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ドイツのポーランド侵攻に対して、英・仏はドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まる。 英・仏は独・ソによるポーランド分割占領を許す事となり、ソ連はフィンランド侵攻で国際連盟から除名される。 英・仏はソ連には宣戦布告をせず、宣戦布告した対独戦には積極的ではない。 ドイツはデンマーク・ノルウェーに侵攻、また西へ向いベルギー・オランダ・ルクセンブルグへ侵攻、そしてフランスへ、英国軍は欧州本土から逃げ出しドイツ軍はパリを占領した。 ドイツの西欧州への侵攻の結果、仏印(フランス領インドシナ:現在のベトナム・ラオス・カンボジア)と蘭印(オランダ領東インド:現在のインドネシア)は弱い存在となり、日本はドイツとの関係が重要になった。 日本が仏印から求めるのは援蒋ルートの遮断と米、蘭印からは石油。 日本は北部仏印に進駐し米国は日本に経済制裁を行う、日本は「バスに乗り遅れるな」とドイツとの「日独伊三国同盟」の締結を行った。○日本国、ドイツ国及びイタリア国間三国条約(1940年9月27日調印)第一条 日本国は独逸国及伊太利国の欧州に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す第二条 独逸国及伊太利国は日本国の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す第三条 日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に基く努力に付相互に協力すべきことを約す更に三締約国中何れかの一国が現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国に依て攻撃せられたるときは三国は有らゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に援助すべきことを約す第五条 日本国、独逸国及伊太利国は前記諸条項が三締約国の各とソヴィエト連邦との間に既存する政治的状態に何等の影響をも及ぼさざるものなることを確認す└─『官報』第4137号、昭和15年10月21日 よりの抜粋 三国同盟は欧州・大東亜に於いて其々が主となる事を認め、米国の参入には協同して対抗する、ソ連との関係は悪化させないが基本方針。○西欧州でのドイツの勝利から「日独伊三国同盟」(1940年)06.10:ムッソリーニは英仏に宣戦布告06.14:ドイツ軍パリに入城06.19:日本はフランスに仏印経由の援蒋物資の禁絶を要求、西原一策(陸軍少将)機関はハノイで橋頭堡を確保06.22:ドイツとフランス(ヴィシー政権)休戦協定の調印07.02:米国は日本への輸出(武器・工作機械・航空用ガソリン等)を許可制に07.22:米内内閣->第2次近衞内閣09.06:日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐09.23:フランスは日本軍の北部仏印を認め、仏印当局は「この進駐は、日本が仏印で日中戦争継続のため、特別の便宜を獲得し、日本は仏印におけるフランスの主権、および領土保全を尊重するという協定の成立にもとづくものである」と釈明した(「昭和の宰相-3」より)09.26:アメリカ政府、対日鋼・屑鉄輸出禁輸措置を決定09.27:日独伊三国同盟調印、ベルリンで調印された3ヵ国の条約に基づく軍事同盟〓勝手に独断と偏見〓 「三国同盟締結」により日本はドイツが望まない対米戦に向う事になる。○「昭和天皇独白録」に於ける、三国同盟締結に至る分析 ソ連を相手として構想された日独同盟論は独ソ不可侵条約突発のため、平沼内閣の倒壊と同時に一時その姿を潜めたが、この頃に至り、欧州に於る独逸勢力の拡大と東亜に於る日米争覇と趨勢は、以前とは異つた全く別箇の構想の下に再び日独同盟論の台頭を促した。 同盟論者の趣旨は、ソ連を抱き込んで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独逸の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあつたのである。└─○三国同盟成立後9月28日の新聞社説(「太平洋戦争と新聞/前坂俊之」による)◇東京朝日社説「日独伊同盟の成立」では「国際史上画期的の出来事として誠に欣快に堪えざるところである。いかなる難局に遭遇することあるも、挙国一心となりこれを突破せねばならぬ」◇東京日日社説「詔書換発―日独伊三国条約成る」では「この世界の夜明け前に当って新世界のチャンピオンたる日独伊三国が改めて緊密な関係に入ったことは、正に歴史の明日を決定するものであると同時に、春風に種を散ずるごとく、新しき希望を地球上に布くものでなくて何であろう」└─ 昭和天皇はドイツ意図は米国の参戦防止と述べ、上記の新聞は締結を評価している。
2007.09.27
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1941年の東アジアで、日本以外に独立を保っていた国は、中華民国、モンゴル、泰、ネパール王国、ブータン王国。 だが、対等に欧州の国々と関係を結べていたとは思えない、関税自主権・領内に他国の軍隊の駐留などの問題を抱えていたと思う。 現在の日本と米国との関係と、当時の満州と日本、中国と日本の関係の違いを考えるのも面白いと思うが、当時の東アジアの現状を調べてみたい。※以下の国別データは主に外務省のデータによる。●主権を持っていた国○中国◇中華民国(1912~1949)○モンゴル◇1911年:辛亥革命、中国(清朝)より分離、自治政府を樹立◇1924年:社会主義国家となる(ソ連の影響下)○泰(タイ王国<チャクリー王朝(1782-現在)>)◇1932年の立憲革命以降、軍部主導の政治(->1992年以降民主化)○ネパール王国◇1769年:プリトゥビ大王による国家統一◇1846年:ラナ将軍家による専制政治◇1951年:王政復古○ブータン王国◇1907年:ウゲン・ワンチュクがラマ僧や住民に推され初代の世襲藩王に就任、現王国の基礎を確立。●日本領あるいは影響下○台湾:日本統治(1895~1945)○朝鮮:日本統治(1910~1945)○満州:満州国(1932~1945)●仏印(仏領インドシナ)○ベトナム◇1883年:仏の植民地。(清の影響下より)◇1945年:ベトナム民主共和国成立。○カンボジア◇1953年:カンボジア王国としてフランスから独立○ラオス人民民主共和国◇1353年:ランサーン王国として統一◇1899年:フランスのインドシナ連邦に編入◇1949年:仏連合の枠内での独立◇1953年10月22日:仏・ラオス条約により完全独立。○広州湾租借地◇1943年:日本軍による占領◇1945年:中華民国に返還●蘭印(蘭領東インド)、ポルトガル領○インドネシア◇1945年:オランダより独立宣言○東ティモール◇16世紀前半:ポルトガルはティモール島を征服。◇17世紀半ば:オランダ、西ティモールを占領。◇1701年:ポルトガル、ティモール全島を領有。◇1859年:リスボン条約で、ポルトガルとオランダの間でそれぞれ東西ティモールを分割。◇1942年:日本軍、ティモール全島を占領◇1945年:インドネシア共和国独立。西ティモールはインドネシアとして独立。 ◇1975年:東ティモール民主共和国の独立宣言(ポルトガルよりの独立)。◇1976年:インドネシア政府、東ティモールを第27番目の州として併合。◇2001年9月20日:東ティモール行政府(ETPA)発足●米領○フィリピン◇1571年:スペインの統治開始◇1898年:米西戦争中の6月12日、アギナルド将軍が独立を宣言、米西パリ講話条約調印により、米の統治開始◇1935年:独立準備政府(コモンウェルス)発足◇1942年:日本軍政開始◇1946年7月4日:フィリピン共和国独立●英領○香港◇1997年7月1日:中国へ返還○インド◇1947年:イギリス領より独立○パキスタン・イスラム共和国◇1947年:英領インドより独立○バングラデシュ人民共和国◇1947年:印パ分離独立時はパキスタンへの帰属(東パキスタン)◇1971年12月:パキスタンから独立(ベンガル人としての独立戦争(第三次印パ戦争)後)○スリランカ◇1948年:英連邦内の自治領として独立○モルディブ共和国◇1887年:英国保護国◇1965年7月:英国保護国から独立、9月国連加盟◇1968年11月:共和制に移行◇1985年7月:英連邦に正式加盟○ミャンマー連邦(ビルマ)◇1886年:英領インドに編入◇1948年1月4日:独立。○マレーシア◇1957年:マラヤ連邦独立◇1963年:マレーシア成立(シンガポール、サバ、サラワクを加える)◇1965年:シンガポールが分離、独立○シンガポール◇1959年:英国より自治権を獲得、シンガポール自治州となる。◇1963年:マレーシア連邦成立に伴い、その一州として参加。◇1965年8月9日 マレーシアより分離、シンガポール共和国として独立。○ブルネイ・ダルサラーム国◇16世紀:第5代スルタン・ボルキアの統治下、ボルネオ島全域とフィリピン南部を統治、ブルネイ王国の最盛期◇1888年:英国と保護協定を結び、外交を英国が担当◇1906年:内政を含め英国の保護国化◇1959年:内政の自治を回復◇1984年:英国より完全独立
2007.09.23
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1931年9月18日に満州事変、1937年7月7日に盧溝橋事件、12月13日には南京を占領。 この間に日本は、国際連盟・軍縮の取決め・中国に対する列国の利権協調から脱退した。○パリ不戦条約(1929年7月25日公布)第一條 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互關係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因の如何を問はす平和的手段に依るの外之か処理又は解決を求めさることを約す└── 民主主義の世の中に於ける国際紛争の平和的解決が先進諸国に於いて推奨される世の中に成りつつある、自分たちの既得権益を守るが前提であると思う。 日本は、「條約第一條中の『其の各自の人民の名に於て』なる字句は帝国憲法の條章より観て日本国に限り適用なきものと了解することを宣言す」の条件を付け、民主主義でない事を主張している。 日本には天皇・皇族・華族なる身分制度が存在し、徴兵制はあるが、行政・司法の長を選ぶ事は国民には直接・間接に於いてできない、統帥部(陸軍・海軍)に関しても同様、国政に於いて日本国民が行えるのは25歳以上の男子により衆議院議員を選ぶこと。 昭和天皇が衆議院選挙で多数を占めた政党の長を首相に任命した時期もあったが、犬養首相が5.15事件で殺害されてからは、官吏(文官・武官)出身者と皇族・華族が首相に任命され組閣している。○「治安維持法(昭和16年法律第54号)の第一章 罪」では、第一条 国体を変革することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は死刑又は無期若は七年以上の懲役若は禁錮に処し情を知りて結社に加入したる者又は結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は三年以上の有期懲役に処す第七条 国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布する事を目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は四年以上の懲役に処し情を知りて結社に加入したる者又は結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は一年以上の有期懲役に処す第十条 私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者又は情を知りて結社に加入したる者若は結社の目的遂行のためにする行為を為したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す└── 戦前の日本では民主主義に向った時期もあったが、共産主義は否定されるべき思想だし、民主主義も肯定される思想ではない。○国際連盟脱退の通告(1933年3月27日) 国際連盟の勧告は1931年9月以前への現状復帰を望まず、日本の権利・利益を承認が必要とし満州の自治を勧めている、満州に対する主権は支那に属す事を前提とし満州国を国際連盟は承認しなかった。○ワシントン海軍軍備制限条約廃止通告(1934年12月29日)、ロンドン軍縮会議脱退通告(1936年1月15日) 軍備に制限がなくなると、国が持つ資源と技術力・開発力が勝敗の要因となり、開発競争が始まる。◇帝国国防方針(1936年6月8日)では(概要) 米国・ソ連・中華民国・英国に備え、東亜大陸・西太平洋を制する為の戦時兵力として、 陸軍兵力:50師団、航空142中隊 海軍兵力:主力艦12隻、航空母艦12隻、巡洋艦28隻、水雷戦隊6隊(駆逐艦96隻)、潜水艦隊若干(潜水艦70隻) 航空兵力:65隊◇国策の基準(1936年8月7日)では、仮想的を陸軍はソ連とし在満鮮兵力を充実させ、海軍は米国とし西太平洋の制海権の確保を目指した軍備充実に進む。○九国条約国会議不参加に関する政府声明(1937年10月27日) 第二次上海事変は1937年8月13日に始まり日本軍は南京に進む。 政府声明では、今回の侵攻は自衛手段であり九国条約違反ではない、支那の領土侵略の意図はなし、外国の在支権益は尊重、列強と共に支那に対する文化的・経済的協調を期すとしている。〓勝手に独断と偏見〓 東アジアに於いて日本は主導権を握りたいが米英はそれを望んでいない(日本が南に進むと米・英・蘭の石油利権がある)、ドイツは日本が東アジアで主導権を握る事を問題としない。 日本は米英とは距離を取りドイツに近づく、第二次世界大戦が始まりフランスがドイツ下になり、仏印を日本の勢力圏に加える事が可能となると、日本の南進が行われる事となった。
2007.09.23
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第一次近衛文麿内閣(1937年6月4日~1939年1月4日)では、盧溝橋事件(1937年7月7日)・通州事件(7月29日)・第二次上海事変(8月13日)が起る。 上海派遣軍(司令官は松井石根大将、12月2日より朝香宮鳩彦王中将)が編成され上海に増援(8月22日到着)、10月26日には上海を包囲していた中国軍が敗走、日本軍は南京に向う12月7日に蒋介石は南京を脱出、12月13日に日本軍は南京を占領。 「支那事変処理根本方針」が御前会議で決定され(1938年1月11日)、1月16日には近衛内閣の政府声明「国民政府を対手とせず」が発表された。○「支那事変処理根本方針」の「日支媾和交渉条件細目」1.支那は満州国を正式承認すること2.支那は排日及び反満政策を放棄すること3.北支那及び内蒙に非武装地帯を設定すること4.北支は支那主権の下に於いて日満支三国の共存共栄を実現するに適当なる機構を設定し之に広汎なる権限を賦与し特に日満支経済合作の実を挙ぐること5.内蒙古には防共自治政府を設立すること其の国際的地位は現在の外蒙に同じ6.支那は防共政策を確立し日満両国の同政策遂行に協力すること7.中支占領地域に非武装地帯を設定し又大上海市区域に就ては日支協力して之が治安の維持及び経済発展に当たること8.日満支三国は資源の開発、関税、航空、交通、通信等に関し所要の協定を締結すること9.支那は帝国に対し所要の賠償をなすこと○「国民政府を対手とせず」政府声明(近衛内閣) 帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふるため今日に及へり。 然るに国民政府は帝国の真意を解せず慢りに抗戦を策し、内民人塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。 仍て帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政府の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及び主権並びに在支列国の権益を尊重するの方針には豪もかはる所なし、今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し。 政府は国民が此の重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望して止まず。○ソ連・英国・米国による蒋介石への援助 日中戦争は中国共産党以外の日・中・米は戦争とは主張せず、日米開戦後に戦争となる。 その間、日本への経済制裁が進み、蒋介石政権には援蒋が行われる。◇援蒋ルート(Wikipediaよりの抜粋)1.香港ルート:1938年10月に広州を日本軍に占領されると遮断された。2.ビルマルート:日本軍が全ビルマを平定した1942年に遮断されるが、英米はインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空輸に切り替え支援を続けた、また新自動車道路(レド公路)が北ビルマの日本軍の駆逐後の1945年1月に開通。3.仏印ルート:1940年の北部仏印進駐時に日本軍によって遮断された。4.ソ連からのルート:1941年6月に独ソ戦が開始されると物資の供給が途絶えた。〓勝手に独断と偏見〓 中国側は日本との戦争に積極的になり本格的な戦争になる、蒋介石を援助する米・英・ソ、日本軍は首都南京を占領するが、首都は中国を移動する。 第一次近衛内閣は外相が広田弘毅、陸相が杉山元、海相が米内光政、参謀総長は閑院宮戴仁(次長は今井清・多田駿)、軍令部総長は伏見宮博恭王(次長は嶋田繁太郎)。※「昭和天皇独白録」では、「(蘆溝橋事件は)支那の方から、仕掛けたとは思はぬ」、「当時参謀本部は事実石原莞爾が采配を振るっていた」 近衛首相は「国民政府を対手とせず」、蒋介石政権は参ったとは言わない、中国との戦争に日本は疲弊する。 南京占領(1937年12月13日)後の1938年3月31日には「国家総動員法」が公布され、1940年7月7日からは、例外はあるが首飾・ネクタイピン等が製造禁止となり、10月7日からは高価な下駄や草履等の販売が禁止され、1941年には砂糖が配給制となった。 後に昭和天皇は日米開戦を主張する杉山参謀総長に対して「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。その当時の陸相として、『事変は一ヶ月位にて片付く』と申せしことを記憶す。しかるに四ヵ年の長きにわたりまだ片付かんではないか」と述べている。 日中戦争で国民の多くは得をしていない、1937年8月5日の『他山の石』に於いて桐生悠々は、 「この戦争で儲けるものは軍需工業者と新聞社だろう。彼等が戦争を歓迎するのは無理はない。」
2007.09.19
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満州事変から始まる日本の中国への侵攻は、1933年5月31日に調印された塘沽停戦協定により長城線で止まった、だが日本軍は長城を越え華北へ勢力を拡大する。 梅津(支那駐屯軍司令官)・何応欽協定(1935年6月10日)で河北省からの国民党機関と中央軍の撤退を要求し認めさせた。 土肥原(奉天特務機関長)・秦徳純協定(1935年6月27日)で察哈爾省からの国民党機関と宋哲元軍の撤退を取極めた。 11月25日:冀東防共自治委員会(翌月に自治政府に改組)が成立/首班:殷汝耕、冀は河北省の略。 12月18日:冀察(きさつ)政務委員会成立/委員長:宋哲元、冀は河北省,察は察哈爾(チャハル)の略。 日本軍は長城の内側に接する地域から、蒋介石政権の力を取り除こうとしている、華北分離工作が進む。 日本では1935年8月3日には国体明徴に関する政府声明が閣議決定され、1936年2月26日には2.26事件が発生し岡田啓介内閣は崩壊、廣田弘毅内閣・林銑十郎内閣(1937年2月2日~1937年6月4日)と移る。 この期間に「北支処理要綱」が3回作成された(1936年1月13日、1936年8月11日、1937年2月20日)○「北支処理要綱」 主眼は、 「北支民衆を中心とする自治の完成を援助し以って其の安居楽業を得せしめ且つ日満両国との関係を調整し相互の福祉を増進せしむるにあり之が為新政治機構を支持し之を指導誘掖して其の機能の強化拡充を期す」 要綱では、 支那駐屯軍司令官に華北5省(河北、山東、山西、察哈爾、綏遠)の南京政権よりの分離政策を指示している。 第二次では防共が加えられ南京政権に北支政権に自治権限を付与させる事、第三次では日満支の諸政策に南京政権を協力させる事を述べている。○西安事件 1936年12月12日、東北軍将校の率いる一隊は、10日に西安で3ヶ月以内に共産党の掃討を命じた蒋介石を逮捕・監禁した。 張学良と楊虎城は全国に蒋介石の生命の保証を通電し、8項目の主張を提案した。1.南京政府を改組し各党各派の意見を受け入れその共同責任で救国にあたる2.いっさいの内戦を停止する3.上海でとらえられた愛国的領袖をただちに釈放する4.いっさいの政治犯を釈放する5.民衆の愛国運動が自由にできるようにする6.人民の集会・結社などいっさいの政治的自由と権利を保証する7.孫中山の遺嘱を確実に守る8.ただちに救国会議をひらく 蒋介石は開放され26日に南京へ帰還した。 1937年3月1日、国民政府軍と共産軍との基本問題について二原則が確認された1.内戦を停止し抗日のため一致協力すること2.国民大会を開き各界の人材を登用すること 1937年3月4日、国民政府軍と共産軍との妥協案として1.中共軍は国民政府軍委員会の指揮に服従し、その指定する駐屯地に駐在すること2.政府は中共軍に軍費(第一回は50万元)を支給する で解決を見た。※以上は主に「太平洋戦争への道 開戦外交史 -3」よりの抜粋・概要〓勝手に独断と偏見〓 長征後に中国共産党は陝西省の延安におり、国民政府の共産党掃討軍は延安の南へ約200km強の西安に居る。 共産党掃討軍の一翼を担う東北軍の長である張学良は蒋介石を監禁してしまった。 当時、本拠地の満州を失った張学良、長征後まもない中共軍を掃討しようとする国民政府、張学良と中共軍は危機的状況にあり接近、西安にて張学良と周恩来は抗日を蒋介石に約束させた。 蒋介石側には内乱を優先する意見も多かったが、抗日優先となった。 長城を越えて勢力範囲を広げる日本軍、内乱を続ける中国、結束して日本に対抗するのがよいに決まっている、中共軍は国民政府軍と共同戦線をはり軍費まで支給される事になり壊滅の危機を脱した。 不思議なのが張学良で、父親の張作霖を関東軍に殺害され、西安事件では抗日へ中国を導く事になった、張学良は西安事件後に蒋介石と共に南京へ行き歴史から消える、1991年に釈放、2001年10月15日にハワイで亡くなっている。 張学良と周恩来は蒋介石を殺さなかった、中国を纏める力が蒋介石にしかなかったなかった為と思える。 盧溝橋事件(1937年7月7日)後の8月21日に国民政府とソ連の間に中ソ不可侵条約が結ばれ、1945年の日本降伏後にはソ連は蒋介石と中ソ友好同盟条約を締結している。 ソ連は西安事件から戦後に於いてイデオロギーではなく日本と戦える蒋介石政権を支持していたと思う。
2007.09.16
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2.26事件は、満州事変が終わり日本による華北分離政策(華北を満州国化、蒋介石政権から独立した領域とする)が進むなか行われた。 決起将校の「蹶起趣意書」は、 現人神である天皇の統帥の下に全世界へ天皇を現人神とする領域を広めて行く時である、しかし元老・重臣・軍閥・財閥・官僚・政党等が外政内政での問題の元凶となっている。 の内容で始まる、決起将校が具体的な問題として挙げているのは、 「倫敦海軍条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪、共匪大逆教団等と利害相結んで陰謀至らざるなき等」 学匪は「天皇機関説」を主張した者達の事だろう、一方、 「中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず」 と、血盟団事件・5.15事件・相沢事件は肯定している。 決起将校達は天皇の下に平等を目指して「君側の奸臣、軍賊を斬除」、その後の処置は真崎甚三郎(軍事参議官)・川島義之(陸軍大臣)経由で天皇に委ねる形を取った。 決起将校達が言う「君側の奸臣・軍賊」を斬除は真崎の望んだ事でもあったし、彼らの行った正義は天皇に理解されるとの認識があったと思う。 磯部浅一(主計)は村中孝次(大尉)と共に士官学校事件で停職となり「粛軍に関する意見書」配布で退役処分となっている、2.26事件では共に死刑。 磯部は獄中で事件の4日間を「行動記」に記した。○「行動記」の一部(2月26日の午前中)の概要◇丹生誠忠部隊(香田清貞・村中孝次・磯部が参加)は陸相官邸へ進む。 途中、首相官邸から数発の銃声を聞く、磯部の感想、 云うに云えぬほど面白い、あの快感は恐らく人生至上のものであろう。◇陸相官邸で磯部達は陸相に面会を求めるが、陸相夫人が主人は風邪気と断る。◇午前6時30分、陸相官邸にて陸相と会見。 香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、図上説明、陸相に対する要望事項を口述。 小松秘書官は側にて筆記。◇渡辺襲撃部隊より目的達成の報告あり、陸相は「皇軍同士が打ち合ってはいかん」、 香田と磯部は「渡辺大将は皇軍ではない!!」、 陸相は「皇軍ではないか」といい、なるほどといった態度。◇陸相は要望事項に対して「勅許を得なければならぬものは自分としては何とも云えぬ」◇磯部らは、真崎・山下などの招集依頼し秘書官は電話連絡、満井・鈴木も招致。◇真崎の自動車が到着、磯部の 「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか」 に対して、 「とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる」 磯部は「どうか善処していただきたい」とつげ、真崎はうなずきながら邸内に入る。◇磯部は斎藤少将に対して「問題は簡単です、我々のしたことが義軍の行為であるという事を認めさえすればいいのです、閣下からそのことを大臣、次官に充分に申し上げて下さい。」 斎藤は「そうだ義軍だ、義軍の義挙だ、ヨシおれがやる。」◇陸相官邸の広間の椅子に石原莞爾大佐が座っている。 栗原が「大佐殿の考えと私共の考えは根本的に違うように思うが、維新に対していかなる考えをお持ちですか」 石原は 「僕はよくわからん、僕のは軍備を充実すれば昭和維新になるというのだ」 栗原は磯部らに向って「どうしましょうか」と、ピストルを握っている。 磯部らが黙っていたら栗原は引き下がった。◇石原が斎藤の言動に対して「云う事をきかねば軍旗をもって来て打つ」、 斎藤は石原に向かい「何を言うか」という態度で応酬。◇午前十時ごろ陸相は参内、真崎も出ていく。└─「ドキュメント日本史-2」より 野中四郎・河野寿は2月29日に自殺、7月12日には香田清貞・安藤輝三など決起の中核だった15名が銃殺された。 翌年の1937年8月19日に村中孝次・磯部浅一・西田税・北一輝は死刑となり、9月25日には真崎甚三郎に無罪判決。 磯部浅一が記した1936年8月11日の「獄中日記」では、 日本が天皇・重臣・元老・貴族・軍閥・政党・財閥の独裁国家であることに反対し、特権階級の独裁政治は天皇を蔑ろにしていると指摘、日本国民はこの独裁政治の下にあえいでいると主張。 天皇が決起将校を銃殺した事や統帥権を干犯した者たちを側に置く事を非難し、磯部の同志を天皇の側に呼ぶ事を懇願する。 1937年11月に戦艦大和の建造が始まる、1938年3月には国家総動員法が発令され軍部主導の国家運営が進む。
2007.09.14
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2007年9月12日に安倍晋三首相が辞任を表明、衆議院本会議に於いて13時から始まる予定だった安倍首相の所信表明演説に対する代表者質問が取り止めとなった。 (代表者質問は長妻昭議員などが予定されていた) 以下は首相官邸のHPよりの抜粋、簡単な安倍首相の発言の流れ○APEC首脳会議出席における内外記者会見(9月9日)(質問) インド洋での給油活動の継続の関連でお伺いするが、先ほど総理は継続に全力を挙げて取り組むと、職を賭して取り組んでいくと仰ったが、これは継続が叶わなかった場合には、内閣総辞職するという覚悟で臨むと、そういうふうに理解してよいか。 (安倍総理) 私が申し上げたのは、継続を可能にするためには、あらゆる努力を払わなければいけないということである。私の責任において、職責において、あらゆる全ての力を振り絞って、職責を果たしていかなければならないと考えている。当然、私は、私の職責にしがみつくということはない。○第168回国会における安倍内閣総理大臣 所信表明演説(9月10日) 国民の皆様からのご意見を十分受け止め、政策をしっかりと説明しながら、国政に邁進してまいります。 私の目指す政治とは、我が国を取り巻く厳しい環境変化に対応しながら、日本が本来持っていて、今も生活の中に息づいている、自律の精神、他者への思いやり、温かさといった価値を守り、伸ばしていくこと。そして、国民一人一人が、日々の生活において、真の豊かさ、潤いを実感できるようにすること。すなわち、「美しい国」創りを進めていこうとするものであります。50年後、100年後のあるべき日本の姿を見据え、原点を決して忘れることなく、全身全霊をかけて、内閣総理大臣の職責を果たしていくことをお誓い申し上げます。○安倍内閣総理大臣記者会見(9月12日)【安倍総理冒頭発言】 本日、総理の職を辞するべきと決意をいたしました。7月29日、参議院の選挙の結果が出たわけでありますが、大変厳しい結果でございました。しかし、厳しい結果を受けて、この改革を止めてはならない。また、戦後レジームからの脱却、その方向性を変えてはならないとの決意で続投を決意したわけであります。今日まで全力で取り組んできたところであります。 そして、また、先般シドニーにおきまして、テロとの闘い、国際社会から期待されているこの活動を、そして高い評価をされているこの活動を中断することがあってはならない、何としても継続をしていかなければならない、このように申し上げました。 <中略> 来る国連総会にも新しい総理が行くことが、むしろ局面を変えていくためにはいいのではないか。また、改革を進めていく、その決意で続投し、そして内閣改造を行ったわけでございますが、今の状況で、なかなか国民の支持、信頼の上において力強く政策を前に進めていくことは困難な状況である。ここは自らがけじめをつけることによって局面を打開しなければいけない、そう判断するに至ったわけでございます。 <後略>〓勝手に独断と偏見〓 参議院選挙での自民敗北->内閣改造->臨時国会での所信表明演説->辞任表明。 安倍首相の辞任理由(主に「海上自衛隊によるインド洋での給油活動の継続」を与野党で合意するには安倍首相の存在が邪魔になるから)は納得できない。 安倍首相は辞意表明の冒頭発言で、 「国民の支持、信頼の上において力強く政策を前に進めていくことは困難な状況である。ここは自らがけじめをつけることによって局面を打開しなければいけない」 「私といたしましても、私自身の決断が先に延びることによって、国会において混乱が大きくなる。」 との認識を示したが、謝罪の言葉はなかった。 安倍首相の問題点は、年金問題・大臣の失言・事務所費問題が発生した時の対処。 また国会の審議では委員会審議(国民年金関連だと記憶している)を飛ばしている、強行採決は与野党どちらにも問題がある場合があると思うが、委員会での審議をしないのは民主主義を否定している。 「国民の皆様からのご意見を十分受け止め、政策をしっかりと説明しながら、国政に邁進してまいります。」が行われていない。 支持率が下がり環境の悪化と共に体調が急激に悪くなったのか、辞任のタイミングが悪く、良かった点も評価されにくい。 参議院の敗北で首相(総裁)交替を求めるのであれば、公明・共産・社民の党首も交代だろう、政党の括りにより立法と行政の独立が不充分。
2007.09.13
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当時、安藤輝三は陸軍歩兵大尉(歩兵第三連隊第六中隊)。 2.26事件では、 安藤は一隊を指揮して侍従長官邸を襲撃し鈴木貫太郎侍従長の殺害を担当。 安藤は襲撃隊により胸部・臀部などを撃たれた鈴木に「止め」をさそうとしたが、 鈴木の妻の孝子の懇願により、「止め」をさすことを止めた。 孝子は鈴木の後妻、お茶の水女子高等師範卒で昭和天皇の幼時期に侍女を勤めた、鈴木は終戦に首相としてポツダム宣言を受諾する。○安藤と秩父宮の関係(概要) 秩父宮は歩三の見習い士官時代に、安藤は仕官候補生として歩三に訓練で来た、秩父宮少尉が指導し、安藤は皇子御殿に呼ばれている。◇2月27日に秩父宮は松本徹(元宮家の事務官)に事件の様子を尋ねた、 松本は山王ホテルを占拠している将校による市民に対して「秩父宮殿下が御帰京になったので、いよいよ我々の頭目として戴き、我々の立場も好転する。昭和維新の成功は近い」と演説していた。 秩父宮の「黒幕というか、首謀者についてはどんな噂が流れているのか」に対しては「もっとも多い噂は、荒木・真崎両大将ということですが、これらの噂の外には、宮様が関係ある、というのがございます」◇安藤と共に皇子御殿に呼ばれていた森田に安藤は遺書を渡している。 森田大尉殿 お先に失礼します。 但し万斛の恨を呑んで。 殿下に宜しくお伝えをお願ひ申し上げます。 昭和11年7月11日夜 安藤輝三 安藤は翌日の12日に処刑された。└─「秩父宮/保阪正康」より○安藤輝三「遺書」の概要(房子夫人が保管していたもの)◇公判は非公開で弁護人もなく、証人の喚請は全部却下された、発言の機会も拘束され、裁判ではなく捕虜の訊問だった。◇判決の理由では、安藤を民主革命者として葬り去った。 また北一輝・西田税と関係があり改造法案の実現云々とした。◇万斛の恨みを呑む。◇軍当局は安藤らの行動を是認して維新に入ろうとしたが、27日夜に反対派の策動で奉勅命令(撤退命令)の発動がやむない事となると、掌を返すように、「大命に抗せり」として討伐を開始した。 (奉勅命令(撤退命令)は安藤らには伝達されなかった)◇下士官兵が武装解除され、将校を陸相官邸に集合させて憲兵・他の部隊により、拳銃・銃剣を擬して、山下少将・石原大佐達は自決を強要した。 一同は憤慨して自決しなかった。 (逆賊の名の下には死ねなかった)◇叛軍ではない理由 決起の趣旨に於いて然り 陸軍大臣告示は安藤等の行動を是認している。 戒厳部隊に編入されている。 奉勅命令は伝達されていない。◇判決理由に於いて「日本改造法案」の実現を期し、法案と「日本国体と絶対に相いれざるもの」と記した、安藤らは公判に於いてそうではない事を強調したが、 「日本国体破壊の暴挙」の結論となった。◇「精神はよいけれども行動は悪い」というが、陸軍の総意として陸相の告示で公布された、「諸子の行動(または真意)は国体の真姿顕現の至情に基づくものと認む」はどうなるのか。◇共産党と同じに取り扱われている。◇軍当局は北・西田を罪にする為に無理に今回の行動に密接な関係をつけて、両人を民主革命者として極刑にしようと策動している。◇軍幕僚は安藤らを虐殺し、安藤らの行動結果を利用して、軍部独裁のファッショ的改革をしようとしている。◇「大命に抗せり」との理由で、安藤らを免官として逆賊と呼ぶのは、「勅命に抗しない事が明瞭な今日に於いて如何にするか。」└─「2.26事件 獄中手記遺書」より〓勝手に独断と偏見〓 弘前(青森県)で勤務中の秩父宮は2月26日午前7時すぎの高松宮からの電話で27日に東京に戻って来る(閑院宮参謀総長は28日に催促されて帰京)。 陸軍将校の一部には秩父宮を自分たちの盟主にと考えていたものもいたと思う。 民主革命者は天皇制の否定で共産主義者に近い意味で使われているように思う、北一輝・西田税(秩父宮と陸士で同期)を「民主革命者として極刑」は変。 「三井・三菱献金帳/和田日出吉」/日本評論(1936年11月号)よると(概要) 北一輝は三井から盆暮れに1万円ずつ渡されていた。 敷地千数百坪の洋館二階建ての邸宅に住み、西田税の活動資金の大半を面倒見ていた。 2.26事件後の訊問では、「桂や西郷が藩侯に禄をもらったのと大差ない」と主張。 三井が北一輝に金を渡していたのは、陸軍・右翼を恐れた為、この力は終戦まで軍部の圧力として存在し続ける。
2007.09.09
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真崎甚三郎の関与について調べてみる。 1932年1月9日~1933年6月18日は参謀次官、1934年1月23日~1935年7月16日は教育総監、この間の参謀総長は閑院宮戴仁(1931年12月23日~1940年10月2日)。 真崎は2.26事件(1936年2月26日)当時は教育総監を更迭されて陸軍大将・軍事参事官、真崎教育総監更迭後の教育総監は2.26事件で殺害された渡辺錠太郎。 2.26事件の前には、相沢事件(1935年8月12日)があり、相沢三郎陸軍中佐が永田鉄山軍務局長を陸軍省で殺害している。 真崎教育総監更迭に関係した永田鉄山と渡辺錠太郎が殺害された。 参謀総長である閑院宮戴仁は2.26事件の三日目である28日の夜に帰京した。 真崎は事件後、3月6日に待命、10日予備役、1年7ヵ月後の1937年9月25日に東京陸軍軍法会議で無罪となった。(当時は近衛内閣)●「新訂 二・二六事件 判決と証拠」に於ける真崎甚三郎に対する判決概要※東京陸軍軍法会議に於ける判決は「無罪」、判決の示す「理由」について纏めてみる。○1935年7月:真崎は教育総監を更迭され、軍事参事官に専補される。 村中孝次・磯部浅一らは更迭に対し当局を非難していた。 真崎は平野助九朗(陸軍少将)等に総監更迭の内情を洩らし、憤懣の情を表し、更迭の手続きが不当で統帥権干犯と唱え軍令に違反せりと力説した。 村中孝次・磯部浅一は当局を非難し、教育総監更迭事情に関する不穏文書を配布した為、青年将校の運動は一層尖鋭化した。○1935年8月:永田鉄山(軍務局長)が相沢三郎中佐により殺害された。 一部青年将校はこの挙に感服し、教育総監更迭に関して統帥権干犯の背後に一部重臣・財閥などの陰謀策動ありとして、益々特権階級を打倒して昭和維新の実現を企画。 重臣は超法規的存在で合法的な手段は不可能として、国法を超越し直接行動で之を打倒して、一部軍上層部を推進して、国家を革新する運動が激化した。○1935年12月頃より村中孝次・磯部浅一・香田清貞・栗原安秀・渋川善助らが 第一師団将兵の渡満前に主として在京同志により速やかに事を挙げる要ありとして、準備に着手する。 相沢中佐の公判を機会に、決起気運を促進、特権階級に非難を集中、相沢中佐の行動精神を宣伝し同志の決起を促す、真崎はその情勢を察知しながら以下の行為を行った。イ.1935年12月:真崎は来訪した対馬勝雄(陸軍歩兵中尉)に対して、教育総監更迭に依る統帥権干犯問題に付いて強硬に反対、其の筋より圧迫を受けているが、機関説問題に付いては真面目に考慮する必要を説くロ.1935年12月24日頃:真崎は磯部浅一・小川三郎(陸軍歩兵大尉)と面接して、興奮した態度で、総監更迭について相沢中佐は命まで捧げた、自分はそこまではいかないが、最後まで強硬に反対すると告げる。 国体明徴問題・相沢公判が巧く運ばず其の儘放置するような場合は血が流れるかもしれないの小川三郎の意見に対して、真崎は自分が血が流れると言えば青年将校を煽動するように思われのは困ると語る。ハ.1935年12月28日頃:真崎は香田清貞を招き、国体明徴問題・維新運動に関する青年将校の活動状況を聞いて同感の意を示す。 同時に青年将校の之に対する努力が足らないとし、教育総監更迭に最後まで反対する相沢中佐の決起精神を称揚して、相沢に対して誰にも劣らない程心配していると告げる。 相沢公判には、統帥権干犯の事実に付き証人として出廷する事を述べ現在の教育総監である渡辺錠太郎大将が其の位置を退く事が維新運動に好都合と説く。二.1936年1月:満井佐吉(陸軍歩兵中佐、相沢中佐の弁護人)を招いて、真崎は述べた 教育総監更迭には最後まで反対する、真崎が更迭された経緯について打ち明けた、相沢の公判に証人となる。 2月にも満井佐吉に対して、現在の軍の蟠り、国家の行詰りを述べ青年将校の運動激化の情況を聴く。ホ.1936年1月28日頃:磯部浅一は真崎の自宅を訪ねて、 教育総監更迭の統帥権干犯問題には飽く迄努力すると述べて金千円又は五百円の出資を請うと、都合すると答え、その翌日頃に磯部浅一は真崎の知人森伝より金五百円を受け取った。○その後、青年将校同志は計画・準備を進めた。 また、外部に対する決起の目的達成の為の工作を成す手筈を定めた。 外部で決起を助ける者は、本庄繁・小笠原長生・加藤寛治・真崎甚三郎・山本英輔。○2.26事件での真崎甚三郎の行動1.1936年2月26日午前4時30分頃:亀川哲也が真崎宅を来訪し、真崎に依頼する。 今朝、青年将校が部隊を率いて決起し首相・内大臣などを襲撃する、青年将校等の為善処を願う、青年将校は真崎による時局の収集を希望しているので、自重を願う。 8時ごろ陸軍大臣官邸に到着(陸軍大臣と叛乱将校の交渉により電話で招致された為)-1.磯部浅一より決起の趣旨・行動の概要について報告を受けて、決起趣旨の貫徹を依頼され、真崎は「君達の精神は能く判っている」と答えた。-2.陸軍大臣と叛乱幹部(村中・磯部・香田など)との会見席上に於いて、「決起趣意書」「要望事項」「決起者の氏名」を閲読し、香田より襲撃目標・行動の概要を報告された後、真崎は叛乱将校に対して「諸君の精神は能く判っている、自分は之より其の善後処置に出かける」と告げ、山口一太郎の「閣下御参内ですか」に対して「いや自分は別の方を骨折って見様と思っているのだ」と答えた。2.1936年2月26日午前9時過頃:軍令部総長伏見宮邸に伺候、加藤寛治(海軍大将)に伴われて伏見宮に拝謁、臣下にては収拾不可能、強力内閣を組織、叛乱将校などに恩典を浴せしむの大詔で事態収拾を依頼。3.1936年2月26日午前10時頃:伏見宮に加藤大将と真崎が随従して参内した際、侍従武官長室にて、川島陸軍大臣に対して決起部隊は到底解散できない、詔勅の煥発を仰ぐ他なしと進言、其の席に居合わせた者にも反復強調した。4.1936年2月26日午後1時30分頃:宮中にて 陸軍の軍事参議官・陸軍大臣・参謀次長・東京警備司令官合同の席上に於いて真崎は決起者を反乱者と認めるべからず、討伐は不可なりとの意見を述べる。5.1936年2月26日夜:陸相官邸にて満井中佐に対して真崎は宮中に参内して努力したが思うように行かない、彼達を宥めよと告げた。6.1936年2月27日:叛乱将校などが、北輝次郎・西田税より 「人無し、勇将真崎あり、正義軍一任せよ」との警告ありとの電話指示に依り、時局収拾を真崎大将に一任し軍事参議官に会見を求めると、 午後4時頃、陸相官邸で軍事参議官の阿部信行・西義一立会いの上で、反乱軍将校17名(或いは18名)と会見した、その際、真崎は反乱将校に事態収拾を一任され、要望を受け取り、「無条件にて一切一任せよ、誠心誠意尽力する云々の旨を答えた。 以上の事実は真崎は不利な点は否認するところもあるが、他の証拠がある。〓勝手に独断と偏見〓○「軍事参議官への要求 27日16時」1.事態の収拾を真崎大将に一任する事。2.各軍事参議官は同大将中心として結束善処せられたきこと。3.之等の事は、軍事参議官一同と決起部隊将校全員との一致せる意見なることを上聞に達せられたきこと。└─「新訂 二・二六事件 判決と証拠」p32~ 真崎甚三郎は「暴走を抑えようとしたが失敗し、決起後は穏便に収めようとしたが誤解された。」とは思えない。 真崎教育総監を更迭した一員とされる永田鉄山軍務局長を相沢三郎中佐が殺害した事に関して、 「青年将校の之(国体明徴問題・維新運動)に対する努力が足らないとし、教育総監更迭に最後まで反対する相沢中佐の決起精神を称揚して、相沢に対して誰にも劣らない程心配している。」 「(真崎更迭後の)教育総監である渡辺錠太郎大将が其の位置を退く事が維新運動に好都合と説く。」 永田鉄山殺害した相沢三郎中佐を肯定し、渡辺錠太郎教育総監が消えてくれる事を望み、それを決起将校に伝えている。 「昭和天皇独白録」の「天皇機関説と天皇現神説」に於いて、 「私は国家を人体に譬へ、天皇は脳髄であり、機関という代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支ないではないかと本庄〔繁〕武官長に話して真崎〔甚三郎・教育総監〕に伝えさした事がある。 真崎はそれで判つたと云つたさうである。」 真崎は天皇が気にかける程「天皇現神説」を主張する者達の中で力を持っていた。 しかし教育総監を罷免され、相沢事件・2.26事件で皇道派将校達を利用し力を示すが、再び権力の座につくことはなかった。 朝日新聞の記事「逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ」(2007年4月26日)では、 1977年2月26日。天皇は意外な言葉を口にする。「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」。天皇のトラウマの深さがうかがえる。
2007.09.06
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1936年2月26日、陸軍の青年将校が1400余の兵を率いて政府要人を殺害し、真崎甚三郎陸軍大将を首班とする政権を望んだが失敗した。 当初、反乱軍により海軍出身の岡田啓介首相・鈴木貫太郎侍従長・斎藤實内大臣と渡辺錠太郎陸軍教育総監(真崎教育総監更迭の関係者)と高橋是清大蔵大臣(軍部予算削減計画)が殺害されたとされていた。 (岡田首相の義弟である松尾伝蔵大佐が殺害され、岡田首相は押入れの中に隠れて助かった。鈴木侍従長は瀕死の重傷を負うが助かる。) 反乱軍にもそれなりの言い分がある。○反乱軍の「蹶起趣意書」 謹んで惟るに我が神洲たる所以は、万世一神たる 天皇陛下御統帥の下に挙国一体生々化育を遂げ、終に八紘一宇を完うするの国体に存す、此の国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経て、益々体制を整へ、今や方に万方に向つて開顕進展を遂ぐべき秋なり、然るに頃来、遂に不逞兇悪の徒簇出して私心我慾を恣にし、至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き、万民の生々化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ、随つて外侮外患日を逐つて激化す、 所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、此の国体破壊の元兇なり、 倫敦海軍条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪、共匪大逆教団等と利害相結んで陰謀至らざるなき等は、最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は泣血憤怒、真に譬へ難き所なり、中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて、今尚些かも懺悔反省なく、然も依然として私権自慾に居つて苟且愉安を事とせり、露支英米との間一触即発して、祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは、火を賭るより明かなり、内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して稜威を遮り、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずんば、皇謨を一空せん、宛かも第一師団出動の大命渙発せられ、年来御維新翼賛を誓ひ、殉国捨身の奉公を期し来りし、帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に上らんとして、而も顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず、 君側の奸臣、軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは、我等の任として能くなすべし、臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば、破滅沈淪を翻へすに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲赤子の微衷を献ぜんとす、皇祖皇宗の神霊、冀はくは照覧冥助を垂れ給はんことを、 昭和11年2月26日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同└─「新訂 二・二六事件 判決と証拠」p41~ より〓勝手に独断と偏見〓 決起部隊の行動は1936年2月26日に始まり2月29日に帰順投降し収束した。 決起将校は部下を引き連れ気に入らない者を殺害し、天皇が自分達が求める政権を作る事を求める、しかし天皇と直接交渉はせず真崎軍事参事官経由で要求を実現しようとする。 真崎は天皇と会うことができず、川島義之陸軍大臣・伏見宮博恭軍令部総長を使って目的を達成しようとする。 閑院宮参謀総長は機能せず本庄繁侍従武官長など陸軍関係者の多くは反乱将校を擁護、しかし天皇は反乱軍鎮圧を成功させた。●関係者(★は標的とされた人) 皇族 :秩父宮、高松宮、梨本宮、朝香宮(軍事参議官)、東久邇宮(軍事参議官) 元老 :西園寺公望(★生存:殺害計画は実行されず)、牧野伸顕(★生存、前内大臣) 内大臣 :斎藤実(★死亡)、秘書官:木戸幸一 宮内大臣 :湯浅倉平、宮内次官:大谷正男 枢密院議長 :一木喜徳郎、副議長:平沼騏一郎 侍従長 :鈴木貫太郎(★重傷) 侍従武官長 :本庄繁(女婿の山口一太郎大尉は歩兵第一連隊で無期禁固の判決) 内閣総理大臣:岡田啓介(★生存:当初は死亡と伝えられていた) 陸相 :川島義之 海相 :大角岑生 蔵相 :高橋是清(★死亡) 内相 :後藤文夫(★生存) 貴族院議長 :近衛文麿 衆議院議長 :濱田国松 参謀総長 :閑院宮載仁、次長:杉山元、作戦課長:石原莞爾 軍令部総長 :伏見宮博恭、次長:嶋田繁太郎 教育総監 :渡辺錠太郎(★死亡) 軍事参議官 :真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎、阿部信行、西義一、植田謙吉、寺田寿一、その他 戒厳司令官 :香椎浩平(東京警備司令官) 関東軍司令官:南次郎
2007.09.02
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