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仏法は、人間生命の内面で、仏と魔が間断なく熾烈に争いを繰り広げていることを教えています。生命に本性として具わる善性、その働きを「元品の法性」といいます。反対に、生命の本性として具わる悪の性分、その本源的な悪の働きが「元品の無明」です。御書には、「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(御書997頁)と説かれています。己心の仏性を信じて、南無妙法蓮華経の題目を唱えていく時、わが生命の「元品の法性」が触発され、諸天の働きが厳然と現れてきます。一方で、末法という正邪が顛倒した時代は、「元品の無明」が現実社会に蔓延する悪縁に触れて、増長していく。ゆえに法華経の行者に対する魔の勢力の反発も強まるのです。だからこそ、現実の「外なる悪」と戦い、勝たねばなりません。「外なる悪」との戦いは、「内なる悪」悪に打ち勝ち、「内なる善」を開き顕す戦いと一体だからです。【世界を照らす太陽の仏法】大白蓮華2016年5月号
July 31, 2016
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戸田先生は、信心の惰性を常に戒められました。「いちばんの問題は、良く変わっていくか、悪く変わっていくかである。このことに気づかないでいる時、人は惰性に流されていく」「信仰が惰性におちいった時、それはまさしく退転である。信心は、急速に、そして良く変わっていくための実践活動である」等々と語られていました。日蓮仏法は「現当二世」の信心です。「現在」と「未来」のために、“今ここで”一念を定めて信心に励んでいくのです。大切なことは、何があっても「負けないこと」です。「負けないこと」は「不退」です。断固たる「不退」の一念から、「勝利」への反転攻勢が始まるのです。【世界を照らす太陽の仏法】大白蓮華2016年5月号
July 30, 2016
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信心していけばいくほど、いいしれぬ力が、生命に、清水の如く、滾々と湧いてきます。わが生命が躍動し、喜びと希望に満ちてきます。そうでなくして、どうして学会員のあの美しい清浄な目の輝き、喜々とした姿があるでしょうか。何といっても大事なのは現証であります。日蓮大聖人も「道理文証よりも現証にはすぎず」(御書1468頁)と仰せのごとく、現実の生活にはっきりと証拠が出るものです。どんなに美辞麗句を並べても、現実に証拠の出ないような宗教に、誰が魅力を感じてついてくるでしょうか。【永遠の指針をわが胸に】大白蓮華2016年5月号
July 29, 2016
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「されば同くは・なげきたるけしきなくて此の状に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん」―—この談は、かの四条金吾が同僚の讒言によって、主君・江間氏から所領を没収されたことに対する指導です。大聖人は四条金吾に、たとえ所領を没収されても、少しも主君にへつらうことなく行動し、正義を言い切っていきなさい。へつらうことは、かえって法を下げ、法華経に傷をつけつけることであると、厳しく戒められたのです。それと同じく、わが創価学会は権力にへつらうようなことは、毛頭しておりません。権力にこびたり、へつらったりすることは、今後も永久にないことを、私はここに断言しておきたい。否、むしろ、いかなる権力者も、真に幸福と平和を願う善良な民衆を守護すべきであると、叱咤し、指導していくのが、創価学会の大精神であり、私の心であるということを知っていただきたい。【永遠の指針をわが胸に】大白蓮華2016年5月号
July 28, 2016
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「御本尊に題目を唱えることによって、智慧が泉のごとく湧き、悩むことによって、先見の眼は開かれてくるんだよ」「建設とは勇気であり、死闘である。『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(御書1282頁)とあるとおり、死闘があって、人間は磨かれるんだよ。宇宙をも動かすような題目を唱えた時、自然と勇気が湧いてくるんだ」【永遠の指針をわが胸に】大白蓮華2016年5月号
July 27, 2016
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7世紀後半に朝鮮半島で百済と高句麗が相次いで滅び、多くの難民が日本を目指した。朝廷は混乱を小さくしようと、これらの人が固まって住まないように腐心したそうだ。続日本記によれば、高麗郡に来たのは1799人。分散させてこの数なのだから、総数はとてつもなく大きかったに違いない。大難民時代である。日本の名家の系譜をたどると、先祖は渡来人であることが少なくない。鹿児島の島津氏はもとは惟宗氏だったが、島津荘の代官を命じられて下向した。後に地頭に任じられ、地名を名乗るようになったといわれる。惟宗氏は応神天皇のときに渡来した秦氏の子孫であり、さかのぼれば秦の始皇帝に至るとの説もある。【春秋】日本経済新聞2016.5.22
July 26, 2016
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メディアコンサルタント 堤 治バランス感覚のない人が増えている。一つの組織内にとどまって、閉鎖的なコミュニティーの中で過ごしている人ほど、そうした感覚が弱くなる。相手の気持ちを想像して意見を発するという大前提を忘れてしまうのでしょう。(週刊朝日)2016年5月号
July 25, 2016
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瀬川 拓郎「わび・さび」とは対照的皆さんは縄文文化というと、どのようなイメージをもっているでしょうか。狩猟・採集を主とした太古の文化で、農耕文化である弥生文化に取り込まれて失われてしまった、といったところでしょうか。旭川市博物館(北海道)ではアイヌの歴史や文化に重点を置き紹介しています。アイヌの文化は、「わび・さび」という日本的な文化とは対照的です。同じ縄文人を祖先に持ちながら、どうしてこれほど異なっているのでしょうか。近年、アイヌこそが縄文人の正当な末裔であることが、さまざまな研究や調査でわかってきています。現代の日本列島に暮らす人々のDNAを分析した研究によると、本土人、琉球人、アイヌ人は、DNA的には直線状態に並んでおり、この順で東アジア人から離れていきます。さらに、アイヌの先には縄文人には縄文人が位置していることが分かっています。ところがアイヌの歴史については書物も少なく、本土人から見たアイヌの記録が残っているに過ぎません。そのため、江戸時代末期複雑な生業をもっていたことが分かってきました。つまり、1万年以上続いた縄文時代というのは、自然と密接にかかわる中で、自然と共に暮らしていたのです。そこに、約3000年前、大陸から農耕民が入ってきて、縄文人と混じり合い、弥生人ととなり現代へと続いていきます。この時、混じり合うことをよしとしなかった人々が、アイヌや海民(漁労を生業とする人々)として、現代に縄文の伝統を伝えると考えられています。長崎、大分、瀬戸内海の各地にいた漂海民(船上生活者)には、アイヌと同じように、抜歯やイレズミなどの縄文習俗が見られます。また、物の売買に対する忌避などの縄文伝統も残っています。自然からの贈り物である獲物を、簡単に人にあげたり、金銭で売買できないという感覚です。そこには、商品経済以前に行われていた暮らし方や伝統があるのです。弥生に取り込まれる縄文と弥生の文化は全く異質です。例えば、弥生文化の特徴的な、金属器の使用、社会の階層化、集団同士の争いなどは、縄文文化ではほとんど見られません。日本列島にもともとあった縄文伝統は、最終的に日本語と水稲耕作文化に取り込まれ、弥生文化へと変わっていきます。しかし、そこに至る過程は一様ではなく、弥生時代以降も、各地に縄文の伝統が存続していたのではないでしょうか。例えば隼人。習俗を異にした大和政権に対抗しながらも、服属後はその呪術によって中央警護の役目を受けました。本派的だったにもかかわらず、重要な役目を受けたわけです。それは、縄文伝統の呪術を守る“内なる人”だったと考えられるのです。同じように、卜骨をつかう占いは、中枢に連れてこられた縄文伝統をひく海民(=占部)が行ったものです。弥生文化によって縄文文化は駆逐されたのではなく、縄文文化をうまく取り込みながら、弥生文化は発展していったと考えられます。アイヌや海民が伝える縄文伝統を調べていくと、自然と共生してきた日本人の源郷の思想が浮かび上がってきます。それは日本人の根底に流れる、日本人らしさとつながっているように思えるのです。(旭川市博物館館長)【文化】聖教新聞2016.5.20
July 24, 2016
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権力は、本来、魔の住居といえよう。日蓮大聖人は「悪鬼入其身」と断じておられる。悪鬼、悪神がもっともその身に入りやすいのが、権力の座である。―池田会長講演集第2巻*権力者の胸底に生命蔑視の原理があるかぎり、民衆の生命の安全すら保障されないであろう。ここに魔性の権力が猛威をふるう温床がある。——わたくしの提言*権力の暴虐に拍車をかけるものは、一つには強い者の前には屈服し、あるいは進んで取り入って、できれば自分もその余禄にあずかりたいという、人間の醜い心であるといえよう。強い悪は弱い悪を引き出して掌中に収め、ますます強大な悪へとふくれあがる。私は、これが権力悪の実態であり、もっとも恐るべき悪の自己増殖作用であると考える。————21世紀への対話*社会の機構を変えればよいという考え方、機構の変革によって人間も変革されるという考え方————それは総じて社会変革を志向する考え全般といってもよい————は、権力の魔性を、きわめて体現しやすい性向をもっている。なぜなら、権力と結ばずしては、機構、体制の変革というものはありえないからである。体制、機構の変革を理想として推し進める以上、そこにはめ込まれまいとする人々、あるいははめ込めえないものをもった人々を、疎外したり、抑圧したりすることになる。体制、機構を動かすのが権力であり、その権力が人間の自由や尊厳を抑えたり否定したりする働きとなってあらわれた場合、これが権力の魔性というものにほかならないからである。————現代文明と宗教*権力の魔性といっても、人間の魔性に帰着する。もともと内なる生命の魔性が権力の座を縁として権力の魔性として発現してくるものにほかならない。————御書と四条金吾第1巻*権力をたんに悪と考えて、それをけぎらいするような態度だけでは、問題は解決しない。むしろそれをいかに正しく大衆福祉のために行使するかを検討し、監視し、かつ実践すべきである。————池田会長指導【創価学会指導集】創価学会指導集編纂委員会/聖教新聞社 昭和51年5月3日発行
July 23, 2016
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肥後の「鳳凰」とうたわれたのは熊本藩主・細川重賢。画期的な財政改革を成し遂げ、米沢の鷹山(上杉治憲)、紀州の麒麟(徳川治貞)らと共に、江戸中期屈指の名君とされる。重賢の改革は「隗より始めよ」との格言を合言葉に進められた。中国戦国時代、人材を求める燕の王に対し、郭隗が“まず私のような凡庸な者を用いれば、これを伝え聞いた優秀な人材が、自然に集まるでしょう”と語った故事にちなんだ言葉だ。重賢の評伝を読むと、この名君について、重賢の側近が「真意はむしろ逆のように思われまする」と言っている。「人材はいつ、いかなるところにも、実はいるということです。要は、それを見出す人物、登用する者が、あるかないかにかかっているだけのこと・・・・・・」(加来耕三著『非常の才』講談社)。それぞれの長所を生かした人材登用から、改革は大きく動きだした。【名字の言】聖教新聞2016.5.20
July 22, 2016
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NHK大河ドラマ「真田丸」で、主人公・真田信繁(幸村)の父・昌幸が、知略を巡らし奮闘する姿が好評という。主君の武田家が滅び、次に仕えた信長も倒れ、徳川、北条、上杉と名だたる大名を手玉に取って一族郎党を守る。だが、天下人・秀吉に臣従し、不本意な処遇を受けると、息子たちに「わしはどこで間違った?」と嘆くシーンは印象的だ。戦国の世ならずとも、一寸先に何が待っているか分からないのが人生の常。不意に襲い来る試練に対して、どのような心構えが必要だろうか。日本の近代経済の礎を築いた渋沢栄一は語る。「衷心より道を楽しむ者に至っては、いかなる困難に遭遇するも挫折せず、いかなる苦痛をも苦痛とせず、敢然として道に進む」(『論語講義二』)。自分の生き方を心から楽しめる人は、どんな困難にもくじけず前に進む、と。試練にも楽しく―—成功者に共通する生き方といえよう。仏法ではより深く、三障四魔の試練を成仏の条件とする。御聖訓には「難来る以て安楽」(御書750頁)、「賢者はよろこび愚者は退く」(同1091頁)と、試練を喜ぶ人が人生の勝利者であると仰せだ。◇たくましき楽観主義の人は、周囲をも楽しく変える。そして、楽しい所に人は集まる。◇池田SGI会長は「苦しみを楽しみに。困難を飛躍の力に。その原動力が、信心である。学会活動である。大変な戦いを乗り越えた分、宿題を転換できる。より大きな自分になれるのである」と指導している。【社説】聖教新聞2016.5.18
July 21, 2016
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一橋大学大学院 楠木 建戦略大転換「日本人に順応」日本に送り込んできたイエズス会がとった布教戦略は「垂直型伝道」でした。宣教師が町へ赴き大衆に辻説法をしてボトムアップで信者を増やしていく(水平型伝道)ではなく、イエズス会はまず社会の上層部に働きかけました。指導者層を説得して改宗させたのちに、彼らの影響力をテコにして庶民へと信者を増やしていく。これが水平型伝道の戦略です。ヨーロッパでは伝統的にこの垂直型伝道が効果的でした。なぜならこの時代、絶対君主制が確立し、君主を中心にしたトップダウンの社会制度が機能していたからです。垂直型伝道はイエズス会の基本戦略として長いこと採用されていました。しかし、日本ではまるで事情が違いました。群雄割拠の戦国時代にあって誰が最高権力者なのか判然としない。垂直型伝道をやろうとすれば、何人もの権力者に話をつけなくてはなりません。イエズス会がグローバル化の過程で直面した非連続性の一つでした。日本における垂直型布教の推進者は布教長のカブラルでした。彼は自分が日本人の心や習慣に合わせるのではなく、自分に日本人を合わせようとしました。しかし、大失敗に終わったのです。この限界を打破したのが、イエズス会の東インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノです。巡回師というのは全世界における布教の様子を定期的に視察して歩く監察官のような仕事です。この人が極めて有能なグローバル化のリーダーでした。1579年に日本に来たヴァリニャーノはすぐに「日本文化と西洋文化の非常な違い」を悟りました。異なる文化を融合していくには「われわれの方があらゆる点で彼らに順応しなければならない」と考え、従来の戦略を水平型へと大きく転換する決断を行いました。彼こそが遣欧少年使節の生みの親であり、イエズス会の「アジア支社長」としてグローバル化に絶大な貢献をした人物でした。【経営書を読む】日本経済新聞2016.5.17
July 20, 2016
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古文書解読検定協会代表理事 小林 正博本邦初の「古文書解読検定」が、本年7月に実施されることになった。昔の人が書いた日本語の文をどれだけ読めるかを問う検定試験です。英検や漢検、歴検なら略しても通じる日本の代表的な検定試験だが、「古文書解読検定」はどうもそうはいかないようだ。そもそも古文書といっても、日本語で書かれているのだから少しは読めるだろうと思いがちだが、学習未経験者は、何が書いてあるのかほとんどわからないというのが実態である。なぜ読めないのか――古文書には、現代人が書かない「変体仮名」と「旧字」と「異体字」の≪三障≫が散在して解読を妨げ、さらには区点「。」、読点「、」、濁点、段落もないという≪四魔≫が読み解く作業を邪魔しているからなのである。「変体仮名」とは、明治33年の小学校令施工規則により、ひらがなは一音一字に統一されたため消えてしまった文字である。「旧字」とは、昭和24年に定められた新字体の漢字に対して、中世、近世から戦前まで使われていた漢字のことで今はほとんど使われていない。「異体字」とは、漢字の字体のうち標準字体以外のもので、新字体とはぜんぜん違うものである。要するに古文書には、現代人が使わない「変体仮名」「旧字」「異体字」という抹殺された文字が多用されているので、≪三障≫との格闘から始めて、これらを克服すれば、たちまち初心者の域は超えられる。次の段階で対峙すべきは≪四魔≫である。古文書の大半は、区点、読点、濁点、段落がないので不親切極まりない。文字はだいたい読めても、内容的には意味不明という状態に陥ることがよくある。≪四魔≫を打ち破るには相当の覚悟が必要だ。文字の解読だけでなく、古語、古典文法、歴史用語などの幅広い知識を積み重ねていかないと内容の把握には至らない。しかし、≪四魔≫を乗り越えようとする飽くなき探求は、歴史の達人への域にまで引き上げてくれるはずである。今、歴女・歴検(歴史検定)・史跡めぐりに象徴されるように、歴史学習人口は堅調に増加しており、その人たちの関心が「古文書の解読」に向き始めていることを実感している。本年4月に東京・八王子で開催した「古文書学習は歴史学の第一歩」という市民講座では180人もの受講者があった。大半は、ベビーブーマー世代で、生きがいを“学び”の道に求めて第二の人生を謳歌しているという熱気さえ感じられた。いよいよ日本も本格的な生涯学習時代の幕開きの段階に入ったといっても過言ではない。これは持論だが、生涯学習は学びたいものを「みつけ」、研鑽して「ふかめ」、同学の友と「つながり」、学びの成果を外へ「ひらき」、地域・社会に「ひろげる」という5つのステップがあると思っている。古文書学習の場合、第2ステップの「ふかめ」る段階に達すると「自分の古文書の解読力はどのくらいのレベルにあるのだろう」ということが気になるものだ。「古文書解読検定」はその声に応えるべく実施されるもので、今回、検定の対策本として“古文書解読の「赤本」ついに登場”と銘打って『実力判定 古文書解読力』(柏書房)を発刊した。全国にはまだまだ多数の未解読文書が埋もれている。彼らはきっと古文書の達人との出会いを待ち望んでいるはずである。私も、「古文書解読検定」を通して古文書の達人が陸続と輩出されることを心待ちにしている。【文化】公明新聞2016.5.15
July 19, 2016
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36年ぶりという北朝鮮の朝鮮労働党大会では、若きトップへの一糸乱れぬ熱い拍手が際立った。練習の跡がうかがえるが、経済立て直しの期待もこもっているのだろう。30代前半は会社でいえば、入社10年余の係長級。双肩に400万人の命運と極東の安定がかかる。しかし、これまでの手法はいただけない。ミサイルの発射や「水爆」実験など米国の気を引こうという乱心ぶりに、思い出す映画のシーンがある。黒澤明監督「赤ひげ」だ。江戸市中の名医が大人に心を閉ざす12歳の病児に匙(さじ)でせんじ薬を飲ませようとする。病児は何度も手で払い、アーンと開口を促され5回目で飲んだ。若い医師からおかゆを口に運んでもらう際には、茶碗ごとはね飛ばす。医師が「かわいそうに。おまえは本当はいい子なのに」と泣く姿を見て、ようやく心を開きだした。「人を信用するな」と教えられ、実際に虐げられた経験から、あえて相手が困ることをしでかして、こちらへの関心の度合いを瀬踏みしていたのだ。物語は周囲の愛情で回復したが、こんな心性が国際政治に持ち込まれては迷惑だ。核保有国の自賛はむなしく響く。亡くなった蜷川幸雄さんも手掛けた「リア王」では、道化が落ち目の王の従者をこうからかう。「大きな車が山から転げ落ちる時は手を離せ。ついていくと首をおるぞ」。高官の脱北増加は、その前触れか。【春秋】日本経済新聞2016.5.15
July 18, 2016
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静岡大学農学部教授 稲垣 栄(ひで)祥(ひろ)私は大学で雑草の研究をしていますが、ときに「雑草の生き方」に見せられるときがあります。雑草と言うと「踏まれても踏まれても立ち上がる」というイメージがあります。本当にそうでしょうか。確かに一度や二度踏まれたくらいでは立ち上がります。しかし、何度も何度も踏まれた雑草は立ち上がらなくなるのです。雑草魂というには、何とも情けないとガッカリしてしまうかも知れませんが、本当にそうでしょうか。そもそも、どうして踏まれたら立ち上がらなければならないのでしょうか。植物にとっても、もっと大切なことは、花を咲かせて、種子を残すことです。そうであるとすれば、踏まれても立ち上がるという無駄なことにエネルギーを浪費するよりも、踏まれながら花を咲かせて、種子を残すことを考える方が合理的なのです。踏まれやすい場所に生えている雑草を観察してみると、雑草は横に向かって茎を伸ばしていきます。上に伸びてもどうせ踏まれてしまうので、最初から茎を横に伸ばしていくのです。人間は物事を高さで評価したがります。しかし、がむしゃらに縦に伸びるばかりが雑草ではありません。横に伸びる雑草にとっては、大切なことは高さではなく、伸びた長さです。そして、上へ上へと背伸びしている植物たちを横目に、よく踏まれる場所の雑草たちは、広々とした地べたに悠々と伸びているのです。こうして雑草は、どんな環境であっても、必ず花を咲かせて種子を残すのです。大切なことを見失わない生き方。それこそが本当の「雑草魂」なのです。【すなどけい】公明新聞2016.5.13
July 17, 2016
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「信心の世界というは不思議なもので、苦労すればするほど、それが、最高の思い出になる。労苦は、すべて報われるからです。真心をもって友の激励に通い、発心することを祈り続ければ、どんな状況にある人も、いつか、立ち上がる時がくるものです。また、仮にそうならなかったとしても、相手のために尽くした分は、すべて自身の功徳、福運となって返ってくる。どれを実感できるのが信心の世界なんです」【新・人間革命「力走」42】聖教新聞2016.5.13
July 16, 2016
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作家・独文学者 中野 京子ヨーロッパに吹き荒れた「魔女狩り」の黒い歴史——数万から数十万の無辜(むこ)の民を拷問して処刑―—については、今なお大きな誤解がある。迷信のはびこる中世の出来事、という思い込みだ。そうではないから怖い。最盛期は近世前期。科学的思想と人文主義を謳うルネサンスの幕開けとともに勢いづき、十八世紀まで断続的に続いたのだ。大昔から迷信として存在した魔女を、共同体に紛れ込んだ悪魔の手先と解釈し直し、組織的撲滅運動に励んだのは王や司祭や学者など社会の上層部である。彼らはその魔女を摘発しやすいよう、発明されたばかりの活版印刷を利用して図像付きパンフレットを大量にばらまき、字の読めない庶民にもわかりやすい魔女のイメージを定着させた。法律家U・デングラーが十六世紀初頭に著した『信徒の鑑』から、挿絵「魔女の特徴」を見てみよう。ここには、近世への移行期に神学上及び法律上定義された魔女の五条件が描かれている、即ち「悪い魔法を使う、空を飛ぶ、悪魔と契約する、悪魔の情婦になる、サバト(悪魔の主催する魔女集会)に参加する」。画面右上の、雄ヤギに乗って飛ぶ魔女は、箒に跨った魔女と同じくらいよく見られる図柄だ。雄ヤギは古くから「淫欲」のシンボルであり、ここでは悪魔の化身。箒は家庭で女性が使う道具であるとともに、男根のシンボルでもある。画面左の魔女が鍋で作っているのは農作物を腐らせる薬、右の魔女は生乳に毒を入れている。魔女の行う最大最悪の魔術は、このような農業や家畜への「呪い」だった。実際、十六世紀後半から十七世紀末にピークとなった魔女狩りは、当時の深刻な農業危機と連動している。悪天、飢餓、疫病、不妊などは全て魔女の仕業とされた。そして画面下、かくも悪しき存在は生きたまま焼かねばならない。絵を見たものは納得し、魔女の焚刑を見物して溜飲を下げる。不安や不満のガス抜きに、為政者が魔女狩りを利用するようになったのは必然であろう。凄まじい拷問に耐え切れず自白した犠牲者の八割は女性だが、男も子どもも移民も異教徒も、また裁判費用が被告持ちになると、金持ちや名士にまで及んだ。魔女狩りは植民地でも起っている。一六九二年、イギリス領アメリカのセイラム村では、少女たちの集団ヒステリーに端を発し、狂信的な学者が自らの権威のため村人を煽りたて、短期間に二〇〇人が告発され、処刑一九人、獄死六人という恐るべき結果を招いた。不安の時代にはパニックが生じやすく、人は無意識にスケープゴートを求める。いったんイメージが作られ、それが一人歩きしてゆくとそこへ集団心理が働いてどんどん拡大する。魔女狩りは遠い過去ではない。活版印刷という文明の利器が悪用されたように、現代人の持つインターネットというメディアもまた常に危険を孕(はら)むものだということを心せねばなるまい。【文化】公明新聞2016.5.11
July 15, 2016
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決めて、祈って、行動する日々を「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」と、御書にある(912頁)。自身の体調や生活、学業や仕事、そして家族や友人のことなど、現実の悩みは尽きない。その苦しみを乗り越えるための生きる糧こそ信心である。目の前の壁を乗り越えようとする時に大切なのは、目標を明確にすることだ。電子情報サービス会社が昨年2月に行ったアンケートによると、「目標を立てることの良さ」について、約3500人の回答者の名で最も多く選ばれたのが「やるべきことがハッキリする」で48%、「生活が有意義になる「達成感が味わえるのは」などが続いた。また「人生の刺激になる」「つらいことが楽しくなる」などといった回答も。具体的な目標を立て、それを乗り越えることが生きる喜びつながると実感している人が多いことがうかがえる。◇かつて、戸田第2代会長は、「信心を、一言でいうならば、『心』を決めることである。同じ決めるのであれば、『勝つ!』と決めなさい」と語った。どんな難所にあっても「必ず勝ち越える」と、まず決める。その目標を明確にし、行動する。その先に栄光の人生の頂(いただき)は待っている。【社説】聖教新聞2016.5.11
July 14, 2016
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「勇気は刻下の問題に対してよくこれに応ずる力を有する処にある」これは、熊本出身の英文学者・戸川秋骨氏は訳したアメリカの哲人エマソンの言葉である。今いる、その場所で、「自分の為すべき事を即座に成す」力こそ勇気だというのである。◇九州・福岡藩の祖となった黒田官兵衛すなわち黒田孝高(如水)は軍略に優れ、かの信長・秀吉・家康という三人の天下人からも大変、重要視された傑物であった。彼の生まれは播磨国の姫路である。今の兵庫を地盤としながら、勲功を挙げ、やがて九州に本拠を移したのだ。黒田官兵衛は、後継者の子息・長政に、「終わりの勝を計れ」と教えた。戦いの大きな流れを見失い、目先の勝敗に翻弄されてはならぬ。「良将」は軽率な動きを排し、あくまでも全体観立って戦うゆえに勝利を全うできるというのだ。長い人生の戦いにあっても、途中には幾多の苦難がある。壁にぶつかる時もあろう。思いもよらぬ難関がたちはだかる。だが、我らには「法華経の兵法」がある。ゆえに迷いなく、定めた決勝点を目指して、辛抱強く力走するのだ。「そして最後は、信心しきったものが必ず勝つ」ことを、執念で証明するのだ。【池田SGI会長 随筆「永遠なれ創価の大城」[6]】聖教新聞2016.5.9
July 13, 2016
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ありったけの力で走り続けなくちゃならないのよ。その場にとどまっているためには―—。アリスが訪れた「鏡の国」の不思議を、赤の女王はこう説明した。ルイス・キャロルらしい不条理の世界ではあるが、これが進化生物学の世界では重要な考え方に通じるらしい。1970年代に米国の研究者が提唱した「赤の女王の仮説」は、たとえば次のような例を考える。キツネが獲物を捕らえる能力を高めたら、ウサギやネズミは速く逃げたり上手に隠れたりする力を磨かないと滅びかねない。その逆も真なり。キツネと競ってウサギなどを狙うオオカミにしても、絶滅の危機に直面する。つまり、生き物はたえまない軍拡競争を続けることによって種を保っている、という。軍拡のたとえにうかがえるように、国際政治にもあてはまる気がする。それ以上に、企業間の競争にぴったりかもしれない。内外で発表が相次ぐ企業の決算や再編の動きからも、全力で走り続けないと生き残れない現実が浮かんでくる。もっとも、生き残るための戦略はさまざまだろう。爬虫類の進化に詳しい平山廉・早大教授によれば、カメは忙しなく活動する哺乳類とも巨大化した恐竜とも異なる第3の道を選び、2億年も栄えてきた(「カメのきた道」)。一見のんびりした、つつましい生き方こそ、成功の秘訣。そんな企業だってあるかもしれない。【春秋】日本経済新聞2016.5.9
July 12, 2016
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苦難は、人間を強くします。大難は、信心を鍛えます。難に挑戦して信心を鍛え抜けば、わが己心に「仏界」を現わしていくことができる。大難が襲ってきても「師子王の心」で戦い続ける人は、必ず「仏」になれる。日蓮大聖人の仏法の真髄は「信」即「成仏」です。その「信」は、自身と万人の仏性を信ずる「深き信」であることが肝要です。また、何があっても貫いていく「持続する信」でなければなりません。そして、いかなる魔性にも負けない「強靭な信」であることこそが成仏を決定づける。この「信」即「成仏」の深義を説く「開目抄」の次の一節はあまりにも有名です。「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつた(拙)なき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234頁)いかなる苦難に直面しても「疑う心」を起こしてはならない。諸天の加護がなく、現世が安穏でなくとも、「嘆きの心」にとらわれてはならない。不退の心で信仰を貫く人が、真の勝利者である。信心の極意を示した根本中の根本の御指南であり、永遠の指針です。◇「疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と仰せのように、「信」の一念のみが、疑いや嘆きなどの無明の生命を打ち破って、妙法蓮華経の力用を生命に現す力を持っています。しかし、「無明」の力もまことに執拗であり、根深い。本当に無明と戦っていかなければならない時に、私たちの心に忍び寄り、生命を侵していくのが無明です。その愚かさを「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と戒められています。強盛な「信心」を起こすべき時に、反対に、不信を抱き、疑いを起こして退転してしまうならば、あまりにも愚かなことだ。“今が「成仏の時」ではないか! この大難を突破すれば、永遠の幸福を成就することができる!”との大聖人の魂の叫びが伝わってきます。何があっても疑わない。何が起ころうとも嘆かない。その強靭な魂を持った人は、何も恐れるものがない。(『開目抄講義』)【SGI会長の指針から】聖教新聞2016.5.3
July 11, 2016
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映画監督の山田洋次さんが、俳優の渥美清さんを起用したとき、こんなことがあったそうだ。撮影を終えた渥美さんに、山田さんは一言「いい仕事でした」と声をかけた。すると渥美さんはにっこり笑って「あんたとは、また仕事をやりたいね」。見事な返し技ではないか。この「あんたとは」は最高級のほめ言葉である。山田監督の仕事を高く評価したからこそ、自然に口から出たので出たのだろう。ちなみに、「あなたとは仕事がやりやすい」「相談に乗ってもらいたいことがあるの」という、ほめ言葉もある。いずれも相手の能力を認めていることが言外に伝わるさりげない言い方に威力あり。「あなたは、すごい」という直接的なほめ言葉よりもこの方が、ほめられた人はうれしさがこみ上げてくるではないか。日本人には、ほめるにしても、こういう大げさではないほめ方の方が正確に合っているように思う。さて、感謝するという、ほめ方のもある。「ありがとう。あなたのおかげで、とてもうまくいったわ」という、ほめ方だ。この言葉の裏には、あなたの仕事はていねいで、配慮がゆき届いているといった意味が隠れている。期待するという、ほめ方もある。「あなたには大いに期待しているんですよ」という話し方だ。あなたは才能に恵まれている。努力家だといったほめ言葉が隠れている頼るという、ほめ方もある。「この仕事は、あなたにしか任せられないんです」にも、あなたの技術や経験を認めている、という意味がある教えを乞うという、ほめ方もある。「ちょっと知恵をお借りしたいんです」という言い方だ。あなたはこの分野のエキスパートだ、この件に関しての知識はあなたに並ぶ者はいない、といっているのと同然となる。最後に私はいいたい。「人を見たら、ほめよ」と。人を生かすために、ほめる。そうすることで、じつは、あなたが生かされる。ほめ言葉の返し技で、今度は相手があなたのいいところを見つけて、ほめてくれる。お互いに、さりげなく「ほめ合う」ような話し方を心がけてみてはどうだろうか。直接、「あなたは、すごい」とベタぼめするのではなく、いま述べたように「ありがとう」「おかげで」「うまくいった」という言葉によって、さりげなく相手をほめる。だれかを通してほめることを「陰ぼめ」と書いたが、その伝でいえば、こちらは「隠しぼめ」といったところだ。本当にいいたいことは隠したままの話し方。日々のなんでもない会話の中で、言葉としては「あなたは大切な人です」という気持ちは表には出てないけれども、お互いに「感じて」いる。そう言う話し方を心がけているうちに、人と人との「確かなもの」が生まれてくるように思うのだ。「明るい話し方」といっても、いつも陽気ではつらつと……という、はじけるような明るさだけではなく、間接照明のようなやわらかい明るさもまた、人と人とをしっかりと結びつける力を内蔵しているように思う。【人の心をつかむギュッと「話し方」81のルール】斎藤茂太著/WIDE SHINSHO
July 10, 2016
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映画監督の新藤兼人さんは、10歳の時に母が縫ってくれた着物を生涯、大切にした。もともとは子ども用の筒袖だった。20歳近くになり、もう着る機会もないと処分しようとした時、袂が縫い込んであることを発見した。その時、既に母は亡くなっていた。大人になっても着られるように、との心遣いを知り、新藤監督は衝撃を受けた。「縫いこんであった袂のあたりには、母のたましいがしみこんでいる気がする」と(『蔵の中から』旺文社)。「これ、宝物なんです」。ある壮年部員に、使い込まれたノートを見せてもらった。見開いた左側に1年間の暦が手書きされ、右側には毎月の決意を書く欄がある。1980年に始まり、2030年まで、51年分が収まっていた。その壮年部員が未来部の時代を過ごした故郷の婦人部員から、「中等部になったお祝いに」と贈られたものという。表紙には「創立100周年へ 同志と共に!」の文字が。中には、これまでの壮年の決意と信心の足跡が書かれてあった。一人の未来部員の半世紀先までの成長を願いながら、真心込めてノートを作った婦人の姿を思うと、胸が熱くなる。5月は、3日が「創価学会母の日」で、8日は「母の日」。全ての創価の母に感謝し、わが広布の決意を新たにしたい。【名字の言】聖教新聞2016.5.1
July 9, 2016
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園田学園女子大学教授 荒木香織さん「豆腐メンタル」―—これはSNSなどで使われ始めた言葉で、繊細で「豆腐」のようにもろい精神を指す言葉だ。叱られると数日立ち直れない、「すみません」が口癖で、まったく自信が持てない・・・・・・。今、そうした傾向性が若者を中心に見受けられるという。今回のスタートラインでは、ラグビー日本代表のメンタルコーチを務め、「五郎丸ポーズ」を生み出した荒木香織さんに、「心の鍛え方」を聞いた。―—昨年開催されたラグビーワールドカップのイングランド大会。日本代表は、優勝候補・南アフリカ代表を破り「ラグビー史上最大の番狂わせ」の快挙を成し遂げた。その活躍を陰で支えた一人が荒木さんだ。アスリートは、もともとメンタルが強いと思われがちだが、強靭な体を持つラグビー選手でも、けがや試合中の失敗を恐れ、不安をいだくことは少なくない。体を鍛えたからといって、メンタルも強くなるものでもありません。世界トップクラスの選手でも、オリンピックなどの大舞台になると、実力を発揮できないという事実がそれを証明しています。メンタルコーチの役割は、選手の不安材料を取り除くためのスキル、道具を増やすことだと思っています。不安や課題に対するアプローチができるよう、気合や根性ではなく、理論に基づいた準備を重ねる。それがメンタルトレーニングです。―—不安や緊張は、スポーツだけでなく、普段の生活において誰もが経験するが、その克服は思いのほか難しい。どのようにしてメンタルを鍛えるのだろうか。例えば、大きな相手にあたるのが怖い選手がいたとします。相手を小さくすることはできませんが、負けないために自分の体を鍛えることはできますよね。何に不安を感じるのか。自分にできること、できないことを明確にし、克服する方法を一緒に考えていきます。不安などを一つずつ無くしていけば、最後は自信しか残りません。日々の生活に置き換えれば、どんな時に不安やイライラを感じるのか、自分をよく知ることです。ストレスの大半は人間関係に起因するともいわれています。他人の出方や性格を変えることはできませんが、自分の働き方を変えることはできますよね。そうすることで漠然と感じていた不安と向き合い、克服することができます。―—荒木さんは、メンタルコンサルタントとして、目標の立て方などについても各地で講演している。ともするとリーダーは、大きな目標を掲げがちです。しかし、設定した目標になかなか達することができず、駄目な自分ばかりが見えて自信をなくし、負け癖がついてしまうことにもなりかねません。そうならないために、今の自分より少し上、ちょっと頑張ればできそうな現実的な目標を立て、日々何に挑戦するのかを明確にすること。また、その際、必ず期限を設けることです。かといって、10年後とか遠くてもよくありません。今の時期なら夏までの3カ月といった比較的近い目標を設定することがいいでしょう。―—今の自分に何ができるか。荒木さんの視点は一貫している。過去は振り返っても変えることはできません。また、将来のことはだれにも分かりません。でも、今は違います。今日、何をするのかは自分で決められます。何ができるかを考え、精一杯取り組む。その繰り返しが、将来につながっていくのだと思います。私も、自分が大学教授になるとは思っていませんでした。学生時代は、宿題をするとか時間を守ることくらいしかやっていなかったし、何が自分の強みかも分からない状態でした。だからこそ思います。今に全力を尽くすこと。それが自分にできる全てなんだと。―—新年度が始まって1カ月。新たな決意で出発したものの、自分と他人とを比べ、自信をもてずにいる人も少なくないだろう。自信を持つために必要なのは、自分ができたことを評価してあげることです。例えば、今日も朝起きて出勤できたとか、くたくたに疲れて帰ってきたけれども、歯を磨いて着替えてから寝られたとか。日々の小さなことでも、あればできた、これができたと確認していくことです。その積み重ねが自分の自信につながります。大人になると誰も褒めてくれなくなりますからね(笑い)。ラグビー日本代表では、今日の練習で何ができたのか、明日やりたいことは何かを考えながら取り組んでいましたが、反省はほとんどしませんでした。もちろん、何かをして周囲に迷惑を掛けた時は、反省は必要です。でも、反省ばかりじゃ楽しくないし、自信なんてつきません。うまくいかなかったことを人は失敗と言うけれど、できなければ違う方法を試す。その繰り返しじゃないですか。そうやって少しずつできることを増やしていけばいいんです。―—最後に、新たな環境で挑戦を続ける若者へのエールを聞いた。当たり前かもしれませんが、この世に生まれてきたこと、それ自体が奇跡のようなものですよね。それなのに自分を卑下してばかりではもったいないじゃないですか。人生もうちょっと楽しく生きてみてもいいと思います。きっと80歳くらいになったら、若い時のことなんて、大した事件じゃなくなっていますよ。過去を嘆いたり、先のことを考えすぎて不安になったりせず、今を見つめて精一杯進んでほしいですね。あらき・かおり 京都市生まれ。園田学園女子大学人間健康学部教授。学生時代は陸上の短距離選手として国体などに出場。その後、心理学を学び、ノーザンアイオワ大学大学院で修士、ノースカロライナ大学大学院グリーンズポロ校で博士課程を終了。2012年からラグビー日本代表のメンタルコーチを務めた。【スタートライン】聖教新聞2016.4.30
July 8, 2016
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劇作家 五反田団主宰 前田 司郎春が苦手になったのは花粉の所為だと思っていたが、時が過ぎていくことの無常を、目の当たりにするからかも知れない。僕は春に生まれた。命を消費している実感は二十代が終わってから感じはじめた。十代二十代の頃は、永遠に生きるものと思っていた。そして三十代ももう終わる。あと何年生きるのだろうか。もう別にいいや、とも思うし、長くてもあと60年しか生きられないのか、とも思う。こうして60年ともいう数字を出してみると随分先が長いようにも感じるが、明日死ぬかもしれない。そんなことを言っていると、もっと先輩の皆さんからの「若造が何を言っているか」と言われそうだが、どんなに年老いた方も、死んだことはない。全ての人は死を、未経験なのだ。いや、どうだろう。本当にそうなのか? 僕らは生まれる前、死んでいたのではないか?死から生まれて死に帰るのではないか。死は最初の経験なのではないか。死は故郷かも知れない。そう考えると、死はかすかな望郷の香りがする。人々が死を思うときに感じる安らかな眠りのイメージもその表れかもしれない。ただ、強制のような突然の死はやはり無残で悲しい。人はいつか故郷へ帰る。が、それなりの準備をし、皆にさよならを言って帰りたい。自分のいた場所を綺麗にし、気持ちよく、心残りなく帰りたい。人が人の命を奪ってはいけない。自然は冷徹に無残に命を奪う。突然の死にみまわれた人々の旅の無事と、残された方々の心が出来るだけ早く元に戻るように、願う。【すなどけい】公明新聞2016.4.29
July 7, 2016
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新選(撰)組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に留まって、やりきれなかった。ただこの組織の維持を担当した者に興味があった。新選組以前には、日本に組織といえるほどのものはなかったのではないかと漠然と考えていた。あらためていうまでもなく、組織というものは、ある限定された目標をめざしてナイフのようにするどく、機械のように無駄なく構築された人為的共同体である。江戸期の藩というものはそうではない。 『ある運命について』(「奇妙さ」)*土方の新選組における思考法は、敵を倒すというよりも、味方の機能を精妙に、尖鋭なものにしていく、ということに考えが集中していく。これは同時代、あるいはそれ以前のひとびとが考えたことのない、おそるべき組織感覚です。個人のにおいのつよすぎるさむらいのなかからは、これは出てこないものです。 『手掘り日本史』(「歴史のなかの日常」)*騎兵というものを考えてみたいと思います。これは、集団的に使うと非常に強い力を発揮する。そして、その機動性を生かすと、思わぬ作戦を立てることができる。半面、騎兵はガラスのようにもろくて、いったん敵にぶつかるとすぐ全滅したりもする。ですから、この機動性を生かして、はるか遠方の敵に奇襲をかけるという場合には、よほどの戦略構想と、チャンスを見抜く目をもたなければならない。天才だけが騎兵を運用できるわけです。『手掘り日本史』(「歴史のなかの人間」)*「敵の動きは、本能寺ノ変により浮足立っております。これ自然の理ではありませぬか」「敵のみを見ている」「とは?」「味方を見ぬ。そなたは敵という一面しか見ぬ。味方が見えぬのか。物の一面しか見えぬというのは若いのだ」 『夏草の賦 下』*徳川体制というのは人間に等級をつけることによって成立している。身分(階級)を固有なものとし、それを固定することによって秩序を維持した。その人間が生まれついた固有の階級からそれより上の階級にのぼることは、ヨーロッパの封建体制ほど厳しくなかったにせよ、極めてまれな例外に属する。ただ、ぬけみちがある。庶民から侍階級になろうとおもえば、運動神経のあるものなら剣客になればよい。そういう志望者のうち何万人に一人ぐらいというほどの率で、どこかの藩が剣術師範として召抱えてくれぬでもない。 『花神 上』*兵法の真髄はつねに精神を優位へととってゆくところにある。言いかえれば、恐怖の量を、敵よりも少ない位置へ位置へともっていくところにあるといえるであろう。 『十一番目の志士 上』*【人間というもの】司馬遼太郎/PHP文庫
July 6, 2016
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文芸評論家 持田 叙子ガーデニングが楽しい緑の季節になった。庭は生活に喜びをもたらす大切な場所。都会ではその小さな緑が季節を告げ、町をうるおす。都市生活において人と自然をつなげる庭の重要な価値を、誰より先駆的に熱心に説いたのは文学者の永井荷風である。荷風は明治十二年、東京小石川に生まれた。エリート官僚で実業家の父を持つお坊ちゃん。軍国主義教育の学校をきらい、日本の大学には行かなかった。一九〇八年パリに遊学し、欧州随一の華やかな都会美に酔った。レストラン、舞踊場、美術館、カフェに夢中で通った。マロニエの街路樹を配するパリの大通りは美しい。家々の庭に花咲き乱れる風景もすてきだ。ちょうどモネやルノワールの絵の流行する時代だった。若い荷風は、自然の中で人々の楽しむ休日を描くモネが大好きになった。特に花咲く庭で女性たちがおしゃべりするモネの絵を愛した。こんな花咲く安らぎの庭が、富国強兵に走る日本にも必要だ。戦いではなく、日常生活を楽しむ心が日本人には必要だ。そう決意して荷風は同年の夏に帰国した。日露戦争に日本が勝った頃。母国の好戦的世相にさからうように、荷風は実家の広い庭のガーデニングに没頭した。木々や花の芽吹きから開花、黄落、落葉までをいつくしんだ。彼は初夏の庭を好んだ。木々の新緑にもさまざまな色がある。それを「緑のシンフォニー」と詩的に表現した。五月から六月にかけて千坪の庭は「来青果」で埋め尽くされる。来青花は荷風の父が中国から持ち帰り、植えた花だ。アイボリーの六弁の花びら、濃厚な香りが特徴。荷風はその香を、「林檎を焼き蜂蜜を煮詰むる匂」を讃えている。花と緑の庭は荷風にとって、平和で穏やかな暮らしのシンボル。荷風文学には、多くの美しく魅惑的な庭が登場する。【言葉の遠近法】公明新聞2016.4.27
July 5, 2016
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酪農家 小笠原 幸子私は、岩手県の二戸市で主人と2人で乳牛を飼育する酪農家です。東京の荒川区で生まれ育った私は、12年前に次女を連れて再婚しました。都会とは全く異なる環境と慣れない酪農の仕事で苦労の連続でした。臭い、汚い、きつい仕事が嫌で、逃げ出したくなることもありました。しかし、“使命あって来たのだ。今いる場所で勝つ”と腹を決めると、一念が定まり、酪農に対する姿勢も、仕方なくやる状態から、進んで仕事をする状態になりました。法華経法師品に「願兼於業」(願いが業を兼ねる)の法理が説かれています。ここでは、修行の功徳によって偉大な福運を積んだ菩薩が、安住の境涯に生まれるという業の報いを捨てて、人々を救うために自ら願って悪世に生まれ妙法を弘通することが述べられています。すなわち、菩薩の誓願の力によって、自分自身のさまざまな宿命を、わが使命と捉え返していくことができるのです。私が、嫁いだ地を自身の使命の場として決めたのは、こうした仏法の教えが生き方の支えにあるからです。クモの巣だらけで、空き缶が散乱していた牛舎も、その後、見違えるようにきれいになり、結婚当初、23頭だった乳牛が36頭に増え、牛舎を増築しました。子牛が生まれた時はミルクを飲ませ、1カ月過ぎるころ、雄の子牛や肉用の子牛を市場に売り出します。当初は、その日、涙を流しながら見送っては、感傷に浸るばかりでした。しかし今では、“少しでも、買い手や消費者の方に喜んでもらえるように”と、前向きに祈れるようにもなりました。酪農の全国大会で東北を代表し発表こうして酪農で得た体験や感動を、4年前、「東北酪農青年婦人会議酪農発表大会」で、わが組合を代表し発表することになりました。この発表大会は、毎年開催されており、二つある部門で登壇し、思いがけず優勝することができたのです。そして、神戸での全国大会に東北を代表して出場することになりました。家族はもちろんのこと、地域の人たちが“全国大会、頑張ってください”と寄せ書きを贈ってくれました。優勝はできなかったものの、皆さんが応援してくださったことがうれしく、嫁いできた時には想像もつかなかった変化に、信心根本に頑張ってきて良かったと心から思いました。今、わが家は食の安全・安心を何より心がけて、牛乳生産の一つ一つの作業に丁寧に取り組んでいます。全農(全国農業協同組合連合会)岩手県本部が行う、毎月2回のとても厳しい乳質検査があります。わが牧場は、3年連続で高い評価を頂き、そのうち2回は「乳質改善大賞農家」として表彰されました。“乳質改善大賞”は、県内全ての酪農家が対象で、私の所属する組合でも165軒中、5軒ほどしか頂いていない賞です。二戸市では、わが家だけです。この検査は、搾乳した内容の成分が、乳脂肪分、乳タンパク質、無脂乳固形分、体細胞、細菌などに分類され、それぞれの割合や数が一定の基準を満たすことで、いい品質であると認められるものです。特に細菌数と体細胞数は、基準を上回れば廃棄処分になります。さらに、数値が基準値と照らし合わされ、基準をクリアすればプラス何円となりますが、クリアできないと、マイナス何円あるいは廃棄処分となります。それだけ良質乳を生産することが酪農経営で大切のなるのです。乳牛を飼育する環境にも配慮わが家は、まだ一度も廃棄したことはありません。“乳質改善大賞”は、1回でも基準値から外れると頂くことのできない賞であり、この賞を頂いた時には、びっくりするやら、うれしいやら、自分たちの仕事が認められたのだと感激しました。普段から、主人の仕事ぶりを尊敬してきましたが、この時ほど主人を誇りに思ったことはありません。今は、毎年、この賞を頂くことが私たちの目標となりました。そのためにも、牛のストレスが増えないように、牛舎の環境に気を使っています。牛が寝起きする時は、牛の足が滑らないようにマットを敷き、また、おがくずを散らして、落ち着いて休めるようにしています。また、牛舎内を一定の温度に保つことができるように、壁に大きな換気扇を、いくつも取り付け、換気にも気を配っています。近年は、天候の変化が激しく、それが牛の病気の発生にも関わる可能性があるので、毎日の牛の管理には気を使います。面倒を見る私たちが心身共に元気でなければ、牛の世話を細かいところまですることはできません。唱題で生命力を旺盛にしておかなければと、いつも自身に言い聞かせています。理想の国土を築く主体者に日蓮大聖人は、「浄土と云ひ穢土と云うも土に二(ふたつ)の隔(へだて)なし只我等が心の善悪によると見えたり」(御書384頁)と仰せです。浄土とは、仏の住む清らかな国土のことであり、穢土とは煩悩や苦しみに満ちた“汚れた国土”のことです。一見、異なるように思える二つの国土が、本来は別々のものではないと、この御文は教えています。自身のいる場所を理想の環境にできるかどうかは、自身の一念と行動にかかっていると確信します。仏法は、自身が今いる場所を自ら変革して、自他共の幸福を築いていくことを教えているのです。私は東京から北東北へ「Iタール」(都会出身者が地方に移住すること)しました。その後、二戸市に嫁いできてからの12年間、創価学会の同志の皆さんに励まされ、また地域の人たちや同じ酪農を営む仲間との交流を通しながら、多くの方に支えられてやってきました。池田SGI会長は、かつて「21世紀は東北の時代」と言われました。私は、この言葉が大好きです。これからも消費者の方々に喜んでいただけるよう、努力と工夫を重ねて良質乳の生産に励んでいく決意です。おがさわら・さちこ 岩手県二戸市で、夫の昭さんと「小笠原牧場」を経営。東京・荒川区で生まれ育ち、結婚を機に東北へ。1957年(昭和32年)入会。支部副婦人部長。農漁光部員。【紙上セミナー「生活に生きる仏教」】聖教新聞2016.4.26
July 4, 2016
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幼い子が虐待により命を落とす―そんな悲しい事件が後を絶ちません。では、かろうじて虐待から生き延びた場合、子どもたちはすぐに安穏な生活を送れるのでしょうか?今回は『誕生日を知らない女の子 虐待―その後の子どもたち』(集英社)で2013年の第11回開高健ノンフィクション賞を受賞し、現在も取材を続けている黒川祥子さんに話を聞きました。ノンフィクションライター 黒川祥子さん心の傷は深く虐待を受けた子は、怒りや恐怖などの感情にふたをして耐え忍ぶ。保護され、やがて警戒が緩むとふたが開き、さまざまな問題行動を起こしてしまう。虐待の後遺症だ。「共通しているのは、愛着障害です。乳児院で育ったある女の子は人との距離がわからず、例えば病院の待合室で隣に座った女性にベタベタして、バッグを開けてしまう。甘えたいけど、相手の感情を読むことはできません。急に暴力的になったり、現われ方はそれぞれです。虐待の取材を始めて強く思ったのは、人間は生まれながらにして人間なのではないということ。赤ちゃんが心地いいものを欲したり、不安になった時、受け止めてくれる人がいることで安心感を得ます。それを繰り返す中で、人を信じたり自分の世界広げることができる。喜怒哀楽の感情も『お母さんが喜んでくれて、うれしい』と愛着から学びます。その、本当に人間として大切な基盤をもらえるか、もらえないかで人生が変わってしまう。ある里親さんは愛着形成について『3歳まで何もないのと、途中の3年が抜けるのとでは全然違う』と言われています」保護された子どもは、乳児院、児童養護施設、情緒障害児短期治療施設など、年齢や状況で行き先が決まる。できることなら、一対一で愛着を結ぶ関係を作る「育てなおし」は、施設より里親(養子縁組しない「養育里親」が主流)やファミリーホームなど「家庭養護」が望まれるところ。ファミリーホームとは「要保護児童」を養育者の住居で5人から6人育てる事業で、一定の要件を満たした養育者と補助者の3人以上で養育にあたるため、密室になりがちな里親制度とは異なる。黒川さんは多くのファミリーホームを取材してきた。いつでも帰れる居場所「どうせ俺はバカだから仕事できないし、死んだほうがいい。大人になって、つらいことだろう」―2歳から養護施設で育った拓海くん(仮名)が、小学4年生までファミリーホームの高橋家に来た時の言葉だ。黒川さんは寝泊りをしながら取材を重ねた。「拓海くんは家庭内虐待の被害者でもあるんです。多くの施設は子どもたちのために努力を続けていますが、彼の場合は施設擁護の負の部分も体験してしまった。体や頭の洗い方さえ知らず、不潔な施設で、上下関係が支配する。毎日が戦場だったんです」ホームでは皆「高橋さんの子ども」として学校へ通う。拓海くんは、包丁のトントンという音や、自分が食べたいものをリクエストしたり自由におかわりができるなど、初めて経験する「家庭」に戸惑い、挙動不審に。「虐待は第4の発達障害」と提唱する医師もいる。高橋家の子どもたちも、拓海くんを含め全員が児童精神科の薬を服用。虐待の後遺症の現実だ。拓海くんも暴力でねじ伏せようとしたり、熱いココアを飲めず『無理だ!』と泣きだしたり。何か困難にぶつかった時、愛着の基盤がないため自分をなだめられず、すべてを一気にゼロにしてしまうのだ。学力も小学1年生レベルしかなく、知的障害があると療育手帳が交付されていた。だが、里親の朋子さんが主治医に尋ねると「単なる経験不足」と。なぜ施設では知的障害児とされてしまったのか。「俺はバカだから……」という拓海くんに、朋子さんはお母さんとして惜しみない愛情を注ぎ続けたという。「高橋家という居場所と家族を得て6年。今、拓海くんは中学3年生。ちゃんと受け止めて愛してくれる存在と出あえて、自分の意思で進学した養護学校で生徒会副会長ですよ! 自分を尊重してもらえる体験がどれほど自信を与え、前向きに変えるか。彼は18歳以降の人生を見据えて、正社員として就職できる道が開かれている高校を受験するそうです。朋子さんが切望していた『俺の人生も、なかなかだなぁ』と思える人生に向かって進んでいます。里親さんたちは皆、大変なこともひょうひょうと『自分の根っこを、この家に張らせてあげたい。そして送り出したい』と明るく取り組まれて、頭が下がります」生きる意味を持つこと虐待を受けた子が大人になり、親となった時、わが子に暴力をふるってしまうことは少なくない。「虐待がなじみの環境でそれしか知らないと、暴力が当たり前の世界になってしまうんです。例えば、アルコールの問題がある父親から暴力を受けて育った娘が『絶対お父さんみたいな人と一緒にならない』と思っても、同じような人と一緒になるのは、それが彼女の知っている唯一の世界だから。マイナスのゆがんだ愛着が形成され、それ以外のものを獲得できなかったのです。施設の職員でも里親でもいい。信頼できるだれかと出会えるかどうかは、とても大きいですね。愛着がないと自分のことも肯定できません。前に進むポイントは、被害者としての人生から脱却できるかどうか。親のことをずっと恨んでいたら、恨み続ける人生になってしまいます」彼らには心の傷の修復だけではなく、将来についての困難さも降りかかる。大学進学率も低い。先月、児童虐待防止法の改正が決定し、一時保護中の施設入所措置が20歳未満まで可能になった。「やっとですよ。今では高校卒業と同時に社会に放り出されていた。18歳で自立なんて、できるわけがないんです。自己責任じゃなくて、もっとこの子どもたちを受け入れられる寛容な社会でありたいですね。先日、大学1年生の里子が、里親の養育体験会で語った言葉が忘れられません。彼は3歳で育児放棄され、弁当を求めて近所のコンビニ行き保護されました。『俺は何でこんな生い立ちなのか。すごく腹が立つ。悔しい。でもあなたはあなたでいいんだと言ってもらえた。僕が今こうしているのは、里親制度のおかげです』と。実母についてどう思うか聞くと『母子家庭への支援があれば、違っていたと思う』って言うんです。彼はもう被害者としての人生ではなく、自分で決めた福祉の道を歩いていました。今度は、大人になった彼らのことを伝えたいですね。人生がうまくいっていない子らもいます。でも、生きていてくれたのだから、生きていてよかった思える意味を持ってほしい。それは大人の責任です。また、彼らと里親が、家族になっていく過程は、血縁だけで成り立っている家庭を、逆に照らしてくれる―そんな気がしています」 *くろかわ・しょうこ 弁護士秘書、業界紙記者などを経てフリーライターに。家族の問題を中心に執筆活動を行う。著書に『熟年婚 60歳からの本当の愛と幸せをつかむ方法』『誕生日を知らない女の子 虐待―その後の子どもたち』『子宮剄がんワクチン、副反応と闘う少女とその母親たち』など。【ライフスタイル】聖教新聞2016.4.22
July 3, 2016
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国際ペン専務理事 堀 武昭一昔前、労働者外国といわれた英国では不法な山猫ストライキが続出、慢性的な不況が続き“英国病”と揶揄されてきた。その構造的不況を脱却させたのは時の宰相サッチャーだった。数年前には彼女の一生を描いた映画『鉄の女』が上映され、人気を博した。なぜこんな話を唐突に持ちだすのか、実はロンドンで英国病の兆候とも思われる事態に遭遇したからだ。最も身近な例を一つ。仕事の中心がロンドンゆえ、日本から戻るたびに形態のシムカードにお金を追加するのだが、今回その更新作業をなぜか代理店が拒絶したのだ。「細かい数字が見えないので、いつものように更新手続きを」という頼みを店員が無碍なく拒否した。「私が教えるので自分で実行しなさい。本来、私の仕事ではない」とさえ言う。直ちに反論した。「でも、プロなら数秒で済むことだし、私が覚えたところで、年のせいもあり次に来た時は忘れているよ」。途端、彼の顔が変わった。「あなたのような人は決して学ぼうとしない。だからどんなに強要されてもその要望には応えられない」。短絡的なやり取りにすぎず、こちらが引っ込めばすむ話だが、あまりに横柄だったので、しばらく同じ次元での論議を繰り返した。最後に「それではお金を返して欲しい。他の店で頼むから」と切り出した途端、態度を翻した。「それでは手順を紙に書いて教えるから、それに従って自分でやれ」ときた。私はカバンからおもむろに老眼鏡を取り出し、「これが現実でね。数字を読めと言われても眼鏡がないことには。それにいつまたロンドンに戻るのか、東京は遠いから」などと一人ごち。さすがの彼も折れた。振り返れば私の後ろに5名ほどの人が列を作っていた。たわいない市井のやり取りだが、これが単なる異文化間の不協和音なのだろうか。アフリカ・シリアからの難民を受け入れ、EUからの脱退をめぐる彼らの最近の動きを見るにつけ、英国病再来の兆候ではないことを祈るばかりだ。【ニュースな視点】公明新聞2016.4.25
July 2, 2016
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先生は、いままで何回も海外に出られて、さまざま大学の講演ですとか、あるいは、海外の著名な方々との対談とかおこなっておられます。実は私の仕事柄、ある倉庫とか、蔵のなかを歩き回っているんですけれども、そこで大変変わったものが出てまいりました。四冊の小さな大学ノートが出てきました。一緒に巻紙になにやら和歌が書いてあるものも出てまいりました。で、よく解んなかったんでしらべてみましたら、実はこれが、いわく因縁のあるものだということがだんだん解って参りました。それは、三十年位前になるんですけれども、毎日新聞社の企画で、アーノルド.トインビーに読者から質問を募集する。そしてその読者の質問にトインビーが毎日新聞の紙上で答えるという企画があったんだそうです。実は、その企画に、神奈川に住んでいた佐藤さんという青年が応募をされました。そしてその質問が採用されて、毎日新聞に載ったんだそうです。調べていくうちに、そうようなことがだんだん解ってきました。さらに調べてみると、実は、佐藤さんはこの時、トインビーの質問の答えに満足できなかったそうです。で、彼は、直接トインビーに手紙を書こうという気になったそうです。ところが、彼は進行性の筋ジストロフィーという、医学の世界でも、どうにもならないという不治の病と戦っていたそうで、小学校途中で、すでにもう学校にも行かれずに、入院と自宅療養との繰り返しになっていたそうです。そんな中で彼は、『私は学校にも行けない。したがって、私の生涯にあって、先生と呼べるのは池田先生しかいないんだ。』そう腹にきめてですね、先生の指導であるとか御書であるとか、懸命に勉強しながらいたそうです。そういう彼ですから、毎日新聞の企画に、さっそく先生の思いというものをぶつけたくて投稿をしたそうなんです。ところが先ほどの話のとおり、博士の返事が納得いかなかった。どういう話かといいますと、アーノルド・J・トインビーという世紀の歴史学者が、その考え方を新たにするエポックになったひとつの事実であったことがだんだん解ってきました。博士は、文明が新たな文明に転換あるいは昇華をしていくときに、文明間において、挑戦とそれに応ずる戦い・応戦とが起こりうる。という考え方から、戦争必然論を展開していったそうなんですね。そこのところを佐藤さんは、自分が尊敬する創価学会の指導者である池田先生は、博士の考えと全く異なっています。絶対的な平和を基調とする文明論を展開されているんです。このアーノルドトインビーの根底的な歴史観を覆すような内容の手紙を書いたそうです。もっとも彼は、筋ジストロフィーという病気になっていましたので、決意をして書き始めても、大変に体力を消耗する戦いだったそうです。長文の論文だったそうですが最後の方になりますと、ひとつの文字を書くのに、数分かかるというような大変な手紙だったそうなんです。この話を先日、お母さんとか、弟さんにも聞きましたけれども、その手紙を毎日新聞社に持っていったそうなんですね。けれども、毎日新聞では、これ以上のことはできませんと言われてしまい、門前払いをされてしまったそうなんです。そんな時に弟さんが、夏期講習会で池田先生にお会いする機会を得たそうです。それで、お兄さんの論文ともいえるお手紙を、先生に見ていただく機会があったそうなんです。先生は、そのお手紙をご覧になって。これはもう、ともかく素晴らしい!これはすごい論文だ!当時のお話ですから、富士美術館が完成したら永久に保管をさせていただこう、そういうふうに言っていただいたそうです。そして、佐藤君のお兄さんには、団扇(うちわ)をお土産にいただいたそうです。団扇を持って帰ってその話をしたところ、ベッドのうえでその団扇を手に取りながら、『この うちわ というのは、打ち破ると書いて病魔をうち破りなさいと先生はおっしゃっていらっしゃるんだ』こうお兄さんは言われてですね、力ない手つきではあったそうですけれども、団扇をあおぎながら先生の激励にこたえたそうです。そうこうしたなかで、毎日新聞社としてはできないけれどもということで、毎日新聞の一記者が、彼の手紙の内容に感動していて、尽力をしてくれたそうです。そして、アーノルドトインビーの弟子が、京都大学で教授をやっておられたそうで、そこに持ち込んだんですね。教授もやはり内容に感銘し、その手紙を自分で全部英訳して、アーノルドトインビーに届けたんだそうです。そんな状況だったそうですけれど、手紙に対する返事はいつ届くか分らない。しかし、彼の病状はどんどん悪化していったそうです。ある時なんか心臓が止まってしまってですね、人工呼吸で家族の唱題で必死のところで蘇生をするというふうなこともあったそうです。病院の医師からも、とても返事が来るまで持たないかもしれない。という話があったりなんかする。そんななか彼は頑張っていたそうなんですが、いよいよ返事が来たときには、彼は病院のベッドから起きあがれなかったそうです。とにかく、京都大学の教授が一緒に来てくれて、翻訳しながらその手紙を読んで聞かせてくれたそうです。そのトインビーからの手紙の内容はかねてから創価学会には注目をしていました。池田先生の平和的な歴史観という佐藤さんの主張について、私もいま考え始めています。是非日本に行って佐藤君にお会いしたい。また、創価学会の指導者である池田先生にも是非お会いしたい。そうゆう趣旨の返事であったそうです。トインビーもこの佐藤さんの手紙によって、創価学会、仏法、そして池田先生という偉大な人の存在を知ったようです。その誠意あふれる博士からの手紙を受け取った数日後、彼は、二十四才でなくなった。そのことについて、お母さんと弟さんが、先生にご報告をされる。報告を受けられた先生からは、『一度もお会いしたことはないけれども、佐藤くんは私の立派な弟子です。』という御伝言とともに記念品が届けられたそうです。ところが、記念品は、本来亡くなったわけですからあれなんですけれども、先生はあえて、真っ赤な朱文字でお祝いと書かれて届けられたそうなんですね。そんなことがあった後しばらくして、アーノルドトインビーから先生宛に、池田先生をロンドンにご招待したい。我々二人で、現在人類が直面する諸問題について対談を希望したい、という要望が届いたそうです。そして1973年5月15日、いよいよ先生とトインビーのあの有名な対談が実現をする。それで、いざ会談に臨んだ博士というのは、池田先生の人格、見識、知性というものにふれて、いっぺんで先生に惚れ込んでしまう。それで、会談の最後のほうには、どうか私の紹介をする、私が信頼をする世界の七人の人物に会ってもらいたい。そして、先生の思想というものを語っていただきたい。そういう話がトインビーからあって、世界的な知性の人物を七人紹介されて、それから対談が大きく展開され、先生のネットワークがさらに拡大していく。こういう戦いがあったそうでございます。ところで、先ほど出てきた四冊の大学ノートはいったいなんだったのかと言いますと、彼が病床でですね、一生懸命に和歌を綴っていたんだそうです。大変申し訳ない話ですが、開けてみると、大変大きな文字で、かな釘流で、とても何か読みづらいんですね。ところがその四冊の最初の頃の歌というのは、何とかの誓いに負ける我が身に泣けるとかですね、星が輝いて悲しいとかですね、とっても悲嘆にくれるという歌が多かったんです。しかし、先生の激励や周囲の人たちの励ましもあって、彼は病魔と戦い、手紙を書き続けるというなかで、だんだん死に近づくにつれて、それとは逆に彼自身の生命力が増してきて、むしろ大変な使命感にあふれ、輝きをましていくような歌に変わってきました。で、最後の一句というのは、一念の力に勝(すぐ)る敵はなし成すも成なさぬも己(おの)が心ぞこう読んで亡くなっていきました。それを数年経って、お母さんが、是非先生に息子の和歌を見ていただきたい。そうはいってもあまりにも病床で筋ジストロフィーという体で書いた文字なので、先生にお見せする、また読んでいただくのは申し訳ないということで、お母さんが筆で、巻紙に書き写されて、それを届けられたものだったそうなんです。そうような戦いがあって、少なくとも懸命な一人の青年の戦いというものが、世界の広宣流布の、やはり大きな原動力になっているという事実、そういう陰の戦いがあった。歴史を作られたんだなと、この大学ノートを見、そして調べていくなかで思いました。以 上
July 1, 2016
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