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「ポツダム受諾に関する8月10日付日本国政府申入」に対し、バーンズ国務長官は米英ソ中の政府を代表して回答した。 東郷外相は12日零時45分に外務省ラジオ室から「バーンズ回答」の発表の知らせを受ける。 (正式回答は13日未明に接到)○「ポツダム受諾に関する8月10日付日本国政府申入」 帝国政府に於ては常に世界平和の促進を冀求し給ひ今次戦争の継続に依り齎らさるへき惨禍より人類を免かれしめんか為速なる戦闘の終結を祈念し給ふ 天皇陛下の大御心に従ひ数週間前当時中立関係に在りたるソヴィエト聯邦政府に対し敵国との平和恢復の為斡旋を依頼せるか不幸にして右帝国政府の平和招来に対する努力は結実を見す茲に於て帝国政府は 天皇陛下の一般的平和克服に対する御祈念に基き戦争の惨禍を出来得る限り速に終止せしめんことを欲し左の通り決定せり 帝国政府は一九四五年七月二十六日ポツダムに於て米、英、支三国政府首脳者に依り発表せられ爾後ソ聯政府の参加を見たる共同宣言に挙けられたる条件を右宣言は 天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す 帝国政府は右了解にして誤りなきを信し本件に関する明確なる意向か速に表示せられんことを切望す└───(HP:日本国憲法の誕生 より)○「バーンズ回答」 合衆国、連合王国、ソヴィエト社会主義共和国連邦及び中華民国の各政府の名に於ける合衆国政府の日本国政府に対する回答 1945年8月11日 ポツダム宣言の条項は之を受諾するも右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解を併せ述べたる日本政府の通報に関し吾等の立場は左記の通りなり 降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍司令官の制限の下に置かるるものとす 天皇は日本国政府及び日本帝国大本営に対しポツダム宣言の諸条項を実施する為必要なる降伏条項署名の権限を与え且つ之を保障することを要請せられ又天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲及び何れの地域に在るを問はず右官憲の指揮下に在る一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し武器を引き渡し及び降伏条項実施の為、最高司令官の要求することあるべき命令を発することを命ずべきものとす、日本国政府は降伏直後に俘虜及び被抑留者を連合国船舶に速やかに乗船せしめ得べき安全なる地域に移送すべきものとす 最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす 連合国軍隊は「ポツダム」宣言に掲げられたる諸目的が完遂せらるる迄日本国内に留まるべし└───(外務省特別資料部編『日本占領及び管理重要文章集』第一巻基本篇)〓勝手に独断と偏見〓 「ポツダム宣言受諾」の申し入れでは、講和の仲介をせず戦争準備を行っていたソ連について、 「天皇陛下の大御心に従ひ数週間前当時中立関係に在りたるソヴィエト聯邦政府に対し敵国との平和恢復の為斡旋を依頼せるか不幸にして右帝国政府の平和招来に対する努力は結実を見す」 「戦争責任/家永三郎」では、 「日本の対ソ侵略戦争開始の予備陰謀あるいは未遂の行為のあったことは・・・日本人にソ連の対日開戦責任を論ずる道義的資格は無い」 ソ連の対日責任は、 「・・対日開戦後におけるソ連軍の在満日本人非戦闘員に対する残虐行為とソ連の日本軍将兵多数の長期抑留とに求めるのが相当である。」 「予備陰謀・未遂」でチャラになるは理解できない。○「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す」に対しての回答は。 占領下に於いて: 「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍司令官の制限の下に置かるるものとす」 問題の「subject to」が出てくる、また軍部と外務省が其々英文を受信し、もめる事になる。 独立後(憲法改正の意味に近い)に於いて: 「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」 「ポツダム宣言」を受諾する以上は「天皇大権」を制限されるのは当然、「天皇の国家統治の大権を変更・・・」は日本側の建前論。 「バーンズ回答」では国民主権の国に生まれ変わる事が要求され、「国体護持より国民が重要」の主張と思える。※「パリ不戦条約」では日本のみが「其の各自の人民の名に於いて」を拒否している。
2007.03.30
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8月9日の24時直前から開催された御前会議は午前2時半に終了、3時から閣議が始まる。●「敗戦の記録/参謀本部所蔵」の「陸軍の終戦日記-軍務課「機密終戦日誌」-」よりの「御前会議」とその後について。※以下は抜粋・概要○9時30分:阿南陸軍大臣から陸軍省高級部員以上に御前会議の模様の説明 皇室の保全を条件としてポツダム宣言内容の大部を受諾の聖断があった。 御前会議に於いて予が主張した事については、予を信頼してくれるものと信じる。 大御心のままに進む外なし、以下の事に注意せよ1.厳粛なる軍紀の下、団結し越軌の行動を厳に戒む。国家の危機に際し無統制なる行動は国を破る因なり2.国民の動向を十分観察し、之を把握し、大御心に従う如く指導すること肝要なり。難局に立ちたる大和民族の方向を誤まらざらしむること。3.軍の自粛は必要。海外軍隊の処理に就いては最痛心時なり。4.今後の外交交渉の経過をも考え、軍は和戦両用の態勢を以って臨む要あり。 軍務局長より細部の説明あり。○夜:陸相官邸における、阿南陸相による9日の情況説明1.午前の最高戦争指導会議に於いて、外相と海相は「皇室の保全」がポツダム宣言に含まれるものとして受諾を主張。 陸相は戦争の継続を主張、交渉の余地あれば和平4条件(国体の変革許さず・武装解除は内地で・保障占領許さず・戦争責任者の処罰許さず)を主張、梅津参謀総長・豊田軍令部総長も同意した。2.大西軍令部次長は阿南陸相に米内海相は和平で心許ない阿南陸相の奮闘を期待するを伝える、阿南は海軍の立場もあるから聞かなかった事とすると答える。3.閣議では米内海相が戦局は不利と述べる。4.閣議でポツダム宣言受諾で4条件を付けると駄目の意見が多い。5.閣議では意見が対立し、決議に至らなかった、22時55分より御前会議が開催。6.御前会議、会議室にはいると机上に議案として東郷外相案が印刷配布されていた。 東郷外相案が説明され、米内海相は同意の発言、阿南陸相は東郷外相案に不同意を表明後 戦争継続に進むべきだが、万一交渉の余地があれば、国体護持には和平4条件が必要と述べる。 梅津参謀総長は陸相の意見に同意し作戦の所見を開陳する。 平沼枢相は事情が判らないため2時間に亘り参列者に質問し、賛否不明な発言を行う。 平沼枢相は日本天皇の地位は憲法以前よりのものを述べ「天皇大権の確保」の趣旨に訂正を要求し、認められた。 豊田軍令部総長は阿南陸相の意見に同感の旨を述べ、海軍としても尚一戦の力あるを奏せり。 天皇は原案(外相案)に同意する。7.御前会議後の閣議で阿南陸相は皇室保全の確証が無い限り陸軍は戦争を継続するを述べ、また天皇大権をはっきり認める事を確認できない時は戦いを継続すると述べる、鈴木首相は認める旨を答え、米内海相も同意する。○午後重臣会議・臨時閣議○午後7時のニュースの時間に「陸軍大臣訓示(全軍将兵に告ぐ)」が放送された。 内容は、ソ連の対日参戦と聖戦の完遂を述べている。 その後、「情報局総裁談」が放送される。〓勝手に独断と偏見〓 御前会議は3時間弱行われた。 平沼枢相は事前に天皇が御前会議で述べる結論を聞いていた、「事情が判らない・・2時間に亘り・・質問・・」は何か意図があったのか。 「時代の一面」では「平沼議長は1・2質問を発した後に第一案の留保を天皇の国家統治の大権を変更するの要求を含まざるものと了解すとの修正を力説した。」 と記されている。 「情報局総裁談」「陸軍大臣訓示」は「ポツダム宣言」受諾に向けての国民操作。 阿南陸相は「ポツダム宣言」受諾に向けて、無用な混乱を避けようとしている、「国体護持」に関しては「皇室保全の確証」「天皇大権をはっきり認める」の確証が得られないと戦争継続するを主張、鈴木首相・米内海相は同意する。 豊田軍令部総長と大西軍令部次長は阿南陸相の意見に賛成、「昭和天皇独白録」では「軍令部総長と次長との人事は米内の失敗である。」 東郷外相案の「国体護持」は天皇大権の制限を前提、平沼枢相による受諾条件の修正で陸軍寄りとなったが、陸相は平沼に警戒感を強め、バドリオのカモフラージュに非ずやと疑念を持つ。※ムッソリーニが失脚しバドリオはエマヌエーレ3世によって首相に任命された。 アイゼンハワーは密約であったイタリアの無条件降伏を発表、ローマはドイツ軍に占領され、バドリオはドイツに宣戦布告した。 (Wikipediaよりの抜粋・概要)
2007.03.28
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講和条件決定を先送りしてきた指導部、ソ連の侵攻から一日が経過しようとしているが「ポツダム宣言」受諾に於ける条件を「国体護持」のみとするかに結論が出ていない。 受諾条件を納得できる物にし、断られたら戦争継続する、そんな余裕はない、いやある、勝てないだろう、の議論が続く。 御前会議には通常、下問・奉答で天皇・政府・統帥部が了解した結論が用意される。 「最高戦争指導会議の構成員会議」と「閣議」での議論が中途半端のまま、鈴木首相と東郷外相は天皇に謁見し東郷外相は議事の経緯を詳細に述べる。 鈴木首相は「最高戦争指導会議」の御前会議を開くことを願い許される。 鈴木首相は平沼枢相を参加させるが多数決では禍根が残る、天皇の決断が必要な異例の御前会議が始まる。○8月10日の御前会議(8月9日深夜~10日)「時代の一面」よりの概要 「最高戦争指導会議の構成員」と天皇以外には平沼枢相と幹事が出席した。 「ポツダム宣言」受諾の条件案は二案、 「ポツダム宣言には天皇の国法上の地位を変更するの要求を含まざるものを了解す」 「国体の擁護・保障占領の拒否或いは東京を除き小規模とする・武装解除を自主的に行う・戦争犯罪人の処分は我が方で行う」 東郷外相は、 「戦局が不利となった今日、戦争を速やかに終結する必要がある」 「ポツダム宣言を絶対必要な条件(国体護持)のみで受託するを可とする」 「条件をつけて決裂した場合は、一戦を交える事になるが、勝敗に拘らず日本の地位は不利となる」 の内容を詳細に述べる。 米内海相は外務大臣の内容に同意を陳述する。 阿南陸相は国体問題以外の3条件も提出する必要を述べ、死中活を求むべしと説く。 参謀総長は略同意見。 平沼枢相は外相案を「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を含まざるものと了解す」との修正を力説し修正が通った。 意見の一致が見られず、鈴木首相は聖断を願い天皇は以下の内容を述べた 「外務大臣の意見に賛成である、何となれば従来軍の言いえる所はしばしば事実に反するものであり、従って必勝の算ありと云ふも信じがたし、現に九十九里浜等の設備も未だ完成せず、仍て難きを忍びて三国共同宣言の条件を容れ、国体の安全を図る必要あり」〓勝手に独断と偏見〓 「ポツダム宣言」受諾の最低条件は国民の安全等ではなく国体護持だった。 ただ、昭和天皇の主張する「国体護持」は天皇自身の命の事ではなく「天皇制の存続」。 海軍は戦闘で日本が有利になる結果を導き出せない、統帥部は本土決戦を主張するが助けてくれる国はない、和平交渉が唯一日本の状態を改善できる可能性がある。 平沼枢相の主張は、法の上に天皇が位置するを言っている。(天皇機関説での言動を確認要) 他の3条件も「天皇の国家統治の大権」、平沼枢相の主張は「天皇大権」の制限になっているのか? 平沼枢相は御前会議の前に木戸内大臣を通じて天皇の内意(天皇は外務大臣の案に賛成し受諾の決心を表明する)を聞かされている、御前会議では裁定者になったつもりか、「バーンズ回答」には国体論により反対している。 天皇が平沼の修正を「後で非常に具合の悪い事になった」と述べているのは、「バーンズ回答」の「subject to」により統帥部が反発、もう一度聖断を下す必要が発生した事を指すと思われる。 「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」の方が国民が天皇の上に位置するようで問題だったかもしれない。 御前会議では、受諾条件を「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を含まざるものと了解す」とする事が天皇の決断により決まった。 「独白録」では 「国体護持の条件を附することに於いては全員一致」 「軍人達は自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除に付いて、反対したのは、拙い事であった。」 反対した軍人達とは阿南陸相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長。 阿南は命が惜しかったのではない、阿南が切腹して死んだのは1945年8月15日、「独白録」は1946年に作られた、何故このような言い方をするのか。 マッカーサーが主張する終戦後第一回目の会談での天皇の発言 「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして・・・」 天皇の発言かは疑問、一億総懺悔的な国民の使い方、決定・行動に無関係のような表現、国体護持より国民が大切を言いたいのか。
2007.03.26
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1945年8月6日、米軍は広島に原爆を投下。○「米内海相直話 8月8日/海軍大将 米内光政覚書」の記述では、 「あす9日の最高戦争指導会議に、東インド独立をかけるということだが、こうしたこと(茶番劇?)はどうかと思う。・・・スターリンがポツダムから帰国したのは8月5日だし、電報に2・3日かかるので、今日か明日あたり、なんとかいってくるだろう。」○「木戸孝一日記(下)」の8月7日には、 「正午・・・昨朝、広島市に対し原子爆弾を米国は使用、被害甚大、死傷13万余との報告を受く」 宮城の地下10mにある防空壕は原爆に堪えられると判断。 指導部は国民の惨状(玉砕・沖縄敗北・東京大空襲・広島の原爆など)に鈍い、国民が2百万以上亡くなっている、重要なのは国体護持だが、重要なのは国民との考え持つ者はいたか。 ソ連の満州侵攻(9日1時)により、指導部は「ポツダム宣言」受諾に向けて走り出す。 ソ連が主導する日本占領と米国主導の日本占領では、天皇制の保障に於いて可能性の高いのは米国の判断が指導部にはあったと思われる。 天皇の選択から本土決戦は消え、ソ連仲介での和平交渉も消え、「ポツダム宣言」を早急に受諾するが残されたが、「ポツダム宣言」受諾で「国体護持」がどの程度可能かが問題にされる。○「木戸孝一日記(下)」による、ソ連侵攻から御前会議開催までの流れ 天皇は速やかな講和を木戸内大臣に命じ、木戸は鈴木首相に聖旨を伝えポツダム宣言受諾での戦争終結を鈴木に力説。 鈴木首相は最高戦争指導会議を開催しポツダム宣言受諾条件を木戸に報告する。 1.皇室の確認 2.自主的撤兵 3.戦争責任者の自国に於いての処理 4.保護占領せざること 高松宮は条件付では連合国は拒絶する恐れがあるを木戸に意見する、木戸は懸念を天皇に伝える。 重光前外相は4つの条件付では決裂は必至との論で善処理を希望。 天皇サイドでの受諾検討が進む中、閣議が行われ、23時50分に御前会議が開催される。 鈴木首相は御前会議に平沼枢密院議長の参列を要望し許可された。└─── ポツダム宣言受諾条件に関しては、 昭和天皇・鈴木首相・東郷外相・米内海相・平沼枢密院議長 阿南陸相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長 の2グループに分かれる、国体護持(内容は曖昧)を唯一の条件とするか、国内外の将兵の安全を条件に入れるか、天皇が統治する日本の存続を主張するか。 内外の国民の安全については連合軍を信用しているのか考慮されない。 天皇側のグループは日本の受諾条件を増やす事で、交渉が拒否され「ポツダム宣言」受諾ができなくなる事を回避したい、其の為条件は最小限にしたいが、最小限の「国体護持」が認められないと「ポツダム宣言」受諾の意味がなくなる。 御前会議の前には統帥部と政府が受諾及び受諾条件に関して討議を行っている。○最高戦争指導会議構成員会議(8月9日午前11時~)と閣議の概要・抜粋 「ポツダム宣言」受諾には賛成、受諾条件に関して東郷外相は「国体擁護」のみを主張、軍部は「国体擁護」「自主的撤兵」「戦争責任者の自国に於いての処理」「保護占領せざること」を主張。 戦争継続で勝利する見込みがない以上、条件は最小限にすべき、交渉決裂後に勝つ見込みはあるのかに対して、阿南陸相は最後の勝利を得る確算は立たないが未だ一戦は交えられると主張、米内海相は戦争継続は見込みがないと主張。 両会議に於いて意見の一致を見なかった。└───「時代の一面/東郷茂徳」より〓勝手に独断と偏見〓 国民の痛みは、指導部を構成する者達(国民としての一面も存在する)にも迫っている。 「天皇が統治する日本国」としての「国体護持」は厳しい状態、 天皇・皇族の安全が保障され且つ戦争責任者として追及されず天皇制が続くを条件としてとりあえず戦争を収めるが、大勢を占めている。 陸海指導者4人の内、米内海相を除く3人は本土決戦を行って一度は勝って講和を行いたいの主張。(勝敗の別なく戦争継続を言い出すかもしれない。) 本土決戦を行った場合、其の後講和が行われたとしても、分割統治など受諾条件は厳しくなり、日本国民は連合軍に対して憎しみを強めたと思う。 「ポツダム宣言」では「軍国主義的助言者」が問題視されている。 政府と統帥部は天皇に対しては責任を感じているが、日本国民に対してどの程度責任を感じていたのか。 指導部で意見の一致を見出せない状態、今回の御前会議はセレモニーではなかった。
2007.03.23
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原爆投下とソ連参戦なしで、8月14日の「ポツダム宣言」受諾はどうなったか。○原子爆弾攻撃(「時代の一面/東郷茂徳」よりの概要) 米国放送は原子爆弾を投下したと報じた。 陸軍は性能の高い爆弾と思うが目下調査中と回答、7日午後の会合でも原子爆弾攻撃を認めなかった。 米英は原子爆弾について大規模の宣伝を開始、日本が「ポツダム宣言」を受諾しない場合は、連続使用して滅亡させると宣伝した。 8日に天皇に原子爆弾に関する敵側発表と関連事項を詳細に上奏、戦争終結を決すべきを述べた。 天皇は時期を失う事なく、条件を相談しても纏まらないから早く戦争の終結を取り運ぶ事を希望し総理に伝えるように示唆した└───○ソ連の対日参戦(「時代の一面」よりの概要) 東郷外相は8月9日未明に外務省ラジオ室からの電話でソ連が日本に宣戦し、満州を進撃したことを知った。 8日午後11時に佐藤大使はモロトフ委員から宣戦の通告を受けたが、電報は東京に到着しなかった。 戦争終結をの断行を鈴木首相・米内海相に告げる、最高戦争指導会議の構成員召集の手配した。 高松宮にも告げると、領土の点に付いて何とかならないだろうか、今日となっては致し方ないと云う。└───○ソ連の対日宣戦布告(1945年8月8日)の概要 ドイツの壊滅・降伏後に於いて、日本は戦争を継続している唯一の大国となった。 日本兵力の無条件降伏に関する米英中の「ポツダム宣言」での要求は日本に拒否された。 これにより極東戦争に関し日本政府よりソ連邦に対しなされたる調停方の提案は総ての根拠を喪失するものである。 日本が降伏を拒否せるに鑑み、 連合国は戦争終結の時間を短縮し、犠牲の数を減縮し且つ全世界における速かなる平和の確立に貢献するためソ連政府に対し日本侵略者との戦争に参加するよう申出た。 総ての同盟の義務に忠実なるソ連政府は連合国の提案を受理し「ポツダム宣言」に加入した。 このようなソ連政府の政策は平和の到来を早からしめ今後の犠牲及ひ苦難より諸国民を解放せしめ且つドイツが無条件降伏拒否後体験したような危険と破壊より日本国民を免るることを得せしむる唯一の方法とソ連政府は思考する。 右の次第を以ってソ連政府は明日即ち八月九日よりソ連邦は日本と戦争状態にあるものと思考するを宣言する。└─── ソ連の侵攻に伴い、陸軍で日本の採るべき態度案が作られた。○「ソ」の参戦に伴ふ戦争指導大綱(案)/「敗戦の記録」の概要 8月9日 方針:帝国は「ソ」の参戦に拘らず依然戦争を継続して大東亜戦争の目的完遂に邁進す 要領:1.ソ連に対しては宣戦を布告せざるも自衛の為飽く迄抗戦す2.ソ連若しくは中立国を利用して好機に乗じ戦争終結に努力す 但し皇室を中心とする国体の護持及び国家の独立を維持するを最小限度とし当分対ソ交渉を継続す3.国民をして大和民族悠久の大儀に生くる如く重大決意を促すものとす(詔勅)4.速やかに国内に戒厳を施行す└───「陸軍の終戦日記-軍務課「機密終戦日誌」-」より〓勝手に独断と偏見〓 ソ連の主張「総ての同盟の義務に忠実なるソ連政府」は冗談がきつい。 テヘラン会談(1943年11月28日~):ドイツ降伏後のソ連の対日参戦 ヤルタの密約(1945年2月11日):ソ連の極東に於ける領土・利権とドイツ降伏後2・3ヶ月後に対日参戦 トリニティ実験成功により、ソ連はポツダムで当初8月15日と言っていた対日参戦を早める。 日本はポツダム宣言(7月26日)以前にソ連に仲介を依頼していたが、ソ連は返答を引き伸ばし参戦準備をし、日本が原爆によって「ポツダム宣言」を受諾する前に侵攻する。 陸軍はソ連の侵攻に対し「ソ連に対しては宣戦布告しない」「ソ連・中立国を利用し戦争終結に努力」とソ連頼みを続ける。 指導部はソ連の侵攻後一日で「国体護持」のみを条件とする受諾の方針を決めて連合国に受諾条件を通告した。 沖縄・東京大空襲等の国民の被害では和平交渉には至っていない。 ソ連の「ドイツが無条件降伏拒否後体験したような危険と破壊より日本国民を免るることを得せしむる唯一の方法」は勝手な言い分だが、ソ連参戦がなければ終戦が伸びた事は推測できる。 陸軍の「大和民族悠久の大儀に生くる」は自分勝手な責任放棄だ。 「悠久の大儀」に従えば、 原爆とソ連参戦がなかったらドイツのように首都まで連合軍に包囲され、さらに数万・数百万人の日本人が亡くなり婦女暴行が多発したかもしれない。
2007.03.21
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トリニティ実験は1945年7月16日に行われたプルトニュウム型(長崎型)の核実験、ウラン型(広島型)は爆発の実験をおこなっていない。 広島型はトリニティ実験以前に完成していたのだろう。○1944年秋に高松宮出席の下、大倉男爵が日本有数の物理学者を集めて懇談会を開いた。 「原爆」に対する湯川秀樹博士等の結論は、原子爆弾の原理は既に世界周知だが、ウラニュウム原子濃縮の技術完成には数年を要するから、戦争が今後5年10年続けば可能性はあるが、米国も当分は作れない。└───(正論2003年9月号 「終戦の真相」よりの一部の概要) 「ドキュメント昭和史5」では、日本の原爆の専門家である理研(理化学研究所)の仁科芳雄と玉木英雄が原爆投下直後に広島で何を行ったかを記している。○「仁科茂雄博士の手紙/仁科茂雄」の概要・抜粋 昭和20年8月7日夜 トルーマンの声明する通り米英の研究者、すなわち理研49号館の研究者に対して大勝利を得たのである。 これは結局に於いて米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕しているということに尽きる。 トルーマンの声明は今度の原子爆弾が「火薬2万トン」又は「十トン爆弾の二千倍」の威力があると述べている。 これは君(玉木)の報告の数字とよく合致している。 広島の八割がただの一弾でやられ死傷者11万を出したということだ。└───仁科記念財団編『原子爆弾』 昭和48年 光風社書店○「観測するモルモット/玉木英雄」の概要・抜粋 軍部は仁科先生をカウンター一つ持たぬ丸腰のまま連れて行ってしまった。 至急測定器を整備して先生のあとを追わねばならない。 12日朝、理研に自動車がついて、西川研究室の村地孝一君が、陸軍軍医学校の調査班に物理の人が欲しいという話を持って来た。 広島では残留放射能のために75年も人が住めないという流言がとんで不安に陥っているから、軍医学校としては厚生の立場から調査団を急派するのだという。 14日の朝方やっと広島に到着した、広島駅は全くの廃跡で、その一帯は一面の焼け野原であった。 15日、市内各所で地面の残留放射能を調べたが、多くてせいぜい普通の土地の場合の5倍程度で、もはや心配するほどではないことがわかった。 どこから現れたのか、一人の狂人がいた。 兵隊達につかまっておろされてしまったが、その男は一糸もまとわぬ真裸で、裸足で頭に戦闘帽だけは被っていた、「あついよー、あついよー」とつぶやいていた。火傷もきずも負っていないようだったが、やはり原爆症だったのだろうか。 広島陸軍第一病院の救護班の吉田一軍医少佐は、自身も被爆者だったが、終戦さえ知らずに救護に没頭しておられた。 私は広島の惨状について多くを語り得ない。我々が到着したのは、あまり遅すぎて、直接の惨状はかなり片付いていた。 他の爆撃された都市にはなかった特徴をみて奇異の感にうたれたことを一言したい。 それは焼け跡を訪れる罹災者の姿が見られないことだった。└───『世界』昭和29年8月〓勝手に独断と偏見〓 「残留放射能のために75年も人が住めないという流言がとんで」「焼け跡を訪れる罹災者の姿が見られない」の中、一週間で「直接の惨状はかなり片付いていた」、救助の為に動員がなされていたと思われる。 「ドキュメント昭和史5」の『広島県史・原爆資料編』 昭和47年 広島県 より○被爆病中日誌抄/竹原誠一 8月28日(30日記)抜粋 今朝8時頃、原恒夫少尉死亡。急に血液型やら白血球の数を検査しだしたので不思議に思い聞いたところ、原少尉の血液中に全然白血球を認めず、急にこの騒ぎとなりたる由。 白血球は通常5千ないし7千を有すべきものなり。 検査の結果、自分千しか無き事、少々悲観せり。 一昨日38度3分有りし熱がだんだん上昇して39度を下らずなりぬ。 この日も夕方の6時頃より40度前後の熱を出し29日の朝の4時半頃まで続行す。└───○ノーモア・ヒロシマ(『エキスプレス』昭和20年9月5日)抜粋 はっきりした原因もなく、どんどん病弱になってゆく。 食用がなくなる。髪の毛が抜ける。体には青い反転が現われた。そして耳、鼻、口からは出血した。 患者には、ヴィタミンAの注射をした。結果はおそろしいものだった。 注射針でできた穴の所から皮膚が腐りはじめた。そしてそのいずれの場合も、被爆者は死亡した。└─── あと5年あれば日本は原爆を作っていたのだろうか。
2007.03.19
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米軍は原爆による無差別攻撃を広島(1945年8月6日)と長崎(9日)に行った。 9日午前1時にはソ連が「日ソ中立条約」を破り満州と樺太に侵攻した。●米内海相の口述(「海軍大将 米内光政覚書」の「米内海相直話 8月12日」)では┬─── 私は、言葉は不適当と思うが、原子爆弾の投下とソ連の(対日)参戦は、ある意味では天佑であると思う。国内情勢によって戦争をやめるということを、出さなくてすむからである。 自分がかねてから時局の収拾を主張してきた理由は、敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾とかソ連の参戦でもない、ただ国内情勢の憂慮すべき事態が、その主にほかならない。 従って今日、その国内事情を表面にださないで収拾できるということは、むしろ幸いである。┴─── 米内海相の言う「敵の攻撃(原爆やソ連の侵攻等)より憂慮すべき国内事情」は国民の困窮や海軍の現状ではない。 米内海相は、日本は原子爆弾とソ連参戦を利用しないと本土決戦なしでの「ポツダム宣言」受諾を決断できなかった、の認識を述べている。 5.15事件や2.26事件を恐れたのか、民心が離れつつあるの現状認識か。 イタリアのムッソリーニが投獄され、国王エマヌエーレ3世がバドリオ元帥を首相にし連合軍に降伏したの日本版を恐れたのか。●宇垣纏(海軍中将)の「戦藻録」の8月12日には┬─── (米内)海軍大臣、(豊田)軍令部総長は連名を以って部内に対し 『ソ連の参戦は一層国家危急の時となれり。最後の一人迄も奮闘すべきなり。然る処政府は連合国に対し和平交渉を開始せるが世論に惑わず統制を完うして国策方針に合致する様』 の訓示を各長官宛発せり。之により是を観れば此の種の交渉ある事正に確実となり不愉快至極なり。┴─── 和平交渉の存在を認め、海軍内の統制を命じ、海軍が戦争完遂を目指している事を主張。 「政府により和平交渉による戦争終結が進められているが、海軍首脳は反対」を主張している。 通達を受け取った側は宇垣中将の様なストレートな感想を持った者など様々であったと思う、この通達は米内海相による海軍内部に対する終戦工作だろう。 米内海相は「ポツダム宣言受諾」の公表と終戦の混乱を抑える為、海軍をコンロールするという困難な道を歩いている。●「昭和天皇独白録」では、ソ連は日本の講和斡旋依頼と親善使節派遣の申し入れに対して待たせた挙句、返事も寄越さず宣戦布告をしてきたと主張し、┬─── こうなっては最早無条件降伏の外はない。 空襲は日々激しくなり加えるに8月6日には原子爆弾が出現して、国民は非常な困苦に陥り、ソビエトは已に満州に火蓋を切った、之でどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ事となったのである。┴─── ソ連の不誠実な対応はよほど腹に据えかねたのか、「ポツダム受諾に関する8月10日付日本国政府申入」では連合国にソ連の仲介の不誠実さを訴えている。〓勝手に独断と偏見〓 東京大空襲・各都市に対する空襲・沖縄の敗北では決断できなかった降伏が、「ポツダム宣言を受諾せねばならぬ事となった」。 「ポツダム宣言」は天皇ではなく「軍国主義的助言者」を非難している。 宮城の防空壕(地下10m、壁の厚さ1m~1.5m、会議室等がある)は原爆には堪えられるだろうが、ソ連は天皇制を否定し天皇を裁くかもしれない、ソ連の力が日本本土に及んだり発言力が強まる事は避けたい。○「木戸幸一日記(下)」の8月9日の記述では、(概要) 9日1時のソ連侵攻を受けて、10時頃に天皇は木戸に講和を急ぐように命じる、その後すぐ鈴木首相は天皇に面会、10時10分に鈴木首相は木戸に「此の際速やかにポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説した」 13時30分、鈴木首相が最高戦争指導会議(構成員会議)で決定した「ポツダム宣言」受諾条件を木戸に報告 1.皇室の確認、2.自主的撤兵、3.戦争責任者の自国に於いての処理、4.保障占領せざること 14時45分、高松宮よりの電話で「条件付にては連合国は拒否と見るの虞あり」、木戸は天皇ともこの懸念について話し合う。 前外相の重光は「4.保障占領せざること」を出すと交渉は決裂を主張。 23時50分より御前会議が始まる。└─── 日本の首脳部が「ポツダム宣言」受諾を決定した一番の理由はソ連の参戦。 だが、山田風太郎は15日の玉音放送で戦いの継続が述べられると思っていた、徳富蘇峰も似たような感覚を述べている。
2007.03.17
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東久邇宮内閣(1945年8月17日~26日)により「良家の子女を守るため」、占領軍兵士向けの慰安所が設置された。○特殊慰安施設協会(RAA)/Wikipediaよりの抜粋 RAA(Recreation and Amusement Association)は、第二次大戦後、日本に作られた占領軍兵士向けの慰安所である。 内務省が「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」を各県に発令し、これを端緒として、占領軍対策の一環として設立された。 発想としては戦時中の慰安婦施設と同様のものだが、慰安婦のように女衒を通さず、「性の防波堤」というスローガンの公募に応じてきた一般女性たちが集められた。 当初は水商売の者を雇う予定であったが思うように集まらず、「新日本女性求む、宿舎、衣服、食料すべて支給」などの文言をもって銀座などに広告板を設置し、また新聞広告で一般女性を募った。 内容の詳細は広告に記載されておらず、これを見てやってきた女性の多くは水商売の経験のないもので、大半は仕事の中味を聞いて去っていった。 しかし茫然自失の状態に追い込まれた戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、最終的には短期間で1,300人あまりの女性が協会に登録した。 1946年にエリナ・ルーズベルトの反対と性病の蔓延を理由として廃止されたが、女性たちには何の補償もなかった。└───○「米軍慰安施設問題での疑問に答えます」吉川春子/共産党参議院議員 よりの概要・抜粋 1945年8月18日、「外国軍駐屯地における慰安施設の設置に関する内務省警保局長通牒(無電)」を各都道府県に発し、各県警はこれに基づいて急遽米兵の性的慰安施設を各地に設けた。 政府に、性的慰安施設の設置を指示した内務省警保局長「通牒」の提出を求めたが、警察庁は「探しているが見つからない」。 「埼玉県史通史編7 米軍基地と「買春問題」」ではこの通牒の全文を載せている。「外国駐屯軍慰安施設等整備要綱」一 営業行為は一定の区域を限定して従来の取締標準に係わらずこれを許可する二 その区域は警察署長が設置するものとして、日本人の施設利用は禁ずる三 警察署長は左の営業については積極的に指導を行い設備の急速充実を図るものとする 性的慰安施設 飲食施設 娯楽場四 営業に必要な婦女子は、芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者を優先的にこれを充足するものとする 警察が積極的に慰安施設を設置したことは、各県警の「警察の100年史」等に記述されている。└───○被占領心理 肉体の戦士R.A.Aと官僚的「合理性」/川島高峰 よりの抜粋・概要 8月21日:警視庁保安課では、都下の遊興業者を麻布小学校に集め「進駐」軍に対する慰安接待の協力を懇請した。 吉原の業者成川敏は「きのうまでの敵の異人に対し、身をまかせて慰安しろと、強引に命令したところで、たとえ娼妓たりとも、果して二つ返事で『ハイ、承知しました』と、ばかりにいうかどうか、まず娼妓たちの意向を確かめねば申上げられない」と難色を示した(「肉体の戦死R.A.A」、台東区編『台東区史』下)。 8月26日:東京では警視庁の音頭とりでRAAが設立され、結成式は皇居前で行われ「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と大層な声明が読み上げられたのであった(『東京百年史』第五巻)。 8月28日:最初の慰安施設「小町園」が東京大森に開かれた。 翌年1月21日:特殊慰安施設解散、五万人余の特殊慰安婦に国家は何の補償もしなかった。└───前出資料の補完として〓勝手に独断と偏見〓 主に戦時中の慰安婦は業者が、戦後の米兵に対する慰安婦は政府が女衒をしている。 「良家の子女を守るため」に効果があったのだろう、オンリーやパンパンの先駆的役割か。 ローマ皇帝カリグラの映画で国家財政の為に貴族の女性達に売春をさせるシーンがあったのを思い出す。○「敗北を抱きしめて」によると、RAAの求人広告は 「戦後処理の国家的緊急施設の一端として、 進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。 <中略> 女性事務員、年齢18歳以上25歳まで、宿舎・衣服・食料支給」 その後、GHQは公的売春を禁止、内務省は女性には売春婦になる権利があると反発、「赤線」地帯が指定される。
2007.03.15
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1945年7月26日の米英中の「ポツダム宣言」は日本では28日の朝刊に掲載された。 「読売報知」では「ポツダム宣言」の要旨を記載し且つ 「帝国政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺、断乎自存自衛戦たる大東亜戦争完遂に挙国邁進、もって敵の企画を粉砕する方針である」 鈴木首相は28日午後の定例会見で述べる、 「あの共同声明はカイロ宣言の焼き直しであると考えている。政府としては何ら重大な価値ありとは考えない。 ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまで邁進するのみである。」 「ポツダム宣言の黙殺」「戦争完遂に邁進」は受諾拒否の表明。○「海軍大将 米内光政覚書」の「米内海相所見 7月28日」では「ポツダム宣言」に対して米内海相は 声明はさきに出したほうに弱みがある。チャーチルは没落(選挙での敗北の意)するし、米国は孤立におちいりつつある。 政府は黙殺でいく。あせる必要は無い。 7月21日の外相からの電報は25日にモスクワ着、ロゾフスキー・ソ連外務次官に連絡する。 従って、ソ連の返事を待って、こちらの措置を決めても遅くはない。 スターリンは(ポツダム会談の)出発前に、日本のきわめて抽象的な申し出しか承知していない。 そこで21日の電報によってソ連に特使をさしむけて仲介斡旋を依頼すると初めて明らかにしたのだから、 26日のポツダム宣言発表までは、スターリンとしては、あまり深くふれていないものと推測される。└───以上は抜粋 ソ連が宣言に加わっていない為か、ソ連の仲介を当てにし、ソ連の侵攻準備完了を待つ事になる。 東郷外相は「ポツダム宣言」による和平交渉を歓迎するが、ソ連仲介がより良い条件を勝ち取れるとの見方でソ連待ちを主張。○三種の神器 八咫鏡は伊勢神宮に、八尺瓊勾玉は皇居に、天叢雲剣は熱田神宮 7月29日に米艦は野島崎・新宮を砲撃、日本本土に艦砲射撃が加えられ始める。 木戸は天皇に、三種の神器が米軍に奪われる可能性について述べる。 7月31日に天皇は木戸に、神器は天皇の身近に移す事が一番良いと述べる。 「昭和天皇独白録」では、神器の確保の見込みが立たないと国体護持は困難、故に天皇の一身を犠牲にしても講和のしなければならないとしている。〓勝手に独断と偏見〓 「ポツダム宣言」から終戦までは約3週間、天皇が三種の神器の心配をする情況。 指導部の主張は戦争継続で「ポツダム宣言」拒否、和平交渉はソ連頼み、受諾にネックとなっているのは国体護持が不明確な事。 「ポツダム宣言」に対して「最高戦争指導会議」の構成員会議では、ソ連の出方を見て処理することに一致。 政府は「ポツダム宣言」に意思表示をしないことになっていた。 28日朝刊の「ポツダム宣言」の記事に対して受諾拒否の声明を希望する軍部の一部。 外相以外の「最高戦争指導会議構成員」の協議で鈴木首相は28日午後の新聞記者会見での黙殺声明を行う事となった。 米国は原爆投下の準備を進めている、ソ連は原爆投下により日本がソ連参戦前にポツダム宣言を受諾する事を恐れ、日本侵攻の準備を急ぐ。 当然、ソ連仲介による和平交渉は一向に進まず、佐藤駐ソ大使が無駄だと述べるが、指導部はソ連の返答を待っている。○第1382号(7月14日15時 本省着 佐藤大使から東郷外相へ)の概要 貴殿(東郷)の戦争終結に関しソ連を利用し得る限度の打診は貴殿第885号の基礎に於いてはソ連を我が方に引き付け、我が方の話に上がらすは絶無。 貴殿891号の説明振りに至り手は机上の美句。 「東亜の平和維持は世界平和維持の一環として考慮」は、日本はもはや全東亜の平和維持責任者の地位にはない。 「占領地域を併合又は領有する考えは毛頭これなし」は失わんとしつつある占領地域の事を言っても反響はない。 空虚な抽象論で美句を連ねても説得できない。 戦争終結の決意を出さないとソ連に意向を打診しても意味はない、帝国に抗戦の余力なく幾10万の壮丁、幾百万の無辜の都市住民を犠牲にしてなお抗戦の意義ありや。└───「対ソ工作に関する佐藤駐ソ大使の意見/ドキュメント昭和史」より 佐藤大使は日本側に問題があるとしている。 「最高戦争指導会議構成員」は上を見て国民の困窮から目を逸らし、自分達だけで通じる価値観の中で判断し行動する、外から見ると笑止だろう。 日本は21日に「ソ連仲介による講和を近衛がスターリンと直接交渉」をソ連に伝えるが進展はない。
2007.03.14
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●ポツダム会談(ウィキペディアよりの抜粋) ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日~8月2日、ベルリン郊外のポツダムに、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合われた会談。 ベルリン郊外ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿にて行われた。○主な出席者は各国の首脳と外務大臣(国務長官) 米国大統領:ハリー・S・トルーマン 英国首相:ウィンストン・チャーチル(途中政権交代によりクレメント・アトリー) ソ連共産党書記長:ヨシフ・スターリン○ポツダム宣言:7月26日に合意に基づいて米国・中華民国・英国の首脳が、大日本帝国に対して発した13条から成る降伏勧告の宣言。○ポツダム協定:8月2日に米国・英国・ソ連の間で締結され、第二次世界大戦後のヨーロッパの処理、主にドイツの戦後統治についての取り決めが行われた。●米大統領ハリー・トルーマンのポツダム日記(『ニューヨークタイムズ』が見た第二時世界大戦(下)よりの抜粋・概要)○7月17日 スターリンは8月15日に日本との戦争に入る。そうなったら、日本も終わりになる。○7月18日 チャーチル首相と私だけで昼食をとった、マンハッタン計画(成功した)について話をした、スターリンに教える事に決まった。 スターリンは、日本の天皇から送られた和平を求める電報についてチャーチルにすでに話していた、またスターリンは私に彼からの回答を読んで聞かせた、答えは満足いくものだった。 ソ連が侵攻する前に日本は崩壊すると確信している、適当な時期にこの計画をスターリンに知らさねば。○7月25日 史上最も恐ろしい爆弾を発明したのだ。 この武器は今から8月10日のあいだに日本に対して使用されることになる、使用する場合は軍事目的だから軍事目標が対象になり、女性と子供は目標ではない、この恐ろしい爆弾を昔の首都にも今の首都にも落とす事はできない。 降伏すれば命を助けるという警告を出すことにしている、日本人は警告に従わないと確信しているが、それでも機会は与えることにする。 ヒトラーの仲間あるいはスターリンの仲間がこの原子爆弾を発明しなかったのは、世界にとって良かったとつくづく思う。〓勝手に独断と偏見〓 ポツダムで原爆実験成功を知った米英ソ首脳は、日本の講和提案に協力的ではない。 ソ連の対日参戦予定は8月15日、日本のソ連仲介への申し入れは講和引き伸ばしの材料となる、トリニティー実験の成功、米英中によるポツダム宣言、英国選挙でのチャーチルの敗退、米英ソによるポツダム協定。 トリニティ実験にてガジェットの爆発が成功した事は、7月17日に「Babies satisfactorily born」がポツダムに伝えられた、だが爆発の凄さは実感されていない、7月25日トルーマンは日記で詳細な実験結果についてと興奮を抑えられない様子を記す。○トルーマンのポツダム日記での原爆の記述 「使用する場合は軍事目的だから軍事目標が対象になり、女性と子供は目標ではない」 「今の首都にも落とす事はできない」 「日本人は警告に従わないと確信しているが、それでも機会は与えることにする」 「東京大空襲」は無視され「原爆投下による無差別殺人」が実行される「原爆投下は確定している」事がトルーマンの日記から読み取れる。 米国の原爆実験の成功は日本に対するスタンスを大きく変える事となった、原爆投下により日本の敗北は早まり本土決戦はなくなる可能性大の認識を各首脳がもった為と思える。 「世界の歴史28/中央公論社」では、当初ポツダム宣言では「現皇統のもとにおける立憲君主制」を明記し、日本の降伏を早めようと考えていたが、原爆実験の成功と天皇の戦争責任に対する米国・連合国内部の厳しい世論に配慮し削除した、と主張している。 スターリンには原爆実験の成功は25日に伝えられた、それ以前にスターリンは原爆の情報をもっていたと思われるが、実験の成功を聞いてどの程度理解できたのかは疑問、しかしソ連の専門家に確認し重大さを認識したと思われる。 ソ連は米国の負担を軽減するため8月15日に対日参戦のはずが、極東に対して領土・権益を主張する為に「日本のポツダム宣言受諾」より前の参戦を目指す。 ソ連の仲介を待つ日本、対日参戦を一週間早めるソ連、講和を原爆使用により決定したい米国、日本との講和を少し引伸ばす事は米ソの利益に適っている。
2007.03.12
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当初「ポツダム宣言(1945年7月26日)」は米英中による宣言であり、ソ連は含まれていない。 「ソ連の対日宣戦布告(8月8日)」に於いて 「総ての同盟の義務に忠実なるソ連政府は連合国の提案を受理し本年7月26日附の連合国宣言に加入せり」 と加入を宣している。 「ポツダム宣言」では「カイロ宣言」の履行が主張されている。●「ポツダム宣言(7月26日)」の抜粋・概要1.米・中・英は日本に戦争を終結する機会を与える。2.米・中・英は日本国か抵抗を終止する迄、戦争を遂行する。3.米・中・英の軍事力の使用は日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅と日本国本土の完全なる破壊を意味する。4.日本帝国を滅亡の淵に陥れた軍国主義的助言者に依り日本国か引続き統御せらるへきかを日本国が決意すへき時期が到来した。5.以下の講和条件に代る条件は存在しない、また遅延を認めない。6.無責任なる軍国主義が世界より駆逐される迄は平和・安全・正義の新秩序が生し得ない、日本国国民を欺瞞し世界征服の挙に出る過誤を犯した者の権力及勢力は永久に除去させる。7.新秩序か建設せられ、且日本国の戦争遂行能力か破砕された事が確証あるまで連合国の指定すへき日本国領域内の諸地点は占領される。8.カイロ宣言の条項は履行され、又日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限される。9.日本国軍隊は完全に武装を解除させられた後に各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得る。10.日本人を民族として奴隷化しない、又国民として滅亡させる意図を有しない、しかし連合国の俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰が加えられる。 日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去する、言論・宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立される。11.日本国は其の経済を支持し且公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるか如き産業を維持することを許される、但し日本国を戦争の為再軍備を為すことを得る如き産業は此の限ではない、以上の目的の為原料の入手を許可する、日本国は将来世界貿易関係への参加を許される。12.前記諸目的か達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立するに於て、連合国の占領軍は直に日本国より撤収する。13.連合国は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且その行動に於ける日本国政府の誠意に、適当且充分な保障を提供する事を日本政府に要求する。 これ以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみである。●カイロ宣言(日本国に関する英、米、華三国宣言)の抜粋・概要 (1943年11月27日「カイロ」に於て署名) 各軍事使節は日本国に対する将来の軍事行動を協定した。 三大同盟国は海路陸路及空路に依り其の野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加ふるの決意を表明せり右弾圧は既に増大しつつあり。 三大同盟国は日本国の侵略を制止し且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり右同盟国は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非す又領土拡張の何等の念をも有するものに非す。 右同盟国の目的は日本国より千九百十四年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国か奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国か清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在る。 日本国は又暴力及貧慾に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐される。 前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す。 右の目的を以て右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し日本国の無条件降伏を齎すに必要なる重大且長期の行動を続行する。〓勝手に独断と偏見〓 ポツダム宣言は原爆実験の成功を受けて発表された、「国体護持」が不明確なのが問題。 日本国軍隊の無条件降伏、終戦後の日本の領土、新秩序の建設と日本国の戦争遂行能力が破砕され占領が終了する。 独立後は世界貿易関係への参加を許される。 世界征服の挙に出た権力及勢力は永久に除去され、連合国の俘虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰が加えられる。 「平和に対する罪」等は後の話、指導部では「厳重なる処罰」は軍関係者以外は他人事として「ポツダム宣言」受諾に邁進、が多数派だったと思える。
2007.03.10
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●「時代の一面/東郷茂徳」におけるソ連との交渉(抜粋とその概要)○5月11日~14日の「最高戦争指導会議構成員会議」 陸軍:ソ連参戦防止について方策を講ずる必要がある 海軍:ソ連の好意的態度を誘致して石油などを購入し得れば好都合 外相:ソ連の好意的態度を誘致は米英ソの三巨頭の会談前でないと駄目、既にカイロ・テヘラン・ヤルタ会談が行われている。 米内海相はソ連との関係改善は手遅れでないを主張。 1.ソ連との中立関係を維持する。 2.ソ連の好意的中立を取り付ける。 3.ソ連をして大東亜戦争の終結を斡旋させる。 が決定、米英との講和条件は纏まらず、米内海相の提案で3項目目を伏せてソ連との交渉になる。○東郷外相は広田元首相に在日ソ連大使との会談を依頼した。○6月3日・4日に広田・マリク(在日ソ連大使)会談が行われ、広田元首相は前途有望と報告。○東郷外相は沖縄で敵を撃滅すれば、行き詰まる日本外交も活動の基礎を築き得るを主張。 統帥部は始めは成算ありを述べていたが、漸次自信を失った。○6月29日に広田元首相はマリク在日ソ連大使に具体的な日本の意向(日本側具体案)を伝えた。 日本側具体案: 長期に亙り東亜の平和維持の為にする相互支持及び不侵略に関する協定を締結するを本義とし、右に付き満州の中立化、漁業権の解消を辞せざることとし、且交渉の間口を開放し置く為その他ソ連の希望する諸条件就きても論議するに異存なき マリク大使は本国政府に取り次ぐ事を承認、本国より回答に接到次第更に会談に入るを答えた。○特派使節問題 米英ソ首脳がポツダムで会合することが伝えられた、広田・マリク会談は催促しても進捗を見せない。 マリクに来訪を求めても病気を理由に断る、外務省係官がソ連大使館員に聞いた話では、「日本側具体案」は「クーリエ便」(電信ではなく船便の意と思われる)で送った。 東郷は、広田・マリク会談は到底進展なしと認めた。 7月10日に「構成員」の会合で戦争終結に関する大御心をソ連側に伝えその影響を見つつ特派使節派遣を運ぶことなった。 (特使は近衛文麿、近衛は東郷に対して出発の際にはあまり窮屈な条件を押し付けられるのは困ると述べる)○戦局の急迫と統帥部への申し入れ 大都会・中小都市に対する空襲が激化、東郷外相は統帥部に対してこの状況下では外交活動が出来ない、ポツダム会談が開始される矢先に我が国力は既に尽きたの印象を敵国とソ連に与える、其の印象を基準として対日方策を定めることになるのは明瞭。 会談開始前に少なくとも敵の機動部隊を補足して一大打撃を与えて貰いたいと説いた。 (外相は天皇に内奏、米内海相に要請。阿南陸相は同感の意を表し統帥部に強く申し入れた。)○特派使節を近衛公に御下命(7月12日)○モスクワへの申し入れ 7月12日夜に佐藤駐ソ大使に電報 「天皇陛下に於かせられては今次戦争が交戦各国を通じ国民の受ける惨禍と犠牲とを日々増大しつつあることを御心痛あらせられ、戦争が速やかに終結に至らんことを念願せられ給う旨、並びに右の御趣旨を以って近衛公を莫斯科に特派使節として派遣する」 佐藤大使はモロトフ人民委員申し入れたが、ベルリン出発を控え多忙で断られ、13日午後5時にロゾフスキー人民委員代理に申し入れた。 13日深夜、スターリン・モロトフはベルリン出発前で多忙の為に回答は遅延するの電報があった。 14日に「構成員の会合」で終戦の条件は陸相その他から敗戦していないとして、纏まらなかった。 19日、ソ連から申し入れは具体性なしの回答 21日、申し出の趣旨(ソ連斡旋による講和、近衛訪ソは戦争終結への具体案の提示)を電報 25日、ソ連は速やかに回答するの電報受信〓勝手に独断と偏見〓 「ポツダム会談開始前に少なくとも敵の機動部隊を補足して一大打撃を与えて貰いたい」、阿南陸相は同感の意を表し、米内海相は出来ないとは言っていない。 外相の発言は戦果がないと和平交渉は一方的になるの主張だが確信犯か。 スターリン・モロトフの遅延するとの返答について東郷外相は、 「我大使との面談を避け且つ回答を遅延するのは甚だ奇異との感を受けた、・・・、日本に対し既に開戦の決意を為して大使との会見及び近衛公の入国を肯じなかったと迄は想像し得なかったのは甚だ迂闊の次第であった。」 冗談ではない、ソ連の対日参戦は最重要ポイント。 他人事のように自分の失態を認める東郷の白々しさ、話せない何かがあるのか。
2007.03.08
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○カサブランカ会談(1943年1月14日~23日) 米英の首脳が枢軸国に対して無条件降伏を要求するを声明。○カイロ宣言(1943年11月27日) 米英中の首脳は日本の無条件降伏に向けて行動するなどを声明。○テヘラン会談(1943年11月28日~12月1日) 米英ソの首脳によりドイツ降伏後のソ連の対日参戦などについて話し合われた。○ヤルタの密約(1945年2月11日) 三大国即ちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及英国の指揮者はドイツ国か降伏し且ヨーロッパに於ける戦争か終結したる後2月又は3月を経てソヴィエト連邦か左の条件に依り連合国に与して日本に対する戦争に参加すへきことを協定せり※ソ連は後に、米英中による「ポツダム宣言」を日本が受諾拒否した事を理由に参戦する。※1945年4月5日ソ連は日ソ中立条約不延期を通告(1946年4月25日まで有効)、 27日にソ連のモロトフ外相は佐藤大使にソ連の中立厳守を約す。 米国は日本の無条件降伏による戦争の早期終結はソ連の参戦が必要の認識を持っていた。 また、ソ連も極東に領土と利権を主張したいが為、対日参戦を望んでいた。 6月22日に昭和天皇が「最高戦争指導会議の構成員」に和平交渉を命じ、ソ連を仲介とした和平交渉が進められる筈だったが、ソ連の反応は鈍い。 「昭和天皇独白録」では、 「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱海両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい」 天皇は本土決戦では国体護持は不可能の認識を持っている。●「昭和の宰相 第三巻」による、ソ連との交渉の概要 5月11日:~13日、東郷外相は終戦和平にソ連の利用は不可、米内らはソ連利用を主張 :米内は「日本から軍艦を譲り交換に石油や飛行機をもらう」と述べる。また、ソ連交渉の基本的な方針を決める 6月03日:広田弘毅はソ連駐日大使マリクを訪問、翌日ソ連との友好関係の向上を打診 6月08日:御前会議で「戦争の完遂」「徹底抗戦」「本土決戦」を確認 6月22日:天皇は戦争の終結を示唆、米内はソ連の斡旋による終結を述べる。 6月24日:広田弘毅は再びソ連駐日大使マリクを訪問、マリクは具体案を求める。 6月29日:日本は具体案をマリクに渡す、その後マリクは病気として会わない。 7月12日:近衛は天皇よりソ連特使を依頼される 7月13日:ソ連外相は佐藤大使の会見要求を多忙理由で拒否、天皇のメッセージと近衛特使の件は次官に伝る 7月13日:米国は、日本から佐藤大使への電文を傍受、トルーマン等の要人に伝わる 7月17日:ポツダム会談開催 7月18日:ソ連は天皇メッセージの具体性を否定、特使派遣を拒否(20日に東郷外相が首相らに説明) 7月27日:日本側はポツダム宣言を受信 7月28日:陸海軍大臣・陸海軍総長は「宣言」を鈴木首相に無視する事を迫る(->黙殺) :NHKと同盟通信電報は「黙殺」を「ignore」で海外に、外国通信は「reject」 8月08日:ソ連外相は佐藤大使に「ポツダム宣言」を拒否したからソ連は参戦すると述べる 8月09日:ソ連は満州に侵攻、ソ連軍130万人・飛行機5千機・戦車4千輌●天皇メッセージに対するソ連側の返答(「海軍大将 米内光政覚書」より) 7月13日にモスクワへ天皇のメッセージと近衛特使の件が伝えられた。○モスクワよりの返電の要旨 日本皇帝のメッセージは、一般的なものであって、何等具体的なものではない、近衛公の特使としての派遣も、なんの為であるか不明である、これではソ連側から回答することができない○日本側の返答の要旨1.皇帝メッセージは、具体的には、大東亜戦争の終結についての斡旋をスターリンに依頼すること。2.近衛特派使節の任務は、戦争終結の斡旋をスターリンに依頼するについての内容に関し、直接スターリンと懇談することにあること。〓勝手に独断と偏見〓 東郷外相はソ連との交渉について(「時代の一面」より)、 「ポツダムで日本の講和の意志が連合国首脳に伝わり、ポツダム宣言という有条件の講和に導いたとして、ソ連への申し入れは結果から見ると大体に於いて功を奏した」 佐藤尚武駐ソ大使は東郷外相に、ソ連仲介の話し合いは見込みなしを報告、和平交渉は一月以上進展なくポツダム宣言・原爆投下・ソ連侵攻と進む。 東郷外相の見解は、ソ連侵攻等は本土決戦なしの終戦には必要だったと推察。
2007.03.06
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1945年3月23日の「国民義勇隊組織ニ関スル件」と6月22日の「義勇兵役法」の間にあるのは沖縄戦。 本土決戦は海岸附近での上陸戦や洞穴・日本の地形を生かしたゲリラ戦と思えるが、ベトナムと異なり日本の味方はいない。●沖縄戦日米両軍の損害比較(「沖縄 日米最後の戦闘/米国陸軍省編」よりの抜粋) 戦死 :米軍(12281)、日本軍(110071) 日本側は現地召集兵・防衛隊員を含む 失った航空機:米軍(763)、日本軍(7830) 英空母機98を含む 日本側は陸海軍共に特攻機は約1/4 艦船沈没 :米軍(36)、日本軍(16) 特攻機による沈没26 艦船破損 :米軍(368)、日本軍(4) 特攻機による破損164●「わが軍は最終的な勝利を確信しているが、さらに厳しい激戦を予想している」の抜粋 (ニューヨーク・タイムズ1945年6月24日/『ニューヨーク・タイムズ』が見た第2次世界大戦) 沖縄とフィリピンでわれわれが勝利した今では、1941年に侵攻を開始した日本帝国はみずからを防衛できない事は明らかだ。 よって今の日本の立場には望みがないし、すぐに何もできなくなるだろう。 だからといって、このような条件が日本と戦っている連合軍の目標である「無条件降伏」を受け入れる情況を作り出すわけではない。 沖縄作戦は、これから先の軍事行動に較べると確かに小規模だが、敗れた敵を制圧するには時間がかかることをはっきりと示している。 そして勝利が確実になったあとでさえ、攻撃側は犠牲を払うことになるのだ。 沖縄にある7個師団の共同墓地にはあまりにも多くの十字架が立っている。 日本と戦うことは全兵力の50%しか使わずに片手でできる仕事だとはだれにも言えない。 いまや、ドイツは戦場から去ったのだから。●「竹槍事件」○終戦の1年半前の毎日新聞(1944年2月23日朝刊)では 「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」 が掲載された、東條英機首相は発禁処分としたが、新聞の配達はすでに終わっていた。 記事は海軍担当キャップの新名丈夫記者が紳士協定を利用して執筆。 毎日は廃刊は免れる、37歳の新名は陸軍に二等兵として「徴罰召集」されるが、海軍に報道班員で救われる。※以上は「朝日新聞の戦争責任」より抜粋の概要○『Wikipedia』によると 東条は自分に批判的な記事を書いた新名を二等兵として召集し、激戦地となることが予想される硫黄島へ送ろうとした。 新名が徴兵検査を受けたのは大正時代のことで、その世代は1人も召集されてなかった。 その為、海軍は「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍を批判した。 それに対し、陸軍は、新名と同世代で大正時代に徴兵検査を受けた人間を250人召集し、丸亀連隊に入営させて辻褄を合わせた。その30代後半の兵達は、全員が硫黄島の戦いで玉砕・戦死した。※硫黄島の戦いを指導部はどう考えていたのか、また報道関係者と一般国民とでは徴兵・召集に差があったのか。〓勝手に独断と偏見〓 1941年12月の日米開戦以降、日本人だけで毎日平均1700人以上が戦争で亡くなっている。 沖縄では1945年6月22日に沖縄守備軍司令官牛島満中将が 「爾後各部隊は各局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」を発して自決、 沖縄での抵抗は終戦後まで続く、何の為に・誰の為に。 ドイツは最後まで徹底抗戦し、ヒトラーは自殺した。 イタリアでは国王エマヌエーレ3世がバドリオ元帥を首相に任命、ムッソリーニは逮捕され、イタリアは連合国に降伏した。 ムッソリーニはドイツの傀儡政権を作るが殺害される、1946年に国民投票で王制が廃止された。 7月、閣議後に大臣達に示された本土決戦の為に「国民義勇隊」が使う兵器は、弓・竹槍・鉄の棒・銃口から火薬を詰める銃だった。 「天皇家の戦い/加藤英明」によると(抜粋の概要) 皇族身位令17条「皇太子、皇太孫は満10年に達したるのち、陸軍及び海軍の武官に任ず」、 1945年当時皇太子は11歳、陸海軍少尉に任官していない、杉山・阿南が催促しても天皇は承知しない。 天皇は敗戦の準備を始め、軍部との距離を意識している。 「重臣達の昭和史(下)」によると東條内閣末期に近衛・東久邇宮は 「太平洋戦争の全責任を東條に負わせ、陛下に責任を及ばないようにする」 と勝手な敗戦対策。
2007.03.04
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1945年6月22日に昭和天皇は「最高戦争指導会議構成員」に和平交渉を命じたが、同日「義勇兵役法」が公布された。 日本国民と連合国に対する「本土決戦」遂行の決意表明である。●義勇兵役法(昭和20年法律第39号)、6月22日に公布、即日施行(中野文庫より一部の抜粋)第一条1.大東亜戦争に際し帝国臣民は兵役法の定むる所に依るの外本法の定むる所に依り兵役に服す2.本法に依る兵役は之を義勇兵役と称す3.本法は兵役法の適用を妨ぐることなし第二条1.義勇兵役は男子に在りては年齢15年に達する年の1月1日より 年齢60年に達する年の12月31日迄の者(勅令を以て定むる者を除く)、 女子に在りては年齢17年に達する年の1月1日より 年齢40年に達する年の12月31日迄の者之に服す2.前項に規定する服役の期間は勅令の定むる所に依り必要に応じ之を変更することを得第五条1.義勇兵は必要に応じ勅令の定むる所に依り之を召集し国民義勇戦闘隊に編入す2.本法に依る召集は之を義勇召集と称す第七条1.義勇召集を免るる為逃亡し若は潜匿し又は身体を毀傷し若は疾病を作為し其の他詐偽の行為を為したる者は二年以下の懲役に処す2.故なく義勇召集の期限に後れたる者は一年以下の禁錮に処す (以下略)●「国民義勇隊組織ニ関スル件」、3月23日の小磯内閣で閣議決定、(国立国会図書館 議会官庁資料室より一部の抜粋) 現下の事態に即し本土防衛態勢の完備を目標とし当面喫緊の防衛及生産の一体的飛躍強化に資すると共に状勢急迫せる場合は 武器を執つて蹶起するの態勢へ移行せしめんが為左記に依り全国民を挙げて国民義勇隊を組織せしめ其の挺身総出動を強力に指導実施するものとす一、目的(一)防空及防衛、空襲被害の復旧、都市及工場の疎開重要物資の輸送、食糧増産(林業を含む)等に関する工事又は作業にして臨時緊急を要するもの(二)陣地構築、兵器弾薬糧秣の補給輸送等陸海軍部隊の作戦行動に対する補助(三)防空、水火消防其の他の警防活動に対する補助尚状勢急迫せる場合に応ずる武装隊組織及其の出動に関しては特別の措置を講ずるものとす二、組織(一)国民義勇隊は官公署、会社、工場事業場等相当多数の人員を擁するものに付ては当該職域毎に其の他のものに付ては一定の地域毎に之を組織せしむるものとす 尚学校に付ては別に定むる学徒隊の組織に依るも前項の業務に付ては国民義勇隊として出動するものとす(二)国民義勇隊に参加せしむべき者は老幼者、病弱者姙産婦等を除くの外可及的広汎に包含せしむるものとす 註一、右の範囲は国民学校初等科修了以上の者にして男子に在りては六十五歳以下女子に在りては四十五歳以下のものとす但し右の年齢以上の者に在りても志願に依り参加せしむ 二、家庭生活の根軸たる女子に付ては組織及運用に付特別の考慮を払ふものとす(三)国民義勇隊は一般に職域毎に組織するものは職場、地域毎に組織するものは一定の地域に依り夫々一定の基準に従ひ男女別に之を編成せしむるものとす尚出動業務の必要に応じ最も有効適切に活動し得る如く隊員の年齢、体力、職種等を標準として特別の出動編成をも併せ考慮せしむるものとす(四)都道府県毎に国民義勇隊本部を設け当該区域内国民義勇隊を統轄せしむ 本部長は地方長官とす 市区町村隊の隊長は市区町村長とす (以下略)〓勝手に独断と偏見〓 「国民義勇隊」は「国民義勇隊組織ニ関スル件」、「国民義勇戦闘隊」は「義勇兵役法」による、「義勇兵役法」の実施方法として同日「義勇兵役法施行令」が出ている。 「国民義勇戦闘隊」は「故なく義勇召集の期限に後れたる者は一年以下の禁錮に処す」であり、自主的なものではない。 「国民義勇隊」は大政翼賛会・大日本婦人会などが改称したもので地域・職場で組織されている。 「国民義勇戦闘隊」は「国民義勇隊」選抜の戦闘部隊のイメージ、運用が通常の徴兵とは異なったのではと思える。 国民参加の沖縄戦で国民はどのように戦ったのか実態を調べたいが、先の事になる。○国民義勇隊(Wikipediaによりの抜粋) 終戦直前の最末期に編成され、実際に本土決戦が生起する前に終戦を迎えたため、大多数は実戦を経験することはなかった。 しかし、樺太で編成された「国民義勇戦闘隊」は終戦直前の8月9日に樺太に侵攻してきたソ連軍を迎撃するため通常部隊とともに18日の停戦まで戦闘に参加し、劣悪な装備状況にもかかわらず善戦している。
2007.03.02
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