2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全6件 (6件中 1-6件目)
1
http://www.nogami.gr.jp/katudo/gijiroku/giji00_1126/giji00_1126.html (野上)先日、小学校に勝本先生をお尋ねしたが、その時、農民一揆のお話が出て、その時、九鬼隆義が馬に乗って 農民を説得しに行ったと感情豊かにお話して頂いた。 あのような状況の中で、殿様自身が農民の訴えを聞きに行 こうと、優しい心を持った殿様だったと…。 (高田)あのような状況で藩主がその様な気持ちで行っても農民の方がイキリ立っているから、全く受け入れようと しなかった。 (青柳)農民の上に立っていた人は誰でしたっけ。 (野上)仲惣左衛門。 (青柳)あっ、そうそう、仲惣左衛門の子孫の方がこの前、農民一揆についてお話になっていたが、その中で、 九鬼や白洲が横領して使い込んだ等と、すごく悪く受け止めていた。 未だ、子孫の人達は尾を引いているよ うだ。 (千足)私が聞いた話は、三田カルタの中に百姓一揆が取上げられているが、あれはおかしいと…。 その後、 高田先生からあれは百姓一揆ではない。 そのために処刑されたのではないとお話を伺った。 (青柳)高田先生からお聞きした百姓一揆と、農民の子孫から聞いた百姓一揆の内容が全く違うんですよね。 (野上)勝本先生が前回お話になっていましたね。 西村先生が書かれた百姓一揆は農民側から捉えているが、 その本かを書かれた時代が反体制的な風潮が強い時代であり、その様な論調になったのではないかと。 勝本 先生のご先祖は農民一揆に立ち上らなかった郷の庄屋さんで、一揆の時に蜂起しないよう村民を説得されたと いうことをおじいさんやお婆さんからお聞きしていたと伺ったことがある。 先程のお話にもあったが、同じ 農民の中にも、優しく開明的な殿様に好意的な見方をする人も居るようだ。 (高田)あれは余りにも急激なテンポで文明開化を進めたために起こったもので、藩の中でも改革派と旧体制派 とがあった。 改革派がどんどん進めていくのに反対した旧体制側に農民が付き、巻き込まれて暴動になった ものだ。 あの時、村で郷学校を作った時、お宮とかお寺とかを使って行われたが、その時の運営費用は宮田とかお寺が 持っている畑等から上がる年貢をそれに当てた。 今まで、農民が管理していたものが教育に当てられた。 そこに、農民の不満があった。 何故、農民に教育が必要なのかと考えている人々にすると、これが搾取して いるとうつる。 それに、藩の財政も豊かではないし、そんな中で農民にも平等に教育をしていかなければなら ないという、福沢諭吉の理念もあって、それを思った隆義が何処の村にも平等にとやったわけだ。 三田町では市学校が出来、正覚寺がやっているわけだが、費用は町年寄などに負担させている。 だから、 藩からお金を出しているわけではないが、教育の機会を与えているわけだ。 だから、その必要性を感じて、 改革派の人がどんどん進めていく。 旧体制側の首謀者は九鬼兵庫だが、彼が農民に対して指示をだし、農民を 立ち上らせた。 だから、農民は立ち上ったわけだ。 最終的に、一揆が終わった後、九鬼兵庫は閉門となり、家老だったが”西”に改姓した。 その息子、九鬼貢 は藩主のお姫様を嫁に貰っていたので取り潰しが出来ず、西貢と改姓した。 その様に、ものすごいテンポで進み過ぎ、そこに亀裂が生じて百姓を巻き込んだ。 だから、捉えように依って は農民を搾取したとなってしまう。 最終的に裁判は三田藩が行ったのではなく、明治新政府の弾正台が行ったことで、その事件を暴動と捉えた。 捉え方に依っては搾取となるが、隆義の平等に教育を与えなければという信念から取組んでいるわけで、根本的 に考え方が違っている。 (千足)歴史に謎が多いというのはその様なことをいうのでしょうね。 (高田)西村先生が百姓一揆を美化して書いているが、その子孫達も西村先生の本がベースとなっていると思う。 朝野さんのお宅の鍵屋重兵衛の日記の中にも百姓一揆の裁判の経過が詳しく書かれている。 それ以外にも色々ある。 今の内神屋惣兵衛の屋敷に、白洲や農民等、関係者全員が呼ばれ、京都弾正台から 厳しく詰問されている。 それに対してきっちり答えており、その結果、農民が暴走したということになった。 我々は始めからその様に思っているが、西村さんの様な意見も片方にはあるわけで、その様な本を読んだ人に とっては、白洲や小寺が悪いということになってしまう。 (千足)処刑があったのは新地稲荷の、あそこですか? (高田)あそこが最終的に処刑の場となった。 (千足)だから、あそこには家が建てられないんですか? (高田)いえ、そうではないんですよ。 処刑されたのは河原ですから。 上に立ち会い役人の詰め所があったん です。 そこは政府のもので、その後競売にかけられたが、そこだけ売れなかった。 後は屋敷町とか、城の中 とか、澤という家老の家とか、河内屋あきえもん、岡島さんなどが買っている。 当時、岡島さんの家は大変な 金持ちやったんやなー。 新政府の払い下げの土地を相当買っている。 (青柳)売れなかった土地とは○○さんのところですか。 処刑場はその下ですね。 (高田)そうそう。 昔、そこに新地橋があって、向こう側に遊郭があった。 検番があって、当時そこを新地と 呼んでいた。 こちらも新地で、両岸に新地があった。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00482070&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA 白洲退蔵氏は当時藩の大参事として郡奉行の小寺泰次郎氏等と共に隆義侯の信任最も厚く世は王政廃藩となるや逸早く神戸の開港に着眼し侯を擁して神戸に移り志摩三商会を設けて貿易の業に従事すると共に一方に於ては予め神戸の今日あるを知りて小寺泰次郎氏をして神戸の地所に資金を貸し以て今日の九鬼子爵家の資産を築き上げしめた三田藩に於ける此等の人々は兎に角其功績の没すべからざる人物といわなければならぬ 白洲退蔵氏の一に藩侯の為に計りたるに対して小寺泰次郎氏は藩の資を以て自己の蓄財に力めた形跡がある之れが為め泰次郎氏は三田藩士より種々の非難を受けた 此父翁の悪評を回復せんと計りたるが今の小寺謙吉氏である氏は数十万円の基本金を投じて現今の三田中学校を設け郷党の教育の為に至大の資を散じたのである而も此美挙は大に其時宜に当り三田藩積年の怨恨を一掃するを得た代議士としての小寺謙吉氏が今日牢乎たる地盤を有馬郡に有する所以も亦是に在る謙吉氏の挙を以て智と云うべきか狡と評すべきか勿論茲に判ずべきの限りではない(TK生) (78)=西摂の各市街=三田=宝塚 三田藩の大立物たる故白洲退蔵氏の背後には故福沢諭吉翁ありたる事を忘れてはならぬ福沢諭吉翁に依って輸入咀嚼せられたる当時の西洋思想は更に其高弟たりし白洲退蔵氏に伝えられて三田に入り県下最先のハイカラ地たらしめた白洲氏の事業は時未だ適せず多く失敗に了りたりと雖も廃藩の当時藩主より藩士一同へ下附せられたる三百円宛の金を集めて茶園舎なるものを起し茶園部肥料部貸金部書籍部の各係を設けて合股組織の製茶事業を開始し三田藩士に生活の途を得せしめんと計りたるものは白洲氏である三田の人口を開けば彼が藩の為に尽瘁せし功労を頌せざるはなし 三田藩は藩主と小寺氏の富を積みたるを除けば他の藩士は多く産を失いて所謂士族の商業に了りたれども有馬郡は一般に勤勉質素なりしスナイドル銃を買わせた家臣三百五十のうち 志摩三商会参加が十五 小寺家が のれんわけしたように見えるのも それなりの事情があるわけで 学校作ったり 奨学金作ったり 懺悔というありがたいシステムがあるキリスト教に帰依するのも もっともな話かと
2010年02月17日
コメント(2)
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/motomachi.htm生島四郎太夫別邸 生島四郎太夫は、神戸村の庄屋で勝海舟の海軍塾、海軍操練所設立に協力した人物である。祇園神社近くに生島四郎太夫別邸があり、海軍操練所建設当時は勝海舟もここに寓居していた。現在その場所を訪ねても、石碑も案内板もないが、それらしい屋敷は一軒しかないので、目星はつけられるだろう。 勝海舟が生島に対して言ったことが、氷川清話に面白おかしく紹介されている。――― 生島に「この土地も今はつまらない百姓家ばかりだけれども、早晩必ず繁華の場所になるから、地所などはしっかり買っておけ」といったところが、生島も半信半疑ながらに、おれがいったとおり地所を買い入れておいたら、はたして維新後には一坪何十円という高値になって、非常にもうけたそうだ。その後何かで少し損をしたということだけれど、今でもなかなかの財産家だよ。海舟の談話は一々自慢話が鼻につくが、確かに現在も生島の屋敷は豪邸であったことは確認できる。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/3834/mutu.html陸奥宗光 紀州藩を脱藩、龍馬の志を継いで新時代の外交を担当宗光は、弘化元年(1844年)に紀州藩勘定奉行・伊達宗広の第6子に生まれたが、父が藩内の政争に巻き込まれて失脚、15歳で江戸に出て安井息軒の家僕となって学問を学んだ。 文久3年(1863年)父・宗広と兄・宗興が脱藩して京へ上ったたので、彼も京へ移り住んだ。当時、彼は伊達小二郎と名乗り20歳だったが、ここで9歳年上の龍馬と出会い、師事するようになったようだ。 宗光は痩身の俊才で、龍馬にその才気を可愛がられていた。勝海舟が作った神戸の海軍操練所に入所したのも龍馬とのつながりからだった。海舟は「氷川清話」の中で「宗光はおれが、神戸の塾で育てた腕白者だった。まだ17、8の若衆で、身の丈に合わぬ腰のものをダテに差して、如何にも小才子風だった。」と生年時の宗光を回想している。神戸操練所閉鎖後は、龍馬とともに行動し、亀山者中が結成されたときに土佐浪士・陸奥源二郎と名乗って参加している。http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sanda_sizoku/10_simasan/maeda.html前田兵蔵 前田家祖先は代々九鬼家に仕え、同家が志州より三田に転封 の際随従して来たる。前田仁左衛門の弟兵蔵が九鬼副隆の御代 元禄三年御側御用人に抜擢され、新知高百五捨石を拝領して別 家を興す。 七代目兵蔵は幼名を又太郎という、嘉永六年十二月父八五郎 が病没し家督百五捨石を相続した。 元治元年五月摂津国神戸村に海軍操練所が開設されると、幕 府は『諸藩士の入所も認め、成績のよいものは終了後優遇する、 詳しくは所長の勝安房守に問合せよと』異例のお触れが出た。 九鬼隆義は早速家臣の前田又太郎を入所させ、又太郎は練習船 観光丸に乗組んで塾頭坂本龍馬のもとめきめき実力をあげ、成 績優秀で御雇い手伝い手当として一ケ月金一両宛をもらい海軍 士官になる夢に酔っていた。勝海舟は蛤御門の変での嫌疑にか かり江戸に召喚され、慶応元年三月操練所は一年足らずで閉鎖 され、前田又太郎は三田に帰った。 白洲退蔵の藩政改革は温厚なる家老澤野應吉を執政に戴き、 文治には与党たる天岡半八・向井庫之丞を、武治には前田兵蔵・ 岩根静蔵を配し、遂に藩の維新事業をするに至った。兵蔵は明 治二年藩政変革で大属聴訟断獄となり、十一月の役替えで再び 家令・側用人となる。廃藩置県後九鬼隆義が神戸に移ると、妻ぬい・嫡男恭一郎・ 次男正次郎を伴って随従し、神戸花隈に住む。 九鬼隆義は福澤諭吉の指導のもと神戸の将来性に目をつけて、 新開港場である神戸に進駐して『志摩三商会』を設立し、薬種 業・貸金業などを経営した。兵蔵は志摩三商会設立発起人の一 人として役員に任命され初め拾五円が支給され、のち弐拾円と なった。兵蔵が志摩三商会にいつ頃まで勤めたのかについては 知るすべもない。 http://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%AE%97%E4%B8%83加納宗七 かのう‐そうしち?1827‐1887明治時代の実業家、地域開発者。文政10年6月23日生まれ。紀伊(きい)和歌山の人。陸奥宗光らの尊攘(そんじょう)運動にくわわる。慶応3年神戸にうつり、外国事務役所の材木用達、和歌山藩開物局神戸下店の頭取となり、運輸業にも進出。明治5年生田(いくた)川の旧河川敷13.8haをかいとり、うめたてて加納町を造成。8年小野浜に港湾を築造した。明治20年5月5日死去。61歳。屋号は有本屋。http://www.gakugei-pub.jp/kobe/g_kin/46hon.htm 「これからの藩政の指針をお聞かせ願いたい」 隆義は川本幸民を通じて知り合った福沢諭吉に問うた。 「民間の手による商業に力を入れられたらいかがでしょう。これからは民の力です。官営は先が見えています」 隆義は、アメリカ的自由主義に心酔する福沢諭吉の提言を入れて近代資本主義的考え方に立つ帰農帰商策を三田藩の指針として藩士に示した。 「これからは海のある神戸だと思う。わが藩の長年の願いが叶うときぞ。海は世界に通じる。世界へ眼を向けようぞ」 隆義は諭吉の助言により発展の予測される開港間もない神戸に率先して移住し、花隈城址の東側に住んだ。そして隆義始め白州退蔵、小寺泰次郎以下藩士15人が役員の「志摩三商会」という西洋薬品が中心、食料品、雑貨などを扱う神戸初の輸入商社を設立した。志摩三とは、九鬼家出身地志摩と三田を意味する。この会社、実際は陸奥宗光と関係が深い豪商加納宗七が実施した生田川付け替え工事で生まれた埋立地の売買で得た資金で金融業を興し、経営基盤を固め、花隈周辺から海にかけての土地を安価で買い占めていった。http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/25_kodera/kodera.html 1873年(明治六年)五月、紀州の商人加納宗七(今も加納町の名を残す。) らの手によって、氾濫が頻発していた生田川1・63キロを埋め立て、新たに 川を付け替える工事が完成する。ところが埋め立てた土地にはさっぱり買い手が つかなかった。それらの土地を坪十銭に買いたたいて買い占めたのが泰次郎で あった。 今回のエントリーでは 生田川の付け替え工事で造成された土地の買収についての経緯を 調べてみましたが 引用した記事によって微妙にちがいます が うまく やったなというひとことにつきますね
2010年02月13日
コメント(3)
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/25_kodera/kodera.html 彼は三田藩における財政改革等に参画するうち、経済に強い自分を発見した ようだ。1872年(明治五年)、九鬼隆義・白州退蔵とともに志摩三商会の 設立に加わり、一時大いに繁盛した。 泰次郎は、その後独立し、不動産・金融業を始める。当時の神戸はというと、 1867年(慶応三年)、兵庫開港とともに外国人居留区が設置され、翌明治 元年には神戸町と名づけられたが、まだまだ鄙(ひな)びた漁村に過ぎなかった。 1872年(明治五年)、地所永代売買解禁の布告が出され、翌明治六年の 地租改正により、従来のように収穫高に対して税をかけるのではなく、土地の 価格を決め、その土地の所有者に地価の十分の三の地租を課すこととなり、 土地売買の取引市場が形成されてきた。旧藩主九鬼隆義の命も受けながら、 藩有林や武器・調度類を売却した資金で山手の一部、栄町、元町といった神戸 三宮周辺の土地を買い漁ったのはこの頃のことである。新開地を境に、東を 九鬼隆義、西を小寺泰次郎が買っていったと言う。 http://www.gakugei-pub.jp/kobe/g_kin/25hon.htm#N0004 まずは、 開通から今年で132年になった栄町通のあゆみを辿ってみよう。 栄町通のルーツを語るとき、 語り落とせないのはもちろん「居留地」と、 もうひとつは「鉄道開通」という二大プロジェクトである。 明治元(1868)年、 生田川(現フラワーロード)西側に出現した神戸外国人居留地は、 格子状に区画された街区割や幅27mの京町筋など、 当時の日本人の感覚とはかけ離れた空間であったと考えられるが、 この居留地の強烈な印象が、 その後の、 神戸駅北側の仲町部(現神戸市中央区橘通、 多聞通)の開発や、 明治中期から展開する新道開鑿、 耕地整理など民間による神戸の市街地基盤整備に大きな影響を与えたことは想像に難しくない。 栄町通の建設も、 そうした「居留地」の与えたインパクトのひとつと考えられるが、 その実現には、 明治初期の兵庫県庁を根城に活躍した一人のメリケン帰りの「プランナー」の存在が大きかった。 明治の初め、 西国街道(現元町通商店街)と、 海岸通に挟まれた区域は、 兵庫津から引き続いて形成されてきた神戸・二つ茶屋・走水の三ヵ村の中心部で、 場所柄、 水産物を商う人々などが住まう密集市街地であった。 できたばかりの居留地と大阪神戸間を結ぶ鉄道の終着駅が建設される東川崎町とを連絡するのは、 江戸時代そのままの西国街道と明治4年に整備された海岸通(現国道2号線)以外に目抜き通りはなく、 漁村特有の毛細血管のように家々の軒先を縫って歩いていく有様であった。 鉄道の開通を約2年後に控えた明治5年、 このまちを揺るがす計画が、 県庁から出された。 神戸・二つ茶屋・走水の三ヵ村の真ん中、 西国街道の南側に、 幅員18mの大通りを建設するというのだ。 この一大土木事業を計画したのは、 当時県庁の新大道取開掛であった関戸由義である。 赤松啓介によれば、 関戸は福井藩の、 おそらくは江戸屋敷詰めの武士だったが、 幕府崩壊の混乱に乗じて江戸中の豪商や御家人などから二束三文で買い叩いて集めた書画骨董刀剣を携えてサンフランシスコへ渡航、 現地の好事家に高値で売り飛ばして得た資金で、 こんどは最新式の銃器を仕入れて、 日本にとってかえし、 諸藩諸侯に売り込んでひと財産作った、 というなかなか武家らしからぬ抜け目のない人物だった。 関戸は、 開港間もない神戸で一旗あげることを決意。 早速現地へ飛ぶとメリケン帰りの新知識を生かして今の鯉川筋のあたりで英語・数学などを教授する私塾を始め、 これがよく繁盛をしたという。 まもなく兵庫県庁が、 関戸に目をつけた。 何しろまだ地方自治の基盤も確立しておらず人材不足の状況で、 短期間とはいえアメリカ滞在という関戸の経歴が光ったのだろう。 栄町通の建設にあたっては、 道路建設だけでなく沿道の市街地整備も合わせて計画されていて、 鯉川筋から宇治川の間まで道路幅員の3倍強・69mの幅で、 用地買収が進められた。 兵庫県は、 外国人居留地に対して「日本人のためのビジネス街づくり」を目論んでいた。 鉄道の終着・神戸駅から居留地への玄関口となる大通りに相応しいまちづくりを企図して、 そのプランにはある秘策が込められていた。 http://www.gakugei-pub.jp/kobe/g_kin/26hon.htm#N0003 明治5年の暮れ、 新道建設予定地とその沿道の用地買収と建物の除去がほぼ終わった。 兵庫県は新道沿道に、 間口7間以下の建物の建設を禁じる「建築条件」を付した。 このことで、 零細な従前居住者は、 他地域への移転を余儀なくされたが、 その目的は、 鉄道駅と居留地を連絡する新しい目抜き通りに相応しい景観を創出することにあった。 新道の工事は翌6年の年明け早々から開始され、 8月には全通。 従前居住者が再建をした区画以外の沿道の宅地は、 三井、 小野善助(小野組)などの政商、 そして九鬼隆義、 小寺泰次郎ら旧三田藩関係者を構成員とする志摩三商会などに売却され、 景観は一変した。 栄町通や山手通の建設、 城ヶ口墓地辣腕を振るった関戸は、 ほどなく県庁を退職。 小野組の顧問に迎えられる。 同組が明治7年に破綻後は、 諏訪山界隈の開発にも手も染めたが、 「関戸の足跡は、 今のところ明治20年頃から消えている」(赤松啓介「神戸財界開拓者伝」)http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/ziba.htm余談になるが、太平洋戦争前まで神戸の一流の料亭だった常盤花壇(ときわかだん)があった。常盤花壇の創始者・前田又吉は大阪の資産家だったが、遊興で身を持ち崩し、すってんてんで神戸へやって来た。全財産をはたいて作った一両余りを資本に、佐比江(さびえ)の米市場のそばで煮売り屋を開店。といっても露店だが、身代を傾けてみがいた味の感覚がものをいう。やがて小料理屋を開き、信用とひいきをつかむと明治元、花隈に常盤花壇を開いた。 そのひいき客の一人が九鬼隆義。又吉のスポンサーというべき立場にあった。3、4年ごろ、小野組の 関戸由義が又吉に話を持ち込んだ。 「諏訪山のふもと塩の池という一区に鉱泉のわくところがある。中宮、花隈、宇治野、北野など六ヵ村の共有地だが、交渉してそこを買い受けた。ついては、その地をだれかに貸したい。あんた、温泉でも開いてみる気はないか」 又吉は乗り気で、九鬼に相談した。九鬼は即座に、よかろう、と又吉に資金を貸した。5、6年ころ、諏訪山温泉が開かれた。又吉は九鬼のすすめで東、西、中の三店を出し、宇治川にも「宇治川常盤」を開いて、手びろく営業した。 関戸が六ヵ村から買い受けたのは坪(3.3平方メートル)当り一分二朱。それをいかほどで貸したか不明だが、うまい商売だった。ところが、7年に小野組が破産、同地は大蔵省国債局の所有になってしまった。編注いわゆる白洲伝説でいわれるものとはずいぶんちがうじゃないかという気もしますが どうでしょうかこれが三田藩グループの神戸での土地買収の一幕です 地上げを 三田藩グループでどうやったが 不明でしたが これならば納得できます 当時の兵庫県令は 神田孝平という方で 福沢センセイの友人ですし 関戸も 福沢センセイの門人です うまく抱き込んで 小野組や三井組の中に入り込んだということなんでしょう これなら お礼ということで福沢センセイのところに 金を貸したということになっているのも 納得できます さすが 学商 福沢センセイ
2010年02月06日
コメント(1)
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sirasu_taizo/sirasu_taizo.html 明治元年(一八六八)正月三田に帰った隆義は朝廷に恭 順を誓い、藩主の京都御所参内・朝見に成功するなどスマー トな切換えであった。退蔵は五月五〇石加増され大参事 (家老職)となる。五月太政官札が出たが国民は皆これを 信用せず価値遂に金一歩二朱に低下する。退蔵に思惑があ り藩米を皆売払う、代金は太政官札に限って受取った。こ れによって官札の信用が促進された。太政官札によるインフレしかし この太政官札は兌換券ではなかった 発行額の限度もなかった これだけでも不信感がわくのに そもそも明治新政府に対する庶民の信頼感は薄く したがって権威も確立されていなかった だれもが受け取ることをいやがった 仮に受け取っても 額面以下の価格が要求された 通貨価値の下落 つまりインフレが発生したもっとも インフレは翌二年の方がひどく、明治元年の米価上昇には 打ち続く 戦乱によって米穀生産量が減退したうえ 陸海の米穀輸送が支障をきたし 大消費地東京への供給不足がかなり影響しているとみていいだろう それにしても 明治元年の米価は安値三円八十銭から高値七円六十五銭へと二倍以上へ上昇した太政官札は翌二年六月まで発行されたあと 製造中止となった 国内での強い拒否反応だけでなく 通貨制度の混乱が貿易取引にも重大な支障をきたすとして 諸外国からの抗議さえ受けたためで 政府もついに過ちを認めた形であるだが約一年間に発行された太政官札は 総発行額は四千八百万両にも達した しかも その六割以上が 財政資金の穴埋めに使われたと推定されている これではインフレにならない方がおかしい明治二年の米価は前年後半の暴勢をさらに強めて、十月には十円四十五銭の高値をつけた 年初の七円二十五銭からみると 上昇率は四十四%だが 前年三月の安値三円八十銭との比較では 実に二・七五倍という暴騰ぶりであった明治三年から五年の三年間は この暴騰米価の修正期であった 人心が落ち着き、農耕作業も平常にもどったうえに 三年間の豊作という幸運もあった また米価の高水準期には フランス領インドネシアからの低価格の米もかなり輸入されて 国内米価を冷やし気味とした 日本市場史より前回のエントリーで三田藩は 日本の米相場のネットワークの中心にいたようですが 上記にあげた部分ではよくわかりにくいところがありますが これを当時の米相場にあてはめて 三田藩は この時期は 堂島の米相場がうまく機能していないにもかかわらず うまく売り切ったことをしめしているようにもみえます 太政官札の受け取りについては 額面の比率どこまでの受け取りが問題ですが これはあとで とてもおもしろいことに関係してきます
2010年02月04日
コメント(0)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E6%9C%AD摂津国三田藩は近隣の尼崎藩、麻田藩などと同様にかなり早期の、元禄13年(1700年)から藩札を発行した。宝永の札遣い停止令を経て、元文5年(1740年)に、藩財政窮乏の緩和、藩経済の発展に対応した通貨量増大などを目的として藩札の発行を再開した。三田藩が陣屋を置いた三田町は、周辺の摂津・播磨内陸部の国境地帯が幕府領、小藩領、関東諸藩の飛地領、旗本領等の錯綜地であったこともあり、商業の一大中心地として栄えた。また、酒造好適米の生産地である播磨国東部から酒造の一大中心地である摂津国武庫郡西宮町への陸路による輸送の重要な中継点にあたり、後に西宮町を含む灘地方(摂津国西部沿岸地域)における酒造業の飛躍的発展に伴って、三田藩領及び周辺の米も酒米として利用されるようになると、三田藩が藩領外の商人に対しても自藩領内での藩札の使用を義務付けていたこともあり、摂津国西部から播磨国東部にかけてのかなり広い地域で同藩の札は流通した。三田藩では領内のみならず、領外の多くの有力商人・農民をも自藩札の引請人としていた。ただし、三田藩本領、摂津国灘地域、播磨国東部地方では発行された札の図柄が異なっており、必ずしも相互の地域で一元的に流通していたわけではない。なお、三田藩は丹波国氷上郡にも飛地領を有し、同地でも藩札を発行した。当時の三田には 堂島の米相場と連動した取引所があり 手旗信号で 情報をおくってもらったようで 当時は武士の扶持米を 取引所で売却して 金を得るというシステムが確立してきましたが この相場周りでの付き合いは 文平さんの頃まではあったのでしょうか
2010年02月03日
コメント(0)
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50756117.htmlこちらとか 私の方の エントリーで 白洲文平さんについて 取り上げてきましたが まだ わからないところがあります三田市史とか 神戸市史とか 明治大正の経済新聞を 確認することができればいいのですが それも困難なので 退蔵さんの周辺を洗い 彼がいかにして 金を作り どのようにして土地を買ったかを中心に浮かび上がらせてみたいと思います
2010年02月03日
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1
![]()

