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http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/26_nakasozaemon/nakasozaemon.html惣左衛門の同志達も当然罪を免れず、それぞれに厳しい刑罰が待っていた。 北畠は十五年、志茂は七年、市田は二年、井元は六ヶ月の刑期を言い渡され、 神戸石井の刑務所に収監された。これを今の懲役刑と同様に考えてはならない。 彼らを待ち受けていたのは、血も凍る拷問の日々であったに違いないのだ。 支配者層への反乱に厳罰をもって臨み、同種の反乱の抑止を図るのは、当時の 社会が未成熟であったからであるが、同様のことは現代社会においても、専制的 な独裁国家や社会主義国においてしばしば見られるところである。 実際、為政者の危惧は的中し、三田の百姓一揆からわずか十四日後の十一月 二十八日、高平でも百姓一揆が発生したほか、ほぼ同時に加東郡東条谷、川辺郡 羽束谷でも一揆が発生した。また、十二月には川辺郡藻川地区で暴動が起こった。 これらを総称して、世上、摂丹農民一揆(せったんのうみんいっき)と呼んでいる。 (遠く離れた熊本における当時の資料(肥後藩国事史料)の中にまで、三田の 百姓一揆について言及されているから驚きである。)またその後も、1871年 (明治四年)の播磨宍粟郡騒擾や同年の播但農民一揆へと連鎖していった。 (播但農民一揆では要求の一部しか通らなかった不満から、農民達は投石や銃撃 によって生野県官白州文吾を殺害している。) 群集心理というものは、時に非情である。あれほど参加者の多かった一揆 だったにもかかわらず、熱が冷めてしまえば彼らはまた臆病で気の弱い一人の 農民に戻っているのだ。事態を収拾した後の、藩役人による首謀者達に対する 悪宣伝の効果もあってか、人々の一揆幹部に対する視線は冷ややかだった。藩庁 の譲歩を引き出し、領民の生活を守った恩人であるべき彼らと彼らの家族は、 実に悲劇的な『その後』を経験することになったのである。 仲惣左衛門の刑死の二ヶ月後、長女のキヨは病死。田畑・家屋が没収となった ことで生活の糧を絶たれた妻スミは、次女サキを連れて下田中を去っていった。 北畠市右衛門の妻まさ子は夫の不在の間、幼い子供三人を女手一つで育てている。 その健気な姿に心打たれた村人達は、市右衛門を村預けにするよう、下田中村戸長 以下二十八名の連名で藩庁に嘆願してくれ、1873年(明治六年)八月ようやく 彼は帰宅を許された。市右衛門は刑務所内では一揆の首謀者の一味ということで 牢名主の侠客に気に入られ、比較的楽な生活だったようだ。しかし、そうは言っても 劣悪な環境に変わりはなく、すっかり健康を害してしまった市右衛門は、釈放から わずか二ヶ月で病死している。三十三歳の若さであった。市右衛門の姉の子で、 一揆当時まだ少年だった大西善太郎は後に衆議院議員になっている。 http://blog.goo.ne.jp/hama8823/e/f18ea6c75d75ad71a91469c838f3c250「授戒総股居士」の文字の墓がそうだ。すぐにわかった。わたしは、事前に調べていたからわかったけど、しかし、何の説明板もないので、一般の人は気付かないだろう。仲惣左衛門は、辰巳宗左衛門ともいうそうだ。法名の総股(ソウコウ)は佐倉宗吾にちなんだという」戒名の「授戒」は読めたが、あとはしっかりとは確かめなかった。吉川弘文館の義民年表の解説に「総股」と書いてあったので、そのまま書いた。でも、西村繁著「明治2年三田百姓一揆」(六甲出版)によると、「授戒総脱居士」となっといる。総股というより、全てを脱する、という意味の総脱の方が意味がわかるのでけど、どちらが正しいのかわからない。 この墓を建てたのは、大西善太郎という元衆議院議員で、安政生まれで、一揆の参加者の子供だそうだ。顕彰碑も計画していて、碑文もできていたそうだが、妨害にあい、実現されなかった、とこの本にある。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00740484&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null関係地なる有馬郡道場村の大西善太郎という人、曾て代議士たちし事あり、此人神戸市が武庫川上流を水源とする水道拡張の企画あるを知るや其の用地として他日神戸市の為に買収せらるべき箇所を物色中明治四十三年二月十六日兵庫県庁より関係地たる道場村会へ神戸市の水道工事に関する諮問を為したり、茲に於て大西氏等一派の策士はいよいよ水道用地が道場村に存する事を知り未だ其の一般に多く知れ渡らざる先に密に関係方面の土地買収に着手したり而して彼等が思惑買を為したる土地は同郡道場村の内生野村字北山の山林七町八段五畝十二歩にして之が登記面は三千九百円なるも実際の買収価格は登記面よりも遙に廉価なり、通常の場合は登記料を慮りて実際の買収額よりも低価を示すに他日神戸市へ売却する時の懸引上登記料の多寡の如きは措いて問わず却て買収実価よりも登記面の価格を高く為したるなりとの噂あり 此の土地を買収したるは同年三月八日にして其の思惑買を為したる後二十日即ち同月二十八日に道場村会を開きて知事よりの諮問案を附議し支障なきものと認め其旨知事へ答申したり、此の山林七町八段五畝余歩の中市が千苅堰堤用地としてばいしゅうすべきは一町九段九畝十四歩にして彼等は市の買収面積の以外に少きに一驚を喫せりとの事なり 以上の如き思惑買は先ず以て普通在勝の事とするも神戸市が時価以上に見積りて買収せんとし且市の買収価格を以て売却するも少からざる利益あるにも拘らず彼等は慾の上の慾に眼眩みて容易に市の買収に応ぜんとはせず公平なる者の眼より見て不当なる価格を呼ぶに至っては言語道断というの外なし これよりも以上に不埒極まるは大阪市西区道頓堀二丁目澤井寅蔵と云える者の行為なり、渠は道場村なる者の手を経て同地光明寺所有の幾んど荒無地に等しき原野山林合せて一町一段余歩を昨年八月七日を以て買収せり、此の登記面の価格は田一段二百九十円畑一段百六十円原野一段二十三円山林一段二十六円宅地一坪二円三十銭なるも買収実価はこれよりも遙に低価なり、此は前同様他日神戸市へ売却する時の準備にして殊更に登記面の価格を高くしたるものなり、而に澤井某は思惑屋の常として買収後直に全部を抵当に一千八百円を有馬郡三田町の小西雅之より借入れたる事実あり、而して渠は此の荒無地に等しき山林原野を前々回記せるが如き無法の高価を要求しつつあるものなり 是等の思惑屋が他の所有者たる良民を煽動して神戸市の買収価格が無闇に低廉なりと吹聴せしめ彼れが如き陳情的意見書を知事に提出するに至りし始末なり、之れを要するに関係地所有者の要求は決して妥当のものにあらずというの外所有者側に有利なる材料なし、矧んや、神戸市が土地以外の立場作物建物等に対する補償金を支払う事を決議し居るに置いてをや 最後に一言すべきは土地収用審査会は神戸市の価格算定を妥当なりと認め居れるが如し、唯だ神戸市より委員に嘱託せる森有馬郡長は任地の人気に顧慮して何れを是なりとも明言せず而かも同嘱託委員たる有井同郡書記が所有者側なるに於て頗る困れる地位に立ち居れるは気の毒とも云えば云えるなり、本記事は一先ず茲に筆を擱くこの当時 神戸市の実権を握っていたかというと 碑はなぜ立てられたか 興味ふかいものがあります また誰が妨害をしたか いずれにしても一揆のしこりは 十分に 明治末まで 残っていたということになりますそれを 郷土の誇りにするんですねー
2010年03月07日
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篠崎小竹と古賀謹一郎http://www12.plala.or.jp/HOUJI/bunkajin-haka/newpage393.htm 篠崎三島は江戸後期の儒者で、大坂を代表する私塾「懐徳塾」と並び称せられた「梅花社」の 創設者である。 1736年(元文元年)大坂の生まれ。名は応道、字安道、号三島・郁洲。通称伊予屋長兵衛。屋号が示すように父長兵衛が伊予から大坂に出、紙屋を営んでいた。 三島はその次男で、長男の主馬は文人気質で、諸芸に秀で、家業を離れたため、父の隠居後2代目長兵衛を名乗った。 始め、菅甘谷の門人兄楽郊に学び、のち甘谷についた。 儒学以外に詩文、易学、天文にも通じ、天文は麻田剛立に学んだ。大坂の町人学者の例にもれず、三島も よく家業にも精励し、商いは繁盛したが、1776年(安永5年)家業をたたみ、土佐堀の隠居所に私塾「梅花社」を開いた。講義の傍ら、月に3回詩会を開き、名ある文人達が参加した。 また、片山北海らの「混沌詩社」にも参加、音曲もよくした。1813年(文化10年)76歳で没した。 篠崎小竹は1781年(天明元年)大坂の生まれ。名は弼、字承弼、号は小竹、畏堂、摂江、南豊、梅花書屋など。通称長左衛門。 小竹の実父は豊後の出身で 京町堀で医者を開業していた加藤周貞。小竹は幼い頃から、聡明で、学問を好み、9歳で「梅花社」に学び、4年後三島の養子となる。 頼山陽 とは生涯の親友となり、 山陽の勧めもあり、江戸に出て、昌平黌の尾藤二洲に学んだ。 数ヶ月で帰阪、更に四国、中国と歩き見聞を広め、その後再び江戸に出て古賀精里に師事、朱子学を徹底的に学んだ。 「梅花社」は小竹の代に至り大いに繁盛し、幕末の大坂で最も広壮な塾となり、門下生1500人を数えている。書家としての小竹は、頼山陽をして「詩文は 吾小竹に勝り、小竹の吾に勝るものは書なり」と語ったといわれ、門前市をなした。在坂の文人の墓標は、彼の筆になるものが多い。1851年(嘉永4年)70歳で没した。 篠崎三島、小竹父子とそれに繋がる人たちの墓は天徳寺(北区与力町)にある。http://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E9%87%8E%E5%B0%8F%E5%B1%B1奥野小山 おくの‐しょうざん1800‐1858江戸時代後期の儒者。寛政12年生まれ。篠崎小竹(しょうちく)にまなぶ。天保(てんぽう)のころ和泉(いずみ)(大阪府)伯太(はかた)藩にまねかれる。のち近江(おうみ)(滋賀県)三上藩につかえ、大坂蔵屋敷留守居役をつとめて藩士の子弟におしえた。安政5年8月20日死去。59歳。大坂出身。名は純。字(あざな)は温夫。通称は弥太郎。別号に寸碧楼。著作に「小山堂文鈔」「小山堂詩鈔」など。http://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E8%80%95%E7%9F%B3中西耕石 なかにし‐こうせき?西1807‐1884江戸後期-明治時代の画家。文化4年生まれ。陶工の家に生まれ、大坂で篠崎小竹(しょうちく)の門にはいる。のち京都で小田海僊(かいせん)にまなぶ。山水、花鳥にすぐれ、日根対山(ひね‐たいざん)、前田暢堂(ちょうどう)とともに「対暢耕」とよばれた。明治17年1月9日死去。78歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。名は寿。字(あざな)は亀年。別号に竹叟。http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/sakait2.htm篠崎小竹は本名を長左衛門と云ひ、博学能文、浪華第一の学者であつたが、此人、学者に似合はず蓄財が上手で「学者中の鴻池」といふ綽名さへ付けられてゐた。家作なども大分ん持つてゐて、其方の資格では家主長左衛門と呼ばれてゐる。そういふ人物だから、只だ物識りで器用に文章を書き宇も上手だと云ふだけのもので、学者らしい見識もなければ誠意もなかつた。それで鴻池家に対しては先つ御出入りの格で、今日は主人善右衛門殿に論語の御講釈を申上げる筈で、早朝から此の一室に詰めて、主人の出座を待つてゐるのであつた。http://homepage3.nifty.com/taenia/naniwa12/shotiku.html中村真一郎は『頼山陽とその時代』に、篠崎三島・小竹親子の“商売上手”をやや皮肉っぽく書いていますが、彼の私塾は養父にも勝って多くの門人を集め、大坂を代表する儒者・詩人としての盛名をほしいままにしていたようです。当時、大坂で出版された詩集などのほとんどすべてに、彼が乞われて書いた序文を見出せることを見ても、その人気のほどがうかがえるでしょう。もっとも彼自身は温厚な人物で、うわべを飾ることを好まず、後進の教育に努めたと伝えられています。http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kizaki2.htm それは此ういふ訳である。篠崎家の借屋に、山田屋大助といふ生薬屋があつたが、この男はもと能勢の生れで、在所には田地も多分に所持して居つた。大助は元来気慨のある男、大塩平八郎が脆くも敗れたのを心外に思ひ、在所の百姓を語らうて、千人余りの同勢を組立て、七月三日の夜から池田、伊丹辺りを暴れ廻つたので、大坂から役向の人々出張の上、池田猟師に命じ、鉄砲を揃へて打向はしめたから、烏合の衆は忽ち散乱し、首魁の大助も鉄砲腹で自滅して了つた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AC%B9%E4%B8%80%E9%83%8E古賀謹一郎出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』古賀 謹一郎(こが きんいちろう、文化13年11月11日(1816年12月29日) - 明治17年(1884年)10月31日)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての儒学者・官僚。本姓は劉(漢の高祖劉邦の末裔という)。諱は増(まさる)。官途は筑後守。字は如川。号は謹堂、茶渓など、また沙蟲老人とも称した。祖父は寛政の三博士として有名な儒者古賀精里。幕末安政の改革を主導した老中阿部正弘のブレーンとして知られる。目次1 生涯 1.1 洋学指向の儒者1.2 蕃書調所の設立1.3 不遇の晩年2 参考文献3 関連項目 [編集]生涯[編集] 洋学指向の儒者文化13年(1816年)11月、江戸昌平黌官舎にて、父・儒者古賀?庵と母・鈴木松との間に生まれ、謹一郎と名付けられる。儒者の家系に生まれたことから、幼い頃から漢籍・経典に精通する。天保7年(1836年)大番役、同12年(1841年)書院番として幕府に勤務。家塾久敬舎を父より引き継ぐ。弘化3年(1846年)31歳で昌平黌の儒者見習となる。翌年、儒者となり15人扶持。儒学者でありながら、洋学の必要性をいち早く感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋の事情を習得する。この頃、米国への漂流者から欧米の事情を取材した『蕃談』を著す(書写本にて流布)。 この時期の昌平坂学問所の教官としての同僚に佐藤一斎、林復斎、安積艮斎らがおり、また昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人として阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進)、大野右仲、秋月悌次郎、河井継之助、白洲退蔵、平田東助らがいる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。山形県米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。息子の平田栄二は日本画家で、栄二の次男・正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。二男の平田昇は海軍中将となった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%82%8C%E6%AC%A1%E9%83%8E秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、1824年(文政7年)- 1900年(明治33年)1月5日)は、江戸時代後期、幕末の会津藩の藩士。父は丸山胤道で次男。名は胤栄。字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)を正規の名前とした。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%8F%B3%E4%BB%B2大野 右仲(おおの うちゅう、天保7年12月8日(1837年1月14日) - 明治44年(1911年)6月11日)は、幕末期の唐津藩士で、新選組隊士。頭取。後、陸軍奉行添役。[編集] 生涯唐津藩士大野勘助の長男に生まれ、安政3年(1856年)、21歳より昌平坂学問所で学ぶ。戊辰戦争が勃発すると、藩主小笠原長行に従って会津へ入る。5月始めごろには、旧友で当時越後長岡藩の筆頭家老にまで登りつめていた河井継之助のもとに居り、長岡藩が中立堅持の末、小千谷談判の決裂により新政府軍との開戦に至る現場に居合わせた(『史談会速記録』)。療養中の土方歳三を訪ねて戦況を調査した後、仙台で新選組に入隊。榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。箱館政権(蝦夷共和国)下では、陸軍奉行並に就任した土方歳三直属の部下となり、二股口の戦いから、箱館総攻撃に至るまで土方の補佐役を務めた。降伏後、新政府に出仕。明治4年久美浜県権参事、豊岡県権参事。ほか、千葉、長野、青森各県の要職を歴任する。また箱館戦争の記録(『函館戦記』)を書き残す。明治44年、死去。享年76。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E8%B0%B7%E6%9C%97%E5%BB%AC阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年11月17日 - 1881年1月15日)は、日本の漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動した。東京学士会院議員。名は素(しろし)であり、阪谷素名義での著作もある。朗廬は号である。幼名は素三郎、通称として希八郎も用いた。阪谷芳郎(元大蔵大臣、東京市長)の父。http://blog.goo.ne.jp/akijosephine5/c/86266c4c8f7e7fd2968825d5c6072c7e―次郎は生涯を通じて、「プリンスパル(原則)が大事だ」ということをことあるごとに口にしたが、それはおそらくケンブリッジでの‘Be gentlemman’(紳士たれ)と同義だったのであるまいか。イギリス紳士の精神的バックボーンは騎士道である。武士道と騎士道は、洋の東西と地理的こそ離れているが相容れないものではない。それらは次郎の中で玄妙に混じり合い血肉の一部となった。 アダム・スミスをまったく読んでいないんだな。「騎士道」なぞ野蛮で獰猛な精神として(すくなくともケンブリッジでは)最も軽蔑されていることまったく知らないんだし、新渡戸稲造の「基督教テロリズムの武士道」なんか気違い沙汰だということ、「国際的に通用しない」ということをまったく理解していない。ケンブリッジでは、キリスト教は科学的学問的対象としては徹底的に軽蔑の対象である、しかし「歴史的文化遺産マスタベーション装置」としては皆心から尊重している、こういったみえないバランスが深くケンブリッジに埋め込まれている。次郎さんの祖父の退蔵さんの儒学者という立場から プリンシパルとか 武士道という言葉で 次郎さんが語られるのですが 退蔵さんの二人の篠崎と古賀という師匠の周辺をみていると 一人は 自分で商売もしていた 大阪の町人学者で もう一人は 江戸の 半分は 洋学者の方で この方の弟子筋と三田藩グループとの交流を推測すると 十分 興味深い 誰が この遊学先を選定していたか わかりませんが 結果として かなり先をみたものになっています儒学者という肩書きから 退蔵さんはずいぶん保守的な堅い人ではないかとおもったのですが 上記から 考えて 半分 大阪商人みたいな福沢諭吉と 話ができる素養はあり 実務は小寺泰次郎 岸上角次が取っていたようですが きっちり算盤もわかる人だったはずです
2010年03月06日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00749022&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA旧生田川と求女塚物語明治四年生田川を現位置に変更することになり二月三十日大阪民部省出張所から吉井民部大烝が出張して三月十日から工事に着手して六月九日に竣工した、この工費三万六百七十二両三分永百十六匁を要した、これが近年遊歩道となり地下を暗橋して地表には生田川の下流はすがたをなくしてしまった古来この川は八部郡と莵原郡界であって今も北長狭通一丁目三十番地の隣に地蔵堂あり堂前に八部莵原両郡界生田川の石標が残っておりこれから少し上手にも路傍に存在している、なお一昨年までは布引への登り口久形橋畔に丈余のこの種石標があったが工事のために橋も標石もすがたを失った、生田川の旧川床は明治四年十月七日に入札によって四万千七百四十四坪七合を四千七百六十八円三十□也で紀州の有本明と神戸上組の加納宗七が払下を受けてここに加納町が出来ることになった、当時坪十銭也とは馬鹿々々しい気がするが加納氏はこの事業に損失して貧亡したと云うから余り安価ではなかったのか、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E4%BA%95%E5%8F%8B%E5%AE%9F吉井 友実(よしい ともざね、文政11年2月26日(1828年4月10日) - 明治24年(1891年)4月22日)は、日本の武士・薩摩藩士、官僚。正二位勲一等伯爵。通称を仁左衛門、中介、のち幸輔。変名を山科兵部。1868年 徴士参与職・軍防事務局判事、軍務官判事、弾正大忠、弾正少弼1870年 民部少輔兼大蔵少輔、民部大丞1871年 宮内大丞、宮内少輔1875年 元老院議官1877年 一等侍補1878年 元老院議官兼任1879年 工部少輔兼任1880年 工部大輔兼任1882年 日本鉄道社長1884年 宮内大輔1885年 元老院議官兼任1886年 宮内次官1888年 枢密顧問官1891年 宮内省御用掛ここに出てくる 吉井の親分が大隈で とくれば三田藩のルートとくれば つながりは これも福沢センセイになります 加納が持たなかったのも 資金を借り入れでやったか 政治力不足の面があったのかなとおもうのですが なぜ三田藩グループが資金を調達できて これを横取りできたのかがわかりませんが 百姓から搾り取った金が原資ですかね
2010年03月05日
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