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人は大人になると「不安定な安定型」と「自信のある成長型」になる。安全を求めたほうが、結果として不安になり、リスク・テイクしたほうが自信を持つようになる。(加藤諦三)
March 31, 2016
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藤野 豊誤った政策が社会に差別をかつて、らいと呼ばれたハンセン病は微弱な感染症であるのにもかかわらず、国は優勢政策や社会防衛策の一環として、すべての患者を生涯にわたって強制隔離政策を進め、膨大な人権侵害を生み出した。1907(明治40)年に法律「癩病予防ニ関スル件」が交付され、96(平成8)年に、らい予防法が廃止されるまで、法的には絶対隔離政策は維持された。この90年にわたる誤った政策により国民の間にハンセン病は恐ろしい感染症であるというイメージが浸透し、患者とその家族に対する差別が社会に根付いてしまった。今年は、らい予防法が廃止されてから20年、ハンセン病患者への絶対隔離政策は誤りで、らい予防法は違憲であったと断じた、らい予防法違憲国家賠償訴訟の熊本地裁判決から15年、さらに、かつての植民地で、日本がハンセン病患者の絶対隔離政策を開始してから100年に当たる。それだけではない。絶対隔離政策が患者の家族に与えた被害に対する国家賠償訴訟も新たに提起された。また、刑事事件の被告となった患者が、隔離されたなかで裁判を受けさせられた「特別法廷」の違憲性も問われようとしている。まさに今年は、ハンセン病と人権について考えるうえで大きな節目の年となった。こうした年に、私は絶対隔離政策に抵抗した医師・小笠原の日記の解読を終え、3月に『孤高のハンセン病医師—小笠原登「日記」を読む』を六花出版から上梓する。国策に抗し研究、治療へ小笠原登とは、どのような人物なのか。小笠原登は、1888(明治21)年7月10日、愛知県海東郡甚目寺村(現・あま市)の真宗大谷派の古刹圓周寺に生まれ、1915(大正4)年に京都帝国大学医学科を卒業、26年より同大学付属医院でハンセン病患者の診療に従事。特に38(昭和13)年より、同大学付属医院特別研究室(以下、皮膚科特研と略す)の主任としてハンセン病の研究と治療に専念した。そこで絶対隔離政策に抗して、通院治療や治癒と診断した患者の退院を認めた。戦後、小笠原は、国立豊橋病院皮膚科医長、国立ハンセン病療養所奄美和光園医官を歴任し、70(昭和45)年12月12日に死去した。なお、実兄・小笠原秀實は仏教哲学者として知られている。小笠原が残した日記のうち、今、確認できるのは1940年~45年、51年~54年のもので、すべて生家である圓周寺に所蔵されている。日記には、戦前、戦後を通して一貫して国の絶対隔離政策から患者を守った医療実践の軌跡が記され、解読しながら、私は何度も緊張と感動に心が震えた。小笠原が勤務していた京大の皮膚科特研は、皮膚科の病棟からも独立した建物で、小笠原はここに患者を入院させることで、外見上は隔離の体裁をとり、国の法律に違反しないように配慮した。43年1月15日、小笠原は「朝日新聞」の記者に対し、「細菌性ノ病気ナレバ隔離又ヨシ。シカレドモ菌ノ発見困難ナルモノヲ家計ヲ脅カシテマデ隔離スル要ナシ」と語っている。隔離は患者と家族から生活を奪う結果になる。軽症であったり、治癒して他者に感染させる恐れのない患者まで隔離する国策に小笠原は反対した。学会の攻撃にも屈せず小笠原は、ハンセン病は感染症ではあるが、感染力は微弱で、発症には体質が影響すると考えていた。ハンセン病に関わる多くの医師も同様の知見を持っていた。そうであれば、絶対隔離は不要なはずだが、多くの医師は自らの医学的知見を封印して絶対隔離とする国策に従った。これに対し、小笠原は自らの医学的知見に従って絶対隔離を批判し、抵抗した。さらに、小笠原は、ハンセン病は治療できる確信を持って患者を治療した。したがって、皮膚科特研に入院した患者は他の病気と同等に扱われ、小笠原の許可を得れば外出も一時帰省・外泊も可能であった。病気が治癒、もしくは軽快すれば退院も認められた。当然、皮膚科特研は入院だけではなく、通院治療も行われていた。戦時下、小笠原のこうした医療実践は国策に対するものと問題化され、対米英開戦の直前の41年11月14、15日に開かれた日本らい学会総会の場で、絶対隔離を推進する医師たちは小笠原を激しく攻撃。「朝日新聞」は小笠原が論破されたのかのように報じた。小笠原は、15日の日記に「我ガ体質論ニ対シテ駁論アリ。余遅刻セリ。シカシテ我ガ駁論ノ終リノ頃入場質問ニ応戦シ縷々弁ゼントシタリシガ発言ヲ阻止シテ十分発言セシメズ。シカシ不利の陳弁ナカリシト雖モ新聞紙ニハ痛ク不利益ニ報ゼリ」と記し、悔しさを滲ませている。しかし、それでも小笠原は自らの医療実践をやめることはなかった。日記を解読した今、私は、自らの医学的知見に基づきハンセン病患者の生活と人権を守ろうとした小笠原登に、戦時下においても大学の研究の自由を守った稀有な研究者の姿を見いだしている。小笠原登、読者の方々もその名前をぜひ、記憶していただきたい。(敬和学園大学教授)【文化】聖教新聞2016.1.18
March 30, 2016
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自信のない人は、要するに“できないことをやろうとした人”なのである。たとえどんなことでも、自分にできることをやろうとした人は自信をもっているはずである。女性はどんなに頑張っても、素晴らしい男性にはかなわないのではないか……男性はどんなに頑張っても、素敵な女性にはかなわないのではないか。そんなことを思ってみてもはじまらない。女性は女性のままで頑張ればよいのである。女性は女性のままで努力することによって自信を得いく。やはり、男性にしろ女性にしろ、努力ぬきに自信を得ることはできないであろう。努力ぬきに自信はないが、まちがった努力はいよいよ人に自信を焼失させる。努力すればするほど自信をもってくる人と、努力すればするほど劣等感を深刻にする人がいる。女の人が女の人のままで努力した時に自信を強め、女の人が女を否定して男になろうと努力した時、劣等感を強める。人間の努力にはこのように二通りある。必死になっている人にも二種類ある。基礎をきっちりやろうとして必死になるタイプと、とにかく先にいこうとするタイプである。劣等感を持つ人は、とにかく早く先にいこうとするタイプである。ところで、どうして自分にできないことをしようとする人と、自分にできることをしようとする人がいるのであろうか。ことは単純である。自分にできないことをしようとして自信をなくす人は、自分にできないことをやめようとする決断ができないのである。自分にできないことをしようとするのは、それによって自分の優越を示そうとしているからである。自分にできないことに固執して自分の優越を示そうとしている限り、言い訳ができて、やがては神経症になっていくであろう。自信は自信を育て、劣等感は劣等感を育てる。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 29, 2016
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フォトグラファー&ライター 新井 由己寒くなってくると恋しくなるのが「おでん」である。今ではコンビニで年間を通じて買えるほどの人気だ。そこで、おでんの生い立ち、魅力、人気の理由を紹介したい。【おでんの生い立ち】おでんのルーツは室町時代の「豆腐田楽」で、それを宮中の女性たちが隠語で「おでん」と呼んだのが始まり。後にコンニャクの田楽が登場し、江戸中期に醤油の醸造が始まり、醤油味の煮込み田楽が現れた。明治時代に入ると、東京の本郷にある「呑喜」(現在は閉店)が汁気たっぷりの「改良おでん」を考案。その後、鰹だしのおでんが関西に伝わり、昆布だしが加わって「関東煮」が誕生する。日本橋にある「お多幸本店」のおでんは、当時の甘辛の関東煮の味を守る。一般的にこれが「関東風」といわれているが、実は大正時代に普及した“関西生まれ”の味なのである。また、昭和4年に創業し、銀座から日本橋に移転した「一平」のおでんは、透明なつゆ味の薄味おでん。こちらは「関西風」と思われているが、大正時代に親しまれていた甘辛の関東煮を「飲めるスープ」に改良した元祖の店で、実は東京生まれ。おでんに関して言えば、関東風と関西風のイメージが逆転しているのだ。【ご当地おでんの魅力】全国各地には、独自のおでんの文化が根づいている。北海道の花見や夏祭りの屋台では、ツブ貝、さつま揚げ、コンニャクなどを串刺しにして、しょうが味噌をかける串おでんが味わえる。その影響で、青函連絡船航路があった青森市を中心に、しょうが味噌のおでんが普及している。味噌田楽の名残のためか、味噌だれを付ける地域は多い。愛知県では豆味噌、香川県ではからし味噌、愛媛県ではみがらし味噌(麦味噌のからし味噌)が欠かせない。兵庫県姫路市ではしょうが醤油をかけて食べ、長野県飯田市にはネギだれという珍しいトッピングがある。静岡周辺ではだし粉、青のり、味噌だれの3種類のトッピングがある。鹿児島市では、鶏ガラベースのだしに、麦味噌中心の合わせ味噌、ザラメ、焼酎などを加えて煮込んだ味噌おでんが名物になっている。郷土料理の「とんこつ」におでん種が入ったような味わいだ。【おでん人気の理由】日本料理は、煮物・酢の物・揚げ物というように「~物」と分類される。和食の専門書でおでんを調べると、煮物に入っている場合と鍋物に入っている場合があるが、どちらも違和感があった。つまり「おでん物」という新しいジャンルを作らないと、全国のおでんをうまく整理できないのだ。おでんに使われるのは、昆布や鰹節のだし汁、醤油や味噌や潮の味付け、そして魚のすり身や豆腐を元にしたさまざまなおでん種、そして大根や里芋などの野菜……。まさにおでんは、日本人が慣れ親しんだ味覚の集大成といえる。おでんはコンニャクで買える手軽なファーストフードでもあり、懐かしさがこみあげてくるおふくろの味でもあり、心を暖めてくれる酒のつまみでもあり、料理人が腕をふるいたくなる料理なのだ。季節を問わず、おでんはこれからも人々の心を暖めてくれるだろう。(あらい・よしみ)【文化】公明新聞2016.2.19
March 28, 2016
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茂木●「しんどさ」というのに僕はものすごく興味がありまして。というのは、われわれでも、たとえば理論を考えるときに、この理論を考えるのはしんどいなぁ、というときがあるんですよ。でもそれがなんか意外と価値あることだったりして。そのとき、右の前頭葉のこの部分が、しんどさをモニターしているらしいというような研究もあるんですけども、でもそのしんどさを通り過ぎないと、価値あるものをつかめないところもあるわけであすね。むずかしい数学の問題を解いているときとかももちろんそうなのであすが、生きるうえで、あの種のしんどさというのがあって、そこを通り過ぎないとやっぱりいけないところって、きっとあるんですよね。河合●ええ、ええ。茂木●そういうのって、精神分析のなかでどんな扱いになっているんですか、苦しさというのは、べつにその苦しさを取り除くことがいいことではないと思いますが。河合●違ういい方をすると、苦しんでいる人がこられたら、苦しみをとるんじゃなくて、苦しみを正面から受け止めようにしているのが僕らの仕事やと思っています。茂木●逃げちゃいけないということですか。河合●逃げない。まっすぐ受ける。だいたい、まっすぐに受けてない人が多いんです。たとえば「私、困ってるんですよ。だいたい、うちの家内が……」とかいって奥さんの悪口ばかりいってくる人を、ふつうの人はまっすぐ受けないんです。「問題はこの人の奥さんか」と思いながら、さっと逃げてるわけですね。それを僕らのように正面からグーッと聞いていたら「いや、もしかしたら私も悪かったかな……」ということになってきて(笑)。そこに焦点をあてる。そのとき、「うちの家内が……」と悪口を始めても、「いや、奥さんのことはほうっておいて、あなたはどうなんですか」とは、絶対にやってはだめです。そういうと、反発されるだけです。茂木●そのようなときは、どうやってうまく向き合わせるんですか?河合●向き合わせないんですよ。向き合わせないで、奥さんの悪口を始めたら、それを一生懸命聞いたらいい。それをふつうの人は、「また、奥さんの悪口いうてはる」と思うでしょう。だから聞くほうも半身で聞いているんです。僕らはその奥さんの悪口を完璧にまっすぐ聞くわけです。まっすぐに感心して、「はぁ~」と聞いていると、その人の視線がまっすぐになってくる。茂木●ああ、そうですか。河合●はい。だからほとんど僕の場合は、話を聞いているだけのことが多いです。できるかぎり、まっすぐ聞こうと思っています。でもやっぱりね、できるかぎりといっても、なかなかまっすぐ聞けないですよ。わかるでしょう。くるたびに奥さんの悪口ばっかりいってたら、「お前、ええかげんにせい。お前はどうや」といいたくなる(笑)。それを何回きて何回奥さんの悪口をいわれても、できるかぎりまっすぐ聞く。なかなかできませんけれど、その修練を僕はしてきたんじゃないかなぁと思ってますね。茂木●そうすると、本当に自分の問題に向き合えるようになってくるわけですか。河合●なってくるんですね。その人。不思議ですねぇ。茂木●不思議ですね。【こころと脳の対話】河合隼雄・茂木健一郎著/新潮文庫
March 27, 2016
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米倉 久邦温暖湿潤な環境が有利に日本は森林大国で、古来、衣、食、住、燃料のすべてに木を利用してきました。そのため人の手が入っていない森はないといってもよいほどです。だから森の個性というのは、人間の生活とどのような関りを持ってきたかという点になるのです。それは、どのような過程を経て今の森が成り立ってきたかということにも通じます。そんな特徴的な森を取り上げ、自然と人が織りなす森の成り立ちについて、今回『森の森列伝』(ヤマケイ新書)としてまとめました。インダス文明、メソポタミア文明など古代文明は、大河と森林によって繁栄してきました。住居を建て、家具を作り、パンを焼く。衣服も植物の繊維から。また、青銅器などを作るために膨大な薪が燃やされました。この樹木を伐り尽くした時に文明は姿を消したのです日本でも同じように、森林の利用が進められてきました。ただ、違ったのは気候です。温暖湿潤な気候によって200年も経てば自然に再生します。日本の森林率は70%。先進国の中でこれほど森林率が高い国はありません。日本が世界に誇れる資源というのは、人と森なのです。ただ問題なことに、それを使うことができない。特に樹木の利用は計画的に行われていないため、伐り出すのが難しい状況です。特徴的な12の森を紹介拙著の中で紹介した12の森は、ほとんどが自然の森です。そこには、自然と人が作り上げてきた多様な姿が見られます。例えば立山(富山)の巨大スギ「タテヤマスギの森」。幹周囲6メートル以上が147本。巨樹の定義とされる3メートル以上では200本にもなりますこれほど高密度に天然スギの巨樹が密生しているのは、縄文杉で有名な屋久島にもありません。しかも、積雪の深い厳しい場所だけに、その容姿もすごい。スギらしく真っすぐ伸びた木は少なく、上部の幹は折れて、太い幹が盆栽のように横に張り出しています。しかも、幹の一部に大きな傷跡が。幹をはぎ取って、木材として利用した跡です。江戸時代、森林資源を独占していた加賀藩は、スギやケヤキなどの伐採を禁じていました。その抜け道として考えられたのが、はぎ取りだったのです。魚津(富山)にも、異形の天然スギがあります。市街から南東の山岳地帯に向かうと現れる「洞杉の森」です。巨大な花崗岩(かこうがん)にまとわりつくように根が絡み、太い幹がうねるように伸びています。雪に覆われるため気温の変動が少なく、湿度が高い。このような気候だと、100年ぐらいまでは、わずかした育ちません。年輪の幅は1ミリ以下。他木だと枯れてしまうのですがスギだけはジッと生き延びているのです。一つの生態系を作り上げる山を歩くと、必ず目にすることができます。でも、興味の先は人それぞれ。一番注目されるのは、きれいな花でしょうか。樹形についても面白いかもしれません。まっすぐな木ばかりでなく、独特な姿をした樹木も多い。日本には多くの森がありながら、人は森を見なくなって来ているのではないでしょうか。森は一つの生態系をなしています。その中ですべてが循環していけるのです。かつて人間も森から多くの恩恵を受け、生態系の一部としての役割を担っていました。ところが科学の進展とともに、森から離れて生活していけると勘違いしているように感じます。簡単に考えても、森は二酸化炭素を吸収して、多くの酸素を作り出します。森がなくても生きていけるというのは大きな誤解なのです。また、森林浴や森林セラピーに利用されるように、私たちの心身にも大きな影響を与えます。森に出掛け、気に触れて、流れる空気を吸い、川のせせらぎを聞く。そんな森のすばらしさを、五感のすべてを使って楽しんでもらえればと思っています。(森林インストラクター)【文化】聖教新聞2016.2.17
March 26, 2016
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日蓮大聖人は、「はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし」(御書1192頁)と仰せられた。祈りこそ、勝利の究極の力である。妙法への「信」を深めて題目を唱え、「断じて勝つ!」と決めれば、いくらでも智慧が湧く。困難でればあるほど、勇気が漲る。【SGI会長が贈る「勝利の人間学」】創価新報2016.2.17
March 25, 2016
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他人に好かれようと行動するより、自分を尊敬できるように自ら行動せよ。他人に好かれることを人生の目標にすると、ノイローゼになる。他人が自分をどう思っているかで、自分を評価しようとしたりしていると、いつまでも自身はもてない。他人に好かれようとして、とりつくろう。そして“とりつくろう”ことにエネルギーを使いすぎて、肝心の自分を豊かにすることができない。体面を維持することに疲れ果てて、友人と何かに共感することができない。他人への思いやりで疲れるのではなく、自分の対面の維持で汲々としてしまう。他人にバカにされたくない。嫌われたくない、と汲々として疲れ果てる。そして好かれようとすることを目標にしたことによって、他人とコミュニケーションをもてなくなる。他人から自分が行きたくないところに誘われたりした時、断ったら嫌われるだろうと恐れて、いやいや一緒に行く人がいる。この人は自分を誘ってくれた人に嫌われたくないために、自ら自分を嫌いになることを許してしまっているのである。私たちは自分のわがままをとおしても自分で自分を尊敬できなくなるし、嫌われることを恐れて他人のわがままをとおしても自分で自分を尊敬できなくなる。私たちにとって大切なことは、他人とコミュニケーションができるようになることである。他人に嫌われることを恐れている人が、一つ勘ちがいしていることがある。そういう人は、他人と会うことをかさねるだけで親しさを増すことができると思っている。他人に好かれることを目標にしている人は、よく人と会う。しかし単に会うということをかさねるだけでは、親しくはならない。私たちはある感情を共有することで親しくなるのである。“友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う”という歌があるが、ともに悲しみ、ともに喜んでこそ親しさを増す。他人に好かれることを目標にしてしまっている人は、自分以外の人ならだれにでもよい顔をする。したがって、さまざまな性格の人と付き合っているが、本当に親しい人はできない。人間にはいろいろな種類の人がいる。すべての人と深く付き合う必要などない。そんなことをしようとしたら、ノイローゼになってしまう。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 24, 2016
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ある社長の息子である。親の財産と会社をついだが、結局それらのものをすべてなくしてしまった。理由は簡単である。彼には自己主張がなかった。したがって彼を操作して、甘い汁を吸おうというずるい人ばかりを周囲に引きつけてしまった。周囲の人は、彼を、他人にとって望ましいことをしなければならないという“べき”で包囲した。彼は周囲の人の“好意”と“尊敬”を維持するために、周囲から望まれることをした。彼は周囲の期待にこたえ、“尊敬”されることで、自分の内面の空白から目をそむけていたのである。しかも彼は、周囲からその時に得ている“尊敬”が、本当の尊敬ではないということを気づかなかったのである。操作するための“尊敬”であったにもかかわらず、彼は自分が尊敬されていると勘違いした。見捨てられることにおびえていたから相手の本心が見ぬけない。彼は自分が社長であるためには、周囲から望まれることを、つねにする必要があると錯覚していた。この“べき”に奉仕し過ぎて、本当の自分は空無と化していたのである。やがて会社はかたむき、財産はなくなった。その時、彼は愕然とした。今まで“この世に二人といない社長”というほど自分を“尊敬”していた周囲の人々は、口汚く自分をののしりだしたのである。そかも、ののしることまでが操作で、周囲の人々は最期の血の一滴までしぼりとろうとした。その社長は何と自分の家族を養うのに精いっぱいだったところへもってきて、住んでいた家まで売られてしまったのである。社長にむかって会社の中で、「出ていけ」とまで周囲はののしった。それまでは、「社長は人がよすぎるところがある。少し隠し財産でもつくったほうがいいんじゃないんですか」とまで言っていた人が、やはり「出ていけ」と言って、住んでいる家屋敷を売りとばす手続きをとりだしたという。見捨てられる恐怖から、他人にとりいることを続け、自己を空無化してしまった人間の末路である。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 23, 2016
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自分の本当の感じ方を偽って述べても、けっして本当の自分は立派になるわけではない。私たちにとって大切なのは、本当の自分が立派になることであって、本当の自分の感じ方を偽って立派なことを述べることではない。本当の自分の感じ方がそれほど立派でないのに、立派な感じ方をしているように偽るからこそ不快になるのである。そして、本当の自分を立派にしようという望みやエネルギーは、本当の自分の感じ方を自分も認め、それを述べることができるところから生まれる。本当の自分の感じ方を偽っている以上、自分は委縮していくだけである。本当の自分の感じ方を述べることが自己主張でもあるし、他人との本当のコミュニケーションを可能にする。だから、本当の自分の感じ方を述べられないような雰囲気をつくってしまう関係は恐ろしいのである。そのような雰囲気の中で育って自信をもつなどということはあり得ない。この種の雰囲気はある種の家庭や、ある種の宗教団体などにある。したがって、それらの集団に属している人は、自信の欠如としての狂信しかもてないのである。堅苦しく束縛されるような雰囲気を相手から感じとってしまうのは、相手は口では何を言おうと、根本においては限りなく受容されることを求めているからである。相手が密着した一本化を心の底で求めている時、どんな口で“自由”を言っても束縛を感じるものである。どんなに立派なことを言っても、そんな雰囲気の場所には近づいてはならない。相手の言うことが立派であればあるほど、相手の要求にはノーと言えなくなる。相手の言う通りにならない自分を悪く感じてしまう。しかしはっきりさせるべき問題は、相手の言っている内容ではない。相手の心情である。雰囲気が自分に不快であるならば、論理的な根拠がなくてもノーと言ってよいのである。「理由は言えないけど、私はいやだ」ということが正しい時もあることを、忘れてはならない。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 22, 2016
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自信をもつために大切な自己主張をせず、自己否定をしつづけてきたのである。よい子、立派な人と思われるために、たえず気を遣い、自分を殺して生きつづけてきた。しかしその結果はどうであったか。その結果こそ、自信喪失なのである。このように、他人に非難されることを恐れて自分を殺しつづけると、どうなるか。自信喪失から気力喪失となり、やがては仕事が億劫になり、気分が沈みがちとなり、何もかもがいやになる。身体を動かすのも億劫だ、という“うつ状態”になる前に、自分を大切にすることである。他人を立てすぎて自信を喪失したのである。朝の起床が億劫になり、仕事も人に会うのも、何もかもがわずらわしくなる前に、自分を立てることである。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 21, 2016
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いろいろなことにおいて、あなたよりはるかに不完全な人が自信に満ちて生きているのは、自分に関する決断を自分に変わって誰か他の人にしてもらわなかったためなのである。“逸物の鷹も放さねば捕らず”という格言がある。狩りでいろいろな獲物を捕る立派な鷹も、放さないでもっていては、何も捕らないということである。自身のないあなたの周囲にはりめぐらされた関係は、あなたの能力を発揮する機会を奪っているのである。自分に関する決断を自分に代わって誰か他の人にしてもらうということは、自分の逸物の鷹をじっともっているようなものである。自信がないのではなく、自信を解き放たないのである。“一升瓶に二升は入らぬ”という格言もある。自己主張のない人は、一升瓶のあなたに二升入ることを期待したのである。それもあなたのためにではなく、自分のために。彼にとって、あなたが一升瓶であることは都合がよいから、一升瓶のあなたに二升瓶であることを要求した。しかしあなたはその期待に負け、一升瓶の自分に肯定感がもてなくなった。しかし、もとはといえば、あなたが一升瓶であることが都合よかったのは、彼にとってなのであるあなたが一升瓶であることを非難するのは、彼自身が自分に満足していないからである。自分に失望している人は容易に失望し、他人を非難する。このことは忘れてはならない。自分自身に失望した人の自己本位な感情や期待に負けて、あなたは自信を喪失しているのが、真の真相である。自己主張のない人の期待は、本当は犬の遠吠えのようなものである。しかし自信のない人は、その犬の遠吠えに臆病にもふるえあがったということである。自分は一升瓶、相手は犬の遠吠え。これを自覚することである。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 20, 2016
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自信のある人は、努力しなくても自然と他人の正体が見えてくる。ところが他人の正体を見ぬく必要のある自信喪失に悩む人こそ、実は他人の正体、自分の正体をなかなか見ぬけないのである。“羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く”という格言がある。羹とは熱い煮物であり、膾は魚を薄く切って酢に浸したものである。自信のない人は、まさに膾を羹と思って吹いてさますのである。とんだ偽物におびえて、身を犠牲にしておべっかをつかう。自信のある人だったら、「なんか、あの人ずるいなぁ」というだけで終わるものを、自信のない人は、わざわざこちらからすり寄っていってお世辞を言ったりする。だから、気がひける必要のないところで気がひけるのである。自信のない人は、どんな人に会っても心理的に安定した対等の立場で話ができない。自信のない人は、めったやたらに他人の前で背のびしてよく見せようとする。劣等感の激しい人は、ことに劣等感の激しい人の前で背のびして、自分を実際よりもよく見せようとするようである。劣等感の強い人は自分の眼の前の人が、心の葛藤で苦しんでいる精神的幼児であることなどけっして気がつかない。劣等感があるからこそ自分の重要さを誇示しようとするのであるが、こちらも自信喪失していると、その誇示に負けて、いよいよ身を低くして相手に取り入ろうとするのである。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 19, 2016
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人は、自分が必要とされていると感じた時に愛が生まれ、利用されていると思った時に憎しみが生まれる。自信のない人は、まず自分の置かれている現実を正しく解釈することが必要である。自信のない人は、自分の見方を敵だと思っていたりする。また逆に、本当は自分の敵なのに味方と思い、その人を尊敬してゆがんだ関係を創り、それにしがみついていたりする。自信のない人が自信をもつためには、自分の周囲にいる人間の正体を見破ることが必要である。【自信】加藤諦三著/三笠書房
March 18, 2016
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ズボンのポケットに入れた携帯電話のかすかな振動に、体がこわばった。20代の男性にとっての1カ月ぶりの休日。恐る恐る画面を見ると、会社幹部からのメールだ。「売上を上げろ」「売る気ないのか」。死ねば楽になる―。男性は2014年、自殺を考えるほど追いつめられていた。男性は10年春に大学を卒業。就職活動で数十社受けたが、リーマンショックの影響もあり、内定を得られなかった。同年秋、インターネットの求人サイトで「アットホームな職場」と紹介されている会社を見つけた。大手コンビニのフランチャイズ店を関東地方で十数店舗経営。求人には社会保険の加入のほか、自動車運転免許の取得補助もあると書かれていた。とんとん拍子手入社が決まった。違和感はあった。入社後、実際には自分が社会保険に加入していないことを知る。同僚も次々と辞めたが、「就職氷河期だし、わがままを言ってはいけない」と自分に言い聞かせ、仕事を続けた。入社1年後に店長に。売上報告やシフト作成など仕事量は激増した。午前7時から午後10時過ぎまで働き、休みは月1日だけ。給にアルバイトが休み、32時間連続で働いたこともあった。実体は権限や裁量のない「名ばかりの管理職」で、給料は店長になる前と同じ約20万円。残業代は出ない。休日も、幹部からメールと電話で問い合わせや指示を受けた。おでん、おせち料理、母の日セット…。毎月のノルマを達成するため、自ら購入する“自爆営業”を月数万円もしていた。大学時代に給付を受けていた奨学金の返済もあり、半年分の住民税を滞納することもあった。帰りの電車で立ったまま寝てしまい、終着駅近くのネットカフェで朝を迎えた日も。絶望感を染めていったが、「ここをやめたら次はない」「他の仕事はもっと厳しい」とひたすら耐えた。ついには手が震え、夜も眠れなくなった。14年6月、精神科で「うつ病で1カ月の療養が必要」と診断されたものの、1週間休んで復帰。回復していないのは分かっていたが、人手が足りず休める雰囲気ではなかった。病状はさらに悪化し、15年2月から休職した。「ブラック企業」への批判が高まっていることを受け、国は行政指導の段階で企業名を公表することにしたり、違法労働の監督指導に当たる専従班を東京、大阪の両労働局に設置したりと、対策を取り始めた。ブラック企業という言葉が広がるきっかけになったのは、居酒屋チェーンを経営するワタミ子会社の女性社員=当時(26)=が08年に過労自殺した問題。両親が損害賠償を求めた訴訟は15年12月、ワタミ側が責任を認めて謝罪し、遺族側に約1億3千万円を支払うことで和解は成立した。過重労働を許さないという機運が高まりつつある。男性の家族は昨年2月、労働関係のNPO法人に相談。会社側と相談した結果、同12月に未払いだった残業代を支払うことで合意した。男性はこの会社を退職。新しい仕事を探すため職業訓練を受けるつもりだ。男性は訴える。「あの時、休職していなかったら死んでいたと思う。これ以上ブラック企業の犠牲者が出てほしくない。身の危険を感じたら関係機関に早めに相談してほしい」働く者の権利27条●すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 賃金、就労時間、休息その他の労働条件に関する基準は、法律でこれを定める。 児童は、これを酷使してはならない。28条●勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。【憲法のいま 交付70年】京都新聞2016.2.13
March 17, 2016
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元プロ野球のスター選手が覚せい剤所持の現行犯で逮捕された。事件を報道するテレビを見ながら、ある演出家の話を思い出した。読売新聞の『「ウ」の目 鷹の目』で紹介されていたのだ。演出家は大学1年の時、デモに参加して左目を負傷、失明の危機におびえながら病院で巨人-阪神戦の中継を聞いていた。首位攻防戦。巨人の王が死球を受け球場が騒然となる中、場内アナウンスが聞こえてくる。「四番サード長嶋」。彼はベッドから飛び起き「もし、ここで長嶋がホームランを打って、見事に王の仇をうってくれたら、俺もケガに負けないで頑張れるかもしれない」と。長嶋は鮮やかな3ランホームランをレフトスタンドに叩き込んだ。スターだけが残せるエピソード。逮捕された選手も現役時代はそんな存在だった。心の支えにしていたファンも多かったようだ。それなのに……本当に残念だ。【北斗七星】公明新聞2016.2.1
March 16, 2016
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“忍耐の夜”を、“凱歌の朝”に転じる力は“勇気”である。勇気ある信心に立ってこそ、“宿命”を“使命”に転じることができるのだ。【新・人間革命「常楽」36】聖教新聞2016.2.12
March 15, 2016
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世界で今、戦後最悪といわれる難民問題に凝縮された形で現れているように、紛争の長期化や排他主義の高まりといった「戦争の文化」に歯止めをかけことは、平和研究にとっての一大焦点であるのみならず、人間の良を糾合して取り組むべき急務であると思えてなりません。その意味で今回、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教を背景とする研究者、運動家、宗教者が一堂に会し、各地で広がる「暴力と憎悪の連鎖」を乗り越え、世界に「平和と人道の潮流」を高めゆくために、宗教、また信仰を持った個々人がどのような役割を果たしていけるのかについて探求する意義は大きく、会議の成功を心から願うものであります。「新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない」(『21世紀の対話』、『池田大作全集第3巻』所収)これは、20世紀を代表する歴史家、アーノルド・J・トインビー博士が、私との対話の中で述べておられた言葉であります。トインビー博士が、この諸悪として、「貪欲」などとともに挙げていたのが、「戦争と社会的不公正」でありました。長い歴史の中で多くの宗教が平和を希求しながらも、時として対立を助長するような要因となったケースがあったことは否めません。しかし博士は、その事実を踏まえつつも、歴史を更に紐解いていくならば、宗教が平和裡に共存していたいくつも見られることを指摘しつつ、宗教が人間の善性を薫発し、諸悪を乗り越える道を開く可能性に期待を寄せていたのです。【戸田平和研究所の国際会議への池田SGI会長のメッセージ】聖教新聞2016.2.12
March 14, 2016
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菩薩行の逆転橋爪●最後にもう一つ、大事なポイントは、久遠のブッダがなお菩薩行を続けていることです。もともと菩薩の修行は、覚りを目指すためのものです。覚って仏になるのが目的で、菩薩の修業は、そのための手段であるはず。無数の地涌の菩薩が出現しました。彼らが長年、菩薩としての修行を続けているのは、覚りを得て仏になるためで、通常の菩薩の修行と同じです。植木●その通りですね。小乗仏教と大乗仏教の主張する菩薩は、お釈迦さまに限定するか、しないのかの違いはあるけれども、ブッダという理想に至る前段階として手段・プロセスの意味がありました。〈菩薩からブッダへ〉という方向がありました。橋爪●このような菩薩行は、覚りを得たなら、必要なくなるはずです。菩薩行は、それ自体よいものだとしても、あくまでも手段なのですから。〈菩薩行=手段〉〈覚り=目的〉の関係ははっきりしている。ところが、久遠のブッダは、覚りを得た後も、ブッダでありながら、菩薩行を続けているという。菩薩行は、手段ではなくて、それ自体が目的化している。これはとても大胆な、発想の逆転だと思う。(略)橋爪●このように、菩薩行それ自体を、価値あるものとして行うという発想は、他の経典にはなく、法華経だけの特徴だと思うのですが。植木●その通りです。法華経の最も重視すべき点です。【ほんとうの法華経】植木雅俊・橋爪大三郎著/ちくま新書
March 13, 2016
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植木●法華経の思想は、こうです。法こそブッダを生み出した根源であり、法は、法華経の中に記されている。お釈迦さまは亡くなるけれども、法華経には、ブッダを生み出した根源が記されている。その教えに触れると、われわれにもブッダが現れてくる。われわれは法華経によって、ブッダに出会うのだ。良医病子の譬えで、名医である父親が残していった薬が、まさに「法の集合」「教えの集まり」に相当し、子どもたち(衆生)がその薬を飲む(信受する)ことにより正気に戻ったところで、父が帰って来る(ブッダに出会う)。そういう構成になっているのです。【ほんとうの法華経】植木雅俊・橋爪大三郎著/ちくま新書
March 12, 2016
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植木●仏教は形而上学的なことは、くみしませんでした。遥かな過去と、はるかな未来の行き着いたところでどうなるかということは、議論しません。原始仏教の『マッジマ・ニカーヤ』に、「過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。また未来は未だ到達していない。そして現在のことがらを、各々の処においてよく観察し(中略)ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ」(中村元訳)とあるように、瞬間瞬間の積み重ねである現在を重視する。むしろ、ただ今の瞬間に永遠性を見ていく、歴史上の人物であるお釈迦さまに永遠性を見るということです。だから、久遠に成道しているけれども、お釈迦さまは「常在此娑婆世界 説法教化」「常住此説法」(『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下巻、二三八頁)、すなわち「常にこのサハー世界に住して説法教化している」ということで、どの瞬間をとっても「常住」「常在」していることを強調しています。【ほんとうの法華経】植木雅俊・橋爪大三郎著/ちくま新書
March 11, 2016
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明治大学大学院教授 青山 佾(やすし)ガバナンスという言葉には二通りの意味がある。一つはコーポレートガバナンス(企業統治)という場合のガバナンスで、これは企業経営の透明性、すなわち株主から経営の内容が見えるようにして、経営執行に対する監視を強めることを中心とする。社外取締役を増やし、社外から監査を強化する。これは企業社会におけるガバナンスの考え方である。もう一つ、ガバメント(統治)に対する対立概念としてガバナンスという考え方があり、この場合、日本語では統治ではなく協治と訳される。ガバナンスにも統治という訳語はあるが、「ガバメントからガバナンスへ」という言い方をすると、行政と市民の関係が統治から協治へ、すなわち縦の関係ではなく横の関係へかわるべきだといったふうな議論が行われる。市民同士の協働とか行政と市民の協働などと言う場合の協働は、ガバナンスという概念と密接に結びついている。ただしこの場合でも、協治・協働のためには透明性は不可欠の要素となり、この点はコーポレートガバナンスと共通である。現代社会で重要な位置を占めている社会福祉法人、生活協同組合、NPOなど非営利活動にとっては、上記の二通りのガバナンス論はどちらも大切で、避けて通れない議論である。社会福祉法人は非営利組織として社会から期待されている役割があるが、同時に市場原理が支配する社会の中で一定の収入を得て一定の経費を支払って活動している。だからコーポレートガバナンスと協治・協働という場合のガバナンスと両方を要求される。社会福祉法人は営利目的ではなく、利益を出資者に分配することはない。この点において企業とは異なるが、しかし経済社会において活動していることに違いはない。市民や関係者との協治・協働のためにも、経営のさらなる透明化を図り、市民らの理解と協力を得ていかなければならない。同様に社会福祉法人の本来業務がきちんと行われること自体、社会貢献だが、それが市民や関係者に理解されることが大切である。【ニュースな視点】公明新聞2016.2.11
March 10, 2016
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精神科医、精神医学史家 小俣 和一郎ナチズム期(ヒトラー政権下のドイツ、1933-45年)において「安楽死」という名目のもと、おもに精神障碍者が大量殺害されたことは、これまでにも拙著をはじめ多くの文献などで知られている。治療不能の精神障害をもった人間は「生きるに値しない生命」とされ、1940年初頭から41年8月までのあいだ、ドイツ国内で設けられた計6か所のガス室付きの精神病院施設でCOガスによって殺害された。焼却炉から立ちのぼる煙の目撃や死亡した入院患者の遺族からの訴えなど、秘密裏に実行されたはずの「安楽死」は次第に公然化し、一定の非難を浴びて中止命令が出されたが、その後もなお、計画的な餓死や薬物注射などで秘密裏に遂行され、ドイツ敗戦まで20万人余りが犠牲になったと推定されている。このような「安楽死」を医学犯罪としてとらえるなら、もう一つの医学犯罪が強制収容所などでの人体実験だった。「安楽死」と人体実験は、戦後のニュルンベルク医師裁判で裁かれ、その結果、現代の医療倫理にも反映された「ニュルンベルク・コード」が生まれた。しかし、戦時下の人体実験は、ドイツのみならず旧日本軍によっても行われた。731部隊などによる広範な人体実験がそれである。こちらは戦後アメリカのよってデータ引き換えに免罪にされてしまったが、旧ソ連によるハバロフスク裁判で裁かれた。ガス室を用いた「安楽死」殺人は、41年8月に中止にはなったが、「安楽死」組織は翌年からのホロコースト(ユダヤ人大量殺人)へと転用された。占領下ポーランドに設けられた4か所の絶滅収容所(トレブリンカ、ゾビボール、ヘルムノ、ベルツエック)でのCOガスを用いてのユダヤ人殺害がそれである。有名なアウシュビッツのガス室殺人では青酸ガスが用いられたが、その原型はこれら絶滅収容所における大量殺人だった。その犠牲者の数は、少なくとも150万人といわれる。よく知られているようにアウシュビッツでは、移送されてきたユダヤ人のうち、労働可能なものと不能なもの(老人、子供、病者など)とに選別が行われて、前者は強制労働へ、後者はガス室へと送られた。障害者の殺害も労働不能であることが選別の基準の一つとされた。人間そのものよりも労働に価値が置かれ、個人よりも国家が優先する社会、健康であることが義務である社会、特定の「劣等人種」が淘汰され優秀とされる人種のみが受け継がれる社会―—それがナチ党(国家社会主義ドイツ労働党)の描く理想の社会である。ではなぜ、このような社会が生まれたのだろうか?そこには今もよく分からない点、なお多く含まれている。これに関しては、教壇的歴史学者の言説を安易に鵜呑みにすべきではない。分からないことは分からないこととして向き合い、今後も研究しようとしなければならない。「安楽死」もホロコーストも、そのディティールは実に複雑な現象であり、それを完全に理解することに、われわれはいまだ成功したとは言えないのだ。【文化】公明新聞2016.2.10
March 9, 2016
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演出家 田尾下 哲フランス人の先生に西洋演劇を教わる中で学んだ、私にとって物事の見方が大きく変わった教えがあります。それは、隣にいる人と同じものを同じアングルで見ているからといって、その人には私と同じように「見えて」いるとは限らない。フランスで、私は先生に連れられて教会でステンドグラスを見ていました。先生は「美しいと感動しているあなたと、隣で涙を流しているご老人と、何が違うと思う?」と問いました。私にはすぐにその意味が分かりませんでした。「あなたはステンドグラスを図形として、色彩として美しいと感動している。だがステンドグラスは、もともと文学を詠むことのできない人のために聖書の物語を絵にして、教会の人間が信者に語って聞かせるものだ。だから感動するといってもその宗教的、歴史的背景を知っているか、また、ステンドグラスの画から聖書の場面や聖人の姿を思い浮かべる人とそうでない人では、感動の意味が違う。あのご老人はその教えに感動して涙しているのだよ」と。物理的な視覚情報としては、隣同士にいればほぼ同じ(それでも、目の色や、体調、集中力、視力など個人差はありますが)ものをみているのにもかかわらず、その人の「知識」によって見えるものの意味が変わり、「見えているもの」さえ変わってくるということは、20代の私にとって大きな衝撃でした。演出家は、演出作品が国も時代も違う物語ならなおさら、観客は作品が初演された時とは違う価値観、知識で観劇しているということを忘れてはなりません。前提となる価値観や知識が物語の理解に必要ならば、それらをどのように観客に提示するのか、またはそのことを抜きにしても物語を物語れるのか……それらの判断もまた、演出家の仕事なのです。【言葉の遠近法】公明新聞2016.2.10
March 8, 2016
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交易拠点として富が集まった博多は、武将の争奪戦で度々焼き尽くされた。太閤町割りが繁栄の礎とされる。だが、秀吉もさることながら、博多を復興させたのは町民の心意気だったに違いない。福岡市に現存する博多塀に思った。煉瓦を練りこんだ塀は、町割りに尽力した豪商、島井宗室が考案した。「焦土から繁栄を築く」との誓いである。宗室は大陸や半島との交易を再興し、朝鮮出兵を諫めた。昨年が没400年にあたる。秀吉の腕力と博多衆の反骨心。両輪で博多は反映した。(略)朝鮮出兵の案内役として大名に取り立てようとした秀吉の誘いを断り、宗室が難題をぶつけた。「されば、内海(博多湾)すべてを拝領したく……」。アジアに開かれた海の玄関口は、昔も今も石高に換算できない可能性を秘めている。【北斗七星】公明新聞2016.2.8
March 7, 2016
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選ぶことのできる選択肢が多く、自由度が高まるほど、幸福感は増す。この「幸福」と「選択」の関係を論じた好書に、米コロンビア大学・アイエンガー教授の『選択の科学』(櫻井祐子訳、文芸春秋)がある。同書に、高齢者介護施設での心理学実験が紹介されていた。ある階では、職員が選んだ鉢植えを入居者に配り、水やりも職員が行う。施設で見る映画の予定も職員が組んだ。別の階では、入居者が好きな鉢植えを選び、水やりもした。映画を見る曜日も、入居者自身で決めた。驚いたことに、3週間後の調査では「選択権なし」のグループの70%以上が健康状態の悪化が見られた一方、「選択権あり」のグループの90%以上に改善が見られた。人生全般にも同じ見方ができよう。“運命は決められている”と考えるより、“自分の運命は自分で変えられる”と考えるほうが、前向きに生きられる。海外の新入会員に入会動機を聞くと、特に、運命は変えられないとする宗教文化圏内において、一つの傾向がある。日蓮仏法の「宿命転換」の法理が、新鮮で魅力的だったという人が多いのだ。幸福は与えられるものではなく、自分でつかむもの。選択権はすべて、自分にある――この「限りない希望」の哲学を、地域で世界で、語り広げよう。【名字の言】聖教新聞2016.2.7
March 6, 2016
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過酷な労働に当たっている人は、時々、配置換えも行ったり、食料を分け合ったりしたといいます。建設への貢献が大きかったからと、ソ連側から先に日本に帰国させてやろうと言われた人がいました。しかし、彼は言うのです。「体が弱っている者がいる。彼らを先に返してほしい。ただし、このことは誰にも言わないでもらいたい」永田さんは457人全員の名前と住所をすべて覚えたといいます。紙に書くとスパイだと疑われかねません。そこで毎日、朝と晩、復唱し頭にたたき込んだというのです。京都・舞鶴港に帰還した後、ほとんどの人が一目散に郷里を目指す中にあって、永田さんは舞鶴に数日間とどまりました。記憶した名前と住所を紙に記し名簿化するためです。郷里に帰れば多くの人に会って忘れてしまうかもしれない。そう語っていました。彼らは、ほとんどが10代から20代。永田さんも24歳という若さでした。その若者たちによるリーダーシップ、皆で成し遂げようとする姿などは稀有な例ではないでしょうか。 ◇私は、ナボイ劇場の建設に従事した日本兵捕虜の話を約10年にわたって取材。昨年の秋に『シルクロードにオペラハウスを建てた』(角川書店)として上梓しました。昨年は戦後70年ということもあり、日本や日本人の在り方について議論がさまざまに交わされました。しかし、世界に向き合う日本はどうあるべきか、もっと根本的な議論がなされてもよかったのではないか。そう感じてなりません。戦争は二度と繰り返してはいけない。その上で、過酷な状況の中で自分も仲間も生かしつつ一大プロジェクトを成し遂げた若者たちがいたことを、多くの方に知っていただければと思っています。(ジャーナリスト、NPO法人ウズベキスタン協会会長)しま・のぶひこ 1942年、中国・南京市生まれ。毎日新聞経済部で大蔵省、日本銀行などを担当。ワシントン特派員などを経て87年に退社し、フリージャーナリストに。数多くのテレビ・ラジオ番組のキャスターやパーソナルティー、解説者を務める。『日本人の覚悟』『首脳外交』など著書も多数。【文化】公明新聞2016.1.20(おわり)
March 5, 2016
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嶌 信彦中央アジアのウズベキスタン共和国。シルクロードの栄華を残す世界遺産も数多い同国の首都タシケント市の中心部に、オペラハウス「ナボイ劇場」があります。総床面積1万5000平方メートル。1400席を有する3階建て(地下1階)、れんが造りのビザンチン風オペラハウスです。劇場が完成したのが旧ソ連時代の1947年(昭和22年)10月。モスクワ、レニングラード(旧サンクトペテルブルグ)、キエフと並ぶ四大劇場の一つとしてナボイ劇場の名前は知っていても、その建設の中心に457人の手に職をもった日本人工兵捕虜が従事したことを知る方は少ないのはないでしょうか。それから20年後の66年(同41年)4月、約8万棟の家屋が倒壊するなどタシケント市街を壊滅状態にした大地震の際、ナボイ劇場は外壁が落ちることもなく無傷で立ち、市民の避難場所となりました。この事実がウズベキスタンはじめ中央アジアの人々の心を大きく動かし、今日まで続く親日感情を築く基礎にもなったのです。 ◇第2次世界大戦後、旧満州(中国東北部)などでソ連の捕虜となった日本軍将兵は約60万人。シベリアや中央アジアなどで鉄道建設、石炭・石油の採掘、木材調達など使役労働を余儀なくされ、そのうち約3万人がウズベキスタンに移送されましたが、オペラハウス建設に従事していたのは第4収容所にいた457人の工兵たちでした。極寒の気候で、日本兵上司への弾劾、告げ口なども多くあった収容所も、たくさんあったようです。タシケントでは、ロシア革命30年に当たる47年11月の完成を目指してオペラハウスが建設されていましたが、戦争で中止。再開された工事に現地の人々と共に従事することになったのが、陸軍航空部隊で飛行機の整備・修理などを担当していた永田行夫元大尉の部隊を中心とした457人の日本兵捕虜だったのです。国家プロジェクトによるオペラハウスの建設工事といっても、捕虜としてやらされる仕事。手抜きすることもできたでしょう。しかし、歴史に残るオペラハウスになる以上は日本人の誇りと意地にかけても最良のものを造りたい。後世に笑われるようなものではなく、日本人の建設したものは出来が違うといわれるものにしたい。これが永田さんたちの決心でした。とともに、捕虜となって先も見えず、生きる誇りを失っている仲間に、自分たちの技術や技能で世界に引けを取らない建設物を造るという一点を生きる糧にしてもらいたい、という気持ちだったとも伺いました。最良のものを造る。そして、全員が健康で無事に帰国する。この方針は小グループのリーダーを通じて共有され、各人が持ち場で力を尽くしたのです。【文化】公明新聞2016.1.20(つづく)
March 4, 2016
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宗教は神の愛を説き、神の正義と真実に帰依することを求めるものだ。ところがその宗教も、より多くの信者を集め、より強い結束を求めるようになると利益誘導をやり出す。この神様を拝んだら商売繁盛、家内安全といった利益誘導で信者を獲得するようになる。それでも信者が増えないとなると、恐怖で追い立てるようになる。この神様を拝まなかったら病気になるぞ、事故に遭うぞ、死んだら地獄に落ちて閻魔大王に舌を抜かれるぞ、などと暗示する。人間が生きているときには死後の世界を知ることができないから、これは観念的な恐怖である。それでも足りない時は宗教裁判で本当に殺してしまう。魔女を公衆の目前で焼き殺したり、異教徒を大量虐殺したりすることも珍しくない。宗教が、権力と結びついて利益誘導をし、恐怖を語るようになるのは、宗教としての堕落といわざるを得ない。ところが、現実の政治の世界は、宗教のように、ある種の観念的な美しさを見せるものではないから、強烈な利益誘導と恐怖行使が行われる。【日本を創った12人】堺屋太一著/PHP新書005(おわり)
March 3, 2016
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大体、人間の行動の動機は、〈1〉性善なる愛情で動く、〈2〉下劣な利益で動く、〈3〉弱さゆえに恐怖に追い立てられて動く、この三種類である。「愛情」によって世のため人のために尽くすのが理想に違いない。宗教的信仰、政治的信条、恋愛や郷土愛など純粋な愛情によって動く性善的なる部分が確かに人間にはある。最近の新聞などを見ると、人が愛情や好みで動くことはないような書き方が少なくない。たとえば、政治献金をする者は必ず見返りの利益を期待しているように描く。しかし圧倒的多数の献金者は、その政治家が本当に好きで献金している。野球のジャイアンツや相撲の貴乃花を応援するごとく、何の利益も期待もしないで好きなものを応援したくなるのは人間の本性の一つだ。大義名分も広くいえば「愛情」の分野である。しかし、それだけでは、多くの人々を動かしきれない。そこで第二の「利益」による誘導が行われる。ポストを約束する、権力を与えよう、おカネや利権を上げよう等々の利益誘導をされると大方の人間は動く。人間の下劣なところだが、これまた人間性の一部である。したがって、選挙でも宗教でも必ず利益誘導が出てくる。第三の「恐怖」は、いう通りにしなければ殴るぞ、監禁するぞ、究極は「殺すぞ」である。愛情で動こうとする者も、殺されてはかなわない。従って「殺すぞ」といわれたら「おっしゃる通りにいたします、命ばかりはお助けを」となるのが普通だ。これは人間の弱さである。殺すぞといわれても、正義と愛情(信仰)のために殉じるというのは、よほど強い人、実にえらい人である。この三種類のうち、どれが最も強いかというと、残念ながら「恐怖」であり、次に「利益」、最後が「愛情」である。(つづく)【日本を創った12人】堺屋太一著/PHP新書005
March 2, 2016
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信長の戦争と政治を考えるうえで重要なことは、これまでの歴史小説や歴史書には、この点がほとんど記述されていない。銭で兵隊を雇うとなれば、当然のことながら多額の金銭がいる。その銭をどうやって調達したのか。もちろん、領地が増えるとそこから銭が入ってくる。信長自身の領地が増えれば年貢米を売って銭にすることができる。だが、それだけでは到底足りない。そこで信長の考案したのが「楽市楽座」である。信長が楽市楽座を行った歴史上の最初の記録は、美濃を占領した永録十年、加納市場においてであった。ただ、文書になる時には、当然のことながら、もう制度化されているわけで、その前にも相当の試行錯誤があったに違いない。楽市楽座の原型のようなものは、それよりも数年前から尾張の中で行われていたと思われる。それまでは関所があり、商人座があった。従って、商品が流通するときは、寺社や豪族が税金(通行税)をかけていた。一方、商人には業種別の座があり、そこからの運上銭が、主として有名寺社や京の公家に入っていた。その関所と座を信長は廃止してしまう。そうすると関税が入らなくなるわけで、一見すると信長の財政収入は減るのだが、それを信長は敢えて行った。これによって当然ながら、関所から収入を得ていた寺社や公家と対立する。のちに信長は比叡山とも石山本願寺とも足利将軍とも戦争をすることになる最大の理由はここにある。関所と座の全廃は、今日でいう規制緩和だ。当然、既成業者には嫌われるが、自由経済は進歩を促し、やがて大きな経済力を呼ぶ。特に、「銭で雇う兵」を持つ信長には、自由化で流通コストを下げ、尾張の物を高く売って、装備や鉄砲を安く買うのが大事だった。従来からの商人座や関所は、一時的には運上金や税金は入るが、結局は高くつく。銭で兵を雇い、具足や武器を貸し与える信長は、最大の商品購入者だから、商品を安く流通させることが大切だった。そしてそれが経済を発展させ、やがて自分の実入りを増やすのだということを信長は知っていた。一時的には財政収入を減らしても自由化し、まず最初に経済を振興させようというのは、米国のレーガン大統領も行った経済政策(レーガノミックス)だが、それを十六世紀のうちの考え、実行し、かつ成功したのは、まさに天才である。楽市楽座で経済が発展してくると、その商人たちから「場銭」を取って銭を集め、そして銭が集まるとまた兵を雇い、それによって占領地を広げ、そこからのアガリの銭でまた兵を増やす。この善循環を作り出した。そして、それをもとにして組織を変えたのだ。【日本を創った12人】堺屋太一著/PHP新書005
March 1, 2016
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