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第一次世界大戦では同盟国(ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリア)と連合国(イギリス・フランス・ロシア)の戦いに日本・イタリア・アメリカが連合国側として参戦。 大戦中に君主国であったロシア帝国とドイツ帝国は君主国でなくなり、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊した。 1918年11月9日にドイツは共和国の成立を宣言、翌日ドイツ皇帝はオランダに逃げ、11月11日にはドイツは連合国との休戦協定に署名。 パリ講和会議が戦勝国により開催されヴェルサイユ条約が作られた、ドイツは1919年6月28日にヴェルサイユ条約に調印、翌年1月10日に批准。 中国は署名せず、1919年9月15日に大統領令でドイツとの平和回復を宣言、1921年5月20日に独支協定を締結した。 米国はヴェルサイユ条約の批准を上院が否決、1921年8月25日にドイツとの単独講和条約を締結した。○米国大統領ウィルソンの十四か条の平和原則(1918年1月8日)は1917年4月に参戦はしているが本格的では無い状態で発表された。 この提案がドイツの降伏を引き出し、1919年のパリ講和会議では、アメリカの中心的な主張となった。 主に、秘密外交の廃止、海洋の自由、関税障壁の撤廃、軍備縮小、国際平和機構の設立、民族自決、植民地問題の公正解決から成り立つ。 国際平和機構は後に国際連盟として結実した。 しかしながら、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。 形式的に東欧で民族自決の原則により独立が認められた国々があったが、アジア・アフリカの西欧列強の支配下に置かれた植民地の独立は反故にされた。└─「十四か条の平和原則」/Wikipediaよりの抜粋 「ウィルソンの十四か条の平和原則」をドイツは信用したのか、この平和原則に日本はどのような感想を持ったのか、「民族自決、植民地問題の公正解決」と日本の「人種的差別待遇撤廃」はどのような関係があるのか。 パリ講和会議に於いて日本全権委員は政府から 「国際連盟について具体的な提案が成立するような形勢となった場合、人種的偏見から生ずることが予想される日本の不利を除去するため、事情の許すかぎり適当な保障方法を講ずるために努力すべき」 の訓令を受けていた、日本は「人種的差別待遇撤廃」について米国などと協議の上で英国と交渉するが英国は反対、米国大統領との協定案に修正を加え1919年2月13日の国際連盟委員会で国際連盟案第21条の宗教の自由の規定の次に一項を加える事を提議した。 「各国民均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り、締約国は成るべく速やかに連盟員たる国家に於ける一切の外国人に対し、如何なる点に付いても均等公正の待遇を与へ、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す。」〓勝手に独断と偏見〓 「ヴェルサイユ条約」にイギリス・フランス・イタリア・日本は批准した。 「十四か条の平和原則」により「国際連盟」が作られたが米国は参加せず、その他の項目も目的を達成できていない事が多い。 (一項目ごとにチェックが必要だが不充分、「海洋の自由、関税障壁の撤廃」などの変遷は知らない) 「十四か条の平和原則」は第二次世界大戦に於ける「ポツダム宣言」の実施に際して完全ではないが生かされていると思う。 大国で君主制が崩壊している。○敗戦が近い1945年の「海軍大将 米内光政覚書」の「米内海相直話 8月12日」では 私は、言葉は不適当と思うが、原子爆弾の投下とソ連の参戦は、ある意味では天佑であると思う。国内情勢によって戦争をやめるということを、出さなくてすむからである。 自分がかねてから時局の収拾を主張してきた理由は、敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾とかソ連の参戦でもない、ただ国内情勢の憂慮すべき事態が、その主にほかならない。└─ は、天皇制崩壊の懸念か。 「人種的差別待遇撤廃」は黄色人種が米国への移民を拒絶され、日本人に対しても制限強化されていた事が大きいと思う。 「如何なる点に付いても均等公正の待遇を与へ、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」 ウィルソンが「十四か条の平和原則」を主張するのであれば、日本の提議に賛成するのは当然。 日本の提議は純粋に黄色・有色人種を代表したものとは思えないが、差別されている側の主張が話し合われるのは重要な事と思う。
2007.07.27
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「昭和天皇独白録」は「大東亜戦争の遠因」という大正時代(1912年7月30日~1926年12月25日)について記された項から始まる。○大東亜戦争の遠因 この原因を尋ねれば、遠く第一世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。 日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。 又青島還付を強いられたこと亦然りである。 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑えることは容易な業ではない。└───「昭和天皇独白録」より 昭和天皇は日米開戦を抑える事ができなかった理由として「国民的憤慨を背景とした軍」を主張している、また「国民的憤慨」の原因については「第一世界大戦後の平和条約での人種平等案」「黄白の差別感は依然残存」「加州移民拒否」「青島還付」を挙げている。 「之を抑えることは容易な業ではない」は、昭和天皇は日米開戦を止めようという意志があったが力が足りなかったであり、明示的ではないが米国との戦争には反対だったを主張している。 「昭和天皇独白録」で指摘されている問題点を調べてみる。○「日本の歴史12/読売新聞社」と『ウィキペディア(Wikipedia)』よりの排日関連◇日清戦争後のドイツ皇帝ウィルヘルム二世による「黄禍論」◇米国がハワイを併合した際に日本移民排斥が起こる◇1900年にカリフォルニアで排日運動が起こる◇1905年:米国は中国人移民を永久に禁止する◇日露戦争後にサンフランシスコの教育委員会は日本人学童をアメリカ人学童から分離を要求、1906年11月実施◇1907年2月:日本人がハワイ・カナダ・メキシコから米国に移る事が禁止された◇1907年7月:大統領はフィリピンの米軍司令官に日本が攻撃してきた場合の準備を命じる◇1907年11月:翌年にかけて「紳士協定」で日本は自発的に移民を制限◇1913年:カリフォルニア州は日本人の土地所有を禁止、借地期間を3年に制限の法律を作る◇1924年:米国の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)が修正・追加され、日系人は「帰化不能外国人」の一員となった○青島還付(「日本の歴史12/読売新聞社」による) 1917年2月(第一次世界大戦中)の日本とイギリス・フランスとの秘密条約で、山東省の旧ドイツ利権と赤道以北のドイツ領南洋諸島を受け取る事を保障された。 第一次世界大戦後の講和会議(1919年1月18日~)で山東問題に対して、日本はドイツの山東省の各種利権を日本へ譲渡させようと山東問題を提案、翌日に中華民国全権顧維鈞はドイツの各種利権は中国に返還すべきと主張、米国は中国、イギリスは日本、講和条約では日英の主張が通る。 中国はベルサイユ条約の調印を拒否、米国は上院が反対し調印しなかった。 1921年3月:皇太子(昭和天皇)はロンドンへ旅行 1921年5月:英国は日英同盟は期限が切れると消滅と通告 1921年11月:ワシントン軍縮会議(翌年2月まで)、「四カ国条約」「九カ国条約」「ワシントン海軍軍縮条約」 「中国に関する九ヶ国条約」(1922年2月6日批准、25年8月6日公布)により、山東省の旧ドイツ利権を中国に返却、その他の中国・満蒙の利権の放棄、日英同盟の破棄、石井・ライジング協定(1917年11月2日の日米交換公文での、中国での日本の利権尊重)の破棄が決定された。〓勝手に独断と偏見〓 米国は日本人の移民に厳しいというより黄色人種の移民に対して厳しい、「黄白の差別感は依然残存」の主張ように、白人が他の人種より上位であるの差別感は大きかったと思える。 日本は第一次世界大戦が始まると対華二十一ヶ条の要求(1915年1月18日)を行った。◇支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。◇両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。 「青島」は「三国干渉」がらみでドイツが99年間租借していた。 日本が租借していた遼東半島の租借期限が1923年に切れる(日露戦争でロシアより引き継いだ)。 「山東省ドイツ権益を日本に譲与」「旅順大連租借期限の延長」「南満州及安奉両鉄道各期限の延長」、日本は利権延長・拡大を要求していた。
2007.07.21
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1941年12月7日(日本時間では8日)、日本海軍は真珠湾を攻撃した。○「ニューヨーク・タイムズが見た 第二次世界大戦」による米国の対応の概要 米国議会では日本の攻撃に、上院82対0、下院388対1、で日本との開戦が決定され12月8日に米国は正式に日本に対し宣戦布告を行った。 12月11日には独・伊が米国に宣戦布告、これに対して米国議会は、 ドイツとの戦争に対し、上院88対0、下院393対0 イタリアとの戦争に対し、上院90対0、下院399対0 米国は12日に独・伊に宣戦布告した。※対日戦に反対票を投じたジャネット・ランキン共和党議員は1917年の対独戦争決定でも反対している。└───○英国の日本に対する宣戦布告(英国外務省は12月8日に駐日英国大使に書簡を送る) 12月7日夜、イギリス政府は、日本軍が宣戦もしくは条件付き宣戦を含む最後通達の形式による事前警告もなしに、マライ沿岸に上陸を試み、シンガポールと香港を爆撃したことを知りました。 国際法および特に日本とイギリス両国が参加する戦争行為の開始に関する、第三ヘーグ条約第一条を明らかに侵してなされた、この挑発されざる侵略の暴挙にかんがみ、東京駐在イギリス大使は日本帝国政府に対し、イギリス政府の名において、両国間に戦争状態が存在することを通告すべく命じられました。└───「第二次世界大戦3/チャーチル」より〓勝手に独断と偏見〓 欧州の戦争に中立を望んでいた米国国民。 独ソ不可侵条約・日ソ中立条約・独ソによるポーランド分割占領・国際連盟はフィンランドに侵攻したソ連を除名、枢軸国寄りだったソ連。 米軍のドイツ軍への挑発に対して、1941年10月30日夜、Uボートは駆逐艦ルーベン・ジェイムズ(英国船の護衛任務)を沈没させる。 ルーズベルトは「この沈没でアメリカの国際的立場は何ら変わるものではない」 ヒトラーは「わたしはドイツの船にアメリカ船舶を発見しただけで砲撃してはならない、攻撃されたら即座に自衛するようにと命じた。 わたしは自衛手段をとらなかったドイツ海軍将校を軍法会議にかけるつもりはない。」○「外交(上)/キッシンジャー」p531によると、 アメリカの参戦は、偉大で勇気のある指導者の並たいていでない外交努力が達成した大きな成果だった。 3年かからずに、ルーズベルトはあくまでも孤立主義的な国民を大規模な戦争に導いた。 1940年(1941年の間違い)5月まで、アメリカ人の64%は平和の維持はナチスの敗北より重要だと考えていた。 8ヵ月後の1941年12月、真珠湾攻撃の直前、比率は逆転した。 ナチスの勝利を妨げることより平和を望むのはたった32%になっていた。└─── 日米開戦に対するヒトラーとチャーチルの認識は異なる。○「アドルフ・ヒトラー3/ジョン・トーランド」による日米開戦を聞いたヒトラー 7日に日本と米国が戦争状態になった事を聞いたヒトラーは、喜びの声を隠せなかった。 「われわれは戦争に負けるはずがない!、われわれには三千年間一度も負けたことのない味方ができたのだ!」└───○真珠湾攻撃直後のチャーチル首相 「私が、アメリカ合衆国をわれわれの味方につけたことは、私にとって最大の喜びであったと宣言しても、私がまちがっていると考えるアメリカ人はいないだろう。 私には事件の進展を予測できなかった。 日本の武力を正確に見積もっていたなどというつもりはないが、しかしいまやこの時点で合衆国が完全に、死に至るまで戦争に入ったのだということが私にはわかった。 それゆえわれわれは、結局はすでに戦争に勝っていたのである。」└───「第二次世界大戦3/チャーチル」より 日本の指導部はドイツの欧州での勝利により米・中との問題が解決すると考え、ドイツが米国と単独講和を行う事を懸念していた。 日米開戦後の1941年12月11日には「日独伊共同行動協定(単独不講和及び新秩序建設に関する日独伊三国協定)」が調印されたが、昭和天皇独白録では「早く独逸が破れてくれればいいと思った程」と後悔している。 「第二次世界大戦3/チャーチル」によれば、「(ソ連が対独戦に参戦すると)イギリスの共産主義者はそれまで「資本主義的、帝国主義的戦争」を非難してしたのに、「今こそ第二戦線」をと英国軍の欧州大陸への再上陸を望んだ。」 当時の戦争反対は自分の意に沿わない戦争には反対か、それとも、こんな発想が平和ボケの証拠なのか。
2007.07.16
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「日本国との平和条約」はサンフランシスコで1951年9月8日に署名され、翌年の4月28日に発行し日本は独立が認められた。 (ソ連・中華民国・中華人民共和国などとの関係修復は後に個別に行われた。)○「日本国との平和条約」 第一条(a) 日本国と各連合国との間の戦争状態は,第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。(b) 連合国は,日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。└─ 9月7日には「サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説」が行われている。○吉田首相の受諾演説の抜粋 奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。 私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。 日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。 1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。 その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。 また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。└─外務省条約局法規課『平和条約の締結に関する調書VII』、118-122頁./戦後日本政治・国際関係データベース○「日本国との平和条約」(※沖縄・小笠原関連と千島列島・樺太について)◇第二条(a) 日本国は,朝鮮の独立を承認して,済州島,巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。(b) 日本国は,台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。(c) 日本国は,千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。◇第三条 日本国は,北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。 このような提案が行われ且つ可決されるまで,合衆国は,領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して,行政,立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。└─〓勝手に独断と偏見〓 日本は独立し、朝鮮・台湾の権利・権原及び請求権を放棄、千島列島・樺太の一部の権利・権原及び請求権を放棄した。 琉球諸島・小笠原群島等は、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくまでは、 「合衆国は,領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して,行政,立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」 吉田首相の演説では、沖縄は「1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待」、北方領土は「ソ連軍に占領されたまま」等の主張になっている。 ソ連は米英ソによるヤルタの密約により当然のつもりか、日本が受諾した「ポツダム宣言」には「カイロ宣言の条項は履行せらるへく」の文言があり、「カイロ宣言」に於いて、 「三大同盟国は日本国の侵略を制止し且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり右同盟国は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非す又領土拡張の何等の念をも有するものに非す」 終戦直前の日本側の「ソ連を参戦させず好意的態度に誘致する為の代償」は「日露戦役前の情況に復帰、朝鮮の自治は保留、南満州は中立地帯」
2007.07.11
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2007年6月30日に久間章生防衛相は「原爆投下はしょうがない発言」を行い、7月3日に防衛相を辞任した。○久間防衛相の原爆「しょうがない」発言日本が戦後、ドイツみたいに東西ベルリンみたいに仕切られないで済んだのは、ソ連が侵略しなかったことがある。日ソ不可侵条約(※正しくは日ソ中立条約)があるから侵攻するなんてあり得ないと考え、米国との仲介役まで頼んでいた。これはもう今にしてみれば、後になって後悔してみても遅いわけだから、その当時からソ連は参戦するという着々と準備をしていて、日本からの話を聞かせてくれという依頼に対して「適当に断っておけ」ぐらいで先延ばしをしていた。米国はソ連が参戦してほしくなかった。日本の戦争に勝つのは分かった。日本がしぶといとソ連が出てくる可能性がある。ソ連が参戦したら、ドイツを占領してベルリンで割ったみたいになりかねないというようなことから、(米国は)日本が負けると分かっていながら敢えて原子爆弾を広島と長崎に落とした。長崎に落とすことによって、本当だったら日本もただちに降参するだろうと、そうしたらソ連の参戦を止めることが出来るというふうにやったんだが、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連が満州国に侵略を始める。幸いに北海道は占領されずに済んだが、間違うと北海道はソ連に取られてしまう。本当に原爆が落とされた長崎は、本当に無傷の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ。米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという、そういう思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけないと思った。└───「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記/阿比留瑠比」(2007/06/30 21:13)よりの抜粋 米国は原爆が完成するまでは、ソ連の対日戦参戦を期待していたが原爆の完成により、ソ連の対日戦参戦は必要ではなくなった。 ソ連はヤルタの密約で千島列島や南樺太をソ連の領土にする事を米英に認めさせている、ソ連が参戦前に戦争が終わってしまうのは不味い、ソ連参戦は当初1945年8月15日に予定されていたが、原爆の完成により8月9日に変更される。 久間氏の 「ソ連が参戦したら、ドイツを占領してベルリンで割ったみたいになりかねないというようなことから、(米国は)日本が負けると分かっていながら敢えて原子爆弾を広島と長崎に落とした。」 難しい話題を態々と思う。 日本が降伏したのは、原爆ではなくソ連の参戦の方が大きいと思う、空襲・沖縄敗北・ドイツ降伏では無条件降伏・ポツダム宣言受諾を決断していない。 鈴木首相は7月28日にポツダム宣言はカイロ宣言の焼き直しとして「黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまで邁進するのみである」と述べている。 ソ連参戦により、国体護持を条件してのポツダム宣言受諾に急速に進みだす。 降伏が遅れた理由として、統帥部の本土決戦の意志が大きかったと思う。 最高戦争指導会議の構成員は首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長で構成されていたが、早期講和を主張していた米内海相と東郷外相はソ連参戦と原爆投下が講和を早めたの認識を示している。 「あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ。米国を恨むつもりはない。」 引退後にでもすれば良い発言だが、終戦を早めたは同意したい。 ソ連参戦と原爆投下がなければ本土決戦が行われ、日米の被害は原爆による被害を差し引いたとして増大したかどうか、ソ連参戦なしの場合は抑留がどうなるのか、本土決戦は本当に行われるのか等の考慮が必要と思う。 1975年10月31日に米国訪問から帰国した昭和天皇は日本記者クラブの記者団との会見に於いて、「戦争終結に際し広島に原子爆弾が投下されたことを、どのように受け止められましたか。」の質問に、 「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。」 大量破壊兵器の使用反対、非戦闘員への無差別攻撃反対が主張の前提にあると思うが、「しょうがない」「やむを得ない」は米国への配慮か。
2007.07.07
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