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医師 作家 鎌田 實 生きる上で、「不安」は尽きない。それを取り払うのは、「言葉の力」だと強調する医師がいる。諏訪中央病院名誉院長で、コメンテーターとしてメディアなどでも活躍する鎌田實さん。長年、医療に携わりながら、その経験から紡ぎ出した「頑張らない」「1%の力」などのキーワードを本に著わし、数々のベストセラーを生んできた。今回のキーワード「夕行」に込めた思いと共に「医療と言葉」「若者とコミュニケーション」といったテーマを中心に話を聞いた。 ――医療の現場で実感してきたのは、治療における言葉の持つ力だった。 内科と外科を立て分ける時に、「外科はメスで治療する」「内科は薬で治療する」と言われることがあります。私自信は内科が専門なのですが、内科、外科に関われず、最終的には“医師の言葉”が治療に大きな影響を与えます。例えば、難しい手術があったとします。手術がうまい外科医が担当しても、「成功率は40%ですね」と冷静に声を掛けられると、つらいですよね(笑い)。それが「難しい手術ですが、全力を尽くします」と言われれば、医師を信じたいと思うはずです。実際に、患者が病の回復を信じられると、治療経過がよくなる場合が多いようです。 ――在宅医療の往診を行った時のこと。中年男性の患者は手足を動かせず、目の動きでしか意思を伝えることができなかった。脳幹部梗塞による「閉じ込め症候群」の病態だった。 「閉じ込め症候群』はとても残酷な病気です。思考は正常なのですが、脳幹部に疾患があるため、手足も口も動かせず、話すことも食べることもできません。パソコンの補助具や、目のわずかな動きで意思疎通を図ることになります。ふびんに思いながら居室の壁を見ると、俳句が書かれた多くの手紙が貼られているのに気付きました。病に直面しながら、患者さんが詠んだものでした。「ああ あきた 寝たきりにあきた どうしよう」「パイン 味噌汁 アンパンせんべい 甘酒 レーズン」二つ目の句は、自分が食べたいものを並べたのでしょう。切ない気持になりましたが、同時に、この患者さんは、“心は自由”だと感じました。言葉というのは本当に不思議です。それぞれの人生経験を経て、一つの言葉が発行したり熟成したりしていきます。その言葉には、深みがあります。良い言葉は人生を変えてくれるものです。一生懸命生きることで、逆に、よい言葉が生まれます。言葉と人生って、“行ったり来たり”なんですよね。 ――「人間は負けるようにはつくられていない」「力のある言葉をもったとき、人生の大逆転が起きる」。近著では、支えになった言葉や、自分なりに紡いだ124の言葉がちりばめられ、「遊行」という危機ならない言葉がキーワードになっている。 遊行といってもよく分からないですよね(笑い)。辞書では「歩き回ること」等と記されていますが、もともとは、「四住期」という古代インドの考え方から来た言葉です。人生を四つの期間に分け、その最終段階が、「遊行期」と名付けられました。人生のしめくくりに向かっていく“死への準備期間”のことです。そこに「遊行」という言葉を使っているのが、とても面白いと感じたのです。さまざまな解釈ができると思いますが、私はその言葉を、“遊び心をもって、外に向かっていくこと”と捉えています。60歳を超え、これから自分に何ができるかということを模索してきました。日本も著しい高齢化が進み、ともすれば静的で内向的な社会になっていく危険性があります。 ――鎌田さんは、世界の“内向化”に危機感を抱いている。 イギリスがEU離脱を決め、アメリカにトランプ大統領が誕生したことで、“自分の国さえ良ければいい”という内向きの傾向が強まっています。ここで、日本も内向きの風潮になっていくと、大変なことになってしまうでしょう。今、大切なのは、若者も高齢者も、積極的に自分の外側に目を向けていくことです。それも、“外に目を向けるべき”という堅苦しい感じではなく、遊び心をもって、軽やかに外に飛び出していくことでしょう。遊行という言葉を意識することで、私自身も、人生を振り返るより、今まで培ってきた力で何かのお役に立てれば、と考えるようになりました。それで昨年、早速、地域包括ケアに関する研究所を立ち上げました。そのために、全国を飛び回っています。長年続けてきた支援活動で海外にも赴き、多忙であることが本当にありがたいと感心しています。 ――ゲームやスマートフォンが普及する時代、若者のコミュニケーションについてはどう考えるか。 ゲームや、“スマホ”が悪いとは思いません。ただ、それに没頭して内に閉じこもるのではなく、最先端の技術に親しむその力を、外に向かって使ってもらいたいですね。頑張れば、ビジネスにしていくこともできます。社会のために使っていくこともできるのです。コミュニケーションという部分では、最近、自分の考えを押し通そうとしたり、用件だけを伝えようとする“一方的なコミュニケーション”が多いように感じます。人を動かすのも、コミュニケーションですが、その前提として、“自分自身も変わる姿勢”があってこそ、人は変わっていくものです。苦手な人とコミュニケーションをとるのは大変ですが、それによって自分も触発を受け、成長できます。双方向のコミュニケーションを通して、“自分が変わっていく過程”を楽しんでいければいいですよね。 【スタートライン】聖教新聞2017.2.25
April 30, 2017
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神奈川近代文学館学芸員 長谷川 櫂 若くして結核にかかり、しばしば喀血した。日常的に微熱が続き、残酷な言い方だが、永遠に恋をしているような状態に陥る。効果的な治療法がまだなく安静にして退職するしか打つ手がなかった。最晩年には結核菌が骨まで入り、肉体を芯から腐らせた。体にいくつもの巨大な穴があき、大量の膿が流れ出る。毎日、包帯を取り替えるたびに、こびりついた血と膿が激痛を走らせ、うめき声を上げずにはいられない。正岡子規(一八六七~一九〇二)は三十五年の苦痛の生涯を送った。有名な横顔の写真が残っているが、体が歪んで正面を向けないのだった。それも弟子に支えられて、どうにか姿勢を保っていた。想像を絶する苦しみの中でも快活な精神を失わず、俳句と短歌の革新、日本語の文章の改革という大仕事をなしとげた。子規の情熱の源はどこにあったのだろうか。生誕百五十年の今年、神奈川近代文学館の「正岡子規展——病牀(びょうしょう)六尺(ろくしゃく)の宇宙」を企画するにあたって、三つの新しい視点を立てた。まず子規の生きた明治が熱烈な国家主義の時代であったことである。個人主義の戦後を生きる現代人はしばしばこれを忘れている。江戸が明治に変わった十九世紀は、欧米列強が植民地を奪いあう帝国主義の時代だった。日本ではこの東洋の小さな島国を守るために天皇から庶民まで国の役に立つ「有為の人」になることを求められ、なろうとした。子規も例外ではない。少年時代は政治家を志したが、賊軍松山藩の子弟であり、病身であるため叶わない。そこでその情熱を文学へ向けた。これが子規の真実である。俳句、短歌、文章に西洋絵画のゼッサン「写生」という方法を持ちこむが、それは明治政府の西洋化策とみごとに一致していた。また平安時代の『古今集』をけなし、奈良時代の『万葉集』をほめたたえるのだが、これは新政府が藤原氏の牛耳った平安朝を否定し、天皇親政の奈良朝を手本にした基本方針を文学に応用したものだった。子規の活動は文学で新国家建設に役立ちたいという情熱の発露だったのであり、文学における政治活動だった。明治は政治と文学が蜜月を送った時代だったのである。次に日本の近代は明治にはじまったと思われているが、これは誤りである。大衆化こそ近代の最大の特徴であり、これに照らせば日本の近代も欧米と同じころ、江戸時代後半、十一代将軍家斉の大御所時代(一七八七~一八四一)に始まっていた。明治維新は遅れてきた政治の近代化にすぎない。この「江戸時代近代」を代表する俳人が一茶である。子規は一茶から現代へとつづく近代大衆俳句の中継者だった。そして子規が唱えた「写生」も眼前のものを描けば誰でも俳句ができるという大衆は俳句の方法だった。第三に、子規は男の友人や弟子たちに取り巻かれている印象が強いが、子規を根底で支えていたのは女たちだった。子規は満四歳で父を失って以来、母八重と妹の律、母の実家の大原家に守られていた。母と妹はみずからを犠牲にして子規に尽くした。この二人の女の外側を弟子や支援者や読者が取り囲んでいた。そして身内の女たちに無条件に愛されてるという自信が、子規の楽天的な性格をはぐくみ、生涯、人間子規の魅力を発散させて行くことになる。生誕から百五十年の歳月は、あまりに近すぎて見えなかった子規の実像を洗い出すのに十分な時間である。(はせがわ・かい) 【文化】公明新聞2017.4.2
April 29, 2017
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三重総県農漁光部長 田村甚二郎 スーパーマーケットに並ぶ野菜。最近は、産地に加えて生産者の名前や写真が表示されているものが増えています。見た目が同じような商品であったとしても、生産者の“顔”が見えることで、消費者は一段と安心を得られるのでしょう。私は、創価学会の農漁光部のメンバーとして、40年余、多くの農家や、農村行政に携わる人と交流してきました。とりわけ力を入れてきたのが、生産者と消費者の相互交流・相互啓発です。こうした取り組みは、職業や立場の違いを超えて、多様な人材からなる学会ならではのものであり、これまでの「農漁村ルネサンス・フォーラム」などを通して、地域の農業関係者からも注目されています。 仏法で説く食物の徳性私たちの生命を支えている食物。仏法では、食物の徳性について、五つ挙げています。第一に、生命を維持し、寿命を保つ。第二に、精神と身体の生命力を増大させる。第三に、身体の輝きや活力ある姿を生む。第四に、憂いや悩みを鎮める。第五に、飢えを癒し、衰弱を除く、というものです。文字通り、人類の歴史とともに歩んできた食物ですが、時代の変遷とともに、人々が植物の求めるものに変わってきています。とりわけ、近年、人々が食物に求めるのは、「安心・安全」でしょう。消費者の意識の変化に歩調を合わせるように、生産者の意識も変わってきており、安心・安全な食材をいかに提供していくかに努力を惜しまないようになりました。「食の安心・安全」を実現しようとする時に、欠かせないのが、生産者と消費者の信頼関係です。しかし、もとより、生産者と消費者、それぞれのよって立つ前提は異なります。例えば、これまでも農畜産物の日本への輸入に際して、高い国産品と安い外国産品が著しい価格差であったことから、消費者の間に“高い国産品を買わされてきた”という非難の声が上がったことがあります。消費者は安い商品を求めます。しかし、安い輸入品が入ってくれば、価格競争力の劣る、国内の農家は窮地に立たされます。このように、消費者にとって有利なことでも、生産者にとって不利となることが、往々にしてあります。そうした意味で、お互いが相手の置かれた“立場”を知ることが大切です。消費者は、生産の現場における工夫や労苦を知るだけでなく、常に変動する農産物の価格や鳥獣害を含む自然災害のリスクにも関心を持ってほしいと思います。生産者も、消費者の関心や要望に耳を傾け、時代のニーズに合ったものを提供する努力をすることは、経営上のプラスになります。そうした意味から、生産者と消費者が向き合う交流の場が求められるのです。 農業に取り組むメンバーと共に私は、大学で農業を学び、学問を現場で生かそうと、郷里の三重県の経済農業協同組合連合会(当時)に就職。その後、中央会に移りました。世界的な食糧問題が課題となり始めていましたが、そのさなかに創価学会の三重県漁村部(現・農漁光部)が結成され、私はその中心者に。仕事でも、創価学会の活動においても、多くの農家と関わってきました。その後、農村部では、1993年(平成5年)の全国的な凶作に際し、農漁業を営む全ての人々に勇気と希望を送ろうと、“体験談大会”を各地で開催。三重県農村部も、県内各地で行ってきました。その後、農村部では、1993年(平成5年)の全国的な凶作に際し、農漁業を営む全ての人々に勇気と希望を送ろうと、“体験談大会”を各地で開催。三重県農漁村部も、県内各地で行ってきました。さらに2010年から、三重県農村部として新たな試みとなる「農漁村ルネサンス・フォーラム」をスタート。これまでに5回、開催し、定着しています。参加者は、農漁業者のアシスタント。農漁業者のアシスタントというのは、農業改良普及員、また農協の営農指導員、行政の農漁業関係職員、さらに農漁業関係団体の人々などです。このほか、加工・流通業者も参加しています。フォーラムの成功の鍵は、何といってもテーマの設定です。日頃から、農漁光部メンバーと語り合う中で、社会の動向と生産者の具体的な関心をつかみ取ります。ちなみに前回のテーマは、「高まる自然災害へ、農と食の対応!」でした。フォーラムでは、まず農業の体験主張に始まり、次に私がテーマに沿った基調報告を。そして、生産者の代表から課題克服への取り組みを報告していただき、消費者からもコメントしてもらいます。フォーラムに参加して触発を受け、新たな作物の生産に取り組み始めた農家もいます。生産者と消費者が、互いの顔の見える交流をすることで、生産者の労働意欲が刺激された結果です。参加者からも、“皆が生き生きと農業に取り組んでいて、表情もとても明るい”といった声が寄せられています。 門下からの白米を“あなたの命”と池田先生は、「農業こそ、『自然』と共生し、『文化』を培う根本の大道」であると述べられ、さらに広く文化について「文化の真髄は『生命を大事に育てる心』である。だから、生命を守り、一生懸命、育てている人が文化人である」と呼びかけられています。農漁業に従事する人々にとって、何よりも励みになる言葉です。鎌倉時代当時、門下から届けられた白米の供養に対し、日蓮大聖人は、こう仰せになっています。「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」(御書1597頁)——あなたの心が込められた、この白米は白米ではありません。あなたの一番大切な命そのものであると受け止めております、と。人々を支える食物を生産し、人々の命を支えていく尊い使命が、農漁業従事者にはあります。農漁業従事者も、食の消費者として、自らを生かしてくれる尊い食物への感謝の心を忘れることはありません。農漁業従事者は、“あらゆる生命を尊んで感謝できる社会”を作り上げていく担い手でもあるのです。“地域社会を照らす灯台に”——これが農漁光部の使命の一つです。農漁光部として、ますます郷土の繁栄に貢献したいと願っています。 【プロフィル】たむら・じんじろう 三重県農業協同組合中央職員、また農協常勤幹事を務めた。この間、農協監査士、中小企業診断士、農業改良普及員の資格を取得し、県内の農業・農協の発展に携わってきた。72歳。1963年(昭和38年)入会。南勢創価圏副圏長。 【紙上セミナー「生活に生きる仏教」】聖教新聞2017.4.1
April 28, 2017
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探検家、医師、武蔵野美術大学教授 関野 吉晴 魚屋やスーパーマーケットに行くと、輸入養殖の鮭が切り身になって売られている。チリ産が多い。実はチリ産の鮭の8割はパタゴニアの入り口のチロエ島で養殖されている。実にその8割が日本に輸出されている。 チロエ島に行き、ウィジチェの部族長のカルロス・リンコマン氏の家を訪れ、しばらく泊めていただいたことがある。 リンコマン氏の家前からは海が見渡せる。入り江になっているので対岸も見え、針葉樹の森と牧草地が、パッチ状に広がっている。入り江には白いブイが線状につなぎ合わされ、幾列にも並べられている。リンコマン氏は海を見ながらつぶやくように言った。 「あれがイタリア人の養殖場。こっちがチリの企業のチョルガ貝の養殖場。ウィジチェ族のものは一つもないんだ」 リンコマン氏の家から400メートル南にエラソリスというチリの財閥が鮭、鱒の養殖場を設けた。養殖場の監視塔には、武器を持った男が、24時間態勢で警戒していて、養魚場に近寄ったものは容赦なく発砲してきた。ウィジチェ族がそれまで日常的に通っていた所を通っても発砲してきたので、リンコマン氏たちは養魚場に抗議に行った。養魚場側は、「発砲してもよいという政府の許可証を持っている」と言って取り合わない。リンコマン氏は首都サンチャゴに行き、漁業大臣に直訴した。大臣秘書は対処すると返事してくれたので帰ってきた。しかし今でも、養魚場に近づくこと発砲してくるという。海水温の上昇、富栄養化などで、ウィジチェで以前捕れていた魚が捕れなくなった。 私も鮭が大好きだが、その養殖鮭のためにウィジチェの友人たちが厳しい状況のあると思うと辛い。 【すなどけい】公明新聞2017.3.31
April 27, 2017
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以下は私事である。中学一年一学期の英語リーダーに、New Yorkという地名が出てきた。この地名にどんな意味がありますか、と先生に質問すると、反応が激烈だった。怒声とともに、「地名に意味があるか!」おそらく、意図的な事業妨害と思われたにちがいない。さらにその人は余憤を駆って、お前なんかは卒業まで保たんぞ、などといやなことまで言った。私は人に憎悪をもつようなしつこい性格ではないつもりだが、このときその教師の顔つきをいつまでもおぼえている。まったく不愉快な思い出である。この日、家へ帰る途中、小さな市立図書館に寄って、司書の人に必要な本を出してもらって読むと、簡単にわかった。そのあたりはそれまでオランダの植民地で自国の首都名をとってニューアムステルダムと呼ばれていたのだが、一六六四年、英軍に占領されてから、当時の英国国王の弟のヨーク公の名にちなみ、ニューヨークと改称されたという。図書館にゆけば簡単にわかることが、学校では教師とのあいだで感情問題になってしまう。私の学校ぎらいと図書館好きはこのことからはじまった。その後も、その教師から目のかたきにされた。以下のことも思いだしたくないことだが、私のほうも、英語を学ぶについてその教師を黙殺してしまった。決意の要ることだったが、英語は参考書で勉強することにした。参考書の中の単語とセンテンスは丸暗記した。その教師がつかっている教科書は見ないようにした。試験はその学期だけながら、白紙でだした。この“独学癖”のおかげで、受験のときは英語に関するかぎり苦労せずにすんだ。もう一つトクをしたことがある。私は『産経新聞』に、かつて『竜馬がゆく』『坂の上の雲』それに『菜の花の沖』を書いた。いずれも、海が出てくる。私は子供のころ、船酔いのひどいたちで、兵隊にとられるときも、もし海軍ならどうしようと思ったりした。どうせ死ぬ。死体が海に漂っているより陸で腐っていくほうがありがたかった。そんなわけで、海のことも船のこともなにも知らなかった。ものを考えるときは、基本的なことをおさえる必要がある。海についていうと、なぜ、波がおこるのか、波はむこうからやってくるのか、それとも現場で上下しているだけなのか。どうして風がおこるのか。偏西風や季節風はどんな原因でうまれるのか。なぜ潮流・海流というものがあるのか。沿岸流とは、どういうものか。 そういう場合、いきなりむずかしい本を読んでもわからない。その場合のコツは永年の“独学癖”で身につけた。少年・少女用の科学本をできるだけ多種類読むのである。子供むけの本は、たいていは当代一流の学者が書いている。それに、子供むけの本は文章が明快で、大人のための本をよむと、夜があけたように説明や描写が、ありありとわかってくる。また、専門家に質問する場合も、小学生でも顔を赤らめるような幼稚なことをたずねねばならない。たとえば、「なぜ海軍士官や、商船、航空機の高級乗員は、制服の袖に金筋を巻いているのです」と、先達に質問してまわったことがある。四苦八苦して調べてくれた恩人は、元海軍大佐正木生虎氏だった。「英国海軍の草分けのころ、甲板士官は細いロープを腕に巻いていました。それが象徴化されたというのです」じつをいうと、こんないわば無用の知識は、作品を書く上で、じかには必要ない。ただ海軍草創のころの情景が、潮風のにおいとともに体に入ってくる感じがして、自信ができるのである。そういう無用の知識を集積してゆくと、海事関係の本を読んでも、身うちのことのように親しみができる。あのとき、もし、「ニューヨークという地名のおこりはね」と、その先生が物わかりよく教えてくれたとしたら、この“独学癖”はつかなかったかもしれない。その点、反面の大恩はある。以上は、学生にも社会人にと通じる“独学”のすすめとして読んでもらいたい。ただし、“独学”は万能ではない。ひとりよがりの危険におちいることを常に感じておかねば、あぶない。『論語』にも似たようなことがのべられている。「学ンデ思ハザレバ則チ罔(くら)ク、思フテ学バザレバ則チ殆(あや)フシ」。この稿では、独学独思を勧めつつも、一方でいい先生につくに越したことはないと言添えておく。ただし、そういう幸運にめぐりあえればのことである。 【風塵抄】司馬遼太郎著/中央公論社
April 26, 2017
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作家 六草 いちかこれまでドイツ・ベルリンの歴史を軸にしたフィクションを書いてきました。今回はヒトラーの時代、第二次世界大戦下のベルリンが舞台です。『いのちの証言』の表題で出版しました。今回の調査・執筆は、3年前の晩秋にひょんなことから始まりました。その日、ベルリンにある日本国大使館で、杉浦千畝に関するドキュメンタリーフィルムの上映会が開かれたのです。杉原は任務地リトアニアで、ナチスの迫害から逃げて来たユダヤ人たちに大量の通過ビザを発給し、数千人もの命を救ったことで知られています。その上映会のあとに設けられたレセプションの席で参事官から一組のユダヤ人夫妻を紹介されました。「ご主人の伯母にあたる方が、第二次世界大戦時にベルリンにお住いで、当館に助けられて生き残ることができたそうなのです」そう語り、私の意見を求めた参事官にまず私が示した反応は、「ありえないでしょう」でした。日独が同盟関係にあった時代に、それはありえないでしょう。けれどもこの夫婦と会話するうち、二人の実直な人柄がよく伝わり、嘘を言っているようには思えません。これが事実なら、いつ、どのような経緯で大使館で働くことになったのだろう……自ら潜入したのか、それとも日本人外交官らが匿ったのか。興味も尽きなく湧き始め、本格的な調査に乗り出すことにしました。当時ドイツに滞在していた邦人らの日記や手記に目を通し、ドイツの役所の納められている資料を調査する中、凄惨な状況下にあるユダヤ人たちに秘かに救いの手を差し伸べる日本人が、杉原千畝以外にも多くいた事実も明らかになっていったのです。留学生の古賀守はユダヤ人をトラックの荷台に乗せ、亡命させました。指揮者の近衛秀麿は人道問題ととらえ、海外出国を援助。海軍中佐の藤村義朗、陸軍大尉妻の毛利誠子(のぶこ)らも命掛けでユダヤ人を救出しました。また当時のベルリンを奇跡的に生き延び、今もご存命のユダヤ人と出会うことがありました。かつてベルリンには16万人以上のユダヤ人が暮らしていましたが、終戦をこの町で迎えることができたのは僅か6000人です。それからさらに70年以上の年月が経過していますから、奇跡のような出来事ですが、一人に出会うとまた次の方を紹介され、8人もの方々に直接取材することができました。それは、迫害に遭うということが実際どのようなものなのか、具体的にどのような毎日であったかが浮き彫りになるような生々しい証言の数々でした。本書を世に出したいと願ったのは、ユダヤ人たちの体験を広く伝えたいという思いからでしたが、出版されると、意外に多くの邦人がユダヤ人を助けていた事実に感動した、励まされたとの声が多く寄せられました。実際そうですよね、ユダヤ人救済は発覚すると自身の身に危険が及びますから、命懸けの行為だったと思います。当時のベルリンの市井に目を向けた一冊ですが、本書を通して、命の尊さ、大切さが伝わればと願っております。(本文中の敬称は省略させていただきました) (ろくそう・いちか) 【文化】公明新聞2017.3.31
April 25, 2017
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作家・ジャーナリスト 佐々木 俊尚 インターネットでは最近「フェイク(偽)ニュース」という問題が議論されている。ありもしないデマが流れるのは、情報が精査されないネットでは昔からある現象だが、米大統領選挙に絡んで様々なフェイクニュースが溢れだしたことから、改めて表面化した。たとえば選挙中に、「ローマ法王がトランプ氏を支持した」「ヒラリー・クリントンが小児性愛犯罪者になっている」というようなデマが多く流れたのである。後者のデマでは、フェイクニュースが首都ワシントンDCのあるピザ店を売春の拠点となっていると名指ししたため、20代の男が店に銃を持って押し入って発砲、警察に逮捕される事件にまで発展したほどだった。フェイクニュースがトランプ当選を後押ししたのではないかという憶測もある。どの程度の影響力だったのかははっきりしないが、パブリックポリシーリングという世論調査企業がピサ店のデマについて調べたところ、トランプ支持者の46%は「クリントンが関与している」「わからない」と答え、「関与していない」と答えたのと比べれば、違いは明らかだった。またネットメディア「バスフィード」の分析では、大統領選終盤にSNSで拡散したフェイクニュースは、ニューヨークタイムズなどの権威のあるメディアよりも大きな影響力を発揮し、多く「いいね」され、友人間で共有もされていたという。このような事態に対処するため、検索エンジン大手のグーグルやSNSのフェイスブックは、フェイクニュースに広告を配信させないなどの排除対策を打ち出している。だがここで問題となるのは、フェイクの基準だ。何が偽で何が真実なのかというのは、党派や思想、価値観などさまざまな要因によって左右されてしまう。実際、トランプ大統領は就任後に米大手のケーブルテレビ局CNNを「フェイクニュースだ」と非難し、物議を醸している。日本でも、福島第一原発事故後の放射能汚染の評価をめぐっていまだに見解が分かれ続けている現状を思い起こせば、その難しさが理解できるだろう。フェイクニュースは決して米国だけの問題ではなく、また怪しげなサイトを避難していればすむ問題でもない。この問題は、メディア全体にも刃を突きつけているのだ。昔のように新聞やテレビの報道だけを信じていれば済むという状況ではなくなった以上、私たちは個人としてフェイクニュースに対処していく必要がある。第一に、自分がもともと信頼しているメディアや個人がそのニュースは冷静に書かれているか? ということを確認すること。もし読者の怒りを引き起こすためだけに書かれているのであれば、そのニュースには要注意だ。(ささき・としなお)【文化】公明新聞2017.2.17
April 24, 2017
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文芸評論家 持田 叙子 学校の先生とは、人をよく深く愛する仕事である。そして心込めて愛した人と何度も、別れるしごとでもある。ゆえに卒業の季節に校庭に咲く桜は、教師のとってとくべつに感慨深い花になる。民俗学者の折口信夫は、とても情熱的な教師だった。始めてつとめたのは故郷の大阪の中学校で、二十四歳のとき。国語と漢文を教え、クラスの担任にもなった。若い折口先生はすぐ生徒の人気者になった。この先生は体面にとらわれない。ウソのない裸で自分たちとつきあってくれる。生徒は敏感に悟った。折口信夫は生徒といっしょに散歩し、万葉集や与謝野鉄幹・晶子の歌を大声でうたい、おやつをおごった。本屋で本の選び方を伝授した。教科書を無視し、自由にたのしく教えた。とはいえ学者になる夢は捨てられなかった。担任したクラスをぶじに卒業させ三月、すぐに辞職し、花ふぶきの中を上京した。先生を慕い、十数人の生徒が東京へ追いかけてきた。折口は全員の世話を引き受けた。本郷の下宿を借り、生徒たちと共同生活をこころみた。かねてともに暮らし、日々の感激を分かち合うことこそ、理想の教育であると信じていたのだ。残念ながらこの愛の学校は、経済的な理由で程なく解散する。しかし折口信夫は生涯、そうした個性的な教育を貫いた。全身全霊で生徒を愛した。大学教授としての長い年月の中、何十回も彼は花ふぶきの下で、たいせつに育てた若者たちと別れた。彼らの幸せを祈り、手をふった。折口信夫は、釈迢空の筆名をもつ歌人である。とうぜん桜の花を詠む。しかし華やかな歌はない。さみしい哀しい歌が多い。彼にとって桜は、別れの花である。——卒業する人々に桜の花ちりぢりにしもわかれ行く遠きひとりと君もなりなむ 【言葉の遠近法】公明新聞2017.3.29
April 23, 2017
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スランプというのは、好調なときにその原因が作られている。だから、好調なときが一番心配です 元巨人軍監督 川上哲治 川上哲治は一九二〇年に熊本県大村(現在の人吉市)で生まれた。五歳のときに転倒して右腕に大怪我を負い、それがもとで左利きになったという。熊本県立工業学校(現在の熊本工業高等学校)時代は、投手として甲子園に二度出場。いずれも準優勝に終わった。 一九三八年の高校卒業と同時に、川上は東京巨人軍に入団。入団当時はピッチャーだったが、監督の藤本義定がバッターへの転向をすすめ、翌年から内野手として登録された。 太平洋戦争で一時プロ野球は中止されていたが、一九四六年に再開されると、川上は巨人軍へ復帰した。翌年から赤色に染めたバットを使い始め、「赤バットの川上」といわれるようになった。実は、赤バットが使われたのはこの年一年限りだったが、川上のことを「赤バット」と呼ぶ人はいまだに多いのだから、いかに印象が強かったかがわかる。もちろん残した成績も一流で、首位打者五回、本塁打王二回、最優秀選手三回、さらに八年連続で打率三割をマークするという強打者だった。全盛期には「ボールが止まって見える」と豪語したほどである。 一九六一年からは巨人軍の監督を務め、メジャーリーグからサインプレーなどの新しい野球技術を最初に取り入れ、就任一年目で巨人軍を日本一に導く。そして一九六五年から一九七三年にかけて、伝説のV9(九年連続リーグ優勝と日本一)を達成した。 こうした偉業を達成した川上が語っているのが、「好調なときが一番心配」なのである。好調なときというのは、どうしても油断が生まれるものだ。一〇〇%の全力で頑張っていても、仕事がうまく動き始めると、いつのまにか九〇%、八〇%と力を抑えるようになる。「まずい!」と思ったときは手遅れで、再び一〇〇%の力を出して好調を取り戻そうとしても、逆に体調や仕事のバランスを崩したりするのである。 おそらくV9を達成した名将川上にも、このような苦労があったのだろうが、「勝って兜の緒を締めよ」の教訓は忘れてはいけないのだ。 【心を強くする名指導者言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
April 22, 2017
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静岡大学農学部教授 稲垣 英洋 私は大学の農場で、植物や作物を育てています。いや、「育てています」というのは、ずいぶんとおこがましい言い方かもしれません。私がしていることと言えば、ただ水をやり、肥料をやっているだけです。植物は、日々、葉を広げ茎を伸ばしていきます。それは植物自身が「育っている」のです。植物は自ら成長する力を持っています。私にできることは、ただ植物が育ちやすいような環境を整えているだけなのです。そして不思議なことに、植物は成長すべき姿を知っています。小さな一粒の種子は、誰に支持されなくても、なにも教わらなくても、あるべき姿に育ち、あるべき花を咲かせるのです。「瓜の蔓に茄子はならぬ」という諺があります。昔は、ナスは高級で、ウリは下級な野菜でした。しかし、ウリをナスとして育てようとすれば無理が生じますが、ウリとして育てれば、立派なウリになります。いまでは売りの仲間のメロンは、ナスより高級なくらいです。そして、「育てる」ということは、「待つ」ことでもあります。早く育てと水をやりすぎれば、植物の根は息が詰まって枯れてしまいます。もっと育てと肥料をやりすぎれば、ひょろひょろと徒長してしまいます。私たちにできることは、植物の成長を待ち、成長の段階に合わせて必要な環境を整えてあげることだけなのです。昔の人は「作物は足音を聞いて育つ」と言いました。一番大切なことは、常に気にかけて見守り続けることだと昔の人は知っていたのです。私は大学で、学生たちも育てています。それにしても、育てるということは本当に難しいことです。 【すなどけい】公明新聞2017.2.17
April 21, 2017
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作家 童門 冬二 二百六十年続いた徳川幕府が解体され、明治新政府が樹立された導因は、「大政奉還」と「王政復古」だ。前者は坂本龍馬によって仕掛けられ、後者は高杉晋作の主唱によって実現した。幕末ギリギリの段階で、幕府解体論は二つに割れた。一つは倒幕、もう一つは討幕だ。倒幕は平和的手段(話しあい)で、後者は国内戦争(武力行使)で実現する。手段の展開の直前に高杉は死んでしまうので、志は松下村塾の同士や中岡慎太郎などの藩外同志に引きつがれる。坂本と高杉の思想差は、やはりふたりが影響を受けた師によって生じた。高杉の師は何といっても吉田松陰だ。松陰は松下村塾をひらく時に宣言した。「萩(長州藩の首都)の一角にある松下村塾から、まず長州藩を変革しよう。そして長州藩の変革によって日本国(この場合は幕府)を変革しよう」。高杉はこの宣言を忠実に守った。だから変革の主体はあくまでも長州藩である。かれは最後まで長州藩士として行動した。脱藩して浪人(自由人)になったことは一度もない。組織人として組織を尊重、その活用に力を注いだのである。かれの主唱は長州藩割拠(独立)、幕府とは抗戦、抗戦主力は奇兵隊などの農工商、即ち武士意外の戦闘力の発掘と動員であった。そしてその資金として藩内財産の振興と、藩外との交易だった。坂本は土佐(高知県)の商人郷士の家に生まれ、師は勝海舟や横井小楠だ。勝の師は佐久間象山であり、佐久間はいまでいう“グローカリズム”の主導者だ。グローカリズムというのは、「日本人はすべて地方の人、日本国民、国際人の三つの人格を持っている。現前の身近な問題を考えるのにもこの意識が要る」という発想法だ。そして勝や横井はアメリカのワシントン大統領を尊敬し、“愛民”を目的とする共和(民主)政治を理想としていた。坂本の大政奉還構想の根源もここにある。これがイヌとサルの関係にあった薩摩藩と長州藩の手を結ばせた(薩長連合)のも、根は“話しあい”による雄藩共同体をつくりたかったからだ。その政治理念は維新成立直後(慶応四年一月)に、明治天皇が天地神明に誓った「五か条の誓文」の、とくに第一条に示される(「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」)条文にははっきりあらわれている。この坂本の自由人(浪人)の市民的発想に対し、組織人である高杉はどうしても長州人の自覚を重んずる。疾患(肺結核)に苦しんだせいもあったろうが、志の実現を焦った。それも長州藩主導を考えた節もある。しかし師松陰からうけついだ草莽(草の群れ)の潜在活力の発掘は、きびしい身分制の破壌にもつながった。維新実現の真の底力はやはり名もない草の群れの活躍によるものだ。その道や小路をひらいたのは、高杉や坂本だといってもまちがいはなかろう。筆者個人としては、前に書いた「五か条の誓文」の第一条を、明治新政府の要人たちが身に沁みて守り、それを新しい日本の指標として心がけたら、明治政治ももっとちがったものになったと思う。横井小楠という「有道の国」になっていたという気がする。有道の国とは内に対しては“愛民”の思想による仁と徳の政治をおこない、外に対しては信義を重んずることだ。小楠は「有道の国はいまの世界には一国もない。しかし日本だけが唯一なれる」と告げた。高杉も坂本も幕府を潰してそういう新政府を心の中でめざしていた。(どうもん・ふゆじ) 【文化】公明新聞2017.3.25
April 20, 2017
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参考文献 「信仰と愛国の構造」島薗進 中島岳志著・阪神淡路大震災の折、被災地の瓦礫の下に埋もれたものを一生懸命に堀り探しながら泣き叫ぶ高齢の婦人に尋ねた。「何を探しているのか?」「位牌や。大事なものや」と。そこで著者の中島岳志氏(東京工業大学教授。1975年生まれ)は、高齢の方にとって位牌とはどのようなものか、日本人の信仰観とは何かを非常に興味を持つにいたった、と述べている。 宗教が国家主義に変遷していく中で、国家神道はもとより親鸞主義、日蓮主義等が台頭し、天皇を中心とする国家主義・全体主義が形成されていく。現在においても、戦前の風潮がよみがえりつつある。それは、癒しやスピリチュアルなどの流行でパワースポットや霊感や占いの類がもてはやされているといえる。そういったブームの中で、人々は無意識のうちに戦前とよく似た信仰観を持つに至っている。いわゆる、国家主義や排外主義の台頭である。このような状況を、島薗、中島両氏はあらゆる角度から現代の信仰観を検証し、それに対する警鐘を鳴らされている。 そこで私は、この本を読んで感じたことは、本来の信仰観とは何かを問い、原点に戻る意味で、人間の幸福とは、信仰の実践におけるその結果としての功徳・利益を考えねばならない時に来ていると思うのである。 視点を深めて、創価学会の信仰観を考察すると、池田先生のかつてのご指導の中に、「人材育成論」ともいうべきものがあった。それは「学会で人材育成というと、部員さんを活動家にすることだと思っている幹部が多すぎますが、そんなものは枝葉にすぎません。人材を育てるには、何よりもまず『功徳を受けさせること』です。功徳を受けているのは、その部員さんに御本尊への大確信がある、何よりの証です。体験のない部員さんが活動家になってしまうと『功徳の出ない形式の信心』を、組織に広めることになってしまいます。体験のないうちは、どんなにまじめに会合に参加しようが、役職につけるべきではありません」と。これからも、本当の信仰とは何かを探っていきたい。
April 19, 2017
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雨が降ろうが雪が降ろうが、毎朝必ず太陽は昇る。雲を突き抜ければ、そこに悠然と輝き渡っている。 何があっても変わらない、この太陽と共に、私たちも、わが生命の軌道を揺るがず進んでいきたい。「太陽の仏法」の信仰は、その最強の原動力である。 日々の生活は慌ただしい。何やかやと目まぐるしく課題に追われ、振り回されるのが、現実の日常だ。年齢につれ、老いや病の悩みにも切実に直面する。さらに社会には「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽」(1151頁)という「八風」が吹き荒れている。 だからこそ、負けに魂の賢者の信心が光る。「人の心かたければ神のまほり必ずつよし」(1220頁)と仰せの如く、不動の信心が諸天をも動かすのだ。 【巻頭言】大白蓮華2017年4月号
April 18, 2017
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清水 奈名子 十分に報じられない汚染原発震災から6年が経過した。今年も3月11日に合わせて多くの報道特集が組まれたが、原発事故による放射能汚染の被害は、福島県内にとどまっているわけではない、という県境を超えた被害の実態は、十分に報じられていない。筆者が暮らす福島県の西隣にある栃木県をはじめ、福島周辺の各県のおいても実は汚染が広がっており、住民たちはその被害に苦しんできた。環境省も、一般公衆の年間追加被ばく線量の上限である1ミリシーベルトを超えると計算した地域を、「汚染状況重点調査地」として2011年12月以降に指定を開始したが、その範囲は福島県に加えて、岩手、宮城、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉の合計8県、104市町村にも上った。これは、主要な汚染原因となっている放射能セシウムが事故当時の風雨の影響を受けて、県境を越えて広がったためである。例えば栃木県は、県北地域に放射能セシウムの汚染が集中する一方で、県央県南は汚染が少ないなど、同じ県内でも被害は一様ではない。ところが、原発事故後の東京電力と政府の対応は、福島県外の汚染地域に対しては限定的な賠償や対策しか実施しなかった。深刻な汚染があるのに避難指示もなく通常の生活が続けられ、後から実は放射線量が高いと分かった地域が多くある。さらに問題となるのは、その後も除染や健康調査は十分に行われておらず、住民は自己責任で対応せざるを得ない状況が続いていることである。 風評被害を恐れ話せないこのように、放射能汚染対策が進まないなかで、特に不安を募らせてきたのが子供を持つ保護者である。筆者は12年に一部の保護者から相談を受け、汚染が深刻な栃木県北に暮らす乳幼児の保護者を対象にアンケート調査を行った。2202世帯から回答(回収率は約68%)を得た13年の調査では、回答者の8割以上が被ばくによる子どもの健康への影響を不安に思っていることが明らかになったのである。このアンケート結果を回答者に向けて報告するために、同年の秋に栃木県北の公民館の一室を借りて報告会を実施した。出席者は30、40代の女性が大半であったが、そのうちの2人が帰り際に話した次の言葉が今でも記憶に残っている。「報告会に行くと言ったら夫に反対されるのが分かっていたので、お互いに相手の家に行くという口実を作って参加しました」栃木県北の汚染は、東電や政府が切り捨てているだけでなく、地域住民にとっても家族の間でさえ話すことのできない「タブー」になっていることをまざまざと見せつけられた気がしたのである。栃木県北は農産物や乳製品の豊かな産地であり、有名な観光地も多い。放射能汚染を話題にすることで、これらの仕事に関わる人々に迷惑をかけるのではないか。他の保護者の不安を掘り起こしてしまうのではないか。「“風評被害”を煽るのか」「ヒステリーだ」といったバッシングを受けるのでは、といったさまざまな理由から放射能への不安を話すことができないという声を、その後も多く聞くことになった。こうしてますます福島県外の汚染の被害“実害”は見えにくくなるという悪循環が続いている。 諦めない人々の証言残す最近になって相次いで発覚した「原発避難いじめ」問題にも通じる原発事故の深刻な被害は、放射能汚染という環境への被害だけでなく、被ばくや賠償を巡る偏見、差別という社会的な排除を伴う点である。その排除の一つのあり方が、汚染の“実害”に向き合おうとする人々ほどバッシングを受ける、という問題である。このままでは、多くの被害者はバッシングを恐れて話すことさえできず、その結果、被害がなかったことにされてしまう。“被害当事者の記憶が薄れる前に、被害の聞き取りをして証言を記録しよう”。そうした思いから14年から16年にかけて、栃木県北住民のうち、女性を中心に聞き取り調査を行い、大学での教材用に証言集を作成する作業を続けた。その結果、見えてきたのは、多くの女性たちが差別や偏見を恐れず、子どもたちを守りたい一心で自分たちでできる対策を続けてきたという「諦めない人々」の力である。聞き取り調査に応じてくれた保護者の一人(40代・女性)は、「栃木県で健康調査をすると、栃木県の人々に対する差別や偏見につながると言う人もいますが、生きるか死ぬかの問題ですので、後から発生する問題を、調査をしない理由にはできないと思います。さまざまな人の価値観や考え方がある以上、必ず差別は起きるので、そのことよりも、まずは自分たちの健康や命が大切」だとして、栃木県での健康調査を要望した。長期化する被害を見据えて、被害者の望む対策を東電や政府は実施する責任がある。そして私たち市民もまた、偏見や差別による社会的排除に加担することのないように、原発事故被害について学び続けることが求められている。(宇都宮大学准教授) 【文化】聖教新聞2017.3.23
April 17, 2017
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昭和女子大学総長 坂東 眞理子 他人が自分の能力に気付いて機会を与えてくれるのを待っていても順番はなかなか回ってきません。自分の意欲や能力や貢献をアピールしない女性は、しばしば存在を見過ごされてしまいます。「自分から手を挙げると失敗が許されない」「やれと言われればやりますが自分からは希望しない」と考えている女性は多いのです。男性は自分で手を挙げなくても周囲や同期とのバランスを配慮して昇進させてもらえることはありますが、女性の場合はまずありません。 今はどの企業も女性を登用したいと思っていますから、手を挙げなくても声をかけられることのある珍しい時期です。それでも手を上げないと「家庭の事情があるのかもしれない」「仕事よりプライベートな生活を大事にしたいのだろう」と温かく(悪気でなく)配慮される可能性は大です。そもそも女性は管理職になりたがらない、と信じている幹部が多いのですから黙っていたらそう思われてしまいます。 やりがいのある仕事、自分の成長に役立つ仕事、責任のある仕事、楽しい仕事はきぼうしゃより少ないのです。自分から手を挙げなければ向こうからはやってきません。女性は「控えめに」「謙虚に」という自分を縛っている見えない鎖を解き放さなければ機会はつかめません。職場では人事部、担当役職者など権限を持っている人や部署にアピールすることが重要で、権限のない同僚や友人に希望をいっても実現はしません。 とりわけ女性に必要で足りないのはリーダー経験です。リーダー的な役割を果たす仕事は自分から手を挙げて経験しましょう。職場の役職でなくて、非公式なグループのリーダーでも経験しておくことは重要です。リーダーシップは経験ことで養われます。理論や知識よりまず実地でリーダーとしての役割を果たしてみることです。誰でも初めは未経験です。それだからこそ「やってみます、やらせてください」と手を挙げましょう。 【新時代の「女性リーダーへ」4】公明新聞2017.3.21
April 16, 2017
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永守重信(1944~)日本電産創業者 永守重信は一九四四年に京都府向日町(現在の向日市)で、六人兄弟の末っ子として生まれた。その後、京都市洛陽工業高等学校を経て、一九六七年に職業訓練大学校(現在の職業能力開発総合大学校)を卒業。ティアックなどの電機メーカーに務めた後、日本電産を創業した。 当時はオイルショックとドルショックがほぼ同時におきていた時代で、いかに技術があろうが、できたばかりの小さな会社に注文を出そうとする企業などなかった。そこで永守は単身アメリカへ渡り、巨大な企業に自社のモーターの素晴らしさを売り込んだのである。その結果、IBMから大量受注の獲得に成功し、日本電産の経営はようやく軌道に乗ったのである。 だが、永守はこれで満足しなかった。一九八〇年代に入り、パソコンやワープロの売上げが伸び始めたのを見て、ハードディスク用のモーターの生産拡大に踏み切ったのだ。これが時流にピッタリとマッチした。日本電産は、創業からわずか十五年目にして京都証券取引所(当時)に上場を果たしたのだった。 人は一般的に、争いを避けるのは好ましいとされる。だが、ビジネスの世界ではそうとも言い切れない たとえ「負け戦」だとわかっていても、場合によっては、人々の気持ちを鼓舞する闘いというものがある。冒頭の言葉にあるように、勝ち負けが同数なら、必ず何かが得られるはずだ。永守は経営再建の名人としても知られる。優れた技術を持っていながら経営不振にあえぐ企業を次々と買収し、自ら筆頭株主となって再建するのである。それは大きなリスクを伴う。だが成功すれば、そこの技術がさらに日本電産の価値を高めることになる。 永守の情熱のルーツは母親に言われた「人の二倍働いて成功しないことはない。倍働け」「絶対に楽してもうけたらあかん」というふたつの言葉だという。それを聞いてただけでも、永守の挑戦的な姿がよくわかるではないか。 【心を強くする名指導者の言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
April 15, 2017
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国際医療福祉大学教授 川上 和久 先だって、裁判員裁判が下した死刑判決が2件、高裁で破棄された。3月9日には、2012年に大阪の繁華街で通行人2人を無差別に刺殺したとして殺人・銃刀法違反の罪に問われた被告の控訴審判決で、大阪高裁が裁判員裁判で審査された一審大阪地裁の死刑判決を破棄、無期懲役を言い渡した。10日には、14年に神戸市で小学1年の女児を殺害した事件で、殺人・死体遺棄の罪に問われた被告の控訴審判決公判で、これも裁判員裁判で審査された一審神戸地裁の死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。高裁が一審裁判員裁判を覆したのは、すでに5例を数える。 高裁では、それぞれ酌むべき事情や計画性などを挙げ、死刑の判決がやむを得ないとまでは言えない、としたが、遺族の方は「何のための裁判員裁判か。これでは裁判員裁判の意味がない」と憤っており、その気持ちは痛いほど分かる。 国民の常識を刑事裁判に反映させるのが裁判員裁判の主眼だったが、死刑を科す基準について市民感覚と職業裁判官の考え方が、まだ大きく食い違っている。 裁判員に選ばれた人たちは、これまでの基準を知らない、というわけではない。一つ一つの重大事件に真摯に向き合い、ましてや人の命を奪う選択について、「これでいいのか」と苦悩していることが、さまざまな報道から伝わってくる。その結果として、死刑を選択した裁判員に対し、「感情で死刑を選択した人たち」というような評価をするならば、それこそ、裁判員に失礼な話だ。 これだけ裁判員裁判の結果が覆されると、市民感覚は当てにならず、従来の凡例を踏襲することが公平性なのだと職業裁判官は考えているのではないか、という市民の「無力感」が広がり、司法制度への不信にもつながりかねない。 死刑の選択に際し、公平性が求められるのは言うまでもないが、従来の、永山基準などを選択してきた基準が不磨の大典、ということではあるまい。法曹界は裁判員が出した結論に真摯に向き合ってもらいたい。 【ニュースな視点】公明新聞2017.3.20
April 14, 2017
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沿道の応援が力になった――マラソン大会でゴールした選手が、しばしば口にする。それを心の底から実感したことがある。 都市部の大会に出場した時のこと。途切れない沿道の声援。応援の“形”もさまざまで「残りたった30キロ」「ビールまであと○キロ」など、ユニークな応援ボードを掲げる人もいる。 終盤、肉体的にも精神的にも苦しい時、ふいに名前が呼ばれた。ウエアの刺しゅうを読み取ってくれたらしい。そして「腕の振り、いいぞ!」「いいペース! まだ記録伸びるよ」と。不思議と体が軽くなったような感覚。自分だけに向けられた一つ一つの言葉が、強く背中を押してくれた。 コーチングの基本的なスキル(技能)に「アクノリッジメント(承認)」がある。その有効な手段の一つが「褒める」。抽象的な言葉ではなく、相手の特長を捉え、力を引き出す言葉を具体的に伝えることが「褒める」という行為なのだ(鈴木義幸著『コーチングのプロが教える「ほめる」技術』日本実業出版社)。 御書に「人から自分が、大変によく褒められる時は『どんなふうにでもなろう』という心が出てくるものである」(1359頁、通解)と。相手を知ればこそ褒めることもできる。 【名字の言】聖教新聞2017.3.19
April 13, 2017
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音楽ジャーナリスト 萩谷 由喜子 20代で就職し、60歳前後で定年退職を迎える現代日本のサラリーマンとよく似た人生を歩んだ音楽家がいる。「交響曲の父」フランツ・ヨーゼフ・ハイドンである。でも、定年退職後にも大輪の花を咲かせ、用意周到な幕引きまで準備していたところが、並みのサラリーマンとは異なっていた。オーストラリア東部の寒村に車大工の子として生まれたハイドンは、8歳でウィーン聖シュティファン教会の合唱隊員に採用され、甘い美声でマリア・テレジア女帝を魅了する。だが、変声期を迎えればお払い箱だ。その後は街頭演奏や音楽従僕に甘んじながら修行に励んだ甲斐あって、29歳でエステルハージ侯爵家の宮廷楽団に召し抱えられ、やがて楽長の地位にまで昇る。30年の歳月が流れ、主家の代替わりに伴って宮廷楽団が解散となったとき、彼も定年退職の日を迎えた。幸い、年金を支給されて暮らしに不自由はなかったが、長い宮仕えから解放された彼の第二の人生に夢を馳せる。そんな彼に、腕利きの興行師ザロモンが声をかけた。「先生の新作を手土産に、ロンドンでコンサートを開きましょう!」今こそ、国際舞台で自分を試せるチャンスだった。ハイドンの渡英の決心を知った、二回りも年下の友モーツァルトは、還暦近い彼の身を案じた。ハイドンは笑顔で友の憂慮を払うとドーバー海峡を渡り、1791年1月2日、ロンドンに到着した。彼の新作を中心としたコンサートは26回も開かれ、圧倒的大成功を収める。しかし、1年後にウィーンへ戻ってみると、若き友はすでにこの世の人ではなかった。涙をぬぐった彼は、その後2度目の渡英も成功させ、この2度のイギリス訪問を通じて彼の代表作となる12曲の傑作交響曲「ロンドン・セット」を生んだばかりではなく、渡英前の所持金の10倍にあたる莫大な収入を懐にする。そのあとの日々を、作品目録の作成と、身内や愛人への遺産分割を詳細に記した遺書の執筆に専念したこの巨匠は、当時としたら長命の77歳で後顧の憂いなく世を去った。 【クラッシック音楽家 知らなかった“もうひとつの顔”】公明新聞2017.3.18
April 12, 2017
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静岡大学農学部教授 稲垣栄洋 テレビ番組の収録で、プロ野球のキャンプを見せていただく貴重な機会をいただきました。一年間の中で、このキャンプの時期が一番大切だと教えてもらいました。華やかなプロ野球の世界ですが、その一打席、その一球のために、どれだけの準備と、どれだけの努力があるのかを、改めて思い知らされました。 対談させていただいた元プロ野球の選手の方は、ホームグランドのスタジアムよりも、名勝負を演じた球場よりも一年の土台を作るための練習をした。この小さな地方球場を印象深くそして大切に思っているとおっしゃっていました。 キャンプ時期は、植物でいえば、根っこを伸ばす時期になるのでしょう。 春になると、道ばたでは野の花が咲き始めます。しかし、いち早く花を咲かせて、春の訪れを感じさせてくれる野の花たちは、必ず冬の間も葉を広げていた植物だけです。冬の間、種子の形で暖かな土の中で眠っていた植物は、春になっても、やっと芽を出すことしかできません。寒い冬の間も地面の上で葉を広げていた植物だけが、他の植物に先駆けていち早く花を咲かせることができるのです。 冬の間、野の花たちは地面にひれ伏して、じっと寒さに耐えているように見えます。しかし、成長していないわけではありません。野の花たちはじっと地面の下で根を伸ばします。そして、根っこに栄養分を蓄えて、春になるのを待っているのです。 成長には目に見える成長と、目に見えない成長があります。そして、寒い冬にこそ根っこが伸びるのです。プロ野球のキャンプの見学は、改めて私にそう教えてくれました。 【すなどけい】公明新聞2017.3.17
April 11, 2017
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宮城・気仙沼市「浜らいん」編集長 熊谷 大海 音が無くなった世界“人生を終えた人は皆、天の川に昇る”。幼い頃、そんな話を耳にしたことがあります。2011年3月11日の午後2時46分——東北沿岸の被災地に住む私たちにとって、決して忘れることのない時。東日本大震災の発生から6年が経過した今、悲しみを乗り越え、少しでも記憶の風化を止める手だてになればとの思いがこみ上げます。私は07年、遠洋マグロ漁師の経験を生かしたジャーナリストとして、漁船漁業情報コミュニティー誌「みなと便り」を発刊。さらに10年11月1日、自分の街をもっと応援できないかと考え、気仙沼市の情報誌「浜らいん」を創刊しました。隔月発行で11年1月1日に2号、3月1日に3号を刊行しましたが、その10日後に震災が起こりました。あの日——三陸町の志津川魚市場近くの鮮魚商に取材を始めて1時間半が過ぎた頃でした。突然のごう音とともに、激しい揺れに襲われました。「津波が来るかもしれない。早く逃げたほうがいい」。数回にわたる長い揺れが収まると、山間部へ車をひたすら走らせました。車窓からは、倒壊した民家や、空き地に集まっている住民の姿が目に飛び込んできました。気仙沼の自宅へ向かうものの、水没した道に阻まれたため、宮城県と岩手県の県境まで戻り、岩手県から雪が舞う山越えの道を帰宅。地割れ等で道は激しく損傷、特に橋桁がずれ、大きい段差を超えることが難関でした。すぐ港近くへ行きました。そこには大津波に襲われ、完全に破壊された町がありました。しばらくショックで、ぼうぜんと立ち尽くすことしかできませんでした。それでも私は、ファインダーをのぞいては変わり果てた町の姿を記録しました。がれきをかき分けて町の中心部へ入ると、今しがたまで人や車が生き交い、生活が息づいていた場所から物音一つ、聞こえません。あまりの静けさに鳥肌が立つほどの恐怖感に襲われる中、頬を伝う涙と震える指先を必死にこらえながら、シャッターを押しました。音を無くしたあの日の町の光景は、今も鮮明に記憶しています。震災後は廃刊の危機に直面しましたが、大変な時だからこそ街の人々に尽くすとの一心で動きました。2人の娘も「浜らいん」「みなと便り」の在庫を車に積み、数日かけて市内47ヵ所の避難所全てに配布しました。見る物や読む物が何もなかった頃です。避難所の様子を自分の目で見て、避難者の意見を自分の耳で聞きながら、娘たちは多くのことを学んだはずです。避難所で伺った声がきっかけとなり、震災2カ月後の5月に「浜らいん」東日本大震災特集号、7月には写真集「市民が撮った気仙沼」を発刊。さらに、自ら被災しながらも協賛広告で応援してくれた街の有志のおかげで、廃刊を何とか免れることができました。あの極限状態の日々を振り返ると、ただただ感謝しかありません。 「共に」歩み続けるがれきが散在し、ガソリンも手に入らないため、車は使えません。足が鉄板になるほど被災地を歩き、記録を続けました。私が見たものは、被災地の悲しみにどこまでも寄り添う人間の素晴らしさとともに、被災地の悲しみを横目に生きようとする人間の醜い姿でした。震災から7年目に入った今、あえて恐ろしい人間の裏の姿を書き残したい。ミルクや紙おむつを必死で求める若い女性たちを前に、仁王立ちで腕を組んで冷酷に断るホームセンターの男性店員。リンゴ1袋5個入りを3000円で売る被災地外から来た業者。値がつかないような中古車を驚くほどの高値で売り付ける高慢な営業マン。津波で現金を流された会社や店も多く、3000万円が消えた信用金庫。隣町のある書店のあるじは、避難した数十分の間に3店舗全てのレジが空になっていたと嘆きました。震災後、被災した街に、俗にいう「震災バブル」が訪れました。夜の街では、地方からの労働者が札束をちらつかせては意気揚々と酒を飲み、巨額なり利益を得た人たちは、毎夜のごとく街へと繰り出しました。さらに、多額の支援金や見舞金が入った人たちの中には、唄を忘れたカナリアのごとく、次の就職先を探すことなくギャンブルに興じる姿もありました。こうした光景は、釣り銭を求めず、札束を豪快に使っていた、かつての遠洋漁業の隆盛時代を錯覚させるかのようでした。貧富の差は被災地でも同じです。お金のある人ほど早期に自立し、復興を成し遂げる現実がありました。震災で生活の場の3分の2を失った町には、全国から集めたかと思うほどの無数の大型ダンプや自動車が、猛烈な砂ぼこりを上げて行き交っています。震災の街は、家を求める人の需要と供給のバランスが崩れ、短期間で地価が高騰。物件を探すのさえ苦労するありさまです。それは現在も続いています。人口減少が続く中、支援金を受けた会社は震災前にも増して巨大工場を建設しましたが、人手不足から稼働率は依然、停滞したままです果たして巨大工場が本当に必要だったのかと疑問を感じます。被災地には、さまざまなドラマがあります。私は、いつか「情報誌の編集長があの日に見た震災の街の知られざる出来事」をまとめて、被災地の真実を伝える本を出版したいと考えています。地震大国・日本で、これから起こり得る災害において、一つでも参考になればと思うからです。震災の記録と記憶を後世に残し、二度とこんな悲しみが起きないよう、世代を超えて伝えていきたい。それが、街の情報誌の編集長である私の務めと、自らを奮い立たせる毎日です。今は完全復興、そして、市民の皆さんが一日も早く自立した生活を取り戻せるよう願い、これからも街と共に歩み続けていきます。 くまがい・たいかい 1957年、宮城県気仙沼市生まれ。25歳まで7年間、遠洋マグロはえ縄漁船に乗船。2007年から遠洋漁業のミニコミ誌、10年から気仙沼市の情報誌を発行。現在、震災と郷土、遠洋漁業をテーマにした書籍・DVD・映画製作を手掛けている。 【文化】聖教新聞2017.3.15
April 10, 2017
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実業家・松下幸之助氏の講演会でのこと。一人の中小企業の経営者が、どうすれば松下さんの言う経営ができるのですかと質問した。氏は答える。“まず大事なのは、やろうと思うこと”。その時の聴衆の一人で、後に世界的企業に成長した会社の経営者は、「“できる、できない”ではなしに、まず、“こうでありたい。おれは経営をこうしよう”という強い願望を胸にもつことが大切だ」と感じたという(『エピソードで読む松下幸之助』PHP新書) 【名字の言】聖教新聞2017.3.15
April 9, 2017
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昭和女子大学総長 坂東 眞理子 リーダーシップにもいろいろなスタイルがあるので女性も自分にふさわしいリーダーシップスタイルをめざすべきです。しかも時代は女性のリーダーを求めています。働く女性に関わる法・制度は戦後四つの段階を経てきました。1・0時代は労働基準法の女性保護が主流で、産前産後の休業のような直接の母性保護だけでなく、深夜業や危険有害業務の禁止、残業制限、生理休暇など間接的な保護も規定されていました。その後女子差別撤廃条約の批准を追い風に1985年、雇用機会均等法が制定されました。保護は原則として撤廃され男性と同じように転勤や長時間労働を受け入れる総合職コースを設けた企業もありましたが出産、育児期に退職する女性が多数いました。これが2・0時代です。しかし89年の「1・57ショック」(出生率)が契機となり、育児休業法が成立し、仕事と育児の両立、ワーク・ライフ・バランスが強調されるようになってきました。女性労働3・0時代です。女性が勤続できるように努めるのは企業の社会的責任として経済界も時間短縮に努めました。しかし、いま始まったのは女性活躍の新しいステージ4・0時代です。女性が責任のある地位について能力や適性を発揮することは女性個人の人生を充実させるだけでなく、企業戦略として必要不可欠です。優秀な人材を女性だからといって排除していては人材プールがやせ細るばかりです。男性的基準では優秀でない人も、実は新しい価値観を持っているかもしれません。いま日本に必要なのは新しいアイディアやビジネスモデルですが、それは同質な人ばかりの中からは生まれません。異なる発想、異なる経験を持っている人との遭遇から生まれます。もちろんそれは外国の人、異なる宗教や人種の人でも良いのですが、まず多様性活用の試金石は女性活用です。女性たちの新しい発想を企業はぜひ未知との遭遇を活用してほしいものです。 【新時代の女性リーダーへ3】公明新聞2017.3.14
April 8, 2017
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バスケットボール界の伝説的選手マイケル・ジョーダン。彼は常に、高い理想を持ちながらも、短期間の目標を設定し、着実に努力を重ねてきた。 大学3年の時のこと。周囲からの期待の大きさを感じた彼は、次第に“華麗なダンクシュート”ばかりを追求するように。だが逆に技術は伸び悩み、壁にぶつかった。 ある日、監督に指摘され、好調だった時は基本練習を切り返していたことに気付く。「3年生のぼくは近道を探していただけ」と振り返る彼は、こう断言する。「目標を達成するには、全力で取り組む以外に方法はない。そこには近道はない」(『挑戦せずにあきらめることはできない』楠木成文訳、ソニー・マガジンズ) 目標が大きいと“一気に”“要領よく”進めたいと思うことがある。しかし、地道な努力なくして、大きな飛躍は望めない。御書には「衆流あつまりいぇ大海となる」(288頁)と。広大な海は、小さな川の集まりであり、その川もまた、一滴一滴の水が集まったものである。 池田先生は「大発展、大勝利といっても、日々の挑戦の積み重ねである。今を勝ち、きょうを勝つなかにしか、将来の栄光も、人生の勝利もない」と語る。不可能の壁は、少し頑張れば可能な、しかし弛みない努力の末に破られる。 【名字の言】聖教新聞2017.3.13
April 7, 2017
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パスツールはパリのエコール=ノルマル(高等師範学校)に学び、ディジョンの中学教師を経て、一九八九年にストラスブール大学教授となる。その後、リール大学教授兼学長、パリ大学教授などを歴任。最初は酒石酸の研究から分子内の原子配列の問題におよび、ついで発酵の研究で乳酸菌や酪酸菌を発見、また長く論争が繰り返されていた微生物の「自然発生説」を実験によって否定した。 リール大学の頃、葡萄酒製造業者に依頼されて葡萄酒の酸による腐敗を防ぐ方法を研究。のちに低温殺菌法を考案し、フランスの葡萄酒製造量は急増した。 さらにコレラの予防で、ワクチン接種による伝染病予防の一般化に成功。そして、最大の業績は、狂犬病のワクチンの製造と人体への応用の成功である。晩年には、国民から拠出金によってパスツール研究所が作られ、その所長に推されたのである。 よく「おまえは運がいい」とか、「自分はついてない」などと、すべての結果を“偶然”に結びつけたがる人がいるものである。しかし、そういう人に限って、普段からの努力を惜しんではいないだろうか。 たとえば、打ち合わせで相手に聞かれたことが、偶然、前日に読んだ本の内容とぴったり同じだった。おかげで、自信をもって答えることができ、交渉がうまくいったなどということである。 これは単なる偶然が成功させたのではなく、日頃の観察力や読書、これまでに積み重ねてきたものが結果となってあらわれたためだろう。“偶然のチャンス”を受け止める準備が整っていたということである。 あまり努力もせずに、成功者の姿をうらやんでいるのは、練習もせずに本番で勝とうと考えているのと同じくらい愚かではないだろうか。パスツールの言葉は、日常の絶えまない努力があればこそ、偶然のチャンスをつかまえることができると教えている。 【心を強くする名指導者の言葉】ビジネス哲学研究会/PHP文庫
April 6, 2017
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御聖訓に、「此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる」(御書935頁)と仰せである。すなわち苦悩多き娑婆世界にあって、あらゆる苦難を「能く忍ぶ」勇者を「仏」というのだ。御本仏はその永遠の鑑を、打ち続く大難に「いまだこりず候」(同1056頁)と立ち向かう御自身のお姿を通して示してくださった。◇御書に「妙とは蘇生の義」(947頁)とある。妙法とは最極の希望の力といってよい。 【随筆 永遠なれ創価の大城】聖教新聞2017.3.11
April 5, 2017
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昭和女子大学総長 坂東 眞理子 リーダーというと強い、権力を持つ、命令する、意志が強いというイメージが持たれています。学歴が高いことがリーダーには不可欠だと思われていた時代もありました。こうしたメンバーを引っ張っていくスタイルは男性的なイメージです。そのためもあって長い間、多くの女性は自分にはリーダーシップがない、リーダーにはなれないと思い込んでいました。しかし、最近ではリーダーシップにはいろいろなスタイルがあることが分かってきました。例えばlearning(ラーニング) leadership(リーダーシップ)(一緒に学習するリーダー)、serving(サービング) leadership(リーダーシップ)(奉仕するリーダー)、caring(ケアリング) leadership(世話をするリーダー)、inclusive(インクルーシブ) leadership(活動に巻き込んでいくリーダー)などです。 一人一人が教育も経験も少ないチームでは強く命令をするリーダーが成果を上げていたでしょうが、メンバーがそれなりに教育や経験を持ち、自分の意見を持つようなチームではメンバーの状況に気を配り、意見を考慮し、能力を引き出すタイプのリーダーが成果を上げます。状況によって求められるリーダーシップスタイルは異なるのです。 新しい知識やスキルを取り入れなければならないときは学習するリーダー、メンバー自身や家族が健康に問題を抱えているときは世話をするリーダーが求められます。チームに溶け込もうとしない人たちもみんな巻き込んでいくリーダーもいろんな場面で必要です。こうした新しいスタイルのリーダーシップは女性に向いています。スタイルは多様でも自分で考え、情報を集め、皆に目標を提示し、奮い立たせ、最後は責任を取るというリーダーの役割は共通しています。 こうしたリーダーシップのある女性を発掘し、育て、鍛え、登用することがあらゆる組織で必要です。女性自身も自信をもって新しいリーダーシップスタイルに挑戦していくことが期待されます。 【新時代の「女性リーダーへ」2】公明新聞2017.3.8
April 4, 2017
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薪を加えるほど火が盛んになるように、難に遭うほど、旺盛な大生命力をわきたたせていける。仏の境涯を開いていける。それを大聖人は、身をもって教えてくださった。 偉大なる仏の力がみなぎれば、魔性に負けるわけがない。 その大宇宙のような広大な境涯を涌現していく、ただ一つの条件がある。 それは「信」である。「但し御信心によるべし」「能く能く信ぜさせ給うべし」(御書1124頁)と仰せの通りである。 どんなに鋭い剣があっても、それを使う人が臆病であれば、何の役にも立たない。大聖人は「法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ」(同頁)と仰せになられた。苦悩に襲われた時に、「勇敢な信心」「潔い信心」「勇猛な信心」があるかどうかだ。 「心こそ大切」(同1192頁)である。大聖人は、幾度も「信ぜさせ給へ」等と強調されている。 今、時代は、乱気流の中に突入している。どんなに社会が動揺しても、いな、社会が動揺している時だからこそ、自らの信心だけは微動だにさせてはならない。信心さえ揺るがなければ、いかなる状況も、必ず打開できる。最後は必ず勝利する。 「わざわひも転じて幸いとなる」(同1124頁)のが妙法の力であるからだ。 御聖訓に「心して信心を奮い起こし、この御本尊に祈念していきなさい。何事か成就しないことがあるだろうか」(同頁、通解)と仰せの通り、どこまでも祈り切ることだ。祈り抜くことだ。 【各部代表者会議でのスピーチ】聖教新聞2008.12.29
April 3, 2017
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仏教発祥の地・インドで、なぜ仏教が衰退したのか。直接の契機は1203年、イスラム教徒によってヴィクラマシーラ寺院(当時の中心的寺院)が破壊されたことといわれる。だが両者の対話は、「民衆からの遊離」との洞察で一致した。すなわち、常に民衆の中で仏法を説いた釈尊の精神を失い、出家者が僧院にこもったことこそ、仏教衰退の因であると。池田先生は強調した。「どのように深い思想があっても、それが現実社会に生きる人々によって実践されなければ生命を失って観念論となりますし、思索は行動に移さなければ、閉ざされた世界での自己満足におちいってしまいます」 シン博士は応じた。「いかなる哲学・宗教でもそれが存続し、しかも活力を保ち続けるには、絶えまない改革と刷新が行われることが必須条件です。さらにあなたのいわれるように、大衆の心の中に深く根を張っていなければなりません」 【明日を求めて 池田大作先生の対話禄】聖教新聞2017.3.7
April 2, 2017
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大政奉還から150年の節目に当たり、高知県で「志国高知幕末維新博」が4日に開幕。高知市にオープンしたメーン会場の県立高知城歴史博物館では、坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺される5日前に書いた新発見の直筆書状が一般公開された。 「一筆(いっぴつ)啓上仕候(けいじょうつかまつりそうろう)」で始まるこの書状は、今まで全く存在が知られず、封紙に入ったままの状態で見つかった。歴史の封印が解かれたともいえる文面には「新国家」の3文字が。140通以上ある龍馬の手紙で初めて確認されたという。 書状は、大政奉還直後の不安定な政局の中、新政府の財政担当相者として越前藩士・三岡八郎(後の由利公正)の派遣を同藩重臣の中根雪江に懇願する内容。「三岡の上京が一日先になったら、新国家の家計の成立が一日先になってしまう」と。 3年前にも、土佐藩の後藤象二郎に宛てた書状の草稿が、テレビ番組のロケ中に一般家庭で偶然発見されたが、その中でも龍馬は三岡を強く推挙している。新政府樹立に向けて財政を重視した着眼点が龍馬らしい。 他の手紙に比べて、文字が美しく整っているという新発見の書状。「新国家」の3文字にどんnな思いを込め、どんな未来を描いていたのか。公開初日に訪れた“龍馬ファン”の列に並びながら、興味と魅力の尽きない人物だと改めて実感した。 【北斗七星】公明新聞2017.3.6
April 1, 2017
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