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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/1332/00204131332014c.html岡村証人 関係はありません。田中(健)委員 証人は辻氏のところに兒玉機関の金できておることを御承知でしたか。岡村証人 知りません。田中(健)委員 辻氏のところに兒玉機関からきた四千万円のうち約三百万円というものは富士産業の社長から辻氏にきておるということは証人は知らないのですか。岡村証人 知りません。編注 岡村証人 岡村吾一のこと 富士産業については下記の通りhttp://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/nakajima-saito/saito2/naka44-45.html かくて中島飛行機株式会社も、大正6年末創立以来ここに28年の間、日本一を誇る飛行機会社としての生命は、昭和20年8月末を以て輝かしき歴史を閉じて財閥解体、中島一家は財閥追放となった。会社は其後清算会社として富士産業株式会社となった。 中島飛行機時代の債権者である日本興業銀行から野村清臣氏が社長として就任され、「G.H.Q」 の指示に従い、第二会社として、太田、小泉、前橋、宇都宮、半 田、岩手、田沼、荻窪、大宮、三鷹、三島、浜松、四日市、大谷、八戸の製作所は各々独立採算工場として分割せられた。(其後、八戸は中止となり、武蔵、福島と共に整理することになった。)http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200901170000/なお発起人には名を重ねていないが 山種が美術館の構想を得て 最も早く相談したのは 美術の殿様として知られていた元侯爵細川護立であったといわれる 細川は元熊本藩主細川家の裔で文化財保護委員や近代美術館評議員をつとめた一方 東西にわたるその美術コレクションは有名であった 山種は戦前の米問屋時代から 大量の肥後米を商っていた関係で 細川とも繋がりが生じていた 山崎種二 その生涯と事業http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200901170000/公家最高の五摂家から出た近衛文麿公爵は ちょうど廬溝橋事件の年に娘の温子が首相秘書官の熊本藩 細川護貞と結婚し ふたりの間にもうけた細川護煕が1993年に初の殿様宰相として総理大臣に就任するが 護貞の妹 細川敏子が新興軍需財閥 中島飛行機の中島知久平の甥 中島昭吉と結婚する重要な姻戚関係を持っていた 略 しかも近衛家は 江戸時代に酒造業で栄えた摂津伊丹の領主であり その酒造資金を長者番付最高位の小西新右衛門が近衛家に献上してきた。小西新右衛門が もうひとつの新興軍需財閥 理化学研究所総帥の大河内正敏の義兄弟であった 持丸長者 国家狂乱篇 広瀬隆編注下記にあげた 東亜飛行機というところでは 中島飛行機の下請けもやっていたようですが コメの世界からそれに入り込めたのは 上記の関係からのようですが http://asyura2.com/2003/bd24/msg/1036.html 商売の方は米はもちろんのこと、株の方も先細りでサッパリである。戦争のあともそうだったが、本職以外にあれこれ手を出してみたそのうちの一つに、タクシー会社があった。当時うちの営業担当の責任者だった上西康之君(現日栄証券会長)と相談して、東京自動車の株を買い集め、自動車も集めた しかし、運転手は戦争にとられていなくなるし、ガソリンも配給ではままならず 結局、波多野元治さんに譲ってしまった。これが、今の国際自動車の前身である。ちょうど、上西君が体を悪くして、仙台に転地療養に行っていたので黙って売ったが、あとでもったいないとむくれられたのを覚えている。 それと、軍からの意向もあって、海南拓殖と東亜飛行機という会社も手がけた。海南拓殖は占領した海南島を軍の食料補給基地にしようと、開拓事業をやるために作ったものだった。これには家内の長兄、萩原弥六さんに責任者になってもらい、九万町歩ほどの土地を開発、米づくりをやった。この時、私は行かなかったが、時沢郁哉、山崎孝志の両君は海南島に何べんも出かけてくれた。東亜飛行機の方はもともと清水建設がやっていたものを引きうけたもの。立川で飛行機の尾翼作りをした。とにかく、学徒動員による工員さんを七百名ほど預かり、見よう見まねで、一生懸命国策に協力したのである。機体修理も引き受けた。こんなわけで、私は満員電車で午前中は東亜飛行機に午後からは兜町で仕事をするようなことになった。編注 海南島で 本当はなにをしていたんでしょうかhttp://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-02-25-3 大正6年、山梨県の農村に生まれた小佐野賢治氏は、小学校を卒えると上京して働き始める。成人して兵役に服したが、病のため除隊。再び上京して自動車関連の会社を経営するにいたった。そして軍関係の仕事に食い込み、軍需省からは佐官待遇の身分を得ている。一方、戦時下の統制経済の下、都内のタクシー事業者が統合された際にはその一社である国際自動車の役員に納まるなど、まだ20代の若さながら、その政商ぶりを戦時中から遺憾なく発揮している。敗戦後は、占領軍からの接収対象となった山中湖ホテル、強羅ホテルなどの名門ホテルを次々と買収。さらに都内のバス事業の一部(東京観光自動車、東都乗合自動車)を東急から買収するなど、戦後の混乱期に短期間で観光・運輸事業の基礎を築いた。 昭和21年には、占領軍(米軍)からバス事業を受託。接収中の自社所有の前記ホテルと各基地間の運行をはじめとする輸送業務に従事。この事業は占領解除後も拡大を続けた。「北は青森県の三沢基地から、南は九州、沖縄と全国規模で展開」(『国際興業五十年史』 国際興業社史編纂室・平成2年刊)し、最盛期の昭和43年には総車両数千百32台、携わる従業員9百名という大事業にいたっている。一方、敏腕経営者の故か、勇み足も少なからずあり、昭和23年には、統制物資だったガソリンの不正使用の疑いで占領当局に逮捕され、重労働一年と罰金の判決を受けて服役している。また、新潟で建設業から運輸業に乗り出していた若手代議士時代の田中角栄 (のちの総理)とは「刎頸の友」とさえ呼ばれる交友関係を結んでいる。この交友が、のちに田中が逮捕されたロッキード事件での国会証言、そしてその証言での偽証罪による逮捕へとつながっていくことはあまりにも有名である。この逮捕で懲役一年の実刑判決を受け、控訴中の昭和61年に死去した。 小佐野氏の場合、戦時中は軍需で利益を上げ、また統制で伸し上がり、戦後は占領軍の仕事で事業を急拡大させ、さらに占領解除後は時の権力者と交友を結ぶといった、まさに「政商」の面目躍如といったところだ。もっとも、何事にもきっかけというものが必要で、その糸口のひとつが立川にあるという見方もある。 戦前、立川飛行機に勤務ののち立川で軍務に就き、戦後は立川で長く三田花店を経営し、郷土史に造詣の深い三田鶴吉氏は、昭和62年に著した『立川飛行場物語』(下巻)の中で、次のような秘話を披露している。 「国際興業や藤田観光社主として日本一の大財閥となった小佐野賢治さんなども、実は戦前戦後、立川の緑川寄りにひっそりと暮らしていたので、この中野喜介さんが進駐軍専門バス国際興業を興し、権利をあげたことなどは知る人も少なくなったことです」?前記の『国際興業五十年史』などの社史、また各種の評伝においても、この事実を裏付ける記述は見当たらないが、戦時中は陸軍の、そして戦後は米空軍の基地の街だった立川でなら、大いにあり得る話であろう。小佐野賢治氏の弟が南口にいたのだという話もあるが、詳細は分からない。軍需物資の払い下げ小佐野は 当時関東一帯にあった百に近い軍の航空基地の軍需物資にも手を出していました 軍需物資の放出 払い下げのことか あれはなあ 航空本部のえらい将軍から 軍人と懇意だった 山種証券の山崎社長に 航空基地のものをみんな払いさげるからという噺があったんだ ところが山崎さんにはカネはあっても実際に物資を運ぶヘイタイがいない それで わたしのところに話がきたんだ この話は本当だよ ワッハッハッアと語るのは 終戦当時 小佐野と一緒に タクシー会社で働いていた側近の一人 かって代議士にも立候補した経歴の持ち主とあって 話の内容も笑い方もいかにも太っ腹日本の黒幕 小佐野賢治の巻 新日本出版社編注 タクシーの同業者 お隣さん同士ということのようです
2010年10月31日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51167600.html#comments2.?Posted by k_guncontrol???2010年10月26日 00:33米屋というのがそもそも何なのか。まさか街中の米穀商とも思えません。 「当時米を持ってる米の配給、米を扱うやつが一番カネをもってると思ったから俺が売って歩いた」 とのことですが、これだと配給を押さえてる人ということですね。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/007/0106/00702210106005c.html深澤委員 もちろん食糧公団はあれだけの大きな事業をやつておるのでありますから、資金繰りの問題につきましては、相当努力をされておるとは思うのでありますけれども、しかしながらこの食糧公団の滯留資金の中に、新聞でも盛んに問題になつておりますように、いわゆる浮貸しの問題が出ておるのであります。政府に対して支拂いが遅れている。そのために国民もまた税金の中から食糧管理特別会計に相当の負担をしなければならない。こういう事情にあるにかかわらず、公団の内部においては、その滯留しておる資金を利用いたしまして、浮貸しをやつておるという事実が暴露されておるわけであります。そこに実は問題があるのであります。たとえて申しますならば、すでに新聞にも明らかになつておりますが、大阪の公団の幹部が市中の特定の銀行へ相当額の一定預金をいたしまして、その報酬として個人で五百万円の融資を受けて、公団の委託加工の第二会社を設立したというようなことから、当時新聞にも相当大きな問題になつたようですが、この点は一体どういう状態になつておるのか、この点が第一点。 第二点といたしましては、東海銀行の浮貸し問題から、食糧公団の幹部がこれに関係しておるということが暴露されておるわけであります。この問題については、スペインの賭博と同じような、いわゆるハイヤライ競技場を設置するために、いろんな問題がからんでおるのであります。食糧公団の経理第二部会計主任の告原久という人が、この東海銀行の東京支店、長野支店長らと結託して、公団の預金中から八千万円を使つたというような問題が新聞にも発表されまして、当時相当問題になつておりましこが、こうしたような大きな問題は、公団の滯留資金の中から浮貸し、不正融資というような形、あるいは銀行に預金をすることによつて、その預金を見返りとして、公団の幹部が融通を受けて、第二会社をつくつておるというような問題が表面に出ておるわけであります。この二つの事件の経過についてその事情をひとつお聞きし、さらに全国的にもこうした浮貸しのような問題が相当あるのではないかというぐあいに、食糧公団の運営の問題については相当疑惑を持つておるわけでありますので、その点についてもひとつお伺いいたしたいと思います。梶原説明員 お答えいたします。御指摘の大阪におきまする浮貸しの問題でありますが、私は大阪でさようなことがあつたということを承知いたしておりません。おそらく食糧配給公団の大阪支局におきましては、さようなことはないと思つております。 それから東海銀行の八千万円の浮貸しの点についての御指摘でありますが、当時新聞等にそういう報道が出たのでありまして、お話の公団本部におきましてその事務を行つておりまする者が、現に取調ベを受けておるわけであります。しかしまだその実態は捜査中でありまして、私も詳細につかんでおらないのでありますが、公団に関しましては別段の損害と申しまするか、そういう結果にはなつておらないのであります。全国に各支局、支所等がきわめて多いのでありますが、その間いやしくもさような疑惑を招くことのないように、常時督励を加えて参つておるのでありますが、取扱いまする金額が、お話のごとく、相当の額になりますので、その間一般に疑惑を與え、御心配をかけるようなことが間々あり得るわけであります。十分自戒いたしまして、公の機関といたしまして、さようのことのないように努力いたしたいと考えておる次第であります。○深澤委員 なおこの際お伺いしておきたいのでありますが、公団の第二会社的のものが相当全国的にあるようであります。この委託加工関係、それから運送会社等のものが相当あるようでありまして、これに資金の流用が盛んに行われておるやに承つておるのでありますが、そういう点については公団の本部として何か調査せられたことがありますか。それともそういうようなことについては全然考えていないのか。その点をお伺いいたします。梶原説明員 お話のように食糧配給公団の業務を運営いたします上で、各種の関係の機関があるわけでありますが、これらは従前食糧営団当時、あるいはその他の統制会社時代におきまして、すでにありまして、それが公団に切りかわりました際にも、全部これを公団直営あるいは他の方法によりまして運営することが、なかなか困難でありまするのみならず、それらの機関を適正に活用いたしますことが、これまた業務運営上必要があつたのであります。ただこれらの機関に公団より資金的に融資をいたしておるという点でありますが、これは申すまでもなく法令において禁止されております点で、公団よりそれらの機関に融資をしておることは、私はないと信じておるのであります。ただ御承知のように、委託制度をとります場合には、その現物は公団からそれらの機関に提供するのでありますから、現物の提供を受けまして、これをたとえば加工するとかして公団にもどすわけであります。従いましてそういう観点から申しますと、資金的の援助があるというふうに見えるかと思うのであります。資金をそれらに融通するということは、現在までのところ、また今後もないことと考えております。○深澤委員 かつて復金等から融資をされた場合におきましては、公団もそれによつて運営をしておつたようでありますが、復金等の融資がなくなつて自己資金においてやらなくちやならぬということになつた時代から、公団の市中銀行等に対する預貯金というものが非常に増加しておる。二十四年度の三月末におきましても、五十四億というようなことがいわれておるわけであります。こういうところに公団は、つまり政府への支拂いを意識的に遅らしておいて、そうした資金を運用面に充てるということがしばしば問題になつておるわけであります。そういうところから浮貸し問題等も出て来るのではないかと思いますが、この問題は明確な事例がないようでありますから、それだけにしておきます。 その次に、二十三年度の決算書を見ますと、売掛金が二十九億一千六百万円もあるわけであります。先ほど申しましたように、食糧に対する支拂いは、末端におきましては現在配給がとれないというまつたく悲惨な状態の人が相当にあるのであります。この問題に対しましても、われわれは分割拂いとか、あるいは貸売り制度というような問題を政府に対しましても要求いたしまして、そうして今日の国民生活の窮状を、こういう面からもカバーする必要があるのではないかという主張をして来ておるのでありますが、政府はがんとして分割拂い制度や貸売り制度というものは、制度として認めないという強硬な態度をとつておるわけであります。それにもかかわらず、この決算書を見ますと、二十九億一千六百万円という売掛金が出ているわけでありますが、この売掛金はどういう内容を持つた売掛金であるかということについて、お伺いしたいのであります。○梶原説明員 お答えいたします。お話の通り、配給所では現金引きかえに食糧を配給しておりますので、その面におきましては、いわゆる大きな売掛金は生じないのであります。二十四年度の後期におきましては、当時炭鉱等におきまして、資金その他の関係で炭鉱方面の労務特配的の食糧に、おそらく三、四億の売掛金があつたと存じます。その程度であります。その他の大きな売掛金は、先ほども申しましたように、いも類関係、澱粉関係でありまして、これは多数の消費者を対象にしておるのではなく、主としてそれらを原料にいたしまする製造会社である澱粉工場でありますとか、あるいは酒類の工場でありますとか、そういう面に原料のいもを配給いたすわけであります。しかも相当まとまつて一時に渡さなければ、いもの処理の関係で困りますので、やや無理と思われましても、それらの原料工場に売却をいたすわけでありまして、相当の額になりますので、そこに時間的の関係から見まして、ある程度売掛ができるわけであります。これらは年度を越して、それらの原料が製品になつて行きまするその過程におきまして、でき得る限りすみやかに回収を行つて参つておるわけであります。二十九億円の大体の内訳を申しますと、一般の配給所におきまして消費者に配給しておりまする分、これは先ほど申しました大きな炭鉱とか、その他工場に対するいわゆる主要食糧の分でありますが、それが大体三億円見当であります。それからいも類関係におきまして十六億であります。それから澱粉関係で三億。このいも類関係、澱粉関係では、いずれも消費者に対する食糧としての配給ではないのであります。それから包装資材関係が約七億であります。この七億のうち約三億が食糧庁と申しますか、食管特別会計への売掛と相なつておるわけであります。
2010年10月27日
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もともと 児玉機関の旧資産は 児玉個人の私有物でないことは もちろんだし といって 厳密な観点をもってすれば 海軍の所有物でもない これを要するに 当時のわが陸軍が やはり中国やその他の方面で活躍させたところの 昭和通商と同じ性格のものであったこれが 買い付け資金は軍部から面倒をみてもらっておったが といって関係者や雇傭人の生活保証とか これに見合う給与などはなく ぜんぜん独立した別個の経理によるもので ことに児玉機関の場合は 昭和通商とちがって 株式組織的な経営ではなかった悪政 銃声 乱世 児玉誉士夫 弘文堂児玉機関の噺では金の流れが 表面だけではみえにくですし 上記も どういう意味かがわかりにくいところがありますhttp://esashib.hp.infoseek.co.jp/isiikoki09.htm自民党の前身である自由党は右翼・児玉誉士夫が戦時中の「児玉機関」(陸軍特務機関)で得たばく大な秘密資金をもとに創立された。 児玉誉士夫は一九四五年一二月四日、京橋区木挽町五ノ二、上海ビルの事務所で記者会見して次のように語った。「自分は紛れもない戦時利得者だ、大東亜戦争開始の昭和十六年十二月から終戦時までの問に児玉機関が海軍に納入した物資は三五億円に達した、終戦当時の財産は中国に工場、倉庫、蒐集資材、見返物資等で約三二億円、朝鮮銀行に五百八十万円等がそれぞれあったが中国の三二億円は海軍を通じて中国軍に接収された、大蔵省を通じて中国から移入した一億余円の資金のうち七千五百万円は溝久、鐘打、水鉛、乙女、鮎川各鉱山の開発に投資した。残額二千五百万円は鉱山の跡始末と復員軍人救済育英事業その他に投出し現在手許にあるのは五百九十万円であるが、これを悉く労務者住宅、公衆食堂その他社会事業に投す」 (『毎日新聞』一九四五二二・六)。また『読売報知』は次のようにいう。「″戦争は儲かるものである″侵略主義者はさう思ってきた、なかでも僅か三五才の無一文の一青年年がたった三年間に三三億円といふ天文学的数字に近い巨大な富を築きあげた実例は世界戦争史上にも稀有のことだろう、、、、四五・十二・六」上記にあげられたものが 児玉機関の資産について ほとんどの資料のベースになったものですが これが緑産業という会社にどういうわけか 衣替えをします そして昭和二十四年に 解散され その後に 大元産業という会社が できます このへんの詳細が わかりにくいのですが 児玉機関の 資産が払い下げられ ダミー会社が作られ その資産処分が 終了した段階で 大元産業ができたということになります
2010年10月25日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/1332/00204141332015c.html武藤委員長 中村津滿子さんですね。伺いますが、三田に桂という料理屋がございますか、あなたはここに松風という名前で勤めたのですか。中村證人 それは藝名です。武藤委員長 今は勤めていないのですか。中村證人 昨年の暮にやめました。武藤委員長 桂という料理屋は普通一般の料理屋ですか。それとも特別の自由党の政治家が集まるというようなところですか。中村證人 別に自由党というわけではありません。一般の人も來られております。武藤委員長 主として自由党ですか。中村證人 まあそうかと思いますけれども、私は勤めましたときには女中奉公ではございませんから、あまりお客さんのことをよく存じ上げておりません。武藤委員長 そうですか、女中としてお勤めだつたわけではなかつたのですか、ではどういう……。中村證人 女中じやないのでございます。私は桂の奧さんと師弟関係になつております。武藤委員長 三田の桂の奧さんというのは……。中村證人 主人で、私のお弟子なんです。武藤委員長 御主人は何という名前なんですか。中村證人 畦上輝井さん。編注http://nakano.jimbou.net/catalog/geta_themes.php/gtID/42割烹料亭 般若苑マダム物語 和田ゆたか 太陽出版社 初版 昭和33年3月10日 4,500円 ―元外務大臣有田八郎氏夫人―の副題がつく本書は、三島由紀夫の問題作、名誉毀損で裁判になった、『宴のあと』事件のモデル、社会党の政治家有田八郎と、料亭雪後庵の女将・畦上輝井との関係を暴露した、いわゆる怪文書です。東竜太郎との一騎打ちとなった東京都知事選の際にばらまかれたそうです。http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/arita_h.html '44.2.11前妻を亡くしていた有田が59歳の時に東京の白金台の料亭「般若苑」の女将だった37歳の畔上輝井(あぜがみ てるい 1906.11.10-1989.1.19)と再婚(正式には'53)。 敗戦後、公職追放。不遇の日々を送る有田を支えるため、妻の輝井が東京の三田に料亭「桂」を開業。多くの財界人が集う。次いで、'49白金台の「般若苑」を買い取り事業を発展させた。 '52解除後、'53(S28)郷里の旧新潟1区から衆議院議員選挙に出馬して最高点で当選を果たす。 この時、妻の輝井が二千万円の選挙資金を用意したという。自民党からの誘いがあるもそれを断り、平和憲法擁護と福祉国家建設を政治信条にして、次第に社会党に近づく。 左右社会党統一にも動いた。'55二度目の衆院選に落選。同年、衆院選直後の東京都知事選に社会党から推され、革新候補として出馬。 保守現職の安井誠一郎(2-1-2-37)と戦って敗れた。この都知事選には有田は出馬に渋っていたが、妻の輝井が押し出すように勧めての選挙戦だった。 4年後の'59再び東京都知事選挙に挑戦する。この選挙戦も、有田は当初出馬を固辞。しかし、妻の輝井が幹部に頼み、社会党から再出馬に踏み切らせた。 選挙資金調達のため、輝井が料亭桂を売り払い、般若苑の収益を全て選挙準備に投じた。一方、出遅れた自民党は東龍太郎(16-1-13-17)を担ぎ出して、猛烈な巻き返しに出た。 物量戦と言われ、選挙資金はいくらあっても足りない状況に、輝井は般若苑を抵当に入れ選挙運動資金をつくり、更に休業し、売却も試みるも、これは当時の首相岸の圧力で挫折。 選挙中に「元外務大臣有田八郎氏夫人―割烹料亭般若苑マダム物語」という怪文書がばらまかれ、投票日の前日には「有田八郎危篤」のビラもまかれ選挙妨害にあう。 4月24日開票。結果、東:1,821,346票、有田:1,652,189票で落選。有田夫妻に約1億円の借金が残った。 三田の有田邸を売り払い、当座の返済に充てたが間に合わず、二人の間で口論が繰り返され、溝が深まる。 般若苑の再開をめぐる意見の対立が直接のきっかけとなり、9月3日協議離婚。輝井は有田に尽くしきった半生に違いはなかったが、有田も輝井に振り回された印象が残った。 その後、輝井は般若苑の再開資金調達に走り回り、吉田茂、佐藤栄作をはじめ、作家の平林たい子やソニー社長の井深大(17-1-8-7)らも資金面で助けられ、経営を軌道に乗せた。一方、有田は'55.10~'59.12日本社会党顧問を務めた。武藤委員長 これは女ですか。中村證人 女です。武藤委員長 あなたがこの人の師匠なんですか。何の……。中村證人 小唄の師匠なんです。武藤委員長 そうするとあなたは先生というわけですね。中村證人 燒け出されましてあすこに厄介になつていました。武藤委員長 住込んで手傳つていたわけですか、商賣を……。中村證人 そうです。武藤委員長 ここへ辻嘉六という人がときどきお客になつて來て、そこであちこちから政治家を招待してしばしばお話をするというようなことがありましたか。中村證人 政治家、そうですね、記憶はありませんけれども、皆様偉い方ですから、いろいろの方もお見になつたと思いますが…武藤委員長 あなたはいつごろからいつごろまでおられたのですか。中村證人 そうですね。一昨年の六月ごろだと思います。編注 鳩山追放後なんで たいしたことは知りませんよということ武藤委員長 二十一年六月から……。中村證人 よく記憶しておりませんけれども、六月から昨年十二月まで……。武藤委員長 辻という人を知つておられますね。中村證人 存じ上げております。武藤委員長 月に何回ぐらい來られましたか。中村證人 月にといつて、よくおぼえておりませんけれども、そうしげしげはお見えにならないと思います。武藤委員長 どういう人、どういう名前の人が來たか知つておりませんか。中村證人 私は余興だけに出ますものですから、記憶ございません。武藤委員長 昨年の四月末に辻さんのところで二十万円を渡したと辻さんは言つておるのですが、どうですか。中村證人 私、受取つております。武藤委員長 その金は何の金ですか。中村證人 それは先生がお客を招待したり何かしたお勘定でございます。武藤委員長 いつからいつまでの勘定ですか。中村證人 それはお帳場さんに聽かないと私はわからないのですが、大体半年分ぐらいじやないでしようか。武藤委員長 半年分くらいの勘定だと思うのですか。中村證人 そうだと思いますが、はつきりはわかりません。武藤委員長 それ以外に辻氏から金を受取つたことはないですか。中村證人 ございません。編注 金の仲介やっただろう 知りませんよということ武藤委員長 あなたはないけれども、桂の主人が受取つたということも聽きませんか。中村證人 聽きません。武藤委員長 何か御質問ありますか。徳田委員 ちよつと証人にお尋ねします。この桂という料理屋はもと赤坂の三河屋の後身ぢやないのですか。中村證人 さようでございます。三河屋さんがやつておりましたことがございます。徳田委員 今はそうではないのですね。中村證人 三河屋さんというのは、赤坂にちよつとしかやつておりません。それを讓り受けて燒けたのです。それで今度三田へ出しましたのです。徳田委員 そうすると今やられておるのは三河屋さんではないのですね。中村證人 燒けてからでしよう、三河屋というのは、加藤さんという方がやつておりまして、それを今の畦上さんが買受けて、燒けてしまつたのです。それから今の方が桂を経営していらつしやるのです。徳田委員 終戰後のお話でありますが、山本幸七という方はよく遊びにいらつしやいましたか。編注 児玉機関が使用していた高浜倉庫の管理人中村證人 それは存じ上げません。徳田委員 全然御存じない。それでは吉田彦太郎さんというのは。編注 児玉機関の副機関長 当時は それを継いだ 緑産業社長中村證人 存じません。徳田委員 兒玉譽士夫さんは。中村證人 存じ上げません。徳田委員 どなたも御存じないのですか。辻さんだけしか御存じないのですか。中村證人 先生には特に病身ですし、こういう商賣ですから、いろいろ御懇意に願つております。編注 徳田球一が 児玉機関と辻嘉六の関係をつきたいのだが 証人の方で トボケているか この人ぐらいしか 証人にだせなかったのか徳田委員 鳩山さんは。中村證人 存じ上げております。そちらは有名な方ですからどなたも御存じだと思います。徳田委員 鳩山さんは桂という料理屋によく遊びにいらつしやいましたか。中村證人 いいえ、遊びにいらつしやいません。徳田委員 終戰後鳩山さんはいらつやいませんでしたか。中村證人 私はお目にかかりません。徳田委員 全然御存じないのですか。中村證人 鳩山先生は存じ上げおりますが、そういうお席でお目にかかつておりません。徳田委員 そうすると、辻嘉六さんだけお遊びになつて、それが六箇月で二十万円……。中村證人 いいえ、そうじやございません。皆さんお客様をなさつていらつしやいますから、先生お一人でお使いになつたわけじやございません。徳田委員 他のお客様は全然御存じないのですか。中村證人 はあ。一々帳簿を調べていただけばわかると思います。中野(四)委員 あなたは桂へお勤めになつたのはいつごろからですか。そうして現在もお勤めなんですか。中村證人 私桂に勤めましたのは、一昨年の六月ごろからで、昨年の十二月にやめましたのでございます。中野(四)委員 僕は一言この際証人に反省を求めなければならぬことは、たとえこの委員会において笑いの中に質問があろうとも、いやしくもあなたが桂において終戰後お勤めになつて、一年判、二年お勤めになつていらつしやれば、桂の常客である者を御存じないわけはあり得ないと思う。少くとも山本幸七とか、吉田彦太郎という者があなたの所へ行かれないという事実が何で証明できますか。ただ端的に御存じないとおつしやるならば、私はそれは承服いたしかねるのでございます。少くともあなたが桂の相当の古い顏でいらつしやるならば、お料理屋さんの立場でお客の一々を指すことは惡いと思召すのだろうと思うけれども、その重要なひいき客ぐらいは御存じだと思う。全然御記憶ございませんか。中村證人 その吉田さんとか山本さんという方は全然存じ上げませんと、またそういうふうにお思いになるかもしれませんけれども、私は女中さんとか藝者衆と違いまして、ほかの座敷へあまり出たことございません。おかみさんの代理で御挨拶には出ますけれども、一々お名刺をいただいたり、お名前を伺つたりすることはしておりませんから、どうかその点……。編注 辻嘉六事件についての 国会議事録から 拾ったものですが辻嘉六の証言に名前がでたので 国会に呼び出された 芸者さんの噺です ここの女将が 超有名な方です とぼけているのが みえみえの証言だが この当時の料亭が 偉いさんや アメリカさんの後押しなしではできないのが みえみえなんだが アメリカさんまで 叩けないので 追求に及び腰なのが 伺えます 吉田彦太郎が国会に呼ばれていないんですが 巣鴨にはいってしまっているせいか 児玉センセイが呼べていないのもおもしろいところですまた児玉機関から 出たらしい資金の 間に 料亭がはいっているように見えるのも面白いところです
2010年10月25日
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外部との交渉は 社交的な児玉誉士夫 機関の運営は剛胆な吉田彦太郎 計画立案は知恵者の高源重吉という三人の集団指導体制だった 終戦の日の八月十五日 児玉 高源はすでに帰国しており 海軍上海派遣軍参謀部は 吉田に物資の処理を委託した吉田によると 上海を中心とした華中や華南には 当時の金で 数千億分に相当する海軍の物資が散財していた 吉田は手のつけようがないので そのまま 現地の中国人にまかせて一旦 帰国した八月二十日 上海に飛ぶ新聞社機の便があったので 高源がこれに便乗して上海に向かった 同二十五日 金やダイヤモンドなど 貴重物資三十二億円分を海軍機に満載して上海飛行場を飛び立とうとしたが 機は重さのため浮揚することができず 滑走路の端までいってトンボ返りを打ち破損してしまった高源は積み荷を別の爆撃機に積み替えて上海を発つが 大阪の飛行場に着陸の際 またもひっくり返って機体は使用不能になった さらに別の軍用機に積み替えて東京まで 運んできたという 当時 軍用機は飛行場に幾台も遊んでおり 使い放題であった児玉誉士夫がA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘留された後 児玉機関の留守を預かったのが 吉田である 吉田は 元児玉機関員や元海軍の軍人約百人を集めて 緑産業という会社を設立した自動車工業や 証券会社 サルベージ 炭鉱など 戦後の産業復興を目指した会社である 上海から運んだ資産を その原資にした本社は 銀座の緑ビルに置いたある日 緑ビル三階の社長室に 鳩山一郎が訪ねてきた 許斐氏利と 一緒に明治大学や 大化会の右翼運動で暴れ回ったころの文部大臣が鳩山で その頃から 面識があった 鳩山の目的は 自由党創設のための資金の相談だった 昭和龍虎伝より その件を引用する吉田は即座にいくらでも出しますよと気軽く返事した鳩山は笑いながら吉田君 これだけだよ いいかねと人差し指を一本出して見せたほう それでいいですか吉田は一本を一億円とみた 当時の彼にとっては それは決してむずかしい金額ではなかったからだ ところが鳩山は いや 君 百万円じゃないんだよ と手を振った一億円でしょうきみ そんなに要るもんか おどかすんじゃないよ鳩山は一千万円を要求したのである 当時の一千万円は 今の五億円近くに相当するだろう 鳩山自由党はこの資金をもとに発足する 昭和二十四年秋 児玉誉士夫が 出獄してくると 吉田は児玉に相談して 緑産業を解散する 上海から持ち帰った三十二億円の大半は使い切っていたという特務機関長 許斐氏利 著 牧久 より
2010年10月21日
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たとえば 初代本多会顧問の中井一夫は 司法畑から兵庫県議に転じ 以後 貴族院議員 神戸市長というコースをたどり 戦後は参議院議員の後 自民党代議士会長をつとめた 政界の長老であるやくざ戦後史 猪野健治 ちくま文庫よりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E4%B8%80%E5%A4%AB戦後の復興、食糧の確保、進駐軍対策に取り組んだ[23]。「闇市も市民の食糧の役に立っている」という見解から闇市を厳しく取り締まらないよう指示したところ、取り締まりを厳しく行った大阪よりも多くの物資が神戸に集まった[24]。さらに「統制は国民のためにある。その統制のために国民が生活できないとなれば、法の存在自体が目的に反している」と訓示し、食糧統制に背く形で市長公認の買い出し部隊を編成し、日本各地へ派遣した略1950年10月、第一次公職追放解除の対象となり、公職追放が解除された。中井は再び国会議員になることを志し、1952年10月に行われた第25回衆議院議員総選挙に自由党から立候補し、当選。1953年4月の第26回衆議院議員総選挙と、1958年5月の第28回衆議院議員総選挙にも当選した[35]。1955年の保守合同後は大野伴睦と行動をともにし、自由民主党大野派に所属した。http://red.ap.teacup.com/tamo2/608.htmlとりあえず、大野伴睦の台詞を貼って、保守政治家とヤクザの関係の一端を。(p297) 大野伴睦は、本多会会長・平田勝市の襲名披露宴に出席し、「政治家と任侠の道を歩むものは職業こそ違えど、どちらにも共通するものが一つある。それは、義理人情という信条に献身することである。……我々の国をより良くしていくために任侠の道にさらに精進していただきますようお祈りして、私のお祝いの言葉といたします」本多会と 大野派の関係については 誰が接点になっていたか よくわかりにくかったのですが 中井一夫という存在を間にいれると だいぶわかりやすくなります 顧問というより 顧問弁護士という気がしますが
2010年10月11日
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