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<英語版への池田先生の序文> 思えば、1962年8月、私は大学生のメンバーを対象に「御義口伝」の講義を開始した。未来への人材育成のためにと、日蓮大聖人の深遠な哲学を現代に展開して、不信と憎悪が渦巻く核兵器の時代を信頼と調和の人間主義の時代へと転換させたいと深く念じたからである。 内なる改革から外の世界の変革へ仏教といえば、戒律や瞑想を中心とする「内なる世界」の探求のイメージが強く、「内なる世界」から「外なる世界」への働きかけという面が等閑視されてきたことも事実である。したがって、仏教を平和実現への哲学と捉える人も少なかった。しかし、日蓮大聖人は、有名な「立正安国論」に明らかなごとく、人間の内面の変革から始まって、外的世界を実現するための根本の法理を提示されたのである。大聖人は、法華経を根本経典とし、人間革命、社会変革の源泉を仏や神という外的存在に求めるのではなく、人間の内面に底通し宇宙生命に偏在する「法」に見いだし、その「法」を開示・弘通された。しかし、それは当時の通念をはるかに超えていたために、法華経に説かれるとおり数々の大難に遭遇せざるを得なかった。実は、この忍難弘通の戦いが、法華経の教えが正しいことを証明し、同時に、大聖人が法華経を「身読」された、真実の「法華経の行者」であることを証明することになったのである。後に、身延入山を機に、大聖人は御自身の悟りの立場から、弟子の育成を図られながら、法華経を講義された。法華経の経文は、すでに実感を伴って胸中にあったが、その奥義は、法華経の権威である天台大師も説ききっていなかった。大聖人は、仏教の先達の教えを踏まえながら、その奥義の法華経講義を展開されたのである。その講義を直弟子の日興上人が筆録され、師である大聖人の御允可(ごいんか)を賜ったのが「御義口伝」であると伝えられている。完成の日付は弘安元年(1278年)正月一日と記されている。法華経には巧みな譬喩や物語はあるが、哲学がないという批判がある。たしかに法華経だけの文面だけを見れば、そのとおりかもしれない。しかし、仏教には「文・義・意」という原理がある。中国の天台大師や妙楽大師は、法華経の「文」から、「十界互具」「一念三千」「久遠実成」「開近顕遠」「開三顕一」などの精緻な「義」(法理)を引き出した。しかし、いまだ法華経の「意」を開顕することはなかった。日蓮大聖人は、法華経の「意」つまり「肝心」を南無妙法蓮華経として顕され、その立場から法華経を講義されたのである。これがいわゆる観心釈であり、そこには深遠な哲学がある。日蓮大聖人が法華経に新しい生命を吹き込まれたのである。 「凡夫成仏」の原理「御義口伝」の構成は、「南無妙法蓮華経」から説き起こされて、法華経二十八品の各品の重要な経文を取り上げられ、天台大師や妙楽大師の解説を紹介された後に、あるいは経文の後に直接、大聖人の観心釈を示されるという形態をとっている。さらに、開結二経(無量義経・普賢経)の要文を解説され、合計231カ条に及ぶ。その上に別伝が加えられている。「御義口伝」の根本思想は何であろうか。さまざまな解釈が可能であるが、私は人間の尊厳、生命の尊厳をその究極において説き明かした点にあると思う。具体的には、「凡夫成仏」「凡夫即仏」の思想である。通途の宗教観は、人間を“聖なるもの”の下位におくものであった。しかし、人間を最高の精神的存在へと高めゆく宗教本来の精神からいえば、その人間を“神の子”“仏の子”へと転換するところに宗教の存在意義がある。この観点を最も明確に示した「御義口伝」の一節を挙げたい。法華経寿量品には、釈尊の久遠成道を説いて、「我は実に成仏して己来、無量無辺百千万憶那由他劫なり」(法華経478頁)とある。この「我」とは当然、教主釈尊のことであるが、日蓮大聖人はこの「我」を「法界の衆生」「十界己己」(御書753頁)を指すと教示されている。つまり十界の衆生がすべて本来、仏であると明かされているのである。もちろんそれだけであれば、「理」にすぎない。しかし、大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(同頁)と仰せられて、題目を唱えることによって、誰人であれ、「本来、仏なり」と覚知することができると、具体的な方途を示されているのである。実に簡潔な表現のなかに、端的に「凡夫即仏」の原理を示されている。こうした人間観が「御義口伝」の顕著な特徴の一つである。また、人生は多難である。その意味で、人生は戦いであり、鍛錬であるといっても過言ではない。トルストイが「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸なおもむきが異なっているものである」(木村浩訳「アンナ・カレーニナ」)と書いたように、人生には、肉親との死別、不治の病の宣告、倒産、失業、家庭不和など、さまざまな嵐が吹き荒れる。それが人生の実相であろう。だからこそ、人々は法華経の「現世安穏」の哲理に救いを求めるのである。しかし、苦難の故に人間は不幸であると決め付けるならば、幸福な人間など幻のごとき存在でしかない。日蓮大聖人もまた、迫害の連続の人生であられた。2度の流罪、死刑、武士や暴徒による襲撃、悪口罵詈等々、命に関わる大難の連続であった。それは法華経の説く「現世安穏」とは遠くかけ離れた実相であった。そのために、人々は大聖人が法華経を経文のままに実践する「法華経の行者」であることを疑ったのである。「人の振舞」こそ大聖人は、法華経を講義されるなかで、御自身の来し方を省み、人生の実相を厳しく凝視されながら、「何基たるを以て安楽と意得可きなり」(御書750頁)と、法華経とは一見、反対とも見える結論を導き出されたのである。いな、法華経と反対の結論というより、人々が表面的に捉えていた経文の真意を浮かび上がらせたというべきであろう。これこそ、苦難のないことが幸福ではなく、苦難に負けないことが幸せであるとの真実の幸福感を提示されたものといえよう。さらに大聖人は、「涅槃経に云く『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦』と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(同758頁)と、一切衆生の同苦と、その苦を除く大慈悲の実践を宣言されている。このように、自分一人でなく、すべての人々の幸福を祈り願うところに、仏法者の生き方があることを、御自身の身をもって、指南されたのである。さらに、大聖人は、法華経に説かれる不軽菩薩に注目された。彼の菩薩の忍難弘通の方軌、信ずる者も謗ずる者も友に救いきる「法」の力、万人に内在する仏性を敬う「但行礼拝」の実践――――そこには「万人成仏」の思想が如実に示されている。その修行のあり方を大聖人は御自身の修行に重ね合わせて、民衆救済の大慈悲の戦いを広宣流布として壮大に展開されたのである。大聖人は、法華経が釈尊一代聖教の肝心であり、法華経の修行の肝心は不軽品であるとされた。そして「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同1174頁)と仰せられた。この御文は、仏法の真実を、経文だけでなく、人間の行動を通して示すことに仏の目的があるという、仏法の人間主義を高らかに謳いあげている。一切衆生の内在する仏性を自覚させるために、あらゆる人々を礼拝した不軽菩薩の実践は、揺るぎない信念と無限の勇気から発している。「御義口伝」では、この不軽菩薩の「但行礼拝」について14の角度から論じられている。その一つに、「鏡に向かって礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(同769頁)とある。現代社会に欠けている非常に重要な道徳的原理である。つまり、自分が他者を尊敬するならば、他者も自分を尊敬するという、相互の信頼、相互尊敬の精神が説かれているのである。現代社会における人間疎外の最大の原因は、利己主義にある。これは、私が歴史学者のトインビー博士と語り合った結論でもある。いかにして利己主義を超克するのか。仏法から見れば、人間を自己中心に追いやるのは、その生命に潜む「元品の無明」である。これは、自身の生命が妙法の妙法の当体であり、本来の自身が仏という尊極の存在であることを知らない「無知」のことである。その無知を滅するのは、人間の仏性、人間内面の尊厳を信じて疑わない、確固たる「信」にある。この「信」の確立こそ、今、人類が最も必要としているものではないだろうか。この日蓮大聖人の生命と平和の哲学を世界に広め、その信仰と理念を共有する人々の連帯は、現在190カ国・地域(編集部注=現在は192カ国・地域)に拡大している。生命の真の尊厳に目覚めた人類の連帯が、戦争やテロの暴力を排除し、貧困や環境破壊など、人類が抱える地球的な問題を解決する日が来ることを確信するとともに、またその日が一日も早いことを強く願うのである。 聖教新聞2017.8.31
October 31, 2017
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民衆仏法の焦点は、全ての人間の内なる尊厳性を示すとともに、現実に、眼前の一人の人間を尊極ならしめる、万人に開かれた実践の方途を示すことにあります。 先に結論を申し上げれば、日蓮大聖人の御本尊こそ、受持即観心の法理に裏付けされた、一切衆生の成仏を実現する民衆仏法の真髄です。「観心本尊抄」には、その意義が鮮明に説かれています。「観心とは己心を観じて十方界を見る」と仰せです。 仏法は、人間の内奥を凝視し、どこまでも深く己心(自己の心・生命)を探求しています。「内なる道」であるゆえんです。 自身の心を見つめていく、自分というひとりの生命を徹して掘り下げていく。そこに現れてくる「人間」の本質をつかむことが、仏法の基本的なアプローチです。 人は他人の外見は見えても、自分の外見は見えにくいものです。しかし「鏡」を見れば、そこに自分の姿がありありと映る。けれども自分の内面は映らない。そこで、間違いなく「己心を観ずる」には、仏の智慧で、ありのままに映し出す生命の「明鏡」が必要なのです。それが法華経であり、天台の『魔訶止観』などだと仰せです。 この「明鏡」に照らして見えてくるのは、生老病死の苦悩に渦巻くこの娑婆世界でもがきながらも懸命に幸福を願望して生きている一人一人の生命にほかなりません。皆、平等に、「十界互具」の生命なのです。 【池田大作先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2017年9月号
October 30, 2017
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日蓮仏法は、「民衆仏法」であります。この「民衆」とは、一切衆生のことです。何か特定の階級などではありません。現実にいる「目の前の一人」のことです。その人が誰であれ———男性も女性も、いかなる国も民族も、いかなる出自や階層も、年齢や職業も、一切、排除や差別なく、抱える苦しみの如何にかかわらず、一人も残らず民衆です。一切衆生にわたるのです。 「誰も置き去りにしない」————今、国連が国際社会を挙げて成し遂げようと呼びかけているビジョンとも、仏法の根本思想は深く響き合います。 【池田大作先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2017年9月号
October 29, 2017
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舞踊演出家 村 尚也 週刊誌のスキャンダル報道が益々過熱化する昨今だ。有名人の密会を暴く証拠として現場写真は物陰から撮影される。単なる噂話では信憑性も刺激度も少ないからだろう。 世間ではよく後ろ指を指す、あるいはさされるという言葉が使われる。前指でないものはもっぱら陰口の類だからで、相手にそれと悟られないのが肝腎だ。そこには陰湿な中傷という動機があるからだが、民俗学的には指を指す行為自体が禁忌(タブー)であることも大きな要因になっているといえよう。 日本人は子供の頃から、面と向かって相手を指さないように教育された。少し遠くにいる人に対し、指さして話題にすることも控えた。社会人になり、直接相手を人差し指を振るようにさし示すときは、対象者に対する強い批判、抗議、敵意を露にする場面に限られる。 最近は霊柩車を走行させる儀式は少なくなったが、以前は途中でそれを見かければ親指を隠すよう年長者に教わった。親の死に目にあえなくなるというのが理由だった。 これらの他にも指にまつわる民間禁忌は多くあるが、いずれも元は指の爪と肉の隙間から魔が出入りしやすいという俗信によるものである。それゆえ人を指せば、相手の負の感情や運気を指というアンテナを通じて受信してしまうと考えたのだ。中でも五指の中で最も太い親指は、その名の通り親や上司、あるいは自我の強い指ともされたから葬式の気を拾わないように他の4本指の間に埋めるようにした。 歌舞伎や日本舞踊で使われる指さしという振りの多くは場所や方向を指し示す時に使われる直接相手を指す時は、男女がじゃれ合ったりする場合と特定の相手が自分の前にいない場面において以外には使われない。 相手に対し、決して前からは指がさせない日本人。後ろ指も写真スクープのシャッターを押す指に変化したのかも……。 【言葉の遠近法】公明新聞2017.8.30
October 28, 2017
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帝塚山大学 現代生活部教授 稲熊 隆博 年齢を重ねると、とりわけ気に掛かるのが健康です。「健康のために野菜を摂取しなければ……」と多くの人は考えます。ここでは、野菜のとり方を含め、野菜の健康への寄与について述べたいと思います。日本は男女の平均寿命が80歳を超え、65歳以上の人口が25%以上を占める、超高齢社会になっています。高齢者の元気が、社会の元気につながるといっても過言ではありません。ただし、統計上、男性は亡くなるまでの9年、女性では約12年、誰かの手助けを必要とします。尊い人生を全うするために、生きて、生き抜くことが大切です。健康・長寿のために自ら努力していく必要があるでしょう。 「抗酸化力」が病気や老化を防ぐ厚生労働省が策定した、国民の健康づくりの指標となる「健康日本21」では、野菜を1日350グラム以上(うち、緑黄色野菜を120グラム以上)摂取することを目標に掲げています。ただ、これまで達成したことがありません。では、なぜ野菜を取らないといけないのでしょうか。ご存知のように、野菜はビタミンやミネラル、植物繊維など、健康・長寿に有益な成分を含んでいます。英語で野菜を「ベジタブル」といいますが、“ベジタ”には「人を元気にする」という意味があります。また、日本人の摂取品目で、ビタミンやミネラル、食物繊維の供給源といえば、野菜です。私たちが健康であり続け、長生きを望むなら、野菜を“摂取した方がいい”のではなく、“摂取しなければならない”のです。さらに最近の研究で、野菜の色が健康・長寿に寄与していることが分かってきました。野菜の色とは、トマトの赤色(リコピン)やニンジンの橙色(β-カロテン)、赤ピーマン(カプサンチン)などのことです。人は、1日500リットルの酸素を体内で消化しますが、そのうち2%程度が活性酸素に変わります。活性酸素は、“いたずら酸素”と呼ばれ、内臓や遺伝子を傷つけることから、老化やさまざまな病気に関係しています。健康・長寿のためには、この活性酸素を消去することが重要です。活性酸素を消去する力のことを「抗酸化力」といいますが、野菜の色には、その力が高いのです。例えば、抗酸化力持つ代表的なビタミンとして、ビタミンEがあります。同じ分量で比較をした場合、トマトのリコピンはビタミンの100倍以上、ニンジンのβ―カロテンや赤ピーマンのカプサンチンで80倍くらいの力があります。高齢者の方は、健康・長寿のために、「もっと野菜を」取っていただければと思います。 “野菜嫌い”の少年少女のために野菜の取り方といえば、生野菜のサラダが主流です。みずみずしいシャキシャキとした食感は、それだけで元気にする気がします。ただ、野菜から栄養素をどれだけ摂取できるか。この観点からすると、果たして生が最もいいのでしょうか。野菜を含め植物の細胞壁は、セルロースでできています。だから、硬くて頑丈です。ところが、人間は、セルロースを分解する酵素を持っていませんし、最近は十分にかまなくなっています。結局、生では野菜の細胞を壊しにくいのです。ということは、野菜から栄養素を取るには細胞を壊さなくてはなりません。それが調理です。ちなみに、フランス人に野菜の食感を聞くと、“ドロドロ”という答えが返ってくるそうです。代表料理として、野菜をじっくり煮込んだデミグラスソースがあります。フランスでは野菜を調理して取っているのです。例えば、ニンジンを調理する場合、抗酸化作用のあるある色の吸収が、すりつぶすだけで生より3培、ジュースでは7培になることが報告されています。栄養素の吸収について見ると、野菜は生よりも調理した方が良いようです。年配の方だけでなく、未来を担う子どもたちにも知ってほしいことがあります。それは、今のうちから「もっと野菜を、きちんと野菜を」取ってほしいということです。しかし野菜嫌いの子どもたちがいることも事実です。この現状を変えるために、私は野菜の研究をしてきました。私の研究の目的は、「野菜嫌いの子どもたちをなくす」「子どもたちに野菜をおいしく取ってもらう」ことです。25年前、子どもでもおいしく飲めるニンジンジュースを作りました。研究に3年もかかりましたが、商品として世に出すことができました。これにはエピソードがあります。初めて作った試作品を哺乳瓶に入れて、まだ赤ん坊の息子に飲ませました。そうすると、ゴクゴクと飲んでいるではありませんか。絶対に子どもたちは、開発したニンジンジュースを飲んでくれると確信しました。商品を開発するやいなや、驚くほどの勢いで売れました。その後、ピーマンのジュールやタマネギの加工など、いろいろな野菜の研究を続け、今に至っています。最近では奈良県特産の「大和野菜」を使ったサイダーを商品化しました。 食物の「価値」をさらに引き出す日蓮大聖人のもとに御供養の白米が届いた際、その返礼のお手紙に大聖人は「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」(御書1597頁)とつづられました。あなたの心が込められた、この白米は単なる白米ではありません。あなたの一番大切な命そのものであると受け止めています、との意味です。私たちの命を支えてくれるもの、それが野菜をはじめとする「食」です。食には尊い意義があります。そして、その「価値」をさらに引き出していくのが、私たち研究者の務めです。例えば、野菜の栄養素をより摂取できるように、取り方を見直すことも必要になります。また、それが野菜の新しいおいしさを見つけ出すことにつながるかもしれません。全ての方が、野菜を上手に取りながら健康・長寿であってほしいというのが、私の願いです。そのための研究にますます力を注いでいく決意です。 【ポロフィル】いなくま・たかひろ 大手食品メーカーの研究所に勤務の後、現在の帝塚山大学現代生活学部教授に。一貫して野菜の研究に取り組んできた。農学博士。65歳。1959年(昭和34年)入会。奈良・富雄創価圏副圏長。奈良総県副学術部長。 【紙上セミナー「生活に生きる仏教」】聖教新聞2017.8.29
October 27, 2017
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信心は、社会と人生の荒波を乗り越えるための羅針盤です。 濁世を生きるのであればなおさらのこと、悪縁に紛動されるのではなく、信心を自身の生命と生活の中心軸に据えていくことが肝要となります。 大聖人は、「いよいよ強盛に御志あるべし」と仰せです。信心があれば、いかなる逆風もはね返すことができる。だからこそ、一層、強盛な信心に立つことが勝利への究極の源泉となるのです。 ◇ 「いよいよ強盛」の信心があれば、「色まさり利生もある」とあるように、心身にますます力と輝きが増し、功徳もますます明瞭に現れてくるのです。 いよいよ強盛の信心を重ねることによって、私たちの生命に、金剛不壊の仏界の生命が顕現するからです。 信心の志を重ねることによって、無常のわが生命が何ものにも崩れざる常楽我浄の永遠の宝によって荘厳されるのです。その大境涯を確立するために、志を重ねることが重要となるのです。「志をかさぬれば」とは、信心の持続です。すなわち、何があってもたゆむことなく、むしろことあるごとに、いよいよ強盛の信心を奮い起こして、わが生命を錬磨していくことです。 同じ法華経への信心、同じ御本尊への信心でも、いよいよ強盛の信心を奮い起こすことによって、功徳はいやまして大きくなり、境涯がいやまして広く、豊かになる。 このことは、現実に皆さんが実感し、実証しているとおりです。 ゆえに御書では「いやましての信心」を強く奨励されている。 例えば、四条金吾に対して「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(御書1143頁)、「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」(同1192頁)と仰せです。また、窪尼御前にも、「いよいよ御信用のまさらせ給う事」(同1478頁)、上野尼御前にも「いよいよ信心をいたさせ給へ」(同1505頁)と励まされています。 このように信心強盛な模範の門下にも、大聖人は「いよいよ」と仰せです。言い換えれば、「いよいよ」の姿勢こそ、信心の極意であり、根幹の要諦となるということです。 【勝利の経典「御書」に学ぶ】第3巻
October 26, 2017
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集団自決を免れた沖縄・座間味島(座間味村)の生存者を取材したことがある。米軍上陸を前に、村で402人(村史)が自決した。惨状が頭を離れず、50年経った当時も、うなされると聞いた。 体験を思い出したのは、同じ特攻艇の基地、鹿児島県・奄美群島が舞台の映画「海辺の生と死」を見たからだ。朔(さく)中尉(ちゅうい)と島の女性、トエとの出会いを描く。モデルは、ともに作家の島尾敏雄、ミホ夫妻。加計呂麻島の出来事を綴った自伝的小説が下敷きだ。今年、敏雄生誕100年を迎えた。 8月13日、トエは喪服をまとい、短刀を胸に浜辺へ。朔にすがり、取り乱すトエ。待機のまま15日を迎えるが、奄美にルーツを持つ満島ひかりの迫真の演技が胸を打つ。 宴席で兵隊らが「同期の桜」を歌う場面がある。「歌わないのですか?」と聞くトエに朔が言う。「あんな歌よりも、この島の歌を覚えたい」。後に敏雄が唱えた「ヤポネシア論」の原点を見る思いがした。同論は奄美や沖縄を「琉球弧」と呼び、日本列島を島の連なりと捉える。 その琉球弧をぞんざいに扱ってきた近代日本を、俊雄は「大陸ばかりに目を向けて、本土で中央集権を作ってきた」(『琉球弧の視点から』)と指弾した。国家主義に転落した日本の病理を突いている。 【北斗七星】公明新聞2017.8.28
October 25, 2017
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行政や支援機関というのは基本的に、「困っています」と言いに来てもらうのを待つということが前提で、お店モデルなわけです。しかし、困っていることを言いに「来る」こと自体のハードルが高い。特に孤立している人は、つながりにくいのが現実です。 しかし、気の許せる仲間内や中間団体のような場所があれば、ポロっと「死にたい」と口に出した時に、「ここに連絡してみたら」と支援につないでくれるかもしれません。つらい思いをはき出して、「そんな会社辞めてしまえば」と言ってもらうだけで解決することだって、たくさんあると思います。 そういた課題解決やセーフティーネットの役割をも果たせる可能性が中間団体にはある。一人で孤独を感じた時に誰かとつながれる懐の深い社会、誰も置き去りにしない社会にしていくことが大切です。その意味でも、僕は空洞化した中間社会を埋める存在として、創価学会に期待しています。 政治学者のパットナムが指摘するように、アメリカでは教会が至る所にあり、中間社会において大きな意味を持ってきました。誰かとつながり、話を聞いてもらいたければ、日曜日に教会に行けばいいという雰囲気がある。宗教が人々を結ぶソーシャル・キャピタル(社会関係資本)としての一定の役割を果たしてきたといえます。 一方、日本では神社・寺院がそういう存在であるかというと、そこまでではないと感じます。しかし、困っている人に真面目に寄り添える宗教であれば、「それはここに相談した方がいい」というようなアドバイスをするなど、ある種のソーシャルワーク的な機能を果たしうるのではないかと思います。 僕の実家のある東京の下町のマンモス団地では、号棟ごとに創価学会の地区などのコミュニティーが張り巡らされていました。まさにあのぐらいの身近な単位で、困ったことがあったら何でも相談できる、そんなつながりにあふれた社会をつくっていきたいですね。 【グローバルウォッチ】認定NPO法人「フローレンス」駒崎弘樹代表/聖教新聞2017.8.2
October 24, 2017
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現在日本の危機の本質は、少子高齢化に伴う人材不足にあると思います。であるならば、これからの社会を担う若い人材を増やし、育てていくことに全力を挙げていかなければなりません。 若者は年収300万円を境に、結婚願望が急速に低下するというデータがあります。若者が結婚して、多くの子どもを育てられるように、まずは所得を豊かにしていく必要があります。 また一方で、子どもを抱える若い世代が不安や憂いなく、共働きをしながら子育てできるような社会が必要です。待機児童のような言葉は死語にしなくてはいけません。そもそも人類の祖先は、家族以外の子どもを皆で面倒を見る「共同保育」をして進化してきたといわれるように、社会全体で子どもを育て、子育てをする人たちを支えるという意識が不可欠です。 人材を増やすという観点から見れば、国家予算という限られた資源をより優先的に再分配し、投資すべきなのは、若者世代、子育て世代であるといえます。 しかも近年、京都大学の柴田悠准教授の研究などから、子育て政策への投資は、他と比べて極めて経済効果が高いことも示されています。 しかし、日本は若者・子育て世代への再分配や公的教育支出が、先進国の中で最低レベルという状況をなかなか変えられません。その背景には、かつて多数派だった若者層が高齢層を支えるという社会保障政策の古い考え方を、改めていない現実があります。 特に政策決定する政治家に、次世代への投資を行いにくい構造があります。実際に自分を支援し、投票してくれるのは今の高齢者であり、そこへの資源分配を優先させてしまう傾向にあるのです。 もちろん高齢者を支える必要がないというわけではありません。ただ偏っている資源配分をある程度是正し、比較的に困っていない人が、より困っている人を支える仕組みをつくる必要があります。 では、そういった方向に政策決定者の行動を変えるにはどうしたらいいか、それは世論のサポートです。若者や子育てで困っている人を支えようという社会を支えようという世の中の声を集め、彼らに届け続ける。インターネットで署名などを集めたりしてもいい。最近は「保育園落ちた」のブログが政治を動かしたように、怒りの声を上げることも大切だなと思います。 【グローバルウォッチ】認定NPO法人「フローレンス」駒崎弘樹代表/聖教新聞2017.8.26
October 23, 2017
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———戦争の反省として、国民的熱狂を防がなければならないとおっしゃっています。しかし、現実はワンフレーズで選挙の行方が決するなど、世論の振幅の度合いは激しくなっています。 「熱狂」というと、ときどき文句をいう人がいるんです。太平洋戦争、日中戦争、三国同盟のときでも日本人はそんなに熱狂していなかったと。そういえば毎日デモが起きるような熱狂の仕方はなかった。 だから少々訂正して「熱狂の前に集団催眠にかかるような状況の中で」という言葉を付け加えようと思うんです。集団催眠にかかるということはどういうことかというと、みな同じ方向を向いて動き出すということです。 日中戦争の際、新聞があおった結果、国民は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)。日本が正しくて中国が悪い。断固膺懲すべし」という考え方がサーッと流れていった。国際連盟脱退のときも新聞があおった。国民は「何が国際連盟だ」ということで流された。スローガンは「栄光ある孤立」です。というふうに見ると集団睡眠と考えた方がいいじゃないでしょうか。さながら催眠術にかかったように、同じことを考え、同じ方向にしか目を向けなくなる。 戦争末期、「ソ連は決して攻めてこない。中立条約がある。攻めてこないであろう、いや攻めてこないに違いない」と。攻めてこられると困るので、攻めてこないだろうと思い込む。みな自分の都合のいい方に結論を出す。太平洋戦争でガダルカナルに敵が上陸した。「これは偵察上陸であって本格的な反攻はない」と。反攻であるはずがない、反攻は来年の春だとみなが思っているうちに、偵察上陸だと確信しちゃうんですね。 そういうことが山ほどある。ミッドウェー海戦のときもそうです。南雲機動部隊は「敵航空母艦は出てこないのに違いない、出てくるはずがない。いや、ゼッタイに出てこない」という考えで司令部の頭が染まっていった。そうなったら新しい情報が入ってきても受け付けない。これは集団催眠です。それで一緒になってワーッと流れていくから熱狂になる。それ以外のことは一切認めなくなる。昭和史の大教訓としてこういうことがたくさんあります。 【いま戦争と平和を語る】半藤一利著/日経ビジネス文庫
October 22, 2017
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権力者が行政を自分の直轄下におき、個人的な使用人や任用官吏、個人的な寵臣や腹心を使って統治しているか————この場合の行政スタッフは、物理的行政手段の所有者、つまりそれを自分の権利として占有する者ではなく、その点で支配者に親政している————、あるいはそうではないか、という問題である。 【職業としての政治】マックス・ウェーバー著 脇 圭平訳/岩波文庫
October 21, 2017
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「いつかは目標に通じる歩みを一歩々々と運んでいくのでは足りない。その一歩々々が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない」(山下肇訳)。ドイツの文豪ゲーテの言葉である。 ゲーテにとって、師・ヘルダーとの出会いは、人生を決める大きな一歩だったに違いない。師の「該博な知識」「深い見識」に魅了されたゲーテは、文学理論等を学び、視野を大きく広げた。 ヘルダーの教えは厳しかった。ゲーテの意見に見えや虚飾を感じると、容赦なく辛辣な言葉を投げつけた。だがゲーテは、自己満足や虚栄、高慢など心中に巣くっていたものが厳しい訓練の中で抑えられた、と後に感謝している(『ゲーテ全集9』潮出版社)。 70年前の8月24日、池田先生は入信した。戸田先生を師と仰ぎ、新たな人生を踏み出す胸中には、冒頭のゲーテの言葉が響いていたと述懐している。万般の学問を学ぶ「戸田大学」で峻厳な薫陶を受けつつ、広布の道なき道を切り開いた池田先生。「8・24」は、世界規模の広宣流布と平和・文化・教育運動の起点として、不滅の輝きを放つ。 仏法は「因果俱時」。今、この一念が、未来をつくりだす。師の広布の大闘争を仰ぎつつ、わが人生の勝利へ挑戦の一歩を踏み出したい。 【名字の言】聖教新聞2017.8.23
October 20, 2017
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劇作家 山崎 正和 戦後民主主義の子「国家はいじらしい存在」 ≪私が(中国・満州の)小学校に入った年は、まだ黒い制服だった。しかし二年目(一九四一年四月)からは、戦闘帽とカーキ色の制服に変わります。そういう変化が、私が七歳のときに起こっている≫(17頁)≪いまあらためて私は自分を『戦後民主主義の子』だったなと思っています≫(339頁)◇私は少年時代、軍国主義が高まる京都で苛烈ないじめに遭い、満州ではソ連軍による無知蒙昧な占領を経験し、日本の引き揚げてからは食糧難に見舞われた。息の詰まるような生活を経て、やっと空気を吸い込んだのが戦後だった。自分の成長というか、意識ある一人の人間としての成長期を戦後の霧の中で過ごした。まずその意味で、自分を戦後民主主義の子なのだと思っている。また、手探りながら、私たちの世代で戦後民主主義を体験的につくったということもある。一つの例を挙げれば、男女共学は、私が中学生の時に実験的に導入された。中学生ほどの年齢で、男女が席を並べて勉強するなどということは、日本の歴史上、初めてのことだった。ことほどさように、中学3年から大学院の終わりくらいまでの私の青春は、前人未到の世界を自分で切り開いている感じだった。いわば戦後民主主義の形成に文字通り巻き込まれた。◇≪「じゃあ、お前たちは何をやったんだ」と問われたら、少なくとも民主主義は守ったといえる。世代全体が暗黙の協力をして、まず軍国主義の復活を防いだ、そのうえで日本を北朝鮮にもしなかった≫(336頁)◇世代論というものは難しいものだが、あえて私を昭和1桁世代と位置付けるならば、上の方には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らがいる。この人たちが戦後をつくりはじめ、その途中から私たちが参加した。これを明治時代に置き換えると、吉田茂らは吉田松陰、私は森鴎外と似た立場になる。明治第1世代と同じような体験をしたわけだ。鷗外が生まれた時、国家はまだ小さかったのだ。そのためか、普通、若者にとって国家は、忠実に恐れ崇める存在であるか、抵抗すべき的であるかに分かれるのだが、鷗外は国家を巨大な力と感じてなかった。この国家観は私にも共通している。むしろ国は、自分が力を尽くして守ってあげないといけない、哀れな子どもに思えた。だから、私の言う戦後民主主義の子というのは、別に反体制の意味ではない。国家を敬うものでもなく、畏れるのでもなく、愛すべき、いじらしい存在だと見て、形のないものに形を与える。そうした感覚を持つ人ということだ。 「不機嫌の時代」共産党活動で紛らわす ≪私は『不機嫌』だった。当時はそこまでの分析をしていませんが、アモルファス(amorphous)な、形にならない感情が迫ってきているんですね≫(53頁)◇京都の学校に編入するまで、私は満州の居留民団立の中学校に通っていて、詰め込み教育を受けていた。結果的に大変な英才教育を施されたわけで、そのためか、日本に帰ってくると、学校の授業がばかばかしいほど易しく感じた。それで退屈して、青春時代の内的葛藤というか、モヤモヤした気持ちを解消したいのだが、その方法は教わっていない。解消法はそれぞれ違ったものであろうけれども、私の場合は共産党の活動だった。私は15歳で共産党員になった。では、共産党に感銘を受けていたのかというと、実は共産主義がおかしいことは、その段階ですでに分かっていた。早い話、共産党によると、共産主義社会の移行は「歴史の必然」らしい。必然とは「必ずそうなる」という意味だ。ならば、革命は自然に起きるはずだ。別に党に入って努力する必要はない。これは明らかにおかしい。にもかかわらず、なぜ共産党だったのか。これが青春時代の摩訶不思議なところで、背中がかゆくてひっかくような思い。形にならないウジウジとした感じ。「不機嫌の時代」とも言い換えられる。それをぶち破るために、自分でも決して好きではない共産党の運動をしていた。要するにしんどいことをやって気を紛らわせていた、それだけのことだった。しかし、共産党が想像を絶する暴力集団になったこともあり、大学に入る少し前から、私は共産党や左翼には幻滅しきっていた。それでも、しばらくは周りの友人への「義理」で共産党員を続けていたが、共産党が武装路線を放棄して山村工作隊の友人が帰ってきたので、私はさっさと辞めた。辞めた連中は皆、元気がなかった。ある男は本当に自殺しそうな顔をしていて、私が「明日からは何でも自分の頭で考えるんだよ」と言ったら、「そうだよなあ」とため息をついていた。こんなこともあった。私の同級生だった男が共産党の「人民裁判」の結果、死刑の判決を受けた。で、“五山の送り火”で知られる京都東部の大文字山で、木の幹に縛り付けられ、焼き殺されそうになった。幸い、命は取り留めたが、精神に異常を来たしてしまった。これもまた、私が共産党を嫌悪するゆえんの一つでもある。 「『戦後』の結実」日本式「小国寡民」めざせ ≪私の生きた時代はまだ終わっていない、完全には過去になりきっていないという感じかな≫(399頁)◇日本は、人口が1億そこそこで、国土はアジアのほんの一角に過ぎない。資源といえばほとんどゼロに近い。その中で、経済は世界3位、失業率は3%未満、そして徴兵制度がない。貧富の差はどうか。グローバル経済によって拡大したことは否定できないが、米国や中国に比べれば、うんとましだ。犯罪率は世界最低水準。そんな国は他に見当たらない。何もかもうまくいっているなどと言うつもりは全くないが、戦後は良い結実を見たといえるのではないか。ただ、このままずっと続いていけるかどうかは分からないし、むしろ困難の方がはっきりと見えている。まずは、人口減少、高齢化、これをどう乗り越えるか。それと関連して、莫大な国債残高をどうするか。私は何とか「小国寡民」でバランスが取れると思っている。無論、日本は人口も経済規模も小国ではないわけで、厳密な意味での「小国寡民」はあり得ない。京都大学名誉教授の白石隆さんが「日本は大国になっても超大国になるべきではないし、なれもしない」といった趣旨のことをかかれておられるが、そのような意味での「小国寡民」だ。従って、人口約1000万人のスウェーデンのような極端な小国ではなく、何とか努力して人口は1億に近いところで保つ。国土は絶対に拡張せず、国際情勢に対応した抑止力を持つにしても、必要以上に強くなろうとは考えない。もちろん、核は持たない。 「高学歴低学力」「知的立国」つくる教育こそ ≪いま私が感じている日本の教育上の課題は、頂点を押し上げることではなくて、底辺を押し上げることです≫(326頁)◇これからの日本は、願わくは知的立国をめざしたい。知性にはいろいろな意味がある。人間の品格としての知性を国民が持つのは大事なことで、たとえ役に立たなくても、知性は必要だ。一方で、役に立つ知性、いわば経済を発展させる技術も大事だといえよう。では、それをどうやって実現するか。まず基本的に重要なのは教育投資だ。日本の場合、それしかないと言ってもいいかもしれない。ただし、平等に勉学の機会を与えればいいわけではない。人間は多様だから、多様な能力を、ある制度の下で一元化してしまうのは社会のためにならないし、個人にとっても不幸だ。世界を見渡してもまねできる人がいないような技術を持つ日本の職人は、現場のたたき上げでその技術を身に付けた。こういう人をわざわざ大学の工学部に入れる必要はないだろう。今、ほとんど勉強しないで大学へ進学し、分数の足し算もできない学生が少なからずいる。今は少子化時代だから、高校や大学には質を問わなければ全員が入学できる。すると何が起こるか。ニートを大量生産することになってしまう。これはまずい。従って具体的には、現在の義務教育を100%身に付けてもらう取り組みが重要だと考える。国語であれ英語であれ、中学までの学力を完璧に身に付ければ、社会人として最優秀だ。それ以上、勉強したいという意欲と、その能力を持っている人には援助を強めてもいいのではないだろうか。誰も彼も一辺倒に進学していたら、中身の伴わない「高学歴低学力」ばかりになってしまう。もう一つ、東日本大震災を機に改めて浮上した大災害への対応がある。今この瞬間に南海トラフで、東海、東南海、南海地震が同時発生したら、日本は生きられるか。こればかりは予想がつかないが、ここでも重要なのは先行投資だろう。安全対策を万全にしていくしかないだろう。そういう努力がまるで無効になるほど天災は強くないということだ。 公明新聞2017.8.15 時代の位相と展望<中> 知識人たちの戦後 ≪戦後、今度は繰り返しで、マルクス主義が一気に伸びました。すると学者たちは(中略)大量に左翼になってしまう。(中略)私たちの世代になって、やっと政府に関わることへのアレルギーが少し薄れたんですね≫(336頁)◇1960年代末から70年代にかけての佐藤内閣時代、政府に政策アイディアを助言する知識人グループが生まれた。メンバーは高坂正尭(せいたか)、京極純一、梅棹忠夫、永井陽之助ら新進気鋭の知識人で、私もその中に加わっていた。中心にいて取りまとめていたのが、高い志を持って新聞記者を辞め、主相秘書官のポストにあった楠田實(みのる)氏。「楠田研究会」と呼ばれたこの国際関係懇談会での議論が、やがて沖縄返還や学園紛争の終息などにつながった。その前にも、池田内閣で主相秘書官を務めた伊藤昌哉氏がいたが、彼もジャーナリスト出身だった。官僚出身でも政治家出身でもない人間が官邸の中枢ポジションを占め、力を振るうことができたのはあの時代だけだろう。今では、戦後民主主義というものの形が非常に精緻に作り上げられてしまったがゆえに難しい。逆に言うと、私たちの時は穴だらけだったということだ。◇≪今では(中略)優秀な学者が政治に参加するという風土がほぼ確定したと思います。(中略)その意味でわれわれは戦後世代の開拓民だったと思います≫(336頁)◇ただ、この楠田研究会を先駆けとして、大平内閣でも有識者からなる研究会がつくられ、知識人が政治に参加する流れが広がっていった。今では、良くも悪くも審議会政治が常態化している。思えば、英米系つまりアングロサクソン系の国は、学者と政治の関係が伝統的にいい。英国では18世紀の経済学者アダム・スミスの時代から学者が政治家になり、米国では学者が憲法をつくるなど深く政治に関わってきた。その伝統を象徴するものとして、米国には「ベスト・アンド・ブライテスト」があり、英国には「フェビアン協会」がある。これに比べ、ドイツの近代化を見ると、知識人はある意味、反政治主義で政治というもの事態を軽蔑している。トーマス・マンが『非政治的人間の考察』という本を書いているのが象徴的だ。実は、戦前の日本では、学者たちはドイツに留学すると反政治主義を覚えて帰ってきた。このためドイツの影響を強く受け、学者はお高くとまって後ろに下がるべき存在となってしまった。これが一転、戦後になると左翼化という揺り戻しを経て米国型になる。それで佐藤政権における学者の政治参加が楠田研究会となって実を結び、今の各審議会に至っている。私自身もその後、小渕政権時代の「『21世紀日本の構想』懇談会」や、小泉政権下の「追悼・平和施設懇談会」などに参加し、2007年からは中央教育審議会の会長を務めた。記憶に新しいのが、天皇陛下の退位を巡って設置された有識者会議(座長=今井敬経経団連会長、座長代理=御厨貴東京大学名誉教授)だ。非常に微妙な、つまり一代限りの退位を認め、基本的な皇室典範の改定は行わないが、特例法は典範と一体を成すこととした。こうした事例を通しても分かる通り、知識人の知恵と工夫が政治に反映され、成果を生んでいることは確かだろう。 公明新聞2017.8.22
October 19, 2017
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インドの雪山にすむ寒苦鳥は、夜の寒さに震え、“明日こそ巣を作ろう”と決意する。しかし太陽が出て暖かくなると、決意を忘れて遊んでしまい、再び寒い夜を迎える。結局、巣を作れないまま一生を終える————国や文化が違っても、物事を先延ばしにしがちな人間の性は共通なのだと納得した。 なぜ人はやるべきことを先延ばしにしてしまうのか。脳神経外科医の築山節氏によれば、脳の司令塔である前頭葉の働きが低下すると、“楽をしたい”という脳の原始的な欲求を抑えられなくなるという。 前頭葉の働きを高める方法の一つとして、氏は特に「家事」の有効性を強調する。例えば料理や片付けは「選択・判断・系列化」の連続であり、それを自主的に行うことで前頭葉の働きが活発になり、主体的な行動につながるそうだ(『脳が冴える15の習慣』NHK出版)。 御書に「心の師とはなるも心を師とせざれ」(1025頁)と。成長と幸福への方向へ、自身を動かしていくのが信心の力。「今ここから!」と決め、動き出せば、人生は変わり始める。【名字の言】聖教新聞2017.8.19
October 18, 2017
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少子高齢化、人口減少が急速に進む日本社会。時代の変化をどう読み、先手を打つか————さまざまな団体や企業が、生き残りを懸けて必死の努力を重ねている。 今、多くの自治体が直面する課題が公民館など公共施設の維持。かつて盛んに造られた「ハコモノ」は維持費等がかかり、財政を圧迫する。しかし、神奈川県の秦野市は逆転の発想で、この「お荷物」を「宝の山」へと変えた(「潮」9日号)。 例えば市役所の敷地内にコンビニを開設。賃料が入るとともに、市役所の利用者の利便性の向上にもつながった。また、保険福祉センターの空き会議室を民間に貸与。市民のための「パソコン教室」などが開設され、その使用料は施設の維持管理費に充てられている。こうした改革で、財政状況を大きく改善できたという。 資源や財源は有限だが、人間の知恵は無限だ。どんな悪条件でも、必ず活路は開ける。大事なのは「時代の先を見る目」と「逆境を好機に変える知恵」だ。 御書には「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(254頁)と。信心根本に努力と工夫を重ねて現実社会で勝利する。それが仏法者の生き方。変化の時代だからこそ、「知恵の太陽」をわが胸中に昇らせ、新たな価値を創造していこう。 【名字の言】聖教新聞2017.8.18
October 17, 2017
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文芸評論家 持田 叙子昨今の温暖化で、夏の微妙な美しさが、ずいぶん失われてしまった。 たとえば朝(あさ)涼(すず)とか、朝露という季節のことばを、東京ではなかなか実感することができない。すこし昔——今から五十年ほど前の昭和の夏は、クーラーがまだ一般化しないから、昼は暑いが、朝晩はグッと涼しい。 とくに兵庫県の山にかこまれた盆地ですごす夏休みの、神秘的な美しさは子どもごころにも忘れがたかった。 ときどき早起きして、近所のお寺の池の蓮の花を見にゆく。霧の流れる池の蓮は、そこここでポン、ポン、という不思議な音を立てて開く。 開花に音を立てる植物を見るのは初めてで、やはり仏さまの国に咲く花はちがう、と思った。真珠のように朝露をちりばめる純白や紅色のはなびらの中に吸い込まれそうだった。 母方の祖父は軍人だったが、敗戦を経てきっぱり故郷で帰農した。過去のことをいっさい語らなかった。イギリスに留学し、シルクハットをかむった人が、いつも麦わら帽に白いステテコ状のものを身につけ、鍬をかついでいた。 花とくだものを育てるのが得意で、祖父の夏のダリヤ畑はみごとだった。ダリヤ見にいくか、とまたお声がかかる。明治の硬派な男の祖父は、子どもと話すのなんか苦手で、いっしょに遊んだりしない。 その代わり、孫を連れて畑に行く。朝露に濡れたダリアの色あざやかな花々を目にして、孫は駆け出す。祖父から渡された花バサミを手に、ぶきっちょに切る。 まくわうりが熟していれば、大きな喜びだ。しっかりと露をふくんだ大きな黄色のうりを選び、家に持って帰る。 うりから生まれたうり子姫、と言われるくらい、私も姉も夏中、祖父のまくわうりをよく食べた。露をおびたうりを胸に抱いてあぜ道をあるく心躍りは強烈で、夏の朝といえばまず、思い出す。 【言葉の遠近法】公明新聞2017.8.16
October 16, 2017
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書評幕末から明治にかけて日本人の多くは他のアジア諸国を見下し、あわよくば併呑さえ夢見ていた。著者によればあの吉田松陰でさえ、日本は「蝦夷を墾(ひら)き琉球を収め、朝鮮を取り満州を拉(じさ)き、支那を圧縮し印度に臨みて、以て進取の勢いを(持て)」と主張していたし、明治の進歩的文化人福沢諭吉でさえ、「支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず」と「脱亜論」を展開した。いわんや自由民権論者や数々の大陸浪人をや。一方、本書の主人公宮崎滔天は彼らと対照的だ。中国で革命が成功すれば、植民地支配に苦しむインド、タイ、ベトナム、フィリピン、エジプトなど抑圧された諸民族を励ますと考えた。すなわち「中国革命から世界革命へ」だ。その中国では3世紀近く続いた満州族支配の清朝に漢民族の不満が高まっていた。滔天は、清朝に追われて欧米やアジアへの亡命生活を余儀なくされていた革命家孫文を見つけ出し、熊本県の実家にかくまって励まし、彼のために資金集めに奔走した。資金集めとキャンペーンを兼ねて浪曲師となって口座にも上り、夫妻で何度も大陸を激励訪問した。面白いのは清朝末期中国人の多くが孫文を知ったきっかけが滔天の自伝的エッセー『三十三年の夢』を通じてだったという事実だ。同書の中国語訳が出るや、清から日本へ留学生が急増し、今や有名人となった孫文や滔天を次々と訪ねた。やがて彼らが帰国して清朝を打倒した辛亥革命(1911~12年)を担う。孫文は中国でも台湾でも「国父」として尊敬される。宮崎家も「井戸を掘った人」として敬意が払われる。だが滔天の友好努力と裏腹に日本は朝鮮併合(10年)や「対華21か条要求」(15年)など隣国への侵略政策を強め滔天を悔しがらせた。彼はこのままではやがて日米戦争に至り、日本は自滅すると自著で警鐘を乱打しながら22年、51歳で没した。日米開戦はその約20年後だった。本書は単なる伝記を超えた著者渾身の日本近代史である。 ジャーナリスト 長沼 節夫評 かとう・なおき ノンフィクション作家、1967年東京生まれ。著書に『九月、東京の路上で』。 『読書』公明新聞2017.8.14
October 15, 2017
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「妙法蓮華経は己心にあり」と信じることは“私は必ず幸せになれる”“私は必ず一生成仏できる”と確信することです。そして“自分の友も幸せになれる。だから友に語っていこう”と、広宣流布の戦いに打って出るのです。 「妙法」は、万人の苦悩を除く大良薬である。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生き切るのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。 私たちの現実は、次から次へ悩みがある。しかし、自分が妙法蓮華経であると定めて、“いかなる苦難も乗り越えていける”“断じて幸福を勝ち取っていくことができる”との大確信で、全てに向かって勇敢に挑戦していくことです。 「我は妙法蓮華経なり」との深い信心を貫くならば、勇気をもって、いかなる課題にも挑戦していける。勇気を現わしていけるかどうか、そこに人生の勝利の鍵があるのです。 【『一生成仏抄講義』】
October 14, 2017
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誕生日が待ち遠しかったのは、何歳頃までだったのでしょうか。誕生日が来ても、うれしくないような歳になってきました。 しかし、不思議です。 私たちの体の細胞は常に更新されて、新しくなっています。肌の古い細胞は垢となって、常に新しい肌が生れています。たとえ、百歳の身体であっても、生まれたての赤ちゃんと同じように新しい細胞に包まれているのです。それなのに、私たちの体は間違いなく老いてきています。 すべての生き物は「死にたくない」と思って生きています。しかし、すべての生命は必ず自ら老いて死ぬのです。 「死」は地球上の生命が作り出した最大の発明です。「形あるものはいつかは滅ぶ」と言われるように、この世に永遠にあり続けることのできるものはありません。そこで生命は永遠にあり続けるために、自らを壊して、新しく作り直す道を選択しました。こうして、生命は世代を超えて命のリレーをつなぎながら、永遠であり続けることを可能にしたのです。生命は永遠であるために、限りある命を選択したのです。 すべてのものが永遠であったとしたら、私たちは生きがいを持って充実した日々を過ごすことができるでしょうか。こんなにも生き生きと暮らすことができるでしょうか。こんなにも生きることを真剣に思い悩むでしょうか。 命の輝きを保つために、生命は「限りあること」に価値を見出したのです。大切な節目である誕生日を嫌がるようでは、まだまだということなのでしょう。 【すなどけい】公明新聞2017.8.11
October 13, 2017
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津波で妻子を亡くした男が、1年ほど後、夏の月夜に妻のまぼろしと出会う。妻は、結婚前に心を通わせていた、同じ津波で死んだ男となぎさを歩いていた。<今は此の人と夫婦になりてあり>という妻に<子供は可愛くは無いのか>と問い返すと、顔色を変えて泣き出す。そして、妻は男と去っていった。柳田国男の『遠野物語』の第99話である。 主人公の男性は、岩手県山田町に婿入りし、明治三陸地震津波(1896年)に遭った。この話は、幽霊譚とされてきたが、災害死に直面した悲しみを語る『心の物語』として、読み直されている。 東日本大震災の被災地でも“不思議な現象”の目撃談が後を絶たないという。夏なのに冬服姿の若い人を乗せて会話した……。宮城県石巻市で、東北学院大学の学生がタクシー運転手に聞き取り調査した卒業論文が以前、注目された。突然、震災で命を奪われた人の「無念の想い」を運転手が「畏敬の心」で受け止めて起きた現象ではないかと論じたものだ。 「霊でも夢でもいいから、亡き人の存在を感じたい。それが愛する者を失った痛みへの対処法かもしれない」。学生を指導した同大の金菱清教授は語っていた。 きょうは震災から6年5カ月。あの日から時が止まったままの人もいる。被災地を思い心を寄せる一日としたい。 【北斗七星】公明新聞2017.8.11
October 12, 2017
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夏の冷ややっこはもちろん、1年を通して日本の食卓でおなじみの「豆腐」。スーパーでも数多くの商品が並び、どれを買うか迷った経験がある人も多いことだろう。 それもそのはず。現在は大豆の使用割合などに応じた表示ルールがなく、こだわり製品も汎用品もひとくくりに「豆腐」として売られている。このため、買う側は製品の差が分からず、価格ばかりに目が行きがち。製造側も小売業者に買いたたかれやすい。 こんな現状を打開しようと、豆腐業者の全国団体が委員会を設け、業界の自主ルールである「」公正競争規約作りを進めている。規約案では、(1)「とうふ」(大豆の割合が10%以上で、大豆、凝固剤、水だけを使用)(2)「調製とうふ」(同8%以上、調味料など使用)(3)「加工とうふ」(同6%以上、焼き豆腐など)————に分類し、成分を表示する。 ちなみに1丁300グラムに比べると、「とうふ」が約150グラムの大豆を使うのに対し、「加工とうふ」は90グラム。また「最高級」「本格」「天然」といった根拠が曖昧な表示は禁止する方針だ。新表示は2018年度中消費者庁と公正取引委員会による認定、告示をめざす。 食品の品質が分かる分類と成分の表示は、消費者の的確な商品選びに役立ち、製造側も良品の市場拡大が期待できよう。歓迎したい。 【北斗七星】公明新聞2017.8.10
October 11, 2017
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歴史学者 藤野 豊 土門拳というと、私は奈良の古寺や仏像の静粛な写真を思い起こす。しかし、土門拳には激しい怒りの写真もあった。1959年、すでに、写真家としての地位を確立していた土門のもとに、筑豊をテーマにした写真集の依頼が寄せられた。依頼したのはパトリア書店というと出版社である。これを受けて、土門は撮影を開始し、『筑豊の子どもたち』(パトリア書店、1960年)をつくり、さらに『るみえちゃんはお父さんが死んだ 続・筑豊の子どもたち』(研光社、同)を刊行した。どちらも、あえてザラ紙に印刷し週刊誌の体裁にした。定価は100円であった。そこには虐げられた人々、貧しい人々と共に国の炭鉱合理化政策と戦おうとする土門の怒りが込められていた。『筑豊のこどもたち』は10万部を突破したというと。「著者のことば」で、土門は「日本各地の炭田地帯には、いま炭鉱離職者の大集団がいる。貧窮のどん底にありながらなぜ、かれらが暴動を起こさないのか不思議なくらいだった。それがマケ犬の忍従なのか、いわゆる日本人のネバリ強さなのか、ぼくにはわからない。長い圧迫の歴史が、かれらのエネルギーをどこかに閉じこめてしまったかに見える」と述べている。国策により生活を破壊されたのもかかわらず、暴動も起こさず忍従する炭鉱失業者の秘められたエネルギーを、土門は子どもたちの表情に求めたのである。反響は大きかった。東宝が映画化に踏み切る。監督は当初、広沢栄が予定されていたが、当方と意見が合わず、川内清一郎に代わった。土門も映画化に全面的に協力した。原作が写真集であるので、映画は完全な創作となった。閉山された筑豊の小さな炭鉱が舞台となり、失業し、希望を失った加東大介演じる江藤新吾とその子の武らを軸にストーリーつくられた。撮影にはセットを使わず、全て田川市近郊の東洋炭鉱でロケが行われた。ライトも使わず、ニュース映画用のカメラを使用し、出演者はメーキャップもしなかった。あえて、ドキュメンタリー風の映画に仕立てたのである。撮影には筑豊の炭鉱労使双方が協力した。映画では、筑豊を訪れた代議士が、秘書に「石炭産業はもう救いようがないよね、まあ、せいぜいあと五年か」「それが歴史というもんだ。世の中が進歩するにはそのくらいの犠牲はつきものだよ」と語るシーンがある。この言葉に、土門拳の怒り、内川清一郎の怒りが凝縮されていたのであろう。 【炭鉱のまちを歩く[15]】聖教新聞2017.8.10
October 10, 2017
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自分が行動しても、それが本当に世界をよりよく変えられるのだろうか? 自分の力だけでは、何もすることができないのではないだろうか? こうした無力感や諦めを打ち破って、“世界を変える主役は、汝自身なり!”と、真実に目覚めるように教えたのが仏法です。 「総勘文抄」には、「心の一法より国土世間も出来するなり」と仰せです。一念の変革によって、この現実世界を変えていけると明かされています。変えることができないように思える国も、世界も、所詮、人間の集まりであり、人間の心が作ってきたものです。 だからこそ、社会や国土の変革の起点は、人間自身の心の変革にあるのです。 「我が身一人の日記文書」ゆえに、全ては一人の人間革命から始まるのです。 【世界を照らす「太陽の仏法」】大白蓮華2017年8月号
October 9, 2017
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戦争の痛哭と哀切を刻んだ記録である。永井荷風の「断腸亭日乗」(岩波書店)を久しぶりに手にした。今年は、彼がこの日記を起筆して100年の節目に当たる。 1943(昭和18)年の大晦日の条には、「今日の軍人政府の為すところは秦の始皇帝政治に似たり」と書き留めた。焚書(ふんしょ)などの蛮行で専制政治を敷いた古代中国を引き合いに出して、苛(か)政(せい)を咎(とが)めている。年が明けた1月2日には、文学雑誌の発行を禁止する政府の方針に対し、「思想の天変を防止し文化の進歩を阻害する」と綴り、書物の取り締まりを強化する軍政を批判した。 同じ頃、欧州では版図を広げるナチスが、征服した国土で書籍を焼き払った。その数は1億冊を超すという。当時の米国のニューヨーク・タイムズはこの暴挙を「文学に対するホロコースト(大量虐殺)」と非難した。洋の東西に関係なく、軍事独裁国家は活字が紡ぐ思想を目の敵にするようである。 今年も広島と長崎の原爆忌、そして「8・15」と続く日々が巡ってきた。鎮魂と追想の時節だが、戦火の中を逃げ回った語り部の声を直接聞く機会は少なくなり、過去は遠ざかる気もする。 しかし、「あの日」の忘却は悲劇への道につながりかねない。歴史や教訓をどのように伝えていくか。ペンの役割と責任が試されている。 【北斗七星】公明新聞2017.8.8
October 8, 2017
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SGIの信仰に出あったのは2008年のことでした。当時、私は人生に行き詰まりを感じ、ひどく落ち込んでいたのです。そんな私を見かねて、その数年前に入会していた友人が、スペインSGIの会合に誘ってくれたのでした。 「題目を唱えていけば、自身の境涯が開けていくよ」 友人の確信ある言葉に、唱題を実践していくうちに、それまでの暗く閉鎖的な思考が消えて、物事を見る視点が変わっていくのを実感しました とりわけ感銘を受けたのは、全ての人に仏界がそなわり、“仏”になれるという思想でした。日蓮仏法は、俗世を離れた寺院で修行しなければ成仏できないというような宗教ではなく、仕事や家庭を持った現実社会の中で、誰もが仏界の生命を涌現していける「民衆のための仏法」です。 これこそ自分がずっと求めてきた宗教だと感じ、御本尊を受持することを決心しました。その日から私の「人間革命」への挑戦が始まったのです。 何かを達成して成功するたびに、気付くとそれを投げ出してしまっているのが、以前の私でした。地道に信仰を続けていく中で、そういう自分の傾向性と向き合い、克服することに挑戦していきました。 池田先生がつづられた長編詩「平和を! 平和を! そこに幸福が生まれる」のこうあります。 幸福は追い求めてつかまえるものではない。勇気と忍耐の人についてくるものだ。 そして入会から6年を迎えた14年、現在の世界的企業に採用されたのです。 今は、毎朝の唱題生命力と歓喜をみなぎらせて一日を出発します。どんな問題や壁に直面しても、自分の立てた目標は必ず成し遂げられるという確信で仕事に臨んでいます。自信をもって顧客であるヘアサロンに商品を提供するのが私の仕事です。自分の力を信じられなくて、どうして務まるでしょうか。 (スペインSGI ハビエル・マルティネス) 【世界のSGIの友】聖教新聞2017.8.7
October 7, 2017
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金髪、付けまつげに厚化粧。素行が悪く何度も無期停学に。学力は全国模試の偏差値が30で、小学4年生程度。聖徳太子を「きっと超デブだから、こんな名前つけられたんだよ。“せいとく たこ”なんて」と真顔で言う。 そんな高校2年の夏休みに、さやかちゃんは難関大学の受験を決意した。きっかけは、通い始めた塾の先生との出会いだった。この、最近テレビで見た映画『ビリギャル』の原作は実話で、『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(坪田信貴著)。 「私を肯定してくれた先生でした。私を見た瞬間、顔をしかめる大人とは少し違いました。私のことをよく褒めました」と振り返るさやかちゃん。もちろん合格への道のりは平たんではなかった。 周囲から「お前にできるわけがない」「身のほどを知れ」とばかにされた。父親との仲は最悪で、家庭内はギクシャク。ただ母親が彼女を信じ、応援した。そして「死ぬ気で頑張るって、意外といいもんでした」と後に語るほど変わっていった彼女。 「太陽には太陽の輝きがあり、月には月の、そして星々の明るさがある」(ペスタロッチ)。子どもには、それぞれの輝きがあり、それを信じ育むことが、彼らの未来を育むことが、彼らの未来を開く。 【北斗七星】公明新聞2017.8.7
October 6, 2017
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「ワンオペ育児」という言葉が広がりつつある。ワンオペとは、飲食店などで従業員が一人で全業務を行うこと(ワンオペレーション)。この過酷な労働と同じように、一人で育児を行う若い母親が増えている。 「夫の仕事が忙しくて頼れない」「たまに家にいても、非協力的」などの悩みを抱える人も少なくない。「疲れがたまり、追い詰められ、つい子どもに強くあたってしまい、さらに落ち込む」という人も。共働きだと、状況はより深刻になる。 帰宅すると、赤ん坊と3歳児の子が泣いていた。そして妻も泣いていた。その姿にハッとした————ある男子部員が語っていた。彼は、“子を立派に育てるのは自分の責任”と腹を決め、挑戦を始めた。朝早く出社し、仕事を全力で早く終わらせ、親子の時間を増やす。家事も率先する。「今は“パパを楽しもう”と考えるようになりました」 池田先生は述べている。「たった一人でも、味方になってくれたら、どんなにうれしいか」「『自分は、あなたの味方だ!』と伝えてくれる人がいれば、闇の中に『光』が差す」。 育児だけではなく、さまざまな悩みを一人で抱えている人がいる。そんな人に一言でも声を掛け、少しでも共感できたなら、家庭も社会も、もっと明るくなるはずだ。 【名字の言】聖教新聞2017.8.7
October 5, 2017
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「立正安国論」がなぜ、伝説なのかと問われそうであるが、現代において、「立正安国論」が一種の時代錯誤、もしくは過激思想であるとして、現代人のなかで伝説化され、オカルトの終末思想のなかで語られたり、歴史の闇に葬られようとしている過にも見えるので、この問題のついて述べておきたいと思う。まず、「立正安国論」の論点、ひいては日蓮の主張が、本当に過激なのかという問題がある。たとえば、佐藤弘夫「日蓮」では次のように述べている。「日蓮の登用と専修念仏の禁止がどのような政治的な結果をもたらすかを、彼(北条時頼)は十二分に承知していた。立正安国論のごとき過激な主張の黙殺は、ある意味では日蓮に対する消極的ではあっても精一杯の好意だったのである」(130頁)「そこに立正安国論の提出である。念仏者たちの頭越しに権力者に直接念仏停止を求めるこの行動は、念仏者たちの怒りの炎に油を注ぐことになった」同(130頁)さて、「国家暴力による特定教壇の排除を求める主張」同(125頁)「立正安国論のごとき過激な主張」同(130頁)というが、日蓮は権力によって念仏を排除しようとしたのであろうか。「立正安国論」をもって念仏の弾圧を画策したのであろうか。「立正安国論」は本当に過激な書なのであろうか。「立正安国論」は本当に為政者が受容できない内容だったのであろうか。「立正安国論」が幕府に要求する所は何か。法華経への信仰は別にして、それは、「其の施を止む」ということに要約される。念仏への保護と供養を止めよということでしかないのではないか。「主人の曰く、客明らかに経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。全く仏子を禁ずるには非ず、唯偏に謗法を悪(みく)むなり。夫れ釈迦の以前の仏教は、其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は、則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦、一切の四衆、其の悪に施さずして、皆この善に帰せば、何なる難か並び起こり、何なる災いが競い来たらん」立正安国論(御書30頁)現実に当時の幕府は、大仏の鋳造に莫大な費用を注ぎ込んでおり、また多くの念仏寺院を建てて念仏者を財政面で庇護していたのである。それを止めればよいだけのことである。それは決して不可能なことではなかった。政策的に疑問があるというならば、日蓮を呼び出して、施策を問い、そのうえで納得いかなければ、受け容れられぬと拒否すればいいだけの話である。「黙殺することが精一杯の好意」などということであろうはずがない。ゆえに日蓮は「聞きほどかずして云云」という言葉をたびたび述べている。 「其の故は日本国の主として少しも道理を知ぬべき相模殿だにも国をたすけんと云う者を子細も鬨ほど(解)かず理不尽に死罪にあてがう事なれば・況やその末の者どものことは、よ(善)きの・たのまれず・あ(悪)しきも・にくからず」一谷入道女房御書(御書1326頁)もう一点、日蓮が幕府に期待したもの。それは公の場で念仏者との法論対決であった。単純にいえば日蓮が幕府に求めたものは、この一点だけである。この一点が幕府が受け入れることができない条件とは、どうしても思えないのである。さらに、「念仏者たちの頭越しに権力者に直接念仏停止を求める行動」というが、事実と違うのではないか。日蓮の念仏批判は立正開示以来のことであり、日蓮が鎌倉入りして、鎌倉の念仏者と直接やり取りをするようになってから、「立正安国論」の上呈まで、少なくとも十年以上経過している。決して頭越しとはいえないであろう。これが批判されるなら、公的な発言は一切できないことになってしまう。まさに「立正安国」の要諦は、意見の真意を「聞きほどき」、公の場で白黒を決することであろう。今日の民主主義においても通ずる普遍的なものではないだろうか。 【日蓮伝再考————伝説の長夜を照らす】山中講一郎著/平安出版
October 4, 2017
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古代史家、日本地名研究所所長 関 和彦去る五月二十七日、東京都武蔵野市において全国地名研究者武蔵野大会を開催した。主催した日本地名研究所は、民俗学者の故・谷川健一が川崎市の協力を得て、地名文化を育てることを目的として設立された民間研究所である。全国各地で大会を重ね今年で三十六回を迎え、はじめての東京での開催となった。会場を国木田独歩、柳田国男が歩いた武蔵野の面影を残す武蔵野市とし、市の協力で開催となった。当日行った基調講演では「古代の武蔵野」という題のもと、「武蔵野」という地名の成立・変遷に関する歴史的な地名考察にあった。これをもとに、武蔵野の歴史、地名の大切さ地名の「地命」たる所以(ゆえん)について言及したいと思う。古代、古墳時代の頃、「むさし」(埼玉県・東京都、一部神奈川県を含む)は「无(む)邪(さ)志(し)国造(くにのみやっこ)」「胸(むね)刺(さし)国造」「知々夫(ちちぶ)国造」という三大豪族によって分割統治されていた。平野部の无邪志と胸刺は抗争し、无邪志が一帯を支配するようになった。「无邪志」から「武蔵」に表記が変化したのは、奈良時代の神亀三(七二六)年、国・郡・郷の行政地名は漢字二字、そして、「好字」で表記せよとの命令に従ったものであった。その〇邪志国造が崇めていたのが『万葉集』に詠われる「武蔵嶺」(武甲山)であったと思われる。『万葉集』十四巻の東歌に『武蔵』を冠した『武蔵嶺の小峰見かくし 忘れ行く君が名かけて 吾を音し泣くる』、そして「武蔵野のをぐきか雉 立ち別れ 去にし宵より 背ろに逢はなふよ」とあり、「峰」(山)と「野」が用いられ区別されていたことがわかる。古代人の自然観察には鋭いものがあった。また、地域の秀峰は神の坐す山とされ、山の「いただき」は神を戴くところと思われていた。『古事記』に目を向けるとイザナギ・イザナミから生まれた神に「大山津見神」、そして「」野椎神の神名を挙げて山と野を区別していることがわかる。「山」と「野」の違いは高低ではなく、植生にあったと思われる。『出雲国風土記』には複数の山野に関する記述がある。それによれば、「野」は、樹木に被われた「山」に対して樹木のない草山であり、そして将来的には開発が可能な知であったことがわかる。武蔵野の範囲は広い。文明十八(一四八六)年、冬の十二月、学僧尭恵が下野の佐野から武蔵に入り、「むさしの国へうつりぬ」「幾千里」「ゆくゑもしらぬかれ野を駒にまかせて過侍るに」、「富士蒼天にひとしくして雪みどりをかくせり」と『北国紀行』に記している。武蔵野は「幾千里」、富士を背景に広がっていたのである。武蔵嶺の麓。その前面地域は広大な武蔵野であった。その証であろうか、今も小字の「武蔵野」が各地に残り、また「武蔵」を冠した地名、駅名が埼玉・東京四部、そして神奈川に及ぶ範囲で広がっている。そこはかつて東に筑波、西に富士を見る一大原野、その武蔵野の原野はまた「むらさき」草の宝庫でもあった。古代、都人は「武蔵野」といえば「むらさき」を思い浮かべたようである。「むさしのにおふとしきけば むらさきの その色ならぬ 草もむつまじ」と詠う。今、紫草は見られなくなった。ただ武蔵野は力強い地名である。「野」は開発可能地を表し、時代とともに変遷してきた。世界有数の大都会、東京の西辺にありながらも、「武蔵野」という空間、そして地名は人びとに憩いを与えながら地名を愛護する人びとに守られながら生きているのである。(せき・かずひこ)【文化】公明新聞2017.8.6
October 3, 2017
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かつて「特捜神話」というものがあった。東京や大阪の地検特捜部は巨悪に目を凝らし、わるいやつらを眠らせず、必ずや不正にメスを振るう。人々はそんなイメージを抱いていた。あるときは今か今かの世論を背に満を持して、またあるときは電光石火の早業で————。 ロッキード事件が生みだし、リクルート事件で膨らんだ幻想は、しかし崩壊した。決定打になったのは、郵便不正事件の証拠改ざんと陸山会捜査の不首尾である。とんと輝きを失った特捜検察は、さてこの難関をどう越えるか。証拠改ざんの傷なお癒えぬ大阪の特捜部が、森友学園をめぐる疑惑で前理事長夫妻を逮捕した。 容疑は補助金詐取である。しかし誰もがいちばん知りたいのは、小学校用地として国有地が8億円も値引きされ渡った経緯だ。前理事長らはかつて安倍首相の妻、昭恵さんに取り入り、夫人は何度も幼稚園を訪れた。そんななかで売却話は進んだ。昭恵さん付の政府職員が財務省に進捗状況を照会したこともわかっている。 忘れていたあれこれを思い出させ、あらためて国民の関心をかきたてているのだから、特捜検察への期待はかろうじて命脈を保っているのかもしれない。ならばこのさい、どんな関係者もきちんと調べて真相に迫ってもらいたいものだ。昔みたいに気負わず、しかし臆さず捜査を進めてもらいたい。神話時代のことは忘れて。 【春秋】日本経済新聞2017.8.2
October 2, 2017
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歴史学者 藤野 豊 私は、小学6年生の時、近所の短大生のお姉さんから、これを読んでごらんと1冊の本をもらった。それが安本末子の『にあんちゃん 十歳の少女の日記』(光文社、1958年)であった。しかし、その時はあまり興味を覚えず、読んだのか、読まなかったのかさえ記憶が定かではない。しかし、半世紀を経てその本と向き合うことになった。『にあんちゃん』は、10歳の少女、安本末子の1953年1月22日~54年9月3日の日記をまとめたもので、佐賀県東松浦郡入野村(現・唐津市)にある杵島炭鉱が経営する大鶴鉱業所の炭労住宅に生まれ育った在日コリアンの4人のきょうだい、すなわち、喜一(20歳)、良子(16歳)、高一(12歳)、末子の生活の記録である。「にあんちゃん」とは末子にとって2番目の兄、高一のことである。4人はすでに母を失い、父も失う。『にあんちゃん』は父の死の記述から始まる。少女の日記とはいえ、そこには両親を失った子どもたちの苦労、炭鉱の臨時雇いとして働く喜一の解雇ときょうだいの離散、在日コリアンへの民族差別といった厳しい現実が淡々と記されていた。この本は半年間で36万部が発行されるベストセラーになり、NHKラジオでもドラマ化され、韓国でも翻訳出版された。なぜ、この本が売れたのか。安本には、炭労合理化政策を批判することが、在日コリアンへの差別を告発するとかいう意図はなかった。そこに込められたのは、逆境の中でも、きょうだい4人の絆を信じて幸せに生きたいという願いのみであった。教育委員会は逆境に負けず生きる子どもたちの記録として評価し、日教組は別に資本主義への批判の書として評価し、校長も組合の教師もこの本を児童、生徒に勧めた。そして、59年、気鋭の監督、今村昌平が、『にあんちゃん』を映画化する。喜一は長門裕之が演じたが、ほかの3人の子役は一般公募した。良子を演じた松代嘉代は、これを機にプロの女優の道を歩む。映画では、石炭鉱業合理化臨時措置法の下で閉山に追い込まれる炭鉱の子どもたちに焦点が当てられ、炭鉱合理化への痛烈な批判、そして在日コリアンへの差別の怒りが込められていた。そのため文部省の教育映画選定には漏れてしまった。しかし、映画化された『にあんちゃん』は炭鉱合理化政策への社会の関心を高める結果をもたらした。映画化された炭鉱合理化の犠牲となる子どもたちの姿は、原作を超えていた。 【炭鉱のまちを歩く[14]】聖教新聞2017.8.3
October 1, 2017
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