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羽田空港11時発のJAL便で北海道へ。12時30分にとかち帯広空港に到着、広尾町役場企画商工課の藤井課長補佐と総務課の長田総務係長から出迎えを受ける。 車の中で広尾町の予備知識を仕入れる。最盛期1万3千人の人口は現在8千人。隣町と合併の議論はあったが「しない」」」という決断を経て今日に至っている。広尾町の属す十勝支庁の中心都市帯広市は人口17-18万人。この管内には十勝ワインで有名になった池田町もあり千歳で過ごした20代の頃訪ねたことを思い出した。 昼食は花畑牧場。土曜日のテレビでコメンテーターとして出ている田中義剛さんが社長のこの牧場は平日にもかかわらず観光バスが入るなどにぎわっている。ここの名物のホエー豚の豚丼を食べる。豚肉がお椀の蓋から四方にはみ出しているのは豪快だ。ナチュラルチーズの製造過程で出るホエーを1日3リットルほど牛に飲ませ続け丈夫な筋肉を持つ牛に育つ。このホエー豚は保水力があり焼いてもジューシーでとてもおいしい。開拓時代に馬を飼っていた厩を使ったレストランで柱や梁が長い年月を経て黒びかりしているこの牧場の開祖は、1930年頃に開拓に入った依田勉三という人物だが、「開懇のはじめは豚と一つの鍋」という述懐をしてその苦労がしのばれる。また「生キャラメル」の製造過程を見せていて、このキャラメルもものすごい人気らしい。販売所で付近で「おいしいね」という声が聞こえてくる。レストランでは「定食は一人一つ」、販売所では「大量販売はお断り」、「お一人様(5歳以上)3ヶまで」、「会計は一人ごと」など、「限定」という考え方が強い。 北海道らしい広々とした風景と特有の直線道路を走る。小麦の緑が実に美しい。「ゆっくり走ろう北海道」という看板は懐かしい。あまりにもまっすぐに道路が延びているので気持ちがよくなってスピードが出すぎるのだ。 ようやく、目的地の広尾町到着。中川一郎農林水産大臣生誕の地と書かれた石碑を訪問。政治家中川一郎は、農林省から農林水産省に変わるときの初代大臣だった。天馬街道から少しそれたところに建っている。近くにある中川一郎記念館を訪問する。中川一郎は「北海のひぐま」と言われた力感溢れる政治家だったが、57歳で世を去る。この訪問記は後に記したい。広尾町のまちづくりのキーワードになっている「サンタランド」も見学。その帰りに十勝港も見物。 宿に入り休憩した後、午後7時から講演。「広尾町開町140周年記念事業 まちづくり講演会」という企画で、「住民の意思に基づく総合計画の策定について」が演題。受講者は、広尾町の議会議員、まちづくり推進計画委員、町内会長、町の職員。中札内村の職員。更別村の議員、ときめき夢大地サラベツ推進委員会委員。幕別町の忠類地域住民会議、忠類総合支所の職員、大樹町の副町長、職員。帯広市職員、音更町職員。浦幌町職員。以上約100名。 丁寧でかつ本質的な話と、具体的な事例の説明、短い演習という3本建てで1時間半ほどの講演。熱心に聞いていただき手ごたえを感じながら話ができたと思う。終了後は、広尾町の野田副蝶々、笹原企画商工課長、田中係長、藤井課補、そして今回の講演のきっかけをつくってくれた若い職員の及川さんらと懇親しながら、この町の名物料理を堪能した。
2008/10/31
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今週の多摩大学リレー講座は、榊原英資氏の講義。 * アメリカ連銀総総裁を18年間つとめたグリーンスパンの議会証言では、今回の危機は100年に1-2回のスケール(1929年の大恐慌と同じかその次)、とってきた政策(市場原理主義の流れ)にかなりの間違いがあった、と総括している。 * 2006年までに何が起こったか。規制緩和と金融工学。英国ビッグバン(完全な規制撤廃)により英国銀行はすべて外国に買収された。米国は州の垣根を取り払い州を跨って業務ができるようになった。インベストバンク(投資銀行。株式発行による資金調達。」公的規制はない)とコマーシャルバンク(商業銀行。預金による資金調達。中央銀行の管理下)の垣根の撤廃が起こった。。そしてデリバティブ・証券化などの新手法によって金融セクターが巨大になった。リスク分散という理論は、リスク無しとなって、結果として管理ができなくなった。住宅価格上昇が前提のサブプライムローン(2割)は、価格下落によって破綻を招きどの証券も信用できないという状況になり、少しでもサブプライムが入っていると暴落した。金優バブルが猛烈な勢いで弾けてしまった。 * 日本の銀行は不良債権処理が2004年までかかりインベストはやっていなかったため傷は浅かった。だから危機感はない。 * 欧米の銀行は必死。米国は全銀行に公的資金投入、欧州諸国ま同じような状態。 * ほとんどつぶれたが、インベストバンクで残ったモルガンスタンレーとゴールドマンサックスはコマーシャル銀行になった。 * 56兆ドル(6000兆ドル)のCDS残高という大問題があり、金融危機はまだ2合目、3合目だ。AIGはCDS最大の売り手だったから破たんさせられなかった。 * 1929年の大恐慌時と違い、今は世界の中央銀行同士の協調体制がある * 不動産下落、株暴落によって銀行の自己資本の減少が起こり、信用収縮が起こり金を貸さなくなって、企業に影響が出ている。米国の消費者が消費しなくなった。生活態度が変わった。世界同時不況。 * 外国人が日本株を売ったことにより間接的打撃が日本にあった。 * 麻生内閣の財政5兆円、事業規模20兆円の追加経済対策の財源の2兆円は、特別会計準備金(埋蔵金)は国債の償還に使うという法律の改正が必要なため使えないだろう。また全戸への金の配布は一時的な所得であるため貯金や借金返済にまわるため、この埋蔵金が使えても景気浮揚効果はない。 * 今起こっていることは構造不況。違った生活パターンが必要。 * エネルギー不足と食糧不足になる。エネリギに関しては、原子力発電に力を注ぐこと、太陽光・風力発電技術に力を注ぐこと、中東・アフリカなど資源国との友好関係を築くことが必要。食糧不足に関しては、食糧増産による自給率の向上(現在40%)が必要。地方や農業に資金投入を。この二つの不足に中長期的観点から財政資金を投入すべきである。 * 日本は相対的・比較的に傷が少ない。これはチャンスでもある。しかし輸出の減少、円高などの間接的影響はある。 *金融危機、世界同時不況は2010年まで2年は続く。世の中が変わった。悪いシナリオで対応すべきである。 * 日本人は外国株を買うのではなく日本株を買うべきだ。日本のよいものを評価すべきだ。 *円の独歩高だが、今の円ドルレート(97円)、円ポンドレート(160円)では介入はできない。今までが極端な円安だった。
2008/10/30
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授業の準備を終えて、8時に大学に到着。すぐに配布資料を印刷。8時半前に教室に入る。すぐに教務班の三串さんがパソコン関係のセッティングにあらわれ、いくつか確認の会話をする。今日の講義をスムーズに行うために内容のチェックと紹介するホームページを点検する。この間に学生がちらほら現れる。5分前に本日からティチングアシスタントをしてれくれる繁原君が現れる。前期は同僚の樋口先生のアシスタントもやっていたそうなので、わかりが早い。この学生は岩手県の花巻(宮澤賢治のまち)の出身で、田舎は遠野(柳田國男、河童の里、、、)という。9時からは、「マネジメントデザイン2」の6回目の講義。もともとは「ライフマネジメント論」という名称で申請した科目で、人物論を講義している。今回は前回に続き「持続する志」というテーマを語る。取り上げた人物は、大河内伝次郎(俳優)、大山康晴(将棋)、原敬(政治家)、村野四郎(詩人)、扇畑忠雄(歌人)、牧野富太郎(植物学者)、羽仁もと子(教育者)、市川房江(政治家)、宮城まり子(社会福祉家)。大物が多く語るべき、伝えるべき内容が多かった。10時半に終えて秘書室に。メールボックスを開くと、プレジデント社から新刊の見本が届いていた。同僚の樋口先生との共著の「図解VS文章」というタイトルの本だ。白地に赤文字で図解という文字と反転させた文章という文字が大きくでていて、インパクトがある。いい仕上がりになっている。来週発刊。JR東日本から先日行った研修のアンケートが整理されて送られてきたので、感想を読む。研究室に戻って、今日の同僚の先生との打ち合わせの準備。企画広報部の高野課長があらわれ現在進行形の案件の打ち合わせ。合間にパソコンをのぞいていると、グーグルの新サービスが連日のようにオープンしている。ドライブ時のルート検索サービス(ルート上の交差点の様子が見える、、、)、iフォンでのグーグルアースサービス(手のひらに地球おさまった感じ、、)、、、。13時半、P出版社の編集者と企画の打ち合わせ。この本は長い時間がかかっているので、何とか仕上げたい。14時15分、宮城大学のキャリア開発担当の女性から電話、TFK(東京フライトキッチン)に行ったら、岡本社長や篠埼常務から私の話が出たということでその報告だった。14時半からは、「ビジネス情報デザインスタディ」という科目の講義。16時10分から、同僚の先生と打ち合わせ。16時20分から、研究室でゼミ(顧客満足ゼミ)。旧聖蹟記念館プロジェクトの進捗状況を話し合う。来年2年生のゼミ希望者を予想してもらう、誰が当たるだろうか。来週は飲み会を予定。忙しかったので、昼休みにAED講習があるのをすっかり忘れていた、、、、、、。
2008/10/29
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水曜日の講義で、先週は「持続する志」をテーマにした。以下、当日の受講生(2年生)のアンケートから。偉人の名前は、興味・関心を持った人物。今週も、引き続き、このテーマの人物を8名ほど挙げて講義する。-----------------------1:正岡子規・学生時代の友人の大切さ・司馬遼太郎・藤沢周平・「天才とは努力できる人である」。努力したい・偉人の生き方はとても面白い・蘇峰と蘆花の最後に興味2:友人に恵まれた作家が多い・藤沢周平に共感。「普通の生活を続けることの方がよっぽど難しい」・努力も才能のうちと思った・子規はすごい。漱石と友人とは驚いた・子規が野球の命名者か。魯山人のつくった食器で食べたい。池波正太郎のワサビの食べ方・池波正太郎の年賀状1千枚!・岡本太郎・岡本太郎・蘇峰の継続力は素晴らしい・子規に興味・偉人は「志」のために生涯を送る3:何ごとも続けることが大切・エピソードが面白い・岡本太郎・志賀直哉が印象的・池波正太郎の仕事前の苦痛は自分と変わらない。偉人の共通点は「持続」と志・司馬遼太郎・自分のない部分に惹かれる4:池波正太郎には努力できる天才・蘇峰の年老いての努力・蘇峰の生き方、老後からも始められる・藤沢周平5:芸術家が偉人・志賀直哉・子規に関心・子規が好き・小説家たちの若い頃の写真をみたい・藤沢周平の「普通の生活」はわかる。池波正太郎の継続力・蘇峰は日本を考え続けた・池波正太郎の持続する志・子規と漱石が親友とは驚いた。「持続する志」はとても良い言葉だ・漫画家志望だったが、池波正太郎の苦痛の話と同じだ・蘇峰の若い頃の写真はカッコイイ・司馬遼太郎と藤沢周平・努力にまさる天才はないという偉人の言葉は説得力がある・子規と漱石の関係にびっくり・池波正太郎の食事シーンを読みたい。持続する志にふさわしい6:藤沢周平の生い立ちを知りたい・池波正太郎の仕事は仕事、趣味は趣味という考え方がいい・池波正太郎の苦痛は意外・塾の講師をやっているので魯山人など歴史上の人物の話は面白い7:人の性格は面白い・生き方を下の世代に伝えていけるような粋な大人になりたい・自分は本当に本を読んでいないと実感。先生の紹介した本を読みたい・子規・大山康晴は守りに入らなかった・市川房江の努力していく生きざま・市川房江は日本のジャンヌダルクだ・原敬・小泉信三8:池波正太郎の考えはあまり好きじゃない・池波正太郎を読む・努力し続けたい・藤沢周平のいうように何でも目立てばいいとは思わない・志賀直哉9:織田信長・岡倉天心の活躍・池波正太郎の人との付き合いの減らし方はなるほどと思った、原稿の締め切りを守るのはすごい不明:「天才とは努力できる人である」が印象に残った・片山晋呉選手は「他の人と同じことをしていても結果を出すことはできない」とのコメントに感心
2008/10/28
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夜はビジネスマン時代から付き合いのある仲間の小縣さんがJR東日本副社長に昇任したことをきっかけとした会に参加した。80人ほどの会。出席した私たちの仲間(The Club)は、NTTレゾナント社長の中嶋さん、ソニーのグローバウ・ハブ室長の長窪さん、経営コンサルタントの波頭亮さん、カメラマンの真下さん、ニッポン放送常務の宮本ん、ギリー代表の渡辺さん、日経ビルサービス常務の杉本さん、小学館社長の相賀さん、東京ガス多摩支店副支店長の岡本さん、木原事務所の木原さん、、、。もともとは企業の広報課長や宣伝課長らの集まりなのだが、このメンバーとの付き合いはもうすぐ20年近くになる。司会は渡辺さん、乾杯はニッポン放送の宮本さん。関係者のあいさつはほとんどなくて、各地から集まった美味を楽しむこと、参加者同士の交流、そしてカシオペアの向谷実さんの「トレインシムレータの歴史」をテーマとした音楽実演とトークというプログラム。向谷さんは日本のフュージョン界を代表するバンドで親しみやすいメロディーとテクニカルなリズム展開で世界中にファンがいるカシオペアでキーボードを担当している人だ。これがなかなか面白かった。難しいもの、扱いにくいものを模擬するという精神のもと、向谷さんのグループは、中央線、山手線、新幹線のシミュレータソフトを実現させてきている。D51シミュレータ、京阪電車の発車音楽。彼らは「発車メロディコレクション」というCDも出している。電車に乗る時に流れる音楽もこのチームでかなりつくってきているようで、その実演は面白かった。駅のイメージに合わせてメロディが微妙に変わるのは、今まで気がつかなかったがよく考え抜かれている。ひとつひとつは独立しているが全部つなぐと全体としても一つの音楽を形成しているようにつくってある。流氷の海をバックに網走の雪原の中を思いきり煙を真上に吐きながら力強く走るD51の映像を見せながらオリジナルの「ああ!SL」という曲を弾いてくれた。東北新幹線「はやて」の東京、上野、大宮、仙台、盛岡、二戸、八戸のオリジナルメロディも素晴らしい出来だった。人柄のよさそうな向谷さんは音楽という仕事の奥行と素晴らしさを熱演してくれた。小縣さんの関係者が多く集っている会だが、久し振りの人に多く遭った。ノンフィクション作家の軍司貞則さんとは久しぶりだった。「空飛ぶマグロ」という本を軍司さんが書いたとき、JALの広報にいた時に一緒に仕事をした仲だ。水産庁の宮原審議官が一緒だったが、最近のマグロ漁業に関する本を書いているのだそうだ。ホリプロの取締役になっている中根さんも。企業ものを書いている片山修さん。名刺交換した人は、ニッポン放送の磯原社長、鉄道模型の関水金属の加藤社長、アナリストの中川美紀さん、、、。田に見かけた有名人は、東大の伊藤元重教授、ソニー名誉顧問の久多良木健さん、、、、。花束贈呈は、バンダイ取締役の松永真理さと日本テレビ広報の木村優子さん。最後の小縣さんのあいさつは控え目だったが、「人の人たるゆえんのものは、人と人との交わりである」というJR東日本の住田初代社長の言葉で締めくくった。各界に幅広い人脈を持つ彼の信条を聞いた気がする言葉だった。
2008/10/27
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最近の読書から。開高健「一言半句の戦場」一言半句の戦場佐高信「福沢諭吉伝説」福沢諭吉伝説野口悠紀雄「超・超整理法」超「超」整理法
2008/10/26
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今日は土曜日だが、朝からずっとスケジュールがつまっていた。9時からは、大学院の修士論文予備審査会、12時半からは大学院(研究科)委員会、13時からは学部教授会。15時半からは学部の1年生向けのゼミ説明会。午前中の修士論文予備審査会は、3月に終了予定の7人の院生が15分発表し、15分間5人の教員の質問に答えるというやり方になっている。私が属している教員チームは、今泉忠、村山貞幸、望月照彦、徳岡晃一郎の各先生。------------------------------------「地域企業の連鎖がもたらす経済」は、地域産業を構成する母体企業を核としたネットワーク形成と連鎖モデルの提示を研究目的として、技術集積の高度化および高密度ネットワークによる場を用いた、日本独自の地域を活かした新たな地域産業連鎖モデルが形成され、より強力な経済力をもたらす、という仮説を検証しようという論文。「知的価値(知価)立国を目指す日本の未来戦略--東亜同文書院モデルを事例にしたグローバル人材育成に関する研究」は、ロシア人材の輩出を目指したハルピン学院と並んで、中国人材を育てた東亜同文書院という成功した人材育成モデルを研究し、日本の国家戦略に生かすことを目的とした論文。「企業組織の変革におけるノットワーキングの有効性についての研究」は、ネットワーキングとの比較を行いながら、無数の結び目(ノット)に応じた協働のあり方を研究する論文。「X社のSaaSによる研修ビジネスの展開」は、カスタマイズされたソフトウェアの機能をネットワーク経由で「利用」するサービスを用いたeラーニング事業のビジネスモデルの構築を目指す特定課題研究。「生販連携による青果販売モデルの研究」は、生活者と販売者が連携した「生販連携モデル」の提案を研究目的として、「学び」をキーワードとしてライフスタイルの構築までも視野に置いた研究。「新たな森林経営モデルの構築--ライフスタイルの創造」は、健全な森林経営に向けて新たな生産体制モデルと新たな市場化モデルの構築に関する実証経験を踏まえた研究。「食品サプライヤーによる消費者への安全性情報提供モデルについての研究」は、食品の安全性を証明する情報提供のあり方のモデル化を志した研究--------------それぞれの院生の修士論文執筆に向けての構想、専門分野の多彩な先生たちとの質疑応答、アドバイスなどが行われるが、全員が職業を持つ社会人大学生だけに、扱うテーマが今日的であり、大変興味深い時間だった。自らの仕事を通じた問題意識から出発するテーマが多く、現在各領域で起こっている問題がわかる。終了後、すぐに研究科委員会で予備審査会の報告が5つのグループからあった。他のグループでは、中東マネーを活用した医療ビジネス、切り花のビジネスモデル、学歴と学校歴、ジェンダー論、メンタル系人材ビジネス、企業買収防衛策、知的財産権制度、倒産、金融商品投資モデル、環境リスク、鉄道貨物輸送、インターネット以降のメディアビジネス、物流、雇用制度、情報システム、酒類卸売業の成長戦略、問題解決力とトレーニング手法、オートリース事業、カーシェアリングビジネス、経験価値、CS、、、などのテーマによる発表の講評があった。全部の発表を聞きたいところだ。春学期は私の「実践知識経営1」は22名の受講生だったが、秋学期の「実践知識経営2」は28名の登録があった。平日、土日あわせて全部で62科目というラインナップだが、受講生が20名以上なのは、実践知識経営2、知識経営論2、知識イノベーション論、企業内コミュニケーション、ヒューマンリソース、実践企業経営概論だった。「知識」や「実践」、そして「コミュニケーション」「イノベーション」というキーワードが社会人大学院生に響いているようだ。
2008/10/25
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月刊 ビジネスアスキー 2008年 12月号 [雑誌]1977年に創刊された「アスキー」という雑誌は、日本のビルゲイツと呼ばれた天才・西和彦さんが始めた雑誌で、日本のコンピュータ業界では30年近くという長い間、存在感があったが、2006年にはビジネス誌として内容をリニュアルした。アスキーという会社自体が今は「スキー・メディアワークス」という名前に変わっているのだが、雑誌名も「ビジネスアスキー」にこの11月から変わった。このことはこの雑誌の創刊2号の取材を受けたときに聞いて、知的生産の技術研究会(知研)を通じて西さんと長く付き合ってきた身として、ある種の感慨を覚えた。この新装誌面にはITやビジネス情報だけでなく、資産運用、子育て、介護などパーソナルな情報も掲載。新誌名を核に、30~40代をターゲットとしたビジネス誌としてブランドを確立し、セミナーやイベント、月刊誌以外の発行物などを多面的に展開していくという。「仕事を楽しみ進化し続ける大人の雑誌」というキャッチで、価格は590円、発行部数は7万 5000部である。さて、この雑誌の今回の特集の冒頭に『「仕事術」本は空前の大ブーム!ベストセラー著者らが語る、極意の数々。あなたの求めている「仕事術」はここにある!』とあるように、確かに最近は「仕事術」ブームになっていて、あらゆる種類の仕事術が書籍という形、雑誌というメディアで紹介されている。確かにここ1-2年、私にもこのジャンルの本の執筆依頼が多く、図解、時間、身体、手帳などをキーワードとした本になっている。「仕事術の女神」勝間和代に聞く101問、というコーナーからこの特集は始まるのだが、今はどの雑誌を開いても勝間さんの記事に遭遇する。以前見たときは「知的生産の女王」と形容されていたが、今度は女神だ。確かにこの雑誌ではとてもファッショナブルな姿で登場している。この問答も本音が見えてなかなかおもしろい。「ベストセラー著者が教える仕事術「速習のツボ」」というコーナーでは私も含めて7人が2ページづつ紹介されている。 * 小宮一慶の「発見力」-------------「ビジネスマンのための「発見力」養成講座」の著者 * 細谷功の「地頭力」---------------「いますぐはじめる地頭力」の著者 * 野口悠紀雄の「超・超整理法」-----「「超・整理法」の著者 * 久恒啓一の「図解力」-------------「図で考える人は仕事ができる」の著者 * 奥野宣之の「100円ノート術」------「情報は1冊のノートにまとめなさい」の著者 * 石井住枝の「トヨタ流A3書類術」-「トヨタ流 プロの仕事術」の著者 * 泉正人の「仕組み仕事術」---------「「仕組み」整理術」の著者「ザ・仕事術 トレンドマップ」という見開きのページでは、仕事術の流行の歴史を追っていて興味深い。1967年の「発想法」、1969年の「知的生産の技術」、1973年の「考える技術・書く技術」、1976年の「知的生活の方法」という「思考」分野の名著、そして1937年の「人を動かす」、1968年の「道をひらく」、1978年の「トヨタ式生産方式」という「会社」分野、から仕事術が分かれていく様子を整理している。「思考から「自己啓発」へ。「思考」から「企画・アイデアへ、、そして「速読」、「ツール」、「手帳」という流れ。一方、「企画・アイデア」から「図解」の流れがあり、ここに私の「仕事力を高める「図解思考術」(2003年)が位置づけられている。「会社」からは、「社長」という流れと、「プレゼン」や「時短」という分類で、有名な本が年代順に並んでいる。「史上初 ビジネスアスキー流 仕事術検定!」というコーナーがあり50問ほどの質問に答えていくと、仕事術が点数で判定される。40問目にこういう質問を発見。「通勤時間「超」活用術」著者・久恒啓一は、早起きは「三文の徳」ではなく、何の徳だと表現してるか?a 120% の徳 b 三割の徳 c 無限の徳 d 九割の徳私の書いた本では、「三割の得」というように書いた記憶があるが、どっちだっただろう。自分の関係した記事だけを拾い読みしたが、この企画は様々な工夫を凝らしていることがよく理解できた。他雑誌との差別化が雑誌の価値を決めるから編集者もなかなか大変だ。しかしそれが文化の幅が広がることになっていく。この雑誌の広告が24日の日経新聞に出ていて、名前も出ていた。
2008/10/24
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本日の多摩大リレー講座は、ロシア大使などを歴任した都甲岳洋さんである。1934年生まれの外交官で、フルシチョフ時代、ブレジネフ時代、ゴルバチョフ時代、エリツイン時代と都合4回のロシア駐在の経験がある、日本有数のロシア通だ。テーマは、「ロシア新体制の政治経済展望」。 ・ロシアは共産主義から資本主義に向けた転換期にある。自由な市民社会を経て世界に一員となっていく困難な道のりを歩み始めた。・プーチンの8年間は、政治・経済的に安定した時代だった。強権的に反対勢力を押さえ込み「崩壊から救うことができた」と豪語。資源外交や安全保障などの国益外交、メディアや資本家の統制、税制改革などでロシア経済は順調に発展した。そして国民の支持率は70%と高率を維持した。 ・権力争いでイワノフ、ズブコフを退けたプーチンは42歳のメドベージェフを後継者とし、大統領選で圧勝。その翌日、プーチンは首相に就任し80%の支持で強力な首相となった。国内ではニ頭体制への大きな転換期にある。 ・プーチン時代のロシアは平均7%成長で、中産階級が21%から52%に増え、消費ブーム、日本食ブーム。インフレ、中小企業の遅れがあたtが、原油高騰の追い風を受けてエネルギー大国になった。天然ガス・石油のガスプロム(社長をシベリア送り、サハリン2)、原子力発電のアトムプロム(世界4位の原発。2012年までに26基加わる)。2020年までに世界5位の経済大国になると宣言した。 ・しかし、08年8月8日のグルジア侵攻、金融危機でその夢は遠のいた。「一バーレル70ドルまでなら大丈夫」。 ・ハード路線のプーチンから、ソフト路線のメドベージェフへ ・MD(ミサイル防衛システム)はロシアへの脅威だとして反対、コソボ紛争などで「新冷戦」か、という状況だったが、ロシアはグローバル経済の一部であると思い知らされた。 ・アメリカは弱体化したロシアを刺激し過ぎた ・NATOは、グルジア紛争、ウクライナ問題もあり、ロシアをどこまで取り込んだらいいか悩んでいる。 ・メドベージェフは、エネルギーの25%をロシアに依存している欧州に対して「欧州共通の家」というゴルバチョフの概念を再提唱した。 ・ロシアは、アメリカ一極主義から、多極化世界になることを望んでいる。キューバ、ニカラグアへの接近、WTO加盟の躊躇。 ・ロシアはヨーロッパに対し歴史的に被害妄想がらい、コソボ、MDなどの怨念がグルジアで爆発 しかし、ロシアの目標である市民社会を確立することによってグローバル社会に統合されていくことを望んでいる。・日露関係。2012年のウラジオストックで開催されるAPEC、サハリン2(日本の6%のLNGが供給される)など、日本のプレゼンスが大きくなっている。日本の持つ省エネ技術によるシベリア・極東の開発という多いな流れは進んでいる。 ・北方領土問題(日本の立場は4島一括返還)は、日露共通の解決すべき問題だとの認識あり。こういった流れの中で解決すべき問題だ。 ・日露関係は、やや明るい・プーチンは、明確な分析力があり理性的で理知的。人事にも深い配慮をする。思慮深い人柄で行政能力が高い。3時間の記者会見をメモをみないで一人でこなすなど有能。
2008/10/23
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手帳の季節が始まっている。毎年雑誌を中心に来年の手帳の選び方のオンパレードになってくるが、だんだんその時期が始まるのが早くなっていうような気がする。私にも毎年、手帳の使い方特集のインタビューがかならずあるのだが、今年は「日経ビジネス・アソシエ」(10月21日発行)だった。「どれを選ぶ?どう使う? 最強の手帳2009」ろいう特集で、アソシエ過去最大の全52ページの大特集である。これだけのぺーじがあると有名人のインタビュー記事だけですますわけにはいかなくなるから、編集者も大変だ。「900人のビジネスパースに聞いた手帳の利用実態」「インタビュー」「「特集連動付録-必携ブックレット・手帳用ツール」「技あり!の手帳のアクセサリー14」「20009年版話題の手帳を総まくり」「最強の手帳活用術」「理想の手帳会議」という構成で、手帳に関する企画が満載だ。 私が出ているのは、「最強の手帳活用術」というコーナーで9人のインタビューが載っている。「こだわり手帳で仕事を楽しく」「予定を俯瞰して働き方を見直す」「過去と未来をつなぐママの手帳術」「自作のリフィルで時間を有効活用」「育児日記にも手帳を活用」「何でもスクラップして毎日を記録」「心の自分史で本音を知る」「18年間同じ手帳を使い続ける」というタイトルが並んでいる。私の2ページのタイトルは「人生設計から逆算する鳥の目手帳術」だ。 手帳という名前からそもそも考え直さなくてはならない。「手に入る帳面」の略が手帳だが、それは形態を言っているのであって、内容・コンテンツを示しているのではない。「手帳とは人、物、金、時間、情報、など有限な人生の経営資源を最適に組み合わせながら、最高の生活を送るための道具である」、これが私の定義だ。30代後半に「システム手帳活用術」(「TBSブリタニカ)という本を書いたとき、この定義が完成し、それにふさわしい考え方を持ったシステム手帳を発見して使い始めてから、手帳の選択に迷うことはなくなった。 その後、そのシステム手帳の足りない部分は、週明けには「今日から4週間が鳥瞰できるスケジュール表」という考え方で、自分で作ってきた。このスケジュール表も次第に進化し、今では次の週の予定がセリあがってくるというソフトになっている。また、4週間のうち今週と来週はそれ以外の週の2倍のスペースをとるように工夫している。この仕組みは実に快適なので一緒に仕事をする人にはでソフトをあげて、同じスピードで走ってもらうようにしている。まだいろいろの工夫はあるが、これを「鳥の目」手帳と呼んでいる。今回のインタビューでは、その日その日の積み重ねでいい人生を送るという「その日暮らし」「その週くらし」という刹那的な生き方では夢を実現できない、という考え方を強調してみた。 まず、人生の長期計画があって、10年の計画があり、1年の計画があり、4週間のスケジュールがあり、1週間のスケジュール表となり、一日の予定となり、そして「今」という瞬間がある、という考え方だ。だから、私のブログは「日々是好日」ではなく、「今日も生涯の一日なり」というタイトルにしている。この記事では、40歳の時点でつくった「人生30年計画」という一覧表から始まっている。計画というより希望を述べている、といった感じのつくりだから実現できていないことが多いのだが、今となって眺めてみると自分自身でも実に興味深い。 30歳では「一生の計画」という一覧表を作成している。これも実現性を考えていないから、愉快な妄想にあふれていて面白い。振り返ってみれば、その基軸を土台に、毎年の詳しい計画表を正月につくり年末に総括するという仕組みが今日まで続いているのも、若いころから三日坊主だったのに不思議な気がする。 この雑誌の「編集後記」には、インタビュアーだった編集部の木瀬武さんが、「特集に登場する久恒さんは、手帳を「人生における経営資源」と 位置づけます」とのコメントを載せいる。「2009年の世界経済には大しけの予想が出ています。舵取りには心強い相棒が必要です。」ともあるが、この相棒こそはライフプランであり手帳である。そろそろ、こういった考え方や実物を公開していく時期に来たようだ。
2008/10/22
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草柳文恵さんが9月の半ばに突然亡くなられて驚いたことをこのブログに記したことがある。遺された母上をお招きし少数の知人・優仁だけで「忍ぶ会」が麻布で開催され、私も出席した。招待状では「いつも慎ましく華やかだった」という言い方で故人を表現していた。司会役は父親役を自任している野田一夫先生。19時から開会で20時から故人を偲ぶという予定だったそうだが、時間より早く皆さんが到着されて、最初から本番ということになった。大分県知事だった平松守彦さんの挨拶とお母様の挨拶。平松さんは「お父さんの草柳大蔵さんとは学徒出陣の仲間だった。文恵さんとは阿久悠や壇ふみさんらと同じ会で楽しくやっていた。今日は愉快にやりましょう」、お母様は「ああいう形で亡くなって、急に忙しくなって悲しんでいる暇などなくて、元気になった。これが娘の贈り物」というご挨拶。その後は、二つのテーブルで草柳文恵さんを偲んで歓談。途中から寺島実郎さんも講演会場から駆けつけて私の隣に座った。寺島さんの隣は平松守彦さん、テーブルを挟んで向かい側は壇ふみさんと佐高信さんだった。寺島さんと佐高さんのやりとりは丁々発止で、傍らで聴いていて愉快だった。壇さんは大物たちと堂々と渡り合う。ちょうど、佐高さんの直近の著書「福澤諭吉伝説」(角川学芸出版)を読んでいるところだったこともあり、その本の話題や、中津在住の作家だった松下竜一を偲ぶ会のことなどを話題にいろいろと話をしてみた。草柳文恵さんは、1986年まで19年にわたって東北放送で「お元気ですか」という月ー金の帯のラジオ番組を持っており、それは5000回にのぼったそうで、東北6県と新潟ではよく知られていた。途中から抜けるため最初の挨拶にたった寺島さんは、「お父さんの草柳大蔵さんとは1987、8年頃にウッディ・アレンの店で食事をした。「満鉄調査部」はいい本だった。文恵さんとは91年にワシントンのジョージタウンで会っている。まだ30代だった。お花のように輝いていた。その後、新幹線の中でも会っている。惜しい方で、このような集まりをみると一つの徳を持った人だったと思う」と挨拶され、ワシントンで会うきっかけをつくった私の紹介も入れてくれた。寺島さんが帰った後の席は、遅れてきたIBMの椎名武雄さんが座って、陽気で愉しい会話が続く。挨拶では「文恵さんはもの静か、もの憂げな美女だった」と印象を語る。文恵さんは交遊も広くて、オペラの佐藤しのぶさん、パソナの南部靖之さんらの顔もみえる。旧知の湯布院の桑野和泉さん、料理の千葉真知子さん、仙台の尾形文子さん、近藤昌平さんらとも近況を交換した。91年にJALがワシントン直行便を開設したとき、広報課長だった私は航空関係の識者、学者、評論家、メディアのツアーを企画したことがある。総勢で20人ほどのツアーだったが、いろいろな審議会などで委員として活動したり、指揮者へのインタビュアーをやってることもあり、質問が的確で鋭い。旅の途中で私も私生活に関する質問を受けたが、答えていると丸裸にされてしまうような気になった。仕事ができるのである。また誰もが感じるように、「容姿がいい」。スタイルとファッションが抜群で華やかな雰囲気にあふれている。そして、それにもまして「心がいい」。育ちの良さを感じさせる素直でまっすぐな性格で、さわやかだった。ワシントンでの政府関係者を招いてのセミナーやウイリズムズバーグの見物、ジョージタウンでのジャズ鑑賞など一連の旅では、食事時や写真撮影では文恵さんはいつも輪の中心にいた。大学の学者や航空評論の関川栄一郎先生や鍛冶壮一先生などもおり、いわゆるうるさ型も結構いたが、和やかな雰囲気が最後まで続いたのは文恵さんのおかげだった。事務局として大いに助かったものだ。帰国後、何回か一緒に食事をしたりして親しくしてもらった。飛行機の中でパスポートを見せあったら、私より4つも下だったので驚いたら「私、デビューがはやかったから」との説明だった。ミス東京に選ばれたのは10代だったからずっと有名だった。当時、文恵さんは30代の後半にさしかかったところだった。この偲ぶ会は、野田先生の発案、企画、進行だった。生前の写真、一枚のお母さんにあてた悲しい遺書、人選など、野田先生のやさしさを感じた「偲ぶ会」だった。
2008/10/21
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宮城大学での卒業論文指導があり、日帰りで仙台を往復してきた。駅前は、パルコができ、エスパル?がウイングを広げていた。また大学近くの仙台ロイヤルパークホテルの近くにできた三菱のアウトレットは、若い男女を中心ににぎわっていた。交通量も多い。思ったより寒くなかった。往復の途中は、iフォンでベートーベンのピアノやモーツアルトをずっと聴きながら、新聞、雑誌、本を読んだ。日経新聞には、「地域貢献、公立大が存在感」という大学の地位貢献ランキングの記事が出ており、「09年度からの独立行政法人化が決まっている宮城県立の宮城大は、教員の年俸にも研究、教育、地域貢献などの実績を反映させるという。」というコメントがあった。馬渡学長の推進する改革も進んでいる。また、「週刊ダイヤモンド」の「役に立つ大学ランキング」では、就職率で北海道・東北地区で宮城大は2位に「ランキングされていた。どちらも嬉しい記事だ。さて、朝日新聞の先週のゴルフの結果の記事がなかなか楽しめた。メジャー大会の「日本オープン」で、片山晋呉(35歳)が25勝目をあげ、中嶋常幸、尾崎将司、倉本昌弘、青木功、尾崎直道、杉原輝雄に続き、史上7人目の永久シード権を獲得した。獲得年を見ると97年の尾崎直道が最後だから、ここ10年で初めての快挙となる。獲得した年齢をみると30代が多いが、杉原は52歳で獲っている。これも素晴らしい。「前週、自宅の引き出しに眠っていた古びたノートを引っ張り出した。まだ1勝もしていなかった当時の自分は「35歳で25勝する」と書いていた。それから10年。独自の練習器具を考案するアイデアマンとなり、試合会場でも最後まで居残り練習する姿はツアーで知らぬ者はない。「僕の体は平均的な日本人。それで、どうすればゴルフがうまくなるかというテーマしか僕の思考回路にはない」と言い切る。」なるほど、畑中謙一郎記者のこの記事は考えさせられる。片山は自身のゴルフ人生を最初から描いていたのだ。毎週のツアーをこなして実績を積み上げ、気がついたら25勝をあげていた、というのとは違う。それが常に頭にあるから、いろいろな工夫をし、鍛錬を自らに課す、という日常生活になる。「僕の体は平均的な日本人」という言葉は、「僕の頭は平均的な日本人」と体と頭を入れ替えて、「ゴルフ」を仕事に置き換えると若いビジネスマンに貴重なアドバイスとなる。片山はゴルフ人生という長いスパンの中で到達目標を頭に描きそれをノートに書きだして、その上で毎週のツアーに挑戦し、毎日の練習をこなすということをやってきたというわけだ。こういう到達目標は、事前に明らかにするというわけにはいかないから、達成した今、天下に公表するということだろう。片山の25歳から35歳までの過ごし方には、成功する人の普遍性が備わっている。次の目標を聞かれて「名前が晋呉」だから、次の目標は45勝かな」と答えているが、すでにその道も片山の視界に入っているだろう。こういう人はさらに伸びる。16歳の石川遼は難コースにひるまずドライバーを握って、片山に次ぐ2位に入った。「優勝は明らかに遠い、、、、」「運もついてきて、、、」とインタビューで答えている。プロで初めての1勝をあげるとき、どのようなコメントをするか楽しみだ。遼君には、この片山晋呉の心構えを参考にして、名前のとおりはるか(遼)遠くを見つめて、毎週のツアーに挑戦して欲しいものだ。女子ゴルフの「富士通レディース」は、不動裕理が7打差をひっくり返してプレーオフで優勝し、ツアー46勝を挙げた。2000年から2006年まで賞金女王を連続して獲ってきたまさに「不動」の女王である。不動は1976年生まれだから32歳。まだまだ記録は伸びるだろうが、男子の片山が目標と挙げた45勝を今回の勝ちで抜いてしまった。「相手のことや差、よけいなことを考えず、自分のスコアだけを考えた」というコメントをしていてこれも心に響く。不動は地味な選手だが、この人の心構えも聞いてみたいものだ。
2008/10/20
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北鎌倉から徒歩10分であじさい寺として有名な明月院に着く。あじさい寺に前に来たのはいつ頃だろうか、20代の前半のはずである。明月院のある明月谷戸という地区には、詩人の尾崎喜八、作家の渋沢龍彦、同じく宮本百合子が住んでいた。この明月院の手前に、風景画家、絵本作家の葉祥明によって建てられた美術館がある。。レンガ造りの洋館で木々に囲まれてとても雰囲気のいい美しく清潔な美術館だ。白を基調にした館内には、葉祥明が描いたやわらかい色調の水彩画や油彩画、デッサン、絵本の原画が展示されていて、女性の訪問者が多い。葉祥明は1946年生まれだからまだ60歳を超えたところだが、46歳でこの美術館ができ、56歳で出身地の熊本県に葉祥明阿蘇高原絵本美術館を建てている。「トスカーナの祈り--イタリア、光と風の旅」というテーマの風景画がとてもいい。地平線で大きく上下を分かち、木、羊、家、少女、教会、夕日、月などがそれぞれ小さく絵に描かれている。大きな自然の中で小さな人間や生物などが生きている姿は、淡い色づかいで、とても気持ちが安らぐ。「人生とは何か」ということを研究することをライフワークと考えている葉祥明は、1986年のチェルノブイリ原発事故をきっかけに、生き方と思想と仕事を一致させることを考えるようになる。古今東西のあらゆる分野の本を1000冊読み漁り到達した結論は、人間には肉体があって魂がある、死というものはなくて、むしろ生まれ変わりがある。そのことを絵本で伝えて行こうと決心して今に至る。この人は詩も書くが、そういうバックボーンが色濃く出ているので、絵とは違って、好き嫌いがあるだろう。
2008/10/19
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出身高校の関東同窓会が虎ノ門の霞が関ビルで開催され出席した。正式には「大分県立中津北高等学校関東同窓会」。200人以上の人が集まって盛会だった。中津の本部から同期生で同窓会長を引き受けた内尾信行君が来ていて本部を代表してあいさつをした。内尾君は高校以来ずっと仲がよかった友達だが、今は地元で病院経営をしている医者だ。私が帰省するたびに仲間を集めていつも宴会をやってくれる。3年後に100周年を迎えることになっており、それまで会長をやるつもりだ。一学年上の猪野積さんと久しぶりに話をした。猪野さんは京大法学部を出て自治官僚になり活躍したが、この4月から平成国際大学法学部の教授になっていた。地元選出の衆議院議員の横光克彦さんは俳優出身の民主党議員だが、「一度民主党にやらせてください。ダメなら替えてください」というスタンスで私たちの話の輪に入っていた。ライバル進学校であった中津南高校からは、関東同窓会の会長である前田さん(みずほフィナンシャルグループ社長)がみえて代表として挨拶をした。「中津は一つ。南北戦争は今は昔の話。今は少子化の方が問題。中津では小学校や中学校は同じで高校で分かれただけだ。」ということを話された。いずれ南北は合併する方向になるのだろう。南の方の幹事長は、久恒三平さんという弁護士。世話好きで信頼されているようだ。三ちゃんは近所で遊んでいた友達だ。「いつもメルマガを読んでいますよ。こんどゴルフをやりませんか」ということで私の弟と3人でやろうということになった。現役校長の江田校長から現状説明があったが、バスケットや空手などのスポーツ、放送部や朗読などの文化部などの活躍の紹介があって、最後に今後は進学にも力を入れたいとのことでえ、私たちの時代とはすっかり様変わりだ。資料を見ると進学実績は冴えない。2時間ほどのパーティを終えて、20回生である同級生たち8人ほどで2次会。神奈川で高校の先生をしていた佐藤元信君は、この4月に中津に帰って実家の上まくさ神社の宮司になっており、北高や南高でも教えている。小野恒春君は国税をやっていたが、今は税理士。こういう会でいつも会う平松恵子さん(旧姓名・原)は、元気に話の輪に入っている。病院にいる田渋君、30代の頃に同じマンションの理事長として現れた岩釣君、大手保険会社の役員になっている吉森君、内尾君らと2時間ほど和気あいあいの時間を過ごした。ニチワという皮ジャンやカシミアを商売にしている友松君が成功しているそうで話題になった。また亡くなった小川君や北代さんの話もでた。来年には久しぶりの同級生による大型同窓会を開くことになっており、場所と時期について内尾君が皆に意見を求め、9月の土日に中津で行うという地区の意向がまとまった。来週に中津である同窓会ではかって決めるそうだ。そうとう大きな人数になりそうだ。私からは、人物記念館の旅を続けていて、影響力という意味で福澤諭吉先生の偉さをつくづく感じているという話をした上で、同じ高校の出身ということで懐かしがっているのではなく、高校の精神的な核を再発見しそれを後輩に伝えていくということやったらいいという提案をした。改めて歌って気がついたが、校歌の3番にも「世界の空に輝かむ 新に興る日本の 若き花こそわれらなり 福沢精神承けつぎて ああ独立自尊の 中津北高校」とある。前身の第一高校、西高校の校歌にも「自由の先駆 福翁」という言葉も入っている。中津人にとっての「福沢精神」とは何かを再度掘り起こしたらいいと思う。100周年という「天」、同級生が会長という「人」を得ており、面白いプロジェクトになるのではないだろうか。
2008/10/18
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新宿サザンテラスのJR東日本本社の28階建のビルで研修の講師をつとめた。現場の社員800人にいろいろなメニューの社外研修の場を与えるプログラムが好評だったとのことで、そのフォーローアップ研修を私が引き受けることになった。募集したところ、600名以上のの応募があり、5回に分けて研修を行うことになった。今回は123名の受講生だった。以下に、「所属機関」と「業務機関」と「職名」を記してみる。所属機関では、東京支社、横浜支社、八王子支社、大宮支社、高崎支社、水戸支社、千葉支社、仙台支社、盛岡支社、秋田支社、新潟支社、長野支社、、、。業務機関では、東京車掌区、池袋車掌区、中野車掌区、川崎駅、横浜駅、東神奈川車掌区、矢向車掌区、茅ヶ崎運輸区、大船運輸区、国府津運輸区、国立駅、立川車掌区、八王子運輸区、甲府運輸区、三鷹保線技術センター、八王子保線技術センター、甲府保線技術センター、大宮駅、宇都宮車掌区、浦和車掌区、大宮土木技術センター、大宮信号通信技術センター、大宮運転区、高崎駅、設備部(施設課・企画課・経理課)、高崎運輸区、熊谷保線技術センター、高崎新幹線保線技術センター、高崎車両センター、土浦駅、日立駅、水郡線営業所、原ノ町運輸区、いわき運輸区、土浦運輸区、勝田運輸区、水戸運輸区、勝田車両センター、水戸保線技術センター、水戸建築技術センター、水戸機械技術センター、成田空港駅、錦糸町駅、佐倉駅、舞浜駅、運輸部、千葉車掌区、成田車掌区、習志野運輸区、鴨川運輸区、蘇我運輸区、木更津保線技術センター、仙台駅、陸前原ノ町駅駅、会津若松運輸区、山形運輸区、仙台新幹線運輸区、仙台運輸区、宮城野運輸区、仙台運輸区、仙台機械技術センター、仙台土木技術センター、仙台電力技術センター、仙台信号通信技術センター、新幹線総合車両センター、盛岡運輸区、青森運輸区、弘前駅、弘前運輸区、弘前保線技術センター、秋田土木技術センター、秋田電力技術センター、秋田通信技術センター、秋田総合車両センター、越後湯沢駅、直江津運輸区、新潟保線技術センター、総務部経理課、長野運輸区、松本運輸区、松本車両センター、長野保線技術センター、長野総合車両せんたー、品川ターミナル、、、、。職名では、車掌、営業指導、事務、運転士見習、施設技術、電気技術、運転士、施設、主任運転士、、、など。全員が30歳未満の若い社員で、ほとんどが男性で女性がちらほらみえる。まじめで堅い人が多いが、こういう人たちなら日々の運航をきちんとこなすだろうな、という信頼感は感じた。久しぶりに安全、サービス、定時性、などのキーワードを思い出した。こうやって、所属や、業務、具体的な職名などをみると受講生のイメージが具体的に湧いてくる。事前の打ち合わせではそこまで分からなかったので、次回からはビジネスマン時代に経験したサービス改革を参考にして、現場系に重心を置いた講義内容にしていきたい。さて、日本航空に勤めていた30代後半の頃、社内報に匿名で連載を書いていたことがある。会社の問題点をあげて解決案や提言を行うというもので、編集部から私に白羽の矢がたった。半官半民という企業形態を不完全燃焼企業だったとらえ完全民営化を機会に完全燃焼企業になろう、ロンドン・ニューヨーク直行便は米欧等距離時代の幕開けととらえよ、社内マスコミ・ミディコミ・ミニコミをコミュニケーションの活性化に総合活用せよ、モアトリアム管理職から脱皮し自ら決定する気概をもて、管理職から企画職へと名前と内容を変えよ、代理店型企業の躍進に負けず顧客から直接ニーズを得よ、など今思い出すものをあげてみた。当時は誰が書いているのかと編集部に詮索がよく入っていたことからわかるように、割と読まれていた。その連載の中で、「男国鉄、女日航」というエッセイを書いたことを思い出した。完全な男社会である国鉄と、財布の紐を握ってる女性をターゲットに策を練るべき日航を比較したものだ。観光においては女性が主導権を握っているのに、旅行企画は男性中心でやってるのはおかしいのではないか、残業ばかりしていて生活感覚の乏しい男性はもっと日常生活や女性の動きに敏感になろう、という趣旨だったと記憶している。国鉄はJRと形態と名前を変えて大いなる変身をはかっているが、現場にはまだ男性が多い。終了後の懇親会では、受講生たちと懇談したが、男女共同参画担当の女性課長と話をする機会もあった。男社会が色濃く残る企業でのそういう仕事は会社を変える光栄na仕事だと励ましておいた。しばらくの間、毎月新宿のJR本社に通う予定。
2008/10/17
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鎌倉駅を降りて鶴岡八幡宮への近道である小町通りを数分歩くと雪の下という住所に鎌倉市鏑木清方記念美術館がある。小町通りには、鎌倉彫、竹工芸、呉服、民芸、和菓子、古代美術店、納豆、しらす・干物、画廊、ブティック、和服・陶器、革工芸、漬物、という興味深い店が並び、平日でもごった返す通りだ。その通りを左に折れるとこの美術館がある。近代日本画の巨匠・鏑木清方(1878-1972年)が、1954年(昭和29年)に文化勲章をもらたt76歳からの晩年を過ごした住居とアトリエを遺族が鎌倉市に寄付し、この美術館が誕生した。鏑木清方は長い画家生活で、築地明石町、朝涼、襟おしろい、虫の音などの美人画、涼み台、むぎ湯などの庶民生活画、慶喜恭順、大蘇芳年などの肖像画という三つの分野の絵を描いている。また、文学作品をテーマとした絵や、雑誌や新聞の挿絵も多く残している。「秋の美」という企画をやっていた。水汲み、ほおずき、虫の音、菊、コスモス(秋桜)、秋のおとづれ、などの作品を見ることができたが、「孤児院」という絵に魅せられた。上品なはかま姿の女性が孤児たちに贈り物を与える場面だが、暗い顔、疑い深そうな目、上目づかいなど、豊かな目の表情の描きぶりが目を引いた。この作品は、「最初は銅牌の賞を与えられたが、上村松園女史より一席上になった。」と述べている。「曲亭馬琴」では、28年かけて完結した「八犬伝」を題材にしたものだが、途中で失明した後は、息、琴嶺の寡婦お路に口受して続けた顛末「回外剰筆」にくわしいが、「仮名づかひ、てにをはだにも弁(わきま)へず。偏、つくりすら心得ざるに、ただことばのみを教えて書かするわが苦心は言ふべくもあらず。まいて、教を受けてかくものは、夢路を辿る心地して困じれ果てはうち泣くめり。」と文字を知らない口で述べた文章を書かせる苦労、そして書かせられる苦労を知った上で、それを絵にしている。もともと挿絵画家として始まったキャリアの持ち主だが、「婦人世界」や「婦人公論」では、右のページが文章で、左のぺージが挿絵となっていて、白黒の小説の文章よりカラーの美人の方が目立つ。新聞の連載小説などで、作家と並んで挿絵画家が必ず並んで紹介されるというのを不思議に思っていたが、挿絵は小説のつまというより、読者にとってもっと大きな存在だったという伝統によるものだとわかる。画室と呼ばれるアトリエは、12畳ほどの広さで、絵を描くための道具類が机の上に並んでいる。正面の扁額は「所作著御」という立派な字である。これは交流のあった尾崎紅葉の書である。画家の絵を展覧している美術館では絵を堪能できるが、その画家が絵を描いた意図や言葉が残っている所は少ないので、何か物足らない感情が残ることが多い。しかしこの画家は絵はもちろん一級品だが、残している文章もいい。・私は挿絵で生活を立てて来たのだが、勢い人物画に中心を置くやうになったが、肖像画を描こうといふ考へは持たなかった。、、、、人の伝記を面白く読むやうになってきた。、、、、。絵の方でも、かういう特殊の人間を出来るだけ内面的に深く究めて、伝記を書く気で描いてゆけば、肖像画もまたやりがひのある仕事となる。代表作の一つである「一葉女史の墓」では、・「たけくらべ」最終の章の一節「或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり、誰お仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆえとなく懐かしき思ひにて違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へきく、その明けの日は信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとず。」絵にした美登利はその行間から生まれている。・さしえは、いはば題を出されて歌や句をつうるやうなものだ。本画とはそこが違う。その点、拘束性があるわけだが、その拘束の中で仕事をすることに興味がある。この課題に対する興味が自由製作と異なるところで、それを毎日続けて行き変化させて行くところに、小説作家と似た興味も覚えていく。・小説家と挿絵作家との関係を、私はかて大夫と三味線ひきにたとえて見た・小説を熟読しましたうえ、画家が自分でその小説を解釈して挿絵を描くやうになったのであります。画家は長寿の人が実に多いが、鏑木清方もこの家で93歳という天寿を全うしている。コメントを書く
2008/10/16
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今日の一日。朝8時20分に大学に到着し研究室へ。第1限の授業から始まるので当日の朝の印刷では間に合わない恐れがある。量が多いのと印刷機の調子が悪かったりしたときには悲惨な状態になるので前日に印刷するようにしている。その講義資料を抱えて30分に講義室に向う。ちょうど教務スタッフがマイクとパソコンを持って現れたので、受け取りながら来期の時間割の希望を伝える。火曜日の夜に品川キャンパスでの大学院講義が21時40分まであり、水曜日の1限(9時始まり)との接続が悪い。9時には120名以上の受講生のいる講義。もともとはライフマネジメント論と名付けようとした「人物論」を語る講義である。今回は「敵との切磋、友との琢磨」というジャンルで、岡本太郎、白洲次郎、高村光太郎、草野心平を論じた。岡本太郎はやはり若者に人気がある。「学生によるゼミ説明会」の幹事をやっている学生から接触があり連れて研究室に戻る。情報をもらって私のゼミ生に伝える。すぐにゼミ生が一人やってきて、現在やっているプロジェクトの市民アンケートの回収状況の報告と、昼休みの説明会の打ち合わせを行う。また金融関係企業のインターンシップの申請書を見てほしいという学生が現れたので、相手先企業の求める人材にあわせて自己PRを書くように指導する。何事もマーケットに合わせなきゃね。秘書室とラウンジで何人かの先生や秘書グループの女性たちと歓談。秘書室は数人の秘書が全教員への情報サービスを行う態勢という優れたシステムがあり、完璧に業務をこなしているのでいつも感心している。いつも見かけるがまだ挨拶していない先生がいらっしゃったので、こちらからご挨拶。開学以来の先生だが、定年で今は非常勤で週一日見えている方で、有名な先生だった。この大学の20年の変化は?という質問に「しわが増えたり、頭が薄くなったり、、、」という愉快な返事から始まって、秘書の人たちも交えて楽しくこの間の変化を教えてもらった。戻って、メール処理、雑誌インタビュー記事の添削、また郷里の高校の関東同窓会の件で、高校本部の同窓会長をしているU君に電話。今週末の同窓会で会うことになった。14時半からは、3年生・4年生対象の50人ほどが出席している講義。こちらは今までにないくらい丁寧に、ゆっくり進めているが、この方が受講生は腑に落ちる感じだ。じっくりと身につくようにペースを保ってやっていこうか。16時20分からはゼミ。半年やってみたが、やはり私のゼミは「顧客満足」をテーマとしたゼミにすることにしようと思う。地域、企業、行政などを対象にこの切り口でやっていく。ゼミ説明会の準備の報告の後、現在進行中のプロジェクトの打ち合わせ。胸突き八丁にさしかかっているので、少し私がリードしていく。最終地点の姿が見えてきたと思う。終了後、ゼミ長の学生を研究室で励ます。今日はリレー講座で東大大学院教授のカン・サンジュンさんの講義があったのだが、ゼミと重なったので残念ながら聴くことはできなかった。後で聞くと、数年は景気は浮上しないので講義の対象である一年生の就職は厳しいというメッセージと、北朝鮮問題はまず核問題を解決しながら日朝国交を回復し、その過程で拉致問題を解決するという持論を展開していたとのこと。ラウンジにいると、京都の藤原勝紀先生から電話があった。科研費でやっている「専門的教養知」という12月に行うフォーラムに出て欲しいという連絡だった。この人とは学生時代からだから本当に長い付き合いだ。この3月に京都大学教育学部の教授を退官された。日本の心理学研究の中心である、亡くなった河合隼雄先生のグループの重鎮である。臨床心理士試験の委員長をやっているから、偉いのだろう。18時過ぎからは、大学のホームページ関係の打ち合わせ。大学のHPは学生募集に大きな影響を与える。事務局の幹部と学部長と私で方針を確認し、すぐに作業に入ることになった。この案件は野田学長代行からの特命で私が学生二人を交えて担当者とやってきたが、動きを一気に加速させていきたい。19時過ぎに自宅へ。途中で強い雨が降り出したので驚いた。
2008/10/15
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著者たちの印税寄付プログラム「Chabo!」のビッグイベント(著者と読者の集い)が予定されている。12月4日で、著者メンバー10人のうち、6人が参加する(2名は海外在住。2名は都合がつかず)。参加者は神田昌則、和田裕美、勝間和代、山田昌弘、竹川美奈子、そして私。先着順で1300名を募集。収益は経費を除き、全額CHabo!(http://www.jen-npo.org/chabo/about/)に寄付する。マスコミ関係者席も用意しているので、興味のあるメディアの方は私あて(hisatune@gmail.com))ご連絡を。(すでに三笠書房から2名の参加の連絡あり)申し込み。http://www.kansatobunseki.co.jp/modules/tinyd0/index.php?id=37下記はイベント「Chabo!著者が教える 夢を叶える私の方法」の趣旨、概要。このChabo!著者連合で出す「アナタの人生を変える 最強のブックガイド」(東洋経済新報社)が11月末に刊行されるが、その本に使う写真撮影会に参加した著者(勝間和代さん、竹川美奈子さん、私)等の写真(撮影:タツ・オザワ)をいただいたので、掲載。------------------------------------------------------------------------------------第一回 Chabo!著者と読者の集い『Chabo!著者が教える 夢を叶える私の方法』2008年5月から始まったChabo!も、読者や関係者のみなさまのサポートのおかげで、すっかり大きく育ちました。2008年10月現在、参加著者は 10人となり、共著者も合わせると13名です。また、Chabo!の参加書籍も30冊を越えました。今年度の目標であった2,000万円の寄付金額も、無事達成の見込みです。Chabo!は著者たち(私もメンバー)による印税寄付プログラムです。Chabo!に登録されている本が売れると、その本の著者の印税の20%が 特定非営利活動法人JENを通じて、世界中の難民・被災民の教育支援、自立支援に使われます。2008年11月には、今年の寄付金の投資先となるスーダンに、JENの事務局長木山啓子さんと、著者の勝間和代さんが直接訪問し、用途について吟味・検討をしてきます。つきましては、2008年12月4日に、これまでのChabo!の活動の報告と、Chabo!著者の特別スピーチとして「Chabo!著者が教える 夢を叶える私の方法」を読者のみなさまと共有する会を持ちたいと考えています。今回のイベントは参加費3,800円ですが、レジュメの印刷費、会場の賃貸料、入金及び当日の会場整理のための学生バイトの人件費を除き、すべて Chabo!に寄付をさせていただきます。すなわち、著者もすべて、手弁当での参加です。会場が1,300名と多数のため、混乱を防ぐため席は入金確認ができた先着順に事務局側で、中央前の方など見やすい場所から順番に割り振らせていただきますので、予め、ご了承ください。【イベント概要】開催日時:12月4日(木)18:30開場 19:00開演(21:10終了予定)料金:1席3,800円均一※納入後の払戻、返金は一切できません。座席:全席指定会場:かつしかシンフォニーヒルズ(モーツァルトホール)アクセス:京成青砥駅下車徒歩5分(又は京成立石駅下車徒歩7分)http://www.k-mil.gr.jp/access/sym_access.html【演目】1. Chabo!活動報告 19:00-19:152. Chabo!著者が教える 夢を叶える私の方法 ・第1部 パネリスト 久恒啓一※、山田昌弘、竹川美奈子 19:15-20:00 (休憩) 10分 ・第2部 パネリスト 神田昌則、和田裕美、勝間和代※ 20:10-20:55 ※ファシリテーター3. 今後のChabo!活動 20:55-21:05【応募先】応募は下記から受け付けています。http://www.kansatobunseki.co.jp/modules/tinyd0/index.php?id=37
2008/10/14
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橋本治(1948年生まれ)という作家の本は読んだことがなかった。東大駒場祭での「とめてくれるな、おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のポスターや小説「桃尻娘」など、異色の活動を続けている人といういことくらいした知らなかった。今回、「小林秀雄の恵み」(新潮社)という、小林秀雄(1902-1983年)を俎上に上げた本格評論を読んで今までの印象を一変した。小林秀雄といえば私たちの世代のだれもが知っている文芸評論の神様で、入学試験問題はこの人の難解な文章を題材に出されることが多く、畏敬の対象であった。小林秀雄の冴えた筆にかかるとどのような権威も丸裸にされてしまうという恐怖に近い感覚を持った同世代の知識人は多かっただろう。橋本治は、小林秀雄の凄味と切り開いた地平を高く評価した上で、小林の秀雄の文章が難解なのはつじつまが合っていないからであるという申し立てを慎重に、しかし大胆に行っている。この本は常に異議を申し立てる側であった神・小林秀雄に対して、真正面から、かつ丁寧に異議を唱える志の高い一書である。多くの書評がそうであるように、評論という営為は、対象を語りながら実は自らを語るということを目的としている、と言ってよいだろう。小林秀雄の多くの優れた仕事にもそういった面があり、私たちは彼が取り上げた偉大な人物を語る本人の考えを堪能してきた。兼好、西行、宣長という日本史上の偉大な先達の姿を料理する冴えた腕と技に惚れぼれとした人が多い時代とは何だったのか、これが橋本治の問いである。そして橋本治もまた小林秀雄をそうであったように、戦後世代としての自己を開陳していく。「本居宣長」という書物は小林秀雄が63歳から書き始めて、単行本になったのが75歳のときであり、小林秀雄のライフワークとして見事な完成を見せ、輝ける名声をさらに高めた名著である、ということになっている。それは誰も疑わなかった。しかし橋本治は、この書は本居宣長を「学問する人」という片面しか見ていないと述べている。「源氏物語」の世界を憧憬しそれを生んだ土壌のルーツを求め「古事記」にすすむという道をたどる宣長の本質、つまり本(モト)は「和歌を詠む人」であり、学問は末(スエ)で従たる位置を占めている。だから誠実な小林秀雄は本居宣長を全的に認識できずに難渋しており、それが名著と言われている「本居宣長」を難解な作品にしている。宣長の二つの墓を証拠にもして「和歌の宣長」を橋本治は実証している。つまり橋本治は小林秀雄は本居宣長という人物を見誤ったと断定しているのだ。連歌、俳句、謡曲、浄瑠璃、小歌、童謡、音曲の類の本(モト)である和歌を宣長は最上位においていた。それは日本文化の本来のあり方に自分(宣長)はのっとっているという自負があるということである。和歌のテーマは日本人が持ってきた変わらぬ不動のテーマである。和歌のテーマは「物のあはれ」を詠むことであり、それは「人の情(ココロ)の、事にふれて感(ウゴ)く」ということに尽きる。論理の人である小林秀雄は、「全的な認識」という言葉を持ち出して複雑にしてしまう。橋本治は、「物のあはれ」を小林秀雄は頭でわかろうとしたため、本当はわかっていなかったのでないかという疑問を発している。学問する人である小林秀雄は、自らの生涯の価値を決定づける作品である「本居宣長」を63歳から書き始める。兼好にもベルグソンにも物足らない。長い年月をかけて探し出したのは、本居宣長という大きな対象だった。この宣長を十全に書くことによって小林秀雄は本当の小林秀雄をになれるはずだった。宣長と小林秀雄は一致もあったが、ズレも大きい。自身の遺書である「本居宣長」に書かれた本居宣長は、宣長の一面である「学問の人」小林秀雄そのものとなった。日本という国は、常に外国から異様な情熱で学んできた。古くは中国、近代に入って欧州、現代はアメリカがその畏敬の対象であった。宣長が生きた江戸時代もそうであったし、明治以降特にその傾向が顕著に出ている。しかし日本の国柄を極めるという一方の営為がなければ、精神的崩壊が待っている。それを本居宣長は、神話として日本人が歯牙にかけなかった「古事記」に求めた。そしてその答えは確実にあった。宣長はそのような歴史と土壌の中で生まれ死んでいくことを理解したのである。宣長の仮想敵は、「漢意」(カラゴコロ)だった。この敵を相手にする中で本来の「日本」を掘り出していく。これが儒教や仏教を排撃し、反体制の尊王攘夷思想を生んで行く。小林秀雄は日本の近代の入口を求めて、近世を旅する。それは武者達が闊歩する戦国時代から始まるのだが、その風潮は「下剋上」という言葉で表わされる。大槻文彦の「大言海」には、「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。とすれば民主主義を標榜する近代は、実は近世から始まるともいえるのである。近世思想のトップランナーと小林が位置づける中江藤樹は、庶民が「学問する権利」を発見する。それは、熊沢蕃山、契沖、伊藤仁斎、荻生徂徠、そして本居宣長に受け継がれていく。私学の中江藤樹に対して江戸時代の官学には林羅山がいる。国学という民間学に対し、体制を護る官学とは朱子学、儒教である。橋本治は、世の中から崇められる神様・小林秀雄は私学に興味を持ったが、その本質は官学であると言っている。小林秀雄は林羅山であるという衝撃を橋本治は用意する。立ち位置と言説の分裂がおこっているというのだ。小林秀雄という山は大きな存在感に満ちている。一応は文芸評論家という肩書で紹介されているが、その仕事をなぞってみるととてもそのような表現で説明できる人物ではない。文芸にとどまらず、「モオツアルト」などの音楽、「ゴッホの手紙」などの絵画、などあらゆるジャンルで一流の活動をしている。音楽絵画、文学を同列に置いたマルチメディア評論家ということになる。「平家物語」の「宇治川先陣」の流麗な文章を小林秀雄は「大音楽」と言っている。文章から音楽が聞こえるというのである。「無常ということ」はこれまた有名な本でよく読まれたのだが、戦争状態は無常であり、常なるものは歴史であり、その遺産としての古典であり、古典を読もうというように解釈できると橋本治はいう。戦争時の小林秀雄の講演では、戦争のばかばかしさを前提にした論陣を張っており反戦的ととられてもおかしくない主張をしているが、危険人物とはみなされていない。誰からも理解されないために安全であるという奇妙な役どころを上手に演じている。近世という時代は非合理な神を存在させながら、一方を合理性で支配するという時代だった。神は神として置いといて、しかしそれとは関係なく実生活をまわしていく、そういう時代だった。それは日本思想のゴールであり、本質的な態度だった。自分は兼好法師ではないことに気がついた小林秀雄は、自身をむき出しにして己を求める僧侶・西行に行く。仏教は門口のみ用意しあとは自由という宗教であり、仏はただ伴走するのみであり、ゴールへ導いてはくれない。神が空白として存在していた日本人は、「桜」を代入した。桜は、神であると同時に自分自身でもある。だから西行はその空白を自分でうめ続けた自助努力と自己達成の人であって、近代人でもあるということになる。芭蕉は自分を問題にしないで、俳句の中で、水の音、最上川、夏草、を神にしたてあげる。その強さは日本人にとっては当たり前のことだったのである。「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」という本居宣長の歌は、私の本質は桜であるという意味でありそれ以上ではない。二つの墓のうち私的な墓にはなにも書くなと命じた宣長は、生業でああった医者でもなき、ただ本居宣長であるだけでいい、それ以外の何者でも自分はないということを示している。森鴎外の墓にも「森林太郎墓」とだけある。また、原敬も「原敬墓」である。国学者でも文学者でも政治家でもなく、自分自身であるということなのが古道なのだろうか。「本ヲオイテ、末ヲモトメンヤ」という宣長は、当然のことながら漢意に汚染された日本書紀ではなく、「古事記」へ向う。しかし、小林秀雄は、「古事記伝」を書いた本居宣長に関心があって、「古事記」そのものには関心がない。小林秀雄は思想よりも、人に関心がある。自分に重ね合わせて生き方を考えているのだろう。この本の中で橋本治は、しだいに小林秀雄の正体を丁寧に薄皮を剥ぐように見せていく。その手腕はなみたいていの腕ではない。小林秀雄本人が小林秀雄を容赦なく批評しているという感覚を持った。ある時代を風靡した小林秀雄という神は、時代を通り抜けるトンネルのような役割を持っていたと橋本はいう。トンネルを抜ければ掘った人は忘れられる。そういう存在である。この書を書き終えた時点で、橋本治は中江藤樹以降の系譜を学ぼうとするが、それをやってはいない。私は橋本治のこの考えに深く共感する。そして本居宣長という存在に大きな関心を持った。橋本治にとって小林秀雄が恵みであったように、橋本治も私の「恵み」であり、私のトンネルであった。(ここまで一気に書きなぐってしまったが、この感想はもっと整理してきちんと書きあげたい、そういう名著だと思う)
2008/10/13
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連休なので多摩川には家族連れが楽しんでいる姿が多い。のどかで平和な、そして幸福な風景である。最近は散歩の際に必ずでデジカメを持っていくことにしているので、興味に任せて撮ってみた。「公園内でのバーベキュー禁止」という市のみどりと健康課の立てカンバンの向こうで、思い切りバーべキューを楽しむ家族たち、ゴミは持って帰ってね。「震災消防訓練」の実施の「お知らせ」は、かなり傾いて立っている。やっつけ仕事で丁寧さに欠ける気がするが、訓練はきちんと行われるだろうか、ちと不安になる。同じところにこういう人々の営みが転がっていて、おかしくなる。テレビでわめいている金融恐慌とは無縁の静かな休日である。 詳しい写真は、http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/
2008/10/12
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パリ国立ピカソ美術館は、ピカソ(1881-1973年)が手元に残していた作品のうち5千点を所蔵している。絵画203、彫刻158、レリーフ29、陶器85、デッサン1500点など。ピカソは生涯で6万から8万といわれる作品を残している。この美術館が改修を行うことに伴って核になる作品群が世界中を巡回することになった。今、日本で開催されている二つの展覧会はその中のイベントであり、日本にいながら20世紀最高の巨匠の作品群を直接鑑賞できる幸せを私たちは手にしている。新国立西洋美術館の「愛と創造の軌跡」展と、サントリー美術館の「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展は、いずれも六本木で開催されている。まず、「魂のポートレート」展を見てきた。ピカソの本質に迫る自画像と自己を投影した作品60点を、六本木ミッドタウンの隈研吾設計の木の香り豊かなサントリー美術館で堪能した。フワイトオークの木の床が気持がいい空間を紡いでいる。19歳から25歳までの「青の時代」は、自我の崩壊の危機と隣り合わせの時代だ。失恋からピストル自殺をした親友の死を描いた「カザジェマスの死」(1901年)は、蝋燭に照らされた青白い顔、こめかみに残る銃弾の跡などを描いている。1901年に描いた「自画像」は、この企画展のパンフレットに選ばれているが、当時20歳のピカソはメランコリックな青を背景に老成した顔だちで描かれている。一点を見つめる強い目線、こけた頬、あごひげ、などは人かどの人物を連想させるが、しかし若さはない。1904年頃から始まる「キュビスムの時代」には自画像は少ない。この冶ダウ\いはバラ色を用いてピカソの分身である芸人や道化を描く。25歳の時の「自画像」は、短く刈上げた髪、裸の上半身、顔の部品は20歳の自画像と同じだが、視点はやや横を向いており挑戦的な兆しはない。1907年の「男の胸像」では、右が普通の目、左は白というように両眼が異なった描き方になっており、遠近法の写生とは明らかに違うキュビスムの方向へと踏み出したことがわかる。このキュビスムは対象をあちこちから見た姿を部分として組み合わせて全体像を描くという手法だ。3次元の対象を2次元空間の中に表す描き方である。断片を再構成して、形状としては奇妙ではあるが確かな実在感を感じさせる。35歳の「自画像」は、やや横向きに構え画面を見る人に見据えるような強い視線を向けている。自信にあふれた自画像である。このころ、ピカソは画家としての名声とロシアのバレリーナ・オルテガと出会い結婚する。これ以降、ピカソは画風を変えて古代世界を扱う「新古典主義」へ向かう。この時代は1917年の35歳から1927年まで続く。「牧神パンの笛」などの明るい作品が多い。1927年の17歳のマリー・テレーズとの出会いは彫刻への制作意欲をかきたてる。これ以降ピカソはシュールレアリスムの時代に入る。「顎鬚のある男の頭部」は、無造作な頭髪、量の多い堅そうな顎髭、胸毛、そして左右不対称な耳、赤く光る眼玉など、荒々しさを感じさせる。ピカソ本人とおぼしき牛頭人身のミノタウルスという怪物を描いた作品が多い。「ヴェールをかざす娘に対して、洞窟の前のミノタウルスと死んだ牝馬」は、引き裂かれた牝馬マリ・テレーズ、影のように付きまとう手であるオルガ、そしてヴェールからのぞく娘・ドラとの間で混迷を深めるピカソが描かれたととれる。「自伝を書くように私は絵を描く。私の絵は日記のページなのだ」というピカソの言葉は、ピカソの作品が女性の登場によって一気に異なる世界へと入っていくという画風の転換の意味を納得させる。第二次世界大戦の2年前に描いた「ゲルニカ」は、残念ながら今回は日本の二つの企画展では見ることができない。「影」(1953年)という作品がある。横たわる裸の女性をのぞいている黒い影。この女性はフランソワーズ・ジローらしいが、常に恋の勝利者であったピカソを捨てた唯一の女性である。ピカソは80歳の時、はジャクリーヌ・ロックと再婚している。最後の自画像「若い画家」は、老成した自画像として登場したピカソが、70年の歳月を経ていまだ枯れない愛欲と才能をきらめかせているようにみえた。結城昌子は「ピカソ 描かれた恋」という本で、次のように言っている。「オルガ(ロシア貴族の末裔)は精神に異常をきたし、マリー・テレーズ(従順な協力者)はピカソとの子どもを産みながら生涯日陰のまま、やがてピカソの後を追って自殺。ドラ・マール(才色兼備の写真家)は「泣く女」に変えられ、精神衰弱に陥ったと伝えれている。娘のマリーナも精神科の医の助を借りてようやく生き延びてる。ピカソの親族だけでも自殺者は3人も出ている。ピカソにかかわった女性はみな翻弄されるが、フランソワーズ・ジロー(40歳年下)だけはかろうじてピカソに一矢を報いてピカソの人となりをさらけだす書籍を出版している。「私は、他の人たちが自伝を書くように絵を描いている。私の絵画は、完成されてようがそうでなかろうが、私の日記の頁のようなもので、日記としてのみ、価値があるんだ。、、、。私は、絶えず流れ続ける大河のようなもので、流れによって根こぎにされた木々や、死んだ犬や、あらゆる種類のごみ屑や、そこから湧いてくる瘴気を押し続けている。こういうものを全部、引き連れて流れ続けているんだ。私に関心があるのは、絵画の運動、一つのヴィジョンが別のヴィジョンに変わるような劇的な努力だ。、、、、私は、自分の思考の運動の方が思考そのものよりも興味深く思えるような、そういうとろに到達しているんだね」ピカソの絵画の歴史は、ピカソの自分史である。
2008/10/11
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「さくらや」にCD=Rを買いに行ったら、PDF関係の安いソフト「いきなりPDFプラチナ特別版USBメモリ版」というがソフトが目に入ったので買ってみた。ソフトが三種類入っていたので、試してみた。一つはワード、エクセルなどで作成された様々の書類をPDFに変換するソフト。二つ目は、PDFを読み取ってワード、エクセルなどに出力するソフト。三つ目は、ワード、エクセル、パワーポイントなど異なる種類のソフトのファイルを自動的に配置して1ページのPDFに編集するソフト。少し試してみたが、使い勝手がよく役に立ちそうだ。今までソフト売り場をうろつくことはしなかったが、時間があるときにぶらぶらしてみようか。写真は、散歩の時に撮った多摩川河畔に咲くコスモス。
2008/10/10
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本日の多摩大学寺島実郎監修リレー講座は、中国問題の論客・沈才彬多摩大教授の講義。北京五輪は成功した。開会式出席の国家元首・首脳(80超で史上最多)・金メダル獲得国・地域(55)メダル獲得国・地域(86)で史上最多・視聴者数(アテネ五輪の3倍・シドニー五輪の4倍で史上最多)・テロと大気汚染と選手の食中毒事件もない・ボランティアの若者たちの情熱と親切さを石原都知事の絶賛。中国国民感情の対日感情が好転し、日本選手を応援する中国人の姿が目立った。これは、日本人選手の品性ある行動に中国国民が感銘を受けたことが大きい。(日本女子サッカーのドイツ戦へのブーイング後の「謝謝」という言葉の書かれた横断幕などで中国人は驚き大論争があり、反省)。文化交流、スポーツ交流が大切。北京五輪は中国の先進国脱皮への「成人式」新興国は開催後は、経済成長・先進国入り(OEC加盟)・民主主義体制への移行、これが過去の教訓。(1964年の日本・メキシコ・1996年の韓国)中国は先進国へ脱皮していく。痛みを伴う長いプロセスは始まる。「内憂外患」内憂--農民暴動多発・民族対立不安・株式バブル崩壊・インフレ昂揚外患--米国景気後退の影響と金融危機ショック(対米輸出に急ブレーキ・香港「東亜銀行」の取り付け騒ぎ)金融危機の影響。中国(株価下落・外貨準備など資本市場への影響大)、日本(輸出など実体経済への影響大)中国経済は、政変(文化大革命・四人組・天安門事件)に弱く、外部危機に強い。当面、政変の発生は考えにくい。(五輪と有人宇宙船成功で、胡錦トウ政権基盤は強化)経済対策は、危機対応に対し迅速に政策転換を実行(インフレ防止・安定成長)・金融緩和・減税や中小企業対策など総合的景気対策・財政収入の急増(黒字)で財政出動が可能GDP成長率。2008年は10%、2009年は8%、2010年は8%。2020年まで6-7%成長。上海万博(2010年)以降は、不満爆発の恐れ。矛先は格差問題と政府幹部の腐敗。3つの格差(地域格差10倍、日本2.4倍)、都市と農村の所得格差(3.3倍。実質は6倍)、富裕層(10%)と貧困層(10%)の格差は100倍。前腐後継というブラックジョーク。2013年は要注意の年(2013年には日本を抜いて世界2位へ)政権後退の年(権力闘争・不測事件)米国によるチャイナ・バッシング経済清張の最大の壁は民主化問題「中国沈没」は一時的。農民所得の増加がカギ。内需拡大と格差是正に向けて10月の中央委員会で農村改革案を発表の予定。日中関係摩擦はあっても、日中関係の大きな後退はない。相互依存の経済構造、戦略的互恵関係。「親米睦中」という日本の外交戦略。日本は外需を呼び込め外国人観光客誘致のカギは中国人。2007年835万人を2020年2000万人。中国人2007年94万人を2020年600万人。--11%から30%へ。日本と中国はwin-win関係へ-----------------------------------------------------------沈先生の講義は、アメリカの金融資本主義は「小人経営」、求められるのは「君子経営」。北京五輪での日本人選手の品性が感銘を与えた。中国の成長は、今年10%、来年8%、再来年8%、そして2020年まで6-7%。2013年に注目。親米睦中を日本の外交戦略に。、、などが大切なポイントである。マスコミ・現代中国の政治・経済を鋭く切り取る屈指の論客。緻密で正確な分析と公平な視点は、日本の政財界から高い評価を受け「中国問題最強のアナリスト」との呼び声が高い(毎日新聞)・今、わが国では中国を語らせたらこの人の右に出る人はいないといわれるのが沈さんである。何といったって話が具体的だし面白い。(電気新聞)・豊富な現地情報と大胆・強気な分析が人気。(文芸春秋)
2008/10/09
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講義二つ、ゼミ一つ。この合間に出版社の来訪が二件。今日のメインの講義「マネジメント2」は、昭和天皇、山本五十六、渋沢栄一、森鴎外をテーマに、彼らの人生の全貌と師匠との関係を語ってみた。前回の講義では横山大観と岡倉天心の弟子と師匠との関係、会津八一と坪内逍遥と弟子と師匠との関係を語った。この二回の講義の中でそれぞれがもっとも関心を持った人物とその理由をアンケートに書いてもらった。100枚ほどのアンケートを以下にまとめた。-----------------------------------------------1:森鴎外:「誰も褒めてくれなかった」という孤独感に共鳴した。・昭和天皇:「軍部の報告に信頼がおけずアメリカの短波放送を聞いていた」ことに衝撃。天皇の人がらを深く調べたい。・横山大観:面白い人。会津八一:「秋草堂学規」がとても学べる。・森鴎外:小説家と軍医というまったく異なる職業を両方ともエリートとして歩み続けたのはすごい。・森鴎外:細菌学や文学に関心があり、外国語に堪能。2:童門冬二:小学校の先生との出会いによって一生の仕事(歴史小説)まできまってしまうことに驚いた、自分もそのような出会いができるようにいろいろなことに真剣に取り組みたい。・森鴎外:人間性と人生の波乱に関心。昭和天皇の器の大きさを感じた。明治天皇の記念館が近いので訪問する。・森鴎外:医学、文学、考古学にまで精通しているのに感心。興味をもたtので本を読みたい。・渋沢栄一:江戸から昭和を生きた人だが徳川慶喜につかえていたことに驚きを感じました。人がら。・会津八一:多彩な才能。・昭和天皇:激動の人生。摂政になった20歳から87歳までよく頑張って働いたなあ。この人が天皇じゃなかったら今の日本はない。・森鴎外:「舞姫」を読んだ。・渋沢栄一:日本の資本主義をつくった功績はすばらしい。実力と、それ以上に人のよさも大きく影響。・森鴎外・森鴎外:深いところで触れてみたい。3:森鴎外:筆名を鴎外とつけたことに興味、人としてのあり方を示しているのは素晴らしい。森鴎外:すごい人物だ。・渋沢栄一:福祉の篤志家として知っていたが銀行、ビールなど多くの会社の設立に携わっていることを知り能力の高さや人柄の良さがわかった。幼少時代に関心がある。両親の教育方針や家庭環境など深く学んでみたい。・森鴎外:二つの分野のプロフェッショナルとして生きたことに感銘をうけた。高い志と不屈の精神。志の高さによって行動が変化し人格が変わり、そして人生が変化していく良い例。の?外の一日24時間のタイムマネジメントに関心がある。成長のヒントが必ず隠れていると思う。・森鴎外:「舞姫」を高校時代に読んだ。文人としても軍人としても鴎外の生涯への関心は尽きない。・渋沢栄一:今でも数多く残る有名な会社をこの人物がつくったことに驚きました。一つの分野で成功するにも一生を費やす人が多いのに。この功績は渋沢の人柄があったからだろう。現代に生きていたらどういうことおwしたか興味深い。このような人物をについて知らなかったことはもたちない。もっと多くの偉人について知りたい。森鴎外と渋沢栄一。・昭和天皇と森鴎外。・昭和天皇:誠実な心。山本五十六。4:森鴎外:名前は知っていたがこの講義を機に調べてみたら、多くの知らないことを発見した。・森鴎外:母校の先輩。ドイツの森鴎外記念館を訪問したことがある。?外の人生について聞いているうちにしかkりした人ですばらしいと感じた。・森鴎外:「まんじゅう茶漬けが好き」ということしかしらなかったが、軍医と歴史・文学者という二足のわらじを履いていたことを知り興味を持った。「あれもしたい」「これもしたい」という欲望を遂げてしまう行動力・忍耐力に感銘を受けた。・渋沢栄一:実業家としてこれほどたくさんの会社に関わったのは珍しい。日本経済に大きく貢献した人物。もっと詳しく知りたい。・渋沢栄一:仕事の忙しさが伝わってきた。こういう大人になりたい。・渋沢栄一5:昭和天皇:自分とあまり変わらない年に摂政についたとは、鳥の目を持っていた人だと思う。公務と私事(生物学研究)をしっかり分けて過ごして両立していることに凄さを感じた。・横山大観:李仁には必ず師匠がいる。「偉大な人が出た時に初めて偉大なる芸術ができる」という言葉が印象に残った。昭和天皇:私の地元の八王子に昭和天皇のお墓がある。20世紀に激動の人生を歩んだところに関心を持った。・森鴎外:陸軍軍医としてもかなりの実力があったことに素晴らしさを感じた。何か一つのことを極める生き方もすごいが、自分がやりたいことが複数あったとしてもどれか一つを選ぼうとしなくてもいいんだということを学んだ。・渋沢栄一:想像できないような数多くの活動と、同じ埼玉県出身というところに興味。社会活動に熱心であり養育院院長、日本赤十字社の設立、聖路加国際病院初代理事長など、現在に通じる社会貢献を行ったことに感銘を受けた。経営者として500社以上の会社の設立にかかわっているのにも関心。・森鴎外:一流大学の医学部を卒業し軍医として勤務していたなんてすごいなあ。・森鴎外:「舞姫」と「高瀬舟」を読んだ。作家としてしか知らなかったが、軍医としての姿にも興味を持った。本職を全うするかたわらで、あのような優れた作品を書いていたことは素晴らしい。それを「誰も褒めてくれなかった」と感じていたのは信じられません。・森鴎外:素晴らしい。・森鴎外:専業作家ではなく軍医と作家の兼業で、作品を書く時間が少なかったはずなのに、こつこつと努力を重ねていく行動力に感心した。有意義を事をして過ごしたいという意志が感じられ、自分もそのような人生を送りたいものだと思った。・森鴎外:19歳で東大医学部を卒業している。自分と同じ年なので驚きました。「生きている限り考える作用を続けるに違いない」という言葉は心に沁みた。私は生きている限りはh知り続けたい。忙しく充実した毎日を送りたいのでとても勇気づけられました。・森鴎外:より深くしりたい。・渋沢栄一:経営学を学ぶものとして500社以上の会社の設立に関わったことに興味。・森鴎外:軍医でありながら小説を書いていたことに強く共感した。私は学業とともに余暇に絵を描いて過ごしています。私には鴎外の気持がわかる気がしています。・渋沢栄一:多くの時間をつぎ込める信念のあることを見つけたい。日本全体を組織としての観点から見据えていたのは素晴らしい。・渋沢栄一:人柄と手腕。・森鴎外:エリート。・会津八一:あらゆる分野でプロであったから。森鴎外:「出処進退」という言葉に感銘。多忙な生活。記念館を訪ねるなどしてもっと知りたい。6:渋沢栄一:「私利を追わず公益を図る」との考えを生涯にわたって貫き通して「渋沢財閥」をつくらなかったことに感心した。渋沢同族株式会社を設立して死後の財産争いを防止したことにも感心した。・森鴎外:小説家として有名な鴎外が軍医として活躍しちたことに驚きました。・森鴎外:「高瀬舟」を読んだが、感受性の高さがわかった。・昭和天皇:ラジオや新聞でニセ記事や情報がある中で真実がどこにあるかを追及しようとした。終戦時には自分よりも民衆が心配という歌を詠んでいる。尊敬の念を覚える。・横山大観:19歳で進む道を決め、一つのことをやり通した。私は仕事でも勉学でも結構凝り性だが、一つのことを突き詰めることがなかなかできなかった。「不二」という美しい絵を描き続けられたのはなぜか。そこに関心を惹かれた。・森鴎外:自分の考えを貫いたことろ。・7:横山大観:絵の才能以上に人を引き付ける人物である。終りがなく、深く深く世界を広げていると感じる。自分も常に成長できる人間になりたい。・渋沢栄一:人から慕われる人格がうらやましい。・昭和天皇・森鴎外:努力して作家として、軍医として生きた?外は素晴らしい。・昭和天皇:生物学研究者としても業績をあげたこと。私も他の人に影響力があるような人になりたい。・森鴎外・会津八一:「日々、新面目あるべし」が気に入りました。8:渋沢栄一:これだけ多くの会社を設立しているのはすごい。・渋沢栄一:高校の時に習ったは、今回はじめて人格をしった。9:渋沢栄一:商法会所や大学など大きなことをした。・岡倉天心:茨木県の美術館に行ってみたい。・渋沢栄一:「人がやらないことをやる」というところに興味。政治には関わらなかったということだが、政治をやっていてお成功しただろう。偉人には素晴らしい師がいるが、一番最初の師は誰だろう。・森鴎外:生き様。著名な人物でありながら庶民のような一面を持っているのは心温まる。別格の人物。・森鴎外:軍医として誤まち(日露戦争時の脚足の原因が細菌であると唱えた)は信念と考えたい。不明:森鴎外・昭和天皇・渋沢栄一・渋沢栄一・渋沢栄一・渋沢栄一・渋沢栄一:いつか会社を起こす時に参考にしたい。・昭和天皇・山本五十六-------------------------------------------------------------------
2008/10/08
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「書き出しておかないと、すすまない」ということで、この秋に訪問する予定の記念館、企画展を記しておく。・ピカソ展。10月4日--12月14日:いずれも六本木 「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」(国立新美術館) 「巨匠ピカソ 魂のポートレート」(サントリー美術館)・源氏物語の1000年-あこがれの王朝ロマン(横浜美術館)8月30日--11月3日東京都 野口英世記念館展示室 海音寺潮五郎記念館 赤毛のアン記念館・村岡花子文庫 竜子記念館 田河水泡・のらくろ館 ねぎし三平堂 平櫛田中館 神奈川県・小田原 報徳記念館 尊徳記念館 白秋記念館 尾崎がく堂記念館・鎌倉 棟方版画美術館 古屋信子記念館 鏑木清方美術館・茅ヶ崎 開高健記念館
2008/10/07
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白河から富田さんと、今日から始まる宮城大学での授業のため雨の中を一路仙台へ。「久恒君を東京から白河へはボクがお見送りをし、仙台から富田さんがお出迎え」(野田先生)と冗談でおっしゃっていて3人で笑った。野田先生は坂口安吾賞の選考委員長だが、本日は東京のANAホテルで授賞式があるということで早朝に出発された。安吾賞は、劇作家・野田秀樹が第一回の受賞者で、2回がアルピニスト・野口健。そして今回の第3回は、瀬戸内寂聴だそうだ。この賞は人選がいいと感心した。宣言書によると「坂口安吾が生まれ、青春の思索を育んだ地である新潟市から、世俗の権威にとらわれずに本質を提示し、反骨と飽くなき挑戦者魂の安吾精神を発揮する現代の安吾に光を当てたい。日本人に大いなる勇気と元気を与え、明日への指針を指し示すことで現代の世相に喝を入れる人物や団体に「安吾賞」を贈ることをここに宣言する。」とある。宮城大では同僚」だった映画大学院の金融が専門の野先生と久しぶり懇談したが、映画関係のブログをやっているらしいので今後の参考にしたい。「おくりびと」は評価が高かった。卒業論文の指導を終えて、今度は新幹線で東京へ。昨日の朝、今日の夕刻に電車の中で、新聞や雑誌で、いくつかいい言葉に出会った。「いまやらねばいつできる、わしがやらねばたれがやる。」は、107歳の長寿だった彫刻家の平櫛田中の言葉。この人は「六十,七十はなたれこぞう,おとこざかりは百から百から」という有名な言葉を残した人である。小平市に記念館があるので、近日中に訪問したい。------1872‐1979 明治-昭和時代の彫刻家。明治5年1月15日生まれ。30年上京して高村光雲にまなぶ。40年日本彫刻会を結成,同会展の出品作で岡倉天心にみとめられた。日本美術院再興につくす。昭和19年東京美術学校(現東京芸大)教授。彩色木彫作品がおおい。37年文化勲章。昭和54年12月30日死去。107歳。岡山県出身。旧姓は田中。本名は倬太郎。作品に「転生(てんしょう)」「鏡獅子(かがみじし)」など。【格言など】六十,七十はなたれこぞう,おとこざかりは百から百から(99歳での書「不老」の添書き) (日本人名大辞典)-----「アーチストになるな。アルチザン(職人)になれ」は、漫画家の手塚治虫の言葉である。---1928‐1989 昭和時代後期の漫画家。昭和3年11月3日生まれ。21年デビュー。22年「新宝島」がヒット,赤本漫画にブームをおこす。さらに児童雑誌に進出し,「鉄腕アトム」「リボンの騎士」などでストーリー漫画の世界をひらく。36年手塚動画プロ(のち虫プロ)を設立,アニメーションの分野も開拓した。平成元年2月9日死去。60歳。大阪出身。阪大付属医学専門部卒。本名は治。 (日本人名大辞典)--------
2008/10/06
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日曜日の朝7時半に新宿の都庁前で野田一夫先生のベンツにピックアップしてもらって、池袋から東北自動車道に入る。行き先は白河の白河高原カントリークラブだが、すいていて、またいろいろと相談をしながらだったので、あっという間に白河インターに。そこから18キロ走って目的のゴルフ場に到着。午後から雨の可能性があったが、天気は終わるまで何とかもったのは幸いだった。相棒の富田秀夫さんは、仙台から長躯、同じくベンツを飛ばして現れた。富田さんは野田先生と私のゴルフの師匠で、仙台でいつも一緒にやっていたのだが、いったい何回やっただろうか。このコースは大成建設がつくったゴルフ場で、30年前に野田先生は回ったことがあるそうだ、今回は、富田さんは絶好調、野田先生は、開眼したというドラーバーショットは不調だったが、スコアを何とかまとめることができるという老獪さを身に着けたと、それなりの収穫はあったらしい。私は他の人のクラブを使うという準備の悪さもあって、近来で一番の悪いスコアだった。最初から最後までずっと二人の後を打っていたが、こういうことは珍しい。しかし、何とか天気がもったのがよかった。松平定信が愛した温泉の湯という触れ込みのお風呂に入った後、レストランで夕食を摂って談笑しているときに大雨が降ってきた。昼間でなくてよかった。ハウスについているロッジに宿泊する。野田先生が部屋でマッサージを頼んでいたので、その帰りに私もやってもらったが、その整体師のいうには、80歳超えてこれほどすぐれた肉体を持っている人を初めてみたとのことだった。その秘訣は身体の手入れがいいということで、何かスポーツをした後は身体を整えるという習慣が大きいのではないかという診断だった。見習うべき習慣だと思ったので、参考にしたい。
2008/10/05
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この図解ウェブ(http://www.hisatune.net/index.html)は、日々進化することを旨としている。以下、最近の進化から。・「多摩大へのアクセス」にグーグルマップ(乗り換え案内)に加え、「アクセスガイド」(交通利用案内図・バス利用ガイド・アクセスガイド詳細)を追加。http://www.tama.ac.jp/info/guide.html・「宮城大学時代の総決算」に、全体マップを加えて、ここから各項目の詳細に飛べるようにした。http://www.hisatune.net/html/01-kyouiku/saisyu.htm・「メールマガジン」の「学びの軌跡」に加え、「本との遭遇」と「人物記念館の旅」を創刊し、トップページに表示した。・「facebook」に「登録し実験。http://www.hisatune.net/index.html・後期開講に伴い、「開講中」を変更。http://www.hisatune.net/index.html・「人物記念館の旅」に「Googlマップ版日本地図」を追加し、踏破した記念館の位置情報を見えるようにした。http://www.hisatune.net/kinen.html・「著作」の「時系列」を3時代に区分して表示。http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/tyosaku/index.htm・「著作」がわかりやすいように、「分野別」(http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/tyosaku/bookshelf.htm)、コミュニケーションに関する「著作一覧」(http://www.hisatune.net/html/03-kouken/ichiran.htm)に編集して表示。・igoogleを使い、使い勝手のよいガジェットを自分用に整備。・背景の色の変更と、それに伴うコンテンツの配色などを検討中。
2008/10/04
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NPO法人知的生産の技術研究会の企画で行った同僚の樋口裕一さんと私の対談講演のエキスを本にするプロジェクトが進行していて、本日著者側の準備が終わった。対談講演では「小論文の神様」と「図解教の教祖」という表現で対決色を盛り上げたが、「こんないい企画をそのままもらっていいのかな」と出版社が興味を示したことから始まったプロジェクトだ。この出版社のシリーズはハードカバーで、デザインが素晴らしく、価格は1000円、読者の手に馴染む装丁なので、どんな風に仕上がるのかが楽しみだ。11月に刊行予定。冒頭に、私の「図解派の宣言」と樋口さんの「文章派の宣言」が並ぶ。以下、私の部分のみ先走って書いてみる。--図解派の宣言--- ビジネスの現場で最も大切なことは、コミュニケーションです。なぜなら組織内外のコミュニケーションがうまくいかないと、企業は品質の高い商品や、すぐれたサービスを生み出すことができないからです。そのコミュニケーションは文章を中心に行ってきましたが、文章には書き手自身がよくわかっていなくてもごかますことができるという特徴があり、読み手の側からの誤解と曲解にさらされるという危険があります。それがさまざまなトラブルを引き起こす要因になっています。 しかし、図解は全体像と部分同士の関係が表現されているため、事柄の本質がひと目で理解できるのが特徴です。そして自分も他人もごかますことができないために、深い議論へと発展していきます。又、図を描くということは深く考えることなので、自分の頭で考える習慣が自然と身についていきます。図解にはなぜこのような力があるのか。それを文章と比較しながらみなさんにお話したいと思います。
2008/10/03
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東京一ツ橋の学術総合センターで行われた社団法人国立大学協会(国大協)の「大学マネージメントセミナー(企画・戦略編---大学経営者のための中長期戦略を考える)」で15時半から講演。学術総合センターは、独立行政法人国立大学財務・経営センター、国立情報学研究所、そして国大協などが入っている学術行政の中心である。今回のセミナーはこのビル内の一ツ橋記念講堂で行われた二日間のセミナー。文部科学省や大学経営の専門家が講師となるセミナーで、独法化された旧・国立大学の役員(学長を含む)、副学長、部局長、事務代表者200人ほどが受講している。受講者リストを見ると、北海道大学から沖縄の琉球大学まで80大学が並んでいる。役職は、学長もいるが、「理事・副学長」という肩書が一番多い。その人たちの担当は、総務、企画調整・広報、総務・財務・施設、社会連携・情報・国際交流、財務・エンロールマネジメンロ・業務改善、研究・国際、企画・戦略、教育、学術、人事・点検・評価、人事労務、目標・評価、、教育・学生、、などで、現在の国立大学法人抱えている課題がみえる。国立大学は法人化して4年半たち、第一期の中期目標・中期計画の期間(6年)がそろそろ終わり、次の中期を作成する準備に入っているところで、そのためのセミナーである。私に与えれたテーマは、「地域再生と大学の役割」。「見晴らし台から見える景色」「宮城大学11年の総決算---教育を中心に」「「教師力」の涵養こそが大学のの生き残る道」という順序で一時間強の講演を行う。こちらも受講者もリラックスした雰囲気で、笑い声も多かった。ビジネスマンから転身した者として、仙台でやってきたこと、考えたことなどを一つのモデルという位置づけで語ってみた。終了後のパーティに最初の30分ほど参加。銭谷文部科学事務次官の挨拶、主催者側の国大協の飯田横浜国立大学学長の挨拶と乾杯。山形大学の三はし理事・副学長、岐阜大学の安田理事・副学長、佐賀大学の向井理事・副学長らと名刺交換をしながら歓談する。会場を出て、霞が関ビルに向かう。17時50分からM出版社の編集者と今取り組んでいる大事本な本について一時間ほど打ち合わせ。19時からは、NPO法人知的生産の技術研究会のセミナーに参加。講師は、経済分析で定評のある武者陵司ドイツ証券副会長で、テーマは「世界金融市場の展望と日本の可能性」。一年ほど前に書かれた「新帝国主義論」(東洋経済)の仮説理論(一国経済から世界単一経済に変化した)が見逃していたこと、生きているフレームなどを中心に、現在起こっているアメリカから発した危機を論じてもらった。9・11以降のアメリカは空前のばらまき政策(超金融緩和・空前の財政出動)で一時的に回復。結果的にアメリカの政策は世界全体の中ではケインズ政策の役割を果たして中国やインドの勃興を招いた。賃金格差の活用で先進国経済も有利に展開してきた。それがなくなればこの循環は途絶える。現在は完全なる国際分業体制で、日本はハイテクニッチというポジションを得ており黒字は増加している。JAPAN INSIDEというクオリティは競争相手もなく高く売れる。アメリカの金融の半分を占めていた証券会社、投資銀行はマーケットの意思で一気になくなってしまった。アメリカ経済危機の今後のシナリオは、恐慌か生還かの二つに一つ。大不況、大倒産、そして戦争への道。この論者は多い。資産価格の反発で持ち直すシナリオ。半年から1年で住宅価格が上昇するから半年で大転換。私は後者の説をとりたい。終了後、武者さんを交えて二次会で熱い議論が続く。
2008/10/02
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今日から10月、ということは新しい職場に移って半年だ。今日は、1限と4限が講義、5限がゼミということで、一日中学内を走り回る。1限の授業で、「人物論」を30分ほど講義してみた。今まで私の訪ねた人物記念館250館からいくつかのテーマで数十人の偉人を切り取って、人物を語り、学生たちが自身のモデルを見つける手助けをしようという趣旨である。今回と次回で、「仰ぎみる師匠」というテーマで数人づつ紹介する。今日は、横山大観とその師匠・岡倉天心、会津八一とその師匠・坪内逍遥を中心に解説してみた。学生がどのような興味や反応を示すのか、の実験だった。以下は、終了後のアンケートから。------------------------------------------------・横山大観の話が面白かった。「四時山水」の絵は見たことがなくても説明を聞いただけでよい絵だと思いました。・森鴎外の住んでいた旅館に泊まって歴史を感じてみたい。・岡倉天心に少し興味を持った。・坂本竜馬について調べたい・偉人はなるべくしてなったという感じでそれぞれ努力をしている。・卒論を燃やされてもめげずに臨機応変に対応した岡倉天心はすごい。・卒論が焼かれてもあきらめない精神力に感動した。・話を聞いて興味を持った、色々調べたい。・興味深かった。・横山大観の絵はすごい。・次回の昭和天皇記念館の話を楽しみにしています。・人物記念館を自分の見て回りたい、特に自分と同じ性格タイプの偉人の記念館に行きたい。自分と似た思考をもったい仁がどのような人生を送ったかを知りたい。・記念館に足を運びたい、そして詩や絵を見たい。・自分にとって興味のある人物を探したい。・早稲田大学の歴史は深い。・日本文化を感じたい。・横山大観の関係するどこかを訪ねてみたい。・偉人の歩んだ道のりや歴史を知ることはとても重要であり、自分の人生にも影響を与えるということを再確認しました。冬休みには森鴎外の記念館を訪ねたい、偉人の人生に触れることで自分の人生を豊かにできると思いました。外国の偉人にも興味。・岡本太郎が好きです。記念館に行ったことがありますが、彼の性格はとても独創的で激しいようで、実は落着きがあって大好きです。・「ここはすごい」「自分だったらできるだろうか」など、昔の時代の偉人と自分を対比させることに「より、より一層考えを深めていけるのではないか。・会津八一の「日々、新面目あるべし」という言葉に感銘を受けました。何げなく日々を送るのは非常にもったいない。・横山大観が19歳で芸術家になろうと決意したことに驚きました。そこからどのようにして成功していったかという奇跡を知りたい。・松本清張がすごく気になります。大観や天心などは詳しく知れてよかったです。・興味のある人物がいく人かありました。・横山大観の「四時山水」にはとても興味を惹かれました。会津八一は同じ新潟出身なので親近感がわきました。・名前だけでなくどういう人だったかを知っていきたい。・横山大観はすごい。91歳まで日本人であることに誇りを持ち、油絵、水彩、そして詩など芸術に幅広く通じて続けていることがわかりました、記念館に行きたい。・大観が富士を描いたように日本人の画家は山を描く人が多いということを知った。偉人の多くは影響を受けた人物や物事が必ずあり、なんとなくやっていて成功した人はいないのではないだろうか。・偉人を性格タイプにあてはめながらの解説は興味深い。・会津八一という人を初めて知りました。学問は学校だけでなく色々なところで学べるのだと再認識しました。・会津八一は歌人でもあり書家であるなど様々なことに対して大きな関心を持ちさらにきわめていくところがとてもすごいと思う。・試考錯誤しながら学んでいったのだな。・横山大観の話が一番印象的だった。・岡倉天心の話が興味深い。・画家が長生きする、という話をきいてびっくりしました。「実学」についてもお話は将来の自分のために言い聞かせて勉学しようと思いました。・画家が長生きという話に驚きましたが、好きな仕事をするとそうなるのかと感じました。今、私は就職活動をしているので、改めて考えさせられました。・偉人には師匠がいることに驚いた。師を持ち模倣していくことが成功のための一番の方法だということがわかった。自分も尊敬できる師を見つけ尊敬されるような人になりたい。・名前だけは知っていたが、どういう人だったのか、どういう共通点があるのか分かりました。・全員「志」を持っている。・昭和63年生まれとして昭和記念公園にある昭和天皇記念館に行ってみよう、もっと昭和をしりたい。・興味がわきました。先生のホームページを定期的にチェックします。・生涯尊敬できる偉人を見つけたい。・ちょっとしたエピソードや歴史に触れることで横山大観に興味を持ちました。・有名な人にも目指した先人がの姿があるというのが面白い。・絵描きは右脳が発達するからボケずに、脳が常に健康な状態にあるからこそ長生きできるのかな。--------------------------------------------学生(2年生)は講義の間、静かに聞いていた。過去に生きた偉人の生き方に大いに興味を持ち、自分の進むべき方向のヒントにしようとする学生がほとんどのようである。今後の講義の展開と学生たちの反応がどのようになるか、楽しみになってきた。
2008/10/01
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