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島薗●アメリカが頼りにならないということは、多くの日本人が薄々勘づいているように思います。おそらく現在は、「ごっこ」遊びに不安を覚えながら、東アジア的な権威主義体制に回帰しようとしているという過渡期なのかもしれません。ただ、権威主義体制の回帰を放置したままでは、戦前と同じように日本社会が暴走する危険性を秘めている。それを食い止めるひとつの思想的アイデアが、中島さんのいう「アジア主義」ということだと思います。でも、多くの人は、はたして宗教も価値観も違うアジアが連帯などできるか、と疑問に思うはずです。前章で柳宗悦の思想的な可能性についてお話がありましたが、具体的なアジアの連携についてはどのようにお考えですか。中島●たしかに多くの有識者が簡単に「東アジア共同体」と口にはすれけれど、現実性は乏しい。それはEUと比較すればよくわかります。EUが、政治的にも経済的にもさまざまなリスクを抱えながら、それでもなおつながり続けているのは、中世以来、「ヨーロッパとは何か」と繰り返し問い続けてきたからです。そのなかにあったのは、もちろんキリスト教です。EUはキリスト教をベースに、「ヨーロッパ」という思想的な地層を形成してきました。そうした思想的な地層のうえで、連邦国家という容易には到達しえない目標を立て、それに向かって具体的な協議を重ねた結果が現在のEUです。たしかにEUが連邦国家になることは難しいでしょう。しかし、それでも具体的な議論を経て、当初想定したものとは異なる、「中途半端なものとして安定している」システムができ上がっている点が重要です。このヨーロッパの経験に照らし合わせれば、東アジア共同体がすぐに生まれるはずはありません。しかし、アジアとはいったい何なのかと問い続け、そのうえでアクチャルな問題として東アジア共同体について協議をしていかなくてはならない。その具体的なプロセスの延長線上にこそ、私たちの想定していない何らかの「アジア」というまとまりが構成されていくのではないでしょうか。島薗●私も中島さんの考え方に共感します。EUを支えるキリスト教、あるいはカトリック教会というような一元的で強固な共通の基盤がアジアにはない。しかし、一方で、東アジアは多様な思想が多様なまま共存するという経験をずっとしている。ここに独自の可能性があるはずです。明治維新から150年。この間、日本は、東アジアの宗教や精神文化を遠ざけ、西洋的な近代化に邁進したつもりでいた。しかし、今や近代的な枠組みを作ってきた国民国家や世俗主義という理念が、問い直されるようになっています。だとすれば、現在の危機を奇貨として、私たちは東アジアという枠組みから急峡や精神文化の重要性を考え、それが立憲主義や民主主義とどう関わり合うのかを考えてみるべきでしょう。そのためには立憲主義についても、これを西洋からの輸入物としてではなく、東アジアにある思想資源や文化資源から意味づけし直すことができるはずです。アジア的価値観の中に、いかにして立憲デモクラシーと歩調を合わせる精神性を見ていくか。こういう日本の課題と、中国の中で立憲主義的な動きがどういうふうに現れてくるかということを同時的な問題として考えていく。あるいは中国は多様な民族を共存させていくという課題と、日本が国家主義に向かう流れを克服していくという課題を同時に考えていく。こうした共通の課題をともに担っていると考え、その解決に向けて自国だけでなく、アジアあるいは東アジアの枠組みで考えていく。それが中島さんのいう「アジアとは何か」と問い続ける態度にも重なるように思います。たしかに、アジアにはキリスト教のような共通の思想的基盤は見つけづらい。しかし、繰り返しになりますが、多様性に基づくがゆえに、多様性と取り組んでいく経験が糧になる。その経験をイスラーム圏や欧米とも分かち合っていくということはできるはずだし、それこそ日本が世界に今後発信していくべき精神的な貢献だと思います。【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 30, 2016
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島薗●現在の日本で天皇に対する熱狂的な信仰はないと申し上げましたが、しかしその代わりに、中国や韓国への対抗意識から、そしてそのナショナリズムを政治的に活用しようという動きが露骨になってきている。そこに、国家神道的な思想が動員の道具とされているわけです。中島●非常に重要な指摘だと思います。戦前では、その「愛国」に、親鸞主義や日蓮主義のような「信仰」も結びついていました。どちらにも共通するのが、天皇のもとでのユートピア主義です。そして社会の流動化や貧困、格差が進んで行った時代の中で、砂粒となった大衆もそのユートピア主義に共振してしまったのだと思います。現在はもちろん、仏教会が国家神道と結びついているわけではありません。でも、親鸞主義の現状肯定的な要素や、日蓮主義の設計主義、改革主義的な要素は、国家神道的な心性とともに、戦後の日本人の精神性に深く影響を及ぼしているように感じます。本来、保守の思想というのは、単なる現状肯定も、理性を過信した設計主義も退けます。人間は不完全な存在ですから、誤ることもある。だからこそ、長年かけて作り上げられてきた良識や習慣を大切にしながら、変えられる部分から漸進的に変えていきましょうと考えるわけです。その意味で、いま私が恐れているのは、日本社会全体が性急な変化を求めようとしていることです。他者との利害調整や合意形成に時間をかけず、「決められる政治」のような意思決定の速さばかりもてはやされる。その性急な態度は、立憲デモクラシーとも相容れないものではないでしょうか。島薗●中島さんが繰り返し批判している、自称保守主義者たちも性急さの病に取り憑かれています。明治維新以来の一五〇年をふりかえって日本の弱さを点検すべきなのに、国体論的な日本に戻れば、本当の日本に戻れるような短絡的な発想でいる。そういうなかで、全体主義ともいえるこの日本の体制はどうなっていくのか。立憲デモクラシーとの関連で言えば、東アジア的な権威主義体制に安部政権は傾斜していき、立憲主義を根こそぎにしようとしている。憲法改正まで政治日程にありつつありますが、自民党の会見草案は、立憲デモクラシーと相容れないものです。時間をかけて、天皇主権という動きにまでいきつく可能性すら否定できません。中島さんは、今の政治状況を全体主義だとまではおっしゃらないけれども、東アジア的な権威主義が日本で強まっているという点については先ほど、同意なさっていましたね。中島●そうです。島薗●ここで日本の安部政権の権威主義に対するSEALDsの運動と台湾や香港の学生運動をつなげてみたいのです。台湾や香港の学生運動は、中華帝国の周辺ですでに民主化を経験した人々が、全体主義的な中華帝国の支配の強化にノーを言う運動ですよね。それと同じでSEALDsは、安部政権といういわばミニ中華帝国に対する抵抗運動なのではないでしょうかと考えているのです。中島●ただ、気をつけなければならないのは、権威主義的な体制に対する主権運動というのは、どうしてもナショナリズムの暴走とつながりやすいということです。フランス革命以降、自分たちの主権が奪われている、それを奪取せよという運動は、ナショナリズムを刺激しながら展開し、排外的なものになる可能性が高い。中国の場合は反日、日本では反中・嫌韓という排外主義と合流してしまう可能性があり得なくない。それこそアメリカが撤退し、東アジアの緊張が高まっていたときには要注意です。そういう局面で、橋下徹氏のような権威主義的パーソナリティに飛びつく可能性は十分にあるわけです。そうならないように、日本は準備しなければいけない。そのために「アジア主義」について、失敗学も含めてもう一度、再考する必要があるんじゃないかというのが私の考えです。【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 29, 2016
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リオ五輪の出場選手が続々と決まる一方、選考に漏れ、競技生活に区切りをつける選手もいる。「ここまで長く真剣勝負をさせてもらった競技生活は、幸せだと思う。悔いはない!」。4個の金メダルを獲得した水泳・北島康介氏の、引退会見で見せた笑顔は記憶に新しい。晴れやかな表情は、ケガや重圧を勝ち越えてきた、完全燃焼の競泳人生を物語っていた。(略)先の北島氏は、「苦しい時が長かった。喜びが味わえるのはほんの一瞬。毎日プールと勝負だった」とも語っている。苦しんだ分だけ、喜びは大きくなる。一日一日、一瞬一瞬を挑戦し続けた人だけが心の充実を得られる。日蓮大聖人は「ただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定(いちじょう)とをもへ」(御書1190頁)と仰せだ。試練に直面した時こそ、成長の節を刻む最良の時が来たと受け止め、戦おう。「やり切る」と覚悟を決めて進む人生は、幸福である。【名字の言】聖教新聞2016.4.22
June 28, 2016
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島薗●中島さんは、この戦後の第三期の最終局面で、全体主義が戻ってくると考えていらっしゃいますか。中島●全体主義が戻ってくるとしたら、そのきっかけは、東アジアからアメリカが撤退したときなのではないかと考えています。つまり、アメリカという後ろ盾を失った時、その不安に、日本人が耐えられないのではないか、ということです。批評家の江藤淳が一九七〇年に「『ごっこ』の世界が終わったとき」という論考を書いています。彼はそこで、戦後日本人はずっと「ごっこ」をやってきたと言っている。つまり最終決定はアメリカがするのだから、国会審議なども全部「ごっこ」にしかすぎないと。ところがそれから四十五年以上もたって、安倍首相はこの「ごっこ」遊びをもっと強化しようとし、それを「戦国レジームの解体」という矛盾に満ちたことをいっているわけです。ともかく「ごっこ」は続いている。しかし、アメリカは遠からずアジアから距離を置き始めるでしょう。そのとき、日本は大きな不安に見舞われる。しかも中国との関係性はきちんと構築されていない。そうなれば、一瞬の出来事をきっかけに、権威主義的パーソナリティに飛びつく可能性が十分ある。島薗●なるほど。中島●もちろん、島薗先生の危惧なさっている「上からの」統制的な側面が、現在の日本で、すでに強くなっていることは同意します。たとえば秘密保護法とマイナンバー制度の問題です。秘密保護法によって、権力が何をやっているのか分からないという状況が作られます。何が秘密なのかすらも秘密にされるようになった体制で、私たちの側からは権力の姿が見えない。見ようとしても、メディアは規制・統制されています。一方、マイナンバー制度の本質は、国民に「常に権力から見られているかもしれない」という意識を内面化させることにあります。そうすると国民は、勝手に規律化し、自主規制を始める。効率的かつ効果的な統治を行うためには、国民一人ひとりに権力監視の眼差しを内面化させればいいわけです。これも、国家精神総動員運動と同じように、権力に従順な国民を作り出すものに他なりません。結局、これはフーコーが言ったパノプティコンですよ。島薗●言い換えれば、ジョージ・オーウェルの『1984年』の徹底した監視と管理の世界です。しかし、それでもテロリズムが起こるよりはましだということで、このような統治の体制が大衆から支持されてしまうのでしょう。中島●治安維持権力の強化が、フランスのテロをきっかけに、日本も尻馬に乗って進められることになる。【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 27, 2016
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中島●島薗の先生がおっしゃるとおり、足場を失った大衆という存在が可視化されてくるのは、明治から大正に移る時期、歴史区分で言うと第二期の後半です。このころにある種の危ない塊、全体主義を支える層というのが徐々に構成され、第三期に入ると、疲弊した農村部から都市に流れてきた人たちの中から血盟団事件のようなテロを起こす人々が出てくる。つまり、大衆化の時代と心宗教の動きは、やはり連動しているのですね。島薗●血盟団事件の井上日昭は、日蓮宗が変形した新宗教の教祖のようなものですからね。中島●軍人たちと心宗教のつながりも見逃せません。「坂の上の雲」で有名な秋山真之も、晩年は大本教の熱狂的な信者でした。坂の上の雲をめざすという明治の物語を失ってしまった後のさまよえる軍人たちは、新宗教になだれ込んでいった。石原莞爾が国柱会に入会したのは一九二〇年。これも同じ文脈です。こんなふうに、流動化した社会における大衆、新宗教、権力という問題が、戦前の第三期の日本の抱える問題というのは、やはりどこかパラレルなんですね。つまり、いまの流動化した社会の中で、なぜ日本会議のようなものが政治的な主体性としてこれだけ大きな力をもってくるのかということと、戦前の動きはつなげて考える必要がある。島薗●ただ、日本会議に参加している宗教団体は、勢力の強い教団はさほど多くないのです。信仰している人たちも、政治的意識も弱い。むしろ、日本会議に入ってない幸福の科学や神道系のワールドメイトという教団が、強烈なナショナリズムを掲げていますし、年齢層が低いです。例えばワールドメイトの一九五一年生まれの教祖・深見東州は、1990年頃から「日本の神ながらの精神が本当に優れている」「諸外国の人々にはその素晴らしさが理解できません」、やがて世界がそれを認める日が来るだろうと述べていました(『ポストモダンの新宗教――現代日本の精神状況の底流』)。一方、宗教界の中に安部政権の権威主義や日本会議的なものに批判的な勢力がいることも指摘しておきたいと思います。新宗教で言えば例えば立正佼成会です。大本教も、一時は国体論を取り組んだものの、戦後は平和主義の方向が保持されてきました。伝統仏教も日本会議に批判的です。【信仰と愛国の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 26, 2016
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中島●いまのお話で、大衆という問題の難しさをあらためて感じつつ、亡くなった吉本隆明の言う「大衆」と、同じく故人となったばかりの鶴見俊輔の言う「民衆」の違いを思い出しました。吉本さんは「大衆の原像」というキーワードがあることからも分かるように、大衆の側に立つ思想家でした。しかし、その大衆は一九九〇年代後半になると、新自由主義に飛びついて、小泉礼賛になっていくわけです。この動きを、吉本さんは批判できないどころか、小泉内閣を基本的には支持したのです。お会いしてご本人に理由を尋ねると、「大衆が支持しているから」と言うのです。この大衆という問題、つまりポピュリズムと権威主義が重なり合っているのが現在の安部内閣の支持率の高さとするならば、吉本的に「大衆の側に立つ」という解が、どこまで有効なのか、というのが疑問になってくるのです。島薗●要するに民衆の生活思想から離れて宙に浮いた「大衆」の像に追従する思想になっていったということはないですか。中間層よりやや上の、都市に住む知的な人々は、戦前も戦後も、権力に圧迫されると今まで持っていた理想を捨てて違う考え方に向かってしまう。戦前、社会主義的な変革を目指した人が国体論に向かってしまい、その人たちはまた戦後になると嬉々として民主主義を褒め称える。知的な階層のマルクス主義者は、民衆の精神生活というものを理解できておらず、権力に圧迫されると国体論をとりこんだ親鸞主義に行ってしまうというようなことがありました。それについては、第二章で中島さんが親鸞主義の教誨師がマルクス主義者に転向を迫ったという話をしてくださっていますけれども。中島●一方、鶴見さんは、そういう流動化した大衆というより、農村社会などの地域の力の中に根をおろしたトポス的な民衆に視線を向けていた思想家だと思います。日本の農村社会の慣習や価値観からは、殲滅戦といった極端なものは出てこない。日本の民衆の伝統として、争いごとがあったときでも、なんとか折り合いをつける技術が慣習の中にあったのだと。つまり、あの時代に、日本が全体主義の熱の中で、戦争へと暴走したのは、こうした民衆の中の智慧を活用できる、本当の意味での保守がいなかったからだと言うのです。鶴見さんは、私によく「あなたが言う意味での、私は保守ですよ」とおっしゃってました。ここに大衆や民衆のもつ両義性の問題があります。民衆は自分のよって立つ足場が亡くなると、つまり社会が流動化すると非常に危うい存在である大衆になっていく。それこそが、オルテガが言った「大衆の反逆」です。大衆の反動がナチズムのような全体主義を生み出していく。【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 25, 2016
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明治の草創期の軍人というのはおもしろいが、軍人が官僚になった昭和期の軍人の頭脳は、明治人よりはるかに老化していた。彼らはなおドイツ的軍事思考法をほとんど神聖視し、ついには同盟まで結び、運命を共にした。秩序老化期の官僚軍人のおろかさといのは、たとえば昭和十八年三月三日、陸軍の軍事務局長佐藤賢了が、衆議院の決算委員会でぶった答弁にもあらわれている。昭和二十八年といえば対米の様相が悪化しはじめているころだが、この日本軍部の実力者は、「大体、米国将校ノ戦略戦術ノ知識ハ非常ニトボシイノデス。幼稚デアリマス」と説き、何故幼稚かというと「アメリカの高級将校はフランスの陸軍大学を出たものが多い(同も実証性にとぼしい)からであります」と言い、そこへいくとドイツの戦術は立派である。だから日本戦術はりっぱである、という意味のことを大まじめで礼賛している。なんとかの一つおぼえというが、国の秩序が老化し、やがてつぶれる時期ともなると、人間のあたまもここまでぼけてくるものらしい。『余話として』(「話のくずかご――普仏戦争」)司馬遼太郎著
June 24, 2016
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自分の使命を磨き、わが胸中の仏性を涌現する以外に、崩れることのない絶対的幸福境涯を確立する道はないんです。しかし、自らが妙法蓮華経の当体であると信じられなければ、本当の意味での自信がもてず、自分の心の外に幸せを求めてしまう。すると、どうなるか。周囲の評価や状況に振り回されて、一喜一憂してしまう。たとえば、社会的な地位や立場、経済力、性格、容姿など、すべて、人と比べるようになる。そして、わずかでも自分の方が勝っていると思うと優越感をいだき、自己を客観視することなく、過剰に高いプライドをもつ。ところが、自分が劣っていると思うと、落胆し、卑屈になったり、無気力になったりする。さらに、人の評価を強く意識するあまり、周りのささいな言動で、いたく傷つき、“こんなに酷いことを言われた”“あの人は私を認めていない”“全く慈悲がない”などと憎み、恨むことになる。また、策に走って歓心を買うことに躍起になる人もいる。実は、怨嫉を生む根本には、せっかく信心をしていながら、わが身が宝塔であり、仏であることが信じられず、心の外に幸福を追っているという、生命の迷いがある。そこに、魔が付け込むんです。皆さん一人ひとりが、燦然たる最高の仏です。かけがいのない大使命の人です。人と比べるのではなく、自分を大事にし、ありのままの自分を磨いていけばいいんです。【新・人間革命「力走」24】聖教新聞2016.4.21
June 23, 2016
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権力は、ときに人間を魔性に変えてしまう。【項羽と劉邦】もともと権力というものは、権力の維持のために、国家の名を籍(か)りておこなう私的行為が多い。【翔ぶが如く】政治的正義がすべての人間に対してやさしい微笑でくるんだ歴史などはどこにもない。繰りかえしていうが、政治的正義における正邪は人間の善悪とはべつの場所あるいは次元に属しているようである。私のような者にはどうにも手に負えない。【ある運命について】政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人類の歴史ははるかにかがやけるものであったろうと思われる。しかし政治においては論理という機械の作動する不幸なことにわずかでしかない。それよりも利害で動くということは大いにあるであろう。しかし革命早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していなかった。むしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きいといえるかもしれない。【ぶが如く翔】司馬遼太郎
June 22, 2016
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国際日本文化研究センター所長 小松 和彦年度末の忙しい時期であったが、3月4日から1週間ほどイタリアに出かけてきた。勤務する研究所とヴェネツイア大学日本語・日本学科との連携強化を図るための訪問だったが、これに合わせてヴェネツイア大学の大学院生など若手研究者とのワークショップの公開講演会も開催した。西欧の日本研究の質の高さは有名だが、イタリアもとてもレベルが高い。流暢な日本語での研究発表を聞いていると、日本人と比べても遜色がないことがわかる。しかも、研究テーマも多彩である。例えば、戦国武士の家訓、菅原道真の漢詩、現代日本社会におけるシャーマニズム、寺山修司の演劇と映画の関係、16・17世紀の日伊関係史等々。10人ほどのスタッフで、これほど多様な研究テーマを指導するのは大変だろうと思い、そのことを聞いてみると、テーマは自由に選ばせ、先生方は研究方法や基礎文献を教示する程度だという。要するに、若手研究者は、インターネットなどを通じて最新の研究情報をキャッチして研究を深めているわけである。近年は、映画やアニメ、コミックなどの現代大衆文化に興味をもつ学生が増えてきたという。講演会は、私が「日本の妖怪文化―その歴史と特徴―」と題する講演を行った。というのは、同大のトシオ・ミヤケ准教授が、日本の妖怪に関する概説書をイタリア語で出版したところ、学生の間で評判になったこともあって、ぜひ妖怪の話をして欲しいと頼まれたからであった。講演には約200人もの学生や研究者が集まり、熱心に聞いてくださった。なかにはスペインから駆けつけた研究者もいた。講演後、ミヤケ准教授のところに、妖怪で論文を書きたいという学生がたくさんやってきたそうだ。今回の訪問でも、日本の妖怪が国内ののみではなく海外でも注目を集めていることを実感することになった。【言葉の遠近法】公明新聞2016.4.20
June 21, 2016
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「人間、思いあがらずになにができましょうか。美人はわが身が美しいと思いあがっておればこそ、より美しくみえ、また美しさを増すものでござりまする。才ある者は思いあがってこそ、十の力を十二にも発揮することができ、膂力のある者はわが力優れりと思えばこそ、腹の底から力がわきあがってくるものでござります。南無妙法蓮華経の妙味はそこにあると申せましょう」【国盗り物語】司馬遼太郎著
June 20, 2016
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中島●生活基盤に根差した宗教が社会性をもって回復しないと、次の一歩を踏み出せないのではないでしょうか。ところがその役割の一翼を担うべき創価学会を母体とする公明党が、「居場所なきナショナリズム」を利用する自民党のネオコン勢力と結びついてしまっている。これは大きな問題です。島薗●戦前までの創価学会の歴史を遡ってみましょうか。同じ日蓮系とはいえ、国柱会と違って、創価学会は創価教育学会という教育者の集まりから始まり、小集団活動に基礎を持っていたために、政治的なユートピア主義には結びつかず、戦前は反体制的な特殊な日蓮系宗派の立場を守り闘争としました。このため、初代会長の牧口常三郎は治安維持法違反で捕まり、獄中死をしています。ところが、今の公明党はまったくの体制派で、自民党と一体化しているようにすら見えます。どうしてこうなってしまったのかを考えると、創価学会が、組織の発展を宗教そのものの成功と同一視する傾向を持っていることが、大きいのではないかと思います。それから、他宗教や他宗を批判する排他性も強くて内部の結束を重視する。党と教団が完全な一枚岩ではないとはいえ、そういった性格のもとで、選挙による党の成功と教団の勢力維持とかが結びついているんですね。私自身は、現在の創価学会と公明党は、宗教のあり方をめぐる非常に思い問題に直面していると考えています。本来の理念である仏法に基づく平和主義・人間主義をそっちのけで組織維持のためにタカ派政策に乗っかっています。どの宗教に同様の傾向はあるにせよ、信者の獲得、組織の拡大・維持を最大の目標にするという姿勢そのものを考え直すべき時に来ているのではないでしょうか。中島●島薗先生がおっしゃったように、創価学会にはもう一度自分たちの過去と向き合ってほしいと私は考えています。設立後、数十年しかたってない一九四三年に、初代会長の牧口常三郎が伊勢神宮の大麻(神札)を受け取らなかったことで治安維持法違反とされて、翌年に獄中死する。同じく理事長の戸田城聖も捕まる。それが彼らの戦前の痛烈なまでの経験です。池田大作氏が書いた『人間革命』の始まりのほうはその話が中心になっている。つまり、権力から弾圧を受けた経験を背負っているから、信仰の自由というものが彼らにとっての非常に大きなテーゼになっている。思想的にパターナルな安倍首相に対して、信仰の自由など本来、リベラルの方向に立とうとする公明党というのは、その理念では反対向きのはずです。政策的にも、自己責任を強調するようになった自民党に対して、セーフティーネットを整えろと言う公明党は、方向性は逆です。しかし、公明党の目標が与党であり続けるということにすり替わってしまった今、理念や政策の違いを超えた自民党に追従してしまう。その結果何が起きるかというと、自分たちがまさに弾圧されたような、たとえば秘密保護法のようなものを自分たちで推進してしまう。あるいは集団的自衛権の問題についても、自民党のほうに引っ張られてしまう。島薗●私が創価学会の問題を重く見るのは、前章で述べた「正法」と関係しています。正法をもう少し平たい言葉で言えば、仏教の社会倫理理念であり、仏教の社会性の自覚ということになりますが、創価学会はこの正法の理念を自覚し、現代的に実践しようという姿勢を持つ宗教団体のひとつです。社会参加・政治参加を謳っている宗教団体であればこそ、国家とは距離を保って活動してほしいわけです。ちなみに、同じ法華、日蓮系の在家教団であること立正佼成会は、集団的自衛権や安全保障関連法制については反対の声明を出しました。【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 19, 2016
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島薗●岩手、宮城、福島などの太平洋沿岸地域の寺院には多くの被災者が避難しました。苦難を被っている人々が身を寄せ、祈る気持ちをともにする場所としてふさわしいと、地域の仏教寺院は再認識されましたし、地域社会の人々が災害にあって苦難の内にある時、仏教寺院はその人々のために大きな働きをなし得ることも確認されました。宮澤賢治の「雨ニモマケズ」はとても仏教的、とくに法華経的な詩なのですけれども、そこに「行ッテ」という言葉が出てくるんですね。東に病気の子がいたら、「行ッテ」看病する。西に疲れた母がいれば「行ッテ」その稲の束を背負う。つまり、我を無にしてその場に行くと、何かできることがあるのだから、「行ッテ」が大事なのだと。この態度は、上から何かを教えるという従来の宗教者の像ではないし、宗教的な行為をそのまま投入するというものでもありません。いわば、相手が求めているものに応じて、即興的に発揮できるものを探していく。そのこと自身が自分にとって大きな学びになるということですよね。こうした関わり合い方が、震災後はあちこちに見出されるようになったことは、伝統仏教に新しい可能性が出てきたと言えるのではないでしょうか。【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 18, 2016
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ラグビーの五郎丸選手と対談して南北朝以来のルーツに親近感小説家 安倍龍太郎昨年末、ラグビー日本代表の五郎丸歩選手と対談させていただいた。昨年のラグビーワールドカップのメンバーの一人で、フルバックをつとめていたので、ご記憶の方も多いのではないだろうか。十五人のチームの最後列にいて、攻撃参加のタイミングや守備の位置取りなど、難しい判断を迫られるポジションだが、彼は見事にその役割を果たし、南アフリカ戦での勝利に貢献した。それ以上注目されたのが、ペナルティキックやコンバージョンキックを正確に決めて着実に得点をあげた力量と、キック前の独特のポーズである。これは正確なキックをするためのルーティンワークだそうだが、まるで神仏を拝むような姿勢が、劇的な勝利とともに人々の心に深く刻みこまれたのだった。彼のことは早稲田大学のラグビー部で活躍していた頃から気になっていた。五郎丸という珍しい姓が、私のふるさとの集落に多かったので、何か関係があるのではないかと感じていたからだ。そこで田舎の友人に問い合わせたところ、何と五郎丸選手の父親は私の小学校の三年先輩で、姉と同級生だと分かった。わずか七十戸ほどの集落なので、お隣さんも同然である。わが集落は南北朝時代の南朝方の落人の里なので、先祖は互いに足利幕府を敵として戦った間柄である。それだけに親近感もひとしおだったし、私も学生時代にラグビー部だったこともあって、何とか対談させていただけないかとお願いしたのだった。会ってみて、案外スリムだと思った。どこか野武士を思わせる風貌で、長年の努力とワールドカップでの活躍に裏打ちされた揺るぎのない自信に満ちている。だが話しぶりはいたっておだやかで、想像していたとおりの好青年だった。「都会の人たちには負けたくないですから」彼は気負うことなくそう言った。自分のルーツが田舎にあることを強く意識しているからだろう。「田舎の自然とか人情とか仕来りは、人を育てる力だと思います。学力はいつでもついていけることができるけど、そうした人間力は田舎でしか育たないのではないでしょうか」まさに我が意を得たりである。ふるさとの自然、歴史、人情、信仰などが、これまで多くの日本人を育ててきた。そうした環境で育った我がふるさとの先輩を父にもつ彼が、勤勉、努力、忍耐、責任感をモットーとした、「ジャパンウェイ」と呼ばれる日本人代表チームのプレースタイルの体現者となったことは、決して偶然ではないだろう。いささか勇み足になって申し訳ないが、そうしたふるさとの教育力こそが、戦後日本の復興の底力だったし、南アフリカ戦に勝つという奇跡をなしとげた原動力だったと思う。先日、ふるさとに近い福岡県八女市星野村の小学校で話をさせていただく機会があった。全生徒百人ほどの小さな小学校だが、子供たちは真面目で可愛くて好奇心旺盛で、身がきらきらと輝く明るい表情をしていた。彼らを育んでいるのは、豊かな自然と長年つちかわれてきた伝統、そして地域社会への信頼だろう。ここにも次の世代の五郎丸選手がいると、大いに勇気づけられた一日だった。【文化】公明新聞2016.4.17
June 17, 2016
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島薗●第一次も第二次も安部政権では、宗教ナショナリズムの存在が一般の人にもやや意識されたかと思うのですが、本当の影響は今、意識されている以上にあるのではないでしょうか。たとえば、自民党の政治基盤ともなっている神道政治連盟という団体があります。この団体は、日本各地の神社を束ねる神社本庁という宗教法人とかかわりが深く、その政治目標は、ナショナリズムを高揚させつつ天皇崇敬を盛り上げ、国家神道を交流させることにあります。同じような政治目標を掲げて、神社本庁と深くかかわっている団体に、第一章でも触れた日本会議というものがあります。この日本会議の関連組織である日本会議国会議員懇談会には、安部内閣の閣僚の大多数が参加しています。このように見ると、少なくとも大きな流れとして、国家神道的なものを強化しようとする動きは強まっているように思うのです。中島●島薗先生は、国家神道は現在の日本にも残っているとお考えですね。島薗●そうです。一九四五年以降、「GHQが国家神道を解体した」ということになっていますが、ここで解体されたのは国家と神社組織との結びつきです。しかし、皇室祭祀はおおかた維持されました。なぜそうなったかと言うと、GHQによる「国家神道」の定義から皇室祭祀がすっぽり抜けていたからです。中島●つまりGHQは、国家組織と神社組織とを同一視していたということですね。島薗●そういうことです。GHQが国家神道を神社組織と同一視していたのは、西洋流の教団中心的な宗教間による判断です。そして、「国家と教会の分離」というアメリカ流の理念から国家と神社組織の結びつきを解体しました。けれども、大四章で見たように、国家神道の主要な構成要素は神社組織ではなかった。むしろ重要なのは、皇室祭祀と不可分の天皇崇敬でした。例えば、皇室祭祀の日に全国津々浦々の学校で祝祭の式典が行われました。教室には天皇が下賜した教育勅語や御真影が掲げられ、そこで子どもたちはぬかずき、天皇を讃える歌を歌っていたわけです。要するに、天皇の存在が、学校や軍隊などの公共生活の中で大きなプレゼンスをもっており、神社組織とは別ルートで、国家神道は国民に浸透してきたのです。終戦後、その皇室祭祀についてGHQはあまり手をつけず、現代の日本でも、皇室祭祀は維持され、天皇の存在感は大きい。今も皇室の宗教儀礼は大変熱心に行われていた、そこに日本の精神的な中核があると考える人が多数いる。【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 16, 2016
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依頼心依頼心は、人間の思考を衰えさせる。思考しなくなれば、進歩も止まる。一流とは、より多くの疑問を抱き、失敗を糧に課題に向かって真摯に努力し続けられる人間のことをいう。【弱者の兵法】野村克也著/アスペクト文庫プロセスよい結果というものは、きちんとしたプロセスを経るからこそ生まれるのである。よい結果を出すためには、どういうプロセスをたどるかが非常に重要だと私は信じている。きちんとしたプロセスを経ないで生まれた結果は、それが数字的にどれだけすばらしいとしても、たまたまといっていい。本当の実力ではないからである。ずっといい結果が続くことはないと断言してもよい。【弱者の兵法】野村克也著/アスペクト文庫
June 15, 2016
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探検家、医師、武蔵野美術大学教授 関野 吉晴ベネズエラとブラジルの国境地帯に住むヤノマミ族は食塩を取らない。植物を焼いて灰を使うが、塩化カリウムだ。ほとんどの人は信じられないという。日本でも食塩を取らないと生きていけないのに熱帯林で生きているヤノマミ族が塩を取らずに生きているというのを不思議に思うのは分かる。しかし本当に彼らは全く食塩を取らないのだ。何故塩を取らないでもいいのか。逆に日本人は塩を取りすぎているのだ。熱帯日に外で運動、活動する人は日射病、熱射病にならないように塩分をとらなければいけないが、通常バランスのいい食事をしていれば、わざわざ食塩をとる必要はない。何故なら魚や肉を食べていれば、その細胞に十分なナトリウムが含まれているからだ。トナカイ飼育民とトナカイゾリで旅をしている時、真っ白な雪の上に小水をしていると何頭ものトナカイが集まってきた。お目当ては私の小水だ。塩分がタップリ含まれているからだ。ヒマラヤでも標高5千メートルの峠越えの時などは、ヤクに塩を与える。エチオピアの家畜も塩を与える。元気が出てミルクの出が良くなるという。これら草食動物は植物しか取らないので、ナトリウムが取れないのだ。一方動物や魚、虫などを食べている肉食獣はその細胞に十分なナトリウムが含まれているので、わざわざ塩を取らなくても元気だ。アマゾンではコルパと呼ばれる場所がある。ここで待っていれば、バク、イノシシ、シカなどの草食動物が集まってくる。コルパには岩塩があったり、池に塩分が含まれていたりするからだ。肉食獣はやってこない。わざわざ塩を取る必要はないからだ。【すなどけい】公明新聞2016.4.15
June 14, 2016
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プロ野球球団に「永久欠番」という制度がある。球史に輝く功績を残した選手を称えるために各球団が自主的に制定するものだ。日本では長嶋茂雄、王貞治両氏など名だたる選手の背番号が永久欠番になっている。米国でも1939年、ルー・ゲーリック(ヤンキース)の背番号4が初の永久欠番になったのをはじめ、多くの永久欠番が存在する。永久欠番は所属球団が制定し他球団には波及しないものだが米大リーグには唯一、全球団が永久欠番にしている背番号がある。ジャッキー・ロビンソンの背番号「42」だ。彼は近代大リーグ初の黒人選手。黒人差別の色濃い1950年代に大リーグ入りした彼は、ロビンソンが出場する試合は拒否するといった他球団の差別に対し、常に紳士的に向き合い、自らの活躍で一つ一つ跳ね返していった。第2、第3の黒人大リーガーを誕生させたいと闘い抜いたロビンソンの人生が、人種差別問題に影響は計り知れない。最近、日本スポーツ界は賭博問題などファンをなかんずく子どもたちを落胆させる選手の振る舞いが続出している。繰り返されるこのないよう選手教育を再徹底するとともに、全スポーツ選手には、心に「42」を刻み込んでほしい。きょう4月15日はロビンソンがメジャー・デビューを果たした日だ。【北斗七星】公明新聞2015.4.15
June 13, 2016
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私たちは戦いによって自信を得ていく。戦いの機会を避けるものは、けっして真の自信を得ることはできない。戦うことが自信を得るうえで大切なものであって、負けるか勝つかが問題なのではない。血みどろになって戦った者は、たとえ負けても自信を得ているはずである。自分が正しいと思うことも、それを主張することで憎まれることも、人間にとって大いなる戦いである。憎まれるのが怖くて自分を主張するのを避けることは、戦いを避けたことになる。皆が排斥するものを愛している時、その愛している人をかばうのは戦いである。自分の愛守るための戦いである。その人への同情からではなく、その人の愛から、皆が不当にその人を排斥する時、正面切って皆と対立ことは立派な戦いである。皆から憎まれるのが怖くて、何かとその場をとりなそうとする者は自信喪失し、やがてノイローゼになるのである。皆からも憎まれたくないし、その愛している人とも一緒にいたい、そんな中で真の戦いを避けるから、二つに引き裂かれてノイローゼになってしまっているのである。戦いの場が自信にとって必要だと思うのは、戦いにおいて自分の依存心を切り捨てていかなければならないからである。依存心がある限り、真の戦いを戦いぬけない。◇甘えのある者は、自信をもつことはできない。甘えとは相手との一体感を求めることだからである。自己主張とは、自分の望みを相手の前にさらけだすことである。その結果として、その相手を失うかもしれない。その相手とは今後まったく別の人生を歩むかもしれない。そんな危険を冒しながら、自己を主張する時、自分の中にある相手との一体感への希求は切り捨てられる。もちろん、そのような自己主張が相手に受け入れられる時もある。その時は、甘えとしての一体感ではなく、さわやかな一体感が二人の間に生まれるにちがいない。そこには自己の望みを抑圧した、屈折した感情をもちながらの一体感ではなく、互いに個人を大切にしたうえでの、さわやかな一体感が生まれる。【自信】加藤諦三著/三笠書房
June 12, 2016
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島薗●若き日の田中智学の主張は日蓮宗と日本仏教の革新というところにありました。彼は生ぬるい宗門の体質に失望して、還俗して在家として日蓮宗を広める運動に取り組んだ。たとえば、先ほどの「宗門之維新」では日蓮宗を変革して、日本と世界を救済するという意気込みが語られるわけです。ところが、一九〇二年の講演会や体系的教学講義で国体論を取り入れるようになります(「世界統一の天業」「本化妙宗式目講義録」)。そこからだんだん国家神道の方へ向かっていき、一九一四年に法華経と国体の一体化を説く「国柱会」という団体を作る。中島●田中智学は国体論への傾斜を強めていくわけですね。その頃の彼のイデオロギーの特徴は、法華経とか、日蓮遺文の中に国体論的なものを読み込んでいくということにありました。たとえば、末法の世に出現する上行菩薩を天皇だと言ってみたり、法華経の中の「転輪聖王」や「賢王」といった存在を天皇と同一視していくわけです。こうしたイデオロギーに基づいて、田中智学が組み立てたヴィジョンにも、社会進化論的な発想が色濃く感じられます。たとえば、彼は非常に発展段階論的な思考様式をとっています。まずは在家信者によって新しいグループが作られ、そしてそれが本体の日蓮教団を大きく揺り動かしていく。さらにそれによって国民が日蓮思想へと感化され、その延長線上に天皇が日蓮主義へと改宗し、国立戒壇、つまり国家によって仏門に入るための戒律を授ける壇が建立され、日蓮主義国家が誕生する。まさに発展段階的ヴィジョンです。【愛国と信仰の構造—全体主義はよみがえるのか】中島岳志・島薗 進著/集英社新書
June 11, 2016
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渡辺一郎努力が偉業へと伊能忠敬(1745~1818年)は、江戸後期に全国を歩いて測量し、実測日本地図を初めて作成した。その人物像を、見上げる偉人とする人も多いようだが、私はむしろ、身近な努力の人だと捉える。いささか好奇心が強く、凝り性で、次世代のための仕事に傾注するうち、その熱意に応じて強力な支援者が次々と現れ、とうとう日本中を測ってしまったのだと思っている。忠敬に魅了された私は、20年ほど前に同好の士と「伊能忠敬研究会」を結成した。伊能図を探し、歴史研究に明け暮れてきた。2001年、妻と米国を旅行中に偶然、ワシントンの連邦議会図書館に所蔵されていた207枚の伊能大図模写本を発見した。新聞等でも大きく報道され、話題を呼んだ。これを発端として、完全復元図を大きな会場のフロアに敷き並べたパネル展も実現し、昨年まで全国各地を巡回した。壮大な地図の上で、伊能測量の足取りに思いをはせた読者もいると思う。28巻の日記には測量隊の行程は、1800(寛政12年)から16年(文化13年)まで9次にわたり、延べ4600日に及ぶ。忠敬はその経緯を測量日記28巻約3000ページへ克明に記した。これを見ると、測量隊は地元の旧家等に民泊する旅を続けている。測量日記には、宿の提供者、出迎えに来た人など、約1万4000人の協力者の名が記されている。私たちはこれをデータベース「伊能測量旅程・人物全覧」にまとめ、2月からネットで公開している(http://www.inopebia.tokyo/databese/)。ホームページには、公開半月で48万件の閲覧があるなど、反響をいただいている。伊能測量隊への協力者の子孫の元には、まだ多くの資料や遺品が未公開のまま眠っているに違いない。すでに数十件の関連情報も寄せられた。思い当たる方は、データベースを確認いただきたい。明後2018年は、伊能忠敬の没後200年に当たる。この節目に、今後発掘されるであろう新事実の発表と合わせ、時の協力者や幕府関係の子孫に多数参集いただき、交流顕彰大会を開催する予定で準備を進めている。師の意を実行にそもそも忠敬が全国測量を志したきっかけは何か。忠敬自身が本音を書いた記録は見当たらないが、重要な影響を与えた人々との縁を交え、たどってみよう。千葉県九十九里浜の小関村(現・九十九里町)に生まれ、佐原の酒造家・伊能家に17歳で婿入りした忠敬は、事業に精励して成功を収め、49歳で隠居した。寛政7年(1795年)に江戸に出て天文・暦学を志し、19歳も年下の高橋至(よし)時(とき)に入門する。高橋は大坂警備の玉造組同心から、寛政の改暦のために幕府の天文方へ抜擢されてきた気鋭の学者だった。忠敬は師のもとで、暦学の基本を徹底して学ぶ。自宅には、幕府の天文台にも見劣りしない観測機器を買いそろえ、天体観測の修練に余念がなかった。師の高橋は暦の誤差を減らすには、地球の正確な大きさを知る必要があると語っていた。忠敬は師の意をくみ、小規模な測量を行う。深川の自宅から浅草の天文台までを測量し、算出した緯度1分の距離から地球の大きさを求めた。師に報告すると、蝦夷地(北海道)あたりまで測量した結果をもって緯度1度の距離を求めるならば「天下の宝とならん」と答えたという(渋川景佑『伊能翁見聞記』)。忠敬はすぐさま周到な準備を進める。測量計画は、北辺多事に備えた地図作製を表看板とした。幕府の許可が下りた背景には、忠敬の亡き妻おノブの父である仙台藩の江戸詰め上級藩医・桑原隆朝が、改暦を推進した若年寄・堀田摂津守に根回ししたことが大きい。第1次測量が実現したのは、忠敬が弟子入りして5年後のことだった。出会いと触発第1次測量で得た緯度1度の数値は、高橋の満足できるものではなかったが、地図は幕閣から高い評価を受けた。大風の中、忠敬は第2次測量以降も作業内容のマニュアル化などを進め、より正確な測量・作図に努める。第5次からは正式に幕府測量隊となり、諸藩の手厚い支援を受けることもでき、全国測量を成し遂げる力となった。第1次測量では、まだ測量家の従者だった間宮林蔵と出会い、弟子にしている。後に林蔵は、忠敬が測り残した北海道の西北部の測量等を引き継ぎ、完成させているまた、第7次の九州測量隊から参加した箱田良助は、忠敬の没後も伊能図完成へと尽力している。後に御家人となり榎本姓を名乗る。幕末に活躍した榎本武揚は彼の次男である忠敬が各地をめぐった旅は、出会う人々に大きな触発を与えた。明治になると伊能図を源流とする地図が続々と刊行され、市民も手にするようになる。新しい三角測量の地図へ完全に置き換わるまで、影響力は100年余りも続いたのだ。最後に、忠敬が天文と測量の大仕事を、すべて隠居後に成していることについて、伊能家の前例に触れたい。最初の妻ミチの祖父・景利は佐原村の古記録を編集した「部冊帳」24冊をはじめ、膨大な記録を残した。記録魔という点で忠敬に通じるものがある。また、同族の先人には国学者・歌人として名を成した伊能魚(な)彦もいる。文化交流に尽力した先達の姿は、忠敬を大いに鼓舞したに違いない。長寿社会を生きる現代の私たちも、そうした姿から学ぶことは少なくないだろう。=談(伊能忠敬研究会名誉代表)【文化】聖教新聞2016.4.13
June 10, 2016
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確かに努力は大切だ。だが、方向性と方法を間違った努力は、ムダに終わるケースもある。そこに気づくかどうかが一流になるための重要なカギとなる。何度も繰り返すが、「人間の最大の罪は鈍感である」――私はそう思っている。一流選手はみな修正能力に優れている。同じ失敗は繰り返さない。二度、三度失敗を返す者は二流、三流。四度、五度繰り返す者はしょせんプロ野球失格者なのである。なぜなら、そういう選手は失敗を失敗として自覚できないか、もしくは失敗の原因を究明する力がないのだ。「鈍感は最大の罪」とは、そういうことを指すのである。「小事は大事を生む」という。些細なことに気づくことが変化を生み、その変化が大きな進歩を招くのである。気づく選手は絶対に伸びる。これは長年プロの世界に身を置いてきた私の経験から導き出された真理である。したがって指導者は、もしも選手が間違った努力をしている時は、方向性を修正し、正しい努力をするためのヒントを与えてやる必要がある。だから私は「監督とは気づかせ屋である」と常々言っているわけだ。【弱者の兵法】野村克也著/アスペクト文庫
June 9, 2016
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法政大学名誉教授 川成 洋「それほど昔のことではない、その名は思い出せないが、ラ・マンチャ地方のある村に…型どおりの郷士が住んでいた」で始まる『ドン・キホーテ』(前篇1605年、後篇1615年)といえば、古ぼけた甲冑に身を固め、やせ馬に跨(またが)った主人公が、「巨人だ」と決めつけた風車目がけて攻撃し、馬もろとも風車の翼に吹っ飛ばされるといった「風車の冒険」はあまりにも有名だ。これでは滑稽譚のようだが、果たしてその背後に何が隠されているのだろうか。ところで、今年は、『ドン・キホーテ』の生みの親、ミゲル・で・セルバンテス(1547~1616年)の没400年にあたる。先月、スペインを訪問したが、彼の聖地アルカラ・デ・エナーレスの「セルバンデスの生家・博物館」では特別な催しはないようだった。「世界一の文学作品」としての矜持(きょうじ)を持つ貫禄と言うべきか。1508年創建のアルカラ・デ・エナーレス大學では、彼と同じことに亡くなった「千の心をもつ」シェイクスピアと比較するために、海外の研究者を招いて「セルバンデスとシェイクスピアの黄金世紀」と題する研究発表が行われた。セルバンテスは、貧しい外科医の息子として生を受けたが、少年から青年時代にかけてのスペインはまさに「陽の沈むことなき大帝国」であり、1571年のレパントの海戦でトルコ感染を撃滅した。この海戦に従軍した彼が、左腕を負傷し自由を失う。帰還の途中、地中海でトルコの海賊船に襲われ、アルジェで5年間の縲絏(るいせつ)の辱めを受ける。12年間にわたる海外生活を終え、レパントの英雄としてマドリードに戻るが、彼を迎えたのは冷笑と無視であった。彼のような論功行賞を求める元兵士たちが首都に蝟集(いしゅう)していたのだった。その後彼はさまざまな仕事に就きなんとか糊口を凌ぐが、都合3回も入獄の憂き目を味わう。「語句よりも不幸に精通した」セルバンテスは独学で文筆で身を立てようと決心する。こうして見ると、セルバンテスの人生は失敗と挫折の連続であり、唯一成功したといえるのは『ドン・キホーテ』の出版であったろう。それにしても、「序文」で彼自ら、この作品の「継父」にすぎないと述べ、作品中に、アラビア語の原作者名、翻訳者名などを明記している。これは、言わずもなが自己韜晦(とうかい)である。風刺、諧謔、逆説を多用する文学的手法だったのだ。スペイン無敵艦隊の惨敗(1588年)により三流国に転落し、異端審問などの嵐が吹き荒れている真っ只中で、誤謬なき国王や権力者、カトリック教会に対する批判はタブーであった。だが、彼の舌鋒は怯むことはなかった。例えば、「裁判官の息子は気軽に法廷に立つ」「金持ちのたわごとは世間の格言として通る」「十字架の後ろに悪魔が棲む」などなど。おそらく彼は怒髪天を突く思いでこの作品を書いたのであろう。(かわなり・よう)【文化】公明新聞2016.4.8
June 8, 2016
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静岡大学農学部教授 稲垣 栄(ひで)洋(ひろ)私は大学で雑草を研究しています。そう聞くと、ずいぶん変わっていると思うかもしれません。しかし、農業にとって雑草の問題は深刻です。また、公園や道路でも雑草管理は重要です。そのため、世界中で多くの研究者が雑草を研究しているのです。雑草は放っておけばいくらでも生えてきますが、いざ育てようと思うと、雑草を育てるのは簡単ではありません。何しろ、種を播(ま)いてもなかなか芽が出ないのです。野菜や花の種は、播いて水をやればすぐに芽を出します。しかし、誰も世話をしてくれない雑草は、芽を出すタイミングを自分で決めるのです。やっと芽を出したと思っても、そろって芽を出すことはありません。ゆっくり芽を出してくるのんびり屋さんがたくさんいて、だらだらと発生してきます。一斉に芽を出すと、何かあったときに全滅してしまいます。そのため、雑草は揃わないようにしているのです。このように、バランスであることが、雑草の強さの秘密です。農作物は、それでは困ります。実る時期がバラバラでは収穫が大変ですし、品質も揃えなければいけません。管理をする上では、「均一であること」が求められるのです。教育はどうでしょうか。子どもたちは、時に他人と同じであることが求められます。もしかするとそれは、管理するための都合なのかもしれません。雑草学を学ぶ私の研究室には、毎年、個性豊かな学生たちが集まってきます。この多様性を大切に伸ばしてあげたいと思うのが私の願いです。それにしても、日々、感じるのは、雑草を育てることの難しさです。【すなどけい】公明新聞2016.4.8
June 7, 2016
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井上 智重熊本の旧制第五高等学校(五高、熊本大学の前身)の教授だった夏目漱石(1867~1916年)は、玉名郡小天村(現在の玉名市天水町)の前田案山子の別邸に、少なくとも2度、出かけている。その地は明治39年(1906年)、漱石が『坊っちゃん』に続いて発表した小説『草枕』に出てくる「那古井の里」とされ、主人公の「画工」を悩ます怪美人「那美」のモデルは案山子の次女・卓(つな)といわれる。明治30年(1897年)の暮れ、年賀の客を避けるため、五高の同僚の山川信次郎と家を出て新年を前田家別邸で迎えた漱石は、初湯につかり「温水や水滑らかに去年(こぞ)の垢(あか)」の句を残した。2度目は、それから5カ月たった初夏、教頭の狩野亨吉や山川ら同僚たちと日帰りで訪ねている。温泉につかり、ごちそうも食べ、おそらく骨董自慢の案山子に、宮本武蔵の『五輪書』を見せてもらったのだろう。卓の案内で、武蔵がこもったという霊(れい)巌(がん)洞(どう)に足を伸ばしている。土産に枝ごともらった夏みかんを肩に担ぎ、ピクニック気分で行ったらしい。霊巌洞がある一帯は景勝の地で、不動岩、天狗岩、鼓ケ滝などがあり、世阿弥の能「檜垣」で知られる老女の伝説の地だ。留学先で着想か熊本で4年3カ月を過ごした漱石は、文部省(当時)の第1回給費留学生として2年間のイギリス留学を命じられた。留学先のロンドンから漱石は、かつて同僚だった山川に宛てて、「僕は帰つたらだれかと日本流の旅行がして見たい小天行杯を思ひ出すよ」と書き送っている(明治34年2月9日の書簡)。心の通じる仲間たちと訪ねた愉快な思い出が、後に『草枕』を書かせたのではと思う。ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、ターナーが描いた「雨・蒸気・速度」を見ている。雨の煙る鉄橋を疾走する汽車の絵だが、よくよく見ると、橋の下の川に小舟が描きこまれている。漱石はその小舟に気付き『草枕』を発送したのでは、と私は思う。近代文明を意識『草枕』は、画工が峠を越えて那古井の里に遊び、川を舟で下って帰ってくる話だが、汽車が轟と走ってきて「現実世界」へと呼び戻される。近代文明の象徴である汽車に「運搬」される先は、「烟硝(えんしょう)の臭い」がして「空では大きな音がどどんどどんという」大陸である。実は日露戦争(明治37年~38年)が背景に描かれており、那美のいとこが出征する場面が最後の方に出てくる。山川とは阿蘇にも旅しており、これが『二百十日』という小説の題材となった。『草枕』と同じ明治39年に発表された短編である。東京から阿蘇にやって来た「圭さん」「碌さん」の2人の男が内牧温泉に泊まり、阿蘇神社に回り阿蘇中岳を目指すが、風雨が激しくなり、さんざんな目に遭う。もくもくと火口から噴き出す真っ黒な噴煙と雨と風と雲の雄大な光景に、「僕の精神はあれだよ」と圭さんは言い、「文明の革命」を碌さんに誓う。やっつける相手は「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴ら」だ。「いい所に来た」今年は漱石の没後100年に当たるが、熊本にとっては「来熊120年」である。それまで勤めていた松山の愛媛県尋常中学校の英語嘱託教員を依願退職した漱石は、明治29年(1896年)4月13日、九州鉄道の池田停車場(現在のJR上熊本駅)に降り立った。この時、漱石は29歳。駅前で雇った人力車で新坂を下りていくと、かつ然と市街が広がり、「いい所に来た」と思ったという。明治33年に熊本を去って約7年後の同41年、東京・牛込区(現在の新宿区)早稲田南町の居宅「漱石三房」を訪ねた九州日日新聞の記者に語っている。熊本の学生は礼儀正しく、市井の人も親切だった。鏡子との結婚生活も熊本で始まり、長女の筆子を得た。漱石は、熊本で6度、家を引越し、そのうち3軒が残っている。今、私どもは俳優の浜畑賢吉氏と「アイラブくまもと 漱石引っ越し物語」の舞台づくりを進めている。(くまもと文学・歴史館前館長、ノンフクション作家)【文化】聖教新聞2016.4.6
June 6, 2016
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米マサチューセッツ工科大学 シーザー・マクドウェル教授Ceasar McDwell マサチューセッツ工科大学(MIT)教授。教育学博士(ハーバード大学)。市民参加型の地域共同体の構築をテーマに研究。過去の経験の中で無意識に蓄積された知恵を認知し、現在に生かす実証法を提唱し、教育現場で広く活用されている。ボストンとアイルランドに拠点を置く社会改革の支援機関(IISC)会長。地域における人々の絆の弱まりや、人種や宗教、所得格差などによる社会の分断―—今、アメリカのみならず、多くの国々が、こうした課題に直面している。米マサチューセッツ工科大学(MIT)のシーザー・マクドウェル教授は、地域共同体についての研究で知られる。より良い地域建設のあり方について教授に聞くとともに、ボストン近郊にある池田国際対話センターへの期待を語ってもらった。(聞き手=萩本秀樹記者)仏教が教える「平和への旅」―—教授はこれまで、10年以上にわたって池田国際対話センターの活動に参加してこられました。マクドウェル教授●池田センターの活動で忘れられないのは、1年間にわたり、一つのテーマについて議論する「ラーニングサークル」に参加したことです。全くの他人と1年間、継続的に語り合うことは、めったにない経験です。私にとって非常に大きな啓発となりました。もう一つ私が感じるのは、平和についてこれほど真剣に考えている人たちと時間を共有する機会は、なかなかない、ということです。仏教では、平和についての「内なる旅(思想や精神)」が、「外なる旅(実際の行動)」に一致しなければならないという考えがあります。池田センターは、この「内」と「外」の両方を兼ね備えた場所であり、だからこそ、ここに来る人たちは、真に平和に生きることができるのだと感じています。――教授の専門である地域共同体の研究では、特にどのような点に焦点を当てているのでしょうか。教授●人々の「声」が生かされる社会をどう築くかをテーマに研究しています。特に、(マイノリティーなど)社会から取り残されている人たちの声です。そうした人々の「声」に光を当て、地域に還元する方途を探求するための研究所をMITに創設しました。現在は、ボストンとアイルランドに拠点を置く社会変革の支援機関(IISC)の会長を務めています。そこでは、さまざまな団体や地域社会と協力し、多種多様な人々が集う「場」を提供しています。自分たちが暮らす地域の問題を共に話し合い、共に悩み、そして何が必要かを考えていく場です。通常では、こうすた「場」は中間層に焦点を当てる傾向があります。そこに最大多数の人々が属しているからです。しかし、社会が機能不全に陥った時、その影響を一番受けるのは、社会の底辺にいる人たちです。だからこそ、その人たちの声をまず聞くことが大切なのです。――そうした分野に関心を持たれたのは、何故でしょうか。教授●最も大きなきっかけは、生まれ育った環境です。私の家庭のルーツは、アメリカ南部のルイジアナ州にあります。当時はまだ、南部での黒人差別が顕著に残っていました。黒人が社会の問題に対して声を上げることは、命の危険すら意味していたのです。私が生まれる前、両親は南部から西部のデンバーに移り住みました。そこには、読み書きのできない父のような労働者にも、人生を開くチャンスが広がっていました。私たちが住んだのは、黒人や中南米の移民、アジア人などの労働者がひしめき合う地域でした。そこでは一人一人の声が尊重されていました。この経験から、全ての「声」が届く社会を築くことが、私の研究テーマとなったのです。――教授はボストン市とも協力して、市民生活の向上のためのプロジェクトを行っていると伺いました。教授●15年先を目指して、市内の交通事情を改善していこうとするものです。“環境に配慮した交通整備”“自転車に乗りやすい街づくり”など、市民に深くかかわる内容がテーマです。プロジェクトの初期、私たちは市の交通事情についてのアンケートを市民に行い、5000に及ぶ質問と意見を集めました。人種や国籍、年齢などを越えて幅広く実施しました。市民が主体者となり、あらゆる人の声を形にする“ボトムアップ”の実例を示してきたのです。――市民が中心となる運動を成功させる上で、大切なことはなんでしょうか。教授●私たちは、参加者が“日常の範囲内”で運動を行うよう、呼びかけました。例えば、フェイスブックやツイッターで情報を発信することも、一つの参加の形です。スーパーマーケットや教会で、アンケートを行ってもいいのです。実際、私が訪れた映画館にも、あちこちにプロジェクトのアンケート用紙が置かれていました。私たちの知らないところで、運動が広がっていたのです。日常の生活を舞台として、市民を巻き込んだからこそ、多くの意見や質問が寄せられたのだと思います。池田センターは貴重な「贈り物」――教授は以前、地域共同体について二つの形があると述べられています。一つは実際に自分が住んでいる地域であり、もう一つは、いわば精神的なつながりに基づいた共同体です。地域における人間関係の弱体化が指摘される現代において、とりわけ精神的なきずなに根差した共同体の存在が重要となっているように感じます。教授●人はだれもが、自分が住む、特定の地域に所属しています。しかし私たちは、自由に、好きな場所を選んでいるのではありません。経済的な理由から、そこに住まざるを得ない、という場合もあります。ゆえにそうした地域では、平等で調和の取れた関係性を形成できないこともあるのです。物理的な生活を営む地域だけが、私たちのアイディンティティではありません。私たちは、それとは別の自分自身――精神的な充足や、豊かな人間関係を求めています。ある人は、仕事や趣味の中にそれを見出だし、ある人は、教会に通う中に見出すのです。そうした場が、自分らしさを発揮できる機会となるのです。――SGIの組織は、各地域において、人と人を結ぶ共同体としての役割を果たしてきたと思います。1933年に設立された池田センターもまた、“対話の力で文明を結ぶ”ことを目指してきました。創立者の池田SGI会長は、同年のハーバード大学での講演で、哲学者デューイが宗教よりも「宗教的なもの」の必要性を訴え、「誰でもの信仰」を唱えたことを紹介しました。講演には、宗派性を越えた「人間性」「精神性」への信頼が脈打っています。教授●「誰でもの信仰」とはすばらしい概念です。ここで言う「誰でも」とは、「誰にでも開かれた」という意味で捉えられると思います。先にも申し上げましたが、センターとの長年の交流は、私にとって大切な経験となっています。私はセンターを、「非宗教的(secular)であり、精神的(spritual)」だと見ています。非宗教的とは、センターに来るための“条件”はないというということです。あらゆる宗教・思想の人に開かれているのです。それでいて、そこには神聖さがあります。精神に基づく対話が、深い次元で行われていることを可能にしています。池田センターは、まさに、世界唯一の「ギフト(贈り物)」だといえるでしょう。【グローバル・インタビュー「世界の識者の眼」】聖教新聞2016.4.8
June 5, 2016
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人生には、病に襲われることもあれば、失業や倒産など、多くの苦悩があるが、それ自体が人を不幸にするものではない。その時に、“もう、これで自分の人生は終わりだ”などと思い、希望をなくし、無気力になったり、自暴自棄になったりすることによって、自らを不幸にしてしまうんです。◇したがって、苦悩を勝ち越えていくには、強い心で、“こんなことで負けるものか! 必ず乗り越え、人生の勝利を飾ってみせるぞ!”という、師子のごとき一念で、強盛に祈り抜いていくことです。◇また、苦難、悩みがあるからこそ、それを乗り越えることによって、仏法の功力の偉大さを証明することができる。【新・人間革命「力走」15】聖教新聞2016.4.9
June 4, 2016
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いまだ世界には、維持するだけで年間1000億ドル以上を費やす、1万5000発以上もの核兵器が存在します。それらは、貧困や飢餓の克服、気候変動への対応など、山積する地球的な課題に対し、どれだけ努力を尽くしていったとしても、すべて一瞬にして無に帰してしまう元凶となりかねません。どの地域であれ、たった一発が爆発するだけで、その影響は創造を超えたものです。こうした破滅的な末路が避けられず、計り知れない犠牲を世界中に強いることになったとしてもなお、核兵器によって担保しなければならない国家の安全保障とは一体何でしょうか。国家を守るといっても、多くの人々に取り返しのつかない被害を及ぼす結果を前提に組み上げるほかない安全保障とは、そもそも何を守るために存在するのでしょうか。それはつまるところ、本来守るべき民衆の存在を捨象した安全保障になりはしないでしょうか。残念ながら、地球上に核兵器が存在する限り、核抑止力を保持し続けるしかないといった考え方が、核保有国や、その同盟国の間に、いまだ根強くあります。しかし、抑止力によって状況の主導権を握っているようでも、偶発的な事故による爆発や誤射の危険性は、核兵器を配備している国の数だけ存在するのが現実であるといってよい。その脅威の本質から見れば、核兵器の保有が実質的の招いているのは、自国はおろか、人類全体の運命までもが、“核兵器によって保有されている”状況ではないでしょうか。【池田SGI会長ニュースサイトINPSに寄稿(抜粋)】創価新報2016.4.6
June 3, 2016
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日本の軍国主義と戦い獄死した、創価教育の父・牧口常三郎先生の揺るぎない信念の根幹も、「生命尊厳」でありました。世界には、ますます生命を蹂躙する暴力が噴出しております。それゆえに私たちは、生命尊厳の旗を、いやまして勇敢に聡明に掲げてまいりたい。レオナルドが「魂の中の最善なるものは智慧である」と洞察した如く、正義と人道と共生の智慧の力をいよいよ強めていきたいのであります。生命の尊厳といっても、抽象論ではありません。皆さんが賢者となって、自身と、縁する一人一人の生命を大切にすることから始まります。【創価大学入学式「創立者のメッセージ」】聖教新聞2016.4.3
June 2, 2016
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鎌倉国宝館 学芸員 浪川 幹夫「四乙卯八月十五日大地震洪水(中略)水勢大佛殿破道舎屋、溺死人二百余」。『鎌倉大日記』明応四年(一四九五)の記事である。東北地方太平洋沖地震発生以降、大津波について想定外をなくす動きが活発化した。神奈川県も例外でなく、同県は想定に当たりこの記事を根拠の一つとして、鎌倉での想定津波最大到達高を一二・三〇m乃至一四・三九とした。そして、このあとの発表によって、大仏殿が明応四年の津波で流失したとするような風説が一気に広まった。ところで鎌倉では、『吾妻鏡』などに地震の記録がある。鎌倉時代における大地震は、約一五〇年間に七・八件と発生回数は非常に多い。そして、南北朝時代から戦国時代にかけて地震の記録は希薄となるが、江戸時代になると増加する。大津波を伴った、元禄関東地震や嘉永七年(一八五四)の安政東海地震などが有名である。ことに元禄関東地震は、宝永四年(一七〇七)の富士山噴火による大量降灰と相俟って関東一円に激甚被害をもたらした。では、はたして明応四年に、津波で大仏殿は流失したのだろうか。大仏殿については、禅僧義堂周信(一三二五~八八)の詩文「相の大佛寺に宿す」によると「寺瀕して海岸、松を吹きて激し」とあり(『新篇鎌倉志』)、このことから「相之大佛寺」の境内は、師が鎌倉にいた南北朝時代には海岸近くまであったと推定できる。そして、室町時代の古文書に「鎌倉大佛寺」とも記されており、大仏尊像及びその周辺は寺院として「相之大佛寺」や「鎌倉大佛寺」、あるいは「大佛殿」などと称されていたことが考えられる。そこで、『鎌倉大日記』の記事を素直に読むと「水勢大佛殿の堂・舎屋を破る」となるで、「大佛殿」の境内の、いずれかの建物が流されたとするのが自然となる。その上、京都・相国寺の僧万里集九(一四二八~?)が文明一八年(一四八六)に当地を訪れた際、自著『梅香無尽蔵』に大仏胎内で昼間から賭場が開かれていたことのほか、この時既に堂はなく像は露坐であったと記している。そのため、明応四年の九年前、建物としての大仏殿はなかったと解釈できる。はたして津波は、海岸に接し、既に大仏殿が失われていた「大佛殿」境内の、どの部分に達したというのだろうか。ところで、大仏さまの肩には大きなへこみがある。これは覆堂の倒壊を伝えるものであろう。ただし大仏殿の存在は南北朝頃までと思え(『太平記』『神明鏡』『鎌倉九代記後記』)、明応四年に流失したとする説は信用できない。また昨今では、巨大地震や大津波の想定を公表する行為が世間一般の恐怖心を煽ることになったとの批判もある。自然災害の想定に歴史記録を用いる際、よほど慎重に扱わなければ危険である。その認識を深めてこそ、露坐の大仏さまはいっそう優しく見守ってくださることを、祈念してやまないのである。なみかわ・みきお 1959年、神奈川県生まれ。『大日本全国名所一覧—イタリア公使秘蔵の明治写真館』(平凡社)を分担執筆、特別展『鎌倉震災史』図録(鎌倉国宝館)ほか論文多数【文化】公明新聞2016.3.30
June 1, 2016
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