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http://www.zakzak.co.jp/sports/golf/news/20100729/glf1007291601002-n2.htm知人の企画したコンペが千葉県内のゴルフ場で開催されることになり、「渡部プロもぜひ」と誘われた。昭和44年秋のことである。当日の朝、「どうしてもご一緒してほしい方がいる」と頼まれたので、同じパーティーで、ある年配の紳士とプレーすることになった。政財界の黒幕といわれていた児玉誉士夫氏だった。戦時中、海軍の嘱託となり上海で児玉機関を運営。戦後、莫大な財産を持って引き揚げてきたことや、右翼の大立者としてフィクサーと呼ばれていたことなど、私にも多少の知識はあった。当日の朝もお付きの人間が数人、遠巻きに我々を見守っていたが、そんなことは私には一切関係がないことだった。私はアシスタントプロになった20代の頃から、人の肩書や収入などで差別・区別することがないように努めてきた。縁があれば誰とでもゴルフをするし、飯も食えば酒も飲む。ただし、ゴルフを冒涜するような行動をしたり、向上心の見られない人が相手なら、それがたとえ総理大臣であってもレッスンを辞退してきた。黒幕だろうが右翼の親分だろうが、ゴルフ場に足を踏み入れれば私は先入観を持たずに一人のプロゴルファーとして接するだけなのだ。私にとっての児玉先生は、実に人間味溢れる人だった。初対面のゴルフ。バンカー内でクラブをソールして打とうとしていたから、「先生、バンカーからナイスショットするいい方法があります。クラブを多少宙に浮かせて打つのがコツなんですよ」と指南すると、ニヤリと白い歯を浮かべて即座にスイングを改めた。後で聞かされたのだが、「先生はバンカー内ソール禁止のルールは当然知っていて、これまで直接的に注意したコーチの言うことは一切聞かなかった」のだという。当時、先生の秘書として行動を伴にしていた太刀川恒夫さん(現東京スポーツ新聞会長)から聞かされた。私のアドバイスの仕方がよかったからなのかどうかはわからないが、ラウンドを終えると「こらからもレッスンを頼みます」と頭を下げてきた。私に断る理由はない。以後、月に1度のペースで主に神奈川県内のコースを舞台に個人レッスンは続いた。世田谷の自宅にも度々招かれた。朝食をよくともにしたが、先生は炊きたての白米に温かい味噌汁を躊躇なくぶっかけては勢いよくかき込み、「これが一番うまい」と言っていた。横にいた夫人が「貴方、お客さまの前ではしたない」とたしなめたので、私も負けずにぶっかけ飯をかっこむと、先生は腹の底から声を発して笑っておられた。自宅の玄関前には、桜や松の大木がそびえており、その真横には小さなお地蔵様が祀られていた。先生は毎朝、庭の野花一輪を摘むと、お地蔵様に供えるのが日課で、「戦争で死んだ仲間たちを弔っているのだ」と言っていた。昭和51年、ロッキード事件が勃発。収賄の罪で裁判に臨むことになった児玉先生の自宅に、小型セスナ機が特攻した。右翼思考の青年が自爆攻撃を仕掛けたものだった。このとき、セスナは自宅前にそびえ立っていた桜や松の大木に接触。進路を変えて2階の一部に突っ込んだ。私はこのニュースをテレビ画面で目にしたとき、瞬時に確信した。「あのお地蔵様が先生を守ったのだ」と…。大木の陰に隠れるようにして祀られていた小さな地蔵。飛行機が樹木に触れていなければ、先生が伏していた部屋にそのまま突っ込んでいた可能性が高かった。児玉家の敷地内をよく知る者なら、誰もがそう思ったろう。日米を震撼させる収賄事件の主人公となった先生は、天下に裁かれて当然であったと思う。ただ、それは私のあずかり知らぬ部分であり、ゴルフを通じて私が接してきた児玉先生は、野花一輪を英霊にささげ、真面目に練習に取り組む好々爺だった。真夏のゴルフが終わると、私は全身滝のように汗をかいた先生の頭によく水をかけた。じゃぶじゃぶと頭や顔を洗ってあげると、先生はヒャアヒャアと子供のようにはしゃいで喜んでいた。暑い夏が巡り来ると、先生の笑顔が今でも浮かんでくる。わたべ・ひでろう 1935(昭和10)年4月16日、長崎県長崎市生まれ。18歳のときに福島県いわき市湯本でゴルフ修行に入る。22歳で上京し、アシスタントプロに。政、財、スポーツ、芸能各界の著名人とレッスンを通じて膨大な人脈を築く一方、1967年にはトーナメントプロライセンスも取得。ワタベゴルフ企画代表取締役、社団法人日本プロゴルフ協会会員。編注 ゴルファーとしての児玉センセイです センセイの人間的な魅力を取り上げたものですが ある面では 人には芝居っけと取られかねないことが センセイはごく自然にできたということなんですかね ジローさんとゴルフをすると どうだったんでしょうか
2010年07月30日
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http://www.shihoujournal.co.jp/member/colum/2010/100307_1.html 昭和38年は大変な年となった。 この年の出来事は政界の黒幕といわれた児玉誉士夫氏抜きには語れない。児玉氏は1911年生まれ、田岡一雄より2歳、稲川氏より3歳年長であった。児玉氏は河野一郎、大野伴睦氏との交流は有名だった。昭和32年7月から34年5月まで検事総長を務めた花井忠氏と良好な関係にあったことは意外と知られていない。この頃は児玉氏や高瀬青山氏といった黒幕が検事総長人事に介入したことも全く語られていない。http://www.shihoujournal.co.jp/colum/100423_1.htmlついては「花井忠さん(この度もかげで私のために苦心しておられます)《注・造船疑獄当時は東京高検検事長、昭和32年7月23日から34年5月12日まで検事総長、定年は12月3日だったのに、突然、5月12日辞任、当時の愛知揆一法相は序列最上位にいた岸本東京高検検事長を差し置いて、清原邦一次長検事を後任総長に抜擢した》に貴兄( 編注 児玉誉士夫)からのお尋ねとして「高瀬のいっていることが事実か否か」確かめていただきたいのです。私としては、石井氏は当時造船疑獄容疑者の1人であって私が馬場検事正と打ち合わせて、石井氏が肯定してしまった金銭授受の事実を私の指揮権で「無い事」に書き換えさせたので、今迄は石井氏を私の被告訴事件の証人としては遠慮して居たのです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E4%BA%95%E5%BF%A0なぜ 児玉と懇意なのかについては 立花隆も不思議がっていますが 花井忠の経歴を見ると 右翼関係の弁護を多くしているので そこからの縁なんだろうかとおもうのですがさらに もうひとつhttp://homepage2.nifty.com/tanizoko/hosi_hajime.html#issin上記の経歴にもありますが 花井が 星製薬関係の学校に役付きで参加していて その星製薬が阿片関係でいろいろあったという話 あるようです
2010年07月28日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/084/0750/08405100750005c.html○伊藤(榮)政府委員 大臣が御答弁になります前に、先ほどお答えを留保しました野村証券との関係につきまして御報告申し上げます。 これは、昭和二十四年ごろ、瀬川社長とパーティーなどで顔見知りとなり、以来友人づき合いをしておりまして、野村証券から中元、歳暮などを出すようになった、こういうことのようでございまして、以上が瀬川氏の検察官調書、これは公判廷で取り調べ済みでございますが、それに記載されておるようでございます。フィクサー等の関係は全くない、こういうことのようでございます。証券市場は閉鎖されていたから 証券会社の社員には仕事らしい仕事はなかった 証券会社のうちには 復員者を全部は受け入れないところもあったが 野村証券は全部受け入れた しかし何からでも始めなければならなかった スピードクジという宝クジが発行され 人気を集めていた その場で開封すると あたり はずれがすぐわかるクジである 野村證券の社員は 二 三人ずつのグループで 駅の構内や繁華街に机を置き 声を枯らしてこの宝クジを売って 手数料を稼いだヤミ屋に変身してしまった證券会社も少なくなかった 伝手を求めて各地から 海産物や米 野菜を集めて転売するのである 野村證券も似たようなことをやった 当時の東京支店長は 瀬川美能留であった 彼はこう述べる社員たちは復員して会社にもどってきたものの 仕事はなく 弁当を食べに会社に通っているようなものであったか その弁当とてままにならない 中略 自分たちの生活は自分たちで守る以外 手はないということで 消費組合なるものを設立したのである まず社員からに二十円ずつ供出してもらい 同時に会社から 同額の借入金をえて 十万円のファンドで 消費組合をスタートさせた 幸いにして食品会社にコネはあるし 各業種にわたる個人得意先の支援もあって 仕入れは順調に進んだ 醤油 油 鶏肉など 公定価格でわけてもらい 多少のサヤを取って 転売し 残りをほとんどタダ同然の値段で社員に配給したのである 中略 この消費組合はわずか3~4月間でかなりの利益をあげて解散することができた野村商法物語 武田康著 中公新書
2010年07月24日
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児玉 最後の判決が下る間際でしたね バスがこうずっと もう夕日が落ちようとしてたなあ こんな大きな太陽がねえ で ぼくが 月が昇るのかなといったら ばかいえ あれは太陽だよ といっているときに 橋本欣五郎さんが 軍隊では少尉が下士官をぶんなぐる 下士官はあたるところがないから兵隊にあたるんだ 兵隊は下がないから馬けっ飛ばすんだ ところが東京裁判ではわれわれどんなにいじめられてもあたるところがないじゃないかというんです そして木戸の方を指さして こんなヤツがいるから いまさら何もご存じないみたいなこと抜かすから おれたちのところへみな背負わされるわ 嘘ばかりついているわ この野郎と 橋本欣五郎って そういう男ですからね とにかく ちょっと変わった大佐でしたよ大森実著 戦後秘史 1 崩壊の歯車 大森実直撃インタビューより
2010年07月16日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%B3%89%E5%AF%BA_(%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA)常泉寺(じょうせんじ)は、東京都墨田区に所在する日蓮正宗の寺院。山号は久遠山(くおんざん)。略創価学会の戸田城聖の会長就任式は1951(昭和26)年5月3日同寺院を借りて行われた。関根組の発会式は1953(昭和28)年、同寺院で行われた。関根組は現在の広域暴力団松葉会の前身であるとされている。当時を知る同寺院の檀家の方の話では、組長は立派な信仰の人であったと評価している。関根組の組長は大都映画社長で、東京市参事、大和民労会会長の河合徳三郎の門下であるが、河合の墓も常泉寺の境内にある。関根組の発会式がとありますが この時点ではすでに解散していますので これは松葉会のとすべきで ここにでてくる組長は 関根賢でなく 藤田卯一郎ではないかと思います信濃町の先代と同じ お寺さんに縁があるというのも 面白いもんだと思います
2010年07月14日
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http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2989.html ところで、これまでみてきたのは神道系、あるいは神仏混交系、さらにいうならば基本的にはシャーマニズム系の新興宗教だったが、これとはまったくべつに既成宗教の現代的復活がみられたのも昭和・平成史のだいじな特色であった。とりわけ、わたしが興味をそそられるのは、日蓮宗系統の活発なうごきである。 そのひとつの源泉は日蓮宗と社会主義運動とのふしぎな連携であった。わたしはその具体的なひとつの例を高田宏の『われ山に帰る』からまなんだ。この伝記の主人公は小山勝清。かれは堺利彦から社会主義を、柳田国男から民俗学を学び、晩年は「彦一頓知ばなし」のような童話作家として一生をおえた人物だが、かれの理想としていたのは「金持も貧乏人もない平和な世の中」で、その「社会の作りかえ」をマルクス主義にもとめた。堺のもとで勉学をしていたころには毎日のように理想郷=共産主義社会への夢をつむいでいた。 ところが、その小山のグループが大正八(一九一九)年十一月、足尾銅山のストライキの指導に出かけたときの記録をみると、労働者たちを扇動するために法華経が引用されているのである。労働者の同盟会でのアジ演説はこういう。 「加藤清正は南無妙法蓮華経の旗を立てて戦い、戦うたびに勝利をおさめた。あの旗は死を決していたことを示している。諸君、われわれも死を賭す決心で団結すればかならず勝てる」 そして四千人をあつめたこの鉱山労働者集会がデモを開始すると、プラカード、提灯、竹ぼうきなどを手にもって、法華の念仏がとなえられたのだ。まだ労働組合は成熟していなかったし、マルクス主義のイデオロギーは一部の指導者以外には理解されていなかった。そんなときに集団の士気を鼓舞したのは赤旗でもなく、労働歌でもなく、南無妙法蓮華経としるしたのぼりと法華経の大合唱だったのだ。ちなみに絲屋寿雄の『流行歌』によれば、「インターナショナル」がはじめて歌われたのは大正十一年のことだったから、現代労働歌はまだ誕生していなかった。それにしても、これはいったい、どういうわけなのであろうか。 わたしは宗教史にくわしいわけではなく、ましてや日蓮宗について知るものでもない。しかし、この足尾のストライキの時期をかんがえてみると、どうやら大正六(一九一七)年に東京浅草で発足した日蓮主義の勉強会「統一閣」などと関係していたのではないかとおもわれる。この「統一閣」なる団体は、ただしくは「本化聖典研究会」という。中心人物は本多日生、清水梁山。この研究会は日蓮ののこした文献やマンダラの整理と解読を目的とし、ひろく門戸を開放していた。そして、そこにはのちに血盟団をつくった井上日召や社会主義者の妹尾義郎なども顔をみせていた。法華経の熱心な信者のなかには華族もいたし、軍人もいた。このことは、あとでもういちどふれる。 おおざっぱないいかただが、日蓮宗は日蓮の『立正安国論』以来、たんに個人の救済をその教義とするのでなく、「国家」、あるいは「世の中」の改革の必要性をつよく説いた点で他の仏教諸宗派とことなる。日蓮じしん、かれの同時代の人心が法華の正法にそむき、邪法を信じているがゆえにやがて内乱と外国からの侵攻が起きるであろうといい、国土の安泰のためには法華の正法を信じ、宝土の到来を待つべきだ、と主張し、そのゆえに鎌倉幕府によって流刑の運命をたどった。いわゆる「法難」である。 日蓮宗のもつこの「社会性」が宗教を呪術から解放し、のちに日本の「近代」をつくったひとつの思想的準備であることは、すでにベラーが『日本近代化と宗教倫理』のなかで指摘しているとおりだが、「国」ないし「社会」の将来に関心をむけ、現世の「改革」をつよく訴えるという点で、それは国家主義ともむすびつきうる性質のものでもあったし、また社会主義とも連動しうるものでった。それにくわえて、日蓮宗はその行動性のはげしさにおいて、他の仏教教団とくらべものにならないほど過激である。足尾のストライキで法華経が矛盾なくうけいれられたのも、こんな事情があったからであろう、とわたしはおもう。興味深い点を抜き出してみましたが 児玉センセイのお墓がどこにあるか あまりいわれていませんが 考慮すべき点であります
2010年07月13日
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http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/cat38443296/index.htmlさてその天保庄屋同盟とは、「中岡慎太郎」宮地佐一郎著より 天保庄屋同盟 山崎闇斎、谷秦山の南学神道思想から、賀茂真淵、本居宣長の国学復興につながる谷真潮、宮地春樹、三代仲枝、鹿持雅澄らが継承した土佐万葉学の影響は、山村から漁村に浸透した。天保の頃、一領具足の末裔たち庄屋層によって、「天保庄屋同盟」が秘かに結成されてゆく。安芸郡の古老の伝えるところによれば、慎太郎の父北川村大庄屋中岡小伝次の家に郡下の庄屋が大勢集まり協議がなされている(第二章参照)。雅澄の友人細木瑞枝庵常もまた大庄屋の出で中岡小伝次と同世代であって、文化より天保にかけて高知近郊郷村の庄屋職を歴任し、徳望と学問を施政に残した。また同じく吾川郡芳原村(春野町)郷士吉本虫夫東原は、谷垣守や真湖に就いた南学者であって、天明期より寛政にかけて、吾川、長岡郡の大庄屋を勤め、農山村に南学、国学思想を広めた。在野のこの人々の思想的結成が「天保庄屋同盟」を通じて、天皇を王道として憚らない思想結集を行ったのである。天保十二年(1841)、郷士の席次が町役人の下になったことを契機として、「王道を背き僣上の罪見遁しがたく」として「庄屋同盟談話条々」五十二条が起草された。天皇親政を頭書に唱え、人間平等思想のことから、藩庁の封建的秩序への批判など、庄屋郷土層の目覚めた声を伝えてゆく。庄屋職は昔の「天邑君」(あめのむらきみ)に当り、低い役人ではあるが、「神勅正統の職掌」であって、古より天皇によって任命された神聖職分であることを確認している。 およそ一天四海のうち棟梁は唯一にして、当時受けつぐ処三段にわけて、しばらく是れを合はせて四等といふべし。その総主はかしこくも天皇尊(すめらみこと)、御代官は将軍、御与頭は諸大名、是れを烹鮮(国政)の職と云ふ。小頭は庄屋にて土地人物の総宰を預かり申し候。それを物に譬へていはば、大名は庄屋の丸薬なり。庄屋は大名の散薬なり。(「同盟談話条々」第二十二条)庄屋職は「賤吏たりといへども、かたじけなくも神勅正統の職業たるべき事」と宣言している。庄屋は古くから天皇によって任命された神聖な職分であって、将軍大名と共に朝廷に直属すべきものとし、「底土(所有枢)は禁廷(天皇)さまのもの、上土(耕作枢)は太守(藩主)様のもの」と考えられ、配下農民保護の職分に忠誠を尽すべきで、もし農民が武家の一方的な無礼討ちや連れ出しがあっても「承引申すまじく、根元朝廷より国々へ預けたまふ皇民の身体につき」私の料簡を以て引き渡すべきではない。非道の王民圧迫に対しては、武力をもって対抗することこそ庄屋の使命だと言っている。理由は、庄屋は天皇直命の職分で、古代百姓は天皇の大御宝であり、百姓と天皇と直接関係を預かっている神聖職分であると論じている。まことに大胆な意見で、幕末の王政復古に通ずる思想である。庄屋同盟ははじめ土佐、吾川、長岡の三郡庄屋を中核とした秘密結社的なものであったが、後、高岡、香美、安芸の隣郡村に波及したと言われる。この「同盟談話条々」の思想は、二十年後の文久元年(1861)に結成された土佐勤王党盟約に現われ、下土、軽輩、郷士層と共に郡下の庄屋職が多数参加したことも、天保庄屋同盟の思想的系譜が流れ及んだのである。文久二年春伏見の挙兵へ、脱藩参加した高岡郡檮原村の庄屋出身吉村虎太郎が、大坂より郷里の老父へ 勿論四海王臣にあらざるなしといへども、諸侯(大名)、里正(庄屋)は先魁致すべき理。(文久二年四月二十三日)と告げ、また中岡慎太郎も同様に、 先は皇国之御為ニ一天万乗之君之為ニ闕下ニ死し候はゞ、何も何もうらみ御座無く候。(元治元年七月十八日)と禁門の変に参戦する前夜の遺書にある。これが土佐の天皇への土着の思想である。一天万乗の天皇親政を念願し、天皇と人民の直結を思い、その先駆を願っている。南海朱子学は国学神道思想と合流して、山村農漁村に至る庶民勢力にまで浸透し、長年の武家による封建政治を否定する思想となり、幕末土佐の勤王討幕思想にまで展開してゆく。この精神的風土は、武市半平太の土佐勤王党結成(文久元年九月)を経、大政奉還(慶応三年十月)より、版籍奉還、人民平均の説(明治四年)に及び、さらに立志社創立(明治七年)から、板垣退助の自由民権運動に至る思想的系譜を編みあげてゆく。児玉先生がいうところの 天皇主義者ということは こういうことなんですがだから 明治維新にたいしての 昭和維新なんですが 戦後の人間には このへんがわかりにくいし 児玉先生自身も 最後まで この志をもっていたか 昭和天皇に世直しのシンボルを見る層も果たして どれだけいたかなのですが
2010年07月10日
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