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私のまわりにはアコギが好きで仕方がない奴が多い。今回はO氏のギターを紹介。実は、私の仕事は不動産業、O氏は建設業。なんとなく、割れ鍋にとじぶたという感じが否めない関係である。 このギターはO氏が1982年に購入した、1981年製である。当時は、全国つつうらうら、自分をフォークの旗手と勘違いしている若者がいた時代だ。彼もそうとうな勘違いから、このギターを買ってしまい、とうとう友人とフォークデュオを組み、かぐや姫に狂ってしまったのだ。20年以上過ぎた今も、まだ狂っているところが、慢性アコギ病というやつである。これは治らない。オレが死ぬときは、一緒にカンオケに入れてくれとか言うのだ。んなもの一緒に入るわけないのに。 その友人は、同じヤマハL10だったから、友人に負けたくない(まあ子供やね)との思いから、食堂でバイトに明け暮れた彼は、足らずを持っていたキャッツアイを下取りに、なんとかコイツを手に入れたのである。 5年前だったか、O氏が電話してきて、日曜日の昼下がり、マンション建設現場事務所に来て欲しいと言う。かなり熱い感じだ。行ってみると、なんと彼は、狂ったように、このギターをかき鳴らしていた。しかも現場作業服であった。もちろん、私も彼が持ってきたもう1台のギターを弾いた。そして、2人だけの現場事務所ライブを楽しんだ。ええ中年が半狂乱でかぐや姫の、「あの人の手紙」を唄った。私にとっても、思い出深いギターである。
2005年01月30日
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私は24歳で、たばこをやめた。ボブ・ディランが「ナッシュビル・スカイライン」でたばこをやめて、きれいな声で唄っていたと聞いたからだ。私はそうとうのディランファンである。しかし、これは、拓郎さんがディランファンだったからである。拓郎さんの「ビートルズが教えてくれた」を聴いて、ビートルズを聴くことにもなった。ようするに、吉田拓郎が好きなのである。 ある日、拓郎さんのコンサートで、「俺はもう昔の歌は唄わないぞ。」と拓郎さんが言った。そして、拓郎さんは、J-45を持つことなく、ベースを弾いて、アジアの片隅でをメインに唄った。その日から、拓郎さんが嫌いになった。いや、うそだ、本当は好きだ..。でも、私の中では、間違っていたかもしれないが、拓郎=アコギ=J-45だったのだ。でも拓郎さんは、そういう風にイメージを決められるのを嫌っていたのだ。私が、今回、拓郎さん、ごめんなさいといったのは、この時、拓郎さんが嫌いになったことではない。でも、拓郎離れしていく自分がいたことは確かだった。 そんなある日、K楽器の5階の、お父さんのような存在だったEさんに、お茶漬け屋さん(たしか、流れ川通りの一筋入ったあたりの「みんな」とか言う名前だった)に連れて行ってもらった。そして、その帰り、偶然、ほんま偶然、吉田拓郎さんに出会った。信号を待っていた時だったのだ。拓郎さんは、Jパンではなく、白のズボンだったと思う。そして白のシャツだったと記憶している。(拓郎さんて、エルビス・プレスリー好きなのかなー(笑))しかし、目の前に突然、拓郎さんが現れて、はっきり言って、相当あせった。拓郎離れしているなんて言ってらんない。ボクは、拓郎さんの後ろから声を掛けた。「たったったっ、たくろーさん」と言ったつもりだったが、声も震えて、たくろーのくが言えなかった。従って、「たったったっ、たろーさん」と言ってしまった。拓郎さんにすれば、後ろで、「たったったっ、太郎さん」と聞こえたに違いない。悲しいーーーーーーーーー。後悔ーーーーーーー。拓郎さんは、振り向いてくれず(太郎さんではあたりまえか)、鉄でできた階段を斜めに上がった2階にある、派手なスナックみたいなところへ入って行った。5~6人取り巻きもいた。ボクは、Eさんに、あそこへ連れて行って下さいと、お願いしたが、Eさんは、拓郎さんのことは、売り出した頃から、(先述のTさんとの関係から)たぶん良く知っていて、そないめずらしいこともなかったらしく、「また今度な」と、連れていってもらえなかった。もちろん、貧乏人のボクには、一人ではとても行けないし。あー、あそこで、拓郎さんは、レミーの丸い瓶(拓郎さんが好きな酒)を飲んでいるのだろうなあと思った。当時、お店では10万円くらいと聞いた。先日、私は酒の安売りショップでレミーの丸い瓶を買った。安売り酒店だから、1万円くらいだった。拓郎さんの気分で飲もうと奮発したが、何故かサイドボードの中にしまってしまった。(笑) レミーといえば、私が第2期広島フォーク村に所属していた時、フォーク村の代表のKさんは、「レミー335」(?だったと思うが、思い出せない)というスナックを経営されていた。モデルもやっておられただけあって、カッコいい人だった。もう20年以上前である。また行ってみたい。Kさんお元気ですか。 話はもどるが、やっぱり、私は拓郎さんが好きなのである。だから、私は、大好きで憧れの拓郎さんを、太郎さんと呼んだことに大変後悔している。今もだ。今度拓郎さんに会ったら、「たくろーさん」と言い直したいのだ。 付け加えですが、私が今月作ったばかりの新曲(世間には影響ない事じゃが)のタイトルは、「吉田拓郎オンステージ第3集」にした。(曲にこのタイトルはちょっとキツイけどね)最初は「拓郎を聴きながら」にしようかと思ったが、既にオリジナルに「ディランを聴きながら」という曲があるのでやめた。吉田拓郎オンステージ第3集と名前をつけたのは、拓郎さんに、アコギの第2集に次ぐライブアルバムを出してほしいという、抗議の気持ちが含まれている。同じ気持ちの人は多かろう。是非お願いしたいものだ。 もうひとつ、当時の拓郎さんを知るTさんによると、デビュー前の拓郎さんは、フラットピックのすばらしさはやはり、すごいものがあったとのことであった。リズム感がすごくよく、迫力のあるギターを弾いていたらしい。その当時はどんなギターだったかは聞いていないが、多分国産だったのだろう。
2005年01月28日
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私が広島で学生時代、ライブハウスで歌っていたその近くに、K楽器があった。その後、私は音楽活動の為就職せず、半年の間、パチプロをしていた。当時で月収は13~15万円くらい稼いでいた。ある日、ひょんなことからK楽器のソフトボール大会に応援で出た。その時、パチプロなんかやめてうちへ来いと、店長から誘われた。そして翌日から、K楽器1階のレコード部でバイトを始め、1年後、この5階で、ギター教室の講師をさせていただいた。K楽器は、この地域ではY楽器と競り合っていた。資本力があるY楽器に対して、一歩もひけをたらないというか、むしろ上回っていたのは、このショップ1階にTさんという人がいたからである。Tさんは私よりも7~8歳くらい年が上。初代の広島フォーク村に所属して、吉田拓郎さんとともに活動していた人だ。拓郎の初期のアルバムにも参加しているし、当時から、メジャーな音楽雑誌にしょっちゅう顔を出す人だった。Tさんは、その後、サザンの事務所を経て、今は東京で音楽配信会社を経営されている。出来の悪い私はこの人に大変お世話になった。ミュージシャンの広島コンサートにはほとんど連れていってもらった。といっても開演前と途中休憩、閉演時には、レコード販売を手伝うことが条件だった。長渕さんも何度かK楽器に来られ、Tさんは売り出したころの長渕さんのレコード販売はかなり力を入れておられたた。ある日、長渕さんが、女子大でコンサートを開くことになり、Tさんとともに私も行き、このハーモニカ事件が起きたのである。 楽屋に入ると、ちょっとナーバスな長渕さんがいた。するどい目だった。長渕さんは、髪が長く、いかにもアマチュアではあるがミュージシャンという姿の私を見て、「変な奴が来た」とにらまれたように思う(自意識過剰か)。その後、なにかいろいろな会話があって、突然、長渕さんが「あっ、ハーモニカ忘れた!」と大きな声をあげた。開演60分前である。この時の長渕さんは、あのナーバスさは消え、忘れ物をした小学生のようなあどけなさであった。しかし、その瞬間、マネージャーと長渕さん、そして、Tさんの3人が同時に私を見た。以心伝心とはこのこと。私も即座に立ち上がり「キーはなんですか?」「ホーナーですか?とんぼですか?」と聞き、風林火山のように走りだした。キーは忘れたが、ホーナーだった。(ホーナーのほうが高い)走ること20分、仕方なく、近いライバルのY楽器に入った。私は確かその時、「長渕さんに頼まれて、ハーモニカを買いに来た。」と言ったと思うが、そんなこと言う必要もなければ、意味のないことだった。しかし、言いたかったのだ。しかし売り場の女性は冷ややかだった。ハーモニカを買って、また20分走った。マラトンの岡を走り伝言を届けた勇者の気持ちだった。女子大の玄関でマネージャーが待っていた。そしてハーモニカを手渡したわたしはその場にすわりこんでしまった。はーはーはー。そして、顔を上げたとき、誰もいなかった(笑)。その時、吉田拓郎さんの、外は白い雪の夜の最後の「バイバイラブ そして誰もいなくなった~」が聴こえたような気がした。 汗だくの私は、コンサートが開演しているホールに入ろうとしたが、受付で「チケットを見せて下さい。」と言われた。(笑)ボールを取りに屋根にあがり、ボールを下で待っている友達に渡して、さて降りようと思ったらハシゴ外されてましたって感じ・・・・・って笑ってる場合じゃない。事情を説明しても、らちがあかん。なんぼ頑張っても入れてくれん。その時、はっと気がついた。「ハーモニカ代もらってない。」コンサートは大盛況で終了した。長渕さんらは、さっさと引き上げたようだ。人が多くてTさんも見つからない。そしてただただ夜のとばりは深まってゆくのだった。わたしだけを残して。翌日、Tさんにあった。Tさんは「おまえ、昨日はコンサート見ずに帰ったんか?」と言われた。Tさんには迷惑かけたくないし、気ずかっていただいた気持ちを無にしたくない思いから、「イヤーいいコンサートでした。勉強になりました。」といった。とてもハーモニカ代もらってないなんて言えないじゃないか。しかし、それから数ヶ月後、長渕さんに再会する機会が・・・・・・。第4章に続く・・・・・・・。その夜は、私は音楽仲間との打ち上げかなんかがあって、深夜過ぎに市内を車で走っていた。ラジオではオールナイトニッポンか、セイヤングかそのあたりが流れていたようだ。そのDJを長渕さんがやっていた。しかもよく聞くと、ツアーの途中ということで、RCC中国放送でやっているらしい。えっ、ウソー、俺今RCCの前走ってるじゃん。(笑)しかも、RCCの裏口の通りを。そしてそこには4~5人の女学生ふうの娘がなにやらざわざわしている。「どうしたの?。」と聞くと、長渕さんが出てくるのを待っているらしい。当然、私も一緒に待った(笑)。そして、1時間ほどして長渕さんが出てきた。「いよー、みんな元気」と言った。(はっきり覚えている。)そして、女の子につぎつぎにサインをしていった。(よく覚えている)私の番が来た。私は「長渕さんお久しぶり、この間のハーモニカを・・・・」と言うか言わんかの瞬間、「おまえ色紙ないんかー、しゃーないなー。」といきなり、私の服の背中にマジックでサインを入れられた。そして、「じゃーさいならー。」とドアが閉まってしまった。私は、ハーモニカ代が欲しいわけではないが、一応恩を売っておきたいやん(せこー)かとの思いから・・・・。でも。なんでこーなるの。で、帰って気がついたが、当時付き合っていた彼女からもらった、大切な白のJシャツの一面に、長渕さんのサインが入っているのが分かった。これが、20年以上封印していた、長渕さんハーモニカ事件の全容である。もし、このブログを長渕さんが見ていたら、ハーモニカ代はいりませんので(消滅時効ですな)、私の曲を1回でいいですから、ステージで歌って下さい。できれば東京ドームあたりで。お願ーい。
2005年01月25日
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私は「ギブソン男」と呼ばれている。私の人生で一番長い、4歳の時からの友人、土ちゃんというお坊さんが命名してくれた。最初は「義武尊男」であったが、「俺の空」に出てくるハーレーに乗った野郎に名前が似ているので、漢字はやめた。実は私もハーレー乗りの顔をもつ男なのだ。そちらの世界では「ハーレーPIROちゃん」と言っている。(笑)さて、ギブソンが好きだからギブソン男となっているのだが、私のギブソンへの憧れは、アリスの谷村さんに始まる。アリスが売れないころのコンサートで、DOVEの強烈な音を聴いた。それ以来、私の人生の目標はDOVEになった。高校3年生で、バイトの金を握りしめて、DOVEを買いにいった。チェリーのDOVEが安かったのだ。しかし、ブリッジが割れていてあきらめた。ナチュラルは高くて手が出なかったのだ。やむなしJ-45を買う。19歳学生の時、DOVEを買いに行くが、先に書いたヤマハのポール・サイモンモデルを買ってしまう。30歳で、今度はと頑張ったが、これも先に書いたマーチンD-45を買ってしまう。(主体性のない野郎)しかし、これほど縁遠いギターがあるだろうかと思い、もうあきらめていた時、アリス復活コンサートがあった。そして、憧れの谷村さんは、チェリーのDOVEを持っていたのだ。しかもチューン0マチックではない現行モデル。「これしかない」(いつもそう思うのが悪い癖)で、速攻注文した。Y楽器のオーダーで、店売りの最後の2本のうちの、ブリッジが薄い色の方にした。さあ、弾くぞ!待ちに待った瞬間じゃ。ジャラウーン(Eですかね)ドローン(F#mですかね)おえっ、おえっ、おえっ。別におえっを3回言うのは淀川さんの名せりふの3回繰り返しの真似ではない。恐るべし、すげー音がする。ききしにまさる音やんか。なんでこんなええ音するのか。メイプルか?トップのスプルースか?それとも私の耳が犬になったのかー。はっきり言いまして、期待を大きく超えました。私の中ではどのギターもこの音を超えることはできませんですわ。いやほんま。私はこのギターと伊勢神宮で結婚式を挙げたいと思いました。披露宴は大阪のリッツ・カールトンで。リッツと言えば、仕事で行ったとき偶然、かまやつひろしさんとフロントでばったり出会いました。こんにちはと言いましたが、覚えていてもらえるはずはないですよね(笑)そんな訳で、私の長年の希望がかないましたが、でもやっぱりチューン0マチックも欲しいなあ・・・ってか、いい加減にしなさい。
2005年01月23日
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J-200は、ハミングバード同様、買う予定はなかったギターだった。私にとってJ-200のイメージは、ガロのトミーがもっていたナチュラルのJ-200のコピーモデルだ。本家で言うと1968年あたりのチューン0マチックのついた、ブリッジの両端に貝のインレイがあるやつ。このモデルのタバコサンバーストは欲しいと思っていた。2004年の夏、たまたまギブソンのホームページで、フーのピートモデルが出ていた。チューン0ではなかったが、ブリッジのイメージは同じだった。ようわからんが、まあ現行モデルと同じ値引きしてもらうと30万くらいかなと思った。(思ったのは勝手)そしてサンバーストもあると思った(思ったのは勝手)ほんでもって、成り行きでサンバーストを注文したところ、OKの返事だった。(売り場担当者も勝手に判断したのだ)で、請求は40万円を軽く超えていた。アーチストモデルは高かったのだ。しかし、その後、サンバーストはないことがわかったのである。しかし、売り場の担当者は、サンバーストがないからとナチュラルを押さえてしまっていたのだ。サンバーストでないといらん!とはいったものの、勢いが止まらず、サンバーストのこのレギュラータイプを買ってしまうはめになったのだ。もともと、それほど夢中になるギターではなかったから、期待せずに弾き始めた。すると、座ると確かに弾きにくいが、立ちで弾くと、すばらしい安定性を感じた。ギターが身体に吸い付いて動かないのだ。しかも、ロック系の調整をお願いしたので、弦高はびびらないきりきりの低さになっていた。うーん弾きやすい。しかも音がジャキジャキしてきんもちよか。この日から、私のメインギターになった。(笑)当然、ガロの学生街の喫茶店をステージでやったりした。申し分ないギターだ。さすがキング・オブ・フラットトップと言われるだけのことはあると思った。マーチンD-45の向こうを張るギターじゃ。この切れるような高音と、ひねもすのたりのたりかなと響く低音が交わることなくステレオで聴こえる。絶賛。角度を変えて言うと、サイド&バックはメイプルだから、DOVEに近いかというと、かなり遠く、あのマホガニーの名作、J-45の親分というのが私の印象だが、このブリッジがチューン0なら・・・と贅沢はいまだ尽きないのだ。反省。
2005年01月22日
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このギターはまさしく、青春のシンボルである。「欲しい?」って聞かれて「いらない」と答えることが出来ない!じゃ「買う?」って聞かれると「他に欲しいのがあるし・・・。」という不思議なギターでもある。その昔、このギターのコピーはたくさんあり、ほとんどのメーカーが出していたように思う。しかし、この派手なギターはなかなか買えないのだった。私もたぶん、絶対に買わないギターのひとつだと思っていた。J-45があるし、どうせなら兄貴分のDOVEが欲しいし。ところが、J-45のところで書きましたが、高校の時に買って28年間所有したスクェアーのJ-45と、ハミングバードは性格と身体が良く似ているのだ。見た感じはちがうが。で、J-45のラウンドショルダーを買って、なんかチガウナーと思ったとき、ハミングが頭に浮かんだのです。それから、まあ青春のギターだし、とかいい口実をつけましてね。何とか購入して、新品の弦を張り替えて、弾いてみた。「ジャラーン」ん?ん?ん?ええ音してるやん。もう1回「ジャラーン」(Gですかね。)。うーん、マーチンD-45もかなわんかもしれん!と本気で思った。もしかして、このギター1本でいいんじゃなーーい。なんてね。これは、衝撃でした。マホガニーの軽く明るいすばらしいの一言に尽きました。なんで、スクェアーのJ-45より音が広がるんだろうと、サウンドホール覗きましたところ、ブレイシングがスキャロップドのようにくびれているではないですか。確かに昔のはそうだったかもしれないが、まさか現行モデルも?この答えは不明ですが、少なくともそういう傾向にブレイシングの仕上げはしてあるようです。1960~70年にこのギターを持っていた有名な人は、古井戸くらいしか知りません。だから、この世代にはなじみが少ないような気がします。でも食わず嫌いとはこのこと。ハミングバード・・・すばらしいポテンシャルを秘めたギターなのです。
2005年01月21日
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もう20年ほど前のこと。私が結婚した当時、大変お世話になった方がいた。今は不動産屋の社長であるが、若い頃、札幌で流しをやっておられたN氏である。ガットギター(クラシックとは言わない)1本で、演歌は当たり前、ルイジアナママからビートルズまで、どんな曲でもこなし、オリジナルも多く、こういう人をセミプロと言うんだろうなあと思っていた。ある日、N氏が、私が仕事(不動産)の最中に来て、「いっちゃん車のトランク開けろ」と言う。いわれるままにトランクを開けると、N氏はにやにやしながら、「結婚祝いじゃ」とこのギターをトランクに入れてくれた。そして何も言わずに車を走らせていった。(健さんみたい)N氏からは、同年、USAフェンダーストラトキャスターも譲っていただいた。金はいらないと言われたが、そうはいかんと少ないとは思ったが、貧乏だったので精一杯の気持ちで、5万円渡した。(笑)すると3万円だけ受け取ってくれた。(文太さんみたい)このギターは、マーチンの0-16NYを意識したモデルであるが、トップもサイドもバックもすべて、ハワイアンコアウッド単板である。とてもきれいな色をしている。一旦製造中止になっていたように思うが、原行ではPTU-408Kに近いと思う。しかし、ヘッドのロゴは今とは違い、マーチンを意識しており、なかなか雰囲気がある。音は、マーチンのニューヨークより軽く明るい感じがする。もちろんPU搭載であるが、生の音のほうが格段よろしいかと思う。身長180センチに近い私が、これを立ちで弾くと、牧しんじさんになる。やはりこのタイプは、座りで軽いブルースを弾き語るのがいい。決して吉田拓郎の高円寺をやってはいけないのだ。
2005年01月20日
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年代的にやはり、吉田拓郎さんが好きだ。実は私は、広島フォーク村出身。とはいえ、初代ではなく、復活バージョン。吉田拓郎さんは、流川でお会いしたことがある。カーリーヘヤーだった。ギブソンJ-45は高校の時に買った。今と違い1970年代はギブソンを持っているというだけで、賢くなったような気がした時代である。スクウェアータイプだったが、弾きにくいギターだった(笑)。でも、人生で一番ハードなストロークをしたのはこのギターであろう。あまりにも、ハードな使用のためか、いろいろなところが痛んできた。全てを修理すると12万円かかるといわれた。17歳から28年の付き合いであったが、修理して大事に弾いてくださる人が出ることを願い売りに出した。丸ごと1冊ギブソンJ-45の58ページの下のがそれである。J-45を手放して、ココロの中に大きな穴が開いた。歯の治療で神経を抜いたようなもんだ。さびしくてしかたがなかった。ビンテージでも新品でもスクウェアーでもアジの開きでも何でもよかった。J-45が欲しかった。2ヶ月後、現行モデルのリイッシューを手に入れて、このギターを弾いたとき、前のとちょっと音が違う!と思った。ラウンドショルダーの音を知らなかったのだ。しかし、部屋にJ-45があるというだけでなんか落ち着いた気持ちがする。やはりJ-45は私には基本のギターだと思う。5カポで「祭りのあと」を弾くのが好きだ。出来れば、アジャスタブルサドルが良いなどと、贅沢をほざいているが、ビンテージを手に入れるのはまだまだ先の話になりそうである。
2005年01月19日
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私のギターコレクションは切りが良いところで、いちおうNo.10までと考えていますが、ここでちょっと休憩ということで、はっきりいいまして、私の自慢話です。ごめんなさい。私が19歳の時、M君というボーカルとフォークデュオを組んでいた。ライブハウスでも人気があり、地方のラジオなどにも出させていただいていた。しかし、音楽性の不一致で解散。私はソロに、M君はまたグループを組んだ。でもM君とはつながっていて、私はそのグループに曲を書いていた。で、そのグループは飛ぶ鳥を落とす勢いで、コンテストでは、地方大会で何度か優勝した。全国大会も2度出場した。(3位、8位)この写真のメダルはポプコンの時のもの。地方大会に優勝して、西日本ブロック大会に出場した。曲に自信はあったし、M君のボーカルもすごく良かった。ここで優勝か準優勝すれば、プロへの道を一気に歩めると思った。しかし、結果は3位であった。その時にはわからなかったが、数年後、あらためて表彰式の時の写真を見てあきらめがついた。出場したメンバーの組み合わせが悪かったのだ。この西日本ブロック大会の2位はチャゲ&飛鳥(1979年(昭和54年)5月6日 第17回 ポピュラーソングコンテスト「ひとり咲き」入賞)、1位はクリスタルキング(1979年(昭和54年)10月7日 第18回 ポピュラーソングコンテスト「大都会」グランプリ)であった。補足ですが、私の曲が出場したのは、第16回大会、クリスタルキングは「明日への旅立ち」チャゲ&飛鳥は「流恋情歌」でした。1・2位を取った彼らはつま恋本線会では、入賞であった。チャゲ、クリスタルともに、その後の大会に再出場、そして、メジャーデビューしたというわけです。
2005年01月18日
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このギターは1996年生。購入したのは2003年。しかも新品。このモデルは、Y楽器が日本のみでオーダーした、ポール・マッカートニーモデル。エバリーのオリジナルは黒にでっかいピッグガード、アジャスタブルサドルですが、1960年代の終わりには、モデルチェンジされ、ナチュラルでこのおひげさんのようなピックガードのモデルが作られました。ポールはこのタイプの黒となりますが、当然特注ですから、他には存在しません。しかし、このポールがこのモデルでイエスタデイを唄う姿にあこがれ、欲しいなあと思っていました。1996年に発売されたときは、衝撃でしたが、お金が無く(今もないが)見送りました。そして、2003年、たまたま大阪のD楽器さんで、ストック品があり、(ピックガードにカバーがかっている新品)それを見た瞬間、後先を考えず、即電話でホールド。納品があった時、J-200と同じ大きさだと思っていましたから、一回り小さいのは意外でしたが、うれしかったですね。しかし、音は予想とおり、アジャスタブルサドルと、恐ろしいほど分厚いダブルピックガードで、独特な音でした。初期のオリジナルをキャット・スティーブンスが弾いていまして、ライブビデオを何度となく聞いてましたので、音の違和感はありませんでした。ところで、実は、ポールモデルといいますが、本当は仕様が違います。ポールのモデルはブリッジの形は同じですが、エンドピンがあるのです。その他、ポジションマークの★のうちのひとつが逆になっている。など(サドルもソリッドではないかと思っています。)細かいところはかなり違います。おまけに、私のは、ペグがグローバーではないのです。うーん、ギブソンってけっこうええかげん。そこがいいのかもしれませんが。いずれにしましても、このモデルはもう作らない(売れないもんね)でしょう。でもポールが好きな私にはどうでもいいんです。大切なギターに変わりはありません。
2005年01月17日
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1970年中頃、高校3年生でギブソンJ-45を購入した私は、とにかく毎日弾きまくった。しかし、DOVEへの思いは残る。19歳のこと。やはり、DOVEを買おうとY楽器に行く。そこで衝撃を受けた。YAMAHAがテリー中本氏を製作者に、カスタム(特注)モデルを販売しているではないか。DOVEは先にして、今はこれしかないと思った。更に、このテリー氏は、来日した時に、あのサイモン&ガーファンクルの、ポール・サイモンの特注をうけていたと聞いた。確かに、アルバム「時の流れに」のデモでTV出演したサイモンは、黒のYAMAHAを持っていた。サイモンは、このYAMAHAの第一号モデルの数年後、改良を続け、同モデルは現在数本持っている。とりあえず、制作に入った。テリーさんとは電話で何度かやりとりして、約半年かかってなんと私の誕生日の日に完成した。ポール第1号機と同じモデルである。やったー。完成したときの喜びは格別であった。それこそ、一緒に布団に入り、風呂にも入った。(笑)同時期、YAMAHAの担当者から、「あなたのような、後先を考えない(笑)人がこのモデルを発注してまして、多分日本に7~8本あると思いますよ。」やはり、私のようなポール狂がいたのだ。ピッチは完璧、チューニングは楽だった。ボディが小さいので音量はないが、メイプルのすばらしい音がした。サドルはチューン0マチックだが、ソリッドと変わらない中音も出る。夢のギターだった。このギターでたくさん曲を書き、コンサート、ライブも多く出た。おまけの話だが、このギター、収入もない学生がローンで買ったのはいいが、支払いが出来ず、父親が肩代わりした。オヤジはその時「おまえの20歳の誕生日のプレゼントじゃ。」と笑ってくれた。今は、弾き語りであるが、年をとって、入れ歯になり、頭もつるハゲになって、唄うことが許されなく(笑)なったら、このギターで押尾コータローばりのギターを弾きたいと思っている。
2005年01月16日
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私が19歳学生の時アマチュアでライブハウスなどに出ていたとき、1977年製のマーチンD-45を、某楽器店で初めて弾かせて頂いた。高校の時は、モーリスのD-45コピーモデルがオリジナルだと思っていた。(笑)「モーリスってすごいギターつくるんだなーって。」で、本物の45の感想はイマイチだった。弦が古かったのだ。(笑)その頃、同じライブハウスの先輩である村下孝蔵さんが、D-45を所有していた。これはいい音だと思った。でも一生手には入れられないだろうとあきらめていた。村下さんと最後に会ったのは、CBSソニーのオーディションだった。彼は優勝した。私は落選した。(笑)それから時は流れ、30歳の時、長男が生まれる記念にと(笑)ギブソンのDOVEを買うことにした。行きつけの店に注文すると、担当者が、D-45の出物があるという。出物と言ってもDOVEから比べると高い。嫁に泣きついて何とか手に入れた。うれしくて、弾かずに毎日眺めてはビールを飲んでいた。当時のD-45は、素人が弾くギターではないと聞いてはいたが、本当だった。あれから17年、ようやく弾ける?ようになったような気がする。シリアルナンバーからかろうじて1979年製造であることがわかった。いわゆる70年代である。(ちょっといい気分)私の目標は、このD-45の1969年ハカランダモデルを手に入れることであります。いつか、きっと。
2005年01月15日
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1970年代中盤、フェンダーのコピーで成功を収めたフェルナンデスが、アコギを作った。その名はBurny(バーニー)。制作者は、後に名器ヘッドウェイの制作者で知られる百瀬氏。彼のギター制作の基本は、本物をばらばらに分解して、研究すること。このBJシリーズは、1960年代のギブソンJ-45のフルコピー。価格6万円。当時、高校生の私は、このBJが欲しくてしかたがなかったが、買えなかった。2002年1月、兄が私の誕生日のプレゼントだと、いきなり持参してきた。実は、某ディスカウントストアに、なんと、当時のタグ付きで無傷状態で売られていたのだ。しかし、サドルとペグが壊れていた為8000円也。勿論、ペグはグローバーに、サドルは象牙で完全復旧。この後、本家J-45を購入するが、Burnyのほうが音が良い。理由は、BJはロングスケール。多分、DOVEのコピーモデル、BJ-80などとのネックの共有が原因かと思うが、すばらしい音がする。参考までに、BJ-60はサイドが合板、兄貴分のBJ-80はサイドが単板。今では、中古市場でもなかなか出てきません。ギターには、みんなそれにまつわるいろんな思い出やドラマがありますよねー。ここを読んでいただいているみなさん、是非、コメントをお寄せください。m(__)m
2005年01月14日
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