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児玉 有効に 国家のために使いなさい と つまり処分は一任ということになったんです それで第一番がね 立教大学に米軍が進駐するというわけです で ぼくが立教大学にいってみたら もう荒れ果ててるんです 兵隊が使っていたからね 日本軍が使っていたからね これは恥ずかしい アメリカの援助でやっている学校はまずいぞ よし五百万ほど出してやれ と 当時の五百万です大森 大きいですね児玉 出なおそうというので 立教大学を呼んで 五百万を使いなさいと大森 ああ それが教育費ですか児玉 それと 習志野とかあっちこっちに孤児院とか 戦災者の親に死なれた子どもが養われているところがだいぶありましたよそういうところに そうですね あれで二千万近く配ったですかな 中略 そのとき 今の辻和子の亭主が 私のとこの経理部長をやってたんです 結婚して それは日本航空から私が引き抜いたやつです大森 日本航空?児玉 ええ 細入といってね大森 日本航空なんていうのは そのころ児玉 私と関係が深いんです大森 会ったんですか もうそのころから児玉 ええ 日本航空というのは それ以前からね 日本航空が上海に着陸するでしょう 中略 宿屋だった みんなカネがないじゃないですか 全部 児玉機関の宿舎に泊まって 給料は全部 ぼくの方で応援したんです 日本航空も中国航空も 月給といったって 上海では物価がバーンとあがちゃったでしょ 一晩だって泊まれませんよ 中略 それはもう深い関係 で まあ日本航空に若い社員があったから これをくれともらって 辻嘉六の娘と結婚させたんです それが終戦後別れて その別れた亭主が大森 それはなんという男ですか児玉 細入彦作といいます これのオヤジは 細入富重といって 浅草の松屋を作った男です大森 ああ そうですか児玉 あそこの常務かなにかで あれを作った男です それで これの兄貴が立教大学の先生です いまでもやってるでしょ大森 ああそうですか わかりました児玉 これに全部やらせたんです どこの孤児院 どこの孤児院にこれだけやれと それでもまだ七千万近くあったんです大森実著 戦後秘史1 崩壊の歯車 講談社 大森実直撃インタビューより
2010年06月26日
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http://www.resonanz360.com/75/%e5%b1%b1%e5%b0%be%e4%b8%89%e7%9c%81%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ 先日静岡に旅行したときに袋井市の野草広場に寄り、『季刊生命の島』の「山尾三省追想特集」をゆずっていただきました。そこには、三省さんの家族、仲間、友人、仕事の関係者など本当に多くの人から寄せられた三省さんについての文がたっぷり載っていました。略読みたくなかったといえば、三省さんを資金的に援助していた古くからの知人の方の文章のなかに、三省さん一家が唐牛健太郎氏から継続的な資金援助を受けていたという記述もそのひとつでした。唐牛健太郎さんは60年安保のときに全学連委員長だった人で、そのあと大物右翼の田中清玄とのかかわりが報道されるなど、いろいろな見方がされている人です。どういう人であったかということは僕もよくわからないので置いておくとしても、たとえば三省さんがインドに一家で長期の旅をする際に唐牛氏に資金提供を求めたということ、そしてそのことが三省さんによっては最後まで明らかにされていなかったということは僕にとっては驚きでした。唐牛氏がなくなったときに三省さんは一文を寄せているのですが、そこでは具体的なことは触れられていません。与論島かどこかで親交があったようだという推測はこれまでもされていたようですが、本人は詳しく語っていなかったとおもいます。僕の勘ぐりになりますが、それは表現者としての三省さんの一貫性をたもつために意図的に書かれなかったのではないかという気がします。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E4%B8%89%E7%9C%81山尾三省山尾 三省(やまお さんせい、1938年10月11日 - 2001年8月28日)は日本の詩人。東京市神田区神田松住町(現・東京都千代田区外神田)生まれ。[編集] 来歴東京都立日比谷高等学校卒業、早稲田大学第一文学部西洋哲学科中退。1960年代の後半にナナオサカキや長沢哲夫らとともに、社会変革を志すコミューン活動「部族」をはじめる。1973年、家族と、インド、ネパールへ1年間の巡礼の旅に出る。1977年、屋久島の廃村に一家で移住。以降、白川山の里づくりをはじめ、田畑を耕し、詩の創作を中心とする執筆活動の日々を屋久島で送る。1997年春、旧知のアメリカの詩人、ゲーリー・スナイダーとシエラネバダのゲーリーの家で再会。ゲーリーとは、1966年に京都で禅の修行をしていた彼と会ったのが最初で、そのとき、ふたりは1週間かけて、修験道の山として知られる大峰山を縦走している。ゲーリーがアメリカに戻り、三省はインドへ、そして屋久島へ移住したため、長い間交流が途絶えていた。三省は、ゲーリーの近年のテーマがバイオリージョナリズム(生命地域主義)であることを知り、自分が20年来考え続けてきた、「地球即地域、地域即地球」というコンセプトとあまりに近いことに驚いたという。2001年8月28日、屋久島にて胃癌のため死去。中身のない 全学連の自慢話よりも 深いものがあります どうも中身のない話では 唐牛と 清玄の関係を薄くしよう 薄くしようとするようですが この場合の資金はどこから出ていたんでしょうね 当時の唐牛が金もっているわけないじゃないですか だれかのダミーにきまりじゃないですか 一人で放浪していたようなことが 中身のない話では言われていますが グリコ森永事件で 唐牛も疑いがかけられたようですが ある程度の組織を 彼が持っていたことじゃないですかねなぜ 清玄あたりから金がでているんだろうかとおもいますが アメリカが ベトナム戦争から 世間の関心を逸らすために 反捕鯨運動を盛り上げたなんて話しとだぶらせると面白いですが金とか 現実との関わりとかの核心をスルーして うわっらだけの昔話を おじいちゃんが語るわけですね
2010年06月23日
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私はロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕された頃 旧支配体制の解体を 岩波講座 日本歴史二十二 1977年の為に執筆し 松尾 戦後 日本への出発 岩波書店 2002年所収 その中で 太平洋戦争下 海軍航空本部のために物資調達を行っていた児玉誉士夫が莫大な金を鳩山一郎の自由党創設のために献じ その一部がさらに日本社会党の西尾末広に渡った疑いのあることを書き さらにこの話を少し詳しく 児玉ルート断片と題し 資料的根拠とともに 展望 1976年11月号 のち松尾 本倉 1983年所収に発表したわが 近代日本人物誌 松尾尊兌 岩波書店いろいろ書かれている 児玉資金ですが こういうのを読むと 世に出ているのに 意外に整理されていないと思わされます 著者は京都大のセンセイで 文献の方は 参照できていませんが ある程度は信用はおけるものかと西尾は笹川センセイと親しいので 資金が回っても当然でしょうが児玉機関は 事業部長の小林豊樹がみていたとか 藤吉男が 副機関長に入っていたという割には 笹川系の人間が 機関の資産処分を押さえていないのが とても不思議に思えます
2010年06月18日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%9F%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年4月16日 - 1944年12月4日)は昭和時代の日本の政治家。憲政会・立憲民政党に所属していた。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。目次1 経歴2 手がけた政策3 語録4 脚注 [編集]経歴石川県金沢の士族の家に生まれる。石川県尋常中学、同志社中学、関西学院普通学部を経て早稲田大学を卒業。在学中早稲田大学雄弁会に所属し、同会での演説が大隈重信に認められオックスフォード大学に留学。帰国後は母校の早稲田大学で教鞭をとる。1917年第13回衆議院議員総選挙に立候補するが、立憲政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れる。中橋が大阪9区に回った1920年、第14回衆議院議員総選挙に初当選。以後、連続8期連続当選し、齋藤内閣の拓務大臣・第1次近衛内閣の逓信大臣を務め、阿部内閣では鉄道大臣と逓信大臣を兼任した。雄弁家として知られた。三木内閣の文部大臣を務めた永井道雄は二男。民主党の元衆議院議員である鮫島宗明は孫。西武グループ総帥堤康次郎とは親戚関係があり、役員の永井外吉と永井柳太郎とは従兄弟同士で、外吉の妻・ふさ子は堤康次郎の妹にあたる。http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0404.htm 或る日の午後、外務次官永井柳太郎氏が 突然、牛込納戸町の北 ( 一輝 ) 邸に現われ た。勿論総裁 ( 民政党 ) であり首相である 浜口雄幸の外相幣原の非公式使者としてや って来たのである。 「ホーオ、永井君が、珍しいな、ウン応接 室に」 といってヤオラ部屋から出ていったが、 暫くすると永井柳太郎氏を送り出して帰っ て来た。ひどくニコヤカな表情で、「運動を止めてくれるでしょう ? 」「そうはいわんがな。統帥権干犯だなんて、 いやしくも君らしくないちゅうのさ」「それで・・・・」「それでなあ、いってやったよ。それは正 にその通りだって、デー 一 ( 第一、時々シ ャレてべランメイ調を一言二言使う癖があ った ) 陶酔軒だなんて支那料理の看板みた いで宜敷ネーちゅうのさ」 思わず筆者は爆笑した。( 寺田稲次郎「革命児・北一輝の逆手戦 法」昭和32年 1 月『人物往来』 )編注 たまには 金もってきたそうですがhttp://d.hatena.ne.jp/jyunku/searchdiary?word=%B1%CA%B0%E6%CC%F8%C2%C0%CF%BA永井柳太郎と 右翼人の関係 児玉センセイの名前もでています編注 児玉センセイと三木武吉センセイとの関係 民政党もこのあからでしょうかそうこうするに 同先生のやはり門下で 古賀義秋くんとあい知るにおよび じぶんたちで日本塾というのを開くことになった 講師には 中野正剛 永井柳太郎などの名士を迎え いたって地味であったが 内容的にはそう貧弱なものではなかった略なお この塾の主たる目的は 青年有志を集めて国事国策を研究し 新日本の創建にそなえるためにあった そして ここでいっしょに学んだわかい人々の中には ずっとのちの終戦直後 東京芝の愛宕山頂で 敗戦日本の将来を案じ みずから散っていった 飯島与志雄くんのほか 岡村吾一 菊池貞雄 岩佐圭奨らの諸くんがいたのである なおこれはのちに二月会と改称した悪政 銃声 乱世 児玉誉士夫 弘文堂編注 二月会の段階では メンバーから考えても 大化会との合同組織になっていることに注目 このように 戦前の段階で 児玉センセイは いろんな方とユニットをくんでいるんですね http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/topic/seibu/060127_3rd/index1.html加えて康次郎氏は、1938年に衆議院選に出馬し当選した。企業経営以上に政治に大きな関心を抱き、「代議士として立候補する際に、会社と関連のないフリーな立場で国政に携わりたいと考えていた」(中島氏)という。名義株の利用は、康次郎氏が尊敬していた永井柳太郎氏(元拓務大臣)のアドバイスでもあった。破産や事故で、康次郎氏が責任を追及されるようなことになれば、政治生命も絶たれてしまうからである。あまり注目されていませんが 児玉センセイと永井柳太郎との関わりについて ならべてみました それに 堤康次郎の姿をはめ込んでみました
2010年06月16日
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