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1936年12月12日の西安事件では張学良・揚虎城らは蒋介石を監禁、第二次国共合作に向う。 1937年8月13日に第二次上海事変勃発、8月21日に中ソ不可侵条約が南京にて締結、10月5日にルーズベルト大統領は日独を侵略国家と非難、日本軍は12月13日に南京を占領した。 1939年5月にノモンハン事件が勃発、9月1日にドイツ軍はポーランド領内に侵攻、パリを占領したドイツとフランスは1940年6月22日に休戦協定に調印、9月27日に日独伊三国同盟が調印され、1941年1月28日に帝国議会で日華事変臨時軍事費累計は174億5000万円と発表された。○1940年11月13日に「支那事変処理要綱」が御前会議で決定された。(概要) 「支那事変処理要綱」では、 武力戦の続行、英米による援蒋行為の禁絶強化、日ソ国交の調節して重慶政府(蒋介石政権)の抗戦意思を衰減させ屈服を図る。 内外の態勢を改善して長期大持久戦の遂行に適応、大東亜新秩序建設の為必要とする国防力の弾撥性を恢復増強する。 以上の為、特に日独伊三国同盟を活用す。 の内容が、要領では詳細が述べられている、また「日本側要求基礎条件」として 支那が満州国を承認すること、抗日政策の放棄、指定した地域に於ける日本陸海軍の駐兵と資源開発を認める、汪・蒋両政権の合作を日本の立場を尊重し支那の国内問題として処理する、日支間の経済提携は平等主義により形式的には支那側の面子を尊重 の趣旨が記されている。└─○1941年4月13日に「日ソ中立条約」が調印され4月28日に公布された。(概要) 日ソ間の平和・友好関係の維持、領土の保全と不可侵の尊重。 第三国よりの軍事行動にに対して中立を守る。 有効期間は5年で破棄通告は満了の一年前に行う、破棄通告無しの場合は自動延長。└─〓勝手に独断と偏見〓 欧州を席巻するドイツと日独伊三国同盟を結んだ日本は1940年11月13日に「支那事変処理要綱」を御前会議で決定した。 「支那事変処理要綱」の「日本側要求基礎条件」では「汪・蒋両政権の合作を日本の立場を尊重し支那の国内問題として処理する」の内容が記されている、汪兆銘の政権(1940年3月30日に南京国民政府を樹立)は日本が望む力を有していない、日本は面目を潰さずに支那事変を終わりにしたい。 「支那事変処理要綱」決定の約3年前に南京占領が行われ、その直後の1938年1月11日に「支那事変処理根本方針」が御前会議で決定されている。 「支那事変処理根本方針」では南京占領直後の現状認識として蒋介石政権を過小評価し、日本に従わなければ蒋介石政権を相手にしない、日本は新興支那政権の成立を助長して新興政権と国交を行うとしている。 また、第三国の権益を尊重し、支那に対しては自由競争によることを明記している。 しかし、対支戦争は長期化し、近衛声明「帝国政府は以後、国民政府を対手にせず」や「汪兆銘の政権の樹立」は蒋介石政権の否定だが、失敗に終わった。 ドイツの欧州に於ける成功に依存、中国に対する欧米の権益を認めようとはしなくなっている。 日独伊三国同盟に反対し、終戦時は講和に向けて尽力した米内光政だが、近衛声明には海軍大臣として賛成、「汪兆銘の政権の樹立」時には首相、1940年2月2日の斎藤隆夫議員の反軍演説は米内内閣に対し、名目もない長期戦にかり出されて生活の困窮に悩む国民の不満を代弁し、日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起している。 日中戦争は続き、米国は日本の中国に於ける権益拡大に反対の立場を取る。 「昭和ニュース事典」よると1940年度の日本の歳出は、一般会計歳出は約59億円、内軍事費は約28億円、臨時軍事費は約57億円。 日中戦争は国民にとんでもない負担を強いている、その実態は。○「杉山メモ(上)」 (1941年2月3日の連絡懇談会)よりの概要 海軍:第一線の消耗は一年6000万程度、他は全部貯蔵 陸軍:消耗は17・18億で他は全部貯蔵 松岡外相が中国との戦いを縮小する事を述べるが、陸海軍は貯蔵に大きく金を使っているため、戦線の縮小により経費削減とはならないと述べている。└─ 軍は自分たちの存在の為に国民を犠牲にしている。 特に海軍は対米戦準備の為か支那事変の戦費で貯蓄、これでは米海軍に勝てないとは言えない、米内光政の米国に勝てない発言は予算削減無しでは無責任に感じる。 ソ連と中立条約を結んだ日本は南の資源を求める。
2007.10.31
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○「内藤選手におわびしたい」亀田興毅会見で※東京都新宿区大久保の協栄ボクシングジムで2007年10月26日 「亀田家のせいでボクシング界のイメージが悪くなった。亀田家を代表しておわびしたい」。WBCフライ級タイトル戦(11日)での亀田大毅の反則行為問題で26日、所属の協栄ジムが独自の処分を発表した。父史郎氏(42)はトレーナーを辞任。大毅は練習再開前に改めて謝罪会見を開くことを命じられた。自らも3カ月の出場自粛を科せられた長男の興毅(20)は東京都内の同ジムで、丸刈りにスーツ姿でネクタイを着けた正装で記者会見に臨み、神妙に謝罪の言葉を述べた。会見は1時間20分に及んだ。 協栄ジムの金平桂一郎会長(41)の会見が始まり、「史郎氏の解雇を考えておりましたが」と述べた時に、遅れて到着した興毅が「まず内藤選手におわびしたい」と話し、金平会長とともに頭を下げた。 その後は厳しい質問攻め。「『ひじでもいいから目に入れろ』と指示したのか」という問いに、興毅は「正直、覚えていないが、ああいう風に映像に残っているし、反省している」と弁解。さらに「史郎氏から反則行為の指示はあったのか」という質問については「言い訳はしない。反省しています」と応えるのが精いっぱいだった。言葉に詰まったところを金平会長が、「すべてのことに言い訳しないと言っていた。それは(反則行為の指示を)認めたことと思う」と助け舟を出した。 試合の時には、いつもそばにいた父がリングから去るが、「世間では悪いと言われるが小さいころから鍛えてくれて、オヤジのおかげで世界王者になれた。世界一の親。オレらのオヤジに変わりはない」と声を詰まらせ、目を潤ませた興毅。「新たなトレーナーのアドバイスを受けて、新たな亀田スタイルを兄弟で作りたい」と話した。└───10月26日17時1分配信 毎日新聞(抜粋)〓勝手に独断と偏見〓 亀田史郎氏の会見は政治家・公務員・マスメディアの会見レベルだったが、亀田興毅の謝罪は格段に良かった。 スポーツ新聞では亀田興毅の父親と弟が謝罪会見に出なかった事を問題視する発言も紹介している、二人が出なかった方が良かった、が私の感覚。 会見では亀田離れをしたくないマスメディアが、今回の謝罪会見でも不充分である事を主張したがったり、亀田興毅が不適切な発言をする事を狙ったりがあったと思う。 亀田史郎氏が出てくれた方が、問題発言を引き出せる可能性が高くマスメディアはそれを望んだのであろう。 現状、私の関心はTBSと電通などの広告代理店による亀田一家への関与と金の流れ、亀田一家に下地はあったと思うが問題となった亀田一家の行状は東京に移ってから顕著になったようだ。 記憶で曖昧だが、3000万円の移籍料は内藤選手がフライ級王者になった時のファイトマネー100万と比較すると大きすぎる、ジムに対して何らかの担保がマスメディア及び其の周辺によりなされたのではと思う。 亀田興毅がテレビは関係ないと言っているが、そういう問題ではないと考えるマスメディアもあるのではないか。 戦争に於ける軍の関与には関心のあるマスメディア、今回に関しても関心を持って調べて欲しい。○タウンミーティングの受注(「電通」「朝日広告社」) 年度別の「執行済み額・実績額」「業者」「内閣府との事前調整費/1イベント」 平成13年度:九億三千九百万円、電通、 平成14年度:一億九千三百万円、朝日広告社・電通、九十四万(8月) 平成15年度:二億九千七百万円、電通、四十二万(4月) 平成16年度:二億四千二百万円、朝日広告社、二十万 平成17年度:二億九千五百万円、朝日広告社、二十万└─保坂展人議員(社民党)の「衆議員-教育基本法に関する特別委員会-11号(平成18年11月14日)」に於ける質問と山本信一郎(内閣府大臣官房長)の回答 よりの纏め
2007.10.27
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第二次近衛内閣(1940年7月22日~1941年7月18日)の発足に先立ち、近衛内閣で首相・外相・陸相・海相となる近衛文麿・松岡洋右・東條英機・吉田善吾により四者会談が行われた。○荻窪会談覚書(1940年7月19日)の概要1.経済活動は作戦軍か軍の生存上自ら処理指導することを絶対必要とすることを除き一切政府に於いて一元的に指導し極力之を振作する。2-1.日独伊枢軸の強化2-2.対ソ関係は日満蒙間国境不可侵協定(有効期間5年乃至10年)を締結、有効期間内に対ソ不敗の軍備を充実する。2-3.英仏蘭葡植民地を東亜新秩序の内容に包含せしむる為の積極的処理を行う。2-4.米国に対しては無用の衝突を避くるも東亜新秩序の建設に関する限り彼の実力干渉をも排除するの固き決意を以って我が方針の実現を期す。└─○松岡洋右はWikipediaによると(抜粋・纏め) 1900年にオレゴン大学法学部を卒業、1904年に外交官試験に首席で合格し外務省に入省、1919年からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣、帰国後は総領事として再び中華民国勤務、翌1921年、外務省を41歳で退官。 南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年には副総裁(総裁は山本条太郎)、1930年に満鉄を退職、2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)し当選。 1931年の満州事変をうけて、翌1932年に国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会が開かれた、1932年10月に松岡は同総会に日本首席全権として派遣された。 日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)、2月24日の総会で同報告書は賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)で可決、松岡は宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで会場を退場した。 松岡の「宣言書」には国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていない、日本政府は3月8日に脱退を決定し27日連盟に通告。 松岡は1933年12月に政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職、1年間にわたって全国遊説を行った。 1935年8月2日~1939年3月24日は南満州鉄道総裁、1940年7月22日に成立した第2次近衛内閣で外務大臣に就任。 外務省に復帰した松岡は、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。 更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否。 近衛内閣では「日独伊三国軍事同盟(1940年9月27日調印)」と「日ソ中立条約(1941年4月13日調印)」を成立させた。└─〓勝手に独断と偏見〓 1940年6月14日、ドイツ軍はパリに入城。 荻窪会談では今後の日本の方針が決定された、日独伊枢軸の強化と対ソ戦力の強化の下に英仏蘭葡植民地を日本の影響下に於くことを目指したが、米国植民地は対象外で米国との戦いは避ける。 第一次~第三次近衛内閣では支那事変が始まり日本軍は南京を占領、北部仏印進駐と南部仏印進駐により実質的な経済制裁が行われた、「日独伊三国軍事同盟」と「日ソ中立条約」が締結され日米交渉が始まるが「帝国国策遂行要領」が御前会議で決定され、交渉が成功しない場合は対米英戦が発動する事となった。 松岡は日独伊三国同盟を優先、ドイツのソ連侵攻後に外務大臣から外され、その後、南部仏印進駐が行われた。○「昭和天皇独白録 南仏印進駐」よりの抜粋 松岡は二月の末に独逸に向ひ四月に帰つて来たが、それからは別人の様に独逸びいきになつた。恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる。 現に帰国した時に私に対し、初めて王侯の様な歓待を受けましたと云つて喜んでいた。一体松岡のやる事は不可解の事が多いいが彼の性格を飲み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格をもっている。└─ 松岡はA級戦犯容疑者として法廷に一度出席、1946年6月27日に結核悪化で病死した。
2007.10.24
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日本軍は南京を占領するが、天津租界事件(1939年7月24日)・北部仏印進駐(1940年9月23日)・南部仏印進駐(1941年7月28日)後に日本は経済制裁を受けている。 英国は天津租界事件で日本に屈服、「英国政府は支那における日本軍が、かれら自身の安全を擁護し、かれらの支配下にある地域の公秩序を維持するため、特殊な要請をもつことを了承する。」の同意書が日英で交わされた、二日後の7月26日に米国は「日米通商航海条約」破棄を勧告し半年後(1940年1月26日)失効した。 1939年7月28日の朝日新聞では「6ヶ月以内に新条約が締結される」と楽観的だった。 日本軍は援蒋ルート遮断の確約が実行されるための監視を目的としてフランスとの協定に基づいて北部仏印に進駐、1940年9月26日に米国政府は対日鋼・屑鉄輸出禁輸措置を決定した。○鋼・屑鉄(Wikipediaよりの抜粋)◇鋼:鋼(ハガネ、こう、steel)とは、鉄を主成分にする合金の総称。鉄鋼・鋼材という。 製鋼法: 鋼の生産は、高炉で作られた銑鉄を原料として転炉で生産する方式(転炉製鋼法)と、鉄スクラップを原料として電気炉で生産する方式(電気炉製鋼法)の2通りがある。日本での生産割合は、転炉製鋼法が約75%、電気炉製鋼法が約25%である。◇鉄のスクラップは、屑鉄(くずてつ)ともいう。鉄鉱石と同様、重要な製鉄原料である。鉄スクラップは、電気炉によって再び鋼鉄へとリサイクルされる。高炉を持たない電炉メーカーが鉄スクラップを原料とする。しかし、鉄スクラップを原料とした鋼鉄は不純物の量がやや多いため、鉄鉱石から生産された鋼鉄よりは品質が劣る。 ◇銑鉄:銑鉄(せんてつ、pig iron)とは高炉や電気炉などで鉄鉱石を還元して取り出した鉄のこと。 銑鉄は硬いが、衝撃を与えると割れやすいので、構造用材料には使われない。 製鉄所では銑鉄を転炉に入れて鋼を生産する。└─○読売新聞 1940.11.21:銑鉄七十%配合で製鋼能率低下せず技術懇談会の重要結論(神戸大学附属図書館)よりの概要 米国屑鉄禁輸に対処する応急的措置として平炉製鋼部門における銑鉄及び屑鉄の配合問題に関し各製鉄会社がそれそれの技術的成績を率直に公開 <中略> 銑鉄を七〇%程度使用することはそれによって殆んど製鋼能率を低下させずに済むことが確認されたわけであって現在の水準たる銑鉄五七%、屑鉄四三%の配合率は今後画期的変更が行われるものと見られる なお技術懇談会の製銑部会は銑鉄の増産問題につき各高炉会社の技術者が中心となって研究を進めているが銑鉄の増産は主として原料炭及び鉱石に懸っているのでこのほど主要石炭会社の炭鉱長の出席を求め選炭方法についての意見の交換を行ったが今後更に粉鉱石の処理、即ち焼結炉設備の問題等に亙って微細な点まで研究を進める予定である└─〓勝手に独断と偏見〓 鋼は銑鉄や屑鉄(鉄のスクラップ)により作られるが、当時の日本での鋼の作成は海外から輸入する屑鉄が重要だったようだ。 当時の新聞によると、日本では鋼を作るのに銑鉄五七%、屑鉄四三%で行っていた為、屑鉄の減少は大問題で対策を行っている、基本的に屑鉄が少なくても銑鉄で鋼がつくれるようにする対応だが、新聞記事から推察すると、日本製の銑鉄は品質が悪く屑鉄を混ぜることで鋼の品質を保っていた、また銑鉄を作る為の鉄鉱石と石炭が不足している状態のようだ。 北部・南部仏印進駐で日本は米・英・蘭に屑鉄・石油が止められると。特に海軍の戦争遂行に支障が出る事が明確になった。○蘭印との石油等の商談 1940年9月12日に商工大臣小林一三はジャワ・バタビアに到着、5年間にわたり年間315万トンの石油輸出を要求したが不成立、10月21日帰国。 12月に元外相芳沢謙吉を派遣、1941年1月に芳沢謙吉は再度蘭印にて交渉した。└─○蘭印の会社別産油量 449万トン:BPM(英系:the merger of Royal Dutch and Shell Oil Companies) 214万トン:NKPM(米系:A subsidiary of Standard Oil Co.) 182万トン:NIAM(英蘭系:A venture between the BPM and Dutch Government) └─数字は「杉山メモ(上)」p487の「第四表 蘭印重要物資地域別生産額(1939年)」
2007.10.19
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10月11日のWBCフライ級タイトルマッチで、チャンピオンの内藤大助選手が亀田大毅選手を3-0の判定で下し初防衛に成功した。 内藤大助選手おめでとうございます。 「大毅は「負けたら切腹」と宣言していたが」の質問に内藤選手は「最初から切らないのは分かっているからね。これ以上ねちねち言わないでおきましょうよ」と、一部のマスメディアとのレベルの違いを見せている。 私の見た限りでは、マスメディアは内藤選手が亀田選手に対しての罵詈雑言を引き出そうとするが、内藤選手はそれに乗らない、亀田サイドの問題点を述べても其の後でフォローしている。○「大毅は1年、史郎氏は無期限ライセンス停止 史上に残る不祥事」 世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトルマッチで反則を繰り返した亀田大毅選手(18)=協栄=とその陣営について、日本ボクシングコミッション(JBC・安河内剛事務局長)は15日、東京都内で倫理委員会を開き、亀田大に1年間の出場停止処分、試合前に相手側を威嚇したなどとして父の史郎トレーナー(42)に無期限のセコンド資格停止処分を科すことを決めた。 このほか、セコンドについた元世界王者の兄、興毅選手(20)を反則を指示するような言動があったとして厳重戒告処分、監督責任を問い協栄ジムの金平桂一郎会長を3カ月間のオーナーライセンス停止処分とした。世界戦で選手らが処分されるのは極めて異例で、日本ボクシング史上に残る不祥事となった。 倫理委では試合のビデオをチェックし、1回ごとに内容を精査した。その結果、亀田大は12回に王者の内藤大助選手(33)=宮田=を投げ飛ばして減点を受けた行為が故意の反則に該当すると判断。また、史郎トレーナーについては、試合開始直前にレフェリーの注意を受ける際、内藤とセコンドの宮田博行会長に対し「なんやこら」などと叫んだことが、恫喝(どうかつ)、威嚇行為に当たるとした。 11回開始前のインターバルで、史郎トレーナーと興毅に、反則を促すような不適切な指示があったとした。 史郎トレーナーは、観客との乱闘騒ぎなどでこれまでに2度JBCから厳重注意処分を受けており、陣営の中で最も重い処分となった。└──(サンスポ.COM 2007年10月15日 更新)よりの抜粋 TBSの実況中継でアナウンサーは、内藤選手の目の上辺りから出血した際に「このままだと亀田が勝つ」など、亀田寄りの発言を行っている。 亀田親子に逆風が吹いている現在、TBSの対応も難しい、それと共に芸能人も発言を変えている。 セコンドの亀田興毅・史郎氏は大毅選手に目や股間を狙うことをアドバイス(?)している、ボクシングの試合とはそうゆうものなのかもしれないが、世界タイトルマッチでは止めて欲しい。 多発する反則、亀田興毅vsフアン・ランダエタ戦では起らなかった事が内藤大助vs亀田大毅戦では起っている(たぶん)、対戦は内藤選手が望んだ事でもあるが、元々亀田大毅選手が勝てる可能性は低かったのではないか、最初から大毅選手は勝てる気がしなかったのではないかと思う。 今まで大毅選手が勝てる相手を選んで勝ってきたとすると、何故勝てない試合を受けてしまったのか、周りの事情としか思えない。 亀田興毅選手は好きなので急所狙いのアドバイスは残念、今後フライ級王者目指して頑張って欲しいし、内藤大助vs亀田興毅が可能であれば二人のクリーンなファイトを見てみたい。
2007.10.15
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ソ連はドイツとポーランドを分割占領後にフィンランドへ侵攻、国際連盟はソ連を除名した、ソ連の侵攻に対して英仏はフィンランドにノルウェー経由で援助しようとする。 ドイツはスウェーデンの鉄鉱石確保の為にデンマークとノルウェーに侵攻し英独の海戦が行われる、海戦にドイツは敗北するがデンマークとノルウェーを占領、そして西に向う。○ドイツはパリを占領 1940年5月10日にドイツはベルギー・オランダ・ルクセンブルグに侵攻、5月14日にドイツはセダン戦線を突破、欧州戦に参加していた英国軍は5月27日にダンケルクから英国に撤退、6月14日にドイツ軍はパリに入城し、ヴィシー政権(フランス)は6月22日にドイツとの休戦協定に調印した。○日本は北部仏印へ南進 1940年6月10日にイタリアは英仏に宣戦布告、日本は6月19日にフランスに仏印経由の援蒋物資の禁絶を要求、9月6日には日本軍は北部仏印に進駐した。○日独伊三国同盟の締結(対米として) 対米として、ソ連を含めた四国同盟を考慮した軍事同盟の締結。(1940年9月27日)○日ソ中立条約締結 1941年4月13日にモスクワに於いて松岡洋右外相は日ソ中立条約に調印し帰路につく。○日米交渉始まる 日米諒解案が作られ(1941年4月16日)日米交渉が始まる、近衛首相は松岡の帰国を待つ。○ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)と日本の南部仏印の進駐(7月28日) ドイツのソ連侵攻に対して、結局日本はソ連に参戦せず、南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐する、日本の南進に対し米国は8月1日に日本を含む侵略国への石油の禁輸を発表。 1941年9月6日の御前会議、帝国国策遂行要領決定(期限付き対米交渉、対米英戦決意)==>10月23日に白紙還元○日米開戦(1941年12月8日) 内閣は近衛文麿内閣から東條英機内閣となり、1941年11月5日に御前会議で帝国国策遂行要領が再度決定される、交渉期限を11月末と決め、米国・英国・オランダとの戦争を決定(武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す) 12月1日の御前会議で日米開戦が決定された。○日独伊共同行動協定(1941年12月11日調印) 日独伊は互いに単独で連合軍との講和を行わないことを約す。〓勝手に独断と偏見〓 ドイツは「日独防共協定」「独ソ不可侵条約」「ソ連侵攻」と方針を変えていく、日本も「三国同盟」締結後「日ソ中立条約」を締結する、1937年8月21日に「中ソ不可侵条約」が結ばれているが、それ以前にソ連は日本に満州国を承認するからと不可侵条約を結ぶことを提案してきたが、日本は断っている。 陸軍の仮想敵国はソ連、海軍は米国、中国との戦いが始まるまでは、予算を確保するには強力な仮想敵国の存在が必要だったと思う。 陸軍はノモンハン事件(1939年5月~)後はソ連と戦う事を避けるようになったのかもしれない、中国と戦争が収束していないにも拘らず、南進を選ぶ。 北部仏印進駐では米国に屑鉄などを止められ、独ソ開戦後に日本の南部仏印進駐が行われると、1941年8月1日に米国は全侵略国への石油の輸出を全面禁止(発動燃料、航空機用潤滑油も含む)、つまり日本への石油輸出が禁止された。 これで日本は対米戦辞さずが明確になる、米国側は日本が仕掛けてくるのを調整すると共に対日戦の準備を急ぐ、米国は開戦時期を延ばしたかったが、英・中は欧州とアジアの戦いに米国が参戦することを望む。 「日独伊三国同盟」にソ連を加える事ができなかった、それどころかドイツはソ連に侵攻している、日本のスタンスはソ連がドイツに敗北しそうになったら参戦するだった。 ドイツの侵攻でソ連が連合国側となると、日本の重要性も目減りし、日本側の少々の妥協では交渉は進まない。 結果論だが日本は「日独伊三国同盟」で米英ではなくドイツを選んだのが失敗だった。 「昭和天皇独白録」による日米開戦時の判断は、 「日米開戦後出来た三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ。 確約当時政府の見透では日米戦争は勝負は五分五分、うまくいって日本が勝つても二分の勝で完勝は到底見込が立たぬ、之に反して独逸は完勝するであらうと云ふ事であつた。 それで若し左様な状態となった際、日本が見捨てられては困ると言う訳で、単独不講和を確約した訳である。」 日本が米国に勝てなくてもドイツは米国に勝てるというドイツ頼みの決断だった。
2007.10.12
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2008年用高校歴史教科書の検定に於いて、沖縄戦での集団自決の記述が変更される事が問題に成っている。○沖縄タイムスの連載「『集団自決』」検定(1)通説(2007年4月27日) 通説(4月27日朝刊総合1面) 証言の積み重ね突然否定 住民が自発的に死んだような修正は不当 「集団自決」記述への検定意見は二十三年ぶりだった。教科書検定で、二〇〇八年用高校歴史教科書の七冊から、住民を「集団自決」に追い込んだ、日本軍という主語が消えた。文部科学省はその理由を「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」とした。 実教出版「高校日本史B」では、原文の「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ」が、「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいが起こった」と変えられた。日本軍は手榴弾を配っただけで、住民があたかも自発的に「集団自決」を行ったように読み取れる。これが文科省の求めた沖縄戦を誤解させない表現だった。 執筆者の石山久男さん(71)=歴史教育者協議会委員長=は、文科省の教科書調査官から「『集団自決』をせざるを得ない環境になったのは事実だろうが、オフィシャルな命令が出てそうなったとはいえない。最近はそういう見方になっている」と指摘された。 原文は、沖縄戦の住民被害の特徴、日本軍の加害性を示す「スパイ容疑殺害」や「壕追い出し」も記述。しかし、検定で狙い撃ちされたのは「集団自決」だった。 「調査官は、(範囲や表現が適切か検討する)教科用図書検定調査審議会の決定を伝えるだけという態度。議論すらできず、その結論を聞く、意図を聞くということしかできない」「結果として、『集団自決』だけを日本軍から切り離した文章にせざるを得なかった」。石山さんは苦渋の選択を語る。 これまで、文科省は、教科書には学会に受け入れられている通説を書け、という検定を行ってきた。沖縄戦の「集団自決」の通説を、石山さんはこう説明する。「戦闘状態の中で、軍官民が一体となり、住民は事前に捕虜になってはいけないと手榴弾も配られた。『集団自決』は軍の指示、命令によるものだと受け取らざるを得ない状況。それがいろんな証言で積み重ねられ、証明され、通説として位置付けられ、教科書に書かれてきた」 やはり石山さんが執筆した「高校日本史A」は、今回の日本軍関与を記述した同一内容で〇六年度検定を通った。今回の修正理由の一つとして、文科省は元戦隊長らによる『集団自決』訴訟の陳述を挙げた。「なぜ、突然の修正意見なのか。元戦隊長の陳述だけで、通説がひっくり返るわけではない。日本軍による命令ではなく、あたかも、住民が自発的に自決をしたんだと変えさせることは、非常に不当だ」と批判した。└─〓勝手に独断と偏見〓 「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいが起こった」は「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」、全文がほしい。 「集団自害と殺しあいが起こった」が何故起ったかが曖昧になっている、現状は「日本軍が集団自害と殺しあいをさせ」で「日本軍」が行った事が明確、今回の検定では日本軍がくばった手榴弾が起因になっているので日本軍の関与は否定していない。 だが、日本軍から手榴弾を渡されると勝手に「集団自害と殺しあい」を行ったのイメージを持つような記述は賛成できない。 ただ、教科書検定では日本軍による「スパイ容疑殺害」や「壕追い出し」は肯定されており、一概に日本軍による沖縄の国民に対する残虐な行為を否定しているのではない。 「日本軍に強制された・・集団自害と殺しあい」が検定で問題視されたのは、岩波書店と大江健三郎氏が被告となっている「沖縄「集団自決」裁判」(「沖縄集団自決冤罪訴訟」)に影響を受けている。 「座間味島での集団自決は梅澤隊長の命令による」と「渡嘉敷島での集団自決は赤松隊長の命令による」の証言は、「戦傷病者戦没者遺族援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法:昭和二十七年四月三十日法律第百二十七号)」の適用を受けるためになされたものであるの主張は、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の存在と詳細が明確になるまでに、軍命令が出されていたら説得力を失う。 それにしても「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいが起こった」の記述は変だ、「投降を拒否し集団自害(殺しあいを含む)を行う事は日本政府とマスメディアにより醸成され、日本軍の命令及び手榴弾の配布により発生した場合もあった」ではどうだろうか。
2007.10.08
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日本とドイツとの関係の流れを簡単に調べてみる。 第一次世界大戦では日本はドイツと戦い南太平洋・中国に於けるドイツの権益を継承している、その後、日独は国際連盟から脱退、防共(対ソ)として関係を深めるが、ドイツは「独ソ不可侵条約」を締結しソ連と共にポーランドの分割占領を行う。 当初三国同盟は対ソとしてだったが、欧州と東アジアに覇を唱えるドイツと日本は対米としての三国同盟が締結する、日本は南進を行うがドイツとの良好な関係が重要だった。 日米の関係改善として中国問題と三国同盟と通商問題がある、米国は英国側であり欧州に参戦するきっかけを探っている、ソ連がドイツ側である以上は米国もドイツ・日本との両面作戦を避けたい為、日本が三国同盟に従わない事(米国側につく事)を希望するが、ドイツのソ連侵攻により日本との戦いの回避を望まなくなる。 日本の南部仏印進駐に対して米国は石油全面禁輸措置を行う、これは日本が米国に宣戦布告をする可能性ありを考慮したものだった。 日本は禁輸措置に対して、対米戦辞せずで日米交渉を行う事となる、対米戦に対して日本が懸念したのはドイツの対応で、日本は日米開戦後に「日独伊共同行動協定」を締結し、お互いが勝手に連合国との和平交渉を行うことを禁じてしまう。 戦況はドイツ・日本に悪くなる、建前上はドイツが降伏するまではドイツの同意無しでの和平交渉は行えない事になっている。 ドイツ降伏後に日本は「日ソ中立条約」を結んでいるソ連経由で連合国との和平交渉を進めるが、ソ連の満州などへの侵攻により、国体護持を条件にポツダム宣言を受諾した。○日独防共協定(1936年11月25日調印・署名、27日公布) 前文: 共産「インターナショナル」(所謂「コミンテルン」)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の破壊及び暴圧に在ることを認め <中略> 共産主義的破壊に対する防衛に為協力せんことを欲し左の通協定せり 秘密附属協定では、ソ連からの本格的な攻撃に対する措置を協議することが約束され、協定の精神に反する条約を締結しないことを約束した。○日独伊三国同盟の交渉(対ソとして)◇日独伊三国協定方針(1939年1月19日) 五相会議決定よりの抜粋1.対象 ソ連を主たる対象とすることは固よりなるも状況に依り第三国をも対象ととすることあるべし2.武力援助 ソ連を対象とする場合は之を行ふこと勿論なり第三国を対象とする場合は之を行ふや否や○独ソ不可侵条約(1939年8月23日締結)◇Wikipediaによると 同条約には秘密議定書が付属し、それには東ヨーロッパにおける独ソの勢力範囲の線引きが画定され、バルト三国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドをソ連の勢力圏に入れ、独ソ両国はカーゾン線におけるポーランドを分割占領することに合意していた。◇総辞職に際して平沼騏一郎内閣総理大臣談(1939年8月28日)よりの抜粋 今回締結されたる独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み従来準備し来つた政策は之を打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至りました。○ドイツはポーランドへ侵攻しソ連と分割占領 1939年9月1日にドイツはポーランドに侵攻、9月3日に英・仏はドイツに宣戦布告、ソ連は9月15日に日本とノモンハン事件停戦協定を結び、9月17日にポーランドに侵攻。 1939年11月30日にソ連はフィンランドに侵攻、12月14日に国際連盟はソ連を除名〓勝手に独断と偏見〓 ドイツのポーランド侵攻に対してイタリアは9月2日に中立を表明、米国は9月5日に中立を宣言し中立法より交戦国への武器輸送を禁止した。 日本では「独ソ不可侵条約」に対して平沼内閣(1939年1月5日~8月30日 )は総辞職、その二日後の9月1日にドイツはポーランドに侵攻、日本は4日に欧州戦争不介入を声明、ソ連は17日にポーランドに侵攻、18日に日本はドイツに対し独ソ不可侵条約に抗議している。※以上の事実関係は主に「第2次世界大戦 欧州戦線 1939~1945」による ドイツとソ連の他国へ侵攻に対して、英仏はドイツに宣戦布告、国際連盟はソ連を除名するが、ドイツ・ソ連に対して積極的な対応をしない。 ドイツが西側に侵攻するのを叩く形、攻めて来なさい状態。 防共・対ソとしての三国同盟は消えて、対米・親ソとして復活する、ドイツは宣戦布告してきた英・仏に戦いを挑む。
2007.10.03
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