2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全10件 (10件中 1-10件目)
1
「国体明徴に関する政府声明」が1935年8月3日と10月15日に出され天皇機関説が否定された。○国体明徴に関する政府声明(8月3日) 恭しく惟みるに、我が国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の降は天地と與に窮なし。 されば憲法発布の御上諭に「国家統治の大権は朕が之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なり」と宣ひ、憲法第一条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と明示し給ふ。 即ち大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存すること明なり。 若し夫れ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。 近時憲法学説を繞り国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に絶へず。 政府は愈々国体の明徴に力を致しその精華を発揚せんことを期す。 乃ち茲に意の在る所を述べて広く各方面の協力を希望す。└─『内閣制度70年史(1955年)』/「外交資料 近代日本の膨張と侵略/山田朗」より○国体明徴に関する政府再声明(10月15日) 曩に政府は国體の本義に関し所信を披瀝し以て国民の嚮ふ所を明にし癒々其精華を発揚せんことを期したり 抑々我国に於ける統治権の主體か天皇にましますことは我国體の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり 帝国憲法の上諭竝條章の精神亦茲に存するものと拝察す然るに漫りに外国の事例学説を援いて我国體に疑し統治権の主體は 天皇にましまさすして国家なりとし 天皇は国家の機関なりとなすか如き所謂天皇機関説は神聖なる我国體に戻り其本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せさるべからず (以下略)└─「国体明徴ニ関スル再声明ヲ通牒ス」/アジア歴史資料センターより〓勝手に独断と偏見〓●「本庄日記」(抜粋・概要)○1935年4月25日 昭和天皇は、 「もし思想信念をもって科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。 進化論のごときも覆えさざるを得ざるごときこととなるべし。 さりとて思想信念はもとより必要なり、結局思想と科学は併行して進めしむべきものと思う」 と述べた。○1935年5月22日 昭和天皇は出光海軍武官に対し 「軍部が自分の意に隋はずして、天皇主権説を云ふは矛盾ならずや」 出光海軍武官は 「その時々の御事務に付、大御心に添はざることありとて之を、天皇主権の事実に添はずとせられ、延ひて重大なる国体に関する解説を云々せられんとするは本末を誤るものなりと拝察す。 陛下は、暫く臣下の論議を高処より静視遊ばされ、此等の説に超越して大観あらせらるるを必要なりと存ずる」┗━ 昭和天皇は進化論を信じているが、「現御神」と呼ばれる立場。 昭和天皇が「現御神」を公式に否定したのは終戦後の「新日本建設に関する詔書(1946年1月1日)」(所謂「天皇の人間宣言」) 「朕と爾等國民との間の組帶は、終止相互の信頼と敬愛に依りて結ばれ、單なる神話と傳説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし旦日本國民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる觀念に基くものに非ず。」 昭和天皇は命令を聞かない軍が『天皇主権説』を云うのは矛盾を主張、官吏(文官・武官)にはこの傾向があったと思う。 憲法を越える存在として不可侵の天皇、担ぐ者もいたが、天皇の下に於ける平等を願い天皇親政を求めた者もいたと思う。●簡単年表1931.09.18:満州事変勃発1932.01.08:桜田門事件、昭和天皇爆殺未遂事件1932.03.05:血盟団事件、前大蔵大臣井上準之助・三井合名会社理事長団琢磨を暗殺1932.05.15:5.15事件、犬養毅首相暗殺1933.03.27:国際連盟脱退通告1934.11.20:士官学校事件、皇道派青年将校によるクーデター未遂事件(実態は不明)1935.02.19:天皇機関説を菊池武夫が非難(貴族院本会議)、8月3日に「国体明徴に関する政府声明」が閣議決定、9月18日に美濃部達吉は貴族院を辞任、10月15日に国体明徴声明(二度目)1935.07.15:皇道派の教育総監真崎甚三郎の罷免1935.08.12:相沢事件、統制派の首領・陸軍省軍務局長永田鉄山少将を斬殺1936.02.26:2.26事件、政府要人(高橋蔵相、斎藤内大臣、渡辺陸軍教育総監)を殺害1937.07.07:盧溝橋事件
2007.08.30
コメント(0)
満州国建国関連資料○満州国執政溥儀の関東軍司令官宛書簡 1932年3月10日 書簡を以て啓上候此次満州事変以来貴国に於かれては満蒙全鏡の治安を維持する為に 力を竭され為に貴国の軍隊及人民に均しく重大なる損害を来したることに対し 本執政は深く感謝の意を懐くと共に今後弊国の安全発展は必す 貴国の援助指導に頼るへきを確認し茲に左の各項を開陳し貴国の允可を求め候1.弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し其の所要経費は 総て満州国に於て之を負担す2.弊国は貴国軍隊か国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の 管理並新路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すへきことを承認す3.弊国は貴国軍隊か必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す4.貴国人にして達識名望ある者を弊国参議に任し其の他中央及地方各官署に 貴国人を任用すへく其の選任は貴軍司令官の推薦に依り 其の解職は同司令官の同意を用件とす 前項の既定に依り任命せらるる日本人参議の員数及参議の総員数を変更するに当り 貴国の建議あるに於ては両国協議の上之を増減すへきものとす5.右各項の趣旨及既定は将来両国間に正式に締結すへき条約の基礎たるへきものとす 以上 大日本帝国関東軍司令官 本庄繁 殿 大同元年3月10日 溥儀 花押└─『日本外交年表竝主要文書(下)』より○満蒙問題処理方針要綱(1932.03.12:閣議決定/犬養内閣)1.満蒙に付ては帝国の支援の下に該地を 政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係に於て帝国存立の重要要素たるの 性能を顕現するものたらしめむことを期す2.満蒙は支那本部政権より分離独立せる一政権の統治支配地域となれる現状に鑑み 逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す3.現下に於ける満蒙の治安維持は主として帝国之に任す、 将来に於ける満蒙の治安維持及満鉄以外の鉄道保護は主として 新国家の警察及警察的軍隊をして之に当らしむ、 右目的のため之等新国家側治安維持機関の建設刷新を図らしめ 特に邦人を之か指導的骨幹たらしむ4.満蒙の地を以て帝国の対露対支国防の第一線とし外部よりの攪乱は之を許さす、 右目的の為め駐満帝国陸軍の兵力を之に適応する如く増加し 又必要なる海軍施設をなすへし、新国家正規陸軍は之か存在を許さす5.満蒙に於ける我権益の回復拡充は新国家を相手として之を行ふ6.以上各般の施措実行に当りては努めて国際法及国際条約抵触を避け 就中満蒙政権問題に関する施措は九カ国条約等の関係上出来得る限り 新国家の自主的発意に基くか如き形式に依るを可とす7.満蒙に関する帝国の政策遂行の為速に統制機関の設置を要す、但し差当り現状を維持す└─『日本外交文書』より○日満議定書(1932.09.15:調印発表・公布)の概要 日本国は満州国が住民の意思に基づき自由に成立・独立した国家である事を確認した。 満州国は中華民国の有する国際約定は尊重する。 日本国と満州国は対外に領土権を尊重する。1.満州国は領内に於いて日本国・日本国臣民が有する一切の権利利益を確認尊重すべし。2.日本国と満州国は其々の脅威に対して共同で防衛する、日本国軍は満州国内に駐屯する。└─『官報』号外 より〓勝手に独断と偏見〓 満州事変により関東軍は満州から張学良の勢力を排除、支那本部政権より分離独立させ満州国という傀儡国家を作る事に成功し、日本軍が満州国内に駐屯する事も可能となった。 前史として、 蒋介石軍の北伐にて、蒋介石との戦いに敗れた張学良の父である張作霖は北京から奉天に移動中の1928年6月4日に関東軍の河本大作大佐らにより爆殺された。 満州を継承した張学良は12月29日に蒋介石政権への帰順を発表した。 関東軍の高級参謀・第1課長は河本大作->板垣征四郎->石原莞爾(1931年10月5日~1932年8月8日)と移る。 「張作霖爆殺」から3年後の1931年9月18日に満州事変が勃発する。 「満州事変に関する政府第一声明」では「帝国政府が満州に於いて何等の領土的欲望を有せざる」が記されている。 「日満議定書」の「日本国は満州国が住民の意思に基づき自由に成立・独立した国家である事を確認した。」は白々しい。 「太平洋戦争と新聞/前坂俊之」によると、 1931年9月23日の東京日日新聞では、政府の不拡大方針に対して「日本はまさに支那のために、国威と利益を蹂躙された被害者」と抗議している。
2007.08.26
コメント(0)
●柳条湖事件から塘沽停戦協定までの主な項目○柳条湖事件により満州事変が勃発(1931.09.18)○吉林占領(09.21):満鉄の東に位置する中国の鉄道の要地を占領。○ハルビン出兵取止め(09.24):参謀本部は関東軍に出兵の禁止を伝える。○満州事変に関する政府第一次声明(09.24)の概要 9月18日夜半に奉天付近にて中国軍隊は南満州鉄道の線路を破壊し日本守備隊を襲撃 当時の満鉄沿線を守備する日本軍の兵力は10400人、その周囲には22万人の中国軍隊 同地方に居住する100万の日本人の不安を考え、付近に駐屯する中国軍の武装を解く 日本軍は目的遂行後、鉄道附属地内に帰還集結、兵員の配置は軍事占領ではない 日本国政府は閣議で不拡大方針を決議し、関東軍司令官に訓令した 9月21日に吉林に出動したが軍事占領の為ではなく、すぐ帰還する筈 9月21日に朝鮮駐屯軍より混成一旅団4000人を関東軍下に属したのは拡大の為ではない 日本政府は満州に於いて何等領土的欲望を有しない○9月26日の大阪朝日の社説 朝鮮より数千名の増援部隊を派遣したけれども、これも条約上の規定守備の兵員補充であって、決して必要以上の増兵はやっていない。 帝国軍隊の行動は全く『正常なる権利の擁護のため』であって、決して局外者よりかれこれ非難さるべきではない。○満州事変に関する国際連盟理事会決議(09.30)の概要 日本が満州に於いて領土的目的を有しないの日本政府の声明を認める 日本政府による国民の生命・安全・財産保護確認後に軍隊の撤退声明を了承する 支那政府による日本国民の安全・財産保護の責任を追うの声明を了承する 両国政府による事件拡大・事態悪化を行わない為の措置を取ることを了承する○錦州爆撃(10.08):錦州は奉天を失った張学良の満州に於ける仮政府を爆撃。○満州事変に関する政府第二次声明(10.26)の概要 満州事変は中国軍憲の挑発的行動に起因する 日本軍の少数部隊が留まるのは国民の生命・財産の保護で紛争解決交渉の圧力ではない 中国では排日思想が教科書にも述べられている 中国政府の保証に依存した軍隊の撤退は事態を悪化させる 10月9日に伝えた、中国公使と連盟理事会にて両国の反感・疑惑を除く事を話し合う○10月29日:ソ連はソ連の鉄道権益(東支鉄道)を犯さない限り不干渉を表明。○チチハル占領(11.19):満鉄の西に位置する中国の鉄道の要地(東支鉄道の北)の占領。○錦州占領(1932.01.03):張学良は北平(北京)に撤退し、関東軍が占領した。○陸軍人事◇陸軍大臣:南次郎(1931.04.14)->荒木貞夫(1931.12.13)◇参謀総長:金谷範三(1930.02.19)->閑院宮載仁親王(1931.12.23)◇参謀次長:二宮治重(1930.12.22)->真崎甚三郎(1932.01.09)◇関東軍司令官:本庄繁(1931.08.01)->武藤信義(1932.08.08)◇陸軍教育総監:武藤信義(1927.08.26)->林銑十郎(1932.05.26)○満州の事態に関する米大使通牒(1932.01.08)の概要 日本軍の錦州方面での軍事行動で中国政府の南満州に於ける政治権力は破壊された 米国は中国の主権と独立・米国と米国人の権利を侵害する条約・協定を認めない○関東軍へ勅語(01.08)○上海事変勃発(01.28)○上海事変に関する政府声明(01.29)○満州国建国宣言(03.01:執政は溥儀)○「満蒙問題処理方針要綱」閣議決定(03.12)○上海事変の停戦協定が成立(05.05)、陸軍は撤収○5.15事件(05.15)○日本は満州国を承認する(09.15)、「日満議定書」の概要 満州国は中華民国の有する国際約定と日支間の条約・協定等を尊重する 両国共同して国家の防衛に当たる事を約し、日本国軍が満州国内に駐屯する○山海関事件(1932.10.01、12.08、1933.01.01)○熱河作戦(1933.02.23)○国連総会におけるリットン報告書を元にした勧告案採択(02.24)○大日本帝国は国際連盟脱退の通告と詔書(03.27)○塘沽(タンクー)停戦協定(調印:05.31)の概要 中国軍は延慶・昌平・高麗営・順義・通州・香河などの以西・以南より撤退、日本軍は飛行機その他で確認 日本軍は長城線に帰還 長城線とその南の帰還線の間の治安維持は中国側警察機関が行う
2007.08.26
コメント(0)
一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない、満州事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった。 (「昭和天皇独白録 二二六事件」より) 当時の満州は、南京国民政府(蒋介石)下にあるが、満州の大部分は張学良の東北軍政権下、錦州には錦州軍政権があった。 また、ソ連の北部に於ける東支鉄道、日本の南満州鉄道などの権益が存在していた。※父を関東軍河本大佐のグループに殺害された張学良は蒋介石に帰順している(後に西安事件を起こす)。 1931年9月18日、関東軍のシナリオが始まる。○関東軍よりの電報(奉・第205号:1931年9月19日1時7分) 18日夜10時半頃、奉天北方、北大営西側に於いて暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、我が守備兵を襲い、駆けつけたる我が守備隊の一部と衝突せり、報告により奉天独立守備第二大隊は現地に向かい出動中なり。 実際は関東軍により柳条湖付近で南満州鉄道の爆破が行われ、爆破を行ったのは中国軍として、北大営の中国軍兵営を攻撃、9月21日に関東軍は吉林に進撃、兵力不足を朝鮮軍が越境して対応。 その後、関東軍の勢力範囲は北満州・熱河と全満州に拡大した。○「西園寺公と政局-2」p77、外務省の守島アジア局第一課長の話として、 関東軍司令官は座敷牢に入れられたような形で、三宅参謀長は部下を統御する力がない、参謀の石原・花谷・板垣の三人が中心を占めて思うがまま行った、酔うと彼らは この計画は前からちゃんと企ててあったので、既に7月25日には奉天に砲列を布いておいた。 我々はこの計画に成功したのだから、次には内地に帰ったらクーデターをやって、政党政治をぶっ壊して、天皇を中心とする所謂国家社会主義の国を建て、資本家三井・三菱の如きをぶっ倒して、富の平等の分配を行はう。○「満州事変はこうして計画された/花谷正」での「満州事変」の初期状況の概要 満州事変の計画は石原莞爾中佐・板垣征四郎大佐・花谷正少佐で作成、 1931年の春には柳条湖事件のおよその計画ができあがった。 きっかけを作るのは簡単だがその後の処置が問題、 張作霖爆死事件では日本軍の陰謀である事が露見してしまった。◇計画に賛同する者 朝鮮軍:神田正種中佐・朝鮮軍参謀 中央:建川美次少将・参謀本部第一部長、二宮治重参謀次長、重藤千秋大佐・支那課長、根本博中佐・支那班長、橋本欣五郎中佐・ロシア班長、永田鉄山・軍事課長◇計画と役割 本庄繁関東軍司令官には細かい事は言わなかった。 三宅参謀長以下幕僚の大部分には計画を明かさなかった。 爆破工作担当は今田新太郎大尉。 爆破後の行動の為に在奉天部隊の中堅幹部に計画を明かし同士を固めた。 (川島大尉・小野大尉・小島少佐・名倉少佐・三谷少佐など) 補助作業には甘粕正彦予備大尉・和田予備中尉 事件発生と共に満鉄沿線各地で爆弾を投げて、治安不良で領事から救援要請を乞わせた。 ハルビン・吉林の治安不良は計画されていたもの。 資金は内地から河本大作を通じて届き当面不自由はなかった。◇計画が露顕し9月18日に決行 永田軍事課長に頼み旅順要塞から28センチ砲を分解運搬して9月10日過ぎには設置。 当初の計画では鉄道爆破を9月28日に行う予定だった。 橋本中佐からの連絡、 「計画が露顕し建川少将が派遣される、建川の使命を聞かないうちに間に合わせよ」 幣原外相が奉天総領事の電報を見せて関東軍の不穏な行動を南陸相に問い詰め、南陸相が建川第一部長に止める様に命じた事が背景にあり、建川は橋本経由で花谷らに告げて計画を早めさせた。 建川は9月18日午後本渓湖駅で板垣大佐に迎えられ奉天駅に降りた、花谷は車で奉天柳町の料亭菊文に送り込んだ。 レールの爆破は列車が通過可能な破壊を計算し使用量を決めた。 18日夜、爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届き、爆破地点より4km北方の文官屯にいた川島中隊長は兵を率いて南下し、北大営に突撃を開始し、雄峯会の浪人も協力した。 板垣大佐は軍司令官代理で命令し、第29連隊と島本大隊は戦闘に参加した。 北大営では、支那兵は眠っている者が多かった、また武器庫の鍵を持つ将校が外出で、 武器が無い、日本軍が突入して内通していた支那兵が出てくる。 28センチ重砲が砲撃を始め支那兵は敗走した。 夜明けまでには奉天全市が手に入り軍政がしかれて土肥原大佐が臨時市長に就任した。└─『別冊知性』1956年12月号に掲載
2007.08.26
コメント(0)
1899年に「日米通商航海条約」が締結され治外法権が回復、1911年には「日米通商航海条約」が改正され関税自主権が回復し、日本は不平等条約を撤廃する事ができた。 1937年7月7日には盧溝橋事件から支那事変が始まり、12月13日には南京を占領。 1939年4月28日にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約破棄を宣言、5月11日にはノモンハン事件が勃発。 1939年7月26日に米国は日本に「日米通商航海条約」破棄を申し入れ、半年後の1940年1月26日に条約は失効した。 「日米通商航海条約(1911年版)」では、商売上は自国民と同様の待遇が締約国民(臣民)に対して与えられ、輸出・輸入に関しては衛生上の措置と動物・植物を保護する目的以外では禁止・制限は行わない事が記されている。●「日米通商航海条約(1911年)廃棄の背景/日米開戦外交の研究/須藤眞志」よりの概要○盧溝橋事件後の1937年7月16日にハル国務長官が斉藤駐米大使に示した米国の基本的外交政策にかかわる原則 平和の維持、国家的国際的自制、政策の遂行途中に於ける武力行使の禁止、他国家の国内問題に対する不干渉、国際関係上の諸問題の平和的交渉及び協定の手段に依る調整、国際的諸協定の忠実なる遵守、必要の生じたる場合の相互協力と和解の精神に基づき遂行せらるる正規の手続きに依る条約条項の修正、すべての国家に依る他国権益の尊重と、すべての国家に依る確定的義務の実行、国際法の復活と強化、全世界の経済的保全と安定の促進、国際貿易上の無用の障壁の軽減又は除法、取引上の機会に関する有効なる均等と平等処遇の原則の適用、軍備の制限及び縮小。 日本政府は米国政府に対して 「日本政府は、ハル長官の声明の内容をなす諸原則に賛同の意を表する。日本政府は此等の諸原則の目的は、極東の時局に適用されるに至っては、此地域の現実の特殊事情を充分に認め、且事実に於いて考慮することによってのみ達成されうる」 と回答した。○ルーズベルトの「隔離演説」(1937年10月5日) ルーズベルト大統領は抽象的に日本の支那事変拡大に対して不戦条約・国際連盟規約・九ヶ国条約違反としたが、中立法の破棄は否定し対日制裁は考慮していないと答えた。○ブラッセル会議 日本政府は1937年10月27日に会議への出席を拒否する書簡で、日本の行動は自衛措置であって、九ヶ国条約の範囲外であると主張した。 会議では、日本の中国での行動には法的な根拠がないとしたが、具体的な共同行動についてはなんら合意が得られなかった。○パネー号事件(1937年12月12日) 南京の上流12マイルの長江で米国の砲艦パネー号とスタンダード石油会社のタンカー三隻が日本の爆撃機に攻撃を受け、パネー号は沈没した。 日本は誤爆を主張、米国の要求である補償金221万4千ドルの支払いなどを行った。○天津租界事件 1939年4月9日に天津の海関監督程錫庚が英国租界で暗殺されたが、英国側は日本軍に犯人引渡しを拒否、日本軍は英国租界を封鎖。 7月24日に「英国政府は支那における日本軍が、かれら自身の安全を擁護し、かれらの支配下にある地域の公秩序を維持するため、特殊な要請をもつことを了承する。」の同意書が日英で交わされた。○1935年~1939年の輸出・輸入の年平均 日本側から見た対米輸出は19.4%、輸入は33.2% 米国側から見た対日輸出は8.1%、輸入は6.9%〓勝手に独断と偏見〓 1939年7月24日に英国が天津租界事件で日本に屈服、その二日後の7月26日に「日米通商航海条約」破棄の通告が行われた。 通告の一週間前に共和党上院議員のヴァンデンバーグは「新たなる必要が生じた場合に、米国政府が新条約の締結および米国権益の保全を日本と自由にしうるようにするため 米国政府は1911年の通商条約の廃棄を宣言すべきである」と新条約を提案。○廃棄通告(一部) 「日米通商航海条約」が新たなる考慮を必要とする条項を包含しているとの結論に到達した、かかる新たなる考慮に対し途を開きかつ新事態の発生に即応し米国の権益を擁護し促進せしめるため米国政府は該条約17条の規定に従い、ここに本条約の期限終結をを希望する旨通告する。 しかして、かかる通告がなされた以上本条約および附属議定書とともに本日より6ヶ月以後に満期になるものと期待する。 廃棄後、日本の南進等に対して経済制裁が発動され、新条約は結ばれ無かった。
2007.08.24
コメント(0)
1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻しソ連と分割占領する、英・仏はドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まる。 当時、ドイツは米国との戦争を望んではいなかったし、米国国民も欧州戦争に参加する気はなかった。 1940年6月22日にフランス軍は降伏、英国軍は6月4日に欧州大陸から撤退を完了、日本軍は北部仏印に進駐し、9月27日には日独伊三国間条約が締結された。 ルーズベルト大統領(1933年-1945年)が欧州戦への参戦を予定したのはいつ頃からか。○米国の「中立法」の変遷 1935年:交戦国に対する武器の輸出を禁じた中立法を制定。 1936年:交戦国に対する貸付けの禁止を追加,スペイン内乱の翌年に内乱にも適用とする。 1937年:「現金自国船輸送」方式を導入,交戦諸国は米国港で現金決済・自国の船舶で輸送。 1939年:第2次世界大戦の勃発で,武器禁輸条項を除去,連合国側に軍需物資を供給可能に。└───○「ニューヨーク・タイムズ(1939.11.5)」による中立声明書と中立法改正記事の概要 交戦国への武器、弾薬、資・機材の売却禁止 (交戦国はドイツの事と思われる、英国には売却可能になった) 米国の国籍を持つ者と船舶の戦闘地域立ち入り禁止(大統領が特別に許可した場合を除く) 修正中立法では英・仏・独などの交戦状態の国に対しアメリカ船舶が荷物を運ぶのを禁止 戦闘区域に関する声明書ではベルギー・オランダなどの中立国との通商を禁止 ソ連・フィンランドには大西洋経由は許可、ソ連には黒海への船舶出入りも許可 貨物輸送許可地域: イタリア・スペイン・ポルトガル・ユーゴスラビア・トルコ・ルーマニア・ブルガリア、 ノルウェーのベルゲン北部 戦闘地域の設定の概要: ノルウェーからベルギー南部、バルト海からイギリス、アイルランド、イギリス海峡 地中海は除外 潜水艦に関する声明: 交戦国の潜水艦によるによる米国内の港湾・領海内の航行の禁止 民間人を爆撃している国家への航空機売却の輸出禁止措置は有効(日本に適用)└───「ニューヨーク・タイムズが見た第二次世界大戦(上)」よりの抜粋○1941年3月11日:武器貸与法(米国) 連合国への軍事援助に関するアメリカ合衆国の法律/F.ルーズベルト、 アメリカの防衛と重大なかかわりがあると認められる他の国に,防衛に役立つ物資やサービスを供与できることになった 1941年6月には中国,同年 11月にはソ連にもこの法律が適用され,第二次世界大戦中,アメリカは総額約 500億ドルの物資やサービスを連合国に提供した。└─── 欧州と東アジアの戦争に対して1941年12月までは中立の立場に立っている筈の米国。 戦争法の陸戦中立条約と海戦中立条約でも中立国の兵器・弾薬の輸出・通過は認められていない、米国は少なくともドイツに対して中立ではない。〓勝手に独断と偏見〓 「武器貸与法」に対して 「兵隊は棺に入って帰還する」/ウィーラー民主党議員 「第一次世界大戦は価値のあるものだったのか、大統領はイギリスは借りを返すと言った。イギリスより第一次世界大戦の戦時負債を返してもらおう。」 の意見もある。 1940年11月にルーズベルト大統領は三期目の当選、「民主主義の兵器廠」を目指す。 再選された3日後、英国は発注してあった1万1千機に1万2千機を追加発注、11月までに英国は米国に現金で45億ドル支払い、20億ドルが残っていた。 英国のドルを増やす方法は、南アフリカの金の産出と対米輸出品(ウイスキー・毛織物など) (「第二次世界大戦2/チャーチル」p235より) 英国では米国へ支払う金が無くなって来た為、ルーズベルトは「武器貸与法」を作った事になる。 1939年11月28日の「ニューヨーク・タイムズ」による、プリンストン大学の機関紙が一年生に対しての質問「現在存命中の最も偉大な人物」の結果は、 1.ヒトラー、2.アインシュタイン、3.チェンバレン英首相、4.ガンジー、5.ルーズヴェルト大統領 ルーズヴェルト大統領が三期目を継続するに賛成60票で反対368票。 外国との戦争が起きると答えたのは120人で侵略から祖国を守るが413人。 1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻により始まった欧州戦への参戦に対して、他の資料に於いても米国人の賛成意見は少ない。 ルーズヴェルト大統領は欧州参戦に進んでいると思うが、詳細に調べる必要がある。
2007.08.18
コメント(0)
1921年11月25日、皇太子裕仁(昭和天皇)は摂政に就任(20歳)、1926年12月25日には大正天皇の崩御により践祚し天皇となる。 昭和から、日米開戦までの流れを年表形式で簡単に並べてみる。1928.06.04:張作霖爆死事件(奉天にて)1928.08.27:パリ不戦条約調印、日本は第一条に「各自国人民の名において」は日本には適応されない(保留条項)をつけて承認1928.12.29:張学良政権は蒋介石政権への帰順を発表1929.10.24:世界恐慌はじまる1930.01.21:ロンドン会議、補助艦・大型巡洋艦・潜水艦の制限と縮少に関する条約を締結した。1931.03.20:三月事件、陸軍によるクーデター未遂事件1931.09.18:満州事変勃発(柳条湖付近:南満州鉄道の爆破)、中国は国際連盟に現状復帰を求めた1931.10.21:十月事件(荒木貞夫陸軍大将擁立)、陸軍によるクーデター未遂事件1932.01.08:桜田門事件、昭和天皇爆殺未遂事件、犯人は李奉昌(上海の亡命政権、大韓民国臨時政府メンバー)1932.01.28:第一次上海事変勃発、停戦協定が成立(5月5日)陸軍は撤収)1932.03.01:満州国建国宣言(執政:溥儀)1932.03.05:血盟団事件、井上日召らが率いる「血盟団」が前大蔵大臣井上準之助、三井合名会社理事長団琢磨を暗殺1932.05.15:5.15事件、犬養毅首相暗殺1932.09.15:日本は満州国を承認する、「日満議定書」1933.02.24:国連総会におけるリットン報告書を元にした勧告案が採択された(賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ))1933.03.04:アメリカ第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)民主党、任期:~1945年4月12日1933.03.27:大日本帝国は国際連盟脱退の通告を行った、国際連盟規約第一条要約:連盟国は2年の予告が必要、脱退時に規約上の義務は履行する事が必要1933.06.17:ゴーストップ事件1933.07.11:神兵隊事件、玄洋社・黒龍会系の団体である大日本生産党、愛国勤労党のメンバーによる、要人暗殺計画が発覚し、その首謀者鈴木善一らが捕らえられた1933.04.07:ドイツ「職業公務員再建法」:官吏・公務員からのユダヤ人等の追放1933.05.31:塘沽停戦協定締結1934.8.19:ヒトラーはドイツ総統(国家指導者兼首相(Fuhrer und Reichskanzler)」)に就任1934.11.20:士官学校事件(11月20日事件)、皇道派青年将校によるクーデター未遂事件(実態は不明) 統制派の辻政信(大尉・中隊長)が佐藤候補生を使い皇道派によるクーデータのでっちあげ? 辻は重謹慎30日、 村中孝次(歩26大尉)、片岡太郎(士官校中尉)、磯部浅一(野砲1・1主計)の停職 (怪文書事件)->村中・磯部免官(1935.08.02)1935.02.19:天皇機関説を菊池武夫が非難(貴族院本会議) 8月3日に「国体明徴に関する政府声明」が閣議決定、9月18日に美濃部達吉は貴族院を辞任、10月15日に国体明徴声明(二度目)1935.07.15:皇道派の教育総監真崎甚三郎の罷免1935.08.12:相沢事件、皇道派に強く共鳴していた相沢三郎中佐が、真崎甚三郎教育総監罷免事件に当たって憤激し、白昼統制派の首領・陸軍省軍務局長永田鉄山少将を陸軍省軍務局長室で斬殺。皇道派粛清を進めていた林銑十郎陸軍大臣は辞職した1935.11.25:冀東防共自治委員会の成立、日華事変直前に河北省東部にあった日本の傀儡政権。冀は河北省の略1935.12.18:冀察(きさつ)政務委員会成立、冀は河北省,察は察哈爾(チャハル)の略1936.02.26:2.26事件、政府要人(高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監)が殺害された1936.11.25:日独防共協定締結1936.12.12:西安事件、張学良・揚虎城らは蒋介石を監禁->第二次国共合作1937.06.04:第一次近衛内閣の成立1937.07.07:戦争.盧溝橋事件おこる(日中戦争の始まり)1937.07.08:中国共産党は対日全面戦争を決定、内外に声明する1937.07.11:現地で停戦協定が結ばれる、閣議では満州・朝鮮よりの派兵を決定1937.07.29:通州事件、通州の冀東(きとう)防共自治政府は通州の日本民間人を殺害1937.08.13:第二次上海事変勃発1937.08.21:中ソ不可侵条約(南京にて)1937.09.22:国共合作成立(第二次)声明(蒋介石)1937.10.05:ルーズベルト大統領、日・独を侵略国家と非難1937.11.02:広田弘毅外相は「満州国の黙認、北支と上海における非武装地帯の設定」等を条件に国民政府に休戦の申し出をおこなう1937.12.13:南京占領1938.01.16:近衛声明「帝国政府は以後、国民政府を対手にせず」1938.03.28:中華民国維新政府発足(南京:梁鴻志行政院長)<==日本の傀儡政権(中支那方面軍)1938.03.31:国家総動員法の公布、勅令による国家の運営1938.07.00:張鼓峯事件1938.10.00:日本は武漢・広東占領1939.02.00:日本は海南島を占領1939.03.00:ドイツ軍はプラハを占領チェコスロバキアの解体を強行1939.05.00:ノモンハン事件1939.06.14:日本軍は天津英仏租界を封鎖1939.07.26:アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告1939.08.00:アインシュタインと数人の科学者がアメリカ大統領ルーズベルトに原子爆弾の製造が理論上可能になった事について書簡を送る1939.08.23:独ソ不可侵条約締結1939.09.01:ドイツ軍はポーランド領内に侵攻1939.09.03:イギリスはドイツに宣戦布告(フランスも追随)1939.09.15:ソ連は日本との休戦協定締結(ノモンハン事件)1939.10.05:ポーランド軍降伏->ドイツ・ソ連による東西分割占領1940.01.26:日米通商航海条約失効1940.02.02:斎藤隆夫議員の反軍演説、米内光政内閣に対し名目もない長期戦にかり出され、生活の困窮に悩む国民の不満を代弁し、日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起し演説した。3月7日、衆議院本会議において、圧倒的多数で斎藤の議員除名を可決した。1940.03.00:中華民国国民政府(南京政府)樹立(主席:汪兆銘)<==日本の傀儡政権1940.04.09:ドイツ軍はデンマークとノルウエーに侵攻1940.05.10:チャーチルは英国首相に就任1940.05.10:ドイツ軍はベルギー・オランダに侵攻1940.06.10:ムッソリーニ(イタリア)は英仏に宣戦布告1940.06.14:ドイツ軍パリに入城1940.06.19:日本はフランスに仏印経由の援蒋物資の禁絶を要求、西原一策(陸軍少将)機関はハノイで橋頭堡を確保1940.06.22:ドイツとフランスは休戦協定の調印1940.07.02:米国は日本への輸出(武器・工作機械・航空用ガソリン等)を許可制に、実質的な変更はなし。1940.07.05:前田一派検挙、目標は米内首相・町田・牧野(伯爵)・原田(男爵)・一木・池田・岡田大将・湯浅(前内大臣)、木戸幸一内大臣は為政者も反省要と言上1940.07.22:米内内閣->第2次近衞内閣1940.09.23:日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐、日本軍は援蒋ルート遮断の確約が実行されるための監視を目的としてフランスとの協定に基づいて北部仏印に進駐。1940.09.26:アメリカ政府、対日鋼・屑鉄輸出禁輸措置を決定1940.09.27:日独伊三国同盟調印、ベルリンで調印された3ヵ国の条約に基づく軍事同盟(バスに乗り遅れるな)1940.10.12:「大政翼賛会(1940年10月12日~1945年6月13日)」結成、政党は自主的に解党を行った1941.01.28:帝国議会で日華事変臨時軍事費累計は174億5000万円と発表1941.03.01:ブルガリア政府、三国同盟加盟、ドイツ軍、ブルガリアの首都ソフィアへ進駐、イギリス軍、アルバニア南部を占領1941.03.08:日米交渉開始(野村吉三郎駐米大使とハル国務長官)1941.03.11:武器貸与法(米国)連合国への軍事援助に関するアメリカ合衆国の法律/F.ルーズベルト、第二次世界大戦中に米国は総額約500億ドルの物資やサービスを連合国に提供した1941.04.28:日ソ中立条約の公布(調印は4月13日)1941.06.22:独ソ開戦1941.07.01:ドイツ・イタリア・ルーマニアの3政府、汪兆銘政府を承認1941.07.02:御前会議、情勢の推移に伴う帝国国策要綱、南仏印への進駐が決定、対英米戦を辞せず、独ソ戦は日本に有利となれば武力を行使する1941.07.17:第三次近衛内閣成立、外相が松岡から豊田貞次郎海軍大将に変更1941.07.24:日本は仏印と「協同防衛協定」を結び南部仏印への日本軍の進駐を認めさせた(「日本の歴史(12)/読売新聞社」による)1941.07.25:米国政府、日本軍の仏印進駐に対し、在米日本資産凍結令を公布1941.07.26:英国政府、在英日本資産凍結と通商条約、日印通商条約、日ビルマ通商条約の破棄を決定1941.07.27:オランダ領インドシナ政府、日本資産凍結を決定1941.07.27:ニュージーランド政府、通商関税及通商航海の暫定取極案を破棄。1941.07.28:南進.日本軍は南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐1941.07.28:日蘭石油民間協定停止1941.07.29:南進.仏印共同防衛に関する日仏間議定書調印。1941.08.01:米国ルーズベルト大統領、対日石油輸出を全面禁止1941.08.14:英米共同宣言(大西洋憲章)1941.09.06:御前会議、帝国国策遂行要領決定(期限付き対米交渉、対米英戦決意)==>10月23日に白紙還元1941.10.08:ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所が設立される1941.10.15:尾崎秀美検挙(ゾルゲ・スパイ事件)、18日ゾルゲ検挙1941.10.18:東条英機内閣発足1941.10.23:9月6日の帝国国策遂行要領を白紙還元・再検討1941.10.30:深夜にUボートは米国駆逐艦ルーベン・ジェイムズ号(英国船の護衛任務)を沈没させた。1941.11.05:御前会議、帝国国策遂行要領を決定、交渉期限を11月末と決め、米国・英国・オランダとの戦争を決定(武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ、陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス)1941.11.26:ハルノートが渡される(米国時間)、日本へは27日午後1941.11.29:天皇は各重臣に諮問、米英との開戦に反対多数(米内光政は「俗語を用いて恐れ入りますが、ジリ貧を避けてドカ貧にならぬよう、十分ご注意を」)1941.11.30:高松宮は天皇に「海軍は今でも避けたい気持ちです」==>天皇は海相・軍令部総長に意見を聞く二人は開戦に対して「相当の確信」を奉答==>天皇は東条首相へ開戦GOを伝える1941.12.01:御前会議、日米開戦が決定される1941.12.08:日本軍は英・米と交戦状態に突入(マレー、シンガポール、真珠湾、フィリピン)、陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸、連合艦隊がハワイの真珠湾を奇襲攻撃太平洋戦争突入1941.12.16:「日独伊共同行動協定」公布
2007.08.14
コメント(0)
第一次世界大戦中の1917年12月12日にロシアは同盟国側と単独休戦条約を締結。 翌年3月3日には同盟国とボリシェヴィキ政府との間でブレスト=リトフスク条約が調印されロシアはポーランド・リトアニア・クールランドの主権放棄、フィンランド・オーランド島からの撤退、ウクライナの独立、コーカサス等のトルコへの割譲を承認した。 第一次世界大戦を連合国(英国・フランスなど)として戦っていたロシアは大戦中にロシア革命が起りロマノフ朝は終焉を迎えた。 革命後に武力で政権を握ったボリシェヴィキ(レーニンが率いる左派の一派)は同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国など)と講和を行い第一次世界大戦から離脱する。 連合国は離脱後のロシアに干渉する。●シベリア出兵について「日本外交史(12)/鹿島研究所出版会」による一部の纏め 1918年3月6日にパルフォア英国外相はグリーン駐日英国大使にシベリア出兵を日本の懇願する旨を電訓した事を珍田駐英大使に内示、珍田駐英大使は本野外相にパルフォア外相との会談などに付いて報告した。○珍田駐英大使による本野外相への報告に於けるパルフォア外相のグリーン駐日大使に対する電訓内容の概要 ボリシェヴィキ政府と敵側との講和条約調印に依り、ドイツはシベリアに進出する、防ぐにはチェリアビンスク若しくはオムスク以東の鉄道の管理を連合国が収める必要があるが、地理上の関係から日本に依頼するしかない。 ロシアに対する内政干渉ではない事をロシアに周知させることが必要。 英仏伊三国政府に於いて日本政府に対して本件を交渉することは米国政府に於いても異存を有していない。└── 英国グリーン駐日大使が訓令を実行していない3月7日に米国モリス駐日大使が本野外相を訪問し、日本のシベリア出兵に反対する米国政府の意向を伝える覚書を手交した。 米・英などとの調整が行われ、1918年8月2日に日本政府はシベリア出兵に関する宣言を告示した。 告示では、ロシアが内乱の為にドイツからの干渉に対応できていないので、シベリアに於いてドイツの意図を阻む目的での出兵としている、またロシアへの内政干渉ではなく目的達成後に速やかに撤退するを述べている。 日本軍は1918年8月12日から約1万二千人がウラジオストクに上陸、18日には大谷大将が到着し日本軍と連合軍の総指揮に当たった。 連合各国の出兵情況: 日本軍:12000、米国軍:9000、英国軍:4900、支那軍:2000、フランス軍:1200、イタリア軍:1000 連合軍はロシアの西側からはウラジオストクから兵を進め、東側からはイギリス・フランスがアルハンゲリスクに兵を進めた。 1918年7月11日にボリシェヴィキ政府はモスクワに移転、連合国外交団にウォログダからの移転を招請、連合国外交団は応じなかったが英軍がアルハンゲリスク進出したので、7月23日にウォログダを引揚げた。 7月29日にはレーニンがロシアは連合国と戦争状態である旨を演説した。 8月5日の午後4時頃にボリシェヴィキ政府武装吏員は英仏両総領事館に進入し、英国総領事を除く領事館員と仏国総領事館員全員を逮捕監禁した。 8月7日にロシアの日本総領事代理・館員・武官はモスクワを出発した。┗━━〓勝手に独断と偏見〓 日本のシベリア出兵は英仏伊の要請があったが、連合国による米国の説得待ちになっていた、米国がGOサインを出し連合国側のシベリア出兵が行われた。 シベリア出兵はドイツとロシアの講和によりドイツに対するロシアの圧力がなくなった為、日本による東からの圧力を望んだと思える。 しかしドイツは1919年6月28日にヴェルサイユ条約に調印、翌年の1920年1月10日に批准、シベリア出兵の意味はなくなる。 1920年1月8日に米国は単独撤退を日本の大井派遣軍司令官に告げている、ランシング国務長官は幣原駐米大使に撤兵に関する覚書を交付した。 日本政府は3月31日付けでシベリア撤兵期について声明を内外に発表した。 概要は「日本の出兵の目的であるチエツク・スローヴアツク軍(原文のまま)の救援完了により任務は終わる、しかしシベリアの政情の安定までシベリアに残る。」 「世界の歴史(26)/読売新聞社」によると、1920年1月に連合国のソ連包囲網は解かれたが、日本がシベリアから撤退したのは1922年10月でサハリンからは1925年1月。 尼港事件は1920年3月~5月に起った。
2007.08.11
コメント(0)
「人種的差別待遇撤廃」について「日本外交史(12)/鹿島研究所出版会」より、もう少し調べてみたい。 日本は1919年2月13日の「国際連盟委員会」で「国際連盟案第二十一条 宗教自由」の附属条項として「人種的差別待遇撤廃」を加えることを提議した。 牧野伸顕は紛争・戦争の原因として宗教・人種問題がある事を述べ、人種による差別の撤廃を求めている。 議長のロバート・セシル(英国)とベルギー・フランスは反対、セシルの「第二十一条」そのものを削除する案に多数が賛成したが、ハウス(米国)が「宗教に関する規定はウィルソン大統領が重視した個条であるので、この削除については一応大統領の意見を確かめたい。万一、大統領が維持することを主張する場合には、さらに委員会を開催・・・・」と述べた。 14日の連合与国総会議でウィルソン大統領は宗教・人種問題に関する規定を削除した第一回修正国際連盟案を提出し演説を行った。 以後、「人種的差別待遇撤廃」について日本は米国・英国・カナダ・オーストラリア・南阿などと話し合う。 修正が加えられ、 第○○条 国民平等は国際連盟の根本主義なるを以って、締約国は他の国際連盟加入国民に対し、すべて平等且つ公正の待遇を付与するの主義を是認することを約す。 さらに、規約前文中に掲載する形式に改め、 「国際連盟加入国民はすべて平等なるの主義を是認し」 と変更、日本側と植民地首相(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニュー・ファンドランド)、スマッツ将軍(南阿)、ロバート・セシル卿との直接会談に於いてカナダ首相ボーデンの妥協案、 「各国家間の平等及び其の国民に対する公平待遇の主義を是認し」 に対しても、ヒューズ首相(オーストラリア)は反対、ヒューズ首相は 「日本代表者の主張に対して同情しないわけではないが、・・・・(提案)の背後に潜伏する思想自体は、オーストラリア人100人中95人が挙って排斥するところである」 と述べ、協議最中に退席した、日本側はスマッツ将軍とマッセー首相(ニュージーランド)にヒューズ首相の説得を依頼、スマッツ将軍の説得にヒューズ首相は、 「日本に対して反対を固持しているのではない。ただ支那人がオーストラリ入国を主張することを憂うるものである。」 「日本の提案が連盟規約案に取り入れられるような場合は・・・(総会の反対演説で)当然移民問題が誘致されるであろう力説し、・・・(通過すれば)連盟規約の調印を拒絶する」 と断言、マッセー首相もヒューズ首相が提案に反対する以上はニュージーランドの政情に顧み同様の態度をとるほかない語った、イギリス政府自体も領土首相らを支持し提案に反対する他無いとして、日本の熟考を求めた。 ハウス大佐(米国)も「ヒューズ首相が総会議の際、移民問題を提起し、連盟案の進捗に妨害を加えるようなことがあれば、アメリカ西部で非常な難題を生じ、大統領は全く苦境に陥り、結局日本の提案に反対するほかないようになるであろう」の意見を開示した。 スマッツ将軍は『単純なる国内事項には、執行委員会は勧告を与うべからざる規定を設くるの件』に揚げた修正条項中に適例として移民法・帰化法を列挙するという修正案をヒューズ首相に提言すると、ヒューズ首相は考慮する旨を答えたと日本側に伝えた。 日本側はスマッツ将軍に日米移民問題を示し絶対反対を述べる。 ヒューズ首相は日本との面会を避けるようになり、ボーデン首相(カナダ)・ボータ首相(南阿)の説得にも反対を固執した。〓勝手に独断と偏見〓 英国の植民地首相達は日本からの移民に関しては一定の理解を示すが、中国・インドからの移民に難色を示す、また選挙対策として「人種的差別待遇撤廃」を受け入れられない事情がある。 「人種的差別待遇撤廃」が移民問題と結びつくと米国も反対の立場を取る事になる。 結局、国際連盟委員会では否決された。 賛成:フランス2名、イタリア2名、ギリシャ、支那、セルビア、ポルトガル、チェコスロバキア、日本2名 反対:英国、米国、ポーランド、ブラジル、ルーマニア ウィルソン大統領は「本件の提議は全会一致を得なかったので、不成立と認めるほかない」と述べた。 1919年4月28日に第五回予備総会議で可決された国際連盟案に対し地元紙ル・タンは 「日本の要求に対し深甚な同情を表するとともに、いつの日か日本の正当な主張を尊重しなければならないような解決に至るであろうことを疑わない」
2007.08.05
コメント(0)
○選挙結果は、「民主、参院第1党確定 自民は初の転落」(共同通信:2007年7月31日掲載記事)によると 民主党・新緑風会:82人->112人(37%増) 自民党:109人->85人(22%減) 公明党:23人->20人(13%減) 共産党:9人->7人(22%減) 社民党・護憲連合:6人->5人(17%減) 国民新党:4人->4人(増減なし) 無所属議員:7人->9人(29%増)└───(注:増減比率は投稿者による) 民主党の圧倒的勝利で、自民・共産が大敗北、議員数が少ない党は比率で見るときつい。 私の感覚は、 安倍内閣の独断専行は止めるべき、自民・公明で歯止めが出来ないのであれば、民主党での国家運営を考えざるをえないが、民主党が権力を握った場合に国民の為に国家運営を行うのかどうか、一年ぐらいは現状のまま民主党の行いを見て見極めをしたい。 その間、民主党が自分達が政権を取りたいを優先するようであれば、衆議院選挙で民主党を大敗させればよい。 民主党が政権を取れば日本は良くなるから、政権交代が最優先の発想は好きではない。 The end justifies the means. は、「嘘も方便(目的が手段を正当化する)」だそうだが冗談ではない、たとえ自民・公明がつまらない国会戦術で国会を運営してきたとしても、民主党はそれに学ぶべきではない、自民・公明と同じ事をする民主党への政権交代では意味が少ない、政権交代が行われる以上はより良い国家運営を行って欲しい。 ようは国民の為の国会の運営を行って欲しい、自民・公明が承認した政府の議案でも、良いもの必要なものであれば、改善は必要だが民主党は拒否しないで前向きに審議して欲しい。 今回の参議院戦で内閣に対する民意が問われたと言うのであれば、参議院選挙では投票に於いて内閣支持の項目を入れて、投票数の半分以上が不支持を投票したら、解散総選挙はどうだろうか、しかしこれでは衆議院と参議院を分けている意味がない。○日本国憲法 第15条〔公務員の選定罷免権、公務員の本質、普通選挙の保障及び投票秘密の保障〕1.公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。2.すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。3.公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。4.すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。 └─── 国民の内閣に対する力、国務大臣・国会議員・裁判官を含む公務員に対して罷免する力が弱い。 国政選挙では内閣総理大臣の信任・罷免(罷免の場合は国会議員からも辞職させる)も行えばよいのではないか。
2007.08.04
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1


