向かう。そんな時に、もし母親が近くにいてくれなかったらどうなるか。あるいは、愛情を注いでくれなかったらどうなるか。冒険に出かけることはできない。母港を探し求めてさまようことになる。それでも探しきれないときは、自分で気づかないうちに、対人恐怖症のもとが出来上がってしまう。岡田尊司氏は、愛着障害を抱えた人は、大きくなっても指しゃぶりをするという。その他小学校高学年になっても、夜尿症が止まらない人も要注意だという。対人不安、対人恐怖で振り回される人は、そういう特徴が表れやすいということに注意しているとよく分かる。自分にもそういう傾向があった。自分では全く気づかなかったが、あるとき講義を聞いている自分の姿をビデオで見た。その時に、指をくわえていたのである。愕然とした。また夜尿症もなかなか止まらなくて親によく叱られていた。私の場合は、幼児期に母親が家にいることが少なく、寂しかったのだと思う。それに神経質性格を持っていたので余計に拍車がかかったのだと思う。そういうことで、中学、高校は友達と遊ぶことを避けていた。特に異性と話することは、考えもしないことだった。他人が自分をいじめたり、危害を加えるのではないかという予期不安で苦しんでいた。大学の時の同好会活動でやっと一息つけた。しかし社会人になってからは、また対人恐怖がぶり返して、苦しいことばかりであった。今になって考えると、薄く幅広い人間関係を構築して、多くの人と交流していくことは文句なく楽しい。今では集談会の仲間、OB会、一人一芸の仲間、老人ホーム慰問仲間、仕事仲間、カラオケ仲間、近所の人たちとの交流などで楽しく交流している。そういう人たちの交流がなかったら、人生はとても味気なく、対人不安を抱えたまま一生を終えていたことだろう。もっと早くから「心の安全基地」作りに取り組んでいけば、私の人生も大きく変わっていたのではないかと思う。現在人付き合いは苦痛そのものだと思われている人は、利害関係のないところから、少しずつ交流を始めることをお勧めしたい。人間はしょせん一人で一生を送ることはできない。温かい人間関係に囲まれて、生活することが一番であると思う。森田理論では、必要に応じて付き合ったり離れたりする「不即不離」の人間関係をお勧めしている。何でも話せる親友を作るよりも、そちらの方向を目指すことが心の健康に役立つと思う。
2019.04.04
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昨日に引き続き、長谷川洋三先生のお話です。お母さん方の中には、子供が忘れ物をして学校に出かけた場合、慌てて忘れ物を学校に持って行き、こっそり子供を呼んで手渡してやるようなことがあります。忘れ物をしたら、自分がどんなに困るか、どんなに恥ずかしい思いをすることになるか、子供の貴重な体験の機会を奪ってしまうのです。子供はこういう体験をすると、今度は自分で忘れ物しないように気をつけるようになり、工夫もします。ところが、お母さんが届けたばかりに、こういう体験もできなければ、自分で気を付け、工夫するということにもなりません。忘れ物を繰り返すということになるでしょう。幼い子供が柱にぶつかって、わーっと泣き出すと、おばあちゃんが「よし、よし、かわいそうに、泣くんじゃない。悪い柱だね。めっ! 」と、柱をぶつまねをする。よくある風景ですが、これなど、失敗すると自分の事は棚に上げて他人のせいにする態度を養うようなものです。これはお母さんやおばあちゃんが、子供を甘やかせて過保護に育てているのだと思います。過保護は子供を必要以上に溺愛しているだけで、子供の将来には害になります。このようなことが度重なると子供は体験不足になります。そして観念主義に陥ります。また依存心のみが肥大化して自立心が育ちません。子供にとっては不幸なことです。人に依存して生きていくばかりで、困難をはねのけて、挑戦する態度を養うことができません。日常茶飯事も親や他人に頼るばかりで、他人の援助がなければ、自分では何もできません。他人に依存する人生は、意欲ややりがいが持てなくなり、無気力、無関心、無感動な人生を送ることになります。依存するばかりの人生は、自分の気持ちや意志を大事にすることができなくなります。常に他人の言動が気になるようになります。他人の言動に振り回されるようになるのです。このようにして、対人恐怖症が生まれてくるのです。そして、容易に他人に支配されるような人間になってしまいます。こうなりますと、生きていくことに何の意味も見いだせなくなります。生きる事は苦役を強いられているようなものです。残念な人生で終わってしまいます。私たちが参加している集談会でも、森田理論の理解が不足している人に、性急に森田理論の真髄をしゃべってしまうことがあります。これは、親切なようで聞いている人にとってはとても迷惑な話です。小さな親切大きなお世話です。本来は自分が学習して、つかむ楽しみを最初から取り上げられてしまうからです。森田理論は、自分で理論を学習して、それを実際の生活の中に取り入れて、二歩前進一歩後退の試行錯誤の中でだんだんと自分のものにしていくものです。人から先に答えを教えてもらうやり方はうまくいきません。周囲の人は、その成長の過程を温かく見守っていくという態度が必要なのです。性急に森田理論の真髄を教えてあげるという態度になると、しゃべっている人の自己満足で終わってしまいます。もどかしさを感じても、手出し不要です。相手に森田理論を説明することに力を入れるよりも、自分のつかんだ森田道を愚直に実践しているほうが相手に与えるインパクトは非常に高いものがあります。相手はその後ろ姿にこそ、大きな影響を受けるのです。
2019.03.09
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現代の日本人は、過剰な物、過剰な食べ物、過剰な関わり、過剰な干渉、過剰な教育、過剰な情報に取り囲まれています。「過ぎたるは及ばざるよりもなお悪し」と言います。これが人間関係、身体の健康や心の問題の悪化に大きく関わっているのではないでしょうか。自立して生きる力を骨抜きにされ、いつまでも親の加護の下にある大人になった子供達。何をするにしても自信が持てなくなり、生きること自体が苦痛になっている若者たち。問題解決能力が身につかず、すぐに投げやりになり、親に責任をとらせる子供たち。自己表現ができなくなり、人間関係で振り回されてしまう人たち。生活習慣病ともいわれるガンをはじめとする様々な身体疾患で苦しんでいる人たち。自分たちの快楽を求めることが最優先され、子供を産み育てるという目標が希薄になった親たち。これらは、あらゆるものが不足している社会ではあまり問題にはなりません。むしろ、恵まれすぎて、すべてのものが過剰に存在する社会で問題になる事ばかりです。欲望は制御不能になり、暴走を繰り返すのが常ですから、森田理論を学んだ者として、社会に向かって警鐘を鳴らす必要があるのではないでしょうか。今日は、この中で子どもに対する過剰な母親の干渉について考えてみたいと思います。子供を産んだ親は、しつけをして、子供たちを自立した人間に育て、社会に送り出していくという大きな役割があります。社会に送り出して、新しい家族を得て、自立した自分たちの生活を始めた途端、基本的に親子関係は終了します。しかし現在の日本の社会では、子供たちが大人になっても、親離れできないという問題があります。経済的にも精神的にも親に依存している。親もまたいつまでも子供を手元に置いて子供を甘やかせている。つまり双方がいつまでも共依存関係にあるのです。この親子関係が続けば、子供はいつまでも自立することはできず、親子とも将来に明るい展望は開けません。キタキツネの母親はひとりで子供を育てます。餌を与え、少し大きくなれば、エサの取り方を教えます。ある程度大きくなり、自立して生活できると判断すると、自分たちの巣穴から追い出してしまいます。子供たちはなかなか巣穴から離れようとしません。それでも牙をむいて追い出してしまうのです。ここで強制的に親子関係を終了させてしまうのです。それが自然に生きる動物の宿命なのだと思われます。本来人間も同じで自然界の動物ですから、その方向が自然なことなのだと思います。現在の日本人の親子の関係をみると、子供を自立させていくという目的が希薄なのではないでしょうか。すべての面で過剰な社会に暮らしている私たちは、子供を育てる面においても過剰な関わりを持ちすぎているのではないでしょうか。小さい頃から過保護で好きなものが好きなだけ与えられています。だから我慢するということを知りません。自分を中心にして世界が回っているかのような錯覚に陥ります。子供が何か行動を起こそうとすると、すぐに親が口を挟み、子供が挑戦する前に親が子供になり代わって解決してしまう。子供の意志はことごとく押さえつけて、親に従属する素直な子供に育てていく。このような子供が大人になると、自分では何も決められない。自分の意志を抑圧して、人の思惑ばかりを気にする大人になってしまいます。こうなると自分の人生は自分の意志で切り開いていくということができなくなってしまいます。子供たちの多くは大人になって生きづらさを抱えてしまう。このことは、すべてのものが過剰な日本の社会では、真綿で首を絞めるように徐々にではあるが、確実に進行して、最後には取り返しがつかない事態に陥る。このことを森田理論学習をした人は、社会に向かって警告を発信する必要があると考えています。
2019.01.26
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学校でのいじめはどんどんエスカレートしている。いじめをしている児童や生徒に、 「どうしていじめをするのか」と聞くと、 「ムカつくから」という返事が返ってくる。「どうしてムカつくのか」と先生が聞くと、 「わからない」と返答する子供が多い。そんな子供たちが頻繁に使う言葉は、 「ムカつく。イライラする。腹が立つ。別に。わからない」なのだそうだ。これはいじめをしている子供は、普段から精神的に自分ではよくわからないストレスを抱えているということだと思う。イライラの正体が自分ではわからない。でもどうしょうもない息苦しさを感じている。この状態は、扁桃体や海馬などの脳の神経が少なからず損傷を受けている可能性がある。普通の人間は、他人から理不尽な言動を受けると、すぐに怒りなどのマイナス感情が湧きあがってくる。素直な感情を受け止めることで、次に自分の対応方法を考えているのである。しかし、ストレスを受け続けていると、脳のセンサーが十分に働かなくなる。五感を使っての感性が弱まってくるのである。感じる力が弱くなると、現実対応が難しくなる。不快な気分だけに左右されて、その解消のために、自分より弱い人をいじめて、イライラを発散して、精神の安定を図ろうとしているのである。どうして五感、自分の気持ちなどを感じる力が弱くなってきたのか。考えられる事は、周囲の者が支配者のごとく、 「自分の言うことを聞かなければ許さない。子供が黙って大人の言うこと聞いていればいいのだ」という「かくあるべし」を押し付けているのではないか。大人の尺度で子供を判断し、子どもの気持ちや意志を無視し、その尺度から外れようとするたびに叱責すると、子供は自分の感情や意志より、大人の顔色をうかがって行動するようになる。親などが子供に対して、暴力的な言動をとったり、体罰を与えたりして、子供を脅す事。詰問口調で、子供を真綿で締め付けるように、叱責しつづけること。こういう状態が継続すれば、子供たちは気づかないうちに、その支配に打ちのめされて、感じる力を抑圧し、自主性を持つことを恐れて、自分の人生を諦めてしまうようになる。このようにして、自分の意識を他者に預け、親など強者の顔色をうかがうことに精力を注いでいれば、自分の感情などを見つめる余裕はなくなってしまうだろう。自分の気持ちを見つめる余裕がなければ、自分の気持ちや感情を表現できるはずもない。もちろん、意志も育たない。こうしてみるといじめる子供を作り出しているのは、周囲の者が子供の感じる力を育て上げようとしていないことにある。むしろ感性を劣化させるような育て方をしているのだ。森田理論では感じる力をとても大切にしている。森田先生は、物をじっと見つめていると、自然に豊富な感情がわき上がってくるといわれている。そこから気づきや発見が生まれて、意欲が出てくるのだ。現代は感性が豊かで、自分の気持ち、五感、身体感覚を大事に育てることが社会全体でおろそかにされているのかもしれない。子供の感性を育てるということについて、大人は十分に配慮しなければならないのだと思う。(もう他人に振り回されない 石原加受子 大和出版 62頁参照)
2018.12.29
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欲望が暴走しないで制御がかけられる大人になるためには、小さい頃の親の接し方がとても重要です。子供のほしい物をなんでも与えたり、子供ができることを親が子供になり替わってやってしまうと、子供は制御能力を身につけることができません。自己中心的で依存体質な人間になってしまいます。他人に迷惑をかけ、自立するということかできません。我慢することができなくなり、自分の思い通りに事が運ばないとイライラして、投げやりな行動をとることが多くなります。欲望が暴走すると、つい見境なく本能的な行動をしてしまい、あとで後悔することが多くなります。欲望を追い求めるのは構わないのですが、制御をかける能力が身についていないと、とても危険です。壊れたブレーキの自動車に乗って、アクセルを踏み込むことがどんなに危険なことか、考えただけでもぞっとします。子供が制御能力を獲得するために親はどんな援助が出来るでしょうか。2歳から3歳という時期は、自分で何でもやりたいという自我が出てきます。靴を1人ではく。パンツやズボンもひとりではける。でも、全部1人でやるのは四苦八苦して時間がかかります。お母さんはイライラして、つい、口を出してしまいたくなるものです。「早くしなさい」 「ぐずぐずしないで」 「時間がないのよ」 「いつもあなたは遅いのね」子供を否定して、 「こっちにいらっしゃい」などと言って、親がやってしまおうとします。こんなことでは、子供が能力を獲得し、自立する力を奪ってしまいます。さらに、親に依存する態度を養成し、身の周りのことは 自分でやろうとしなくなります。子どもが自分でやりたい意欲があるときは、時間はかかっても大人はなるべく黙って見守ることが大切です。やがて、そのやりたい欲望は、嫌なことも我慢して挑戦するという能力を身につけていくのです。だから親が手を貸してやればすぐ済むような事でも、我慢して見守ることが必要なのです。子供が2年生ぐらいになったら、持ち物は自分でそろえさせるようにしましよう。忘れ物をしたり、遅刻しそうになっても親は口を挟まないようにします。親がいつも手や口を出していると、子供が本当に困ったときにはパニックになってしまいます。忘れ物をして恥ずかしい思いをする。先生に注意される経験は子供にとって必要です。困ったり、イヤな思いをすることは、子供の成長にとっては良いことだと思います。おもちゃ、お菓子、ゲーム機など欲しがってもすぐにホイホイと買い与える事は問題があります。こんなことをすれば、自分が欲しいものは何でもすぐに手に入ると思うようになります。我慢や忍耐力、欲望の制御能力は育てることができなくなります。大人になって困るのは子供自身です。あとから制御能力を身につけようとしてもどうにもならないのです。お正月や誕生日まで待つ。自分の小遣いが溜まるまで待つ。最低2か月から3カ月間は我慢してみる。子供の頃に我慢する力を身につけさせるのは親の役割です。成り行きで子育てをするのではなく、子育てには先人の知恵を活用して、子供を成長させることが重要です。これは森田理論でいうと、欲望は野放しに追い求めるのではなく、適度に制御をかけて、欲望と不安のバランスをとりながら生活をするということです。これは森田理論の中ではとても大きなテーマとなっていると思います。
2018.11.23
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いくら欲しいものがあってもお金がなければ我慢しなければなりません。本能的な欲望も、ところ構わず行動すれば、犯罪者になってしまいます。また食べていくためには、気が進まなくても、我慢して仕事をしなければなりません。子育ては気苦労が多いものですが、つらいからといって放り投げるわけにはいきません。これらの欲望は理知の力で制御する必要があるのです。強い欲望の追及にあたっては、もともと人間に備わっている制御機能を活用する必要があるのです。これは森田理論でいう欲望と不安の調和をとるということです。耐える、我慢する経験を子供の頃から身につけさせる必要があります。では、どのように行うのか。子供をスーパーに連れて行くと、店の中を走り回り、いろんな商品をつついたりします。そして、欲しいものがあると、 「これ買って」と言います。「ダメです。戻してきなさい」と言うと、だだをこねます。中には床に座り込んで泣き叫ぶ子供もいます。小さい子供さんを持つお母さんは苦労されていると思います。しかし、これは、裏を返せば、子供に社会のルールを教え、耐えたり我慢する体験を積ませることになります。子供は3歳前後でしたら、スーパーに入る前に、腰をおろして、子供と視線を合わせ、両手を握って、次のように話してみましょう。「お店にあるものは、あなたのものではなくて、お店のものなの。だから触ったり、汚したりしてはいけないのよ。もしやったら帰るからね」しかし、子供は母親が言った事を、 「うん、わかった」といいますが、すぐに忘れてお店のもの触ったり、店内で騒いだりするものです。こんな時は、ガミガミ叱るのではなく、買い物の最中でも、やめて子供の手を引いて帰りましょう。先に注意しておいたのですから、連れて帰っても理不尽ではありません。。母親が毅然とした態度を示すことが、我慢できる子供になるのです。よくあるケースは、母親が子供に合わせて、 「ダメだって言ったでしょ」と言いながら、 「しょうがないわね。今日だけは特別よ」と言いながら、子供の欲望を叶えてあげることです。このような対応は、 子供の将来になりません。欲望が叶えられないことでも、ゴネればなんとかなるものだと思わせてしまいます。みすみす教育の機会を逃しているのです。忍耐力や我慢強さは獲得することができなくなるのです。これは、電車やバスに乗るとき、家族で外食をする時などにも応用できることです。問題行動の発生が予想される時は、事前に子供に真剣に注意しておきます。その後、約束が守られなければ、途中で電車やバスを降りる。お金を払って出てでも、外食を中止する。親が毅然とした態度を見せることによって、子供は社会のルールを学びます。さらに忍耐力、我慢強さも身に付いてくるのです。小さい時に厳しく育てると、後で楽になります。子供も欲望の暴走を理性で制御することができるようになるのです。生の欲望の発揮を最大限に追い求めることは、車のアクセルを踏むことです。これはとても大切なことです。しかし、一旦欲望が暴走し始めると、そのうち制御不能になります。欲望には最初からブレーキを正常に機能させることが大切なのです。子育てをする親は、そのことをよく理解して、小さいうちから身に着けさせるようにしなければなりません。
2018.11.11
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あるお父さんは、小学2年生の次男がヨーヨーのカタログに夢中なのに気づいていました。次男はカタログに載っているヨーヨーについてはすべて覚えていました。いろいろとうんちくを傾けるのも好きでした。かといって「ヨーヨーが欲しい」と言った事は1度もなく、実際に誰かに借りてやったこともないようでした。見て楽しんでいる段階だったのでしょう。ところが、 2ヶ月ほど経った頃、父親が突然ヨーヨーを買ってきました。お母さんは驚きました。次男は「ヨーヨーが欲しい」とは一言も言っていなかったからです。ずっと次男の様子を見ていた父親は「そんなに好きなら」と、かなり値の張るものを選んで買ってきたのです。結局、買い与えたヨーヨーは与えられたというだけで、実際に使われることなく、引き出しの中に今も眠っています。次男はヨーヨーそのものが欲しかったわけではなかったのでしょう。彼の楽しみは、カタログを見ることにあったのです。もしかすると、もう少ししたら自分でもやってみたいと思うようになったかもしれません。そのまま別のものに興味が移っていったかもしれません。とにかく次男は「欲しい」とは言わなかった。それなのに、父親が買い与えてしまった。なんでも買ってやり、子供の喜ぶ顔が見たい。それが親の愛のあかしのように思う風潮は、 「豊かさ」が人間をダメにする1つの落とし穴です。モノを大切にせず、ものを欲しがる子供が、そこから育ってくることを忘れてはなりません。(ちゃんとがまんのできる子に 田中喜美子 php研究所 72ページより引用)森田理論に「砕啄同時」 (さいたくどうじ)という言葉があります。砕は卵から雛が生まれる時に、自然に成熟してからを破って出てくることである。啄というのは、母親はそれをくちばしで突き破ってやることである。これがもし親鳥が慌てて早く殻を壊さば、雛は早熟で生育することができない。これに反して成熟した雛が、殻を破ることができなければ、窒息して死ぬということになる。すなわち、雛が完全に生育するには、砕と啄とが同時でなくてはならないということである。この例では、子供が欲しいと言う前に、父親が子供にヨーヨーを買い与えた。親が子どもの機嫌をとるために先走ったのである。これは子供を甘やかされているということではなかろうか。子供を甘やかしると、我慢ができない子供になってしまう。大人になって欲望が暴走しても、本来備わっている制御機能が働かなくなるのである。制御機能が壊れていると、自分の生活と家族の生活が破綻しやすくなるのである。この場合は、子供がヨーヨーが欲しいと言いだすまで親が我慢する必要がある。仮に子供が欲しいと言っても、すぐにホイホイと買い与えるようではいけない。仮に3週間待って、やっぱり欲しいといえば買ってあげるもっと言えば、自分で小遣いを貯める。お年玉をもらうまで待つ。誕生日やクリスマスまで待つ。要するに、欲しいものがあれば何でもすぐに買ってもらえるのだという気持ちにさせてはならない。大切なのは、我慢しなければ欲しいものは手に入らない。努力しなければ欲しいものは手に入らない。このような育て方をすれば、忍耐力がつき、自分の欲しいものを手に入れるために努力する子供に育つ。甘やかされて育つと、依存する子供に育ち、欲しいものが手に入らないとすぐにキレるようになる。それは子供にとっても親にとっても不幸な関係になってしまう。
2018.10.23
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