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古いパリの写真をUPしてみようと思う。かなり古いけどね。何てったって初めてパリに出掛けたのが1972年‥‥丁度50年前だから。カビ生えてそうだね。 1976年に再びパリの地を踏んだのはこの街に住んでみたいと思ったから。なけなしの貯金から19万8000円也で1年オープンの往復航空券を買って南廻りでパリに辿り着いた。考えたら4年程前にたった8日間居ただけのパリ。はっきり言って何も分からずやって来たけど、不思議と旅に不安はなかった。 ホテルも予約してなかったのでオルリー空港(当時はシャルル・ド・ゴール空港はまだ無かった)のホテル案内所で安いホテルを探して貰ってたまたま取れたホテルが『ホテル・デ・スエーデ』。初日は旅の疲れ落としにお風呂付きの部屋を頼んだけど、翌日にホテルのマダムに「1ヶ月程滞在したいので安い部屋が欲しい」と頼んで一番安い部屋(長期滞在者用の屋根裏部屋・1泊1,300円程(約50年程前の話しだよ)を充てがわれた。ホテルランクは二つ星のNN。NNは改築して施設を整え二つ星を取ったと言うことで、まだまだ下のランクもあって星のついてないホテルにホステル、ゲストハウスもある様だけど、値段はまちまち。建物は古くランクが二つ星だから4階建てを超えてもエレベーターもなくてサービスステップで屋根裏部屋まで荷物を担いで上がる。1972年に来た時はホテル・シェラトン・モンパルナス。四つ星のLUXで無駄な広さの部屋だったけど、今度の部屋は流石にコンパクト。今、自分がパリの何処にいるのかさえ分からない『ぽっとでの田舎もん』状態でホテルに入ったし、部屋を見て「安いってこんなもんかい」と少し落胆したけど屋根裏部屋から外を見て驚いてしまった。 ホテルの前を川が流れてたのは分かっていたけど、パリにだって川はいっぱいあるだろうから気にしていなかったが、見えた景色は川を挟んで右手にライトアップされた見覚えのある建物。ノートル・ダム大聖殿。じゃあ目の前の川はセーヌ川。対岸はクルーゾー警部のいるパリ警視庁。左手にはパリ市庁舎、少し遠いけどルーブル美術館。「パリだ!」。とにかくここはパリのど真ん中だった。知らなかったけど。明けて二日めの朝。屋根裏部屋の窓から望むノートル・ダム大聖殿。ここはパリ左岸の端っこ。セーヌ川を挟んで目の前はシテ島だ。『ホテル・デ・スエーデ』の屋根裏部屋。1976年当時、日本人でアフロは珍しかったのか税関で止められ何度も写真と見比べられた。パスポートの写真は7:3分けでスーツ姿。まわりの入管も集まって一頻り笑われた。思い出の部屋は四畳半より狭く写真では左上が暗くなっているが天井が屋根の勾配に合わせて斜めになっていた。一泊千三百円強の部屋。こんなもんだろう。手に持っているのはイタリア米。長粒種でパサパサのお米だけど激安。殆ど夜はやってはいけない自炊をしていたが、米の炊ける匂いは独特だからバレてたと思う。パリって建築の高さ制限があって高い建物は建てられない。でもパリを訪れた観光客は高い所に上りたがる(だからお上りさんていうのかどうか‥‥知らんけど・関西人談)。で、シテ島で高いところといったらノートル・ダム大聖殿の南塔。長くて暗い階段をひたすら歩いて登って着いた所は鐘楼(ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートル・ダムのせむし男』がいた所)鐘の中。大きな鐘の前で現代の鐘撞き男が説明してくれるけどフランス語で何言ってんのかさっぱり分からないのにしっかりチップ取られて鐘楼の外の回廊に出ればノートル・ダムのガーゴイルの団体さんが迎えてくれる。これは厳密にはガーゴイルではない。ノートル・ダムの怪物さん達。頭からムシャムシャ喰らいついている様はちょっとグロかも。 パリに約4年間いたけど一度も登ったことがないのが高さ324mのエッフェル塔最上階の第三展望台。地上高276mあってパリで最も高い位置にある展望台だ。別に高所恐怖症でもないけど最上階まで上がるエレベーター料金を含む入場料が、ホテルの一泊料金より高かったのでやめた覚えがある。ちなみに地上から2階までのエレベーターはぜひ乗ってみるべし。なんてったってエッフェル塔の足の部分をエレベーターが斜めに上がっていく。こんなエレベーターは他に類を見ない(当時はね。今じゃ傾斜地を斜めに登るエレベーターは日本にも沢山あるけどね。兵庫県芦屋市には川の下をくぐる為のエレベーターもある)。次に人気の高い‥‥高い所と言うばエトワールの凱旋門の上。ここも自力で上がる。登ってみると結構高いんだよね。パリの左岸に見える高い建物はエッフェル塔(300m)と1972年に建てられたモンパルナス・タワー(210m)。その昔。エッフェル塔完成当時の1889年にパリで流行った与太話に「パリで一番の眺め?。それはエッフェル塔からの眺めさ。なんてったってエッフェル塔が見えん」なんてのがあったそうな。それが1972年にはモンパルナス・タワーになり、1977年にはパリ市の名前の由来となったケルト民族系パリシィ族が紀元前250頃から住み着いた古い歴史のマレ地区(パリ3区・4区)に、赤や青のパイプが走り捲るジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター出来ると、然程の高さは無かったまでもボロクソに言われたらしい。あくまでこれは外観の話だけどね。マレ地区にはね‥‥。エトワールの凱旋門からの眺望。もし上るならおすすめなのがエトワール凱旋門。ただし料金は大人1,700円程(2022年2月12日現在)。しかも284段の階段しかない。でも、高々50mの高さなのに眺望を妨げる建物が一切ないのが気持ちがいい。シャルル・ド・ゴール広場から放射線状に伸びた8本の通りに建つ建物は行儀よく高さを整え、派手な色も形もない。エトワールから伸びる通りの中で最も有名な通り、観光客で賑わうシャンゼリゼ通りにある日本航空の鶴丸でさえ、赤ではなく金色になっていた。 エトワールの凱旋門から東を望めば、シャンゼリゼ通りの先にえるコンコルド広場のオベリスク。チュイルリー公園の先には遠くルーブル宮が望める。 凱旋門からセーヌ左岸(南)を望めばエッフェル塔とモンパルナスタワー。北を見ればモンマルトルの丘にサクレクール寺院。そして西を見ると、シャンゼリゼ通りの延長線上に伸びるグラン・ダルメ通り。その先には高層ビルが乱立するラ・デファンスの新凱旋門(グランダルシュ、フランスでの正式名称は『友愛の大アーチ』、高さ111m35階建ての高層ビル)が見える。ドゴール広場を挟んで近未来都市と中世の歴史遺産を残す古都が共存している。それがパリ。未来都市デファンス。もちろんパリではない。この相反する都市がどう共存していくのか爺ィには見届ける時間は残されていない。でも、ひとついい事があった。半世紀前のパリの街に暮らした事。 何物にも換え難い体験だった。もう、二度と行く事はないだろうけど‥‥ でも、もし行く事が出来たら、リンドバーグの様に夜間飛行の飛行機からパリの街を見下ろし、『翼よ、あれが巴里の灯だ』なんて言ってみたい。もし行く事があれば、ロバート・キャパのように飛行機の窓からパリの街を見下ろして、『Paris‥‥ C'est moi』
2022.02.12
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最近は時計の話ばかりだったから久しぶりにパリの思い出など‥‥。 最初にパリに行ったのは1974年の事。格安のパック旅行があったので「外国行くならパリ」ってなんとなく思っていたので出掛けて行った。宿泊は『モンパルナス・シェラトン(今はない様だが)』。 ジェラール・フィリップが主演したモディリアーニの生涯を描いたフランス映画『モンパルナスの灯』のタイトルでしか知らないモンパルナスに惹かれてパリに出掛けたすっ惚けた話しだが、すっかりど嵌まりしてしまって、1976年4月にパリ5区、サンミッシェル河岸の安ホテル『スエーデ(今は違う名前のホテルになっている。驚くことに4つ星だ)』の屋根裏部屋にいた。 ホテルの環境は最高に良くて窓を開ければ眼下にセーヌ川が流れ、右手にはノートル・ダム橋越しにノートルダム寺院(今は焼けちゃって修復中だよね)、日曜日には寺院の鐘の音が聞こえ、目の前はパリ警視庁だ(クルーゾー警部はいない様だけど)。左手にサン•ミッシェル橋。すなわちカルチェ•ラタンの北の入口。まっすぐ南に下ればソルボンヌ(と言ってもあっちこっちに校舎はあったみたいだけど)。モンパルナスとは随分違った雰囲気だけどカルチェ•ラタンは学生の街。安いレストランもあって貧乏旅行者には有難かった。交通の便も良くて、サン•ミッシェルにはS•N•C•F(フランス国鉄)とメトロ、そしてRER(パリとイル•ド•フランスを結ぶ急行地下鉄)の駅があり、当時はシャルル•ド•ゴール空港は開港前で、郊外のオルリー空港からバスで最寄りのRERの駅で地下鉄(郊外だから地上を走るけどね)に乗り継げばサン•ミッシェル駅までほぼ一本。有難いことに駅はサン•ミッシェル河岸にあったから、常宿になっていたホテル『スエーデ』は目の前。その環境が気に入って76年から78年の春までそのホテルで過ごした。その後にモンパルナスからメトロで一駅のババン駅近くにある1900年代初頭に多くの日本人が逗留したホテル『リベリア(残念ながら今は別の名前になっている)』に移り、78年春から79年春まで過ごし、後にフランス人の友人の紹介でパリ郊外(国鉄で30分程)のピアレーに住むフランス人のお宅に居候をさせていただき80年春までお世話になった。フランスの4月は夜風が冷たく、ドッセ家最初の夜はご主人が部屋にある暖炉に火を入れてくれた。で、今日はその思い出の部屋の写真をUPしたいと思う。パリ郊外のピアレーにあるドォッセ家の間借り部屋と言っても16畳程の広さだった。初日に火を入れてくれた暖炉。暖炉の上にはドゥッセ家の御先祖の写真が掛けられていた。それだけでは少し物足りなく思うのでパリの『オランジュリー美術館』の地下にあるモネの『睡蓮』の絵をUPしておく。チュイルリー庭園のオランジュリー美術館にあるモネの『睡蓮』の壁画。観光客はモネが印象派の画家だから別棟の印象派美術館に壁画があると勘違いすることが多いらしい。斯く言う私も印象紙美術館で睡蓮の壁画を探しまくった一員だった。 小さくてよく分からないけど。モネの睡蓮です。
2022.02.06
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神経痛は日増しに痛くなり今日は歩きに行けなかった。で、最近NETで仕入れた革バンドのブランクにお気に入りのバックルを取り付けた。その写真をUPしようかなとも思ったけど、昨晩撮影した時計の写真があるので今日は時計の話、再び。 今日の時計は『BENRUS(ベンラス)』。所謂アメリカン・ネームと呼ばれる時計メーカーで約100年程前にアメリカで創業し、第二次世界大戦下軍用時計の需要の高まりでアメリカ三大メーカーの一つになった会社。なかでも珍しいデジタルと言うか何と言うか‥‥しかも干支(エト•昔の時計屋さんは文字盤の事をそう呼んでいた)は、色がオリジナルではなくて元々の文字盤は水が入ったのか傷みが酷く深い紺色の塗料で塗り直している。 この『BENRUS』は時計のケースがワンピースと呼ばれる物で、裏蓋がなく、一体化されたケースに機械を入れてガラス(プラスチックの風防)で固定されている。ある意味珍しい防水ケースだけど、竜頭からか風防からか水が入ったらしく干支が悲惨な状態になっていた。それで手を加えて今の色に塗り替えてみた。ケースは10金のG.P(ゴールドプレート・金メッキ)、赤っぽい金色だけどローズ・ゴールドではない。で、いくつか所持している『BENRUS』の中では気に入っていて時々使用している。 こんな色の干支はないよね。でも、最近国産の『CITIZEN・シチズン』が『CAMPANOLA・カンパノラ』とか高級時計路線で『繭色(まゆいろ)』とか『紺瑠璃(こんるり)』とか『鈍緋色(にびひいろ)』とか、伝統的な和色の干支を次々と発表しているのを見て『瑠璃色(ちょっと違うけど)」では「こっちが先じゃ」とほくそ笑んでいる。「そんなぎょうさん時計集めて‥‥腕は二本しかないやろ」なんて口の悪い友人に言われたりもするが、元々、家業の時計屋を継いでた時期もあったからか時計は頗る付きで好き。集めるわけでもなかったがいつの間にかコレクションになっていた。 そんなところで今回も時計のお話し。でした。
2022.02.05
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何度やればいいのか、また繰り返しになってしまった。 やっと治まっていた右足の神経痛がまたまた出てきた。懲りないことだ。痛みが治まった頃に歩いていて気になった事は身体が左右にフラフラと揺れる事だった。体幹が整っていない事は随分前から気になっていたので、少しは鍛えることになるかとスクワットと反復横跳びをすることにした。 スクワットは以前からしていた運動なのでそれに反復横跳びを加えてみたのだが、どうも左右に移動した時に、足を踏ん張る事がいけなかったのか、太腿に少し痛みが出だした。「しまった!」と思った時には既に遅く、また、向こう脛、ふくらはぎ、太腿と痛みが拡がって歩けなくなって来ている。何度同じ失敗を繰り返したら学習するのか。今日も足を引き摺って買い物を済ませた。情けない。で、出来あいの食料を買い込んで料理をさぼった。 古い道具箱を開けて、先日に続き古い時計を引っ張り出す。『ULYSSE NARDIN』。日本ではあまり名前を知られていないが、船舶に積まれる『マリン・クロノグラフ』で古くから知られるスイスの老舗だ。写真の時計は一見ストップウオッチに見えるが、歴とした懐中時計で、文字盤には5•15•25•35•45•55と数字しか刻まれていないが、時計の針は短針・長針・秒針(下段の60秒刻みの小さな針)で構成され、ストップウオッチは、時計の長い秒針と分針(上段の60分を刻む小さな針)で成り立っている。マリン・ウオッチが得意な会社だけに、この懐中時計も旧日本海軍横須賀航空隊の飛行機乗りが使用していた時計らしい。残念なことに機械は綺麗だが長らくメンテナンスされてなくて、ストップウオッチの秒針と分針に少しブレがあるが、コンディションはまずまずで、たまにGパンのベルトにストラップを通して小さなポケットに投げ込んで使っている。 もうすぐ72歳の爺ィには似合いの懐中時計だろう。勿論、ズレ方もね。
2022.02.03
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今日は2022年2月1日。私は十二支を6周して年男。有り難くもない爺ィの老骨虎。牙も虫歯になり今や上下とも入れ歯になってしまった。そんな老ぼれ虎にも歴史はあように、身につけている装飾品にも歴史があるこの時計は、ROREX GMT-MASTERの発売初期のモデル。ただしGMTはその当時アウトリングは赤と青が午前と午後を色分けして表現し24時間の刻みがあったが、初期のものは素材が悪く色落ちし罅が入ってついには割れてしまった。新しいリングを探してみたものの当時のものは既になく、あるとしたらその当時のGMT-MASTERを壊れててもいいのでパーツ取りに手に入れるか、ROLEXに当時のハーツがあるかないか問い合わせてみることだが、あったとしてもハーツ代はかなりの高額だろうし、リングだけ売って貰うってわけにもいかないだろうし、仕方ないから口径の合った他社のリングをはめ込んで誤魔化して使っている。私がリングを無くしたのが1975年の事でまだGMT-MASTER II にモデルチェンジして無かったから、ROLEXの事だから古いパーツも探せば確かにあっただろうが、当時のGMTはかなり人気があって、私が壊した赤・青のベゼルは『ペプシ・コーラ』の販売元「ヘプシコ」のロゴと一緒の色合いから『ペプシ』の愛称で呼ばれ、他の赤黒のベゼルの色分けはコカ・コーラのイメージカラーから『コーク』と呼ばれ、茶黒、茶金のベゼル物はノンアルコールの『ルート・ビア』と呼ばれていたらしい。どの色合いでも厭わなければパーツは見つかっただろうと思うけど、パーツを探して見付けたとしても、竜頭ガードがまだ無い当時のGMTの竜頭交換代金が、オーバーホール込みで当時のセイコー社の主流商品『スポーツマチック5』が両手両足に3個ずつ巻ける程の値段だったから、例えベゼルひとつでもそこそこの時計が買えちゃう程ROLEXの修理代は高かった。だから自分だけ分かってればいいやって殆どパッチ物呼ばわりされながらサイズのあったリングを探し出して嵌め込み『今でも』使っている。因みにリングはタダの数字だし、回転はしない。 1956年製だから私より5歳若い時計。いつまで付き合ってくれるか分からないけど、今更『ROLEX』は買えないから『ROLEX』の歴史の1ページを確かに飾ってきた『GMT-MASTER』のリングパッチ•カスタムモデルを死ぬまでこき使ってやろうと思っている。 どっちが先にクタばるんだろうねぇ?。しぶといからなぁ‥‥ROLEXは。だけど『ROLEX GMT=MASTER』なら壊れても名は残るけど、例え六周り生きた寅年の爺ィではね。何んも残せないんだなぁ。 まぁ、仕方ないか。
2022.02.01
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