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10時56分に新大阪に着いて茨木にある川端康成文学館を訪問するが館内整理のため休館だった。十分な準備をせずにいきなり訪問するとこういうことがある。記念館というのは案外休みが多いから気をつけたい。気を取り直り直して西三荘に向かう。松下電器、今はパナソニック株式会社の本社地区に「松下電器 歴史館 松下幸之助メモリアルホール」がある。ここは創業50周年記念事業として1968年に本店社屋を復元した建物で、幸之助西端100周年の1995年に幸之助中心の展示に変えている。社名変更とブランド統一を断行した大坪社長が、創業時の経営理念の大事さを熱意を込めて、真摯に、そしてなめらかに語っているビデオが繰り返し流れている。このホールには経営の神様と讃えられた松下幸之助(1894-1989年)の言葉が並べられている。最初のコーナーである「何のための営業か」というところには、「5つの添え物」、「セールスマン6つの心得」、「商売戦術30か条」、「人事方針」が掲示されている。また、展示にはポリシーがあって、「何のための営業か」、「何のための人材育成か」、「何のための人材育成か」、「何のための仕事か」、「何のためのグローバル展開か」、「何のためのグローバル展開か」、何のための商品開発か」、「なぜ共存共栄なのか」、「なぜ利益が必要か」、「何のための経営か」と説明の基本がしっかりとデザインされていていい。ハイビジョンコーナーでも幸之助の言葉が語られる。「神の仕事」「聖なる仕事」「難しいお客様はありがたい」「戒めと慰め」「素人になって使う」「娘を嫁にやったようなもの」「損して得とれ」「いっさいがサービスから始まる」「真剣勝負」「損はあり得ない」「物、金、人の心」など痩躯の幸之助の語る金言を聞くことができる。1933年から37年までいた所主室では、「金はすべて国からの預かり物」「松下電器は社会からの預かりものである」、「松下電器の遵奉すべき五精神」、「松下電器基本内規」などが掲示されいて、深く納得する。松下幸之助は哲学、考え方、そしてそれを表現する言葉がすばらしい。「広告は善。良い製品であればそれを人々に知らせる義務が企業にはある」「ものをつくる前に人をつくる」「一日教養、一日休養」「自己観照」「日インゲンというものの教育を怠った」「人使いのコツは誠心誠意以外にない。そして長所を見ていく」「自分自身で自分を育てていかなければならない」「社員はみんな自分より偉い人だった」「命をかけて仕事をしても命はなくなりません」「朝に祈り、昼に活動し、夜に反省する」「断じて行えば解決していく」「産業人の使命は貧乏の克服である」。名言が山のように積まれいる記念館だが、さらにいくつか挙げてみたい。「先ず人間としての良識を養うこと」「商売は世の為、人の為の奉仕にして、利益はその当然の報酬なり」「商人に好況、不況はない。いずれにしても儲けなくてはならぬ」「「よい経営の根幹は人であることを知らねばならない」「世の多くの人たちの生活を一日一日と高めていく。そこに生産の使命というものがある。その尊い生産の使命を果たしていくためには会社に資金が必要である。その資金を利益のかたちにおいて頂戴するのである」「企業は社会の公器である」まだまだ語り尽くせない叡智の泉のような記念館だ。その後、堺市に向かう。前々から行きたかった与謝野晶子文芸館を訪問する。与謝野晶(1878-1942年)については仙台文学館での企画展などで接しているが、生まれ故郷の記念館はどのように扱っているだろうか。今回は、人間・与謝野晶子を観察する。晶子は鉄幹との間に11人の子供をもうけている。24歳で長男光、26歳で次男秀、29歳で長女八峰、次女七瀬(双子)、31歳で三男麟、32歳三女佐保子、33歳で四女宇智子、35歳で四男アウギュスト、37歳で五女エレンヌ、38歳で五男健、39歳で六男寸、41歳で六女藤子。41歳までいつも妊娠状態だったということだろう。これらの子供名づけ親は、上田敏、薄田泣菫、森鴎外、ロダンたちだった。「母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ」。亡くなった日の朝日新聞の記事があった。記事では、詩操では「一世を驚倒せしめ」、明星では「一世を風靡した」、「名著を残し」、評論では「一家をなし」、「一面、女子教育家」だたっとその幅広い活躍を報じている。川田順の追憶では「若くして名をなした天才、、、」「敬服すべき糟糠の妻だった」ともあった。生涯に5万首の歌を詠み、23歌集を出版した与謝野晶子の歌は、「乱れ髪」「火の鳥」「白桜集」などの中に好きな歌がある。「源氏をば一人となりて後に書く紫女若くわれは然らず」消失した源氏物語の現代語訳に57歳から再び挑戦して60歳で全訳六巻を刊行してもいる。いずれにしても晶子のエネルギーは並大抵ではない。
2008/05/31
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東京への帰還を契機に仲間との交流が復活してきた。今日はその第一弾の飲み会が有楽町で行なわれた。その前に少し時間があったので、新宿の損保ジャパンビル内にある東郷青児美術館で行われているモーリス・ド・ヴラマンク展と東郷青児の絵を見て、次に神田神保町の古本屋街を久しぶりに歩いた。今回はJAL時代の上司を囲む会で、メンバーはほぼ全員同世代で当時は30代の前半だったから随分と長く続いている会である。客室本部業務部の業務グループと計画グループで一緒に仕事をした仲間たちだ。気が置けない人たちとの酒盛りは実に愉快な時間で、互いの近況や今後の予定などを確認しあった。来週は郷里の同級生たちとの飲み会が予定されている。書いているのは翌朝の早朝だが、今から新幹線で大阪に出かけるため、長い報告はできない。
2008/05/30
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多摩大学のリレー講座「現代世界解析講座」も今日の寺島実郎さんの講演で6回目を数え、全12回のうち半分が終わった。以下、要点のみ。 * インターネット、1億台に達したケータイ、4万軒を超えるコンビニ(売れ筋情報管理による生モノ販売)等は、情報ネットワーク技術革命の成果である。 * 1969年にできた国防総省のアーパネットが1980年に学術ネットに接続、そして1993年につに商業ネットとリンク、それ以降の15年間は「アメリカが主導してきた軍事技術の民生へのパラダイム転換」と総括できる。 * ネット社会では、「つながる」と同時に「つなげられている」。カーナビ(アメリカの軍事衛星情報)、エシュロン(アメリカが世界情報をモニタリング)。 * ITは社会総体を変えた。軍事(サイバー戦争は目と耳をつぶす戦い)、政治(直接民主主義への限りない予感)、労働(平準化インパクト)、、、 * 産業面では、ITとFT(金融技術)の結婚で、産業のマネーゲーム化が起こった。 * 21世紀初頭のサブプライムローン問題は悪知恵の資本主義。貧乏人にお金を貸す仕組みで、3年たったら金利が急激にアップするが、そのときは買った住宅価格は倍になっているはずで、借金を借り換えることでもっと大きなローンを組むことができて支払が可能になる。これに証券化を組み合わせる。これがサブプライムローン。住宅価格はいずれ落ち着くのだから必ず破綻する理屈で犯罪にも近い。2007年の最新統計によると、雇用者は5561万人。このうちパート、アルバイト、派遣社員、契約社員等の非正規雇用者は雇用者の31%の1732万人。非正規雇用者のうち年収が200万円以下は75%の1302万人。これに自営業者で200万円以下の人(数字は?)と正規雇用者で200万円以下の430万人を加えると2204万人。つまり200万円以下の収入で働く人は労働人口6402万人の34%にあたる2204万人である。年収200万円ということは、時給1000円で必死に働いてもようやく届くか届かないかという数字であり、生活保護世帯の上限の年収でもある。アメリカでは貧困層は年収2万ドルというのが常識となっている。これがワーキング・プア問題である。寺島さんは、誰がやっても同じという部品のような仕事を一生やっていくのかという問いかけをしていて、高度学習社会であるネット社会を生き抜くためには、自分自身を装備していくほかはないとアドバイスをする。全労働者のうち、年収200万以下とそれを超える層は1対2の割合ということになり、超える層においても生活の劣化がみられる。IT革命によって誰でもできる仕事は下方に引っ張られ、かけがえのない能力を持った人はグローバル化の中で上方に引っ張られる。つまり格差が大きく拡大しつつあるということだろう。グローバル化によって途上国の低賃金に引っ張られてますます低くなっていく層と、逆に先進国価格に引っ張られて高賃金を獲得していく層とに引き裂かれていく。そして中間層が下方に引っ張られていく。中間層の厚かった日本の社会が変貌しつつある。これが格差問題である。社会全体の設計の議論も大事であるが、個人としてもこのような社会の中で生き抜くための努力が今まで以上に必要になってきた。最近、私自身にも若い世代向けの自己啓発や勉強法の本の執筆依頼が多くなってきたが、出版界の勉強本ブームには上に述べたような事情もある。私たちの世代の勉強ブームはよりよい生活を求めての動きだったが、今日の若い層は生き残り、サバイバルといった、より切実な動機があるように見受けられる。(写真は、リレー講座を受講したNPO法人知的生産の技術研究会の仲間の、終了後の懇親会)
2008/05/29
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さいたまスーパーアリーナの一角にビートルズのリーダーだったジョン・レノンの記念館がある。このジョン・レノン・ミュージアムは、生誕60年の2000年10月19日にオープンしたということなので、1980年に凶弾に倒れず生きていたらまだ68歳である。パートナーだったオノ・ヨーコの許諾を得た世界初の公認ミュージアムで、オノ・ヨーコ秘蔵のゆかりの品も130点展示されている。9つのゾーンに分かれた立派なミュージズムである。私は音楽は全くの門外漢であり、ビートルズ世代であるにもかかわらず、当時あまり興味を覚えなかった。このミュージアムでビートルズとジョン・レノンを追憶してみたい。ジョン・レノンの創作活動の重要なテーマは「愛(Love)」であるが、1970年にはそれは「リアルであること、感じること、触れること」と定義してあった。少年時代から優れた文章力をみせたジョン・レノンは、「自分に見える世界がほかの人には見えないらしい」と気づき、「僕は狂っているか、天才か、どちらかにちがいない」(I must be crazy or agenius.)と思った。中学上級学年で出会ったプレスリーの「ハートブレイクホテル」で音楽に目覚めたレノンは、「ロックンロールが僕の人生を変えた」と述懐している。16歳の時に一つ下のポール・マッカートニーに出会い、次に3歳年下のジョージ・ハリスンが仲間に入る。空前の大成功したビートルズ。ジョンは「今や僕たちはキリストより人気者だ」と述べて、アメリカでの排斥運動を呼ぶ。暗殺をほのめかす動きに疲れたビートルズはコンサート活動の停止を余儀なくされる。そんな中、ジョンは日本人の前衛芸術家、オノ・ヨーコと出会う。「僕と同じようなアーチストの女の子に会いたいと願っていた。でも。それは夢物語だと思っていた。そんあとき、ヨーコに出会って夢が実現したんだ」。エルヴィスを超えることが目標だっビートルズは「抱きしめたい」などでアメリカのヒットチャートを1位から5位までを独占したが、出演したエド・サリバンショーでは72%という空前の視聴率をあげた。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1967年)は、ビートルズの音楽革命と呼ばれる。4階からエスカレータで5階に昇ると、オノ・ヨーコとの出会いとそれ以降のジョン・レノンの歴史がある。オノ・ヨコは、1933年2月18日生まれ、ジョンより7つほど年上である。学習院大学を出てアメリカのサラ・ローレンス大学に学ぶ。作曲家の一柳慧と最初の結婚、二度目は映像作家のアンソニー・コックスと結婚し、キョーコ(京子)を出産している。「グレープフルーツ」というヨーコの本が展示されている。「この本は読み終わったら燃やしなさい」という強烈なメッセージが書かれており、後の名曲「イマジン」のきっかけとなった。イマジンは、詩がいい。「想像してごらん、天国なんてないんだ」「みんないまこの時を生きているんだ」「「想像してごらん、国境なんてないんだ」「想像してごらん、財産なんてないんだ」「みんなで世界を共有しているんだ」、、。ヨーコと出会ったジョン・レノンは、しだいにヨーコとのより幅広い多様な活動に軸足を移していく。二人は平和を求める若者たちの新しいリーダーになっていく。イマジンについてヨーコは「ジョンの夢の結晶でした。彼の理想主義の結晶がここにあるのです」と語っている。ジョンとヨーコのアートを知るキーワードのコーナーがあり、1.コンセプチュアルアート(コンセプトやアイデアを作品の核にして、言葉、行為、身体、イベント、コンサート、写真、ビデオまでを作品の素材とするアート)、2.前衛フィルム、3.イベント、4.バッグワンの説明がある。ロンドンからニューヨークに移って活動するジョンに対し、アメリカ政府は反体制的人物であるとし、国外退去を命じる。そしてFBIによる尾行や盗聴に苛ままれ、精神的に追いつめられる。1973年にはヨーコと別居し、ロサンジェルスで酒と薬物漬けの「失われた週末」に浸る。1974年にヨーコと再会し二人の生活が再び始まり、二人の子供が生まれる。ジョンはショーンの誕生を機に主夫(ハウス・ハズバンド)に専念する。フィナーレ・ルームでは、透明なボードにジョン・レノンからのメッセージが日本語と英語で多数書かれている。不思議な空間だ。「ぼくが これまで どうやってきたかは おしえられる けど きみが これから どうすかは 自分でかんがえなきゃ」一時間ほどかけてミュージアムをみて、ビートルズとジョン・レノンの名曲の入ったCDと「回想するジョン・レノン」という本を買った。この本はジョン・レノンが30歳のときに行われたロングインタビューをまとめたものである。市場空前の大スターであったビートルズのリーダー、ジョン・レノンが肉声で率直に語っており、実に興味深い。仲間やスタッフについても驚くべき発言が多い。やはり、伝記よりも自伝の方に興味が惹かれる。 * アーチストであることは、すこしも楽しくないですからね。 * 私はアーチストであることに憤慨しています * もうビートルズは信じていないのです、夢は終わりました。 * みんな、どれも、無理なくわき出て来たものです。誰の場合でも、最高の仕事はみんなそうなのです。 * 私たちは、技術的に有能なレコーディング・アーチストいなっていきました。 * 天才であることも苦痛です。ただ単に、苦痛です。 * 私は、ヨーコのほうをとったのです。私の選択は、間違っていませんでした。 * 私たちふたりの関係以上に重要なものは、なにもありません、ぜったいになにも。 * 歌を客観的につくるのではなく、主観的につくりはじめたのです。 * 私たちが忘れているのは、いま、この瞬間を生きる、ということです。持ちこたえていれば、、、、。 * みんなが、まるで泥棒するみたいに、私たちにたかっていたのです、、、 * 私は、すべてを包括したぜんたいのなかにいたいのです。概念とか哲学、生き方、それに、歴史ぜんたいの動きなど、すべてです。 * アイルランドの海のちかくとか、そういったところに住んでいる、すてきな老人夫婦になっていたいと思うのです--狂気のスクラップ・ブックをながめて暮らすというような。ビートルズはヨーコの出現によって終わりを迎えたのだが、ヨーコの次の言葉が印象に残った。「ビートルズとして存在していたために、ジョンは、ほんとうのジョンよりもスケールが小さくなってしまっていたようなものです」ジョンは、ジョンになっていったのである。(参考・引用文献:草思社 1974年『回想するジョン・レノン』 ジョン・レノン 著, 片岡義男 翻訳 )
2008/05/28
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ライフワークとなっている「人物記念館の旅」という観点から都道府県を眺めると、意外な事実に驚くことがある。もちろん東京都は他の都道府県に比べてはるかに多くの人物館があるが、それ以上に多いのは長野県である。また、名古屋のある愛知県もそれなりに多いのだが、不思議なのは大阪府だ。隣の京都府は愛知県と並ぶ数があり、大阪は調べた限りでは6館と非常に少ない。神戸のある兵庫県は大阪府の4倍程度である。大阪は東京の10分の一ほどの数字で、愛知や京都の半分以下で、私のいた宮城県の半分に過ぎない。歴史が古く、人口も多いから、そういうものを残すという雰囲気がないのだろうか。今週末に大阪に行く予定なので、人物記念館を調べている。府の中心の大阪市には全く無い。全て府下にある。東大阪市の司馬遼太郎記念館(すでに訪問済み)茨木市の川端康成文学館高槻市の三好達治記念館門真市の松下幸之助メモリアルホール河南町の西行記念館堺市の与謝野晶子文芸館2005年から本格的に開始した「人物記念館の旅」は、現在までに230館を越えているが、2008年の前半は転職に伴う雑用で精神的にも落ち着かなくてややスローダウンしている。後半からは再びペースを上げていきたい。シンセサイザーの富田勲先生の音楽が流れるNHKの新・日本紀行という番組のタイトルにあやかって、最近は『「真・日本人」紀行』とも呼んでみている。人物館では本物の日本人に会えるから、真の日本人を訪ねて対話するという旅という意味でつけた。テーマ音楽の作曲も依頼しているので、近々ホームページにアップする予定だ。http://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan_list.htmhttp://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan.htm------------------写真は消防訓練の様子。
2008/05/27
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隔週で仙台に通っている。宮城大学での講義と卒業研究の指導のためである。久しぶりに馬渡学長に会った。来年4月に県立大学から公立大学法人に組織形態が変化するので、その準備がたけなわというところだが、相変わらずお元気で陣頭指揮にあたっておられた。学長は大学一の仕事師で、研究科長や学長補佐として仕えた私は人柄と能力と熱意に深く触れ今も尊敬している。40分ほどの時間だったが、大学の状況をお聞きした後、私の東京での近況も報告しておいた。今日の講義では6つの課題を与えた。「裁判員制度」「公務員改革」「デフレ」「財務省」「独居高齢者」「地域自立」で、題材は朝日新聞、日経新聞、日経ビジネスからとった。それぞれの課題のうち関心や興味をもったものを選んで図解するという趣向である。40分ほど取り組んでそのあと30分ほど同じ題材を選んだ人たちと小グループで発表し議論するというやり方をとってみた。若者(大学2年生中心)がどの題材を何人が選んだか、なかなか興味深かった。1位は裁判員制度で50人、2位は独居高齢者で20人、3位は公務員改革で17人、4位はデフレで11人、5位は地域自立で7人、6位は財務省で4人という結果となった。記事のタイトルや中身にもよるのだが、これが現時点での関心の順位である。裁判員制度については、日経ビジネスの「ビジネス世論」というアンケート調査の記事を配ったのだが、賛否はほぼ拮抗していて、賛否それぞれの読者の具体的な声も入っている。また補足で「法の番人はどこへ行く」という丹羽宇一郎(伊藤忠商事会長)氏の議論の記事もつけておいた。発表の時間には白熱した議論が展開していた。最後のアンケートで図解に取り組んで議論をした後、結論として裁判員制度について賛成か、反対かという意見を書いて欲しいと依頼したところ、結果は反対30、賛成8と、導入については厳しい数字になった。水曜日には多摩大学でも同じ題材で授業を行う予定。(写真は仙台の自宅近くの紫山公園。実にきれいな風景だった)
2008/05/26
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先日、シネスイッチ銀座という映画館で「丘を越えて」を観た。一世を風靡した同名の歌謡曲を作詞した詩人・島田芳文を論じた評伝「青春の丘を越えて」(松井義弘)という評伝を読んだ後だったから、興味を持った。島田は私の故郷の隣町である豊前市の出身である。ちなみに作曲は古賀正男である。丘を越えて行こうよ 真澄の空は朗らかに晴れて 楽しい心鳴るは胸の血潮よ 讃えよわが青春を いざ行け遥か希望の丘を越えてこの映画は人気作家であり、芥川賞・直木賞の創設者でもある菊池寛が主人公だった。現代の生活や文化の原型が誕生した昭和初期の物語だ。江戸情情緒の残る東京・竜泉寺に育った葉子は、文芸春秋社の社長・菊池寛の秘書になる。世の中の矛盾を一身に背負った巨人と若い朝鮮出身の編集者に惹かれる葉子との物語である。江戸時代の名残りとモダンさが混在する昭和初期の雰囲気を感じることができる映画だった。菊池寛は高松に生まれ、新聞記者を経て小説家になり、「真珠夫人」で人気作家となる。夏目漱石に代表される芸術至上主義文学に対し、「生活第一」をモットーに大衆文学を掲げ、文芸春秋などの雑誌を創刊し、文壇やジャーナリズムの基礎をうちたてる。賞を創った芥川龍之介や直木三十五をはじめ、川端康成、横光利一、小林秀雄らへの金銭的支援を行っている。「菊池と一しょにいると、何時も兄貴と一しょにいるような心もちがする」と芥川は言っているし、「菊池氏に会うと、何時も、これではならぬと、自分を恥じ、発奮する」と川端は言い、「一流文士で彼に愛情をもたない人は一人もいないだろう」と白洲次郎は語っている。「寛」という名前の通りに菊池は育ったようである。この魅力的な人物像を、名優・西田敏行が好演している。雑誌などで見る菊池寛とそっくりな姿で笑いを誘っている。この映画では「モダン日本」という雑誌を出すシーンがあるが、菊池の創刊の辞では、「モダン・ライフ」という名前で出すはずだったが、内容がうすっぺらになる危険があり、何でも入る「モダン日本」にした、と述べている。菊池寛のセンスを感じるネーミングである。原作は猪瀬直樹、脚本は今野勉、監督は高橋伴明。猪瀬は直木三十五の役で一回登場する。ビジネスマン時代、猪瀬さんにはパーティで、今野さんにはインタビューで会ったことを思い出しながら映画をみた。もう20年以上も前になる。菊池寛生誕120周年、没後60年に贈る文芸大作と銘打っているが、そうすると菊池寛は先日訪れた小泉信三と同じ1888年生まれということになる。菊池は1948年に60歳で亡くなっているのに対し、小泉信三は戦後も重要な役割を果たしている。菊池のような人物があと20年も生きたらどのようなことを成し遂げただろうかと想像する。菊池寛は遠い歴史上の人という印象だが、小泉信三はそれほど遠いという印象は受けない。人物をみる場合、生年よりも没年の方が大事だ。
2008/05/25
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ベストセラー著者・出版社・NGOの三者連携による世界の難民・被災民の教育支援、自立支援プログラム「Chabo!」(チャリティ・ブック・プログラム http://www.jen-npo.org/chabo))が5月に始まった。参加する作家たちは著作の受取印税の20%をNPO法人JENに寄付し、それが世界中の難民・被災民の教育支援・自立支援に使われる仕組みである。読者は「Chabo!」マークのついた本を買うことによって、このプログラムへの寄付ができるということになる。この行為を通じて世界の広さ、命の尊さ、教育や自立支援の大切さを実感できるようになり、世界が広がっていく。作家たちは本業である著作を活動を通じて自著の印税収入の一部を提供する社会貢献活動によって、読者と同じように成長していく。こういう新しいプログラムだ。JEN(http://www.jen-npo.org/)は、1994年に設立された日本の国際支援団体で、過去14年間に16カ国で130万人を超える人々を支援しており、現在は、アフガニスタン、イラク、パキスタン、スリランカ、南部スーダン、新潟で支援活動を実施している。私もある縁でこのプログラムに参加することになった。本業を通じて無理なく社会貢献をするという私の考え方にあっているし、東京に出てきてきた記念として参加することにした。参加している著者は、「効率が10倍アップする!新・知的生産の技術--自分をグーグル化する方法」」の勝間和代さん、「はじめての課長の教科書」の酒井穣さん(オランダ在住)、「世界No.2セールスウーマンの「売れる営業」に変わる本」の和田裕美さん、「ビジネスマンのための「発見力」養成講座」の小宮一慶さん、「投資信託にだまされるな!本当に正しい投信の使い方」」の竹川美奈子さん、「論争 日本のワーク・ライフ・バランス」の山口一男さん(シカゴ在住)、そして「図で考える人は仕事ができる」の私だ。Chabo!推進委員会は、ジャーナリストの福沢恵子さんが委員長で、作家の人選や広報活動を行っている。このプログラムへの参加を巡って勝間和代さんと、電話やメールで何度かやりとりをしたが、熱意と誠意をもって進めていると感じた。6月に出す「図で考えれば文章がうまくなる」(PHP文庫)と7月刊行予定の廣済堂出版の新刊から、このプログラムに参加することにした。本日、PHPからこの文庫の見本が届いた。残念ながら間に合わなくて「Chabo!」のマークはオビに入ってはいない。どのような展開になるか、楽しみである。
2008/05/24
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浦和にある埼玉県自治人材開発センターで県職員研修の講師を務めた。その前にさいたま新都心にあるさいたまスーパーアリーナの一角にある「ジョンレノン・ミュージアウム」を訪問する。オノ・ヨーコの正式な許諾を得た世界で初めての公認ミュージアムである。生誕60周年にあたる2000年にオープンした。この研修は昨年も依頼されたのだが、スケジュールがあわなくて今年やっと実現したものだ。主査研修という名前だ、主査とは係長級という意味で、今回の受講生はこの4月に主査に昇任した県職員である。300名近くの対象者がリストに載っている。一日のスケジュールは、上田清司埼玉県知事の「講話」、弁護士の「公務員倫理」、福祉センター主幹による「メンタルヘルス」、そして私の「意識改革」となっている。企画財政部、総務部人事課・文書課・税務課、県税事務所、県民生活部、男女共同参画推進センター、環境管理事務所、総合リハビリテーションセンター、児童相談所、福祉総合センター、保健所、県立大学、産業労働部、産業技術総合センター、職業能力開発センター、農林振興センター、農業大学校、県土整備部、都市整備部、下水道事務所、議会事務局、がんセンター、財務課、義務教育指導課、生涯学習文化財務課、人権教育課、げんきプラザ、高等学校、住宅供給公社、道路公社、、などあらゆる部署が並んでいる。公務員の職掌は実に広いと改めて痛感する。主査クラスといっても職場によって肩書は様々である。担当課長、専門研究員、主任職業訓練指導員、課付、指導主事、管理主事、事務長、主任司書、、、、。終了後の自由記述のアンケートを読むと、私の著書を読んでいる人がいることもわかった。「久恒先生の本、図解シリーズは3冊読んだことがあります。仕事を進める上で参考にしていましたので、今日は直接お話がきけて感動しました」(教育事務所)「通勤の本、先月偶然読んでいました」(税徴収関係9「「図で考える人は仕事ができる」を参考書に主査試験の試験勉強をしました。ドラッカーの著作も近々拝読したいと思っています」(県税事務所)「ちなみに「残業はするな」は持っています」(高校)「先生の御講演を楽しみにしておりました。「通勤時間超活用術」を読まさせていただきました。先生のご指導の通り、BOX席に座り、手帳を広げたり読書をしたりしております」(教育関係)「「図で考える人は仕事がでkる」とその「実践編」は以前より参考にさせていただいておりましたおで、本日の御講演は楽しみにしておりました」(家畜保健衛生)「自宅パソコンのインターネットのお気に入りに先生のホームページが入っております」(県土整備)2時間という、講演としては長い時間だったが、聴衆の反応はそれなりの手ごたえがあった。
2008/05/23
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大阪で行われた大手銀行系シンクタンク主催の研修会の講師をつとめるため前日深夜の新幹線で入った。太閤園という庭の見事な会場である。銀行の取引先であるオーナー系の中堅企業・中小企業の若手経営者、後継者の会、今回は平均年齢は40歳前後だった。60人ほど。売り上げ規模は数億から200億までの企業。設備工事業、道路貨物運送業、繊維関連卸売業、食品関連卸売業、不動産業、化学工業、窯業・建材関連卸売業、機械・器具卸売業、一般機械器具製造業、建物サービス業、香料製造業、窯業・土石製品製造業、出版・印刷・同関連産業、食料品・飼料・飲料製造業、映画・ビデオ・音楽製作業、金属製品製造業、繊維工業、鉄鋼業、倉庫業、情報サービス業、エネリギー・金属関連卸売業が、業種の中分類である。役職は、取締役購買部長、代表取締役社長、取締役製造部長、次長、営業担当、常務取締役、取締役マーケティング本部長、取締役部長、営業見習、専務、取締役総務部長、取締役業務推進部長、生産技術部長、管理部長代理、常務総務本部長、、、。昼食時は、主催シンクタンクの副社長、後継者選出に悩むオーナーらと食事をしながら歓談。もう一人の講師の酒造会社のオーナーからの全員へのプレゼントである「純米大吟醸 玉乃光」(備前雄町)をお土産にいただいた。また「士魂商才 続・酒造入門」(宇治田福時)」という出版物ももらった。大吟醸を飲みながらこの本を読むのが楽しみだ。終えて5時の新幹線で東京に戻った。7月にかけて、名古屋と東京でやはり地元の企業経営者を対象にした会が催される予定。
2008/05/22
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NPO法人知的生産の技術研会(http://tiken.org/)の機関誌「知研フォーラム」も301号となった。総ページ数は188頁とずっしりとした感触だ。内容も充実している。講演録「2008年の世界潮流を予測する」・基本資料 寺島実郎図解・脳力のレッスン 常富博史知的生産と知的道楽 加藤秀俊情報産業基礎理論? 加藤栄一私が童話作家になれた、その方法 溝江玲子楽しい事典の話6 高階時子村木多津男のユーモアページ チベットの旅とデモ騒乱事件 近藤節夫イスラム研究 八木哲郎イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 八木哲郎地域経営における教育 海野進JIフォーラム 医療はこう建て直すセミナー案内 副島隆彦「連鎖する大暴落」(6月20日)人物記念館の旅 樋口一葉・東山魁夷 久恒啓一日経記事「人物館 見えた縁の糸」 久恒啓一私のキャリア「整備士のプラスアルファー2」 小林尚衛------------------------------------------------------今号では、高階時子さんの「「楽しい事典の話6」--夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨、みんな同じ年の生まれだって?」が面白かった。以下の書物は手に入れたい。日本史人物生没年表(日外アソシエーツ)世界史人物生没年表(日外アソシエーツ)日本人物在世年表(上園政雄・吉川弘文館)人物物故大年表(日外アソシエーツ)年譜年表総索引(日外アソシエーツ)
2008/05/21
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新出安正さんという仙台の友人が本を出した。新出さんは自費出版の会社を起業し35年間にわたり維持し、多数の出版物を世に出してきた。最近の大手自費出版社の詐欺問題などもあり、この業界も揺れている。そこで、自費出版のための本を急遽書いたというわけだ。新出さんは、平成10年に自費出版専門の「あゆみの図書館」を開設している。それまでつくり続けてきた1700冊余の作品が並んだのだが、それから10年たって他所からの献本3500種類を含め、現在では約7000種類の本が陳列されている。そういう素晴らしい社会貢献事業も行っている人だ。今回の本の出版にあたって推薦を依頼されたので、原稿の段階で読んでみて推薦文を書いた。先日その本が自宅に届いた。全国の図書館に寄付するという。本のタイトル「本を出したいあなたへ 楽しい自費出版 のススメ」発売 星雲社発行 創栄出版http://www.soei.cc/「出版という事業には『志』が伴っていなければならない。本書は、35年間の豊かな経験と実績を持つ志士・新出安正さんが自費出版の意義と出版社のあるべき姿を綴った力作である。 自費出版を希望する人にも、この業界の人にも一読を薦める。 多摩大学教授・宮城大学名誉教授 NPO法人知的生産の技術研究会理事長 久恒啓一」もう一人の推薦者は、中山千夏さんだった。作家で参議院議員だったが、今回の肩書は「NPO法人日本自費出版ネットワーク代表理事」。目次第1章 生きた証を残したい第2章 本にしたいが悩み編第3章 いざ実践編第4章 感謝の手紙第5章 あなたの本が文化を創る第6章 創栄出版を知って頂きたい第7章 NPO法人日本自費出版ネットワークの取り組み第8章 自費出版 ア・ラ・カルト
2008/05/20
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小泉信三という人物は、1888年(明治21年生まれ)で没年は11966年(昭和41年)で、全集は死去の翌年から開始され1972年に28冊で完結しているから、この人物の放つ香りは私も嗅いでいたということになる。死去の年に公刊された「海軍主計大尉小泉信吉」は話題になり読んだ記憶がある。戦争で亡くした最愛の息子へのメッセージがつまった本だった。信三の父は小泉信吉という名前だった。読み方は「ノブキチ」だが、父を早くに亡くした信三は、息子に同じ漢字の名前をつける。こちらの方は「シンキチ」である。45歳から59歳までの14年間にわたり慶応義塾の名塾長として活躍した人物だが、この人の生涯のテーマは「福沢諭吉」だった。信三の二女で随筆家の小泉妙は「福沢先生は父の恩人、父のすべてでございました。父の一生は、先生と慶応義塾への恩返しであったと思います」と「報恩の一生」というタイトルのあいさつの中で語っている。福沢は父の恩師であったが、父の早世のため一家は福沢の邸内に住むことになり、福沢にも接した。福沢が日課としていた米つきや庭での居合の練習に励む姿を見たことがあると儒家記しているが、福沢が没したとき信三は12歳でありその偉大さをわかる年頃ではなかったことを終世嘆いたという。田町駅から少し歩くと三田の慶応義塾大学がある。校舎の下をくぐって階段を登ると庭に出る。学生たちが思い思いに過ごしている庭を横切っていくと古い建物が目に入る。小泉信三が館長をつとめたことのある旧図書館である。ここで「生誕120年 小泉信三展」が開かれていた。入口の左に小泉の全身をあしらった看板が立っており、その横に福沢諭吉の胸像がまっすぐに前を見つめている。古い階段をのぼると大きなステンドグラスが目に入る。「ペンは剣よりも強し」というラテン語の文字とそれをあらわしたものだそうだ。小泉信三はテニスに没頭する少年だった。「小泉の後衛は間断する処なく熱球の飛ぶこと銃丸よりも強く」「水も洩らさぬ衝立」と時事新報の記事は伝えている。大学部に進むと学問に傾倒していく。20歳のころを振り返って「運動家が勉強家になった年」だと述懐している。大学部政治科を総代で卒業し、そのまま教員に採用されるが、2年後海外留学を命ぜられ、ロンドン大学、ベルリン大学、ケンブリッジ大学などで4年間学び、28歳で帰国後慶応義塾大学部教授となる。以後17年間は学者として授業と著述に専心する。自宅で学生と語り合った「木曜会」、10年にわたる庭球部長として庭球王国慶応をつくった小泉は、自身の教育者的資質に目覚めていく。「自分は青年に興味を持つ人間だ」と「庭球部と私」の中で語っている。45歳になった小泉信三は塾長に選ばれ、その後14年間に亘って慶応を飛躍させる原動力となった。日吉キャンパスの開設と大学予科の日吉移転、幼稚舎の広尾天現寺への移転、藤原工業大学の創立と義塾への寄付(理工学部)を実現した。戦時色の強まる中、福澤諭吉を国賊とする軍部の圧力に抗し、大ホールの着流し姿の福沢像の撤去要請に応じないなど、慶応を守り抜いた。小泉信三は大男で、どの写真を見ても一頭ぬきんでている偉丈夫ですぐにそれとわかる。製紙王と呼ばれた藤原銀次郎は「すぐに役に立つ人間を作る」大学を目指した小泉とは意見が違ったが、初代学部長谷村豊太郎は「すぐに役立つ人間はすぐに役に立たなくなる」と主張し、小泉と息が合った。小泉の「塾長訓示」が掲示されていた。1.心志を剛強にし容儀を端正にせよ。1.師友に対して礼あれ。1.教室の神聖と校庭の清浄を護れ。1.途に老幼婦女に遜れ。 善を行ふに勇なれ。慶応の歴史の中でも抜きんでた名塾長だった。展示されていた塾長時代の机は最近まで歴代の塾長が使っていたことが証明している。小泉の塾長姿を思い浮かべながらその後の塾長たちは重責を果たしていったのだろう。塾長退任後は、文筆活動を開始する。人間を幸福にするもの。 一は、吾々の行動を導く何等かの道徳的基準、二は、よき家族と友、三は、己の存在を有意義ならしめる何等かの仕事、四は、或る程度の閑(レジャー)とその閑の或る使い方、これである。このグレイの言葉を最初のエッセイ連載で紹介している。心に響く言葉だが、こういうエッセイは人気があった。小泉は東宮御教育参与という重責を依頼される。皇太子(現天皇)の教育係である。小泉は、皇室は政治社外に高く仰ぐ存在とするべきことを説いた「帝室論」(福沢諭吉)や「ジョージ5世伝」を用いて講義をしている。ジョージ5世は「義務に忠実なる国王」であり責任と負担ばかり多く、慰楽と休息の少なかった姿を学ぶことは、「殿下を、一面において励まし、他面においてお慰めするであろうと思う」と述べている。天皇という地位の重みを感じる言葉だ。皇太子殿下御成婚に小泉は大きな役割を果たしている。軽井沢のテニスで実った恋と言われた当時の写真があった。前衛の皇太子、相手側の後衛は美智子嬢である。この皇太子が逆転負けを喫した試合も小泉はみている。皇太子の家庭教師であったヴァイニング夫人にあてて書いた御成婚の知らせの英文を読んだが、嬉しい知らせと美智子さんの美しさ、立派な性格、知性の高さを説明している。皇太子夫妻の署名入りの写真が贈られており、両殿下との深い交流を感じさせる。ヴァイニング夫人は「博士の温かい人粗、ユーモアの感覚、忠誠の心、勇気ある態度、俊敏なる知性、或いはまた偉大なる政治家の資質にも比すべき、未来を展望する想像力、そして多くの友人たちに対するたぐい稀なる包容力」と小泉を評している。この言葉に尽きる感じもする。最愛の息子・小泉信吉は、南太平洋で戦死する。戦死を知らせる電報と出征の時に送った言葉が並んで展示されていて涙を禁じえなかった。「吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。---同様に、若しもわが子を択ぶということが出切るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言われるより以上の幸福はない。-----また、吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。 信吉君 父より」戦後、私家版として300部印刷された「海軍主計大尉小泉信吉」は、幻の名著といわれたが、没後に出版され、ベストセラーになった。私はこの本を大学時代に読んだのだ。慶応関係者を中心に会場はにぎわっていた。深い感銘を受けながら尊い時間を過ごした。帰りに「青年小泉信三の日記 東京・ロンドン・べりリン」と「読書論」を買う。一昨日読み終わったが、味わいの深い名著だった。・いやしくも読書を志すものは、読書の用意と計画を持たねばならぬ。そうしてその計画の中に、つとめて多くの古典を入れよ・つとめて古典を読むことと共に、私はつとめて大著を読むことを勧めたい・一の書籍の思想を一の全体として、個々の部分を全体に対する適当の比例において受け取るため、再読三読はぜひとも必要である・読書は大切であるが、それと共に自分の目で見、自分の頭で考える観察思考の力を養うことが更に大切である・「返す返すも六かしき字を弄ぶ勿れ」(緒方洪庵)と戒め、福沢は「深く之を心に銘じて爾来曾て忘れたることなし」と書いている・吾らの問題を暗示するものは情の任であって、これを解決するのは智の任である。、、、智の第一に占むべき位置は、社会的同情の婢僕たること」(コント)小泉信三は、「戦争と平和」「風と共に去りぬ」を読むことを薦めている。まずは学生時代に途中で投げ出した「戦争と平和」に再度挑戦することにしようか。
2008/05/19
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調布市での不発弾処理が予定されていた日曜日。京王線の一部が運休するので人はあまり多くはないだろうという予想して高尾山に行く。8つのコースがあるが、ケーブルカーで登り歩く距離が少ない1号路をたどることにする。31度18分という急勾配のケーブルカーは日本一の角度だそうで、座っていても前につんのめりそうになる。舗装された山道は危険はなく、高齢者も気楽に登っている。599メートルの頂上は公園になっていて、老若男女が多数昼食を食べている。ここからは富士山がきれいに見えるのだそうだが、春霞でみえなかったは残念。名物のとろろそばを食べる。帰りは4号路の山道を降りていく。途中で登りのひととすれ違ったがこの登りは結構なきつさだろう。途中吊橋があり写真を撮っている人も多い。見事な新緑を楽しめた。写真は天狗。参道にある店で「つもり違い十か条」が目に入った。 高いつもりで 低いのは 教養 低いつもりで 高いのは 気位 深いつもりで 浅いのは 知識 浅いつもりで 深いのは 欲の皮 厚いつもりで 薄いのは 人情 薄いつもりで 厚いのは 面の皮 強いつもりで 弱いのは 根性 弱いつもりで 強いのは 我 多いつもりで 少ないのは 分別 少いつもりで 多いのは 無駄「厄年を過ぎた御信徒の皆様へ」も面白い 六十歳の厄年を過ぎたなら 一年・一年を 何十歳を過ぎたなら 暑さ・寒さを 八十歳を過ぎたなら 春夏秋冬を 九十歳を過ぎたなら 一日・一日を 気を付けられ日々を大切に円満にお暮らし下さい。新宿から45分で到着する高尾山は、フランスのタイヤメーカー・ミシュランのガイドブックでも高い評価を受けている。料理で東京のレストランが格付けされたのは記憶に新しい。ランク付けは、3つ星はそのために旅行する価値がある卓説した料理、2つ星は遠回りしてれでも訪れる価値がある素晴らしい料理、1つ星はそのアテゴリーで特に美味しい料理という定義だ。観光地の場合は、3つ星は「必ず見るべき」、2つ星は「とても面白い」1つ星は「面白い」というようになっていて、日本の観光地で3つ星は、松島、日光、東京、高山、姫路城、京都、奈良、上野で、山では富士山と高尾山が入っている。富士山と並ぶとは凄いことだ。テレビで富士山の特集をやっているのをみたが、この霊峰に魅せられる人が多いことに納得した。高尾山は、東京近郊であること、体力に応じていくつものコースが用意されていて、一番楽なコースは高齢者でも楽しめるように舗装されていること、途中で茶店やレストラン、休憩所がかなりあることなどが評価されたのでないだろうか。ミシュラン効果で、高尾山口駅の利用者hは2007年度は前年対比で12%増の110万人に達したそうだ。若いカップルと外国人が大きく増えているとうい。確かに欧米人やアジア系の人も多く見かけた。
2008/05/18
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多摩大学では土曜日に教授会をはじめ行事が多い。本日はまず朝9時から、修士論文予備審査会。9月終了予定者の修士論文を発表しアドバイスを受けるという会だ。一人当たり30分の時間をとり発表と質疑を行う。審査側の教員は一教室5人。医療メーカーの新興国戦略、フロントラインのワークモチベーション、フードコミュニティのマネジメント、ワークモチベーションの経済的価値分析、安全創造のためのソーシャルマネジメント、というテーマで発表を聴いたが、それぞれ興味深かった。進んでいる人、遅れている人、など様々だが、何とかパスするまでのレベルに達して欲しい。12時からは、大学院経営情報学研究科委員会。大学院のあり方、方向についての議論。13時からは、野田学長代行を囲んで大学院の方向性についての議論。14時。仙台から見えたNPO法人キャリア開発研究機構の横野専務理事と打ち合わせ。15時。自宅にて、横野さん、NPO法人知的生産の技術研究会の八木会長、秋田事務局長とで知研関係の打ち合わせ。16時。仙台からパソコンのネットワーク設定のため平山君が現れる。18時45分からは、永山で開かれた大学院院生会主催の「2008年春学期名刺交換会」に参加する。現役の院生(博士・修士)中心だが、大学院の同窓会は700人を超える団体で、非常に活発だと聞いている。雰囲気のいい会で、私の授業の受講者も多く楽しく歓談した。私の出身のJALの若い社員も院生にいて二人で話し込んだ。
2008/05/17
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三田の慶応義塾大学の旧図書館で開催中の「生誕120周年記念 小泉信三展」を観て、この人物の生き方に深い感銘を受けた。小泉信三は、若き日には「慶應の麒麟児」、戦後は「日本の良識」、そして没後は「勇気ある自由人」と呼ばれた。この企画展は、「父の肖像」、「よく学びよく遊ぶ」、「常に学生と共に在る」、「善を行うに勇なれ」、「勇気ある自由人」、「愛の人」、「終焉と継承」という七部構成で全生涯を説明している優れた展示だった。慶應の関係者らしき人が多数訪れていた。この空間で尊敬と涙の交差する深い時間を過ごした。帰りに「読書論」(岩波新書)と「青年小泉信三の日記 東京-ロンドン-ベルリン」を買う。詳しい報告は別途書く予定だが、ここでは慶應義塾の元塾長をつとめた小泉信三(1888-1966年)の残した、あるいは用いた言葉のみを記しておきたい。母校を愛するものは国を愛す善を行うに勇なれ我より古(いにしえ)を作(な)す人間を幸福にするもの。 一は、 の行動を導く何等かの道徳的基準、二は、よき家族と友、三は、己の存在を有意義ならしめる何等かの仕事、四は、或る程度の閑(レジャー)とその閑の或る使い方、これである。(グレイ)練習は不可能を可能にする福沢の教えは、人間の尊厳、科学的精神、日本の独立。独立の気力なき者は国を憂うこと深切ならず(学問のすすめ)吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。---同様に、若しもわが子を択ぶということが出切るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言われるより以上の幸福はない。-----また、吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。 信吉君 父より----------------その足で、両国の江戸東京博物館で開催されている特別展「ペリーとハリス 泰平の眠りを覚ました男たち」と常設展「山本寛斎、日本の美 熱き心展--寛斎主義」を観る。隣の両国国技館では大相撲五月場所が開催されていて、相撲取りがゆったりと歩く姿を見かけた。
2008/05/16
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今日は品川キャンパスで会議があり、残念ながら多摩大学リレー講座の4回目の沈才彬教授の「中国の台頭と世界の潮流」のお話は聴けなかった。会議の資料によると4月24日の私の「現代世界のつかまえ方--図解思考のすすめ」は、一般受講者219名(出席率83%)、学生数378名(出席率93%)で、合計は597名で出席率は90%だった。社会人については当日回収したアンケートを読んでまとめてみた。また学生にはレポートを課しており担当の先生が評価をつけるというしくみになっているが、その内容も本日見せてもらう機会があった。378名の厚いレポートを読むのもひと仕事だ。社会人と学生という世代の離れた受講者の感想はそれぞれ面白かった。学生の反応は「よくわかった」から「難しくわからなかった」までバラエティに富んでいる。また社会人は経験豊かなだけに感想だけでなく質問や反論が書いてあるのが特徴だ。私は今まで講演や講義の際には必ずA4の白紙を使って自由記述式のアンケートをとっている。感想や苦情をいただくことで「顧客満足型講演」を目指してきた。講演が終わってその場で回収したアンケートの感想を読みながら帰るが、仕事が終わった安堵感の中で成果を味わうその時間が好きだ。宮城大学時代の11年間で講演は400回を数えるが毎回いただくアンケートで励まされもし、反省、改善のヒントも多くもらってきた。そのアンケートは毎回ではないが帰宅後A4数枚にまとめてホームページにアップしてきた。改めてみると2003年からそういうことをしてきたが、今日は久しぶりに多摩大リレー講座の社会人受講者の感想のまとめをアップした。今まで方々で行った講演のアンケートのまとめの最新のコーナーにあり、○印をクリックすると内容を見ることができる。http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/kouen/kouen-list.htmhttp://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/kouen/2008/080424-relay.pdf大学での講義については宮城大学時代は最後の10分間に全講義毎回アンケートをとり、次回に数枚のまとめを配り、授業の冒頭の10分間に書いてある質問に答えるというやり方をずっととってきた。11年間の全受講学生数は2607名(http://www.hisatune.net/html/01-kyouiku/kougiweb.pdfの5ページ目)だから、これに講義回数12回をかけると3万枚のアンケートをもらたっという計算になる。このアンケートをまとめた紙は正確には数えてないが、3枚X12回X3科目X10年=1080枚という計算になるから、アンケートのまとめは1000枚を超えている筈だ。このホームページ内にあるが、これも私の宝である。
2008/05/15
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朝9時からの講義(「マネジメントデザイン」、午後の来客(P出版社)、ホームゼミの後、夕刻からゼミ生(2年生)との初めての懇親会を聖蹟桜ヶ丘駅周辺(京王線)で開催。いろいろな話がでて楽しく歓談できたが、今後のゼミの方向が定まったのは収穫だった。私自身は春学期は慣らし運転で秋学期から本格的にプロジェクトに取り組もうと考えていたが、暖めていたアイデアを話してみたら、ゼミ生の関心と意欲が予想以上に強く、これならやれそうなので、早速取り掛かることにしたい。目をつけていた多摩地域のある施設をターゲットに現地調査を行い、最終的にあるべき姿を提言をするということになる。あまり重いテーマではないので最初のプロジェクトとしてはちょうどいいレベルだと思う。大学、地域、歴史、行政、市民の交わったところにあり、ある程度深みのあるテーマであり、フィールド調査もあるので学生と一緒に楽しめそうだ。
2008/05/14
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「ヒトもうけして20年--仙台はなもく七三会のヒ・ミ・ツ」という小冊子が仙台放送の志伯さんから届いた。平成元年(1989年)に発足した異業種交流の人的ネットワーク、勉強会兼懇親会だ。会員は、サラリーマン、主婦、自営業、建築家、デザイナー、商店経営者、ジャーナリスト、教師、大学助手、文芸家、ミュージシャン、議員、公務員など多彩な人々が名を連ねている。この会の素晴らしいところは、ほぼ毎週(木曜日)出勤前の朝7時半からの勉強会を20年続けてきたことだ。会員はその後、それぞれの職場に散っていく。この会が仙台に与えた影響の深さは計り知れないと思う。「呼びたい人より呼べる人」というモットーで呼んだ講師の名簿の一覧を見るとまさに壮観だ。新川達郎、西沢潤一、藤井黎、本間俊太郎、出雲幸五郎、加藤哲夫、関口怜子、亀井文造、志伯知伊、平間久雄、牛尾陽子、浅野純子、森山雅幸、愛知洵子、平賀ノブ、小野寺五典、奥山恵美子、紅邑晶子、今野東、千葉真知子、穴澤鉄男、田崎忠行、横山英子、半田康延、松良千廣、半田智久、宮原博通などおつきあいのあった懐かしい名前が並んでいる。2000年6月29日には私も「インターネット時代の自己表現術」というテーマで会場の仙台駅のメトロポリタンホテルで話をしているが、朝早いこともあって印象に残っている。毎週の朝食勉強会を20年という長い年月にわたって続けてきたというのが凄い。この冊子も歴史、イベント、遊び、そして目指したもの、続いた理由、はなもく流儀(スタイル)など、よく編集されている。それぞれが書いた文章の洒脱さ、タイトルのつけ方、「はなもく四季譜」というテーマ春夏秋冬の遊びを追ったつくり、など実に凝っている。相当な腕利きが時間をかけてつくった冊子であることは間違いないだろう。そういった遊び心がこの冊子を貫いていて楽しい。私が関与している知的生産の技術研究会も38年目に入ったが、毎月のセミナー中心できたから、毎週開くことの苦労はよく理解できる。会場選定、講師への依頼、会員への連絡と人数の確保、イベントの企画、、、、など。そしてこういう活動を繋げきって、ともし火をともし続けているのは快挙だろう。20周年を記念してこういった優れた冊子をつくったことで、この会はよき伝統を再活性化していくに違いない。まち起こし、地域起こしの優れたモデルだと思う。遊び心の豊かな人たちの金字塔である、と絶賛しておこう。こういう人達と繋がって生活していた幸せを改めて味わうことになった。皆さん。お元気で!仙台はなもく七三会のホームページ:http://www.asahi-net.or.jp/~uy5t-ssk/index_j.htm
2008/05/13
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土曜日は教授会があり、その後同僚たちと話をしているうちに夕方になった。日曜日は雨の中を朝早く家を出て、東京駅7時36分の東北新幹線「はやて」で仙台へ。9時17分に到着。富田秀夫さんのベンツが待っていて、そのまま西仙台カントリークラブへ。東京は雨だったが、仙台は霧雨状態だからゴルフはできる。富田さんが社長をやっていたリコーの元部下の斉藤さんと3人で回った。前半52、後半44でグロス96という私にしては好スコアがでた。2年ぶりかなあ。お二人に感謝。夜は宮城大のトヨタ自動車東北に内定した私のゼミ生のお祝いの会を国分町で開催。内定したゼミ学生のお祝いと、ある人気企業に内定をしたが迷いのある学生へのアドバイスが中心だった。「この企業でなくてゃならないということはない。縁のあるとこところに入り、力をつけよ」というのが私のスタンスだ。翌日月曜日は、自宅から近い仙台ロイヤルパークホテルまで歩いて行って朝食。天気がよく自宅の周辺の緑がきれいで、途中の白いつつじの花がまぶしい。コーヒーを頼んだが後から「カフェオレにしますか?」との挨拶があった。私の好みを覚えてくれていたのは嬉しかった。また、歩いて大学へ。守衛さんから「先生、久しぶりですね!」と挨拶された。大学では9時からはホームページの打ち合わせ、10時45分からは出版関係の打ち合わせ。そして12時50分からはビジネス情報論の講義。14時半からは卒業研究の指導。17時26分の新幹線で仙台から東京へ。この間に、音楽関係の本を二冊読んだ。多摩大の同僚教授となった樋口裕一さんの「頭がよくなるクラシック入門」と小泉純一郎元首相の「音楽遍歴」だ。両方とも音楽遍歴の本だが、前者は音楽にはあまり縁がなかった私には参考になる内容だった。また後者は小泉さんのクラシック、オペラ、エルヴィス、モリコーネなどの遍歴をつづったもので、いくつかサミットの時の音楽会の話題も楽しめる。これを機会に音楽に入っていくことにしようか。
2008/05/12
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斉藤孝と梅田望夫という同年の現代のカリスマは、それぞれ世の中に大量の信奉者がおり、集まってくる情報の量と質が高くなっているから、すでに見晴らしのよい峰の頂にいる。そしてその高みから見える風景のあり様を発信しているが、二人が見ている景色は微妙に違う。見えている世界が違うから「志」の中身も違ってくることになる。斉藤孝は「深海魚」である。深海魚と出会えるくらいに深くもぐらなくては、物事は身につかない、もぐるまでの期間の手前で浮かび上がっている人が多いと指摘する。深いところに生息しているから誰にも見えないものが見える視力を持っているのだろう。深海魚は水圧に耐える力が必要だ。新渡戸稲造が「井を掘りて今一尺で出る水をほらずに出ぬといふ人ぞう(憂)き」という言葉とダブる。一方の梅田望夫は炭鉱の「カナリア」であると自分の役割を認識している。いちばん先頭に行って何かを感じ、察知する役目だ。カナリアは先頭にいるので常に危険と背中合わせだが、その声には誰もが耳を傾ける。特に未来の暗闇を覗こうとしている人には響く。二人の特徴をやや戯画化しながら以下に挙げてみる。役割:教える人(斉藤)と育てる人(梅田)志:現在を変えるという志(斉藤)と未来を創るという志(梅田)住んでいる世界:リアル(斉藤)とネット(梅田)武器:三色ボールペン(斉藤)とウェブ技術(梅田)照射する対象:過去(斉藤)と現在(梅田)大衆と群衆:大衆を指導する(斉藤)と群衆とともに歩む(梅田)人物判定:履歴書(斉藤)とブログ(梅田)生活スタイル:柔軟路線(斉藤)と原則主義(梅田)
2008/05/11
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梅田望夫の対談本の第3冊目は、同じ1960年生まれの斉藤孝との対談である。このブログで何回かに分けて、感想をしるしていきたい。私は3年以上にわたって「人物記念館の旅」を続けている。対象となる偉人は明治・大正・昭和という近代から現代の時代をメインと定めているのだが、結果として圧倒的に明治時代の偉人が多いことに気づく。斉藤孝も梅田望夫も明治時代に関心が高い。イギリス社会の成り立ちを知ろうとすればビクトリア時代を調べると実りが多いように、どのような国であれその国の最盛期にいたる過程で社会の骨格がつくられるから、近代日本の場合は明治に着目するのは自然なことなのだろう。偉人伝の読み方として斉藤孝は「その人が、どういうふうに学んだのか」をポイントとしている。梅田望夫も「学び続けることの大切さ」に行き着いている。学び方が人の将来を決めるということなのだろう。長くビジネスマンの勉強会である知的生産の技術研究会という装置を持って各界で一流の実績を挙げた人の話を随分と聞き続けてきたが、その人物が到達した世界そのものよりも、どのように学んできたのかという姿勢や方法に着目してきた。どのように彼らは学んできたのか、その方法や技術に関心があった。私淑、縁、志、、、、。こういったやや古い言葉が対談で出てくるが、私の「人物記念館の旅」においても修養、鍛錬、研鑽という時代遅れと思われる言葉が浮かび上がってくることを経験している。明治を創った人々を育んだ私塾という世界は、学びの中で人物を磨いていくという側面を持っている。世界的人格ができて初めて世界的絵が描けるといった横山大観などにみられるように絵画、音楽、実業などあらゆる世界でそういう人格主義の空気が日本にはある。吉田松陰の松下村塾(萩)、広瀬淡窓の咸宜園(日田)、亀井南瞑・昭陽父子の甘とう館(福岡)といtった塾を訪ねてみると、私淑、縁、志、修養、鍛錬、研鑽という一連の言葉に深く納得する。過去の偉人伝に加えて情報技術の爆発の時代に生きる私たちはウェブという武器を手にしている。ここには同時代を疾走する優れた人たちの事跡やそこから産み出される珠玉の言葉が無造作に置かれている。ほんの少しの努力で時代のフロントランナーたちからオーラをもらうことができる時代になった。斉藤孝は、ポレオン、嘉納治五郎、ゲーテという歴史上の人物をロールモデルとしてあげているが、梅田は同時代を生きている人の名前を挙げている。そのうち二人は、生き方という意味でのライフモデルとして今北純一、生活という意味でのライフモデルとして村上春樹である。私は今北さんとはあるグループの仲間であるし、村上さんともある仕事でご一緒したことがあるが、本やウェブから醸し出される梅田望夫の人柄と通じるものがあるように感じている。ロールモデルとして選ぶということは、その人のライフスタイルやワークスタイルに共鳴しているということだろう。ワークライフバランスという言葉がある。ワークとライフのバランスの回復を図ろうという趣旨だが、この二つは対立的な概念ではない。ライフの中にある重みを持ってワークが存在してるはずだ。斉藤孝は教育という現場と書物から学び、それを講義と執筆に生かす。梅田望夫はコンサルタントという現場とウェブから学び、それをウェブによる情報発信と執筆に生かす。どちらも自らの信じる現場を大切にしながら書物とウェブという異なる武器を駆使しながら大きくなっていくという学びと成長のサイクルの中にある。「オープンにしながら、雰囲気をよくしていくということに、新しいリーダーシップの要諦がある」と梅田はウェブ時代のリーダー像を語っている。情報をわかりやすく提示し、関係者の持つ情報を吸収し、全員で合意を形成していくやり方が今後のリーダーのあり方だと思う。ウェブに限らず、現実の仕事の場面においてもそういう空気を醸し出せるやわらかなリーダーシップが求められている。斉藤孝は、訴えかける対象はゼロから百歳までと言い、日本人全員を相手にしている。みんな必ず伸びるという信念のもと、学校教育と著作を通じて日本人全体の底上げに使命感を持て取り組んでいる。これに対し梅田は、上を伸ばすことに興味があるから、発信する対象は比較的狭い。「打てば響く子」「目を輝かせている子」を世界レベルにまで引き上げることに関心を寄せている。日本の学校教育に期待はまったくない。大学というビジネスモデルはすでに終わっていると確信しており、世界を切り拓くリーディングエッジを育てることが大事だと考えている。斉藤孝は1997年から2007年の11年間で263冊の著書を刊行しており、ピーク時の2005年には67冊を世に問うている。対象読者年代別、分野別にしたりして、バリエーションを増やし全世代に伝え切ろうとしている斉藤の使命感を感じる仕事量である。発散という回転に入ったからこの流れはしばらく続くだろう。対して梅田望夫は共著も含めて6冊という寡作のスタイルを貫いている。じっくりと納得のいく仕事を積み上げていく。同い年であるが、不思議なことに斉藤孝はネット世界に住んでいない。舌禍事件を起こすのではないか、ネットで炎上が起きるのではないかと恐れており、念のいったことに読者からのはがきは批判的なものは事前に編集部にカットしておいてもらうなど、自分に対する批判を聞きたくないところがある。梅田は「ブログに書いたものを一回ミキサーにかけて、完全にどろどろになったものを、本の素材とする。発展途上の思考をブログで出し、膨大なフィードバックを受けて、自分の思考を練っていく。最後に本の形にする」という梅田は、賛否両論のあるネット上の感想は忍耐強く全て読んでいる。ここに新しさと独自性を感じる。今回の対談においても性格、気質というものが考え方に大きく影響を与えていると感じた。やや懐疑的な体質を持つ小説家・平野啓一郎、エネルギッシュな行動家・茂木健一郎、そして膨大な仕事を情熱を込めてこなし続ける学者・斉藤孝。こういった人たちとの対談で梅田望夫の考え方、情報や世界との付き合い方が滲み出てくる。成功、喝采、業績という言葉に強く反応する斉藤孝に対し、梅田望夫は、考え深く慎み深くそして丁寧に議論に参加している。こういう態度も若い人たちから支持を得ている要因の一つだろう。村上春樹の出現によって村上龍は短編よりも長編を書くことに存在価値があると感じて仕事の方向を定めていったように、こうした対談を通じて相手との比較の中で特質が際立ってくるから、互いの仕事の方向にも微妙に影響を与えるだろう。この対談でもわかることだが、独特の生活からしか独創は生まれないと思う。
2008/05/10
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赤坂に野田一夫先生を訪問。その後、帝国ホテル地下の北京で、NPO法人知的生産の技術研究会(知研)http://tiken.org/のメンバーと株式会社日本計画研究所のメンバーとの会食。知研からは八木会長、理事長の私、秋田事務局長。相手側は武内一忠会長、武内利枝社長、野口明子取締役、そしてこの会社に深く関わっている河村幹夫先生。河村幹夫先生は、現職は多摩大学統合リスクマネジメント研究所長。多摩大学の教授に転身する前は、本業の三菱商事では取締役まで昇りながら、趣味で書いた「シャーロックホームズの履歴書」で1989年の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したシャーロッキアンとして有名な方である。ロンドン駐在時代に仕事の合間にシャーロックホームズにのめり込み、帰国後それを本にして話題になった。学者としての専門はリスクマネジメント。私より15歳ほど先輩だが、ビネスマン時代に二本足で立つという生き方、考え方に深く共感して、こういう人生を送りたいものだとあこがれた人物だ。この日本エッセイスト・クラブ賞の授賞式でのスピーチはいまだに記憶に残っている。私が勤務していた日本航空がたまたまこの賞のスポンサー企業の一つだったこともあり、広報部長の名代で当時まだ課長補佐だった私が出席することになり、副賞の航空券を提供するため会場にいた。奥様との掛け合いでシャーロックホームズからのお祝いの手紙を披露するというもので、その面白さに会場は大いに沸いた。河村先生はその後、マスコミ界でもスターとなって多摩大学教授に転身された。その後、私も宮城大に行くことになり、1996年頃に手紙を出してアドバイスを乞いに伺ったことがある。横浜のグランドホテルで食事をしながら心構えなどを語っていただいたことを想いだす。知研での活動ではセミナーの講師をお願いしたり、パーティに参加していただいたり、時折お目にかかってきた。(株)日本計画研究所(http://www.jpi.co.jp/)は、建設、土木、設計、社会資本整備、不動産、港湾、物流、海事 エネルギー、電力、ガス、燃料、環境、廃棄物、IT、情報通信、コンテンツ、著作権、医療、大学関連 等ビジネスに必要な情報を提供するビジネスセミナーを主催している企業であり、各界のオーソリティ及びプロフェッショナルとして活躍している実力者を招聘して「生の情報」をタイムリーに提供している。セミナーは中央省庁関係の旬の話題が多いようだ。今年2月に知研が行った寺島実郎セミナーを共催した組織である。今後も協力をしていこうということになった。河村先生の洒脱で楽しい話題提供で、笑いの絶えない楽しい会となった。
2008/05/09
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多摩大学リレー講座の第3回は、東京外国語大学の酒井啓子教授である。酒井先生は中東の専門家で、イラク問題ではテレビや新聞などマスコミに頻繁に登場する方だ。今回も熱心な社会人250名ほどと400名の1年生が聴いた。以下簡単なまとめ。+中東(北アフリカからイラン)やイスラムが世界の大きな問題になってきたのは20世紀に入ってからだ。第一次大戦あたりからなので最近のことだ。+国際テロリストの跋扈はグローバル化の産物。彼らはインターネット、衛星放送などが情報源でここ10年くらいの情報のグローバル化と連動している。+現在起こっている中東の紛争の根本原因は、パレスチナ問題とイラク戦争に伴う産油国周辺の問題だ。+イラクでのアメリカ兵の死者は、戦争中よりも戦争終了後の方が多い。イラクの民間人の死者は2006年以降に多い。+2003年のイラク戦争から5年経ったが、電気や水道の不足は続いておりよくならない。(気温60度の世界)+アメリカはイラクの石油が目当てて戦争したという説は誤り。戦争前はもっとも安い価格で手に入れていた。(日本は最高額)+治安の悪化で国民の2割が難民。1割は国外難民、1割は国内難民。+こういった現状で復興はしていない。これはなぜか?+南部のシーア派と北部のスンニー派の対立が原因ではない。教義はあまり違わない。+アメリカはインフラを立て直す気がなくイラクをいじめているという陰謀論がイラクとその周辺国にも浸透しつつある。+イラクの石油生産量は横ばい、しかし価格高騰により収入は大幅増加。しかしインフラは整わない。アメリカはこの金でイラクに駐留しているのではないか、という疑惑があり払拭できない。このことで反アメリカの動きがイスラム圏に広がってしまった。+復興が遅れているのは選挙で選ばれたイスラム政府(成立3年)が機能していないからだ。+アメリカ軍のイラク駐留の理由は、撤退によって起こる混乱を危惧しているからだ。+イラクイスラム最高評議会の中心メンバーによって構成される政府は、1982年からイラン(ペルシャ民族・ペルシャ語)に逃げていて、イラン政府に支援されてきた人達。彼らとずっとイラク(アラブ民族・アラビア語)にいた国内派のサドル派との確執がある。アメリカが退くとイランの傀儡国になるのではないかという心配がある。イラクから出て行きたいがそれが心配というのがアメリカのジレンマである。+イラク人は、アメリカには出て行って欲しいが、やるべきことをやってからにして欲しいという気持ちもある。+ジダンやダルビッシュもイスラム教徒(父親がイスラム教徒ならそうなる)。+中東におけるイスラム教徒としての自覚の高まりは、グローバリズムが影響している。
2008/05/08
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ファンであるヤンキースの松井秀喜選手の調子がずっといい。開幕以来3割の打率を保ってきたが、連続試合安打を継続中で現在は15試合連続の自己新記録まできている。本日は3打数3安打1四球で打率が跳ね上がり3割4部2厘になりトップとわずかの差まで迫っている。A・ロッド選手がケガで戦列を離れていることもあり、このところずっと4番を任されていて期待に応えているのは嬉しい。自宅で日本時間の朝8時過ぎから始まるメジャーリーグのテレビ放送で見れるときは楽しんでいるが、通常は職場や書斎、出張先でも「YAHOO!SPORTS」の実況中継で松井選手の打席を仕事の合間に追っている。ここにはプロ野球、MLB、高校野球、Jリーグ、海外サッカー、競馬、ゴルフ、F1、NBAなどのメニューがあるが、ときたまゴルフ(ウッズ、宮里藍、、)をみることはあるが、最近はMLB(メジャーリーグ)が中心である。http://mlb.yahoo.co.jp/このブログを書いているのは8日の早朝だが、今日のヤンキースは8時5分からインディアンズと戦う予定だ。試合が始まると一球速報といって打者ごとに全ての配給(タテの高さ、内角か外角か、コーナーか、、)とどの球を打ったかが静止画と動画の中間的な画面で見ることができる。打順を確認し打席が終わるごとに今日の成績がわかるし、その結果今シーズンの通算打率の変化もわかる。「日本人ハイライト」のコーナーでは現時点では「松井3安打で打率トップに急接近」とあり、「動画」をクリックすると打席の様子を見ることができる。「個人成績」というコーナーでは、打者と投手の個人成績の順位がわかる。アメリカン・リーグでは、打率部門はインディアンズのマルティネスが.347で、松井が.342、3位のツインズのモウアーが.337だ。ヤンキースは2番のジーターが.310で8位、3番のアブレイユが.299で16位。ホームランと打率は松井は20位に届いていない。メジャーでは打点が多いことが特徴だったが今年はまだ少ない。また日本では豪快なホームランが多かったが、メジャーでは松井はホームラン打者ではなくなった。この二つの点は残念だが、ともかくレギュラーが保障されていなくて、開幕当初は8番あたりを打っていたのが嘘のように4番にどっしりを座っているのは頼もしい。いつもの年とは違った危機感と、結婚による精神的な安定と規則正しい生活によって、久しぶりに松井秀喜がはつらつと活躍しているのは嬉しい。松井の渡米以降、どこまでメジャーで通用するのだろうかという興味がわき日本のプロ野球への関心は薄れてしまって、仙台にいた頃にできた楽天ゴールデンイーグルズには関心があるが、最近は長い間ファンだった巨人の試合を観ることはすっかりなくなってしまった。いつか松井の故郷石川県の同級生の女性が「松井君は結果を出さなかったことはないわ」という発言をしていたことを思い出した。昨年、石川県の小松空港近くにある松井秀喜ベースボールミュージアムを訪れたことがある。子供連れのお客が多く、与える影響が大きいのだなあと思ったことがある。http://plaza.rakuten.co.jp/hisatune/diary/200706170000/分野を問わず、才能のある若者は個人でグローバリズムの真っ只中に飛び出していくようになり、一気に世界価格がつく。一方で誰でもできる仕事の価値は下がっていく。そういう意味では個人の才能と力量による差が開いていくことになる。以前は日本記録を目標にしていた陸上や水泳の選手が多かった気がするが、今は世界記録や世界一がテーマになってきて、日本人の視界がぐっとひらけてきた感じがする。イチローと松井は多くの点で対照的な日本人大リーガーだが、どちらが好きかという問いを発するとほぼ二分されるが面白い。私の息子はイチローで私は松井、前職場の学長さんはイチローで私は松井、ということで議論に花が咲いたこともある。もちろんイチローの求道者的なサムライスタイルは魅力十分で実績も素晴らしいが、松井の今日よりは明日という進化を続ける姿と淡々とした性格や自己をコントロールする心構えにも共感することが多い。この二人は日本野球界の至宝だが、いずれメジャーリーグで監督を務める可能性もあると思う。そういった時代が来るのも楽しみである。
2008/05/07
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ホームページを開設した1999年から、心を打った格言、自分を励ます名言、納得する金言、自省を促す言葉などの採集を、ゆっくりと少しづつやってきた。ホームページの中に格言を表示するコーナーを設けたことによってアンテナがたった。後は時間が解決してくれる。当初の目標は「一日一言」となるように365という数字を頭に描いていたが、いつの間にか400を超えてきた。書物を読んだり、テレビを観たり、人物記念館を訪ねたりするときに、既に立ったアンテナが自動的に始動を始める。この収集にも波があって、よく集まるときと忘れているときもあるが、その緩急には自ずから一定のリズムがありそうだ。携帯電話のアンテナのようにこちらの感度がいい場合は、いい言葉が集まってくる。このデータベースは自分自身を励ましてくれるのはもちろんだが、本を書くときのアクセントとしての役割を担うようにもなっている。どのような分野であれいい仕事をしたひとかどの人物は、それぞれ腑に落ちる言葉を遺している。それらはホームページ(http://www.hisatune.net/)の右下にある「今日の格言」コーナーで一つづつ紹介している。あなたがどんな友達が持っているかを教えなさい、そうすればあなたがどんな人か当てて見せよう。こういう意味の格言があったが、それに倣って言えば「あなたが好きな格言や言葉を教えなさい。そうすればあたなたがどんな人か当てて見せよう」ということになる。今日採集した言葉は以下の通り。・之を知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり(孔子)・幸福な人は自慢屋であり、教訓家になることが多い。偶然の結果、健康や成功に恵まれたにすぎないのに、自分の能力のせいだと過信する(「田辺聖子)・人は善くも言われ、悪くも言われるのがよい(三宅雪嶺)・私たちの考え方や信念の全骨格は、私たちの崇める偉人たちによってかたちづくられる(リヒテンベルク)・自由とは、人間の知力や制度の移植で簡単に創造することのできないものである(中川八洋)・男が成長するとは、自分が持たないものをひとつひとつ確認し、次第にあきらめてゆく行程である(谷沢永一)-------------------------------------Febeの月間ダウンロードランキング。私のーディオブックは16位。http://www.febe.jp/ranking/index.html
2008/05/06
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立川駅から徒歩10分のところにに国営昭和記念公園という広大な公園がある。昭和天皇の在位五十周年記念事業の一環として設置された公園で、1983年に開園したから今年で25周年になるが、数次にわたる拡張を経て現在では東京ドームの40倍の広さになっている大公園である。この一角に「花みどり文化センター」という大きな建物があり、緑の文化に関連する行事の会場となっていて、その中に「昭和天皇記念館」があり、緑を愛された昭和天皇のや香淳皇后の遺品が展示されている。記念館の入り口にはやや小ぶりながら達筆の昭和天皇記念館という題字がかかっている。あまりに見事な字なのでそばにいた係員に誰の字かと聞くと衆院議長をつとめたことのある綿貫民輔氏の書いたものだった。昭和天皇は1901年生まれだから20世紀の最初の年に生を受け1989年に87歳で崩御しているから、20世紀の世界の主役の一人として生きた激動の人生だった。年譜をたどると、19歳のヨーロッパ諸国訪問を経て父の大正天皇の病気により20歳で摂政に就任し25歳で天皇となった。その後日本史上最長の在位を記録している。34歳のとき2・26事件、40歳のとき宣戦の詔書、44歳のときポツダム宣言を受諾し終戦の詔書、46歳のとき日本国憲法に発布に伴い国及び国民統合の象徴となる、57歳のとき皇太子明仁親王の結婚、63歳のとき東京オリンピック名誉総裁として開会宣言、70歳のときヨーロッパ諸国訪問と冬季オリンピック札幌大会名誉総裁、74歳のときアメリカ訪問、87歳のとき崩御。テレビの登場以降折々の姿は私の中に映像として残っているし、崩御にいたる過程で国全体の沈んだ雰囲気と皇居でのお見舞いの記帳が続いたことを鮮明に思い出す。大喪の礼には164ヵ国と28の国際機関の代表が参列し空前の規模で行われた。天皇は主役の一人として戦争と革命の世紀といわれる20世紀をたしかに生きたのである。私の世代は壮年から晩年にかけての顔や姿しか知らないが、幼少の頃の写真をみると、聡明でりりしい顔立ちで特に大きな涼しい目がいい。天皇家は伝統として和歌をたしなむし歴代の天皇は折に触れて歌を詠んできたが、昭和天皇の歌は時代背景やその時の心境を歌っており、心を打つ。昭和3年には「山々の色はあらたにみゆれどもわがまつりごといかにかあるらむ」と責任の重さを歌っている。昭和20年の終戦時には「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」と終戦に至った心境を詠んでいる。戦後の復興の兆しが見えた昭和27年には「国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」と喜びを詠った。昭和45年の70歳では「よろこびもかなしみも民と共にして年はすぎゆきいまはななそじ」、昭和62年の77歳のときには「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを」と念願の沖縄行幸を実現できないくやしさを詠っている。これ以外にも多くの御製があるが、おおらかでまっすぐな独特の調べがあり、心を打たれる。終戦後の昭和21年から29年にかけての全国行幸は今の私たちの親の世代の語り草になっているが、165日で総行程3万3千キロに及ぶものだった。録画された映像で思い出を聞かれてヨーロッパ歴訪を挙げていたが、テレビ番組で何を見ているかと聞かれて「最近は放送会社の競争が厳しくて影響があるので何を見ているかは申し上げられません」と答え記者団の笑いを誘っており、このシーンは人柄の滲みでたいい表情をされていた。昭和46年9月27日から10月14日までのヨーロッパ諸国歴訪のコーナーには、日本航空の機内食のメニューカードが展示されていた。またその年の12月号の日本航空の社内報「おおぞら」の「天皇・皇后ご訪欧フライトを終わって」という座談会も展示されていて興味深く見た。秘書室次長・川野光斉、国際旅客運送課長・一柳宏司、客室部客室課長・吉井友哉、広報室課長補佐・藤松忠夫、主席客室乗務員・成瀬慧瞭、航本管理部次長・玉手文武、司会は広報室次長・中村昭雄だった。後にこの「おおぞら」の担当課長をつとめた私には感慨もあったが、この座談会のメンバー全員は何らかの形で関わった大先輩たちだ。また昭和48年12月号の「おおぞら」の「ご訪米特別便運航を終えて」と題した座談会も見ることができた。私は昭和48年の入社だからこの当時のことはよくは知らないが、日本航空の輝ける時代の一こまだったのだと懐かしかった。記念館の一角に皇居にあった「生物学御研究室」が復元されていた。昭和天皇の使っていた椅子、机、書架、対面式顕微鏡など実際に使っていたものである。12歳の時那須塩原でとった昆虫と植物を組み合わせた標本をつくたtのがきっかで自然史学研究がライフワークとなったのだ。天皇は公務と私事を分けていたが、研究者としての生活は私事とみなし公務の間に遠慮しながら続け、生涯に著書を31冊ほど出している。「天草諸島のヒドロ虫類」などの単著が9冊、「那須の植物」「皇居の植物」など学者との共著が6冊、その他学者が生物学研究所編としてまとめたものなどだ。昭和天皇は二足のわらじを履いていたのだ。花みどりセンターの売店には、牧野富太郎南方熊楠の書籍やグッズが売っている。二人は生物学者としての昭和天皇の同学の士である。牧野富太郎81862-1957年)は97歳という長寿であった牧野は植物分類学の大家で、ヤマトグサなどの発見・命名者でその業績はリンネに次ぐ。那須の御用邸などで牧野と交流のあった天皇は牧野が94歳の時にお見舞いに贈られたアイスクリームをありがたがって2杯食べた。また、南方熊楠(1867-1941年)と親交のあった天皇は1929年の和歌山への行幸時に、粘菌や海中生物についての御前講義を行った。熊楠は粘菌の標本をキャラメル箱に入れて献上した。後に天皇はあのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。1962年に再び和歌山を訪れた天皇は、神島を見て「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだ。昭和62年の歌会始には「わが国のたちなほり来し年年にあけぼのすぎの木はのびにけり」と詠んでいる。このあけぼのすぎは化石として発見されたメタセコイアであるが、中国で生きておりそれがアメリカから吹上御苑に献上されたもので、アメリカ、中国、日本の関係を示すものとして愛しておられたそうだ。記念館で昭和史に題材を求めて作品を書き続けている保阪正康という菊池寛賞を受賞している作家の「昭和天皇」という評伝を買った。数日かけて読みきった。昭和天皇の御製を丹念に読み、側近たちの日記や回顧録を熟読し、宮内記者会との会見内容の全文にふれるという3つのアプローチで昭和天皇の真意を理解しようと試みた力作である。保阪のあとがきから総括の一部を抜き出してみたい。「昭和天皇は禁欲的で、真摯で、そしてきわめて原則的な性格を持っていると思う」「昭和という歴史の内部にあって、一般の国民よりもきわめて難しい立ち場にあり、そこで誠心誠意つとめたことは認めなければならない」さらに、保阪は「「軍事の報告に信頼がおけず、アメリカの短波放送を聞いていた」ことをさりげなく伝えているこおでもわかる。天皇はこの点できわめて不本意な立し場にいたことは、今後のもっとも検証されなければならない大きなテーマである」として、この部分を深く書かなかったとし、さらに深い吟味が必要だと述べている。一人の人間として昭和天皇をながめると、戦争と敗戦と占領という国難、そして廃墟から立ち上がった数十年間という未曾有の時代を生きた一人の人物像が浮かんでくる
2008/05/05
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万歩計をつけて多摩川沿いに続く道を歩く。多摩市から日野市にかけての道だが、対岸の府中市は企業の工場や研究所、そしてマンションが並んでいる。こちら側は小さな古い戸建て住宅が不規則に思い思いに建っている。川辺の公園では若者が球技の練習をしていたり、大人が集団で太極拳をやっていたり、子どもたちがサッカーの試合をやっていたり、夫婦でキャッチボールをしていたり、色々な世代が思い思いに休日を楽しんでいる。この道は多摩サイクリングロードという名前で自転車乗りたちは呼んでいて「多摩サイ」と略して使うらしく、サイクリング独特の鋭角的なヘルメットをかぶって走る中年も多い。ブラックやイエロー、ブルーなどのカラーのファッションもそれぞれ工夫を凝らしていて楽しめる。多摩サイで走る人は初心者が比較的多く、割合ゆったりとしたスピードで走ると聞いている。だから歩いていて危ないという感じを受けることはない。途中で橋がかかっていると、橋を避けて下をくぐる道路が用意されているのでそのまま歩くことができる。水の流れの幅は広くなったり狭くなったりする。川の流れも速いところもあればゆっくりと流れるところもある。思い思いに咲く花も楽しむことができた。歩いている人を観察するのもなかなか面白い。いかにもウオーキングをやっていますという不自然な腕の振りをしている中年の男性や女性の姿はよく見かける。犬を連れて散歩している人も多いが、向こうから小さい犬を引き連れている婦人がいたから数えてみたら7匹いたのには驚いた。また帽子をかぶった老人が健康のためだろうがゆっくりと歩いている姿も多い。この川にはあらゆる世代がお世話になっているようで生活感があふれている。愛用しているiPod touchで、ある講演を聴きながらだったが、長い時間歩いても一向に苦にはならない。勉強とスポーツを同時に行うことができるから、こういう機器と散歩とは相性がいい。関戸橋から、京王線が走る橋、独特の美しい姿の府中四谷橋、そして高い空間を走る多摩モノレール下までのウオーキングだったが、往復で1万3千歩を記録した。明日も歩いてみるか。
2008/05/04
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聖蹟桜ヶ丘という京王線の特急停車駅がある。桜の木が多い街だが、なぜ「聖蹟」という言葉が上についているのだろうか。駅から車で五分ほど走ると、名門・桜ヶ丘カントリークラブが見え、そこを左に曲がると都立桜ヶ丘公園に到着する。多摩丘陵と呼ばれた自然を身近に感じることができる公園である。桜で有名だが雑木林が保全されていることもあって、5月の連休の緑は実に素晴らしい。四季折々、木々や花、野鳥が観察できる。入り口から少しのところに、明治天皇御製の碑があった。「正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書」とある。田中は元宮内大臣。 春の半頃山ふかく狩しける折に鶯の鳴くをききて 春ふかし山の村にきこゆなりけふをまとらはむ鶯の声昭憲皇太后御歌 兎とる網にも雨に日にぬれてみけしを思いこそやれ 春もまたさむきみやまのうぐいすはみゆきまちてや鳴きはしめけむこの公園は、3つの雑木林の丘で構成されていて、その中でも一番高い「大松山」の頂に旧聖蹟記念館がある。ここには明治天皇が30歳の頃に兎狩(うさぎがり)や鮎漁(あゆりょう)に4回ほど訪れている。その行幸を記念して聖蹟という名前の記念館が建った。明治天皇の顕彰運動に取り組んだ田中光顕は1930年(昭和5年)に多摩聖蹟記念館を建設する。昭和初期の珍しい近代建築であったこの建物は、貴重な文化財として改修され今日に至っている。円形のドーム状をしたこの記念館は関根要太郎という人物が設計している。関根はオーストラリアのゼセッション(分離派)やドイツのユーゲントシュテインの影響を受けた。397.17ヘーベのこの記念館は現在は多摩市の有形文化財の指定を受けている。ホールの中央に明治天皇牙騎馬像がある。愛馬・金華山にまたがった明治天皇の御英姿で、1881年(明治14年)の連光寺行幸をモデルにつくられた。高さは3メートル25センチある。この騎馬像が唯一の明治天皇関係である。騎馬像を丸く囲むように常設展示があり、田中光顕(1843年土佐生まれ)が収集した幕末から維新にかけて活躍した人物たちの掛軸・書状などが展示されている。田中は坂本竜馬の海援隊でなく、京都を中心に活躍した陸援隊の一員で、維新後は1898年から11年間にわたり宮内大臣をつとめ明治天皇に仕えた。退官後は「聖蹟」を記念する運動に取り組みこの記念館以外にも、高知の青山文庫、大洗の常陽明治記念館もつくっている。収蔵物の一覧を見ると江戸末期から明治にかけて活躍した偉人の名前が並んでいる。1800年生まれの徳川斉昭、1809年生まれの島津斉彬、1811年生まれの佐久間象山、1827年生まれの西郷隆盛、1830年生まれの大久保利通、1830年生まれの吉田松陰、1833年生まれの木戸孝允、1835年生まれの坂本竜馬、1841年生まれの伊藤博文など。常設ギャラリーの外側はギャラリーとなっており、個展や展覧会などが催されている。また多摩市内で見られる植物写真展示もある。その一角に喫茶サロンもあるようだが、サービスはしていないようだった。明治天皇、田中光顕、そして多摩の植物展示など、焦点が定まっていない感じを受けた。明治天皇記念館でもなく田中光顕記念館でもなく、多摩植物展示館でもない。風格のある建物だけに惜しい気がする。多摩市教育委員会の資料によると、「明治天皇行幸を記念する建物」から「桜ヶ丘公園を訪れた人々の憩いの場」と変化したということだ。京王線の聖蹟桜ヶ丘という駅の名前も、この記念館からとっている。前は関戸駅という平凡な名前だったが、新しい名前は歴史や由緒を感じさせ、この街の発展に寄与したのだろうから、もっと大事にしてもいいという印象を持った。
2008/05/03
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吉行淳之介文学館から新緑を見ながらそして深い渓谷の水音を聞きながら少し道を登っていくと、NHKテレビの番組で見た記憶のある独特の建物が現れた。宮城まり子(女優)が心血を注いだ「ねむの木こども美術館」である。ユニークな建築で知られる藤森照信さんの設計。白い横長の建物だが、土地自他に傾斜があり、入り口のある部分は2階建てで、多くの作品を展示している部分は1階建てだ。その2階建ての屋根はキノコの形をしており茶色の帽子をかぶっているようでユーモラスだ。2階にはエレベータで上がる。「私ほどこの仕事に不適当なものはありません。けれど、なんとか私がやりとおしてこれたのは愛です」とまり子が出した手紙の一節が掲示してある。恋人の吉行淳之介文学館でも感じたことだが、エニアグラムの性格タイプ2であることは間違いない。このタイプは人を助けることで自己の存在を確認できるから、献身や愛に生きる人が多くなる。最初の真白なまばゆい空間は教会を連想させる。宮城まり子自身のガラス素材の作品がある。「モナコの海」「きづついた夜」「海辺の街」「春」「日本海の夕日」「こどもの情景」、、、。ここには、ほんめとしみつ君とほんめつとむ君の兄弟の絵が並んでいる。「おかあさん」の絵は、赤と黒のみで描いた顔で、これは宮城まり子がモデルだろう。メインの大きな空間には子どもたちの絵がたくさん展示されている。やましたゆみこさんの作品はとても好きになった。「お花畑のこどもたち」「飛行機雲」「つしんぼとり」「秋の木の黄」「れんげ草とあたしとおかあさん」「春が来ました お花もつくしんぼもおはよう」「ねむの木国ねむの木県ねむの木村ねむの木」、、。大きなキャンバスに細かくデザインされた絵は長い時間の存在と豊かな表現力を感じさせる。むらまつきよみさんの作品もいい。木の香りがいい素敵な美術館である。出口近くの空間に2007年4月15日朝4時と日付と時間の入った宮城まり子の言葉がある。美術館の開館の日の朝の言葉である。「わたしたちは、造形の神のたまわれた試練を恩恵とうけとり、あらゆる困難にたえ楽しく強くそしてたよることなく、やさしく感謝しものごとに対処し根気よく自分の造形に挑戦した 心おどるでしょう これがわたしたちのやったこと まり子」。「ねえ、貴方 わたし、よくまあつづいていると思います。子どもたちの才能は無限なのですね まり子」。この美術館の白い外壁の下の方には、子どもたちが描いた木や花の絵が描かれていてとてもいい。出口から広い庭に出て歩くと、鳥の声が間断なく聞こえてくる。「ホーホケキョー」とウグイスは長く長く鳴き続けていておかしくなるほどだった。美術館を後にして道を下ると社会福祉法人ねむの木学園に着く。ねむの木学園は肢体不自由児を対象とした施設で宮城まり子が1968年以来現在まで40年以上にわたって運営してきた肢体不自由児療護施設である。山あいにある広い敷地の中に薄赤の屋根をかぶったかわいい建物がいくつか並んでいる。白い小手鞠(こでまり)の花がきれいだ。学園にいく朱塗りの橋の名前もこでまり橋だった。学園の外を歩きながら中をのぞくと。子どもたちがダンスをしている姿が垣間見えた。ねむの木は白い花の先がピンクに染まっている可憐な花。この学園には1時間に1本のバス便がある。「愛の風景」というねむの木学園を題材にした写真集をみると、子どもたちに絵を教えたり、ミュージカルを一緒に踊ったり、合唱したり、ポピーの中をみんなで歩いたりする、まり子の姿がある。一生懸命に頑張っているが、80歳を迎え老いたまり子にこの学園の経営という重荷がかかっていると思うとかわいそうな気もする。
2008/05/02
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今まで使っていたソニー製のICレコーダで録音した先日のリレー講座で録音した講義内容(寺島実郎・久恒啓一)を、iPod touchで聴けるようにするためには、録音データの形式をMP3かWAVに変換する必要がある。録音したデータをパソコンに移し、VECTORで入手したフリー変換ソフトで二つの形式に変換する。その後、ituneに登録する。それをiPod touchと同期させる。こういう手順を経てようやくiPod touchで散歩の途中に聴けるようになる。もっともICレコーダで直接イヤホンで聴くこともできるのではあるが、、、。MP3という一般的な形式と音楽の微妙な音の再現に向いているWAVという形式の二つを試してみる。WAVのデータ量はMP3の200倍近くあったが、なるほど音質は優れていて聴きやすい。ituneで高音から低音にかけて自由に音を調節できるイコライザも試してみたが、音質が変化するのがわかる。iPod touchにもイコライザの機能は付いていたから試してみたい。毎回データ形式を変換するのも手間がかかるので、ステレオデジタルボイスレコーダーを購入することにして電器店を物色する。このフィールドでは評判の良いサンヨーの製品を探し、「ICR-PS390RM」を購入した。USBダイレクト接続、リニアPCM録音(WAV)、MP3録音(ステレオマイク内臓)、音楽再生(MP3/WMA)。PCMステレオ最大12時間録音 SPステレオ最大録音時間558時間(世界最長)。本体内蔵のUSBでダイレクトにパソコンにつなげる、データ転送は簡単でハイスピードで大容量のデータ転送ができる、MP3形式の録音なので再生ソフト不要、ということでパソコンとの相性が極めていい。大容量USBメモリなので文書保存などにも使える。MP3ステレオ時に電池一本で録音は25時間、再生で22時間もつ。エネループ電池は1000回の充電が可能。パソコンにUSB端子をさせば充電できる。今日から使ってみたい。
2008/05/01
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