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○朝日新聞の記事「逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ」では、 (2.26)事件から41年たった1977(昭和52)年2月26日。天皇は意外な言葉を口にする。「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」。天皇のトラウマの深さがうかがえる。 が興味深い。 2.26事件では昭和天皇は決起将校(反乱将校)の鎮圧に積極的だった。 2.26事件は1936年(盧溝橋事件は翌年)に行われた陸軍皇道派によるテロで皇道派への政権移行には失敗した、しかし天皇の信頼する人達が殺害され帝都の一部は反乱軍に占拠された。 陸軍は反乱軍鎮圧に積極的ではなく、逆に反乱軍を認めるような行動をする、天皇が鎮圧を主張してもなかなか進まず、4日目に収束した。 昭和天皇は日米開戦の決断に於いて「クーデター」の発生を恐れていた。 終戦時の首相を決める際、重臣会議に於いて鈴木貫太郎(海軍大将、2.26事件では左脚付根・左胸・左頭部に被弾し生死も危うかった)を推薦する事が決定しそうになると東條英機は「国内が戦場とならんとする現在、陸軍がそっぽを向く虞れあり、陸軍がそっぽを向けば内閣は崩壊すべし」と脅かし、2.26事件の際に首相だった岡田啓介(海軍大将)が「大命を拝したる者に対し、そっぽを向くとは何事か、国土防衛は誰の責任か、陸海軍にあらずや」と諭す。 天皇や政府要人が陸軍の武力を恐怖し陸軍主導の下に日中・日米戦争に突入したの一面が存在する。 (蛇足)海軍が拒否すれば日米戦は行えないが、海軍は開戦に賛成してしまった。 戦後の「海軍戦争検討会議記録 第二回特別座談会」では澤本頼雄大将(日米開戦時の海軍次官)が対米戦に対して「海軍は戦えないと言えない」理由の一つとして「陸海の物資争奪、陸軍は『戦えざる海軍に物資をやる必要なし』といえり」を挙げている。 この、座談会には井上成実・及川古志郎・豊田貞次郎も参加しているが否定していない。○話は変わる、 「米バージニア工科大学での銃乱射事件」では米国の銃社会が日本では問題になった、32名の方が射殺されている。 2001年6月8日の大阪教育大学附属池田小学校に於ける小学校乱入無差別殺傷事件では、児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負わされている、凶器は出刃包丁。 この日、帰宅する児童に対してマスメディアは事件の様子をインタビューしている、テレビではそれを流していた。 凶器に対して素手で立ち向かうのは普通の人間には困難、バージニア工科大学での銃乱射事件後に銃を買う人の気持ちは解る。〓勝手に独断と偏見〓 政府の持つ武力は国民を守るためにあるが、権力者を守る意味もあると思う。○Wikipediaによると(概要)◇特別高等警察・治安維持法は治安維持の名の下に社会主義・共産主義など反体制思想の活動を弾圧した、1945年10月4日にGHQの指令により廃止された。◇日本で拳銃の携帯が許可されているのは、警察庁・警視庁及び道府県警の警察官(皇宮護衛官を含む)や防衛省(自衛隊)の自衛官、海上保安庁の海上保安官、財務省の税関職員、法務省の入国警備官及び入国審査官や刑務官、厚生労働省の麻薬取締官、都道府県の麻薬取締員、旧日本国有鉄道の鉄道公安職員(運輸省所管)(俗称:鉄道公安官。現在の鉄道警察隊の前身)など、公安的な職務を担う公務員が主である。└─── 銃を持つことは自分と家族を守るの意味があると言われると治安状態によるのではと思う、また現在の日本に於いてはどのような人であっても殺す事はできるだけ避けたいと思う人が一般的と思う。 国民が銃を持つ事に最も恐怖するのは権力者ではないか、もし軍部の圧力が満州事変から日米戦争を行った大きな要因であれば、政府・公務員・マスメディアに対して武力は大きな力を発揮し、武力は権力を左右できる力を持っていた事になる。 「日本国憲法 第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と「政府・公共団体の情報開示」と「議会制民主主義」と「マスメディアによる公平な報道」が権力者の横暴の抑止力になると期待している。
2007.04.29
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「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」 昭和天皇は「国体護持」に不安を残す「ポツダム宣言」を受諾し、戦争の終了を命じる。 対米戦を始めるに於いて、天皇は日米開戦は当然と思っていたのか、戦争は有利な状態で終わると考えていたのか、日米開戦に反対であったなら何故に止める事ができなかったのか。○「昭和天皇独白録」に於いて(概要)◇「大東亜戦争の遠因」 遠く第一世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。 日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。 又青島還付を強いられたこと亦然りである。 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑えることは容易な業ではない。◇「日米交渉」 ハルの所謂最後通牒が来たので、外交的にも最後の段階に立ち至つた訳である。└─── 以前より米国側に問題があり国民と軍は憤慨していた、ハル・ノートは最後通牒で、天皇は国民・軍を抑えようとしたが困難だった。 として、日本が開戦を決意したのは当然、天皇は開戦を抑える側だった、を控え目に主張している。○「木戸幸一日記(下)」では(概要) 日米開戦直前の1941年11月30日、高松宮は天皇に「海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたい。」と述べ、天皇は木戸内大臣の意見を求める。 木戸は今回の決断は決断すれば後へは引けない重大な事なので、少しでも不安があれば念を入れて納得する事が必要とし、海軍大臣・軍令部総長を呼び直に確かめることをすすめる。 天皇は東條首相を呼ぶ、その後に海軍大臣・軍令部総長を呼び確認、海軍は相当の確信を持って答えたと判断、予定通り進める事をを東條首相に伝えるよう木戸に命じる。 また、開戦2ヶ月前の10月13日に昭和天皇は、対米英戦の場合は独の単独和平を封じ日米戦に協力させる必要性を主張し、「日独伊共同行動協定(単独不講和及び新秩序建設に関する日独伊三国協定)」を日米開戦直後の12月11日に調印させている。└─── 天皇は最終決定者として日米開戦に拘っている、また対米戦を有利な状態で終わらせる意志が示されている。○「日独伊共同行動協定」に関して「昭和天皇独白録」の「三国同盟」の項で 日米開戦後出来た三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ。 確約当時政府の見透では日米戦争は勝負は五分五分、うまくいって日本が勝つても二分の勝で完勝は到底見込が立たぬ、之に反して独逸は完勝するであらうと云ふ事であつた。 それで若し左様な状態となった際、日本が見捨てられては困ると言う訳で、単独不講和を確約した訳である。実際、開戦の初期日本は予想に反して真珠湾で奇勝を博し又マライビルマは予想以上の短期間に攻略する事が出来た、若しこの確約なくば日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を握む事が出来たかも知れぬ。 つまり日本は自力を過小評価し独逸の国力を過大評価した為にこの確約をするに至つたので、これには大島大使の責任が大きい。└─── 有利な講和を結べるなら日米開戦に反対ではない、が見え隠れする。〓勝手に独断と偏見〓 昭和天皇が「日独伊共同行動協定」を望んだ理由は。 「確約当時政府の見透では日米戦争は勝負は五分五分、うまくいって日本が勝つても二分の勝で完勝は到底見込が立たぬ、之に反して独逸は完勝するであらうと云ふ事であつた」 「日独伊共同行動協定」では、「日独伊は米英に勝利するまで戦う事」「了解なしでの休戦・講和の禁止」「三国条約の意義に於ける公正なる新秩序招来の為最も密接に協力する」が記されている。 「三国条約の新秩序招来」とは 日本国は独逸国及び伊太利国の欧州に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且つ之を尊重す。 独逸国及び伊太利国は日本国の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且つ之を尊重す。 米国以外を三国の影響下に置く事を目指している。 日米開戦当時、「日米開戦は当然」「ドイツが完勝する事で日米戦争を日本有利で講和しよう」と考えていた天皇と首脳部。 「独白録」は「日米開戦を抑えることは困難だった」を述べているが、天皇の「日米戦に反対」は「負けるリスクが存在する戦争には反対」の意味が強い、戦争はいけない事だから「戦争反対」とは異なる。 戦う以上は勝たないと意味が無い、のスタンスだったのか。
2007.04.27
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1945年9月2日、ミズーリ号で降伏調印式が行われ、東久邇宮(陸軍大将)内閣の外相である重光葵と梅津美治郎参謀総長が調印した。○終戦までの流れ 鈴木内閣となり「最高戦争指導会議の構成員」はソ連との関係改善を行い連合国との和平交渉の仲介を行う事を決定したが、講和条件に関しては決定できず先送りとなった。 広田元首相とソ連駐日大使マリクとの会談が始まり、天皇は「最高戦争指導会議の構成員」に和平交渉を指示するが、和平交渉の条件を明確にできない。 ソ連は以前から米英にドイツの降伏後に日本に宣戦布告すると言っており、「ヤルタの密約」では、ドイツ降伏の2・3ヶ月後に日本に宣戦布告すと述べて、極東に於ける領土・権益を主張している。 陸軍・海軍はソ連の仲介による和平交渉を望む、外相も無条件降伏より好条件を得るにはソ連の仲介が必要と判断する。 ドイツが降伏し沖縄は敗北、米・英・ソにより「ポツダム会談」が行われ、米・英・中により「ポツダム宣言」が宣せられたが、宣言に対して日本政府は戦争継続を主張し「ポツダム宣言」を無視、「ポツダム宣言」に加わらなかったソ連仲介による和平交渉を望む。 「ポツダム会談」では、原爆実験の成功がチャーチルとスターリンに伝えられ、ソ連は8月15日の対日参戦予定を繰り上げる事になる。 日本は本土決戦を計画するが国民に渡せる武器がない、広島・長崎に原爆が投下される。 ソ連の満州・樺太への侵攻により日本政府は「ポツダム宣言」を「国体護持」を条件として受諾する事を決意する。 日本の申し入れに対する回答は、 「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍司令官の制限の下に置かるるものとす」 「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」 連合軍により回答のビラが撒かれ、日本政府は連合国に「ポツダム宣言受諾」を通告、8月15日には天皇がラジオを通じて国民に受諾を知らせた。 8月16日の正午に戦闘休止命令が発せられ、17日には東久邇内閣が発足した。 日米開戦直前、東條内閣に決定した理由について「独白録」では、 「若し皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思ったし又東久邇宮も之を欲していなかったので、陸軍の要求は之を退けて東條に組閣をさせた次第である」 東久邇宮は東條が日米開戦論者であることは天皇も木戸内大臣も知っているのに、木戸が内閣首班に東條を推薦し天皇が採用した理由がわからないと日記に記している。 敗北後の最初の元旦である1946年1月1日に、昭和天皇は「天皇は現人神」「世界を支配すべき運命」を否定した。※「最高戦争指導会議の構成員」は首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長 「最高戦争指導会議」は幹事が参加する、「最高戦争指導会議の構成員会議」は幹事を参加させず次官・次長などの部下にも内密とした。〓勝手に独断と偏見〓 ドイツ降伏・沖縄敗北により昭和天皇は講和の意志を「最高戦争指導会議の構成員」に表明、ソ連仲介による和平交渉を「構成員」は望み天皇も了承し進めたが、当初はソ連との友好関係再構築のレベル。 ソ連に連合国との仲介を依頼したのはポツダム会議の直前、講和条件は日本側の戦局に対する現状認識の違いで決定できていなかった。 ソ連参戦により、天皇主導の下「国体護持」のみを条件とする事で「ポツダム宣言」を受諾する方針が決定された。 戦争の早期終結を望んだ東郷外相・米内海相だが、ソ連参戦・原爆投下により和平交渉が行えたの認識を示している。 「国体護持」を条件とした「ポツダム宣言」受諾の申し入れに対する四カ国回答(バーンズ回答)は、占領時は占領軍、占領終了後は国民が決定権を持つの返答で「国体護持」は不明確。 「天皇制の存続」「天皇大権の維持」で揺れる、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」の世界。 「天皇大権の維持」を望むが、受諾条件を連合国が認めない場合の議論として戦争継続の話となり、「情況が悪化するだけ」「死中活を求むる」となる。 結局8月14日に昭和天皇が「ポツダム宣言受諾」を決断。 「国体護持」に対する回答を受け入れるかが焦点だった。和戦どちらにしてもリスクを伴う、決断を誰かに委ねるのは無理な局面だったと思う。 陸軍・海軍の暴走を阿南陸相・米内海相が押さえ終戦を迎えた。
2007.04.24
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毎日新聞社では8月20日に奥村信太郎社長が辞表を提出、朝日新聞社では10月22日に人事刷新の方針を発表した。 読売新聞社では社長の正力松太郎と組合員代表の鈴木東民は決裂、読売争議が始まる、10月25日から組合員側の「生産管理(部分的な会社運営)」下での読売新聞発行が行われた。○「読売新聞社説:新聞への断罪」10月25日付 戦争責任者を徹底的に掃蕩し、それらが拠った牙城たるその機構制度を変革すべきである。 これ日本民主化の第一前提である。 戦争犯罪者として告発せられざるの故をもって、戦争責任者が括然としてその牙城を固守するかぎり日本の民主化は断じて行はれない。 今日政軍経その他各部門にわったって戦争責任の告発、追及、糾弾及び機構制度の改革はすでに進捗しつつあるにかかはらず、ひとり文化部門にはまだ及んでゐない。 戦争への煽情、その遂行についての文化界の負ふべき責任は決してすくなくない。 これへの追求は当然行はるべきであるし、近く具体的に現実化するものと信ずる。 文化部門における新聞のもつ役割はいふまでもなくすこぶる大きい。 この戦争の前後を通じてこの新聞がたとへ弾圧の下にあつたとはいへ軍閥、財閥、官僚等の特権階級の手先となり、戦争への国民の駆立て、戦争の拡大に果たした罪は限りなく大きい。 而も度を越えて進んで彼らに阿附するの醜悪をさへ演じたのである。 ことに真実を伝えざるのみならず、事実と全く反対の報道を臆面もなく報じて国民を欺瞞し、国民の戦争についての認識を誤らせ、その眼を眩ませた罪に至っては正に万死に価する。 一言以て尽せば、戦争責任における新聞の罪は今日徹底的に断ぜざるをえない。 新聞への断罪はまづ新聞をかくあらしめた政治機構、財閥、軍閥、法制、制度の変革即ち社会機構の全般的変革を先づ必須条件とするが、新聞それ自体としては特権階級と積極的に一体となり、統制、指導者組織などの全体主義の波を利用して社員の生活を犠牲にし、弾圧によって社員の筆を封じ、それによって自腹を肥した新聞財閥の首脳及びその手先を清掃しなければならない。 それと同時に彼等新聞財閥がかかる弾圧と搾取とをなすに利用したからくり即ち新聞従来の旧機構、旧制度を<テツケツ(意:取り去る)>し、廃止し、社員の下からの全意識を組織化した新しい民主主義機構と制度ををもって、民主化に徹底した紙面を作り上げることが絶対に必要である。 しかしながら新聞首脳部の態度をみるとき、戦争中は勿論、終戦以来社会各部門の民主化が進み、軍閥先づ崩れ、財閥の解体も近く、官僚への痛棒も下された今日、彼等のみは依然として天下の公器新聞を私物として従来の特権、一身の利害を固執して頑として譲らず、読者諸君が毎日見らるるやうな随所随時に死せる軍閥を擁護し、腐れ果てた官僚に味方するごとき尻尾を出す仮装的民主主義によって一時を糊塗する態度に出たばかりでなく、下からの新聞民主化の良き意思と企画とにたいしてこれを蹂躙し、かへつて挑戦するの態度に出て来つたのである。 この新聞財閥にたいして同業朝日新聞先づ戦いの火蓋を切り果敢なる闘争によって重役幹部の総退陣を闘い取り、本社また社員大会を開催して従業員組合の結成、社長、副社長、全役員、全局長の辞職を決議し全くの戦闘状態に入ったのである。 かくて「新聞」への断罪の日も近かるべく、かくしてこの断罪によって新聞の民主化、それを通じての日本民主化の画期的前進が必至のものとして現はれるであろう。└───「戦後史/井出孫六」より〓勝手に独断と偏見〓※「戦後秘史4/大森実」をベースに 戦争中の新聞報道の責任を取って新聞社の首脳陣が退陣した。 読売新聞社では社長の正力松太郎(関東大震災時は警視庁官房主事)は読売新聞従業員大会(10月23日)の「新聞の戦争責任を明らかにするため、社長以下全重役、全局長の総退陣要求決議」に対して発頭人である鈴木東民・長文連・坂野善郎・山主俊夫・菱山辰一の馘首を発表。 10月25日より争議団が読売新聞を発行する。 12月3日に正力は戦犯指名され、その後巣鴨に収容される(12日)、馬場恒吾が社長となり鈴木東民は編集局長となった。 翌年の1946年6月12日、馬場恒吾社長は鈴木東民らに退社を命じ第2次読売争議が勃発、10月16日に鈴木東民らが自発退社し決着した。 GHQの方針変更に振り回される日本、共産主義者にとってGHQは解放軍ではなくなりつつあった。
2007.04.21
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●ポツダム宣言○無分別なる打算に依り日本帝國を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍國主義的助言者に依り日本國が引續き統御せらるべきか又は理性の經路を日本國が履むべきかを日本國が決定すべき時期は到來せり○吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては嚴重なる処罰を加へらるべし日本國政府は日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし言論、宗教及思想の自由竝に基本的人権の尊重は確立せらるべし※連合国は天皇・国民ではなく「軍國主義的助言者」の責任を追及、「国民主権」「基本的人権の尊重」を求めた。●一億総懺悔 8月17日に東久邇内閣が発足、28日の記者会見で東久邇首相は内閣記者団との初会見に於いて、 「軍、官、民の国民全体が総懺悔することが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信ずる」 「一億総懺悔論」は緒方竹虎(国務大臣)が主に主張した論のようである。○8月15日の朝日新聞の「神風賦」(後の「天声人語」)の抜粋 戦いは事志と違った。 何故事ここに至ったか、いやしくも責は何人が負うべきか、などどいう勿れ。 顧みて他をいうをやめよ。 各人、深く静かに思いをひそめて、自ら反省すべきである。●日米開戦直後のマスメディア 『朝日新聞』1941年12月11日夕刊(「朝日新聞の戦争責任」よりの抜粋・概要) 大手新聞・通信社主催の「米英撃滅国民大会」が10日に後楽園球場で行われた。 会場の模様はAK(NHK)が全国放送した(13時~15時)。「米英撃滅国民大会 八社共同主催 正義の矢放たれたり 先勝に酔わず 鉄の団結肝要 大平大佐講演」○概要 13時に海軍軍楽隊が軍艦マーチを吹奏しながら入場し開会。 宮城遥拝、国家斉唱、戦没将兵出征将兵に黙祷、奥村情報局次長挨拶、10日朝までの戦況報告 東日社賓徳富蘇峰(毎日)・緒方主筆(朝日)・正力社長(読売)・三木社長(報知)が講演で、敵米英を撃滅せずにはいられないという国民的決意を昂揚、満場を熱狂させた。 田中中外社長(日本経済新聞)の宣言朗読、福田都新聞社長(東京新聞)の決議文朗読、田中国民主幹(東京新聞)の発声で聖とう(示へんに壽)の万歳を奉唱、吉野同盟社長(共同通信・時事通信)の発声で皇軍万歳を三唱、参会者一同の愛国行進曲合唱に15時散会。○新聞社側の発言・発声者 東京日日新聞(後の毎日新聞):社賓徳富蘇峰 朝日新聞:緒方竹虎主筆 読売新聞:正力松太郎社長 報知新聞:三木社長 中外商業新報(後の日本経済新聞):田中社長 都新聞(後の東京新聞):福田社長 国民新聞(後の東京新聞):田中主幹 同盟通信(後の共同通信・時事通信):吉野社長●マッカーサーは国連軍司令官から解任される(1951年4月11日) 「敗北を抱きしめて(下)」より○『毎日新聞』による、解任されたマッカーサーが日本から飛び立つ時の情景 ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。 今年のみのりは豊かでしょう。 それはみな元帥の5年8ヶ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。○『朝日新聞』の社説(解任発表の翌日)「マッカーサー元帥を惜しむ」 われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きてきた。 ・・・・日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。 子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった。○NHK マッカーサーの離日を生中継で放送、蛍の光が流れ、「さようなら、マッカーサー元帥」を、アナウンサーが悲痛な声で繰り返した。〓勝手に独断と偏見〓 報道機関が何を報道し何を報道しなかったかは重要。 報道機関は「如何なる理由があろうと真実を示そうとしない報道は許されない」と思っているのだろうか、「製造物責任法」の政府・マスメディア版が必要か? 「日本国憲法 第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」を有効活用できる法整備をしてほしい。
2007.04.19
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○国民投票法案(Wikipediaよりの抜粋) 「国民投票法案」は、日本国憲法の憲法改正に必要な手続きを定めるための国民投票法に関する法案をいう。 第164回通常国会に提出され審議されている法案の正式名称は、与党案は「日本国憲法の改正手続に関する法律案」、民主党案は「日本国憲法の改正及び国政における重要な問題に係る案件の発議手続及び国民投票に関する法律案」といい、衆議院において両案を併合する与党提出の修正案である「日本国憲法の改正手続に関する法律案」が可決された。 2007年4月12日、衆議院憲法調査特別委員会で、民主党提出修正案は否決され、与党提出修正案が自民・公明の賛成多数で可決された。 翌4月13日に衆議院本会議で可決され、参議院に送られた。※第164回通常国会は、2006年1月20日に召集された通常国会である。会期は延長されず、6月18日までの150日間。〓勝手に独断と偏見〓 「国民投票法案」は憲法の改正が必要とする者が多数存在し且つ可能な時に必要であり、社会党が力を持っていた時は憲法改正は不可能で必要なかったと思える。 「国民投票法案」が成立しても、憲法改正を国民に提案するには衆議院・参議院の2/3以上が賛成が必要である以上、自民党は民主党の賛同が必要であり、自公民による「国民投票法案」成立を目指したが失敗に終わった。 「国民投票法案」が成立したとして、自民・公明は「憲法9条」の変更に賛成なのか、公明党は「集団的自衛権の行使」を認めるのだろうか。○「国連憲章 第五十一条」(一部) この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、『個別的又は集団的自衛』の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。 国連憲章では無制限ではないが『個別的又は集団的自衛』が認められている。 日本が「集団的自衛権」を行使するかは日本の問題、だが日本が「集団的自衛権」を行使しないと宣するなら他の国も日本に対して「集団的自衛権」を行使する義理は無い事となる。 「日本は米国だけに守ってもらえれば良い、米国は守ってあげる」が現状。 もし、日本が米国ではなく中国と近くなったとして、中国が攻められても日本は軍事的には中国を助けない事を宣している事でもある。 民主党はまた党利党略で「国民投票法案」に反対している。 反対することや法案を良くする事は其々の主張があってよいと思う、共産党・社民党は「集団的自衛権」などは反対なのだろうから「憲法改正反対・国民投票法案反対」の立場を取るのは当然と思うが、民主党は参議院戦に向け存在感を示したいのは解るが失敗している。 「有効投票総数」が問題となっている。 投票しなかった人達が「YES」が多いのか「NO」が多いのか判断できないが、投票した人達と同じ比率と判断するか「YES」あるいは「NO」が多いと判断するかである。 投票しない人達の多くが「NO」だとは言えない、「YES」かもしれない、どちらでもない・判断できない人は現状維持として「NO」とすればよいと思う。 もし憲法改正の判断を国民のみが行うとして、各党が其々年一回憲法改正の発案が行え「憲法改正の国民投票」が行えるとしたら共産党・社民党はどのような改正を発案するのだろうか、それとも護憲であり発案しないのだろうか。
2007.04.16
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○1945年10月11日のマッカーサーの5大改革指令(概要)1)婦人参政権と婦人解放2)労働者の団結権、団体行動権の保障3)圧制的諸制度の廃止4)教育の自由化5)経済機構の民主化 マッカーサーは、 「刻下の行政部面に就ては国民の住宅、食糧、衣料の問題に関し政府か力強く且迅速なる行動に出て疫病、疾病、飢餓其他重大なる社会的政局を防止することを希望す、今冬は危機たるへく来るへき困難克服の道は総ての人々を有効なる仕事に就業せしむるの他なし」 も述べている、深刻な食糧不足が予想されていた。●職と食 占領下の日本は、食糧不足と失業者の大量発生から出発する。 陸軍547万人と海軍242万人の復員による多量の失業者、帰る家・家族が無くなった者、戦争遂行に特化した産業形態は変更を必要とした。 また、1945年の終戦の年は、食糧不足が危惧されていた。○「高松宮日記 第八巻の9月13日」よりの概要 現在の人口約7800万人 内地復員:396万人、外地復員:365万人 工場等より失業:413万人 在外邦人420万人(内1/3が帰国するとする=126万) 就職可能予想:700万人(戦時中に女性が代わった職を男に戻す:180万人) 戦争終結により社会へ出る人数合計は1300万人 失業者は600万人○食料 1945年の収穫は587万トン(1939年は1035万t) 日本の年間消費量は1100万t前後。 GHQによる小麦粉などの食料放出(GHQ1946年9月18日発表) 4月: 7,892t 5月: 8,844t 6月: 48,517t 7月:174,708t 8月:213,314t 9月:155,045t※主に「日本の歴史13/読売新聞社」よりの数字、食糧・食料の使い分けなど不明確●国民の財産と闇物資 人々は配給だけでは生きてゆけず、闇物資に手を出す。 闇物資を扱い逮捕された人数、1946年から年間、122万人・136万人・150万人○占領軍から引き渡された「隠退蔵物資」が、消えてしまった。 衆議員 隠退蔵物資等に関する特別委員会-8号 昭和22年08月13日 に於いて以下の記述がある。(抜粋、国会会議録より) 石橋湛山は国会で証言する。 昨年十一月十五日の計算で千數百億圓の物資を司令部は日本政府に引渡しておる。 それはむろん舊陸海軍等が持つておつたものを司令部が差押えて、さらに日本政府に渡したものなんですが、その中に建築材料とか機械とをいうものも數百億圓ある。 これはそういう書面がきております。その行方を突きとめたい。 一體千數百億圓の物資が日本の政府に引渡されたとするならば、一體どこに引渡されたのか。 私は閣議にもち出して調べてみました。 内務省その他の諸君に來てもらつて調べたのでありますが、役所にある資料は、とてもそんなものはありません。 わずか二、三千萬圓くらいのものが内務省あたりの手を經たようでありますが、千數百億圓のものは、どこへどう行つておるかわからない。 「敗北を抱きしめて(上)」によると、上記の内容は。 内務省は財閥系企業の5人の代表からなる委員会に、その処分を委託した。 その総価格はおよそ1000億円と見積もられたが、これらの資材もすぐにほとんど跡形もなく消えうせた。※参考:昭和22年度の予算額は114,503,864,000円(約1145億円)〓勝手に独断と偏見〓 当時の国家予算に近い額と評価されていた「隠退蔵物資」が消えた、国民の財産が軍・政治家・政府官僚・財閥に分捕られたと思えるが明確ではない。○児玉誉士夫氏の「戦後秘史1/大森実 インタビュー」に於ける主張(概要) 終戦直後(8月17日ごろ)に児玉は米内海相から 「この戦争で進駐軍が来れば必ず皇室の財産は没収される。そうすると皇室が今度は、外国の大使が、つまり、客が来てもモノひとつあげるものはなくなるだろう。制限されるだろう。いまのうちにこれは皇室に渡しておくべきではないか」 と言われ、宮内省の金庫にプラチナとダイヤモンドをみかん箱ぐらいのダンボール20箱を運び入れた、一週間後に石渡宮内相が「皇室が進駐軍からおこられて迷惑するだろうから、いっぺん持ち帰ったほうがいい」と海軍へ話し児玉は取りに行く。 米軍から提出命令が海軍に来たので、児玉は米軍に半分渡させる。 金(7千万円)と残りのプラチナとダイヤモンドを児玉が巣鴨に行く際に辻嘉六に任し鳩山一郎に渡された。
2007.04.15
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○終戦の詔書(1945年8月14日)(概要) 朕は深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾する事とした。 此処に忠良なる汝等臣民に告ぐ。 朕は帝国政府に米英支ソの四国に対し「ポツダム宣言受諾」を命じた。 米英二国に宣戦したのは帝国の自存と東亜の安定とを願った為で、他国の主権を排し領土を侵す意志はなかった。 戦局は好転せず、世界の大勢も我に利あらず、加えて敵は新に残虐なる爆弾を使用して無辜の民を殺傷した、交戦の継続は我か民族の滅亡を招来するのみならず人類の文明をも破却する。 よって、朕は帝国政府に「ポツダム宣言受諾」を命じた。 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表す。 帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉し非命に斃れたる者及び其の遺族に想に大変な痛みを覚える、且つ戦傷を負い災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては朕は深く心を痛める。 今後帝国の受ける苦難は固より尋常ではない、汝等臣民の衷情も朕善く之を知る、堪へ難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開こうと欲す。 朕は国体を護持し、忠良なる汝等臣民の赤誠を信頼し常に汝等臣民と共に在る。 同胞を誹謗したり、世界に対し信義失うような軽挙妄動をせず、国民一丸となり神州の不滅を信じ総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏くし誓て国体の精華を発揚し世界の進歩に遅れない事を決意せよ。 汝等臣民は克く朕の意を心に止めて行動せよ。└─原文は「HP:日本国憲法の誕生」より 「木戸孝一日記(下)」によると、「20時30分、鈴木首相拝謁、御詔書案を奉呈、御允裁を得たり」で、「終戦の詔書」は昭和天皇が書いたものではなく、閣議メンバーが中心となり作られた。 勿論、天皇が作成を命じ作成された詔書に同意したのであるから、天皇の意向に沿った内容である。○「敗戦日記/玉川一郎」(一部の抜粋) 8月12日 遂に午前会議決せりの情報ありたれど、我信ずる能わず。 8月14日 夜、清和寮より参謀本部方面を望めば、二条の火光高し。重要書類焼却中のものの如し。されど燈管中なるを思い、我ら奇異の感を抱けり。 陛下の御放送の予告あり。後にきくところによれば一般の人々は「一億総反攻」の御言葉を期待せりと。 8月16・17・18日 朝来海軍機しきりに飛ぶ。雷電等高度はなはだ低し。戦争続行の意志を表示せる横須賀航空隊、皇軍等の署名あるビラ、飛行機により散布され、あるいは電柱に貼布さる。「バドリオを倒せ」等の文字あり。 15日即日、川崎なる日本化工(ガスマスク製造)は工員を解雇せりと。 この日より、日本人として恥ずべき掠奪にひとしき、官公署、軍需会社の物資分け取り始まる。└─「ドキュメント昭和史5」より 軍・官公署・財閥などが国民に返却すべき物資を私物化している。〓勝手に独断と偏見〓 1946年1月1日までは現人神である昭和天皇は「忠良なる爾臣民」に対して 「帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめた」 「朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り」 「バーンズ回答」では「国体護持」の実態が不明確、 「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」 感覚的に「臣民」は「国民」と比べ天皇が支配している意が強い。 1946年1月1日の「新日本建設に関する詔書」(「天皇の人間宣言」)では 「朕と爾等國民との間の組帶は、終止相互の信頼と敬愛に依りて結ばれ、單なる神話と傳説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし旦日本國民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる觀念に基くものに非ず。」 「万世一系」は「Wikipedia」によると 万世一系は天皇に関する政治・歴史イデオロギーの一種。日本は神の子孫たる天皇家によって、他国のように革命や王朝の断絶を経験することなく統治されてきたとする史観に基づき、皇統の一系や天皇制の永続などを主張するもの。 「天皇の人間宣言」により「大日本帝国憲法 第1条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」の前程概念「神の子孫たる天皇家」が否定された。 仕方がないの一面はあるが、降伏してから「天皇は現御神」「世界を支配すべき運命」を否定されても困る、沖縄・硫黄島・日本国民・アジアの人達の犠牲は何だったのか。
2007.04.13
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○阪神・淡路大震災(Wikipediaよりの抜粋) 死者:6,434名、行方不明者:3名、負傷者:43,792名 報道倫理に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。 地震発生直後のマスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、この取材活動におけるヘリコプターによる騒音により家屋の下敷きとなった被災者の声を聞き取れずに救助隊の初期活動の大きな妨げとなっている。 1995年2月7日に衆議院地方行政委員会でこの問題が取り上げられている。└───○阪神大震災「首長判断遅く2千人犠牲」 石原氏が発言 石原慎太郎氏は8日夜の会見で防災策に触れ、「神戸の地震の時なんかは(自衛隊の派遣を要請する)首長の判断が遅かったから、2000人余計に亡くなったわけですよね」と発言した。阪神大震災の被災地で反発が出ている。 震災時の兵庫県知事、貝原俊民氏(73)は「石原さんの誤解。たしかに危機管理面で反省はあるが、要請が遅れたから死者が増えたのではない。犠牲者の8割以上が、発生直後に圧死していた」と反論する。 震災後に同県の初代防災監を務めた斎藤富雄副知事(62)は「全く根拠のない発言で、誠に遺憾。将来の備えのためにも、過去の災害を適切に分析してほしい」。神戸市に次ぐ被害を受けた同県西宮市の震災時の市長、馬場順三氏(81)は「震災を実際に体験していないから言える発言ではないか」と語った。 └───asahi.com 2007年04月09日06時11分○「そのまんま現象」(筑紫哲也氏の主張) 私たちの国の知事さんたちは相当に安定した統治能力の持ち主と見えて、8日の統一選では現職の人は皆そのまんま再び選ばれました。宮崎の「そのまんま東現象」では、変化を求める有権者の声というのが非常に表面に出たのですが、今回はむしろ安定を望んだようであります。 そういうわけで、我が東京都知事も選挙前のそのまんまに戻りまして、お伝えしたように、阪神大震災についてあのような発言をしております。あの震災の時に私も現場で取材をしておりまして、それからしばらくあそこに留まって中継を続けたのですが、こんなに文明国だった国がですね、6000人以上の死者を出したというのは、本当に恥ずべき怒りを覚えることだとつくづく思ったことを覚えております。 しかしながらそのうち2000人が、自衛隊の出動要請が遅れたから失われたのかも知れないという、これがまた石原さんらしい、例のよっての短絡した考え方ではないかと私は思います。現場であれだけの死者が出たのはなぜなのかと言えば、建物の中で非常に脆弱なものがあって圧死された方が多い。それから、簡単に火事になるような建物が多かった。そのことが多くの死者を出しました。 実はこれは過去の話ではなくて、東京は必ず震災が来ると言われております。そういう中で、もし自衛隊の出動が人命を救うんだという風に考えている知事がいるとすれば、普段のそうではない、建物を燃えないようにする、壊れないようにするという方の対策には力点が入らなくなるという疑いが出てきます。どうぞその辺は間違えないで東京都の運営をこれからやって欲しいものだと思います。 └───News23 多事争論 4月9日(月)〓勝手に独断と偏見〓 朝日新聞の報道は冷静に石原氏と貝原氏の発言を取り扱っている。 貝原氏の発言「危機管理面で反省はある・・・要請が遅れたから死者が増えたのではない」は納得できない所。 石原氏の言う「首長の判断が遅かったから、2000人余計に亡くなった」は誇張としても、自衛隊の出動要請が早かったら・マスメディアが取材を自粛していたら数十名が助かったかもしれない。 筑紫氏が「2000人が、自衛隊の出動要請が遅れたから失われたのかも知れないという、これがまた石原さんらしい、例のよっての短絡した考え方ではないかと私は思います」と主張しているが、「自衛隊の出動要請」が有効だったは短絡とは言えない。 筑紫氏の主張は反石原・反自衛隊が先ずあっての主張ではないか。 「建物の中で非常に脆弱なものがあって圧死された方が多い。それから、簡単に火事になるような建物が多かった。そのことが多くの死者を出しました。」 では、自衛隊の出動要請が一刻も早く必要な情況を述べているにも拘らず、論調は「自衛隊による救助」を矮小化している。 また、震災に於いてのマスメディア・筑紫氏による現場取材や報道の問題点には言及していない。
2007.04.11
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8月14日朝、連合国の飛行機が「バーンズ回答」のビラを撒布したのを木戸内大臣が取得、木戸は天皇に「バーンズ回答」が撒布されている情況と、このままでは全国混乱に陥るを言上。 天皇は「閣僚」「最高戦争指導会議構成員」連合の御前会議を召集した。※8月13日・14日、米軍機は「日本の皆様」と題するビラを全国各地にばら撒いた。・・・連合国との交渉をひた隠しに隠していた政府は、このビラで軍隊や民衆が動き出すのをおそれ、いそいで天皇の発意による異例の御前会議を開き、「聖断」によって降伏を決めたのである。 (「ドキュメント昭和史5」より)●「8月14日の御前会議」(主に「時代の一面」よりの概要)○鈴木首相 8月10日の我がほう申し入れに対する米国回答(バーンズ回答)についての審議を行ったが「最高戦争指導会議構成員会合」でも「閣議」でも意見を一致するに至らなかった。 鈴木首相は外務大臣の意見と之に反対の意見とを説明。 反対意見を述べさせる為、梅津参謀総長・豊田軍令部総長・阿南陸相の順に指名。○陸相と参謀総長の意見 米国回答の儘に「ポツダム宣言」を受諾するならば国体護持上由々しき大事である、されば更に米国と交渉することが必要であって、若し国体の護持が出来ないならば一億玉砕を期して戦争を継続するより外にない。○軍令部総長の意見 米国の回答其儘を鵜呑みにするに忍びないから今一度日本の所信を披瀝することが適当である。○天皇の聖断 ・・・ 今次回答に付き色々議論由なるも自分は先方は大体に於いて之を容れたり認む、第四項に就きては外相の言ふ通り日本の国体を先方が毀損せんとする意図を持ち居るものとは考へられず、尚此際戦局を収拾せざるに於いては国体を破壊すると共に民族も絶滅することになると思ふ、故に此の際は難きを忍んで之を受諾し、国家を国家として残し又臣民の難苦を緩げ度しと思ふ、皆其の気持ちになりてやって貰ひ度い、尚自分の意思のある所を明らかにする為めに勅語を用意せよ、 ・・・┗━ 14日深夜にスイス・スウェーデン両政府を通じ米英ソ支四国政府に「ポツダム宣言」受諾詔書を発布。 占領・武装解除については○占領及び武装解除の問題に対する四国政府への申し入れ(15日朝)1.帝国政府はポツダム宣言の条項を誠意を以って実行せんとするものなるに鑑みて帝国政府の責務を容易円滑ならしめ且つ無用の紛糾を避くるが如き配慮を希望する、之が為(イ)連合国側の艦隊又は軍隊の本土進入に就きては予め通報せられたい。(ロ)保障占領の地点は其の数を少なくし且つ派駐の兵力も小ならんことを希望する。2.武装解除は帝国軍自ら之を実施し連合国は右の結果として武器の引渡しを受くるものとせられたく、又随身兵器は認められたい。└─〓勝手に独断と偏見〓 13日の閣議散会後に鈴木首相は「総理は参内して御聖断のことを御願いしませう」と東郷外相に述べているが、13日には御前会議は行われず、翌朝の午前中に急遽、政府・統帥部連合の御前会議に於いて聖断が行われる事になった。 「バーンズ回答 第四項」は 「最終的の日本国の政府の形態は「ポツダム宣言」に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」 天皇は「日本の国体を先方が毀損せんとする意図を持ち居るものとは考へられず」の感想、憲法改正による「国民主権」「象徴天皇」「戦争放棄」は想定外としても、天皇大権の制限は覚悟し「国体護持」が「天皇制の存続」の意味に近くなっている。○「時代の一面」によると、14日の深夜、閣議で詔勅案の審議が行われ23時に詔勅が発布された。 閣議終了後、全部の人がまだ円卓に就いている間に阿南陸相は東郷外相の所に来て姿勢を正した上、 先刻保障占領及び武装解除に付き連合国側に申し入るる外務省案を見たがあれは洵に感謝に堪へない、ああ云ふ取扱いをして貰へるのであつたら御前会議でも左程強く言う必要もなかったのだ と挨拶したから、自分は此の二問題に付いては条件として提出するに反対であったが我が方の希望として申入るることは度々説明した通りであると答えたが、先方は重ねていろいろお世話になりました丁寧に御礼を云ふので、少し鄭重過ぎる感じを受けたが、兎に角総て終了してよかったと笑って別れた。 <中略> 総理の私邸及び平沼邸の焼討事件があった。15日早朝に陸相自決せる旨の報道に接した。└─ 鈴木首相と平沼枢相に対して裏切られたの感が強かったと思われる。
2007.04.10
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「バーンズ回答」後、8月12日・13日に最高戦争指導会議構成員会議と閣議が行われた。 「8月14日の御前会議」までを「時代の一面/東郷茂徳」をベースに調べる。○12日の閣議・構成員会議 昭和天皇・東郷外相・米内海相は「バーンズ回答」に問題はあるが「ポツダム宣言」を受諾するの立場。 阿南陸相は「天皇が連合国最高司令官の権限に従属」「日本政府の最終的形態を日本国民の意志により決定」を不都合とする。 鈴木首相は「武装解除を強制されるなら戦争継続も致し方ない」と発言、後に木戸内大臣の説得で了解する。 阿南陸相と梅津参謀総長は本土決戦に於いて最後の勝利には言及しないが、更に交渉し交渉決裂の場合は今一度戦うを主張。 「クーデター」計画の情報があり、阿南陸相が抑えている模様。○13日の午後の閣議 「ポツダム宣言」受諾に反対は阿南陸相・松阪法相・安倍内相、 豊田軍需相は去就不明、櫻井国務相は総理一任、 賛成は米内海相・広瀬蔵相・石黒農相・太田文相・安井国務相・左近司国務省・岡田厚生相・小日出運輸相・下村無任所相・東郷外相、 全員一致の決定を得ず鈴木総理は散会を宣した。 散会後、東郷外相に対して「総理は参内して御聖断のことを御願いしませうと云った」。○13日の夜、参謀総長と軍令部総長との面会、議論の蒸し返し、途中で大西軍令部次長が入室し両総長に対して 「米国の回答が満足であるとか不満足であるとか云ふのは事の末であって根本は大元帥陛下が軍に対し信任を有せられないのである、それで陛下に対し斯く斯くの方法で勝利を得ると云ふ案を上奏した上にて御再考を仰ぐ必要があります。 今後二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬ」 と述べたが、流石に両総長も此れには一言も発しない。 大西次長が東郷外相に「どう考えられます」、東郷外相は 「勝つことさへ確かなら何人もポツダム宣言の如きものを受諾しようと思わぬ筈だ、唯勝ち得るかどうかが問題だ」〓勝手に独断と偏見〓 即時宣言受諾を東郷外相・米内海相は主張、鈴木首相は弱冠ゆれている、阿南陸相は「死中活を求むる」、海軍統帥部も阿南陸相と同意見で賛同者を求める。 議論のみが続き、「ポツダム宣言」受諾に対しての対応が決定されず時間が経過していく、ソ連の参戦では一日で「ポツダム宣言」での和平交渉が決定できたのにも拘らず。 「バーンズ回答」では「国体護持」が不明確で決断が難しいのも事実、指導部は外因と天皇主導によらないと決定できなくなっている。 大西次長の「二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬ」は大西次長自身の信念から出た言葉だろうか。 「海軍軍令部/豊田穣」によると上記の主張は大西の持論で、 「大西はここで無条件降伏をのむと、特攻隊で散華した二千余の英霊に何と申し訳をしたらよいのか、・・・三千機の特攻で米英軍の空母等の機動部隊を全滅させる事ができる可能性があり、そこまでやっても敵が優勢なら諦める」の内容を主張していた。 大西次長は8月16日に割腹自殺している。 前回の投稿では、両総長の列立上奏(8月12日)によって「ポツダム宣言」受諾の決定を覆そうとする豊田軍令部総長と大西軍令部次長を米内海相が「軽率至極」と戒め、二人は列立上奏について「つい誤まってしまった」と謝罪し決着がついたはず。 「終戦への決断/保科善四郎(軍務局長)」によれば、「大西は涙を流してお詫びを言った」。 しかし翌日の夜には受諾条件を不服として東郷外相を説得しようとしている。 以下は推測。 海軍に於いて力を持つ者として、日米開戦論者だった伏見宮博恭王(軍令部総長の期間は1932年2月2日~1941年4月9日)がいる。 天皇が失敗だったと言う豊田・大西の人事、彼等は米内海相の講和方針にあくまで反発する、伏見宮の後押しがあったのではないか。 伏見宮家は8月12日の皇族会議には出席していない、伏見宮は病気がちだったと思える、他に理由があったかは不知。 「木戸日記(下)」の1944年7月13日の記述によると、東條英機首相は天皇に「嶋田(繁太郎・海軍大臣・軍令部総長)については、東條は部下がと云ふも、部下のみならず伏見元帥宮が御働きになりたる事実もあるにあらずや」と述べて、この時期の海軍に於ける伏見宮の力の一端を示している。 伏見宮は1946年3月に社団法人帝国水難救済会総裁を退任、1946年8月16日に死亡。
2007.04.07
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8月10日の聖断後、15時35分からは天皇の御召による重臣会議が開催された、其の前に東郷外相は重臣に交渉経緯を説明。 「宣言には軍備撤廃とはないが軍国主義の絶滅とか戦争の為の軍備はいかないとかの条項があるから非常な制限を受けることは覚悟しなければならない」 に対して、東條英機大将は御聖断があった以上は何も述べないと云った。 (「時代の一面」よりの抜粋・概要) 天皇御召の重臣会議では、「昭和天皇独白録」よると 無条件降伏も亦已むを得ない:近衛・平沼・岡田・広田 聖断が下った以上已むを得ないが、この決定は良くない(戦争継続論):東條・小磯 (他には木戸・若槻が参加)○木戸内大臣に対する天皇の御前会議要旨説明 本土決戦本土決戦と云ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又決戦師団の武装すら不充分にて、之が充実は9月中旬以後となると云ふ。 飛行機の増産も思ふ様には行って居ない。 いつも計画と実行とは伴はない。 之でどうして戦争に勝つ事が出来るか。 勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任の処罰等、其等の者は忠誠を尽くした人々で、それを思ふと実に忍び難いものがある。 而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。 明治天皇の三国干渉の際の御心持を思ひ奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する。└─「木戸孝一日記(下)」よりの概要・抜粋 12日に受信した「バーンズ回答」に問題ありとして統帥部は天皇に上奏。○梅津参謀総長と豊田軍令部総長の列立上奏(8月12日午前8時20分頃)の概要 「バーンズ回答」の「・・・天皇は・・・連合国最高指揮官に従属さるべきものとす」は帝国を属国化することに外ならない、断じて受諾し難い。 「全陸海軍の武装解除」「国民の自由意志に従う政体の樹立」「日本国内に於ける連合国軍の駐屯」等は何れも絶対に受諾致し難きこと。 「バーンズ回答」は名実共に無条件降伏を要求し、国体の根基たる天皇の尊厳を冒涜し「8月10日の御前会議」に於ける聖断の趣旨に反している。 斯くの如き条件で和平を行おうとすると、内部的崩壊を来たし遂に我が国体の破滅、皇国の破滅を招来する。└─「敗戦の記録」より○8月12日敵側回答に伴ふ帝国爾後の戦争指導に関する件/最高戦争指導会議附議案 方針: 帝国は8月12日敵側回答の条件を断乎拒絶し真に帝国の存亡を賭して大東亜戦争の目的完遂に邁進す 要領:1.帝国は米英ソ支に対し活発強力なる作戦を実行す但し当分ソに対しては宣戦を布告せさると共に為し得る限り事態の改善に勉むるものとす2.国内に於いては愈々態勢を強化し挙国一致、国体護持の為戦争完遂に邁進す3.戦争終結に関し更に敵側より提案ある場合に於ては帝国は再ひ対敵交渉を行うことあり此の際ソを米英より分離することに勉む└─「敗戦の記録」より〓勝手に独断と偏見〓 陸軍は和平交渉に関して、「ソ連侵攻」に対しては「当分対ソ交渉を継続す」、「バーンズ回答」に対しては「更に敵側より提案ある場合に於て」と後退、「ソ連への宣戦布告は行わない」は変わらない。 12日の阿南陸相の上奏、 「人事上奏の後、9日の件(御前会議での「国体護持」の条件で「ポツダム宣言」受諾)に付き、軍の実情等に付、委詳上奏せり、此の時陛下は『阿南心配するな、朕には確証がある』」 (「機密終戦日誌/敗戦の記録」より) 陸軍によるクーデター計画が進行し、阿南陸相は難しい立場にある。 梅津参謀総長と豊田軍令部総長は列立上奏し、昭和天皇・政府に対して「バーンズ回答は8月10日の御前会議に於ける聖断の趣旨に反する」と戦争継続を主張。○「海軍大将 米内光政覚書」の12日(以下概要) 米内海相は統帥部の列立上奏に対して軍令部の豊田軍令部総長と大西次長を呼んで、 「なにを基礎にして上奏したか」と質問したが軍令部は答えができない。 米内海相は 「自分の意見に盲従せよとは言わない、・・よく大臣と意見をまじえるべき・・」 「御下問に奉答できないような基礎で行動するということは、まことに軽率至極というべきだ」 豊田・大西は 「敵側の条件では統率上まことに困ると思っていたところに放送をきいたので、つい誤まってしまった」 阿南陸相と梅津参謀総長の特別奏上の噂について木戸内大臣は 「陸相は、御聖断は絶対であり、もし陸軍内部において御聖断にたいして不平不満をいうものがあったら、これは許すべからざることで、ただちに反逆とみなして処断すると明言した」
2007.04.05
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産経新聞によると、 靖国神社が提供した内部資料や、これまで非公開だった中曽根内閣当時の「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」(靖国懇)の議事録など、靖国神社に関する資料集を公表した。靖国神社が昭和44年、「A級戦犯」を「合祀可」とする見解を示す文書を厚生省に提示するなど、戦後、両者が一体となり合祀を進めてきた過程が明らかになった。 毎日新聞には、 秦郁彦さんは「A級戦犯合祀は78年だが、公開資料は70年までのもので尻切れとんぼ」と指摘し、78年の総代会の議事録公表を求めた。 国会図書館は資料を五月の連休をめどに閲覧、HPに公開。●A級合祀、昭和44年提示 靖国神社、厚生省と綿密協議 国会図書館が資料 (産経新聞 2007年3月29日 05:14)※記事内容の抜粋を時系列に並べた。○昭和33年(1958年)4月9日 打合会(第4回)で厚生省は「個別審議して、差し支えない程度で、しかも目立たないよう合祀に入れてはいかが」と提案。 (BC級戦犯の合祀について)○昭和33年(1958年)9月12日 打合会(第7回)で厚生省は「全部同時に合祀することは種々困難もあることであるから、まず外地刑死者を目立たない範囲で了承してほしい」と、BC級戦犯の合祀を先に決定するよう打診した。 靖国神社は「新聞報道関係の取り扱いいかんで、その国民的反響ははなはだ重要な問題として考えなければならない」とした。○昭和36年(1961年)8月15日 靖国神社は「終戦後における合祀審議の状況」の中で、A級戦犯は「保留」とし、BC級戦犯のうち外地処刑者は「合祀」、内地処刑者は「合祀予定」とした。 旧陸、海軍両省の業務を引き継いだ厚生省援護局と靖国神社は、「合祀基準に関する打合会」などを頻繁に開き協議。○昭和41年(1966年)2月8日 厚生省はA級戦犯を含む合祀の名簿である「戦争裁判関係死没者に関する祭神名票」を靖国神社に送付した。○昭和44年(1969年)1月31日 靖国神社社務所で開かれた会合で神社側は、厚生省との「再確認事項」として「法務死没者」の「A級(12名)」と「内地未決死没者(10名)」を「合祀可」とすることを提示した。 ただ「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」とし、世論の動向を気遣っていたことをうかがわせた。○昭和45年(1970年) 靖国神社は、総代会でA級戦犯の合祀を決定する。○昭和53年(1978年)10月 A級戦犯を合祀。 合祀されたA級戦犯が14人となったのは、東京裁判の未決勾留中に死亡した松岡洋右元外相と海軍の永野修身元軍令部総長が「内地未決死没者」に含まれているためとみられる。┗━○上記に対する主張として産経新聞は 敗戦に伴い陸、海軍両省は廃止され、靖国神社は宗教法人化された。陸海軍両省の業務を継承した厚生省援護局が、靖国神社と協力して戦没者の合祀作業を進めたのは、戦没者を認定する能力が厚生省にしかない以上、当然のことだ。厚生省が戦没者の「祭神名票」を靖国神社へ送付してはじめて、合祀が行われていた。これを知りながら「政教分離に反する」と批判する向きがあるが、戦没者合祀をやめよと言うに等しい。 厚生省と靖国神社が戦後、綿密な協議を重ね合祀を進めた事実は、戦没者や連合国の戦争裁判によって処刑された人々への慰霊をまっとうする責任を、当時の政府が果たしていたことを意味する。 ただ、今回の資料集では、なぜ昭和53年の時点でA級戦犯の合祀に踏み切ったかその理由までは示されていない。└─〓勝手に独断と偏見〓 「戦犯遺族に年金・扶助料、戦犯に恩給が支払らわれるべき」と「其々の戦犯について国民がどのように思っていた」は別の話。 「東条英機の妻 勝子の生涯/佐藤早苗」では、東條内閣崩壊後の疎開先で、東條の孫の英勝に対して、 「転向の時、学校の教師が担任になるのを拒否した。もちろん東條英機の孫だからである。どこの組にも入れてもらえない英勝は・・・後に英勝を引き受けてくれるという先生が現れ、英勝は特別に可愛がってもらったようだが、それは数少ない理解者の一人である。」 産経新聞の記事でも 「ただ「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」とし、世論の動向を気遣っていたことをうかがわせた。」 国民は東條や所謂A級戦犯の合祀に不賛成が多かったと推測。 祖父により生徒の扱いを違える教師は問題、現在の教師は生徒を優先するのか。
2007.04.02
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皇族会議は8月12日15時から17時20分まで行われ、「ポツダム宣言」受諾に対する皇族の意思統一がなされた。 昭和天皇以外の参加者は梨本宮・賀陽宮(恒憲王・邦寿王)・久邇宮・朝香宮・東久邇宮(稔彦王・盛厚王)・竹田宮・閑院宮・李王・李鍵公・三笠宮・高松宮。 東郷外相は11日午後1時から高松宮御殿で、高松宮・三笠宮・閑院宮・朝香宮・東久邇宮・賀陽宮・竹田宮に最近の事情及び措置に付き説明した。(「時代の一面」より) 「バーンズ回答」は12日零時45分には外務省・軍部は知っており、東郷外相は午前11時に奏上している。 皇族会議開始と同時刻に開催された臨時閣議では「バーンズ回答」について審議が行われている。 「細川日記(下)」では12日14時頃には細川護貞は松本外務次官から「バーンズ回答」の文面を渡されている。 皇族男子は陸軍か海軍、皇族会議の前には「バーンズ回答」の内容を知っていたと推察。○「昭和天皇独白録」に於ける「皇族会議」の抜粋と概要 「皇族会議」で昭和天皇は意見を述べて大体賛成を得た。 最も強弁論者である朝香宮が、 「講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか」 との問に、昭和天皇は「勿論だ」と答えた。 賀陽宮・東久邇宮・久邇宮は終始一貫、弱い意見だった。 賀陽宮は松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎を推薦したりする時には、本人自身の気持ちと違った事を口にした。 秩父宮は日独同盟は主張したが、その後病気となったので意見は判らない。 高松宮は常に当局者の意見には余り賛成せず、周囲の同年輩の者や、出入りの者の意見に左右された。 日独同盟以来、戦争を謳歌しながら、東条内閣では戦争防止の意見となり、その後は海軍の意見に従った。 開戦後は悲観論で、陸軍に対する反感が強かった。 東久邇宮と朝香宮とは兄弟であり乍ら、終始反対の意見を持っていた。〓勝手に独断と偏見〓 「天皇家の戦い/加瀬英明」では、 天皇と会うのが四ヶ月ぶりの東久邇宮は、天皇が痩せて顔色が悪く神経質に顔を震わせているのに驚いている。 朝香宮の主張「国体護持が出来なければ、戦争を継続するのか」に対する天皇の回答「勿論だ」は強烈、「国体護持」と「勿論だ」の意味は? 「国体護持」は「天皇・皇族の身分保障」「天皇が統治する日本の保障」「天皇・皇族の生命の保証」「天皇制存続の保証」が混じっていて、時・場所・目的・人によって意味が異なっている。 朝香宮は本土決戦による戦争継続論者であり、此処での「国体護持」は「天皇が統治する日本の保障」であり、占領軍が天皇の上を主張する「バーンズ回答」による「ポツダム宣言」受諾には反対。 天皇の「勿論だ」は主に「天皇制存続の保証」の意味と思えると共に「やけくそ」が入っているのではと推察。 東久邇宮稔彦王は8月15日から首相となる。 朝香宮鳩彦王は南京事件当時の上海派遣軍司令官。 李王・李鍵公は「ポツダム宣言」受諾は朝鮮の独立を意味する為、微妙な立場。 梨本宮は皇族では唯一、巣鴨に出頭を命じられる。(4ヵ月後釈放) 「独白録」では高松宮はよく出てくるが、昭和天皇の点数は辛い。 昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮は兄弟、秩父宮は病気。 昭和天皇は1901年生まれ、3男の高松宮は1905年、三笠宮は1915年。 高松宮(海軍)は日米開戦時は反対し、開戦後は戦争を早く終わらせる事を主張している。 「木戸孝一日記(下)」などによれば 日米開戦時の1941年11月30日、高松宮は昭和天皇に「海軍は手一杯で、出来るなれば日本の戦争は避けたい」と告げ、天皇は木戸内大臣に相談する。 木戸は「日米開戦の決断は重大な事なので、天皇が納得しなければならない」と答え、海軍大臣と軍令部総長と首相に確認することを勧める。 天皇は3名に下問する、何れも相当の確信を以って答えたと認識し、日米開戦を予定どうり進めるよう首相に伝えるさせる。 翌日の御前会議で日米開戦が決定された。※「独白録」で天皇は御前会議での開戦の決定について、「負けはせぬかと思ふ」「開戦を認めないとクーデターが起こる」の認識の下「反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と述べている。 推測にすぎないが、「独白録」作成当時、昭和天皇の退位論、高松宮の即位あるいは摂政が考えられていたのではないか、昭和天皇は反対、GHQ向けである「独白録」に於ける高松宮の記述はそれに対する牽制に思える。
2007.04.01
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