全29件 (29件中 1-29件目)
1
新しき前身のためには、各人が自身の殻を破り、境涯革命していくことが肝要である。心を大きく開き、柔軟に人びとを包み込むとともに、何があっても負けない粘り強さ、忍耐力を培うことである。自分の「我」に固執すればするほど、人との溝は深まり、世界は狭くなっていく。地域の繁栄も、広宣流布の進展も、皆が進取の意気に燃え、広い心で、団結していくなかにこそある。広い心もまた、忍耐に裏打ちされている。忍耐は、すべての勝利の道につながる。【新・人間革命「常楽」30】聖教新聞2016.2.5
February 29, 2016
コメント(0)
障がいの三重苦に屈せず、福祉事業に尽くしたヘレン・ケラー。その可能性を開花させたのは教師アン・サリバンいわれるが、2人を引き合わせたのは、電話を発明したグラハム・ベルだった。ベルは聴覚障がい者の教育に携わっていた。文明史を変えた電話の発明も“耳が聞こえない人々を、孤独から救いたい”との思いで始めた研究がきっかけだった(『孤独の克服 グラハム・ベルの生涯』NTT出版)。後にヘレンは、ベルとの出会いを「私を闇から光へ、孤独から友情、知識、愛の世界へ導いてくれる門戸」(岩橋武夫訳)と記した。“真の贅沢とは、人間関係の贅沢だ”とサン=テグジュペリは書いたが、人生で、孤独ほどつらいものはなく、人との出会いほど宝はない。良き人との交流は、人生を豊かにする。多くの友情に包まれ、自分も、相手にとって「良き人」となるよう努力する人生に、悲嘆はない。【名字の言】聖教新聞2016.2.5
February 28, 2016
コメント(0)
明治学院大学教授 川上 和久カレーチェーン店「CoCo壱番館」が廃棄を依頼した冷凍カツを産業廃棄物処理業者「ダイコー」が横流しし、購入した製麺業者「みのりフーズ」を通してスーパーなどに出回ってしまった事件。「みのりフーズ」の施設がある岐阜県による調査では、冷凍カツだけでなく、廃棄商品が合計108品目も発見された。もちろん、廃棄物処理法や食品衛生法に違反していないかどうかの捜査は、今後の進捗を待つしかないが、今回の事例は、政治が解決しなければならない大きな問題を突き付けている。第一は、「性善説の見直し」だ。老舗料亭で、客が箸をつけなかった料理を他の客に出す事件などもあったし、マクドナルドでもずさんな食品管理が明るみに出た。「みのりフーズ」はめん類製造業の営業許可を受ける直前に県の立ち入り調査を受けて以降、一度も立ち入り調査を受けないうちに、無許可で食品の横流しを行っていた。コストは掛かるが、食品の衛生管理について、コンプライアンスに反する業者の摘発を強めて行かざるを得まい。第二は、「正規ルートでの食品の再利用」だ。激安スーパーなどでは、消費期限ぎりぎりや、若干賞味期限が過ぎた食品のコーナーを設け、安く販売して、消費者の支持を得ている。「お中元解体セール」「お歳暮解体セール」なども人気が高い。消費者は、「食べられるものだったら、安く入手したい」というニーズがある。そういったニーズに応えるルートがもっとあってもいいだろう。第三は、「食品リサイクル率のさらなる向上」だ。廃棄食品を再利用して飼料化する試みが軌道に乗っているが、まだ、十分なリサイクル率ではない。TPPでリサイクル飼料のコストが輸入飼料と競争できるのかという懸念が示されているが、食品リサイクル率の向上を政治的にバックアップする手だてが望まれる。今回の事件は、食に対する信頼を大きく揺るがし、外食産業にも影響を及ぼすことが懸念される。安全・安心の食の実現は、日本の国際競争力にも通じる「成長戦略」ではなかろうか。【ニュースな視点】公明新聞2016.2.4
February 27, 2016
コメント(0)
「ガン哲学外来」を開設し、医学的な治療や薬の処方でなく患者や家族との対話を通してサポートする医学博士の樋野興夫氏は、「『悪い悩み』に振り回されないことが大切」と訴える(「中央公論」1月26日号)。人は悩むと忍耐力がつき、心が磨かれる。悩むこと自体は悪いことではないが、悩んでも意味のない「悪い悩み」に左右されないこと、と。他人や若いころの自分と比べたり、変えられない事実に執着し続けるのも、その一例と示す。それよりも、常に“最後の5年”のつもりで、自分にしか果たせない役割や使命を見つけ、全力を尽くす。まず相手を思いやる、困難な時も希望を捨てない、困っている人がいたらすぐ手助けするなどの姿勢や行動を通して、自分の人生をプレゼントするように生きる。そうすれば、ささいなことに一喜一憂することなく毎日を大切に過ごせるはず、というのである。【社説「世界対がんデーに思う」】聖教新聞2016.2.4
February 26, 2016
コメント(0)
「対話」の要諦とは、いったい何か。埼玉出身で、日本の近代経済の父・渋沢栄一翁は訴えている。「世に至誠ほど、威力あるものはない」と。至誠、つまり「誠実」の限りを尽くす以上の偉大な力はないのだ。渋沢翁はさらに、“至誠をもって、わが真心を表し、人と向き合うことだ。そうすれば、いかに交際が下手でも、必ず、相手に心は通じる。小手先の策を用いる必要などない”(趣意)とも言われていた。その通りである。大聖人は「心こそ大切なれ」(御書1192頁)と仰せられた。わが友に幸せになってほしい。よき社会、よき未来を一緒に築いていきたい―—真心からの真剣な祈りと、勇気の対話が、自身の境涯も大きく開いていくのだ。【池田SGI会長 随筆「永遠なれ創価の大城」[2]『勇気凛々 2月を先駆』】
February 25, 2016
コメント(0)
ヨーロッパの貴族社会では、「上品」つまり「ノーブル」の前提となる条件は「克己心と用心深さ」といわれている。中でも重要なのは克己心だ。たとえば、軍隊がジャングルに取り残された。食糧供給も途絶え猛獣も出る。そういう時に誰が生き残ると思うか。日本人なら、まず農民や労働者出身の兵士が生き残るだろう。貴族的で上品な人は、とてもジャングルでは一年も二年も生きられない、というのが常識である。ところが、イギリスでは、「いや、彼は生き残るよ。何しろ貴族なのだから、ジャングルで暮らすことくらい平気だろう」と必ず答える。これはフランスでもドイツでも同じだ。ヨーロッパの貴族とは戦争を勝ち抜いてきた戦士の子孫であるばかりでなく、現に戦うことで領地を守っている連中なのだ。従って、貴族は喧嘩も強ければ体格もよい。自ら意思決定するし、自分の意志によって環境にも適応できる。暑さにも寒さにも、辛抱強い。上品な人が夏もきちんとした服装をし、冬も見苦しい厚着もしない。それは、暑くても寒くても辛抱できる克己心の表れと見られている。病気になっても痛い痛いとはいわない。戦争になったら真っ先に徴兵に応じ、自ら志願して戦場に征く。死を恐れぬ勇気がある、これこそが上品(ノーブル)の必須条件なのだ。ヨーロッパの「上品」のもう一つの条件は、「用心深さ」だ。貴族は自分の家柄や資産を守るためには、用心深くなければならない。隙のない服装や巧妙な会話は、用心深さのシンボルなのだ。一方では大胆で勇敢で克己心があり、他方では用心深いという、一見矛盾したことを両立させるのが「ノーブルな貴族」の条件なのだ。【日本を創った12人】堺屋太一著/PHP新書005
February 24, 2016
コメント(0)
文芸評論家 持田 叙子きょうは節分。鬼の来る夜。鬼は外、福は内、と声をはりあげて子どもたちは豆をまく。鬼を追い払って春を呼ぶ。その声も最近しなくなった。豆をまくと後のそうじが大変だからか。鬼なんて信じられていないからか。子どもの声のない節分は、少しさみしい。立春の月とはいえ、実際には二月は最も寒い。年内はあたたかだったのに大雪が降るのもこの頃。受験生は大変だ。しかし古来から日本人はことのほか雪を愛し、雪を楽しんできた。雪見酒、雪障子、雪だるま、雪うさぎ、雪合戦……。日本の季節美のエッセンスは<雪月花>といわれる。雪を詠む詩歌や雪を描く物語は数多い。源氏物語にも雪の名場面がある。庭の雪の溶けるのを惜しむ紫の上が侍女らに命じ、大きな雪山を築かせる。それを見て雪を長く楽しむ。光源氏はみやびな工夫に感心し、紫の上への愛を深める。雪山を鑑賞する風習は、万葉集にも出てくる。大伴家持が招かれた新春の宴会。そこに雪山が飾られる。雪の純白をほめ讃えて歌を詠み、酒を酌む。雪は昔の人にとり、大いなる吉兆であったらしい。雪の白さは米の白さに通じる。豊かに雪が降った年は豊作になると信じられる。だから雪の色や光をことばにする。よき年であれ、豊作であれと願う切実な生活の祈りが、雪の美を愛する<風流>に変化した。満開の桜の下で死にたいと願った歌人の西行。死ぬときは雪を飲みたいと願ったのは歌人の藤原俊成、定家の父だ。願いどおり家族の手から雪をもらい、俊成は大往生を遂げた。兄さん、天の雪を飲ませて――。臨終の床で雪をほしがる妹のため、朝の白雪を手に一心に妹のもとへ走る宮沢賢治の哀切な挽歌「永訣の朝」も思い出す。【言葉の遠近法】公明新聞2016.2.3
February 23, 2016
コメント(0)
若くして世界五大陸の最高峰を制覇するなど、傑出した登山家、探検家として知られた植村直己氏。ある時、“探検家に必要な資質は?”と問われ、こう答えた。「臆病者であること」。意外に思える言葉だが、自然の怖さを熟知するゆえの謙虚さが伝わってくる。一方で、氏の自伝『青春を山に賭けて』を開くと、痛快な冒険譚にあふれている。100ドル余りしか持たずに単身でアメリカに渡ったり、船賃を惜しんでアマゾン川をいかだで下ろうとしたり……。事を始める際、臆病なほど慎重に現実を見据え、可能とあらば大胆に挑む。「世界のウエムラ」と仰がれた人物の真髄を垣間見る。蛮勇と勇気は違う。氏は勇気を体得していた。【名字の言】聖教新聞2016.2.1
February 22, 2016
コメント(0)
作家 三宅 純正(よしまさ)真田幸村は、大坂夏の陣で豊臣方に付き、徳川家康を苦しめた名将として知られる。「幸村の本名は信繁ですが、江戸時代の軍記物で名将『幸村』の名が有名になり、現在に至っています。さわやかな青年武将のように想像されがちですが、当時40代後半。今でいうと60歳を超えたくらいの初老という感じでしょうか」幸村が初老だった事実はいささか驚きだが、強かったという話も、イメージ先行の伝説ということは……?「強かったのは事実です。冬の陣では、城を守るため、『真田丸』という出丸を築き、徳川方を撃退しました。幸村の策略で出丸の空堀にはまった徳川方の軍勢は、真田丸の兵から猛攻撃を浴び、多数の犠牲者を出したといいます。夏の陣でも、幸村は果敢に徳川の本陣に攻め込み、家康を討つ一歩手前まで行きました」実は、幸村の父・昌幸も、徳川を2度にわたって退け、真田の本拠地である長野・上田城を守ったという。「昌幸は竹田信玄から薫陶を受けた名将でした。権力の重心が移り変わる中で、“たとえこの身は(権力に)従えられようとも、心だけは従えられない”との叛骨精神で、真田家と領民を守りました。幸村も、父親の影響を強く受けています。晩年、苦境から立ち上がった生き方も、真田の叛骨精神を体現していますし、敵を油断させて攻め込む先方も、父親譲りです」ともあれ、大名すらなかった幸村が、なぜそこまで人々を引き付けるのか。「やはり強敵を倒してこそ、人々の記憶に残るものなのでしょう。大坂の陣での勇敢な姿は、伊達政宗の隊をはじめ、敵の徳川方をも引きつけました。また、幸村の人間性も魅力の一つです。敵に回せば“鬼のような真田”ですが、家族思いで、同僚や配下の者たちには慈愛が深かったと言われています」強さの秘訣<1>あらゆる人を味方にした関ヶ原の戦いで、反徳川の西軍に付いた昌幸は、戦いの後、所領を没収され、幸村と共に紀州(和歌山、三重南部)九度山に流されてしまいます。流された土地は、徳川大名・浅野家の領地だったため、浅野の武士が見張っていました。幸正が亡くなった後、大坂の陣で、豊臣秀頼から招へいを受けた幸村ですが、実は、大坂へ簡単に出兵できる状態ではなかったのです。九度山での暮らしはほとんど分かっておらず、推察の部分も大きいのですが、幸村が領地を脱出できたのは、浅野領の人々が味方したからだと考えられます。地道な味方づくりを幸村自身も普段から行っていたことでしょう。杯を酌み交わし、友と心の交流を結んだり、地元の民と交わり、地域のために献身したことも推察されます。味方づくりといっても、最後は、誠実な人間性だと思います。幸村が大坂に行く時、土地の農民や漁師、僧侶までが付いて行ったそうです。幸村の日ごろの行いや誠実な人芸性が、“この人には命を懸けても悔いはない”と思わせたのでしょう。強さの秘訣<2>自己修練を怠らなかった幸村は、九度山に流された流人の身ではありましたが、近辺の釣りや山狩りなどは許され、わりと自由でした。生活は楽ではなかったようですが、妻と8人の子で、家族で平穏に暮らしていました。目の前の安穏な暮らしを優先するのであれば、大坂に行くことを断ったでしょう。しかし、真田家という戦国武将の家系に生まれた性なのでしょうか、彼は、そこで一生を終ろうと思っていなかったのです。真田家を引き立ててくれた豊臣家への報恩の思いもあったとは思いますが、機会があれば自分の力を試そうと考えていたのではないでしょうか。九度山にいる14年の間、高い志を持ち続け、山を歩いては足腰を鍛錬したり、碁を打っては頭を鍛えていました。兵学も勉強していました。初老の身でありながら、過酷な戦場で活躍することができた強さには、こうした自己修練がありました。幸村の姿に学ぶことで、“初老のおっさんでも、ここまでやれる”という勇気をもらうことができます。強さの秘訣<3>自ら“背水の陣”を敷いた大坂の陣で印象的だったのは、“赤備え”の真田隊が、一歩も引かずに戦い抜く姿でした。赤の武具・旗で備えるのは、戦場では一番目立つため、実は敵に狙われやすいんです。幸村があえてそうしたのは、赤を身に纏うことで、“戦うしかない”と肚を決めることができたのです。「真田丸」の存在も、真田隊が一歩も引けない状況をつくり出しました。出丸というのは、戦いに優位な場所というよりはむしろ、的に一番近く最も危険な場所です。ここで幸村たちが徳川方を打ち破ったのは、一人一人が死を覚悟して戦ったからです。夏の陣でも、多勢だった徳川方は、少数の真田隊に蹴散らされました。心の強さで勝った幸村の部隊が、人数の不利な状況を変えたのです。幸村は、家康まであと一歩のところまで進撃し、最終的には討ち死にしてしまいますが、「真田日本一の兵、昔から物語にもこのような見事な話はない」と後世に言わしめたのです。自ら背水の陣を敷き、最前線の兵(つわもの)の心を決めさせる戦いが、真田の強さだったと考えています。【スタートライン】聖教新聞2016.1.30
February 21, 2016
コメント(0)
戦国武将・真田一族の魅力の一つに、小よく大を制する巧みな知略が挙げられる。また大坂の陣で真田幸村(信繁)の軍勢が身に着けた、赤い甲冑も鮮烈だ。戦場で最も目立つ赤色は戦う魂の表れ。「戦と言うのは、臆すれば、敵に責められ自分自身も命を落とすことになる。敵に勝ち、自らも生き残るためには、攻めて攻め抜くことを心がけねばならぬ」(三池純正著『真田幸村と大坂の陣』第三文明社)。この命懸けの覚悟が、真田の名を歴史に刻印した。【名字の言】聖教新聞2016.1.28
February 20, 2016
コメント(0)
―—ある時、富豪が建てた三重の楼を見て、その高さや広さ、壮麗さに心を奪われ、同じような建物が欲しいと思った男がいた。自分の家に帰り、早速、大工を呼んで依頼すると、大工はまず基礎工事に取り掛かり、一階二階の工事に入った。なぜ大工がそんな工事をしているのか、理解できなかった男は、「私は、下の一階や二階は必要ない。三階の楼が欲しいのだ」と大工に迫った。大工は呆れて述べた。「それは無理な相談です。どうして一階をつくらずに二階をつくれましょう。二階をつくらずに三階をつくれましょうか」と(百喩経)―—。その意味で復興の焦点も、街づくりの槌音を力強く響かせることだけにあるのではない。一人一人が感じる“生きづらさ”を見過ごすことなく、声を掛け合い、支え合いながら生きていけるよう、絆を求めることを基盤に置く必要があるのではないでしょうか。つまり、人道危機の対応や復興にあたって、「一人一人の尊厳」をすべての出発点に据えなければ、本当の意味で前に進むことはできないことを、私は協調したいのです。そこで重要となるのが、危機の影響や被害を最も深刻に受けてきた人たちの声に耳を傾けながら、一緒になって問題解決の糸口を見いだしていく対話ではないでしょうか。深刻な状況にあるほど、声を失ってしまうのが人道危機の現実であり、対話を通し、その声にならない思いと向き合いながら、「誰も置き去りにしない」ために何が必要となるかを、一つ一つ浮かび上がらせていかねばなりません。何より、つらい経験を味わった人でなければ発揮できない力があります。【第41回「SGIの日」記念提言】聖教新聞2016.1.26
February 19, 2016
コメント(0)
人間の歩むべき生き方として「貢献的生活」を挙げていた牧口会長は、「真の幸福は、社会の一員として公衆と苦楽を共(ぐう)するのでなければ得る能わざるもの」(『牧口常三郎全集』第5巻)と訴えましたが、こうした意識を地球大へと広げながら生きていくことが、今日、ますます要請されていると思えてなりません。仏法では、この世のすべての存在や出来事は、分かちがたい“関係性の網”で結びついており、その相互連関を通じて瞬間瞬間、世界は形づくられているものとも説かれています。その“関係性の網”の中で、自分という存在が生き、生かされていることの実感を、一つまた一つと深めていく中で、「自分だけの幸福もなく、他人だけの不幸もない」との地平が、一つ一つ開けてくる。そして、“今ここにいる自分”を起点とし、変革の波を起こす中で、自らが抱える課題のみならず、周囲や社会の状況をも好転させゆく「プラスの連鎖」を生み出していく―—。こうした生命感覚を、自分と他者、自分と世界とのつながりを見つめ直すための座標軸の骨格としていくことを、仏法は呼び掛けているのであります。【第41回「SGIの日」記念提言】聖教新聞2016.1.26
February 18, 2016
コメント(0)
人間教育の先駆者だった創価学会の牧口常三郎初代会長は、1930年に発刊し、SGIの源流ともなった『創価教育学体系』で、人間の生き方は大別して3段階あるとして、「依他的生活」や「独立的生活」から脱却し、「貢献的生活」に踏み出すことを呼び掛けました(『牧口常三郎全集』第5巻、第三文明社)。「依他的生活」とは、自分が持つ可能性がなかなか実感できず、目の前の状況をどうしょうもないものとあきらめたり、周囲や社会の流れに合わせて生きていくほかないと考えてしまうような生き方です。また次の「独立的生活」は、自分の人生を舵取りしようとする意思は持ちあわせているものの、自分とは関わり合いのない人々へのまなざしは弱く、他人がどのような状況にあっても、基本的には本人の力で何とかすべきだと考えてしまう生き方といえましょう。牧口会長は、そうした生き方がはらむ問題を、次のようにわかりやすい譬えを通して、浮かび上がらせています。―—鉄道の線路に石を置く。これはいうまでもなく悪いことである。しかし、石を置いてあるのを知っていて、それを取り除かない、つまり善いことをしなかったら、列車が転覆してしまう。結果的には、善いことをしないことは悪いことをしたのと同じである―—と。つまり、危険があることを知りつつも、自分に被害が及ばないからといって、そのまま放置しておくこと(不善)は、結果において悪と変わらないものであり、「悪行の罪だけは誰でも教えるが、不善の罪をとわないのは理由のないことであり、根本的な社会悪の解決策とはならない」と訴えたのです。なぜ“何もしないこと”が、悪と同義とまで言い切れるのか―—。一見すると理解しがたいことかもしれませんが、翻って自分が列車に乗っている身だと想像してみるならなば、おのずと胸に去来する思いではないでしょうか。【第41回「SGIの日」記念提言】聖教新聞2016.1.26
February 17, 2016
コメント(0)
なかでも特筆すべき場面の一つは、「私は、大乗の教え(法華経)を弘めて、苦しんでいる人々を救っていきます」との誓いを立てた幼い少女(竜女)が、誓いのままに行動する姿をみて、多くの人々が、「心大歓喜」(心の底から大歓喜)をもって称えた場面でありましょう。その歓喜の渦が巻き起こる中で、数え切れないほどの人々が、自分にも尊極の生命が具わっていることを覚知していきました。つまり、当時の通念として、成仏に最も縁遠い存在として捉えられていた幼い少女が、自らの誓いのままに行動する姿を通して周囲に歓喜の波動を広げ、「一切衆生皆成仏道」の法理を証明する希望の存在となっていったのです。大聖人も、この法華経の場面を踏まえつつ、人生の苦難を乗り越えようとする女性たちに、「竜女が跡を継ぎ給うか」(御書1262頁)などの言葉を贈りながら励まし続けました。13世紀の日本にあって、あいつぐ災害に苦しむ民衆を救おうと、為政者を諫めた大聖人は、何度も迫害を受けました。そうした中、流罪の地で弟子たちへの手紙をしたためたり、遠路はるばる訪ねてきた信徒に対し、真心を尽くして激励を重ねられました。また、一つ一つの手紙を周りにいる仲間たちと寄り合って詠みながら、皆で支え合い、苦難や試練をともに乗り越えていくよう、励まされていったのです。【第41回「SGIの日」記念提言】聖教新聞2016.1.26
February 16, 2016
コメント(0)
仏法を貫く「徹して一人一人を大切にする」との精神には、このような視座に加えて、もう一つの欠くことのできない重要な柱があります。それは、これまでどのような人生を歩み、どんな境遇に置かれている人であっても、誰もが「自分の今いる場所を照らす存在」になることができるとの視座であり、確信です。目に映る「現れ(これまでの姿)」で人間の価値や可能性を判断するのではなく、人間に本来具わる「尊厳」を見つめるがゆえに、その輝きによって、今ここから踏み出す人生の歩みが希望で照らされることを、互いに信じ合う。そして、これまで味わった苦難や試練も人生の糧としながら、自分の幸福だけでなく、人々のため、社会のために「勇気の波動」を広げる生き方を、仏法は促しているのです。私どもの信奉する日蓮大聖人は、すべての人々に尊極の生命が具わり、限りない可能性を開花させることができるとの「一切衆生皆成仏道」の法理こそが、釈尊の説いた法華経の真髄であり、仏法全体の肝心であると強調しました。法華経では、釈尊とその弟子をはじめとする、多くの人々が織りなすドラマを通じて、この法理が説かれています。―—まず、釈尊の説いた教えを理解した弟子の舎利弗が、自分自身にも尊極の生命が具わっていることを心の底から実感し、「踊躍歓喜」する。続いて、他の四人の弟子も、その歓喜のままに誓いを立てた舎利弗の姿と釈尊の励ましを目の当たりにして、同じく歓喜し、無量の宝を「求めずして自ら得た」喜びを表すべく、自分たちの言葉で釈尊の教えを長者窮子の譬えを通して語りだす。こうした誓いと歓喜のドラマが幾重にも続く中、多くの菩薩たちが、人々の幸福のためにどんな困難も乗り越えて行動する決意を、「俱(とも)に同じく声を発(おこ)して」誓い合う。そして最後に、釈尊の滅後に、そうした実践を誰が担っていくのかが焦点となった時に、数え切れないほどの地涌の菩薩が現れ、いついかなる時代にあっても、どのような場所においても、行動を貫き通すことを誓願する―—。そこで広がっているのは、釈尊の教えに触れて、尊極の生命に目覚めて歓喜した弟子たちが、他の人々にも等しく尊極の生命が具わっていることに気づき、自他共にその生命を輝かせ、社会を照らす光明になっていきたいと決意し、次々と誓いを立てていく、“誓願のコーラス”ともいうべき光景です。【第41回「SGIの日」記念提言】聖教新聞2016.1.26
February 15, 2016
コメント(0)
自分たちが住む町に突然現れた難民の姿をみて、どれだけの辛酸を味わってきたことかと胸を痛め、やむにやまれず手を差し伸べてきた人は少なくないと思います。その一つ一つの手が、難民の人たちにとって、どれだけ大きな励ましとなり、かけがえのない命綱となってきたことか――。このことを考えるにつけ思い起こすのは、マハトマ・ガンジーが、周囲から投げかけられてきた“大勢の人をすべて救うことなどできない”との声を念頭に置きつつ、自分の孫に語りかけたことです。「その時々に、一人の命に触れるかどうかが問題なんだ。何千という人々すべて見まわすことは、必要じゃない。あるとき、一人の命の触れ、その命を救うことができれば、それこそ私たちが作り出せる大きな変化なんだ」(塩田純『ガンディーを継いで』日本放送出版協会)ささやかな行動だったとしても、それがあるかないかは、差し伸べられた人にとって決定的な重みをもつ大きな違いなのです。このガンディーの信条は、私どもSGIが信仰実践の面はもとより、国連支援などの社会的な活動を展開する上でも銘記してきた、「徹して一人一人を大切にする」との精神と深く響き合うものがあります。仏法の根幹は、すべての人々の生命の尊厳にありますが、それは釈尊の次の教えが象徴するように、気づきや内省を促す中で説かれてきたものでした。「すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)とって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波書店)つまり、自分が傷つけられることを耐えがたく思い、わが身をかけがえのないものと感じる心―—その動かしがたい生命の実感を出発点としながら、“それは誰にとっても同じことではないのか”との思いをめぐらせていく。そして、その「己が身にひきくらべて」の回路を開いていく中で、他の人々の悩みや苦しみが、わが事のように胸に迫ってくる。こうした「同苦」の生命感覚を基盤としながら、いかなる人も暴力や差別の犠牲にすることのない生き方を歩むよう、釈尊は呼びかけたのです。仏法が説く「利他」も、自分を無にすることから生まれるものではない。それは、自分の存在と切っても切り離せない胸の痛みや、これまで歩んできた人生への愛しさを足場としつつ、人間の苦しみや悲しみに国や民族といった属性による違いなどなく、“同じ人間として無縁な苦しみなど本来一つもない”との生命感覚を磨く中で、おのずと輝き始める「人間性の異名」なのです。【第41回「SGIの日」記念提言】聖教新聞2016.1.26
February 14, 2016
コメント(0)
2度に及ぶ世界大戦の反省に立ち、国連が掲げてきた目標は、戦争の惨禍を食い止め、差別と抑圧をなくし、人権が守られることにありました。それはまた、私どもの信奉する仏法の根幹をなす、「平和」「平等」「慈悲」の理念とも通じ合うビジョンにほかなりません。人間には誰しも幸福に生きる権利がある。その権利を守るために民衆の連帯を広げ、地球上から「悲惨」の二字をなくすことに、SGIの運動の眼目はあり、国連支援はその当然の帰結ともいうべきものなのです。【第41回「SGIの日」記念提言】聖教新聞2016.1.26
February 13, 2016
コメント(0)
釈尊の化導は「遊行」といわれた。全インドを歩きに歩き、民衆の中で仏法を説き、弟子にも“四方のどこにでも赴き、苦難に耐え、全てに打ち勝って歩め”と呼びかけた。日蓮大聖人は「遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」(御書1124頁)と仰せだ。どんな所に行っても恐れなく、自在に振る舞う「師子王の心」こそ、妙法を受持した人の境涯と、病の同志を励ましておられる。【名字の言】聖教新聞2016.1.26
February 12, 2016
コメント(0)
SGIの信仰に出あったのは93年。ドイツ北部の都市ブレーメンで、女優として働いていた時のことでした。劇場に就職してから3年間、必死に舞台で演じてきましたが、突然、ステージでパニック発作に襲われるようになりました。言いようのない恐怖と憂うつ感から、劇場の同僚との付き合いも避けるようになっていきました。SGIの仏法を実践していた友人に相談。わらにもすがる思いで「一緒にやってもてもいい?」とお願いすると、友人は快く題目の唱え方を教えてくれました。「生きることへの感謝」とでもいうのでしょうか。唱題を始めると、私はすぐに、内面から心が満たされていくのを感じました。唱題の実践を続け、臨んだ次のステージ。少し緊張しましたが、もうパニックに陥ることはなかったのです。同僚にも心を開くことができ、私がどう苦しんできたかを説明できました。以来、パニック発作が再発することもなく、舞台に立ち続けることができました。そうした中で、新たな目標を見つけることができました。それまで演劇は私の人生のすべてだと思っていましたが、意を決してブレーメン大学に進学。26歳で、新しい人生をスタートしました。(スイスSGI ユリア・コジナーさん)【世界の体験プラザ】聖教新聞2016.1.25
February 11, 2016
コメント(0)
中国の小説では、しばしば偉大な人間が無能力者のように描かれる。たとえば、『三国志演義』の劉備玄徳だが、彼自身に特別な能力はない。むしろ無能だが、そういう能力とは異質で、それを超える特殊な能力、つまり「徳」を持っているから、諸葛孔明、関羽、張飛のような超能力的人間が彼に心服して、彼のために全力を尽くす。駒田信二氏によると、典型的なのは三蔵法師で、バケモノが出ると腰を抜かすほど無能力なのだが、孫悟空をはじめとする超能力者が心服して、あらゆる奉仕をする。(略)理想的皇帝舜(しゅん)は、北斗星のように動かない。同じように、劉備玄徳も動かない。しかし、諸星が北極星を中心に整々と動くように、キラ星のような将星がまわりで彼を中心として全力を尽くす。まさに舜は、宇宙の帝王の風格があり、「徳」の至れるもので、これが彼らの理想であり、王者の風格を持つ思想といえるであろう。ところがユダヤ人は、この逆であった。世界勢力に翻弄され、亡国、捕囚を経験しつづけ、世界的帝国から常に辺境の民、辺境の文化として扱われた。 ◇現代社会は「機能集団」によって支えられる社会だからである。それは、現代ではすべてのリーダーが何らかの形で社会に機能することを要請されるということであり、その要請に対応できないものに、人望はありえない。徳川昭武の随員としてヨーロッパを回った渋沢栄一は、ベルギー国王が、当時の製鉄王国ベルギーの象徴として、自ら鋼鉄を日本に売り込もうとした。いわば鋼鉄のセールスマンをしたことに、感動している。だが、当時の中国人は、また、恐らく一部の日本人は、逆にそれでベルギー国王を軽侮したであろう。というのは、前述のように「子曰く、無為にして治まる者、其れ舜なるか、夫(そ)れ何を為さんや。己を恭しくして正しく南面するのみ」で、理想的な皇帝は、姿勢を正して南面の座(天子の座)に座っているだけで、北極星のように動かなくても、徳によって人心が為政者に帰服する、これが理想だからである。セールスマンなど、とんでもない。ところが日本人は両方を要請する。と同時にセールスを通じて徳に至ることも要請する。渋沢栄一の『論語講義』や『論語と算盤』は大体、その考えで貫かれている。【人望の研究】山本七平著/祥伝社黄金文庫
February 10, 2016
コメント(0)
京大の矢野(やの)暢(とおる)教授が、「掘り起こし共鳴現象」という面白い文化現象を指摘しておられる。教授の指摘はその専門の東南アジアの国々だが、この文化現象は日本にもあると思われるので、私なりの理解に従って、その指摘を戦後の日本に当てはめてみよう。たとえば日本のような、長い歴史に基づく文化的蓄積が豊富な国へ、外国から普遍主義的な思想やイデオロギーが来る。この場合、無文化白紙の国(それは現実には存在しないが)ならともかく、文化的蓄積の豊富な国は、その思想なりイデオロギーなりをそのまま受け入れることはない。別の言い方をすれば、終戦と同時に生まれた赤ん坊の一人が、生まれると同時にアメリカにいってアメリカのなかだけで成長すれば、赤ん坊はアメリカ人になってしまうが、同じときに占領軍がいかにアメリカ化を図り、日本も積極的にこれを採り入れても、同時に生まれた別の子どもが日本に育てば、一方がアメリカ人で、一方は日本人であろう。われわれは意識しなくても、さまざまな文化的蓄積を持っている。そして外国から新しい思想やイデオロギーが来ると、文化的蓄積の中でそれと似たものを掘り起こして共鳴する。これが矢野教授が言われる「掘り起こし現象」だが、外国から来たものと、それに対応する文化的蓄積の一部が共鳴しているから、どちらの音か明らかでない。【人望の研究】山本七平著/祥伝社黄金文庫
February 9, 2016
コメント(0)
地球社会の共生と発展も、また地球文明の平和と繁栄も、すべては一人一人の「心の変革」から始まります。それは、生命の「イノベーション」と言ってよいでありましょう。 ◇「未来は、これから何が起こるかということに左右されるのではなく、私たちがどうなりたいのかを決め、その意志によって創り出すのである」と。 ◇「我々にとって、あきらめてしまうことは、最大の弱点になる。成功への最も確実な方法は、常にもう一度、挑戦することである」(エジソン)と。【「ボパール・バルカトゥッラー大学『名誉文学博士号』授与式」SGI会長の謝辞】聖教新聞2016.1.23
February 8, 2016
コメント(0)
嶌 信彦中央アジアのウズベキスタン共和国。シルクロードの栄華を残す世界遺産も数多い同国の首都タシケント市の中心部に、オペラハウス「ナボイ劇場」があります。総床面積1万5000平方メートル。1400席を有する3階建て(地下1階)、れんが造りのビザンチン風オペラハウスです。劇場が完成したのが旧ソ連時代の1947年(昭和22年)10月。モスクワ、レニングラード(旧サンクトペテルブルグ)、キエフと並ぶ四大劇場の一つとしてナボイ劇場の名前は知っていても、その建設の中心に457人の手に職をもった日本人工兵捕虜が従事したことを知る方は少ないのはないでしょうか。それから20年後の66年(同41年)4月、約8万棟の家屋が倒壊するなどタシケント市街を壊滅状態にした大地震の際、ナボイ劇場は外壁が落ちることもなく無傷で立ち、市民の避難場所となりました。この事実がウズベキスタンはじめ中央アジアの人々の心を大きく動かし、今日まで続く親日感情を築く基礎にもなったのです。 ◇第2次世界大戦後、旧満州(中国東北部)などでソ連の捕虜となった日本軍将兵は約60万人。シベリアや中央アジアなどで鉄道建設、石炭・石油の採掘、木材調達など使役労働を余儀なくされ、そのうち約3万人がウズベキスタンに移送されましたが、オペラハウス建設に従事していたのは第4収容所にいた457人の工兵たちでした。極寒の気候で、日本兵上司への弾劾、告げ口なども多くあった収容所も、たくさんあったようです。タシケントでは、ロシア革命30年に当たる47年11月の完成を目指してオペラハウスが建設されていましたが、戦争で中止。再開された工事に現地の人々と共に従事することになったのが、陸軍航空部隊で飛行機の整備・修理などを担当していた永田行夫元大尉の部隊を中心とした457人の日本兵捕虜だったのです。国家プロジェクトによるオペラハウスの建設工事といっても、捕虜としてやらされる仕事。手抜きすることもできたでしょう。しかし、歴史に残るオペラハウスになる以上は日本人の誇りと意地にかけても最良のものを造りたい。後世に笑われるようなものではなく、日本人の建設したものは出来が違うといわれるものにしたい。これが永田さんたちの決心でした。とともに、捕虜となって先も見えず、生きる誇りを失っている仲間に、自分たちの技術や技能で世界に引けを取らない建設物を造るという一点を生きる糧にしてもらいたい、という気持ちだったとも伺いました。最良のものを造る。そして、全員が健康で無事に帰国する。この方針は小グループのリーダーを通じて共有され、各人が持ち場で力を尽くしたのです。 ◇過酷な労働に当たっている人は、時々、配置換えも行ったり、食料を分け合ったりしたといいます。建設への貢献が大きかったからと、ソ連側から先に日本に帰国させてやろうと言われた人がいました。しかし、彼は言うのです。「体が弱っている者がいる。彼らを先に返してほしい。ただし、このことは誰にも言わないでもらいたい」永田さんは457人全員の名前と住所をすべて覚えたといいます。紙に書くとスパイだと疑われかねません。そこで毎日、朝と晩、復唱し頭にたたき込んだというのです。京都・舞鶴港に帰還した後、ほとんどの人が一目散に郷里を目指す中にあって、永田さんは舞鶴に数日間とどまりました。記憶した名前と住所を紙に記し名簿化するためです。郷里に帰れば多くの人に会って忘れてしまうかもしれない。そう語っていました。彼らは、ほとんどが10代から20代。永田さんも24歳という若さでした。その若者たちによるリーダーシップ、皆で成し遂げようとする姿などは稀有な例ではないでしょうか。 ◇私は、ナボイ劇場の建設に従事した日本兵捕虜の話を約10年にわたって取材。昨年の秋に『シルクロードにオペラハウスを建てた』(角川書店)として上梓しました。昨年は戦後70年ということもあり、日本や日本人の在り方について議論がさまざまに交わされました。しかし、世界に向き合う日本はどうあるべきか、もっと根本的な議論がなされてもよかったのではないか。そう感じてなりません。戦争は二度と繰り返してはいけない。その上で、過酷な状況の中で自分も仲間も生かしつつ一大プロジェクトを成し遂げた若者たちがいたことを、多くの方に知っていただければと思っています。(ジャーナリスト、NPO法人ウズベキスタン協会会長)しま・のぶひこ 1942年、中国・南京市生まれ。毎日新聞経済部で大蔵省、日本銀行などを担当。ワシントン特派員などを経て87年に退社し、フリージャーナリストに。数多くのテレビ・ラジオ番組のキャスターやパーソナルティー、解説者を務める。『日本人の覚悟』『首脳外交』など著書も多数。【文化】公明新聞2016.1.20
February 7, 2016
コメント(0)
二度とは来ない今日、自分の課題は何か。日々の出発の勤行の中で、誓願の題目を強く、また強く、朗々と唱えゆこう。これが、大宇宙の法則に完璧に合致しゆく絶対勝利の方程式であるからだ。 ◇仏法のための苦労は、必ず福徳に変わる。信心は、「絶対に勝つ」ための力なのである。【池田SGI会長 随筆「永遠なれ創価の大城」[1]】聖教新聞2016.1.20
February 6, 2016
コメント(0)
白樺会副委員長 藤山 ミツ子私の生まれ育った鹿児島県の徳之島では、「命(ぬち)どぅ宝どぉ」(=命こそ宝)という教えがあり、石にも木にも命が宿ると言い伝えられるなど、自然への尊敬の心があります。また、ここでは心身の発達の遅い子どもや個性が強くて育てづらい子どもを「フーグァ」と呼びます。フーグァを大切に育てると、その家が栄え、村が栄えるといわれ、どの子どもも村を挙げて大事に育てられてきました。私の父は、人として真っすぐに生きることを背中で教えてくれ、母は素直に自分らしく生きなさいと励まし続けてくれました。こうした島の文化と両親のもとで育った私は、人の命を守る看護師の道を自然に志していました。その後、仏法と出会い、「命というのは、全宇宙の財宝をもっても買うことができないと、仏は説かれている」(御書1059頁、趣旨)との日蓮大聖人の仰せを知りました。かけがえのない生命の尊さを教わり、感銘したことを思い出します。それまで創価学会に未入会だった母は、こうした仏法の教えを持つ家族の生き方への理解を深め、入会に至りました。これまで看護師として40年近く働いてきました。中でも子育て相談に従事したことは貴重な経験になりました。子どもへの虐待問題は深刻です。昨年、厚生労働省が発表した児童相談所での児童虐待対応件数は、8万8千件を超え、虐待による死亡事例は、一昨年度、63事例69件にも上ります。このような悲劇の背景に、親子関係の変化や核家族化、また貧困の問題など、子どもを取り巻く状況の大きな変化があります。子育てについての情報もあふれすぎていて、そうした知識が正しく生かされないことが問題を複雑にしているようにも見えます。また、子育てに困難を感じているお母さん自身が、現実をそのまま受け入れることができず、子育てでも完璧さを求めるあまり、余計に苦しみを増している場合があります。港と船に例えられる親子関係親子の関係というのは、「港」と「船」に例えられます。具体的には、安全な港(保護者)があってこそ、船(子ども)は安心して停泊でき、再び外の海(学校や社会)へと出向していくことができます。ところが、港がうまく機能していないと、船は危険を感じて、安心して港に停泊することができません。同じように、子どもは家庭で安心感を得られないと、次第に疲弊して問題行動を起こすようになります。保護者が子育ての悩みを抱えている時、子どものサポートをすることとともに、保護者を孤立させないように、いかに支えていくかが重要になるのです。私が出会った保護者の多くは、わが子を溺愛し、教育熱心でした。しかし、さまざまな要因が積み重なり、その結果、よい親子関係を築きたいと願いながらも、事態が悪化してしまっていることが多くありました。Aさんは長男をいい子にしたいと懸命に育てていましたが、その問題行動に悩み、次第に子育ての自信をなくしていました。そんな矢先、長男が自宅の壁を傷つけてしまったのです。疲弊したAさんは、自身の苦しみは誰にも分かってもらえないと、かかわる私に感情をぶつけてきました。この時、私は、お子さんの課題を解決することに目が行き、Aさんの気持ちに寄り添うことを避けていたことに気付かされました。愛情をもって粘り強く関わるそしてAさんに、これまでどんな思いで長男を育ててきたかを聞きました。Aさんは、長男が幼児期から育てにくかったこと、そのことを相談しても共感してもらえず、結局、長男のことを一人で抱え込んでことを吐露されたのです。また、長男の成長が丁寧に記録された母子手帳を拝見し、Aさんの長男への愛情が痛いほど伝わってきました。その後の長男の発達検査の結果から、Aさんが育てにくさを感じていた要因の一つが明らかになったのです。そして、Aさんは子育ての方針として、苦手なところを補いながら、特異なところを伸ばすことが子どもの健やかな成長につながることに納得されたようでした。長男が再び、自宅のドアを壊した時、Aさんは一方的に叱ることも、勝手に直すこともしませんでした。Aさんは、壊れたドアをいじっている長男に声を掛け、一緒に修理したそうです。こうしたAさんの粘り強い関りによって、長男は次第に自分の気持ちを母に話すようになり、母と子の確かな意思疎通がなされるようになった結果、長男の問題行動は影を潜めました。目の前の可能性の開花その後、Aさんから笑顔がこぼれるようになりました。私は、Aさんが自信をもって子育てに取り組んでいることを実感しました。大聖人は、「命というのは、一切の宝の中で第一の宝である」(同1596頁、趣旨)と仰せになり、また、誰もが尊極の妙法そのものであり、一人一人の尊さは計り知れないことを教えられています。そして池田SGI会長は、あらゆる人の生命が平等に尊く、生命それぞれに個性があると述べています。私は、子育ての悩みを抱える親子の関わりを通し、問題に正面から向き合うことで、自らの子育てのあり方を振り返れるということを知りました。また、両親やわが子からは、何が起こっても自らを信じて進めば乗り越えていけることを学んできました。こうした経験からも、私は生命の尊さを命に刻んできました。子育て中の親御さんが誰にも相談できず、正しい知識がないまま、孤立している状態があります。しかし、一人で抱え込まずに、話せる人に相談してほしいと願っています。仏法は、生命の尊さを説き明かしています。この素晴らしい哲学を持って、自身が果たすべき使命の場所で、目の前の一人一人の可能性の開花に関われることに感謝は尽きません。私はこれからも唱題根本に自身を磨き、仏法の生命哲学を掲げて、慈愛の励ましで人々から生きる力を引き出す真心の関わりに徹していく決意です。ふじやま・みつこ 看護師、精神保健福祉士。看護師として病院で勤務した後、健康相談、子育て相談に従事。現在、民間団体である親と子どものための相談室で子育て支援に取り組む。1986年(昭和61年)入会。支部副婦人部長。白樺会副委員長(総千葉委員長)。【紙上セミナー「生活に生きる仏教」】聖教新聞2016.1.19
February 5, 2016
コメント(0)
時の大女優・池内淳子さんが、まだ駆け出しの倉本聰さんに言った。「四十になったらメロドラマやるンだ。そン時脚本書いてくれる?」。倉本さんは緊張して答えた。「ハイ、カ、書きます。書かせて下さい」。“そン時”まで、あと10年。当時の倉本さんは、この世界でやっていけるか、自信がなかった。だが、とにかく必死に生き延びようと思ったという(『さらば、テレビジョン』冬樹社)。“自分の将来を信じている人がいる”と思うと、その期待に応えようと勇気が湧くものだ。「一生懸命働いて、お母さんを海外旅行に連れて行くからね」。母子家庭に育ち、社会人となった女子部員が言った。これまで働きづめで、娘のことが先で、自分のことは後回しだった母に親孝行がしたかった。だが社会は厳しかった。それでも壁にぶつかるたび、母への約束を思い出し、耐えて乗り越えていった。一方の母は病に倒れてしまう。だが、“わが子に夢をかなえさせてやりたい”と闘い、病魔を克服。3年後、母子は晴れて海外へ。現地SGIの会館を訪れた親子は、涙で題目が声にならなかった。成長を待ち、応援してくれる人の心を知れば、人間は、より強くなれる。その頑張る姿は、必ず他の誰かをも励ましている。励ましの連鎖は無限だ。【名字の言】聖教新聞2016.1.20
February 4, 2016
コメント(0)
日蓮大聖人は、「法華経の行者の祈る祈りは響(ひびき)の音に応ずるがごとし・影の体にそえ(添)るがごとし」(御書1347頁)と仰せである。新たな戦いを始めるには、まず祈ることだ。状況が厳しいと嘆く前に、まず祈ることだ。自分には力がないなどと、卑下することはない。題目三唱も、朗々と唱えれば、滾々と勇気がわいてくる。力が漲ってくるではないか。【池田SGI会長が贈る「勝利の人間学」】創価新報2016.1.20
February 3, 2016
コメント(0)
仏法では十界の生命を説く。縁に触れて心は千変万化していくもので、「自分」といっても「多様な自分」がいる。そんな中で「個性」とか「自分らしさ」を探そうとしても、他人と自分の比較に終始してしまいがちだ。今の自分が全てではない。では本当の個性とは―—「『自分のもてる力を、全部、出しきって生きてみよう』と決心して、努力また努力を重ねた人だけが、本当に『個性的』に輝いてくる」と、池田SGI会長は教える。【名字の言】聖教新聞2016.1.19
February 2, 2016
コメント(0)
何が起こっても、それを楽しんでいく。前向きの方向へと受け止めていく。それが楽観主義であり、その究極が信仰である。楽観主義の人は強い。いい方向へ、いい方向へと自分でとらえ、自分で「そうなる」「そうなってみせる」と決めることである。【池田SGI会長「四季の励まし」】聖教新聞2016.1.17
February 1, 2016
コメント(0)
全29件 (29件中 1-29件目)
1

![]()
