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サザンカ 2020 77 忙しさから解放されて、何もすることがなくなると、人はありふれた景色をボーっと眺めたりするものです。 そうすると、今まで見過ごしていたこの世界の美しさにハッと気づいたりもするものです。 それは人によってはまさにエピファニーのようなものかもしれませんね。 「午後には烈しい直射日光と光化学スモッグにさらされて森は生気を失うが、夕暮れが近づいて夕日が黄ばんでくると、葉がいっせいに金色にくるめき始めて、思わず男は『ああ』とか『おお』とかわけのわからぬ感嘆の声をあげる。 とくに前夜激しい雷雨が荒れた翌日、空気も森も洗われてみずみずしい緑が風にそよぐのを眺めたときなど、空を白い雲が流れて森を風が渡る、それ以上の何がこの世界にあるだろう、というような言葉が心の中を過って驚く。」 これは日野啓三の「牧師館」という短編の中の一節です。 入院中の初老の男が、病室の窓から外苑の樹木を眺めている場面ですが、私もよく部屋の中から遠くに見える木々を飽きもせず長い間眺めていたりすることがあるので、この文章にはことのほか共鳴してしまいます。 そして、ふとこんな感じを抱きます。 この世界って、見るもの聞くものすべてがまるで映画みたいだなあ。 そう感じるのは、あんたがヒマジンだからさ。 そうそう、思いだした。 「イマジン」って、実はヒマジン礼讃の歌なんだよなあ。 知ってました? ジョン・レノンは密かにこう歌ってるんです。 「想像してごらん、世界中のみんながヒマジンになることを」笑 78 先週の木曜だったか金曜だったかは忘れたけど、報道ステーションのオープニングの映像は素晴らしかった。 大雪のため、関越自動車道で千台以上もの車が立ち往生しているということをアナウンサーが説明している中、モニターに映し出された映像は、インターチェンジの高圧ナトリウム灯の光が降り積もった雪をオレンジ色に染め上げているためか、まるで映画のワンシーンのように美しく、思わず見惚れてしまった。 報道番組には時々、歳時記的な時候の映像が差し挟まれることがあるが、そういったステレオタイプなカットではなく、中継現場からの長回し的な映像の中にも、ドキッとするような絵が紛れていたりする。 ジャーナリズム畑とはいえ、美意識の高いカメラマンもいるだろうし、報道第一で懸命に撮っていても、期せずして美々しい映像を送り届けている場合もあるだろう。 まあ、いずれにせよ、ニュース番組の映像美が巷で話題になることはない。 世の中の多くは、事柄には関心を寄せても、微細な感覚に関しては当然の如くスルーしてしまう。 ただひとり、またしてもヒマジンのみがそこにこだわってしまうのかもしれない。 限りなく降る雪何をもたらすや (西東三鬼) たぶん、おそらく、maybe, perhaps , 来年は豊作だべ。笑 79 パンデミックと競馬界がどれほどリンクしているかはわかりませんが、今年は史上初がポンポン飛び出した年でした。 12月になってもその流れはおさまらず、つい先日も、2歳女王を決める阪神ジュベナイルフィリーズで、金子オーナー所有のソダシがJRA史上初、世界初となる白毛馬によるG1制覇を成し遂げました。 白い馬がG1を勝つのがそんなに珍しいことなのか? 何年か前、あんたのブログでも、ヒシミラクルとかゴールドシップとかいう白い馬のことが話題になったけど、アレも白毛の馬じゃないのか? ああ、あれらの馬は芦毛ですね。 芦毛の馬は初めは灰色っぽい毛をしているんですが、年を経るにつれ、白くなってくるんです。 一方、白毛馬というのは、生まれた時からアルビノでもないのに真っ白なんです。 競走馬の毛色は、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、栗毛、栃栗毛、青毛、芦毛、白毛の8種類で、そのうち白毛の自然発現率は0.04%といわれています。 ちなみに、現在JRAに登録されている競走馬は8100頭ほどですが、白毛の馬はわずか8頭しかいないそうです。 要するに、存在自体が超レアな白毛馬が、デビューからトントン拍子で4連勝(内重賞3勝) 、しかもG1まで勝ってしまうというのは、まるで漫画やファンタジーのような話なんですね。 その衝撃度は二刀流のまま海を渡った大谷翔平とか、10代で二冠達成した藤井聡太8段に勝るとも劣りません。 これまで、白毛の馬というのは見た目が美しく、レースで走ると目立つので、人寄せパンダとしてはもってこいだったのですが、その反面、成績は今ひとつパッとしませんでした。 たしかに競走馬としての能力という観点で見ると、茶色や黒い馬と比べて、筋肉の盛り上がり方などにも迫力がないし、肌もピンク色っぽくて、いかにも弱そう、走らなそう、といった雰囲気を醸し出していました。 そんな白毛馬を積極的に購入し、自分が所有する強力な種牡馬と掛け合わせて、わずか3世代目でG1馬まで出してしまう金子真人オーナーという人は、やはりちょっと違う次元の人かもしれない。 たぶんこの人にはソダシがG1を勝つのがとっくの昔に見えていたのだと思います。 この馬が天上で駆ける姿を見て、「よし、これを3次元の世界に連れて来る(物質化する)のが私の次の役目だ」と思い、1996年、父サンデーサイレンス(青鹿毛)、母ウェイブウィンド(鹿毛)との間に突然変異で生まれたシラユキヒメ(白毛)を購入したに違いありません。笑 お次はそのシラユキヒメにキングカメハメハを掛け合わせて、ソダシの母ブチコ(白毛)を誕生させます。 そして、今度はそのブチコにクロフネを掛け合わせてソダシが生まれてきたわけです。 うーん、この交配は確信犯的で凄すぎる! 笑 競馬のことをあまり知らない人のために言っておきますが、この金子オーナーという人は、「一国の宰相になるより難しい」と言われるダービーオーナーの座に4回も就いています。 ディープインパクトやアパパネといった3冠馬も所有していましたし、旧8大レースはすべて制しており、まさに強運を誇示するにも程があると言いたくなるような人です。 もうこのくらいのレベルの人になれば、競走馬を走らせることは純粋な楽しみ(道楽)以外のなにものでもないと思われます。 金も名誉も腐るほど持っているわけですから、後はロマンの追求だけですね。 というわけで、金子オーナーの夢が結実した天上の白毛馬が来年どうなるか、とても楽しみです。
2020.12.23
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ハツユキカズラ 74 本来、この世界はさまざまなノイズで溢れかえっているのだろうけれど、不思議と静寂を感じたりすることができるのは、私たちの聴覚に可聴域なるものがあるからだと思われる。 超音波や超低周波音のような音は、予め耳に備わったフィルターによってはじかれているわけだ。 もちろん、音圧やその他の要因から聞きとれない音もあるだろう。 試しにこんなことをやってみたらどうか。 顔面から20〜30cm離して、親指と人差し指の先端を軽くこすり合わせてみる。 何の音も聞こえない。 ところが、同じことを耳元でやってみると、あら、まあ、ちゃんと音が出ているではないか。 音源からある程度の距離を保ちながら、このくらいのレベルの音まで拾えるということになれば、それこそ蟻の歩く音や、雪が地面に落ちる音も聞こえるかもしれない。 そうなったら確かにファンタスティックではあるが、反面、絶えず音に意識がいきすぎて疲れるかもしれない。 まあ、音を楽しむという観点からすると、もっと自然な形がいいのかな。 素敵な音というのは、こちらのコントロールの埒外にあって、ある瞬間に思いがけなく、ふと聞こえてきたりするものかもしれない。 あるいは、次に挙げる俳句のように心の耳で聴くような音も風情があっていいかも。 蓑虫の蓑を引きずる音の夜 (西東三鬼) 蓑虫の音(ね)を聞きに来よ草の庵 (芭蕉) いずれも、俳句の大ファンでもあったジョン・ケージが喜びそうな句である。 そうそう。 今ふと思い浮かんだだけなんだけど、音を語らせて、これほど軽妙洒脱な人はいないような気がする。(とっくに亡くなってはいるが) 松岡正剛との対談では、お気に入りのいろんな音を披露してくれているが、その中から、適当に二つ程ピックアップしてみよう。 心の耳で聴いてみてほしい。 「日本の風鈴もいいですね。鉄やガラスや竹でできていて、音がつかまるのを待っている釣り人のようだ。」 「湖の氷の割れる音は聞いたことはないですか。あれも美しい音ですよ。」 75 この前読んだ日野啓三の短編小説集(『あの夕陽/牧師館』) の解説を池澤夏樹が「彼岸から吹く風」と題して書いていた。 10ページほどのその解説文を数行にまとめるとこうなる。 「世間の外への回路を探している者がいつの時代にも少しだけいる。日野啓三はそのような人たちを描く。彼岸、別世界、異次元、現世の向うにある真理。呼びかたはいろいろあるが、そちら側を希求する思いが小説を書かせてきた。」 まあ、要するに、日野啓三も「彼岸系」ということですな。笑 ついでに言及されているタルコフスキーもやはり、あちら系ではある。 『ストーカー』のラストで主人公の娘が卓上のグラスを念力で動かす場面を取り上げ、「ぼくと日野さんが、あれはすごかったと言ったのはこのサイコキネシスの場面のことである。」と池澤氏は書いている。 もちろん、サイコキネシスだけじゃない。 他にも空中浮遊といったような超常現象が日常のシーンでフツーに起こったりするけど、それらはタルコフスキーの映画においては、エッセンスではないにしてもスパイスにはなっているような気がする。 何はともあれ、この精神世界への耽溺ぶりは、「さすがロシア!」と唸らずにはいられない。 でも、そんなシーンやエピソードが多いからという理由でタルコフスキーを敬遠する人がいるとすれば、それはちょっともったいない気がする。 超常現象や不思議話はたぶん彼の趣味のようなもの。 『サクリファイス』に出てくる郵便配達夫オットーが、ひそかに奇跡や不思議話の蒐集に勤しんでいるのと同じようなものではないか。 単純に精神世界のネタが好きなだけだ。 裏を返せば、世俗的なことや、3次元的価値観に縛られるのが好きではないというタイプなんだろう。 それはこの人の癖のようなものだから、あまりその点は気にせずに、純粋に映像だけをボーっと鑑賞するという手もある。 すると、あなたはやがて気づくだろう。 ああ、ここには、水や火や風や大地といったエレメントが詩情たっぷりに描かれているなあ。 いや、むしろ、この人のスクリーンにはそうしたポエジイしか映されていないんじゃないか。 76 エルデナの廃墟 月を眺める二人の男 この2枚の絵はいずれもドイツロマン主義絵画を代表する画家であるカスパー・ダヴィッド・フリードリヒの作品である。 気づきをつぶやく前に、この画家の特徴を簡単にスケッチしておこう。 「無人の荒凉とした風景を題材とした、宗教的崇高さと静寂感に満ちた作品が多い。」(Wikipedia より) さて、「エルデナの廃墟」の方は滝本誠という人がタルコフスキーの『ノスタルジア』のラストシーンと重ね合わせて論じているのを読んだことがあるが、なるほど、言われてみると、構図や雰囲気がよく似ている。 フリードリヒには、修道院跡や墓地といった廃墟をモチーフにした絵が多くあり、実際にタルコフスキーがそれらを見ていたかどうかはわからないが、彼の映像との親和性は極めて高く、両者の波長はピッタリ合うのではないかと思われる。 「月を眺める二人の男」の方は、ベケットが『ゴドーを待ちながら』を書く際にインスピレーションを得たことを公言している絵である。 月夜の田舎道。 枯れ木に近い老木と荒くれた岩。 そして、二人連れの男たち。 なるほど、雰囲気は『ゴドー』の世界を彷彿とさせる。 ベケットは時代の潮流とかニーズとかもあって、形式の面では前衛っぽいけれど、(気質や感性からすると)実は隠れロマン主義みたいなところもあったりするんだよなあ、ふふふ。 まあ、タルコフスキーにせよ、ベケットにせよ、詩人の魂を持つようなアーティストは、自ずとフリードリヒの絵に感応するようになっているのではあるまいか。 特に、その画面全体に漲る圧倒的な静寂感(彼岸の気配)は、詩人の心を魅了してやまないような気がする。
2020.12.13
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風に揺れるアメジストセージ 72 今日は午後から風が強く吹いている。 遠くに見える大樹がユサユサと揺れている。 流れていく雲も刻々と形や光の加減が変わったりする。 それを黙って見ているだけで楽しい。 ごくごくありきたりの自然現象ですら、実は不思議現象に匹敵するようなプチワンダー(小さな驚き)をもたらしてくれたりもするんだなあ、といまさらながら感じ入ったりする。 仮に、今、空の彼方にUFOが忽然と現れたとしても、逆にそれほど驚かないかもしれないなと思ったりもする。笑 何?超常現象? ふうーん、そんなの起こって当たり前じゃん。 この3次元物理空間と重なるようにして、人間には認識できない別次元のエネルギー空間が茫漠と広がっているんだぜ。 「ノンフィクション作家のマイケル・タルボットは現実とは決して客観的なものではなく、人間の精神が生み出す間主観的なホログラムである、と述べたうえで、ホログラフィックな別次元からUFOが現れるのではないかと推測している。」 (Wikipedia の記事より) つまり、何かの拍子にお隣の異次元からヒョコリ、未確認飛行物体が現れたり、またそこへと消えていったりするようなことが起こるってわけだ。 別にそれはUFOでなければならないというわけでもない。 何なら、鳥や岩石でもいいわけだ。 まあ、鳥くらいなら、私もそれに類した現象に遭遇したことはある。 でも、一回コッキリの瞬間的な体験だったので、不思議だなあという印象だけが微かに残っているだけである。 近頃はそういうレベルのプチワンダーを体験することもめっきり少なくはなってきたが、だからといって3次元的な楽しみに埋没しているというわけでもない。 むしろ歳を重ねるごとに世俗的な楽しみからは遠ざかっていくばかり。 畢竟、生きることの醍醐味は、3次元にいながらにして別次元の気配を感じること、これに尽きますなあ。笑 73 先日、日野啓三の「冥府と永遠の花」という短編を読んでいると、最後の方で、以前紹介したジャイアントロベリアやジャイアントセネシオのことが書かれていて、ちょっとテンションが上がった。 いずれも増沢武弘さんの本 (『極限に生きる植物』) に載っている写真どおりの描写だったので、とても懐かしい気分になった。 その後にもう一種、私の知らない植物が出てくる。 「そして荒凉たる岩陰の冷たい水溜りの中に、小型のヒマワリのような形の草花が花開いているではないか。ただし花の色はヒマワリの黄色ではなく、分厚く固い葉はサボテンのようだ。中央の丸い頭状花序の部分は灰色、そのまわりに何十枚も重なり合って開いている舌状花は透き徹る白、付け根の部分だけがうっすらと紅い。(中略) その奇跡のような可憐な花の学名はヘリクリサム・スツールマンニイ、麓の部族の人たちは古来『永遠の花』と呼んできたという。」 末期癌のつらい日々を過ごす作者が、ある日、外出先で鼻血が止まらなくなり、やっとの思いで帰宅した後、長編ドキュメントのビデオ(TVディレクターふたりがビクトリア湖周辺を探検する長旅の記録)を観るというのがこの作品の主な流れだが、タイトルにもなっている「永遠の花」がラストに配してあるということは、作者の目にはこの花が苦しみの果てに待っているあの世の花と映ったということではあるまいか。 どんな花なのか写真で確かめたいと思い、ネットで調べてみたが、ヘリクリサムというのがキク科ムギワラギク属の植物だということがわかっただけで、残念ながら、スツールマンニイの画像は見つからず、従って、その姿は文章からイメージするしかない。 文章によってポエジイを喚起されながら、いざ画像を求めても叶わないという経験はよくあることだ。 キングドン-ウォードの『植物巡礼』を読んでいる時も、何種類かをネットで検索してみたが、標本しか残っていないようなレベルの植物はやはり見つからなかった。 例えば、カンパニュラ・カルキコーラ。 キングドン-ウォード曰く「小妖精の芸術作品」とも言えるこの植物は、訳者の注によると、イワギキョウの類らしいが、カンパニュラという名前からして、ホタルブクロ属のイメージであることは間違いない。 「コンパクトで均整のとれた姿、優美な葉、その上で互いに寄り添い、短い針金のような茎の先でうつむく繊細な鐘型の花、印象的な色の配合、それも孔雀石がちりばめられた暗緑色の葉に映える、淡いヒアシンス・ブルーの花」 キングドン-ウォードが四川で見つけたこの植物は、後に種が英国に送られて開花するも、1、2年のうちに枯れてしまい、それ以来、彼は「これを野生でも栽培でも見ていない」という。 その後、他のプラントハンターによって再発見されたかどうかは寡聞にして知らないが、栽培種の噂も聞かないし、ネット上で画像も見当たらないくらいだから、おそらくいまだに幻の花なのではあるまいか。 いや、幻の花というより、天上の花と言うべきか。 だけど、そんな花でもいつかは見られると思っていたい。 ある日、知らぬ間にクォンタム・ジャンプして、即身アセンション(現代版即身成仏)が叶った暁には、おそらく足元にカンパニュラ・カルキコーラのような花が咲いていることだろう。
2020.12.04
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