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探検家、医師、武蔵野美術大学教授 関野 吉晴 メコン河を下った。 ラオスをカヌーで下っていると、河岸で十数人の男女が砂金を洗っていた。南米で砂金堀り現場に行ったことがあり、とげとげしい緊張感があったが、ここでは和気あいあいに洗っている。同じ村から来ているという。 村に一旦帰ってから皆で町に金を売りに行くという。私は村まで付いていった。川岸から少し奥に入った小さな村だった。洗った金をもって皆で町に行くという。エンジン付きボートでルアンパバーンに向かった。古い寺院の多い古都だ。 ボートから揚がるとまず両替屋に向かった。そこで金を現金に換えてもらった。そのお金で服や食べ物を買いはじめた。インドシナの国々のお正月は4月だ。彼らは正月の準備のために買い物に来たのだ。 村に帰って、新しい服を着て、おいしいごちそうを食べた。お互いに水を掛けまくって、老若男女が楽しく騒いだ。正月も終わり、再び金を掘りに行く時、一緒に行って私も金洗いの仲間に入れてもらおうと思っていた。 ところが、なかなか金掘りに出掛けない。 「いつ、金洗いを再開するの。一緒に行きたいな」と言うと、「エッ、当分行かないよ」という答えが返ってきた。「先日は正月の準備のために、皆で金を洗いに行ったんだ。普段はコメ、野菜を栽培し、魚も捕れるのでお金は必要ないんだ。次はまたお金が必要になったら金洗いに皆で行くつもりだよ」と話す。 金洗いをあきらめて、カヌーに乗り込み、再び河を下り始めた。「足るを知る人たち」との出会いに、すがすがしい気分で旅を続けられた。 【すなどけい】公明新聞2014.4.28
May 31, 2017
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昭和女子大学総長 坂東 眞理子 管理職といってもチームリーダー、主任といわれるような初級管理職から、課長クラスの中間管理職、部長や執行役員のような上級管理職までレベルもいろいろですが、仕事の仕方も人により、さまざまです。チームのワークとして与えられた目標を効率的に処理するマネージャー的な人もいれば、皆を鼓舞するような目標を掲げ、チームの持てる力を十分発揮させるリーダーシップを発揮する人もいます。 マネージャーとリーダーの違いは何でしょうか。リーダーには多様な役割がありますが最も大きいのは、皆が共感し納得し、自分の仕事を意義づける目標を設定し、チームのメンバーをそれに向かわせることです。手柄を立てたいとか、ライバルに勝ちたいとかいう個人的な欲望ではなく、お客に喜んでもらう、困っている人を助けるなど、皆と共有できる志を高く掲げることが必要です。 それに対してマネージャーというのは与えられた目標を達成するために、計画し、予算を取り、人材を配置し、仕事を管理する人です。管理職の多くはマネージャーです。女性が管理職の仕事として思い浮かべるのはマネージャーの仕事でしょう。日本の組織には有能なマネージャーはたくさんいます。しかしリーダーがほとんどいません。 もちろん職務を執行するマネージャーは大事です。女性は今まではマネージャーとしての責任さえ与えられませんでしたが、今そのポストに就き、着実に職務を行う人が増えています。しかし女性もそれで満足してしまうのではなく、ぜひリーダーとしての役割を果たすようになってほしいものです。 どのように仕事をこなすかというHOW TOだけでなく、WHY、何のためにこの仕事をするのか、この仕事が人々の暮らしに役立っているのか、仕事の意味付けを求めています。女性たちも有能なマネージャーを目指すだけでなく、リーダーとして、目線を上げて仕事をしてほしいものです。 【新時代の「女性リーダーへ」9】公明新聞2017.4.26
May 30, 2017
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養護教諭 加藤 まり子 近年の社会環境や生活環境の急激な変化は、子どもの心身の健康に大きな影響を与えています。それは、生活環境の乱れだけにとどまらず、いじめや不登校、性に関する問題、薬物乱用、アレルギー疾患、感染病など、さまざまな健康上の問題を生じさせ、深刻さを増しています。こうした中、学校の保健室では昨今、けがや体調不良などによる対応以上に、心のケアを求められることが多くなっています。私は長年、県立高校の養護教諭を務めてきました。養護教諭とは、いわゆる“保健室の先生”です。現在も、思春期真っただ中の高校生と、さまざまな課題に向き合っています。私が養護教諭の仕事を一生の仕事とし、44年間も続けることができたのは、高校時代の担任、N先生との出会いがあったからです。当時の我が家は、経済的にとても大学に進学できる状況ではありませんでした。そのため、卒業後の進路は就職とし、就職先も、ほぼ決めていました。ところが、夏休みのある日曜日、N先生が、我が家を訪問し、両親に向かって、「大変だとは思いますが、何とか大学受験をさせてあげてください」と、深く頭を下げられたのです。この担任の一人を思う真心の行動のおかげで、私は進学し、養護教諭となることができたのです。 自信を取り戻し志望の大学に合格長い教員生活の中には、さまざまな生徒との出会いがありましたが、親の期待に応えたいと、けなげに頑張る子が、思うような結果を出せず苦しむケースが、しばしばありました。当時、3年生だったC君は3年に進級した頃から体調不良を訴え、保健室の来室することが多くなり、遅刻や欠席が目立つようになりました。2学期に入り、本人は努力を続けるものの、一向に上がらない成績に自信をなくし、学習面での自信喪失が生活全般に影響していきました。学習意欲が低下し、家にいる時は常にパソコンの前から離れることができず、昼夜が逆転し、生活は乱れていきました。私は、まずC君の気持ちに寄り添いながら、彼に「つらくなった時は、いつでも保健室へ来ていいよ」と声を掛けました。そして、担任や学年主任等と連携し、学習面でのサポート体制を取っていただくよう、お願いしました。その一方で、わが子の変貌ぶりに憔悴しきった母親への支援も必要でした。徹しては者親の話にも耳を傾けるようにしました。C君は、出たり入ったりの日々が続きましたが、私は焦らず、本人の可能性を信じて粘り強く見守りました。 2学期後半になると、C君の気持ちも安定し、笑顔が戻り、生活も改善していきました。そして、自らの進路について、どの大学で何を学びたいか、自らの意思を語るまでになり、両親の応援を得て、志望校への合格を果たしたのです。 教師に望まれる理想の接し方創価学会教育本部では、教育部員による3000事例の教育実践記録を分析し、教師に望まれる児童・生徒への関わり方を五つ、抽出しました。その五つとは、(1)「信じぬく」(2)「ありのまま受け容れる」(3)「励まし続ける」(4)「どこまでも支える」(5)「心をつなぐ」というものです。池田先生は、この五つの関わりを通して、「信頼できる大人が見守り、励ましてくれることは、子どもたちに安心と向上をもたらしていきます」と述べています。私も、このことを自身の子育てを通して痛感しています。娘は、幼少時から、まじめな性格で手のかからない子でした。しかし、中学1年の頃から勉強に身が入らなくなり、なんとか高校には進学したものの、成績は全く振るいませんでした。私は娘の顔を見るたびに、注意や小言ばかり言っていました。そうした中、思わぬ出来事が起こりました。娘が親に相談なく、当時、流行していたポケベルを身につけるようになったのです。追及する私に娘は、「お母さんに相談しても反対されるだけ。私の気持なんか、分かってもらえない」と言ったのです。私は、自身の子育てを振り返りました。娘の気持ちを考えず、親の“物差し”で娘に接していたこと。さらに、努力したことも、ほめようとせず、“もっと頑張って”と、結局はプレッシャーをかけていたこと。どれも親の“エゴ”でしかないことに気付いたのです。私は深く反省し、娘に詫びました。こうした経験から、学校でも家庭でも、子どもの長所を見つけてほめ、それを伸ばしていく関わりを強く意識するようになりました。 その人の個性・特質を発揮させる仏法は、一人一人がありのままの姿で、最高に輝いていく生き方を教えています。その原理が、「桜梅桃李」という考え方です。桜梅桃李とは、桜も梅も桃も李も、それぞれ趣深く、素晴らしい特性・個性があり、その特性・個性を開花させるということです。人も同じであり、一人一人が、それぞれの他の人にはない固有の特性・個性を持っていて、それを発揮して生かそうとする考え方のことです。「御義口伝」には「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」(御書784頁)と示されています。春になると、桜、梅、桃、李が、それぞれ色や形、香り等の特質を改めることなく、ありのままで見事に咲き薫ります。その姿が、成仏に譬えられているのです。私は、仏法のこうした教えを心に刻み、生徒一人一人の持つ可能性、個性を伸ばしていく関りを続けてきました。生徒が、自分らしさを開花させるためには、周囲にいる私たちが粘り強く関わってその個性を光らせていく努力が欠かせません。私が、指針としてきた池田先生の教えがあります。それは、子どもは教師や親の所有物ではなく「人類共有の宝」であるという“尊敬の心に基づく教育”を呼びかけられた言葉です。未来の宝を育む思いで、これからも目の前の一人を大切にし、生徒の幸せのために力を注いでいく決意です。 【プロフィル】かとう・まりこ 短期大学を卒業後、愛知県の公立高校で養護教諭を務め、現在に至る。1971年(昭和46年)入会。婦人部副本部長。中部女性教育者委員長。 【紙上セミナー「生活に生きる仏教」】聖教新聞2017.4.25
May 29, 2017
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人の経歴の8割は偶然の出来事で決まる――スタンフォード大学のJ・D・クランボルツ教授が提唱する学説だ。社会的成功を収めた数百人を調査した結果、8割がその地位を築いた要因に、偶然の出会いなど予期せぬ出来事を挙げたという。 とはいえ、決して“偶然に身を委ねる生き方”を勧めているわけではない。教授は、主体的に行動する中で起こるさまざまな偶然を人生を開く好機にする「計画的偶発性理論」を提唱。成功の鍵として(1)旺盛な「好奇心」(2)努力を重ねる「持続力」(3)前向きに物事を捉える「楽観主義」(4)固定観念に縛られない「柔軟性」(5)失敗を恐れない「冒険心」を挙げる。 「ああなりたい」「こうしよう」と意思をもって努力することは大切だ。ただ人生は何が起きるか分からない。予想外の何かが起きたとき、“自分が考えていたこととは違う”などと切り捨てず、“新しい人生が開けるかもしれない”と捉えてみる。不断の努力を重ねつつ、目の前の出来事に心を開いておく――その構えがチャンスを呼び込むともいえよう。 池田先生は御書を拝し、「強き信心とは、強力な磁石のように、幸いを万里の外より集める力である」と。 勇んで動けば、思いがけないドラマが待っている。出会いの春。軽快に一歩を踏み出そう。 【名字の言】聖教新聞2017.4.23
May 28, 2017
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インタビュー 東北大学大学院 佐藤 弘夫教授 2011年、未曽有の死者・被害者を出した東日本大震災・原発事故。あの時、科学技術を過信してきた人間の傲慢さ、近代化を押し進める社会の行き詰まりに直面し、生き方を転換する必要性を感じた人は多かったに違いない。その一方、グローバル化が進展する中で、現代社会を覆う課題はいよいよ深刻さをまし、世界中に広がっているといえる。今、私たちはどこに向かって進んでいけばよいのか————。日本思想史・文化史の代表的研究者である佐藤弘夫教授は、東北の地から現代社会をどう見つめているのだろうか。 人類は、科学技術を駆使した近代化を進める中で、人間の合理的な理性が進化するほど社会も進化し、理想的世界が実現するという進歩史観を共有してきたといえます。もちろん、近代化がもたらした技術発展によって私たちが幸福を教授している事実を否定するつもりはありません。しかし今日、近代化がもたらしたメリットよりもデメリットの方が大きくなりつつある状況がある。人類は、地球環境破壊や核兵器、テロなど、自らの生存そのものを脅かす現実に直面し、人間の内面世界も排外主義やヘイトスピーチがあふれている荒れ果てた状況にあると感じます。しかも難しいのは、近代化が進めば進むほど事態は深刻さを増していくということです。さらに、近代化に伴って生み出された人類的課題というのは、私たちの近代的思考の枠の中だけではとても解決できないでしょう。そこで必要になってくるのは近代そのものを相対化する視点です。つまり、近代以前から人類が数百年、数千年単位で積み上げてきた思想・哲学・宗教といった英知、人文学の学知といったものを、もう一度、引き出していく。そういった“鏡”に照らし合わせて、近代の一体何が問題なのかを明らかにしていくことが、今、求められると思います。 近代化の流れが世界中に広がる中で、私たち人類が失ってきたものとは何だろうか。 点滴に言えば、「近代はカミを失った」ことが決定的に大きいといえます。ニーチェが「神は死んだ」と言ったように、宗教離れ・世俗化が進み、近代合理主義のもとで目に見えるもの、計測できるものしか信用しないという風潮がまん延しました。しかし、そもそも古今東西のあらゆる民族を見ても、宗教のない世界というものはなかったと言ってもよい。人間というのは、広い意味でのカミ、目に見えない力を信じ、人間を超越した力への畏敬の念を持って生きてきたと思います。近代以前からカミが人間に果たしてきた役割として、私はクッション(緩衝材)側面があると考えます例えば、古い都市や町の中心には、教会や神社、寺院、お墓があったりして、祭りなどのために何ヵ月もかけて人々が協力して準備するような習慣が、今も残っているところがある。人は人のために働かないけど、カミのためならということで、共に働いたりする中で自然と人々の信頼が結ばれていく。カミが人々の間に入って、共同体に血液を送り込むような働きをしてきたともいえます。東日本大震災からの復興においても、早い段階で地域の祭礼や伝統芸能を復活させたり、宗教的コミュニティーを再生させようとする動きがおきたことも、その表れといえます。また今、日本と中国、韓国との間にある無人島の領有を巡る対立がありますが、近代以前の人々にとってみれば、あの島はカミが支配する場所であって、人間が領有権を争うなど、とんでもない話だったともいえる。なのに私たちは今、その島を巡って、会ったこともない人たちとののしり合ったりしている。近代は、世界や社会から緩衝材としてのカミを排除したことで、特権的存在としての人間同士が鋭く対峙し、傷付け合うような社会を生み出してしまったのではないでしょうか。 ヒューマニズムは「人間中心主義」に陥ってしまったといえる。そこには自分さえ、今さえよければいいという、目の前のものへの現世的欲望に支配された人間像が浮かぶ。現代が「死を忘れた文明」とされることにも通じるといえる。 まさにその通りで、近代化はカミと同様に死者をも排除してきました。私たちは今、病院で「何時何分ご臨終です」と明確に生死の境目を区別しますが、そこには、死を目に見えない恐怖の世界として忌み嫌う近代の発想が表れているといえます。どうせ死んだら終わりという発想は“今世さえよければいい”という思考を生み、また“無理にでも生の側にとどめよう”という考えにもつながる。しかも、その根底には、死への大きな不安を抱えているのが現実です。しかし人類は、死者を弔わない文明がなかったように、人生は死後まで穏やかであってこそ完結するという思想を持ってきたといえます。死後もなお、死者は生者とつながり続けられることで、いつかは死を迎える生者も安心して生きることができる。さらには、定期的な死者とのつながりを通し、それを緩衝材として、共同体の中の生者を穏やかにつなぎ直してきたともいえます。日本のターミナルケア(終末期医療)の中で、がん患者等の在宅緩和ケアのパイオニアとして宮城で活動してきた岡部健さん(故人)という医師がいました。その方は、今の医療は「生きることへの道しるべ」しか示せないとして、「死への道しるべ」を示そうと、死にゆく人の緩和ケアに従事し、2000人以上をみとってきました。岡部先生は、医療者とともに宗教者も手を携えてケアに当たるべきとして、“臨床宗教師”の誕生にも力を注ぎました。その岡部先生の遺志を受け継ぐ思いで、私たち東北大学では全国に先駆けて、さまざまなケアに携わる臨床宗教師を養成するための実践宗教学寄附講座を、2012年から設置しています。今後とも力を尽くしていく決意です。いずれにしても、複雑な現代社会の中で人と人が穏やかに安定してつながるためには、“つなぎ”としてのカミや死者と共存してきた人類の知恵を見直していく必要があると考えます。 近代化の弊害を乗り越え、人類の未来を開くために、これからの宗教に求められているものは何であろうか。 まず前提として、宗教というのは、場合によっては怖いものにもなることを言っておかなければなりません。宗教が犯してきた過ちを繰り返してはいけない。特定の一つのカミで全ての空間を埋めようとすると、必ず誤った方向にいってしまいます。これからは強い力を持った一つのカミではなく、多種多様な小さなカミが人々の間にたくさん入ってくる、やわらかい社会が必要になってくると思う。今のペットや、ゆるキャラのブームもその表れかもしれません。私は宗教の持つ役割として、あらゆる場所に「公共的な空間」をつくり出す機能が重要と考えます。その意味では、狂信的なテロリズムは全く逆で、自分たち以外の他者を完全に排除する。人間の欲望を宗教の名を借りて実現しようとする世俗主義の究極の姿だと思います。その点、創価学会が全国・全世界の津々浦々で行っている座談会の取り組みは、文字通り最も小単位の個人と個人の関係性の中に「公共的な空間」を生み出す活動といえる。戦後、学会が日本中に、今や世界の広げている、身近な人を思いやり、真心で結んでいく活動は、公共空間を隅々に広げる大きな役割を果たしていると考えます。これらの時代は、志のある宗教が普遍的な価値を追及する中で、宗派を超えて地域社会に公共空間を立ち上げていくような、宗教間の協力が重要になってきます。そして、その宗教を信じる一人一人が、自分の周りの壁を取り払って、自ら他者を包み込む世界をつくっていけるかどうか。それを可能にする宗教が、今こそ求められていると思います。 若者が容易に排外主義や孤立状態に陥りかねない現代社会の中で、未来に、人生に希望を見出していくためには、何が必要だろうか。 今やスマホから誰でもアクセスできるネット空間は、一見、開かれているように見えます。しかし実は、自分の周りの理解できないものを排除し、公共空間をつくることができない孤絶した人々が多くいる、閉ざされた空間であることも分かってきました。これはグローバル化が進む現代、国境や壁はなくなってきているように見えて、実は人の心の孤絶性は高まっていると、同じ構図だと感じています。希望というのは、自分は一人きりではなく、周りをも変えていける存在なんだと自覚できた時に生まれてくる。それを実現するための知恵は、スマホでは簡単に見つからない。人類が長い年月を経て積み上げてきた、思想・哲学・宗教をはじめとした人文学の教養の中に眠っている。教養とは議論の作法であり、人と共存していく作法のことです。そうした教養の力を身に付け、自分の周りに一つずつ「公共的な空間」を生み出す実践の中で、自分は社会を変えられるという希望を抱いた人生を歩んでいく。若い人たちにはそれができると信じています。 さとうてうぃろお 1953年宮城県生まれ。現在、東北大学大学院文学研究科教授を務め、日本思想史・文化史の代表的研究社として活躍する。神仏習合、鎌倉仏教、死生観をなどを専門テーマに、実証的な文献読解を基盤にした大きな精神史のストーリー構築を目指す。著書に『死者の花嫁』(幻戯書房)、『鎌倉仏教』(ちくま学芸文庫)、『神国日本』(ちくま新書)など多数。『岩波講座 日本の思想』(全8巻)の編集長も務めた。 【世界を見つめて「グローバルウォッチ」若者と希望】聖教新聞2017.4.22
May 27, 2017
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静岡大学農学部教授 稲垣 栄洋 根っこが大事だよとよく言われます。それでは、実際の植物の根っこはどれくらい伸びているのでしょうか。 ライムギやカラスムギなどのイネ科の植物では、実際に調べられています。これらの植物は一メートル程度の草丈になる草本です。そして、ひげ根と呼ばれる細かい根っこを無数に伸ばします。この細かい根っこをすべてつなぎ合わせると、どれくらいの長さになるでしょうか。 驚くことに、根っこをすべてつなぎ合わせると六〇〇キロにもなったそうです。これは、東京から大阪の距離よりも長い距離です。小さな草であっても、こんなにも長い根が地上の成長を支えているのです。 植物も、すごいですが、調べた研究者も相当にすごいです。こういうことを「根性」と言うのでしょう。 それでは根っこは、どんなときに伸びるのでしょうか。 水を豊富に与えられた水栽培の植物は、根が伸びません。根を伸ばさなくても、十分に水を吸うことができるので、根を伸ばさないのです。ところが、水がないときには、水を求めて根っこは伸びます。根っこが伸びるのは、成長に恵まれた環境ではありません。苦しいときにこそ、じっと根っこが伸びるのです。根っこの成長は目に見えません。しかし、干されたときこそが、目に見えないチャンスなのです。 夏の暑い日、水をやっているはずの花や野菜が萎(しお)れているのに、雑草は青々としています。誰も水をくれない雑草は、根っこを深く張っています。十分に水を与えられて育てられている草花とは、値の張り方が違うのです。 【すなどけい】公明新聞2017.4.21
May 26, 2017
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あなたがいつか出会う災いは、あなたがおろそかにした時間の報いだナポレオン・ボナパルト(1769~1821)フランスの皇帝 ナポレオンは、一七六九年にコルシカ島で生まれた。一七八五年に士官学校を卒業すると、歩兵少尉として任官され地方都市に赴任した。フランス革命後、一七九五年にパリでおきた反乱を制したことが評価され、イタリア遠征軍司令官に就任。イタリアに広大な領土を獲得し、さらにエジプトまで足を伸ばした。そして一七九九年、クーデターによって統領政府を樹立し、一八〇四年に自ら帝位につき、実質的な独裁体制を築いたのである。ナポレオンは野蛮な独裁者ではなかった。荒廃したフランスを立て直すため、司法制度の確立や地方行政制度を再構築し、亡命していた貴族の帰国を許すという寛大なところをみせて、反対勢力との和解にも努めた。それと同時に、ヨーロッパの覇権を握るという大目的に向けて、神聖ローマ帝国を滅亡させ、プロセインを撃破。だが、イギリスに対する大陸封鎖とモスクワ遠征が立て続けに失敗し、弱体化したところにプロシア・ロシア・オーストリアな連合軍との戦いが重なって敗北。一八一四年に皇帝を退位してエルバ島に流された。だが、新国王となったルイ一八世が政府樹立に手まどっているのを見て、ナポレオンはその翌年にはエルバ島を脱出してパリへ戻り、皇帝に返り咲いた。フランス国民の多くはナポレオンの復活を喜んだが、もちろん周辺諸国は違った。ナポレオンはワーテルローの戦いで再び敗北し、西アフリカの孤島、セントヘレナへ囚人として送られ、一八二一年に死去したのだった。よくナポレオンは、睡眠時間を三時間しかとらなかったといわれている。誇張されたことではあるが、彼が睡眠も惜しんで、考えを巡らせていたことは間違いない。戦いと政治のやり直しはきかない真剣勝負。今日のことを明日に先送りしたら、勝ち目はない。ビジネスにも同じことがいえる。一度逃したチャンスは二度と訪れない。「明日やればいい」とおろそかにしていると、きっとそれを公開する時間がくるだろう。 【心を強くする名指導者言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
May 25, 2017
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2人とも1889年の4月に生まれた。きょう20日が誕生日のヒトラーと、その4日前に産声を上げたチャップリンである。 共通点は、まだある。稀代の喜劇王はスクリーンを通じて感動を与え、ナチスの総統も映像を中心とするメディアを「戦車や爆撃機と同じぐらい重要な武器」(「チャップリンとヒトラー」大野裕之 岩波書店)として重宝した。 両者の戦いは名作「独裁者」で決着がつく。「民主主義の名のもとに、持てる力を集めよう」。映画史に残るラストシーンの呼びかけは人々の心を掴んだ。逆に、パロディー化されたヒトラーは、その後の演説回数が「極端に減っていく。リアルな戦場での敗北より先にメディアという戦場から撤退を余儀なくされた」(同書) 排外的なナショナリズムに訴えて、国民の支持を広げようとする動きは今も欧州などにはびこる。時代背景も経済情勢も異なるので、強権的な政治勢力の伸長が、直ちにかつてのような全体主義の復活につながるわけではない。しかし、そうした勢力は不確かな伝聞や嘘・デマを駆使して、人々の冷静な判断力を鈍らそうとする。放置すれば、民主主義を蝕みかねない。 虚実の境界線が曖昧な時代こそ、民主社会の基盤であるメディアの役割が重みを増す。持てる力を集め、発揮してほしい。 【北斗七星】公明新聞2017.4.20
May 24, 2017
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歴史学者 藤野 豊 戦後復興の希望戦後日本の炭鉱は国策に翻弄され、炭鉱労働者とその家族の生活もまた、国策に大きく振り回されたといっても過言ではない。まず、それを概観しておこう。戦争中、炭鉱は軍需産業として重要視され、1941年以来、石炭統制会のもと、国の統制下にあり、石炭の増産が強制された。そして、それは経済復興上から戦後も継続された。46年12月、帝国議会の貴衆両院は、産業の再建と国民生活の安定には石炭の増産が必至と決議。自由党を基盤とする第1次吉田茂内閣は石炭と鉄鋼の生産に経済政策を集中するという傾斜生産方式を閣議決定し、次の日本社会党の片山哲を首班とする内閣は47年6月、炭鉱の統制機関として、それまでの日本石炭鉱業会(46年6月、石炭統制会を廃止して設立)に替えて廃炭公団を発足させ、廃炭公団が石炭を一手に買い入れ、一手に販売することになった。公団は、石炭鉱業会のときと同様、消費者炭価を低く抑えるため、炭鉱業者からの買い取り価格よりはるかに低い炭価を設定し、その差額は国債による価格差給付金で補っていた。これにより低品位の石炭であっても配炭公団が一定の価格で買い上げることができたので、高品位の鉱脈を大手炭鉱に独占され、低品位の鉱脈しか確保できない中小炭鉱も経営を成り立たせることができた。さらに片山内閣は同年12月、難航の末、石炭増産を目的とした臨時石炭鉱業管理法を成立させた。まさに、戦後日本の炭鉱は国の熱い保護のもとで、再出発したのである。石炭はエネルギー源として電力を生み、蒸気機関車の燃料として輸送力を伸ばし、製鉄の原料として鉄鋼生産を増大させ、肥料の硫安を原料として農業生産をも増加させる。まさに、石炭は戦争からの経済復興の中心となる産業とされた。それゆえ、炭鉱に行けば、住居も保障され、とにかく飯が食えるということで、敗戦による外地からの引き揚げ者、軍隊の解散による失業軍人たちも炭鉱に殺到した。しかし、地下深く掘り進み、落盤、炭塵爆発、出水という危険と隣り合わせの過酷な労働は誰でもがすぐに順応できるものではない。こうした急速な炭鉱の増産態勢は未熟練な炭鉱労働者を増加させる結果となり、人件費を増加させる結果となり、人件費の増加と出炭量の増加が比例せず、炭鉱の赤字を増大させる結果となった。ここから国策は大きく修正されていく。49年、炭鉱をめぐる政治環境は激変する。 【炭鉱のまちを歩く[2]】聖教新聞2017.4.20
May 23, 2017
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昭和女子大学総長 坂東 眞理子 中間管理職の男性は、若い女性部下をかわいがる対象ではあっても鍛える対象とは考えない傾向にあります。しかし、男性の上司に甘やかされているだけで、若いうちに仕事の厳しさを知らないで過ごすと、女性はせっかくの持てる能力を発揮しないままで終わります。若いうちは「かわいい、かわいい」といわれていても、入社後数年たち経験を積み、ようやく力がついてくる頃には、かわいがってくれた上司が異動したり引退し、同僚や少し年長の男性からは煙たがられはじめます。だから女性はそれまでに実力を身に付けておかねばならないのです。入社時に男性より女性があらゆる面で優れているのに、10年もたつと男性はしっかり成長しているのに女性は当初の輝きがうせてしまう例がどの職場でも見られます。それは女性が結婚、出産、育児などのライフイベントに力を取られ仕事に全力を注げなくなるからだと言われてきましたが、それだけではありません。若いうちは甘やかされ、難しい仕事を任せられたり、石にかじりついても成し遂げたという経験をしていないからです。本当の仕事の手ごたえや面白さを経験していないうちに育児ステージに入ってしまうと、中途半端なアシスタントで終わります。女性に困難な仕事は無理だろうと配慮ばかりされていると、いつまでたっても実力が付きません。若いときに困難な仕事に立ち向かい成し遂げる経験をすることが重要なのです。いわゆる一流校を出た学歴の高い、頭もいい、やる気もある女性たちが職場を辞める理由として多いのは、「仕事が難しい」だからでなく、「能力が発揮できない」「自分の将来が見えない」からです。いつまでも、泥をかぶらない「お嬢さん」「お姫様」で終わらせるのでなく、若いうちから、若いうちにこそ女性たちの力に期待し、機会を与え、鍛えて、人材として育てることが重要ですし、女性もそれに応えて伸びていってほしいものです。 【新時代の「女性リーダーへ」8】2017.4.18
May 22, 2017
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為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬ成りけり 上杉鷹山(1751~1822)米沢藩主 上杉鷹山は、一七五一年に日向国(現在の宮崎県)で生まれた。高鍋藩主・秋月種(たね)美(みつ)の二男だったが、嫡男のいなかった米沢藩主・上杉重定の養子となり、十七歳で元服すると治(はる)憲(のり)と名乗り米沢藩主となった。上杉家はもともと会津一二〇万石を戴いていたが、米沢へ改易後は石高が一五万石に激減した。以前と同じ六〇〇〇名にものぼる家臣を抱えたままだったため、借財が三〇万両にものぼり、さらに大凶作に見舞われて、鷹山が藩主となったときには幕府に藩土を返上するかどうか、というところまで追い詰められていた。しかし、家督を継いだ鷹山は諦めず、藩政改革による財政再建を目指した。最初に行ったことは、桑、コウゾ、漆といった産業の源となる木を一〇〇万本ずつ植えることだった。また、越後から機織り職人を呼び寄せ、後の米沢織となる特産品を生み出した。また鷹山は、藩を復興させるためには教育にも力を入れなければならないと考えた。そして、曾祖父の綱憲が創設した藩校、興譲館を再興させ、身分に関係なく最新の学問を学ばせたのである。この結果、二〇万両の借金は次第に減り続け、次々代の斉(なり)定(さだ)時代には完済した。さらに、鷹山が領民たちに質素倹約の生活を植え付けたおかげで、天明の大飢饉(浅間山の噴火などによって一七八二年から一七八八年にかけて発生し、五〇万人近い餓死者を出したという)の際にも、一人の餓死者も出さずにすんだとされる。十七歳で藩主になり、借金を完済できたのはそれから五十年も先のことである。これほどの長いスパンで物事を見るのは簡単なことではない。「五十年かかる」と聞けば、それは不可能と考える人の方が多いはずだ。しかし、諦めない人には時間も味方してくれるものである。塵も積もれば山となるという言葉があるとおり、どんなに些細なことでも継続していれば、やがて大きな結果が得られる。大切なのは、やる気があるかどうか————。この一点にかかっている。 【心を強くする名指導者の言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
May 21, 2017
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王 貞治(1940~)元プロ野球選手、監督 王貞治は、一九四〇年に東京市本所区(現在の東京都墨田区)で生まれた。本所中学を経て早稲田実業高校に進学した彼は、一九五七年の選抜高校野球大会にピッチャーとして出場し優勝。一九五九年に高校を卒業すると、読売巨人軍に入団した。 ピッチャーとして入団した王だったが、当時の水原茂監督に「お前はピッチャーとしては大成しない」と指摘され、すぐさま野手に転向。ちょうど川上哲治が引退し、一塁が相手いたことから一塁手になったのである。 さらに、一九六二年に打撃コーチとして就任した荒川博が「一本足打法」を教え込んだことによって、首位打者五回、本塁打王一五回打点王一三回、そして三冠王を二年連続で獲得するという球界きってのロングヒッターになったのだった。 なかでも特筆すべき記録は、ハンクアーロンが持っていた生涯本塁打記録七五五本を抜いたことだろう。これによって王は国民栄誉賞第一号を受賞。そして、二十二年の現役生活で通算八六八本のホームランを記録した。 現役引退後は、巨人の助監督、監督を務め、一九八七年にはリーグ優勝を獲得。それを最後に巨人を離れ、一九九五年からは福岡ダイエー(現在のソフトバンク)の監督に就任した。だが、それからは荊の道だった。とくに厳しかったのは、一九九六年で、この年のダイエーは最下位を独走し、ファンからも、屈辱的なヤジを受け、選手たちを乗せたバスが取り囲まれることもしばしばだった。 この屈辱が、王の述べている「嵐のような逆風」である。しかし彼は自身の言葉どおり、それによって強くなり、一九九九年にはリーグ優勝と日本シリーズ制覇を達成したのである。もし逆風が襲ってきたらどうすればいいのか。身を潜めてやり過ごすという方法もある。だが、逃げているだけでは当然のことながら何も得られない。逆風を今後の自分のためのプラスにする方法は、厳しくも真正面から向かい合うことだろう。心身ともに強くなれるのはこの道だけである。 【心を強くする名指導者の言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
May 20, 2017
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ベーブ・ルース(1895~1948)メジャーリーガー ベーブ・ルースは、一八九五年にメリーランド州のサウスボルチモアで生まれた。幼いころから手がつけられない不良だったルースは、七歳のときに矯正学校へ送られた。野球というスポーツを知ったのは、この時だったという。彼は矯正学校の野球チームで投手として活躍しているときにオリオールズ(現在のヤンキース)のオーナー兼監督ジャック・ジャンに見いだされ、一九一四年にプロ野球選手として第一歩を踏み出した。 その後、レッドソックスに移籍して投手として活躍。だが、次第に長打力が注目を浴びるようになり、一九一八年には初の本塁打王のタイトルを獲得した。一九二〇年に古巣ともいうべきヤンキースに移籍。当時のメジャーリーグを代表するもう一人の強打者ゲーリックと三、四番コンビを組み、リーグ優勝七回、ワールドシリーズ制覇四回というヤンキースの第一次黄金時代を築いた。 一九二七年には本塁打六〇本の大記録を作ってホームラン王となったが、一九三五年に引退するまでに七一四本の本塁打を打ったのである。 ちなみにこの記録は、当時のレベルからするとずば抜けたもので(たとえばゲーリックの通算本塁打は四九三本)、永遠に破られないだろうといわれた。そして、一九三六年にはアメリカ野球殿堂入りの最初のメンバーとなったのである。 ピッチャーとしても、ホームランバッターとしても大成したルースは「野球の天才」と呼ばれることが多い。しかし、彼の意外な面を伝えるエピソードがある。それは、コロンビア大学で異なるサイズの小さな穴に棒を差し込むという根気のいるテストに参加したときのことである。彼はなんと、五〇〇人中最高位の点数を記録した。単なる野球の天才ではなく、諦めることを知らない強靭な精神力を持つ努力家であることを、周囲に知らしめたのである。 確実に「負け」になるまでは絶対に諦めないこと。たとえ勝利の可能性がわずか一%しか残っていないとしても、諦めなければ、あるいは勝利するかもしれない。このことを忘れずにいれば、易々と勝負を投げ出して負けることなどないはずだ。 【心を強くする名指導者の言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
May 19, 2017
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周総理は、公私の区別に大変厳しい方でした。親族である私にも、特別待遇どころか周囲の子どもに対するよりも厳しかった。小学生の頃だったと記憶していますが、伯母の鄧穎超から「あなたの伯父は全人民の総理であって、周家の総理ではありません。ですから、周家のために奉仕はしません。外でも、決して総理のめいであると言ってはなりません」と戒められました。また、西花庁に住んでいることも話してはならないと厳しく言われました。 総理も伯母も、今、取り組んでいる仕事のことや、きょう、何をしたかといったことを、家族に語ることはありませんでした。 しかし、一度だけ日本について、総理から聞いたことがあります。それが創価学会のことでした。私が大学生の頃だったでしょうか。ある日、総理が西花庁の応接間の隣の小さな食堂で食事を取っていた時のことでした。テーブルの上に数冊の本が置いてあり、その中の一冊、オールカラーの小冊子がありました。当時、中国は文化大革命の混乱期にあり、外国の書籍は多くなかった。また、全てカラーの冊子は珍しかった。ですから、印象に残っています。 冊子の中身は日本語が書かれていて読めませんでしたが、表紙の「創価学会」という4文字は分かりました。学会の会合やスポーツ大会の模様などが紹介されていたと記憶しています。 もの珍しそうに眺めている私に、総理は「それは創価学会という日本の宗教団体の本です。創価学会は戦争に反対し、平和のために貢献している団体です。会長は池田大作という方です」と語ってくれました。 総理は日中関係を非常に重視していました。ですから創価学会に注目していたのだと思います。 総理は夜型で、朝の5時、6時くらいまで仕事をするので、体調を心配した伯母の鄧穎超が、“お疲れですので、公園でお花を見て気分転換をしては”と提案したのです。総理は、人に勧められても休むことはありませんでした。この時は伯母の計らいで、看護師と相談し、寝ていた私を起こして服を着せ、西花庁の前で総理を待たせたのです。 大人が言ってもいうことを聞いてくれないのですが、子どもの私がいたので、仕方なく総理も聞いてくれたのです。私が周総理を連れて散歩に行ったようなものです。 看護師の話では、総理は白いシャクヤクの花がお好きでした。シャクヤクが咲いた頃に、できるだけ総理を公園にお連れしていました。のちに西花庁の庭にも植えました。 聖教新聞2017.4.12
May 18, 2017
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沖縄出身で本土に空手を普及させた松濤館流祖・船越義珍は「空手に先手なし」との格言を残した。那覇市内に建つ顕彰碑に刻まれている。文字通り、空手の形は受けから始まる。相手を倒すのではなく、己に打ち勝つのが空手の目的との教えだ。 空手の精神性を表す言葉には、こんなものも。「人に打たれず、人打たず、事なきをもととするなり」(剛柔流開祖・宮城長順)。厳しき修練は、究極のところ相手と戦わないためにある。ここまで来れば空手は“平和の武術”といっても過言ではあるまい。 現在、世界は1億人以上の空手愛好家がいると言われる。2020年の東京五輪では空手が追加競技に決まり、日本勢のメダル獲得に期待も高まっている。先月、公明党沖縄県本部が推進してきた「沖縄空手会館」が豊見城市内に開館した。世界中の愛好家が沖縄を訪れ、鍛錬を積んでいる。 そんな空手の心が息づく沖縄では72年前、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた。引き金は空手の心に反した旧日本軍の真珠湾への先制攻撃。忘れてはならない史実である。 北朝鮮やシリアなど国際情勢が緊迫している。今こそ、各国の指導者は空手の精神に学ぶべきだ。今一度、「先手なし」との言葉を胸に刻みたい。そうすれば争いごとなど起きないにちがいない。 【北斗七星】公明新聞2017.4.12
May 17, 2017
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大阪大学名誉教授 黒澤 満 共同声明の支持が159カ国に拡大近年、核兵器の禁止に関する議論が高まる契機となったのは、2009年にオバマ米大統領(当時)がプラハで行った「核兵器のない世界」に向けての演説でした。その翌年には、NPT(核拡散防止条約)再検討会議の最終文書で、核兵器の使用がもたらす壊滅的影響を認識することや、核兵器を禁止する枠組みを創設するために特別な努力を払うことなどが盛り込まれました。以来、多国間核軍縮交渉の停滞や、核兵器の近代化が進む状況も踏まえ、非核兵器国の間で「核兵器禁止条約をつくるべきである」との声が高まるようになりました。一つは、核兵器の人道的結果に関する共同声明です。2012年にスイスなど16カ国が、いかなる状況でも核兵器が決して使用されないことが人類の生存にとっての利益であり、その状況を保障する唯一の道は核兵器の廃絶であると強調しました。その後、共同声明が繰り返される中で賛同国が広がり、2015年に開催されたNPT再検討会議では、最終文書の選択に失敗したものの、共同声明には159カ国が賛同するまでになりました。もう一つの動きは、核兵器の人道的影響に関する国際会議です。2013年以降、オスロ(ノルウェー)、ナヤリット(メキシコ)、ウィーン(オーストラリア)での3回にわたる会議を通じて科学的検証が行われ、核兵器爆発が引き起こす壊滅的な被害に誰も対応できないことや、核兵器爆発の影響が国境を越えて広がることなどが確認されました。 人道的アプローチを巡る3つの見解このような人道的アプローチに対し、各国の間で見解が三つに分かれています。第一は、非同盟諸国やオーストリアなど159カ国が主張するもので、核兵器使用の非人道的観点から、直接、核兵器の廃絶を求める立場です。第二は、オーストラリア、日本、ドイツ、オランダ、カナダなど核兵器国の同盟国が主張する、核兵器廃絶は人道性でなく安全保障も考慮すべきだとする立場です。第三は、核兵器の廃絶は安全保障が確保された場合にのみ可能であるという、核兵器国の主張です。昨年の核軍縮に関する国連公開作業部会でも、こうした意見の対立がみられましたが、人道的アプローチの支持国が多数を占める中、最終報告書で、核兵器禁止条約の交渉会議の開催を求める勧告が盛り込まれました。そして昨年12月、国連総会で、核兵器禁止条約の交渉会議を本年に開催する決議が採択されたのです。3月末と、6月中旬から7月にかけて、国連で交渉が行われる予定になっています。核兵器禁止条約について、オーストリアは、NPTの目的と完全に一致しており、核軍縮の達成を定めたNPT第6条の履行を推進するものとなると強調しています。一方、核兵器国の反対意見は根強く、例えば、フランスやイギリスやアメリカは、核兵器禁止条約の交渉でコンセンサス(意見の一致)をみることは不可能であり、「核兵器のない世界」の追及を目指すNPT締約国の間で、かえって分裂を深化させることになると主張しています。このように、核兵器国と非核兵器国との溝は深く、国連での交渉会議も難航することが予想されます。 核なき世界を築くための方途こうした中、国連での交渉会議の開始を前にして、英字紙「ジャパンタイムズ」のオピニオン欄で、池田SGI会長の寄稿が掲載されました。そこでは、唯一の戦争被爆国である日本が、国連での交渉会議に参加し、議論の取りまとめに積極的な貢献を果たすよう訴えるとともに、交渉会議を力強く支持する市民社会の声を届け、核兵器禁止条約を“民衆の主導による国際法”として確立する流れをつくり出すべきであると、呼び掛けてられています。私は、この池田SGI会長の主張に多くの点で賛同します。これまで、「核兵器のない世界」を築くための方途を巡り、さまざまな国やNGO(非政府組織)などから、以下の5種類の道筋が提起されてきました。 核兵器国が中心となって核兵器禁止条約を締結し、段階的な廃絶と検証を目指す。核兵器国の参加がなくても、まず核兵器の使用と保有を禁止する条約を締結する。地球温暖化防止のための「気候変動枠組み条約」のような形でまず条約の枠組みをつくり、詳細は議定書で規制する。実際的な措置を積み上げていく漸進的なアプローチ。可能なものから一つずつ取り組みを進めるステップ・バイ・ステップ方式。 私は、この中で3番目の道筋、つまり、枠組み条約のようなものを目指すアプローチこそが、核兵器国と非核兵器国との対立を防ぐ上で、より賢明な選択になるのではないかと考えるものです。 くろさわ・みつる 1945年、大阪生まれ。大阪大学大学院教授などを経て、2008年から大阪女学院教授。09年から13年まで日本軍縮学会会長を務めた。主な著書に『軍縮国際法』『核兵器のない世界へ 理想への現実的アプローチ』など。 【文化】聖教新聞2017.4.12
May 16, 2017
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昭和女子大学総長 坂東 眞理子 従来は「余人をもって替え難い人材」になるのが女性のキャリア戦略として有効だと言われていました。しかし極端に言えば、今組織の中には余人をもって替え難い仕事は、ほとんどありません。自分なりに勉強し、経験を積んで水準以上の成果を上げる現在の仕事に誇りと愛着を持つのは職業人として重要なことで幸せなことでもありますが、いつまでも移動せず今の仕事にしがみついていると自分にとっても組織にとっても不幸です。経理の専門家、広報の専門家、その道の20年、30年一つの分野に打ち込んでくると当然スキルは上達します。過去のもろもろの経緯やいきさつも知っており、関係の専門家の人脈もできますし、慣れると仕事の負荷はどんどん軽くなります。女性でも社内専門職になると周りからも一目置かれ、尊重され居心地は良くなります。ところが新しい部署に移動するとゼロからやり直さなければなりませんし、自分がこなせるかどうかも分かりません。女性は子育ての負担が大きいので、新しいことをマスターする余力のない時期は慣れた仕事を続けたほうが楽です。しかし、いつまでもその仕事にしがみついていると、“化石・恐竜・落ちこぼれ”になってしまいます。どれだけ今はうまくこなせ気に入っている仕事でも、技術革新によって仕事のやり方がすっかり変わる、自分を認めてくれていた上司が異動する、M&A(企業の合併・買収)で部署がなくなることもあります。そのためにも自分の仕事を抱え込まず、後輩や部下を後継者に育てるよう自分の仕事を少しずつ譲り渡していかねばなりません。それによって余人に替えられるかもしれませんが、自分にもゆとりが生まれ視野が広まります。新しい可能性にチャレンジする勉強もできます。新しいポストに行っても今まで培ってきた経験やスキルは別の形で生きてきます。新しいポストを恐れないで自信を持って挑戦しましょう。 【新時代の「女性リーダーへ」7】公明新聞2017.4.11
May 15, 2017
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司馬遼太郎著『歴史を紀行する/文春文庫』を読み、秦氏の謎に浸った。以下、抜粋。 現代日本に残る秦の言葉京は、郊外がいい。嵯峨野から太(うず)秦(まさ)あたりを歩いた。「太秦の秦とは、どういう意味でしょう」と、Tさんはいう。「あの秦ですよ」と、私はいった。これは古代史としてはわりあいはっきりしているから確言していいが、秦の始皇帝のあの「秦」というところから出ている。山城国をおもうには、想いを古代中国に馳せねばならない。いうまでもなく紀元前三世紀のころの古代中国を統一したのが、秦である。ところがその秦は始皇帝いらいわずか三代十六年にして漢の高祖にほろばされた。話が飛ぶが、この秦というのは当時の中国の中原の連中からは夷狄(いてき)(異民族)をもって目されていた。————ほんとうです。色は白く、目が青くて鼻がこう、ぐっと高かったのです。と、戦前、秦史を余技で調べておられたある政治史(それも英国政治史だが)専攻のIという学者が、内緒ばなしでもするような小さな声で教えてくれたが、しかしどうだろう。紅毛碧眼であったというのはちょっと想像がすぎるかもしれない。秦の人種論はさておく。その言語はシナ語の一派だったのであろう。秦の言葉では国という語は邦だったそうである。弓(きゅう)は弧(こ)という。賊(ぞく)は寇(こう)。衆のことを徒。これらの秦語は漢語にとけ込み、その漢語が日本に輸入されてわれわれ現代日本人も、国家というのをしゃれて邦家といったり、在外日本人を邦人、万国無比を万邦無比などといったりしている。二千数百年前にほろんだ大陸の王朝の語彙を、二十世紀の日本人がなお使っているというところに文明というものの不可思議さがある。その滅亡した秦王朝の貴族の一部が朝鮮半島に逃げた。「魏志東夷伝」にそのころの朝鮮の記述がある。朝鮮は馬韓、秦(辰)韓、弁韓にわかれている。このうち秦韓については「古ノ亡人、秦ノ役ヲ避ケテ来ッテ韓国に適(いた)ル」とある。「他の韓国とは、言葉や風俗がすこしちがっている」とも書かれている。その秦韓民族が、何世紀かをへて日本にきたのである。このことは日本側の正史である「古事記」にも記載されている。応神天皇の十四年(西暦二八三年)、弓月君という朝鮮貴族が百二十県の民をひきいて日本に帰化した————と。 帰化人がおいた京の礎百二十県の民といえば大量帰化というよりはもはや民族移動にひとしい。かれらがやってきたことについては、朝鮮半島における政情の変化と直接のつながりがある。すなわち半島においては新羅という強国が勃興し、右の秦韓を圧迫した。やむなくかれらは第二の故郷をすて、東海の列島を慕ってやってきた。その当時の日本では、おそらく群雄が割拠していたのであろうが、むろん大和王朝が最大の勢力であった。弓月君はそこへゆき、「予は秦の始皇帝の子孫である」といった。単に朝鮮人というよりも、そのほうがこの蛮国(とかれらは思っていたにちがいない)で、居住権を得るには都合がよかったに相違ない。もっとも当時の大和王朝にあっては、秦帝国などというものについての歴史知識がどの程度にあったか、うたがわしい。百二十県の民といえば、いったい何人いたのであろう。この応神天皇十四年から百八十年ばかり経った雄略帝はその家来の小子部という男に「あの帰化人の人数をしらべよ」と命じ、その結果、九十二部族、一万八千六百七十人という数字が明らかになった(「雄略記」)。応神朝はかれらにたいし、「山城のあたりでも拓けばどうか」とでもいったらしい。なにしろ、大和・河内は大和朝廷の直轄地であり、そこにはかれらの割りこむすきがなかったにちがいない。当時、山城は草獣の走る一望の曠野であったのかどうか。とにかく、秦氏はここに国土をさだめた。その国都がいまの京の郊外、嵐山の沿線にある太秦であった。秦氏は、たちまち強大な勢力になった。なぜならばかれらは産業をもっていた。その特殊な技能はハタオリであり、織物をふんだんに生産することによって大和朝廷の用をつとめた。当時の日本人たちが秦(しん)を秦(はた)とよんだことだけでも、秦氏の日本の未開発社会における位置がわかるであろう。応神朝のつぎはぎ仁徳朝だが、この仁徳天皇の代にこの秦氏の技術者を山城だけに住まわせず、諸郡に分置させていることをもってしてもかれらがいかに珍重されたかがわかる。秦氏の首長からは、政治家も出た。秦川勝がそうである。推古朝の人、聖徳太子につかえ、その政治をたすけるだけでなく、太子の資金源になった。当時日本で富者と言えば秦氏のことであったから、聖徳太子の政治的成功はこの秦川勝の経済力なしに考えることはできない。川勝は、太子に尽くした。仏教好きのいわば当時の進歩的知識人であった太子のために、このパトロンは山城ノ国に広隆寺をたて、太子の別荘として献上した。「山城に遊びに来られたときはこの別荘でお昼寝をなされよ」というのが川勝の口上であったであろう。 秦人はイスラエルびとか?「この夢殿がそうですか」と、Tさんが広隆寺の境内を歩きながら、八角の円堂を指した。太子建立の大和法隆寺の夢殿と同型のもので、この寺では桂宮院本堂という呼称になっているが、聖徳太子以後の建造物だから、太子が昼寝をしたわけではなかろう。「秦氏はイスラエル人だったと思います」と、前記I氏が私にその壮大な空想を語ってくれたことがある。なぜならばこの広隆寺の境内わきに、太秦の土地のひとびとがいまでも神聖視している「やすらい井戸」という井戸がある。I氏によれば、やすらいはイスラエルのなまりであり、砂漠の民であるイスラエル人は当然ながら湧水地のまわりに住み、それを神聖視する。やすらい井戸はその生きた遺跡だというのである。太秦には奇祭がある。毎年十月十二日におわれる牛祭がそれで、夜八時すぎ、怪奇な赤鬼青鬼の面をつけた白装束の鬼四ひきがタイマツに照らされて境内にあらわれ、やがて牛面をつけた摩陀羅神というものの供をする。やがて祭壇の前で鬼が摩陀羅神に対し、祭文を詠みあげるのだが、その祭文のことばはまったくちんぷんかんぷんで、何語であるのかわからない。マダラ神というのはいったい何の神か。その祭文のモトの言葉は秦語か、古代朝鮮語か、それともイスラエル語なのか、まったくわからず、土地の古老にきいても、「さあ、神の言葉どっしゃろか」と、とりとめもない。この祭りは起源もわからぬほど古いのだが、たれかこれを大まじめに研究する学者がいないものだろうか。アジアの他の国の古俗と対比すればなにか出てきそうに思われるのだが、どうであろう。この太秦広隆寺の境内に小さな守があり、泉が湧き、泉に三脚の柱をひたした奇妙な石鳥居がある。三本あしの鳥居など日本のどこにもないが、前記I氏は「あれはイスラエル人が好む紋章です」という。空想というものは楽しい。この広隆寺には寺の守護神というかたちで大酒神社という古社がある。古くは大避と書かれて入たそうである。さらに古い時代には「大(だい)闢」という文字があてられていた。大闢とはなんぞや————ここで空想は昂奮しなければならない————大闢とは漢訳聖書ではダビデをさすのである。となれば大酒神社の祖形はダビデの礼拝堂であるということになり、秦氏はイスラエル人であるばかりか、古代キリスト教徒であった、ということへ飛躍してゆくのである。「魏志倭人伝」における邪馬台国とは九州か大和か、という考古学的想像もおもしろいかもしれないが、「魏志東夷伝」から発想してゆくこの古代山城の秦氏研究も十分に学問的ロマネスクの世界ではないか。フルネームはわすれたが、大正末期に英国人でゴルドンという女性が、秦氏キリスト教徒説をたてたことがある。私は手もとにその資料をもっていないから、その説を正確にここに紹介することはできないが、要するにキリスト教といっても、ローマンカトリックではなく、ネストリウスの教派らしい。いまのローマのカトリックは、遠くパウロがひらいた。他の教派は異端とされた。異端の最大のものはネストリウスの教派であり、これはコンスタンチノーブルを根拠地とする東方教会から追われ、東へ逃げ、絹(シルク)の道(ロード)を経てさらに東へゆき、ついに中国大陸に入った。古代中国ではこの宗教を景教と称し、この時点よりちょっと時代のくだる大唐の世に一時大いに興隆を示したことがあるが、やがて弾圧され、泡のように消えた。秦氏はつまりはこの景(ネス)教徒(リアン)であるというのだが、真偽はむろんわからない。あくまでも青と朱にいろどられたあえかな空想としておくほうが無難であろう。要するに、京————山城平野————の最初のぬしである秦氏は謎の民族なのである。 【歴史を紀行する】司馬遼太郎著/文春文庫
May 14, 2017
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受け身や弱気の心では、諸天を動かすことはできません。“いかなる苦難があろうとも、断じて負けない。絶対に勝利して見せる”————この決定した「一念」から湧き上がる祈りと実践に、諸天善神は感応し、人々を厳として守る働きとして現れるのです。◇どんな逆境にも立ち向かっていく。どんなことがあっても退かない。これが「心の固さ」です。 【勝利の経典「御書」に学ぶ】第3巻
May 13, 2017
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現代人は日々、目の前の課題に追われ、自分の“本当の気持ち”を語ったり、相手の“本当の気持ち”にじっくり耳を傾けたりする機会が少なくなった。 うつの当事者や家族と同苦し、支えていく場合、重要なのは、何があったのかの「事柄」を聞くだけでなく、そこにある、苦しみ、悲しみ、怒り、また勇気や誇りといった「感情」を聴くことだという。 それらを真摯に、忍耐強く受け止めることが、本来の「抜苦与楽=慈悲」の精神につながる実践の第一歩といえよう。 誰にでもその人しかない使命がある。“今までとは違う本来の自分を生きたい!”との本然的な生命の叫びは、自分らしく生きるための成長過程とも、好機とも、捉えることができる。それが新たな自分へと生まれ変わって元気になるまで、寄り添い、ともに道を探す————そこには、相手の仏性を認める尊敬の念が伴う。だからこそ、互いに平等であり、寄り添う人も成長できるのだ。 創価の人間主義が、世界的な広がりを見せるのは、こうした抜苦与楽の精神と行動が共感を呼び、民族や国家を超えて支持されている結果といえないだろうか。支え合う社会は、私たち一人一人から始まることを、改めて銘記したい。 【社説】聖教新聞2017.4.7
May 12, 2017
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盛永 審一郎 医学のパラダイム革命人の全遺伝子情報を対象とするゲノム医学の登場は、医学革命、医学におけるパラダイムの変化を引き起こした。これまで健康とは、苦痛等を引き起こす疾病のない状態だったが、現在、健康とは疾病以前の、遺伝子の配列異常の有無に関わる問題となっている。しかし、従来の遺伝子治療では、狙い通りに遺伝子を改変することは難しかった。だから、米国の女優のように遺伝子診断で乳がんのハイリスクという結果が出ると、乳腺を切除したり、受精卵診断を行い、遺伝子に異常のある受精卵は廃棄されたりした。ところが、遺伝子改変技術のブレイクスルーとなる「ゲノム編集技術」が近年登場し、様相は一変した。ゲノム編集技術は、ゲノム上の狙ったDNA配列を認識する部分と、そこを特異的に切断する分解酵素からなる試薬を用い、切断による遺伝子の不活性化、または、切断箇所へ人口のDNA断片を挿入することにより、遺伝子の改変を行うものである。遺伝子改変をはるかに速く、効率的に、安価に、不可逆的に、しかもゲノムに編集の痕跡を残さず行うというものである。この新しい方法は、がんやエイズなどさまざまな病状の何百万という人々に希望をもたらした。遺伝子性疾患にも応用できる。しかも、体細胞だけでなく、受精卵や生殖細胞の遺伝子も標的にして改変することができると期待されている。しかし、同時に危険性もある。想定した標的以外の場所のDNA切断してしまう危険とともに、受精卵等への適用においては、遺伝子改変された細胞と改変されない細胞が混在することが報告されている。さらに、受精卵の場合、個体全体のゲノムに対する改変になり、次世代にその変化が伝わる恐れがある。 海外でも議論が続くこの技術に対して、2015年7月、日米の関係学会はゲノム編集での受精卵捜査を禁止すべきとした。ところが、今年2月二米国科学アカデミーが数世代にわたる影響の評価や市民よる議論など厳しい条件を前提に、受精卵でも遺伝性疾患に限りゲノム編集技術を用いることを認めた。また、日本の科学技術政策の方向を審議する総合科学技術会議に設置された生命倫理専門調査会が昨年公表した「中間まとめ」では、この技術を適用した受精卵の臨床利用については、「現時点で容認できない」としたが、基礎研究には容認の余地を残し、ゲノム編集技術を用いる研究については「研究者コミュニティにおいては、広く科学的・倫理的・社会的観点から、開かれた形での議論を積極的に主導することを期待する」とした。しかし、倫理的問題の所在は示されていない。一方、日本学術会議は「医学・医療領域におけるゲノム編集技術のあり方検討委員会」を16年5月に設置した。同検討委員会の審議内容には、生殖細胞、受精初期胚を対象にゲノム編集技術を用いることの生命倫理上の問題点の検討が掲げられ、「胚の法的位置」「当事者」「優生学」などの問題が指摘されている。日本学術会議のこの指摘に注目したい。事実、3年にわたる新型出生前診断の臨床試験結果においても陽性と判定された94%が胎児の中絶に結びつているからだ。イギリスのナフィールド生命倫理会議(15年)は、この問題を具体的に指摘している。「その応用は破壊的(すべり坂)であり、その便益の分配における公正の問題、特に表現差別懸念がある」。つまり、遺伝性疾患を撲滅する試みは、遺伝性疾患の人すら望ましくないと見なし、尊敬を欠くことになるという懸念である。 優生学にも連なる問題ドイツの哲学者ハーバーマスは次のように言う。「他者のために、生きるに値する生と生きるに値しない生とを区別するという状況は、やはりどことなく不安な気にさせる」「人間の生活のあるあり方が障害を持っていると勝手に決めるときに、その評価の仕方をいかに厳しく制限したとしても、そうしたことに慣れてしまうことが持つ問題的な効果を、そして差別を生み出す副次的影響を指摘することで、反対の論拠として十分に強い論拠となるである」(三島憲一訳『人間の将来とバイオエシックス』)。このことは生前診断の結果として中絶を選択するという問題に限らず、原因遺伝子を取り除くなどのゲノム編集(優生的医療)にも連なる問題なのである。ナチスドイツの、「健全な家族、健全な子ども」というスローガンのもとでの障害者の安楽死計画を思い起こさせないだろうか。その計画は、T4号計画と呼ばれ、1939年の「治癒に見込みのない患者には安楽死を施すことを許可する」という、ヒトラーの署名入り文書の下で極秘下に始められ、7万人の障害者がハーダマール精神病院をはじめとする施設内のガス室で殺害された。イギリスの社会学者N・ローズは、「生命倫理学が、手順を整え、細かく規制化し、倫理的透明性を高めることによって、批判から研究者を守るのに奉仕している」とし、生命倫理学は研究者・製薬会社と哲学者との間の「不健全から生じた」と批判している。生命倫理専門調査会は、単に技術と社会の調整のみに徹してはならない、倫理面においてもリードしていく使命があるのではないか。(富山大学名誉教授) 【文化】聖教新聞2017.4.6
May 11, 2017
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戦国時代に女性ながら一族存亡の危機に立ち上がった井伊次郎法師直虎ゆかりの地(浜松市北区引佐町井伊谷)を先日訪ねた。井伊氏歴代の墓所には、直虎の墓と、彼女の願いを成就させて井伊氏を再興した井伊直政の墓が並び、感慨深かった。 大河ドラマ「女城主 直虎」の時代考証を担当する小和田哲男氏の著書『井伊直虎』(洋泉社)によると、直虎は井伊氏の男性が次々と亡くなる中、家督を継ぎ、井伊氏の存続を託す虎松(直政の幼名)が無事に成長できるよう尽力したという。 虎松は直虎の父、井伊氏当主の直盛の養子となった直親の長男として誕生。しかし、幼くして直親が謀殺され不運な境遇に育つ中、15歳の時、徳川家康に謁見し、家臣に取り立てられた。その後、直政を名乗り、関ケ原の戦いなどで功績を挙げ、徳川の重臣に昇り詰めていった。 直政の転機は家康との謁見にあったことは言うまでもない。小和田氏は同書で、この謁見に際し、直虎が小袖を用意するなどのお膳立てをしたと考察し「直虎のこうした努力がなければ、虎松も世に出る機会をつかむことはできなかったはずである」と指摘している。 一つの出会いから生まれるドラマは計り知れない。 【北斗七星】公明新聞2017.4.6
May 10, 2017
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レイ・クロック (1902~1984)マクドナルド創業者 レイ・クロックは、一九〇二年にイリノイ州オークパークで生まれた。ピアニスト、セールスマンなどさまざまな職を転々とした後、五種類のミルクセーキを同時に作ることができるミキサーの独占販売権を取得して、全米を売り歩き始めた。このミキサーの販売は比較的順調で、彼は十七年間もこの仕事をやり続けたのである。 一九五四年、クロックはマクドナルド兄弟が経営するハンバーガーショップを訪れた。そして、効率的な販売方法に惹かれ、フランチャイズ店を出す許可をもらった。翌年には、イリノイ州デスプレーンズに第一号店を出店したのである。 売上は思った以上に順調で、フランチャイズ店は次々に増えていった。一九六一年にはマクドナルド兄弟から商権を二七〇万ドルで買い取り、一九六五年に株式を公開。それから二十年で、全世界に八〇〇〇以上の店舗を開いたのだった。 「棚からぼた餅」という言葉がある。思いがけない幸運が巡ってくるというたとえだが、こんなことは滅多にあるものではない。いや、ないと断言してもいいだろう。 何かを得たいのなら、自分自身で動かなければならないのは当然である。たとえば、難関の資格を取得したいと思ったら、参考書と問題集を買い、試験に向けて勉強するだけでなく、合格者の話を聞いて回るような努力をしなければならない。 それとは逆に「努力したところで不可能だから、やらないんだ」と最初から諦める人も多い。しかし、政治思想家のマキャベリは次のように語っている。 「運命は女神である。彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突き飛ばされる。ところが、運命は、冷静な対応をする人よりもこんな人の言いなりになりやすいものだ」 不可能と思っても、がむしゃらに努力していれば、女神(運命)はきっと微笑んでくれる。この言葉を残したレイ・クロックも、汗をかきながら全米を長年にわたって歩いたからこそ、マクドナルド兄弟に運命的に出会うことができた。たとえ無意味と思えるような努力であっても、その先に思いがけない幸運が待っているかもしれない。 【心を強くする名指導者の言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
May 9, 2017
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市販のトマトの糖度は4~5度程度。だが、農業研究家の永田照喜治氏が栽培したトマトの糖度は、この2~3倍にもなる。ブドウ並みの19度になったことも。 秘密は「スパルタ農法」にある。水と肥料を極力少なくし、トマトを“甘やかさない”。ぎりぎりの環境に置かれたトマトは、養分や水分を何とかして吸収しようと、茎や葉などあらゆるところに産毛をびっしりと生やす。その結果、吸収の効率が上がり、果実においしさが凝縮する。 過剰な栄養が与えられると、値は十分に働かなくなるという。満たされ過ぎるとうまく育たないのは植物も人間も同じかもしれない。 作家の吉川栄治氏が、ある裕福な青年に語ったことがある。「君は不幸だ。早くから美しいものを見過ぎ、美味しいものを食べ過ぎていると云う事はこんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れて行くと云う事は青年として気の毒な事だ」(『吉川英治とわたし』講談社)。池田先生は、この言葉を紹介しつつ、“恵まれすぎは不幸”“青春時代の労苦こそ宝”と、若き友に語った。 時に思い通りにならないことがあっても、腐ってはならない。努力に努力を重ねる。その中で、何ものにも動じない人格ができる。苦労の時こそ、成長と飛躍の好機である。 【名字の言】聖教新聞2017.4.5
May 8, 2017
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トヨタ自動車の草創期をモデルにしたドラマが放映された。特に販売店や部品メーカーといった、陰の人々に光が当てられていた。 同社の市販車第1号は、よく故障した。苦情も殺到し、販売は困難を極めた。だが販売店の支配人は負けていない。「我々が自信をもってユーザーに差し上げることができるものは、ただ誠意・誠実・まごころ、それだけだ。我々は全力をあげて、それを実践する」(若松義人著『トヨタのリーダー 現場を動かしたその言葉』PHP研究所) 営業マン自ら、整備・点検に汗を流した。整備士と共に故障車のもとへ、昼夜を問わず駆け付けた。もっといい車を作ってくれれば、苦労しないのに————こう思って当然であろう。だが彼らは人をあてにしたり、人のせいにしなかった。“国産車を育てるのは自分だ”という決意と確信は、技術者にも劣らなかった。 新しい時代を切り開くときは、自分の強い信念が大切だ。そのために、できることは何でもやる。そんな気概で壁を破りたい。 【名字の言】聖教新聞2017.4.4
May 7, 2017
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昭和女子大学総長 坂東 眞理子 女性が仕事を続けていく上でロールモデルとメンターが重要だといわれます。 ロールモデルというのは働き方や生き方の「お手本」になる先輩。メンターというのは「後見人」ともいうべき存在で、アドバイスをしたり守ってくれる年長者です。 男性の場合は、将来自分が係長になれば、あのように振る舞えばいいのか、課長や部長はどのような働き方をしているか、「お手本」はたくさんいます。ところが女性の場合は、勤続している女性が少ないばかりではなく、ぜひお手本にしたいというほとんど身近にいません。 メンターも同様です。直属の上司とは異なる視点から指導してくれ、時にはポストを引き上げてくれるメンターをもつ男性は成功するといわれますが、女性はそういう貢献者になかなか巡り会えません。そのため働く女性にはキャリアで成功するために重要だからぜひ、よきメンターやよきロールモデルを探すようにといわれます。 しかし私は、これからリーダーをめざす女性には特定のロールモデルやメンターがいなくても当然ではないかと思います。日本の職場は過渡期で刻々と様変わりをしています。先輩が生きた職場、社会と今、これからの女性が生きる職場、社会とは異なり、直接参考にはなりません。私自身、若い時に女性の先輩を見ても「自分とは時代が違う、環境が違う、能力が違う」という思いを持ちました。 メンターも、成功している男性は若い女性のメンターになるのはスキャンダルの可能性があるので二の足を踏むでしょうし、女性で力のある人は少ないのでなかなか見つかりません。 女性は「特定のロールモデルやメンターがいなくてもいいのだ」と考えた方が現実的と思います。たくさんの先輩からいいところを学び、いろんな分野で尊敬するメンターをもって成長していく、女性は特定のメンターやロールモデルを探し回らなくてもいいと覚悟してはどうでしょうか。 【新時代の女性リーダーへ6】2017.4.4
May 6, 2017
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――冒頭で語られた、困難な環境に直面する若者が希望を持って生きられるために、哲学・宗教はいかなる役割を果たし得るか。 「先進国における社会的孤立の状況」という国際比較調査があります。家族以外の人と、どれくらいつながりや交流があるかという視点で「社会的孤立土」を調べたところ、日本人は先進国の中で最も孤立度が高いという結果が出ています。日本社会は、家族や集団の「ウチ」と「ソト」を分け、「ウチ」の中で閉じてしまう傾向が強いのです。人を孤立させないためには、家族や社会などの所属集団以外の人たちとのつながりが大切です。そういった意味では、創価学会のようなコミュニティーや人と人とのつながりを大切にする宗教団体の果たす役割は大きいのではないかと思います。私も「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティー構想」といって、全国にコンビニ数以上にある神社や寺院を拠点に、地域の人々の交流場所を提供し、自然エネルギーの開発による街おこしなど、地域経済と人のつながりを活性化させるプロジェクトを支援して参ります。最近の若者は、人と人とのつながりを求めて地方に移住する人も増えている。又、広い意味での宗教や、精神的なよりどころといったものへの関心は高まっています。今求められる地球倫理を広げる意味でも、地域コミュニティーにおいて宗教が果たす役割はされに大きくなると考えられます。 ひろい・よしのり 1961年、岡山県生まれ。厚生省(当時)勤務を経て、千葉大学法経学部教授等を務めてきた。専門は、社会保障や環境、医療・福祉、都市・地域に関する政策的研究から、ケア、生死観などをめぐる哲学的考察まで幅広い。2016年から、京都大学ここの未来研究センター教授として研究・活動にあたっている。著書に『コミュニティを問いなおす』(大佛次郎論壇賞受賞)、『人口減少社会という希望』、『ポスト資本主義』など多数ある。 【グローバルウォッチ世界を見つめて「若者と希望」】聖教新聞2017.2.25(おわり)
May 5, 2017
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――こういった人類史的な視点から見た時に、広井教授は、現在の「第3の定常期」への意向に期に求められるものとして「地球倫理」というキーワードを提示している。 地球倫理という視点には、提起したい二つのポイントがあります。一つは、現代社会は、これまでの人間の精神を支えてきた普遍宗教が互いにぶつかり合う時代になっていることです。そもそもなぜ普遍的でありながら中身が異なる宗教・思想が複数生まれてきたかといえば、私は「風土・環境」が大きいと思う。異なる環境に異なる神がいるのは当然といえる。ならば、それぞれの普遍宗教の違いを認めたうえで、一歩、地球レベルの視点から、なぜ書く宗教が違うのか、どうしたら対話が可能になるのかをはせる地球倫理は必要になると考えます。もう一つは、普遍宗教はこれまで、宗教の原始的な形態といえる自然信仰に対して、迷信につながるという観点から、概して否定的に捉えるような傾向があったように思います。しかし一方で、自然に内発的な力があるという発想は合理的で、根拠があると考えられます。有限な地球環境とどう向き合っていくべきかという視点からいっても、世界各地の根底にある多様な自然信仰の勝を、再発見していくという側面も、これからの地球倫理は併せ持つべきだと考えています。私たちが生きる近代社会は、独立した「個人」が前面に立ち、普遍宗教や自然信仰の精神的価値が後退した時代ともいえます。しかし「第3の定常期」に進む私たちは、一方で、地球レベルのグローバルな視点で個人的な価値を超越しながら、もう一方で、個人が生活するローカルなコミュニティーの中で、地域環境や経済と共存し、融合していく。そういった二つの方向性が対立するのではなく、バランスをとりながら調和していくのが、私がイメージする地球倫理のあり方です。 【グローバルウォッチ世界を見つめて「若者と希望」】聖教新聞2017.2.25(つづく)
May 4, 2017
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――広井教授の定常化のサイクルのイメージに照らせば、私たちは今、人類史の中の「第3の定常期」への移行期にいるとされる。そしてそれぞれの移行期には、思想や宗教など、人間の内面世界においても飛躍的な成長があったという説を展開している。 私がまず重要だと考えているのは、今から2500年ほど前(ドイツの哲学者ヤスパースが枢軸時代と呼び、日本の伊東俊太郎氏が精神革命と呼んだ時代)。つまり紀元前5世紀前後に、世界各地で同時多発的に、今につながるような普遍宗教・思想が誕生していったことです。即ちインドでは釈迦の仏教、中国では孔子の儒教や老荘思想、ギリシャではソクラテス、プラトンやアリストテレスの思想、中東ではキリスト教やイスラム教の原型である旧約思想が生まれました。この時期は「第2定常期』への移行期と考えられ、1万年ぐらい前に、メソポタミアなど世界各地で始まった農耕社会が拡大し、劇的に人口と食料生産が増えていった時代でした。それが紀元5世紀前後には、中国やインド、ギリシャなど各地で、農業のための伐採による森林枯渇や土壌浸食が、深刻な環境問題となっていたともいわれる。物質的に拡大し続ける方向では、資源的にも環境的にも限界に達し、共同体間の争いまでも生まれてしまう状況があった。そこで、物質的なものを超えた普遍的な価値観、人間の精神的な充足や文化的な豊かさを見つめるものとして、普遍宗教が生まれたのではないかと考えられます。それと、もう一段遡ると、約20年前にホモ・サピエンスが生まれて、狩猟・最終時代が始まり、およそ5万年前の「第1の定常期」への移行期に、「心のビッグバン」と呼ばれる時代があったと考えられている。つまり、この時期に世界各地で芸術作品などが生まれた。縄文土器などでも、実用性というより芸術性に価値がおかれ、それに喜びを感じるようなことが起きたのではないか。この「心のビッグバン」では、自然信仰を軸とした宗教の原始的な形態が人間の精神と大きくかかわっていると考えられます。【グローバルウォッチ世界を見つめて「若者と希望」】聖教新聞2017.2.25(つづく)
May 3, 2017
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――日本が人口減少社会に移行したことをマイナスに捉える論調が主流である中、2013年、広井教授が出版した本のタイトルは『人口減少社会という希望』だった。人口減少がなぜ希望に結び付くのだろうか。 江戸時代の後半期、日本の人口は3000万人ぐらいでほぼ安定していました。しかし、幕末の「黒船ショック」で欧米列強の科学技術力に圧倒され、明治以降は、富国強兵の下近代化・工業化の急な坂道を駆けあがってきた。戦後の日本はひたすら経済成長を追求し、世界有数の国内総生産(GDP)を誇る、人口1億2000万町の経済大国に成長した。つまり簡単にいうと、これまでに日本は「経済の拡大・成長」で豊かさを実現し、増えた税収ですべての問題を解決できるという発想だったといえます。しかし近年、これだけのモノがあふれる一方で、消費需要も増えないという時代に会って、経済成長といっても限界があることはだれの目にも明らかでしょう。また、行き過ぎた拡大・成長路線の中で、私たちは過労死までいきついてしまうほどの無理を至る所で重ね、多くの物を失って来たのではないか。これまで歩んで北道を見直し、物質的な豊かさや幸福だけでなく、内面的な豊かさや本当の意味での幸福を実現していくという発想と、転換しつつあるのではと感じます。いわば「経済の拡大・成長」と「人口増加」を前提とした社会から、「熟成した豊かさや幸福」と「人口の定常化」をベースにした社会への移行期に私たちは立っていると考えられます。長い目で見ると、今は少しずつ人口が減少しながら、定常型社会へと移行している時代だという視点から見れば、「人口減少社会」は必ずしも悲観する必要はなく、むしろ希望さえ持てるのではないでしょうか。重要なのは、これまでの「経済の拡大・成長』一辺倒の古い発想に縛られた制度の問題点などを明確にして、今求められる「持続可能な福祉社会」を実現しようとする人々が、さらに増えるように支援していくことだと思います。【グローバルウォッチ世界を見つめて「若者と希望」】聖教新聞2017.2.25(つづく)
May 2, 2017
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京都大学 こころの未来研究 広井 良典 教授 現代社会の課題と向き合う「グローバルウォッチ」。若者が希望を持てる社会を構築していくために、今、哲学、宗教に求められているものは何か。京都大学こころの未来研究センターの広井良典教授に話を聞いた。(聞き手=村上進) ――日本社会における少子高齢化のスピードは世界的に、最も早いレベルとされる。さらに、2011年から本格的に人口減少社会に入った日本は、人類が経験したことのないような課題に、次々と直面していく「課題先進国」ともいえる。前例がない、先行きが見えない不安のなかで、日本の若者が他国と比べても未来に希望を持ちづらい傾向にあるのは、ある意味、当然かもしれない。しかし逆にいえば、多くの若者が未来に希望を持って進めるように日本社会が変わっていくならば、そこで生みだされた先進的な理念や実践は、世界に役立つモデルケースにもなろう。「人口減少社会」を鋭く洞察してきた広井教授は、日本の若者の現状をどうみているだろうか。 端的に言って、現在の日本の若者は大変に厳しい状況におかれていると思います。まず全世代のなかで、10代後半から30代前半の失業率が最も高く、中高年層よりも働けていない状況です。さらに、就職しても非正規雇用が多くなって、正規雇用的格差は広がっている。一方で、正規雇用であっても“ブラック企業”が多く、深刻な過労死事件なども後を絶たない。また「300万円の壁」といわれますが、男性は年収が300万円より上か下かによって、結婚率が変わる傾向にある。若者の貧困がさらなる少子化を生みだしているともいえる。一方で、日本は世界トップの1000兆円を超える国の借金を抱えている。しかも、膨大な社会保障費用の内訳は、年金・医療・介護などの高齢者向けの予算が多く、若者や子育て世代に向けた、いわば「人生前半の社会保障」に費やす割合はわずか。世界でも最低レベルです。そんな中で、今の大学生や若い人たちは、よく悲観的にならずに頑張っているなと思う。又、未来志向の若者の新しい挑戦が、次々と起き始めていることには、大きな希望を感じます。【グローバルウォッチ世界を見つめて「若者と希望」】聖教新聞2017.2.25(つづく)
May 1, 2017
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