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http://anarchist.seesaa.net/article/10731497.html*住井* 『橋のない川・四部』を書いた段階で、今日初めて公表するんですが、「いい小説を書いてくれてありがとうございました」といってきたのは児玉誉士夫でした。それから私が東京に行くたびに、児玉誉士夫がみごとな外車を出して、「乗っかってくれ」と。しかし私は、右翼のお世話になる気はありませんから、もうそこにタクシーがたくさんあるから、私はそのタクシーで所用の所へでかけるわけです。すると、私の後ろから空車が護衛のつもりなんでしょう、ついてきて……。これは事実です。それで、児玉誉士夫の弟子たちがね、三人で土産を持ってきましたよ。みなさん、本当ですかと不思議に思われるでしょうが、もうそれは本当。それで彼らをうちに一晩泊まらせて、もう徹底的に天皇制を批判したんです。それで明くる朝、帰るときに、「私の考えはもう話したとおりだ。ところが、あなたのところの大将は、天皇を肯定しているんでしょう」といったら、しばらく考えておって「いや、うちの先生も本当は住井先生と同じ意見です」といいました。*永六輔* 本当に?でもそれはわからないことはないですね。*住井* だから、うちへ親分が礼を尽くしてきて、車を回して世話しようなんていうくらいだから、土産は持ってくるけど、文句はいってこないですね。*マルセ太郎* たしか児玉誉士夫は、早くから「天皇は退位しろ」ということはいっていましたよね。「戦争の責任を取ってやめろ」ということはいってました。*住井* そうそう。あの人は苦労してね。笹川よりは物わかりいいような感じもしますね。笹川から土産をもらったことはないから悪くいうわけじゃないけども(笑)。住井すゑ・永六輔共著『人間(じんかん)宣言』光文社よりhttp://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200703020000/大正2年3月31日平家の落人で 有名な宮崎県白杵郡椎葉町に生まれた、中学は西都市の妻中学に入った。妻中学での成績は遊んでいて中ていどで 学校きっての硬派で鳴らして 3年のころから剣道に打ち込んだ。九州大会にも 何度か出場したが、もうあとわずかで卒業というときに、校内で大暴れして学校を追われる羽目になった(結局 卒業となる) やむを得ず いったん別の中学に籍を置いた後 福岡の予備校 英数学館に入った。これが部落解放運動のトップリーダー 松本治一郎や 松本英一 上杉佐一郎 さらに当時の社会党の中枢をになう活動家たちと行動をともにするきっかけとなる。予備校は入学も自由なら出ていくのも自由である。学校は上級学校指向のガリ勉派と 籍だけ置いて 遊びと喧嘩に青春の血をたぎらせる硬派の二通りに分かれていた。西山は当然 硬派の筆頭格で 親元を離れて仕送りを受けていることをいいことに、たった一年くらいの間に、酒の味と女遊びを覚えてしまった。西山はこの予備校時代に、ほんの偶然な出会いから松本英一を知るのである。西山は英一を兄と慕うようになり、そのすすめで明治大学に進学する。それが縁で松本家に出入りするうちに、あるとき二人とも兄弟がいなかったことから 松本治一郎が おまえたちは 兄弟として仲良くやれ と すすめた。それを機に西山は英一と義兄弟の縁を結び やがて松本家の一員となった。話は前後するが、英一の死去に際して西山は 親戚代表として上杉佐一郎らと葬儀執行のすべてを取り仕切った。 戦後西山は 社会党宮崎県本部青年部部長を務めたあと 社会党青年部の本部役員となり上京 新橋のツツミビルの党本部に詰めた 片山哲が委員長時代で 書記長は西尾末広 組織部長が浅沼稲次郎 会計は松本治一郎が担当していた。後に国会で活躍する只松祐治 楢崎弥之助 麻生良方とはこのころからの知り合いで 立場を超えて交流した。西山が社会党から一転して右翼運動に飛び込むのは、三浦義一を知ってからである。右翼には左翼からの転向社者が多く、一つの人脈を形成しているほどだが、戦後転向したのは、浅沼美知雄と西山くらいのものだろう。 しかし 西山の場合 社会党に投じたというより、松本英一や松本治一郎の人間性に引かれて 運動に入っていったという方が当たっている。^松本治一郎の周辺には、むしろ右翼イデオロギーに近いと見られる人がたくさんいた。差別と戦いながら苦難の道程を通過してきた松本には それだけの、包容力があったのであろう。だが、政党となるとそうはいかない。特に左翼政党には官僚的な統制や教条主義がついて回り 規律の名の元に しばしば 個人の情熱を摘み取ってしまう。だから 理論よりも人間関係を大切にして感性で行動するタイプには政党には向かない。 西山は、そのことを真剣に考え始めた時期に 藤井丙牛を介して 三浦義一を知る。興論社幹部として活動する中で 三浦邸を頻繁に訪れるようになった。三浦義一の手足となって動くのは 昭和36年3月 昭和維新連盟を結成して独立してからである。日本の右翼 猪野健治 ちくま文庫 西山広喜の項よりhttp://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200702240000/最後に 開店当初の代表取締役社長だった 父 山本平八郎である。父は戦後間もなくから、博多を中心に 九州各地で 水商売に手を染め、キャバレー上海 クラブ金馬車などの11軒の店を展開していた。そもそも父がキャバレー経営を手がけるようになったのは、地元福岡出身の政治家で 初代参議院副議長を務め 全国水平社を結成し部落解放運動に生涯を捧げた松本治一郎先生の力添えがあったからであった。 終戦直後 日本各地でアメリカ進駐軍兵士の慰安の為の施設をつくることは 急務だった。しかし 博多でそれだけの広さのキャバレーをやれる場所は限られている。そこで白羽の矢が立ったのは 松本先生が関係していた東公園近くの劇場の跡だった。これで場所は見つかったが、さて いったい誰が店をやるのかという段になったとき、山本の平ちゃんがよかろう。あれはよか男たいという松本先生の鶴の一声で父に任されることが決まったと聞いている。 東京アンダーナイト 山本信太郎 広済堂より補足ですが 山本平八郎は 満州浪人の方であったようで この本には 笹川センセイと 同席した形での写真が出ています それなりの方のようですイデオロギーというバカの壁にとらわれると見えにくい人脈ですが 自分なりに この人脈を見ていこうと思います
2010年05月24日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10035450&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 財政(26-036)東京朝日新聞 1930.10.26(昭和5)又削り取られた暗い政治の費用記録される浜口内閣の一善政機密費三割減の英断現役の役人の賞与を天引してる傍らでは退役の恩給増加の新規要求を承認したりしている今度の来年度予算のうちで「機密費三割減」とあるのには世間ではニッコリ好意を感じたが、これでギックリと来たのは政界の裏道で機密費を食っている浪人でこの連中の間ではすこぶる評判の悪い予算編成とある浜口内閣の政治で善政といえば金高は小さいながらも機密費を今度で二回減らした事をあげねばなるまい、何しろ政友会内閣の昭和四年に一般会計、特別会計両方で機密費三百六十八万二百八十一円あったものが、浜口内閣になってからの五年度には五十三万四千二百八十円を減じ、今度又更に三割即ち九十四万三千八百円を節約して来年度は二百二十万二千二百円位つまり政友会から引き継いでより暗い政治の費用を百四十七万八千円程も減らしたのだから、まずまず「明るい政治」の看板だけの事はあると一応は褒めてやってもいいと評判されている 何といっても機密費は会計検査院法第二十三条にも「政治の機密費に関する計算は会計検査院において検査を行う限りに非ず」と「機密費」なる奇怪なる言葉を法律の公語として明記してある通りこればかりは内閣帳場のお目付役たる会計検査院に対しても天下晴れて「検査御免」の暗い金だ、何に使ってもどこからもお小言が出ない、それでこそ去年の七月二日内閣が変った時まだ会計年度を三ヶ月しか過ぎていないのに十万円の内閣機密費がスッカラカンになったとかで鳩山大番頭さん始めあせだくで走りまわり十万円を十二で割って残る九ヶ月分の七万円をひねりだしたり、中島弥団次郎書官が「大きなカギを渡されはしたが中味は新聞紙ばかりだった」などと選挙の攻撃演説をしたりするという醜態を演じたりするのも当然の成り行きである 各省で機密費の零なのはさすがは文教の府たる文部省と、その外に農林、商工両省があるだけだ一番の筆頭は外務省の九十一万三千五百円でこれは□に□外での華やかな宴会費、その他陸軍の十九万八千円、海軍の四万七千円はこれこそ軍機の絶対機密費で田中大将の三百万円事件(戦時)を起したりするものだ、内務省の十二万円は主として警察事務と称するが警保局が浪人の操縦に使ったり地方庁に分配されて中には警視総監などは東京府からつけ加えて二三十万円ももらってるからすごい一番問題なのは大蔵省関係で海外財務官用の本省分はとにかくとして内閣用の機密費だこれが各大臣の施設秘書官の官制にない俸給の金庫であり同時に浪人者の米庫であるのだ 足許から鳥が立った施設秘書官の方はまだかじりつく親爺大臣のスネもあろうが、何かある度毎に「お祝いにきました…いや御心配なことで…ほんの御あいさつに…」等と物ごいに行った有象無象の浪人逹にとっては大打撃だ、この金をあずかっている内閣の番頭書記官長にしてみても「ウム、そうか、骨折ってくれ」と我党大下のうるまいを誇ったものだが悲しいかな政友会内閣の時十万円だった内閣機密費が去年七万円に減らされ、今度は更に三割減の四万九千円へとつるべ落しに削られてはニラミも利かず、他面大下の浪人たるものもこの寒空をひかえて小遣銭がさびしくなり「浜口内閣はケチで駄目だよ」とあって、これからは気前よく政界の裏□の走り使いはしてやらぬといきまいているそうである然し今度の節約も機密費そのものの絶対額を減らすのではなく今までは機密費から出費していたがこれからは「何々宴会費」などと決算書の上に正々堂々と明細にのせられるものは機密費から区別して会計検査院の監督下に属せしめるのだそうであるいずれにしても暗い金の少くなるのはうれしい話だ 少し 話がそれますが 一昔前の 機密費は昨今と 桁がちがいます城山三郎の男子の本懐でも これが参照されていますが よく読んでみると 肝心なことが 抜けていますこの記事から 一ヶ月もしないうちに 佐郷屋センセイが 浜口を狙撃して 入院中の浜口を無理やり国会に呼び出すのが 鳩山センセイです 銃の出所より この事件のポイントは もっと別なところにあるようですね
2010年05月20日
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http://www.jodojo.com/jpsensei.html西岡師匠神道夢想流杖道経歴? 大正13年(1924)東京に生まれる 昭和13年(1938)神道夢想流杖術師範、清水隆次克泰 先生の門弟として渋谷頭山道場、「天行会道場」に入門 昭和16年(1941)神道夢想流杖の「奥入り証」を授与さる。 昭和18年(1943)神道夢想流杖の「初目録」を授与さる。 昭和41年(1966)神道夢想流杖の「後目録」を授与さる。 昭和47年(1972)神道夢想流杖の「免許」の巻物一巻を清 水隆次克泰先生より授与さる。http://www32.ocn.ne.jp/~wrestling/es-s18-mizu.htm私とレスリング部水木 泰 個人的なことですが、昭和十二年の東京府下の中学(旧制)柔道大会で、私の中学が準決勝迄勝ち進んだからだと思いますが、塾を受験するに当たり、どういう経緯か知りませんが、当時の塾の柔道部のマネージャーの方より、十三年二月十一日(当時の紀元節)に他の志願者と共に体格検査するからと案内を受けました。ところがあ、当時は高等学校を志望しておりまして、日が重なって片方しか受験できませんでした。当時の東京の中学生としては、たとえ都落ちしても旧制高等学校への憧れは強く、父母とも口論の末、塾への入学が決った次第です。当初柔道部に入部しようと思っておりましたが、学校を代表する選手になりたいというわけで、蝮谷の道場を覗いてみたところ、先輩同輩を含めて、大館、赤塚、羽鳥、藤川、飛田、山崎、下野川等諸兄の稽古をみて、之は話にならないと、ギブアップした次第です。特に藤川君は亡父の中学の後輩の関係上、中学の会報に赤塚さんとの決戦の模様が常に載っており、印象深いものがありました。 さて私とレスリングの関係ですが、之はもう菊間さんを除いて語ることは出来ません。昭和十三年の夏休み、当時新大阪ホテルに滞在していた父を訪ねるべく、当時の東海道線の「つばめ」の車中で同席したのが縁であります。菊間先輩は日本代表の一員として、関西で行われた日独対抗試合に出る為に乗車していたわけです。当時の先輩の出立ちは、白絣に袴で、私に「君すまぬが席を変ってくれないか、彼等煙草が嫌いなんだ」と、そこから二人の会話が始まったわけです。当時私は、「風間」「菊間」という名前は知っておりましたが、レスリングが具体的にどんなものか、又体育会の組織がどうなっているかも知らないまま、菊間さんの話術にひっかかって、体重別ということに魅力を感じレスリング部に入部した次第です。九月から稽古開始ということなので道場なるところに行ってみると、そこは右翼の大立物、頭山満翁の御子息秀三先生がやっておられる、渋谷の天行会の道場にまるめたマットを拡げてやるというわけで、実際のところガッカリしたものです。当時の私は体育会でないから道場は持てない位までは判ったが、何故天行会でということは最後まで菊間さんに質問しませんでした。わかったのはきわめて近年のことで、同じゴルフクラブの仲間の頭山乙次郎さんが秀三先生の末弟で、或る時期菊間さんと同じクラスだったことを乙次郎先輩に聞き、天行会の世話になった経緯を知った次第で、私には或る面で物事を穿鑿しないというか、納得出来ない事も自分さえ我慢すればよい事なら避けて通る性格があるのだという事を五十年近くなって確かめた次第です。http://www32.ocn.ne.jp/~wrestling/ayumi.html慶応義塾の歴史7年大日本アマチュアレスリング協会が結成され、塾からも慶應レスリング有志会の名で五島三雄、安東喜四夫が出席した。9年早春の頃、菊間寅雄レスリング部創設を決意。 9月16日日比谷公会堂での日布対抗戦に菊間寅雄ライト級に出場。 11月5日三田レスリング倶楽部設立。会長濱田恒一。 クラブ練習場を早稲田大學道場から三田公道会道場に移す。慶応義塾日吉キャンパス開校10年2月10日ベルリンオリンピック第一次候補選抜大会に菊間寅雄、北原俊、熊倉正彌出場。 4月21日 日比谷新音楽堂にて第1回早慶対抗戦を開催。 5月12日菊間寅雄欧州派遣団に加わり神戸を出帆。9月5日帰朝。 10月東京三大学(慶早明)リーグ戦はじまる。 12月練習場を恵比寿駅近くの光風会道場に移す。11年10月専修が加盟、四大学リーグになる。 10月にクラブ練習場を渋谷常盤松町の天行会道場に移す。12年7月アメリカチーム来日、日米対抗戦に菊間寅雄、武田道明出場。http://nodai.cc-town.net/club/modules/club/clubsingle.php?id=5東京農業大学空手部は、昭和10年5月5日、太田千秋・木原秀二郎先輩等を中心にして結成された『東京農業大学空手同好会』から始まっているものであります。 この空手同好会は、発足半才を経た10月25日、その名称を『東京農業大学・空手研究会』と改め、当時の常盤松校舎裏門に位置していた『頭山秀三道場』において稽古を行っておりました。 その後、部員の増加に伴って、『東京農業大学・体育連合会』への入会運動が活発に展開され、昭和13年9月に至りまして、ようやく、昭和14年4月1日から、空手部を正会員として迎え入れることが正式に決定されたのであります。頭山秀三が組織した 右翼団体の天行会と 言われますが 武道の道場の面もあり この天行会の系譜に 殉国青年隊があります 児玉センセイの独立青年社は この道場に 居候している集団のような気もします
2010年05月20日
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http://seizejapan5.seesaa.net/article/19740656.html 四元が社長をつとめた「三幸建設工業」は、小菅刑務所で知り合った元日本共産書記長田中清玄から昭和30年ごろ、経営を任されたのだった。社長になったばかりの四元はそのころ始まった八郎潟の干拓に参加したいと考え、農業関係に強い発言力をもつといわれていた河野一郎へ頼みにいった。四元を連れていったのは、稲葉修代議士だった。ところが河野は、おれは利権なんかにかかわったことは一度もない」とソッポを向いたまま。 おのれ白々しいと怒った四元は、「稲葉さん、帰りましょう」と席を立つと、河野が、「まあ待て」と慌てだし、結局、八郎潟に一番乗りできた、という。 それで河野に対する四元の嫌悪が解消したかというと、まったくそうはならず、「三上卓の弟子の野村秋介が、鎌倉の自宅へやってきたとき、ぼくは河野のことをクソミソにいった。その1週間後、野村は河野邸を焼き討ちした。警察がうちにも来るかと思ったが、来なかった。さすがに口が堅い」 野村は、当時の行動右翼の第一人者で、1983年8月19日、経団連襲撃事件で受けた6年の刑を終え出所した。その野村の四元評は、「代表的な右翼を10人挙げろといわれれば、必ずその中に入ってくる人。ただ、歴代首相の内懐に入って政治に影響を与えるという、あの人独特の考え方から、右翼思想の啓蒙や大衆の組織化といった運動はしない。その点を一部の者は右翼と認めないかも知れないが、人格的には立派な人」 と好意的だった。 野村もまた、三島の竜沢寺に籠もった経験をもっていた。 以上は、既出の週刊誌1984年2月10日号からの引用だ。http://www.kamou.co.jp/keiten/yotu/nakayotu5.htm 四元は、中曽根と歩んできた過去をふり返りながら、訥々と語った。「中曽根を注目しだしたのは、河野一郎が死んでからだ。ぼくは、河野のところへなんか行くんじゃない、やめろ、といったんだけどね。中曽根はいうことをきかなかった。ぼくは、河野一郎が嫌いでね。若いころだったら、叩き殺してやるよ。河野派の連中は、児玉を大先生と呼んでいる。みんな、金をくれるから偉いと思ってるんだ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E4%B8%80%E9%83%8E岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派(旧吉田派)の池田勇人に敗れる。一時、河野新党[3]の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、1961年(昭和36年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。1962年(昭和37年)7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。1963年(昭和38年)7月には、右翼の野村秋介らに、自宅を焼き討ちされている(河野一郎邸焼き討ち事件)。1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名で佐藤栄作に落ち着いた。http://report.jbaudit.go.jp/cgi-bin/infobee/marking.cgi?target=http%3a%2f%2freport%2ejbaudit%2ego%2ejp%2forg%2fs39%2f1964%2ds39%2d0044%2d0%2ehtm&key=%8e%4f%8d%4b%8c%9a%90%dd%8d%48%8b%c6&cat=東北農政局で、昭和39年7月、指名競争契約により三幸建設工業株式会社に87,050,000円で請け負わせ施行した雄物川筋農業水利事業皆瀬1号幹線水路(その3)工事は、40年2月、設計どおりしゅん功したものとして検収を了しているが、平板コンクリートブロック舗装水路の舗装ブロック連結鉄筋孔モルタル注入、盛土等の出来高において工事費1,038,000円相当額が不足しており、また、天ばコンクリートを設計と相違して施行したため、その効果が設計に比べて低下していると認められる。 本件工事は、ブロック舗装水路延長2,748メートル等を施行するもので、設計書および図面によると、うちブロック舗装水路(工事費32,644,000円)は、舗装ブロック11,255平米の各ブロックの中孔に縦連結鉄筋をそう入した後、その空げきに平米当り0.0015立米総量16立米のモルタルを注入することとなっているのに、実際は3,955平米総量5立米を施行したにすぎず、また、盛土12,186立米は、水路の掘さく土を流用して整形することとなっているのに、実際は掘さく土の一部を仮置きしたままとしていて10,245立米を施行したにすぎないなどのため、工事費1,038,000円相当額が出来高不足となっている。さらに、天ばコンクリート164立米は、舗装の一体化をはかるため舗装ブロックの中孔にそう入した縦連結鉄筋の上端に横鉄筋を結束し、これを包んで幅30センチメートル、厚さ10センチメートルのコンクリートを打設することとなっているのに、実際は左右岸延長3,044メートルの91立米(工事費945,032円)は結束鉄筋が下方に曲げられたままこれを包むことなくその上にコンクリートを打設したため、舗装の一体化をはかる効果が低下しているものと認められる。 本件に対しては、請負人の負担において工事費2,604,000円で手直しする旨の報告があった。http://mimizun.com/log/2ch/sisou/1067886230135 :右や左の名無し様:03/11/27 21:48 ID:Y7CYIrjX野村が全愛会議理事から河野邸事件後に籍を抜かれなかったのは、 やっぱり児玉も「なかなかの男だ」と一目置いたからだろうね。136 :右や左の名無し様:03/11/28 18:22 ID:ElpBPjXN野村が全愛会議理事から河野邸事件後に? 除名されてない?はい?なに?なんですかぁ? 何で葬儀委員長が志賀なのって思ったのは私だけ?137 :野村ファン:03/11/28 20:11 ID:sVJNc9iT>>136 ??何が言いたいの? 当時河野マンセーだった右翼勢には野村に対する非難がかなりあって、 でも結局除名されなかったのは、上の方に野村支持がいたからだろう。 その辺のことは著書に書いてあるが。野村秋介の 河野一郎邸焼き討ち前後の話を いろいろあげてみました このあと 田中清玄が 銃撃されるわけですが 清玄自伝では 野村秋介との絡みは 経団連の襲撃はとりあげていますが 焼き討ちの話はスルーですまた 当時の右翼関係の連合体の全愛会議から 野村が籍を抜かれていないというのは面白いですね これは児玉センセイが野村が漢であるということを認めていたなどという見方もありますが これは単に 野村に背後があったということで 全愛会議の最高顧問クラスに 河野シンパである 児玉の 反対勢力があったということでしょう それがあるから 野村が河野邸を焼き討ちし 刑務所で無事にお勤めをすることができたんでしょうね そうでなければ果たしてですから軍国主義うんぬんというよりも この騒動は官僚派と 党人派の代理戦争というのが本質でしょう清玄と児玉
2010年05月15日
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当時の部長進藤次郎の記録によると 昭和二十四 五年ごろらしいのだが 進藤に警視庁の記者クラブから キャップの川手が電話をかけてきた しんちゃん 大特ネタだ 台湾から貨物船一隻分の砂糖を密輸した奴がいるんだ MPも抱き込んで 白昼堂々それを陸揚げし 百数十台のトラックで 神田の倉庫に運び込んだ奴がいる 怪物児玉誉士夫の仕業で MPも一枚噛んでいるというので 警視庁でも手が出せず 歯ぎしりしながら 見過ごしたというんだ しんちゃん どうだ 思い切ってすっぱ抜く勇気があるか川手は部長をしんちゃんと気安く呼ぶ唯一の部員である 進藤は一瞬 ゴクリと唾をのみこんだ 児玉とMP絶対に間違いないと 保証できるか絶対に間違いない 警視庁の○○がハラに据えかねて 涙を流しながら俺だけに教えてくれたんだからわかった いこう すぐ社にあがって書いてくれ飛んで帰った川手が書き始める 進藤が直接手を入れ 整理部へ デスクは仰天 整理部長も自ら原稿を読み返しながら進藤君 大丈夫だろうな絶対 大丈夫 警視庁 キャップの川手がここにきて書いたんだからねトップ五段で朝刊に 用紙事情の悪い当時としては 破格の扱いだった この記事は物議を醸した 進藤は日比谷交差点の角にある三信ビル内の米憲兵司令部に出頭を命じられた 憲兵のマークをつけた大尉から二世の通訳官を通じて取材源を聞かれ いえませんと答えると 巣鴨刑務所行きだ それでもいいかと怒鳴られたのに対して 進藤は オーケイ アイ ウイル とやりかえしたいったん放免となったあと 今度は 田中栄一警視総監に呼ばれ だれが川手君にネタをもらしたか 教えてくれとおられる進藤は激怒してやり返したあんたは警視総監じゃないか あんたの部下が漏らしたんだろうから その部下を庇ってやるというならわかるが 反対に 俺に証言させて部下をMPに売るとは何事か いましがた司令部に呼ばれて同じことを聞かれ つっぱねて帰ってきたことを告げる帰社すると 社会部全員が拍手で迎えてくれた 編集局内のあちらこちらからも歓声があがる それからまもなく 児玉の顧問弁護士が社会部長に面会を求めてやってきた Kという元検事で 進藤とは古くからの顔なじみ 応接室に通され 何だ 君が社会部長だとは知らなかった ちょっと電話を貸してくれと その場で受話器を取り上げ児玉君 朝日の社会部長は君もよく知っているはずの進藤次郎君だよ それでも告訴するのかねと聞いた 話はすぐ終わった進藤君 さすがは児玉だね 朝日の社会部長は君も知っている進藤次郎君だぜ それでも名誉毀損で訴えるのかねと聞いたら 彼 即座に あ やめたあ って いいよったよ現代史の目撃者 朝日新聞記者たちの昭和事件史 上原光晴 光人社ずいぶん 規模のでかい密輸だなという気がします 当然 複数回行われたのだろうし 台湾とのコネ 船の手配 それの荷揚げ トラックの手配 関係機関とのやりとり 現場の仕切と警備 資金四十前で それなりの男になっていたようですね 児玉センセイはまた朝日との関係は終わりよければ すべてよしといえないような気がしますが 児玉と朝日にはいろんな貸し借りの関係があったんだろうなという気がします編注 進藤次郎 清玄センセイの自称友人です編注 神田の倉庫 日通マークのトラックで 鉄道貨物で全国へ編注 三信ビル内の憲兵司令部 密輸からみは憲兵だったけ
2010年05月08日
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