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鳩山一族 その金脈と血脈 佐野真一 文春新書第五章 保守合同と保全経済会事件という章があり 伊藤斗福の写真がでていますが 暗くて鮮明ではないのですが 一緒にでている児玉センセイと 大正力に比べれば いい男です私はこう考えるを参考にして 佐野真一さんは保全経済会の立ち上げまでをまとめているのですが http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50290896.htmlこちらのほうで まとめられている 肝心なところがスルーされていますし スターリン暴落で 破綻したと 佐野さんは 書いていますが ここででている 三千万の土地を七億で買ったとか 国会議事録でも指摘されている 二重三重帳簿をつけているということを考えれば いつか破綻する ペテンだったというほうが正しいと思います朝鮮人の出であるとか 政治家の方が もっと悪いという点から やや評が甘くなりがちですね ナベツネのことを書いた魚住昭にも同様のことがいえます佐野真一は 伊藤斗福のその後を追い 斗福の後妻の連れ子から当時の事情などを聞いていますが 斗福の裁判費用 家族の面倒は児玉センセイが見ていたようで 生活費は 秘書の太刀川が 直接 届けにきたようです長女が 共立女子大を卒業後 在日 親父が前科者 当時は必ずしも就職には向かなかった四大女子ということで どこにも就職できず 最後に 児玉センセイに泣きついて 東亜相互企業にいれてもらったそうです佐野真一は これを義理堅かったと評していますが 確かに 三木武吉から 伊藤の面倒を見てやってくれと 言われていたようですが ほんとうにやっていたとは 正直 意外でした ただ なぜ振り込みでなく 児玉の秘書が 毎月 届けにきたとか なぜ 斗福の娘が なぜ 最後に 児玉に泣きついたか ということを考えると やはり身柄を 親族込みで 押さえていたという面もあったとおもうのですがね佐野真一というのは 優れた書き手だと思う反面 対象の描き方への つめが甘いなと思います
2010年04月27日
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http://mimizun.com/log/2ch/4649/1019226348258 :資料室 ◆Pdi7T.x7Zg :02/10/23 18:58昭和31年3月浅草妙清寺事件 『任侠』猪野健治 双葉新書 によると 住吉一家・箭内武治の葬儀式場へ大幹部の一人向後嘉豊が配下数人と共に車で乗り付け 同列の大幹部高橋輝男とその配下の桑原正昭を短銃で狙撃、参列者側も短銃で応戦し 高橋、桑原、向後共に死亡、止めようとした阿部重作も傷を負った。 衝突の原因は毎日新聞昭和31年3月7日付によると 高橋輝男が大日本興行の経営と殉国青年隊の黒幕として羽振りがよく、阿部の世話も していたのに対し、向後は経済的にもめぐまれず、総長との関係もうとくなりがちで 高橋からもかるくあしらわれているため報じた。 詩人の菊岡久利は「ある世界のできごと」中央公論31年6月号で 新ナショナリストとしてこの世界で人望を集めつつあった高橋が力第一主義にものを いわせて、住吉一家の跡目をあまりに性急にのぞんだ結果起こった事件。 ・・であったという。259 :名無番長:02/10/24 00:53それで亀和田親分は?住吉系のはずなんですが誰なんでしょう?シマは銀座です。260 :名無番長:02/10/24 18:05菊岡が詩人か?笑わしよんの。 古すぎるが、笑わし夜。笑わし夜261 :資料室 Pdi7T.x7Zg :02/10/24 18:36昭和31年3月ごろは、詩人やったゆうことやがなァ~(藁×3 http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun21KK.htm 昭和31年3月浅草妙清寺事件 は古い話しやと笑い飛ばすか住吉は・・。http://kitayurakanbi.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-615d.htmlギャング映画以上銀座通の詩人菊岡久利氏の話『銀座には職業的な博徒と素人バクチのほか国際的な賭博団が入っているという噂はきいていた。博徒はサイコロ、素人は花札、国際クラブはルーレットやパチンコ式の金がザクザク出てくる機械など洋風なものを使っている。外国人の賭博は米軍進駐と同時に直接アメリカから入って来て盛んになり、それを上海あたりでかぎつけて集ってきた者もいるらしい。だがこういう国際クラブは東京から離れて遠出するのが多く銀座の真中で開くことは少い。もし開帳しても見張り、用心棒などヘイタイの配置はギャング映画以上の厳重さで聞き込みぐらいで挙げられるものじゃない』http://www.plib.net.pref.aomori.jp/top/museum/kuri_hokkinin.html菊岡久利画心展発起人名簿 「菊岡久利画心展」個展パンフレットに掲載された発起人名簿 1970年2月 ギャラリーアート(有楽町) この個展の開催された1970年の4月に菊岡久利は糖尿病による心筋梗塞のため、新橋の慈恵医大付属病院で亡くなった。61歳。 久利は生涯「画心展」を都合3回開催している。あとの2回はいずれも東京画廊で昭和33年と34年に続けて開催している。当時、画廊での展示を担当した松本氏によれば、「新米の自分には非常に優しく接してくれたが、連れていた書生には厳しい態度を見せていた」と思い出を語ってくれた。またその時の作品はすべて完売し、追加の作品も快く出してくれたという。 さてこのギャラリーアートの個展開催の発起人名簿はきわめて興味深い。なぜなら、菊岡久利の複雑な人間関係が見て取れるからである。順不同と断っているが、最初に名を連ねるのは、菊岡久利の二人の師、頭山秀三と横光利一のご子息たちである。そして竹下夢二の長男の名も見える。長老格で言えば、このパンフレットに序を寄せた武者小路実篤、鎌倉在住組では、川端康成、小林秀雄、今日出海、永井龍男、林房雄、團伊玖磨等の名前が挙がっている。懐かしいところでは若き日アナーキスト鷹樹壽之介の『哲學の反動と哲學抹殺』を出版したA思想協会の前田淳一もいる。ムーランルージュ関係者、伊馬春部や阿木翁助、横倉辰次、詩人仲間はさすがに多く、草野心平、土方定一、緒方昇、高橋新吉、金子光晴、尾崎喜八、石塚友二、北川冬彦等が名を連ねる。また右翼の大物、児玉誉士夫や豊田一夫がいるかと思えば、競馬評論の大川慶次郎の名も懐かしい。絵画関係者も多く、洲之内徹、鳥海青児、朝井閑右衛門、少年時代北海道で一緒だった中村善策、久利の肖像を描いた有島生馬、二科会会長の東郷青児、現代画廊の田村泰二郎、そしてもちろん棟方志功、仏教関係では、今東光、朝比奈宗源、最後に画廊主で武者小路実篤の女婿、侃三郎の名で締めくくられる。久利が中心にいなければ、どう考えても一緒に名前が挙がるはずもない人々である。人間菊岡久利の大きな魅力と生き様が垣間見える。http://www.geocities.jp/sumus_co/daily-sumus0508.html『恐るべき子供たち』(日比谷出版社、一九四九年)より菊岡久利の終戦の日。《八月十五日、敗戦による陛下の御放送のことがあつた時。僕は東京で、頭山秀三先生と共に、先生の背後に、緒方哲夫と並んで承はつた。その時も僕は、慟哭や、歔欷[きょき]といふことを、時間が経つてから反省したのだつた。/陛下のお言葉でさへもはやなく、陛下の御声そのものが哀しかつた。/しかしもつと直接自分を、歔欷から、次第に慟哭へと導いたものは、頭山秀三先生の後姿であつたとあとになつて思ふ。》(p258)、頭山秀三は頭山満の息子。 また、こういうくだりもある。横光利一の書斎「雨過山房」について。《ピアノの上の佐野繁次郎の絵、まだ無名だつた館慶一君を激励して彼の絵をかけたまま「アネモネ」があり、青山二郎がもつてきたといふ壺、それから横光さんが最後まで気に入つてゐた、もう十年も前に僕の妹の波多野雛子が贈った血の燃えるやうなエヂプトの布でつくられたクッションがあつた。》(p256) この佐野繁次郎の絵は「アトリエ」という『旅愁第一篇』(改造社、一九四〇年)の装幀に使われた初期作品。また青山二郎から買った壺は宋の磁州窯というふれこみで「銘/自働電話函/青山」と箱書きがあるけれど、図版(『横光利一と川端康成展』世田谷文学館、一九九九年、p98)で見る限り、どうもあやしい、ガンブツくさい品である。菊岡久利『恐るべき子供たち』日比谷出版社、一九四九年 装幀=青山二郎この人は 海城中中退ですが 岩田幸雄と同窓ですが 関係はどうだったのでしょうか 梶山季之著 銀座遊侠伝の中に出てくる 憂国の詩人のモデルがこの人のようで 白木屋事件の調停にも担ぎ出されたようですが 戦後の裏の経歴は ネットでわかったのは上記の通りで あまりわかりませんが 月光仮面の方よりは ある意味 大物だったようです
2010年04月25日
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永井龍男が社長の菊池寛に辞表を提出したのは 敗戦の年の暮のことであったが その数日後 同じ鎌倉に住む年来の友人 小林秀雄がふらりと永井の許へやってきた 小林は永井の退社する気持ちなどにまったく関与せず 一緒に新聞をやらないかと誘った小林の話ではこれまで右翼の児玉誉士夫が経営していたやまと新聞が売りに出され それを譲り受けたある人物が 戦争中に上海で知り合った小林に傾倒し その線で新聞の編集を一切合切任された ついては永井に文藝春秋のときの顔を利かして 営業面の面倒を見て貰えないか という相談であった 小林との関係で 同じ鎌倉組の林房雄 今日出海 それに漫画家の横山隆一 清水昆 田河水泡らも 参画する という 彼らの失業対策対策をかねている趣きもあった 永井も退職後の先行きを考えない訳ではなかったので 渡りに船と身柄を小林に預けることにした大村彦次郎 文壇栄華物語 ちくま文庫編注永井龍男 この人が編集者だったときに 朝日のサツ回りから 拾い上げたのが サンカ小説の三角寛ですが 下記に注目http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060515/p1永井の親分が菊池寛ですが 戦時中に 永田雅一に御輿として 大映の社長にかつぎあがられており 児玉と永田と そして菊池との関係から 永井の行動を考えてみるのも興味深いです小林秀雄 たしか雑誌の正論を 鹿内信隆につくらせたのも この人です 右翼系に強いという面がなぜか 文学者としてのこの人が語られる場合にはスルーされるのは ちょっと残念ある人物 いわゆる児玉のダイヤを 日本まで運んだ 高原重吉のこと そういえば小林の父親は 宝石業界の方だったりしますが林房雄 新夕刊の副社長として入社するも 本業の為に 永井と交代 この人の親分だったのが 作家にして政治家にして株屋の 小泉三甲です
2010年04月21日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E4%BC%B4%E7%9D%A6岸内閣時代、岸信介首相から大野派(白政会)を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書を手に入れるが、これを反古にされる[2]。一説にはこの事について岸は「床の間に肥溜めをおけるわけがない」と言い放ったという[3]。この出来事をきっかけとして、大野は終生岸を憎むこととなる。岸が首相辞任直後に右翼に襲撃され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが」と発言したという説もある。また、この密約にも立ち会った岸の実弟佐藤栄作にも強い反感を抱くようになり、「俺の目が黒いうちは佐藤は総裁にさせない」とうそぶくほどであった(ただし佐藤に対しては、もともと佐藤が当選前に官房長官についたころから態度がでかい官僚だとして毛嫌いしていた)。一方の佐藤も大野を評価しておらず、大野が死んだ際には大野の庶民性を称え「“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい、私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」とコメントしたが、後に「他に褒めようがなかったからだ」と酷評している[4]。大野は首相就任に強い意欲を燃やしており、1960年7月に行なわれた岸辞任後の自民党総裁選では、池田勇人に対抗し、石井光次郎とともに党人派から出馬に名乗りを上げた。しかし、大野支持で岸派の一部・十数名を束ねていた川島正次郎から「党人派が分裂すると池田に勝てないので、石井一本にまとめたほうがいい」との進言を受け、大野は泣く泣く出馬を辞退する。ところが川島は「大野を支援しようと思ったが、辞退したのでわが派は池田を支持する」と表明し、池田当選に一役買うこととなる[5]。この時大野は「川島にだまされたんだ」と再度号泣したといわれる[6]。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/035/0320/03508110320002c.htmlこの犯人の荒牧退助というものは、ずっと前に、相当以前ですが、いわゆる大化会とかいう右翼の団体に関係を持っておったことがあるのであります。しかしながら、その後そういうような団体のものからもあまり相手にされないような状況になったらしいのであります。それで、終戦後郷里の方で製薬関係の仕事をしておりましたのが、それが思わしくいかないということで上京して参りまして、そしてもとの知人関係などからだんだん知り合いを尋ねて、小づかい銭をもらうといいますか、そういうような生活を送っておった模様でございます。事件に関係が直接あるかないかということは別にいたしまして、この荒牧退助が知り合っておった、あるいは若干の小づかい銭のようなのをもらっておったというようなふうに思われる人たちについてのいろいろな調査をいたしてみたのでございますが、結局、この岸総理に傷害を与えたというそのこと自体についての関係というものは判明できない。まあ感じといたしましては、荒牧退助が自分で平素大きなことを言っておる。しかも、岸総理に対するいろいろな意味合いの批判というものもあるというようなことで、岸総理に傷害を与えるということで、あいつえらいことやったというようなことで、その後自分を相当見直してくれるんじゃないかというような気持でやったのではないかという感じを受けておるのでございます。本人が言っておりますことは、岸総理の安保問題に対するやり方というものが非常に手際がよくなかった、そういうようなやり方ではいけないと、そこで岸総理に対して傷害を与えれば、岸総理を初めとして、政治家一般というものがもっと反省をしてくれるんじゃないかというような気持でやったと、こういうことを申しておりまするけれども、まあ大体の感じといたしましては、先ほど申し上げたようなことではないかというふうな私どもは感じをもっておるのでございます。しかしながら、これはなお現在検察庁において目下取り調べをいたしておりますので、さらに真相というものは判明するであろうと思いますが、一応そういうような感じを持っております。編注 なぜ 荒牧が その場所に入れたかが問題だったようですhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/036/0512/03610220512004c.htmlまた警視庁公安二課は、さる七月十四日、岸首相を首相官邸で刺した荒牧退助の調べから、自民党が昔の院外団に当たる団体、特に名を秘しているが、この団体に活動資金を出していたことを突きとめた。政談演説会の整理や、政治家の私設護衛などには、この団体を通じて右翼や「やくざ」が動員されていたということである。それを裏書きするように、当の荒牧は保釈金十万円也を払って出所し、事件前にはその日の生活にも困っていた老人が、豊島区池袋にある福泉閣アパートに、新品の家具、テレビを備え、新調のせびろまでととのえて、ぜいたくな生活を送っているとのことである。また、保釈金十万円は自民党の某氏から元尾崎咢堂氏の秘書横山老人の手を経て渡されたとのことである。http://blog.m.livedoor.jp/santama55/c.cgi?id=65211695【岸信介と佐藤日記】 日記の公開に強硬に反対したという岸信介には、 未だに行方が分かっていない1957~60年分の 日記を持ち出した疑惑があるらしい。証言した のは、佐藤氏の長男・龍太郎氏で、何となく 佐藤家と岸家の微妙な関係が垣間見える話でも ある。 この3年間は、ちょうど岸政権の時代。 安保を巡って、政治家と右翼やヤクザとの関係が 深まった時期でもある。また後に発覚した佐藤氏 によるCIAへの資金援助要請が行われたのも、この 時期であるらしい。 堀越氏も、こうした殺伐とした時期の政界を物語る 話を明かしている。それは、児玉誉士夫も関係して いたことで知られる、岸佐藤兄弟と大野伴睦との間 で結ばれた政権禅譲の密約を巡るもの。密約を反故 にされた大野が、児玉配下の老右翼が岸を襲撃した という一報を聞いた際に言い放った言葉が凄い。 大野は思わず「ざまあ見やがれ、あの嘘つきめ」と大声をあげたという。大野の死後、秘書だった中川一郎が私に漏らした逸話である。(85頁) 編注 岸信介 佐藤栄作 福田の関係は微妙なところがあったようで また荒牧への招待状は 大野伴陸事務所からだそうですが 実行に動いたのは下記の人脈のようですhttp://www.piyoyo.com/report/asin/Blended/4380912086/ 本書、戦前の浅草松竹のプロデューサーから始まり、戦後は自由党の院外団の幹部としてならした東五郎と、その周辺の様々な人物の群像を描くもの。興行から政治の世界へと転身したこの人物の半生を描きながら、戦後日本の議会政治と裏社会との深い関わりを浮き彫りにしていく力作。いわゆる実録小説であるが、面白いので一気に読める。政治というものはその根本において「権力」であり、その点ではヤクザと政治家は基本的に同じ体質を持ち、しかも表と裏という違いこそあれ共に権力を持つ者として現実において屡々手を結ぶということ。そしてヤクザが剥き出しの暴力をその本質としているのに対して、政治家はそうした直接的で表立った暴力というものはタブーとしているものの、権力の巨大さゆえにヤクザ以上の強力な暴力を、駆け引きや権謀術数を通じて行使する凄まじい世界にいるのだということを改めて考えさせられる。本書のクライマックスはタイトルにある「総理を刺す」という事件。安保闘争の真っ只中で起こった、岸信介首相に対する傷害事件である。このあたりの流れは、意外にあっさり書かれているものの、なかなか緊迫感があり、読ませる。うるさいことを言えば、本書、少々叙述のバランスが悪いのであるが、戦後史の一断面を鋭くえぐり取ってくることに成功しており、面白く、また興味深い。編注 永田雅一といえば 千本組の三下で いろんな意味で 松竹とも縁のある方ですhttp://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200707010000/山口登が築いた戦前の実績は、三代目の田岡一雄にとって大きな遺産になっていた。山口組を継承すると同時に田岡は、関東の親分衆とも縁をもつことができた。横浜の博徒笹田照一は山口登の兄弟分だったが、田岡を売り出すために五分兄弟の盃を交わしている。山口登は、戦前の興行界に大きな勢力を持っていた籠寅組と対立し、刺客に襲撃されて本人は重傷を負い中島武雄という客分が殺されるという事件があった。その抗争の仲裁に奔走した一人が、もと松竹浅草の大プロデューサーで自由党院外団の最高幹部だった東五郎という人物である。田岡は東の行為を徳として、上京するたびに交遊を深めた。東の義兄弟の一人に、関東姉ヶ崎四代目の山本五郎がいた。田岡は、山本とも義兄弟の縁を結ぶ。山本の兄弟分には、東京の戦後裏面史に名を残す岡村吾一 新田新作 入船貞治 藤田卯一郎 てき屋芝山益久 安田朝信などの親分衆がいた。彼らは、田岡と回り兄弟の関係になる 伝説のやくざ ボンノ 正延哲士 幻冬舎アウトロー文庫より編注 名前を売るというのは こういうことなんでしょうか かならずしも 児玉センセイ主導で 動いたわけではないとおもうのですが
2010年04月11日
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http://blog.m.livedoor.jp/ekaken/c?id=51440496編注 心に残る人々という本で 白洲正子と岩田幸雄の交流が描かれていますが 上記は それを補完するもので 下記はその孫の 白洲信哉の証言です 思ったよりも交流があったようです これに次郎が 電源開発に関連が深かった点を考慮に入れて 下記の文章を読んでくださいhttp://www.shirasushinya.jp/blog/index.html平成22年3月22日(月) 千代田でみつけた ヒノキ 東京へ戻りすぐまた西へ。広島の古保利薬師堂、耕三寺、大三島大山積神社をまわり尾道に泊まる。尾道は青山二郎展以来三年ぶり。この前行った寿司屋が思い出さず、タクシーの運転手二人に聞いてお薦めのところへ行く。「今日はこれしかネタはありません」と潔いいい店の主人だった。子どもころは毎年夏に遊びにきたけど、広島も久しぶり。岩田幸雄さん、林房雄氏の小説のモデルになった「武器を持たない海賊」(勿論その頃は存じないが)宮島の前に別荘があって、毎日宮島を眺め過ごした。ただ、焦げるほど暑かった。運転免許をとって最初のドライブもここだった。広島のおじさんは(岩田さん)は心配してインターチェンジで迎えてくださり見送ってくださった。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/015/0836/01503050836002c.htmlその構内を久間貢という清掃請負人夫でありますが、これが清掃作業を一手に引受けてやつておつたのであります。それにつきまして久間貢と、それから八大産業株式会社というのが、広島市己斐中町にあつたのでありますが、それの会長の村松通司、社長の岩田幸雄、常務の本多正夫、こういう人間と、それから土井傅と言いまして吉浦自動車の運転手をしているのでありまして、古物の自動車を持つておるのであります。この三者が共謀いたしまして、前後十回くらいに亘りまして合計約三十一トン四百五十五、時価で百七十五万四千円、こういうものを共謀して盗み出しましてこれを呉市にあります城東金属株式会社、呉市海岸通りにあります松村金属工業所、同じく海岸通り六丁目の呉金物店、同じく呉市丸菱産業株式会社、こういう四業者に対して二百八万七千八百円で買却いたしまして、この買却代金をこの三者で分けてとつたのでありますが、この事案は公然とやつた事案でありまして、その役所であります海上保安訓練所の係のものが知らんうちにこそつととるという事案でないのであります。鹿島の副社長(注 渡辺喜三郎)付き秘書だった原二郎は その児玉に初めて会った時のことを覚えている 東京オリンピックが一年後に追った六三年夏 東京駅前の国際観光ホテルの一室 原は ベットに腰掛けた白髪の老人と向かいあっていた老人の名は村松道司 戦時中 中国で軍事物資調達にあたっていた児玉機関の一員とうわされ ホテル隣の電発に得体の知れない影響力を持っていた 村松はそのホテルの一室を事務所代わりに使っていた私は渡辺に言われて手紙を届けに行ったんです 受け取った村松老人の口ぶりでは 九頭竜ダムに関する手紙のようでしたそこへ ようっと声を掛けながら五十がらみの男が入ってきた 白ワイシャツにノーネクタイ 坊主頭 旧児玉機関の首領児玉だった東京地検特捜部 共同通信社会部 講談社α文庫編注 奥様をダミーに使う フィクサーも面白いもんですが 白洲ビルの原資も いろいろな人の骨折りの賜物なんでしょうかね
2010年04月09日
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