全28件 (28件中 1-28件目)
1
インターネットを始めて半年が過ぎました。この短い期間に様々な新しいことに出会い、好奇心も右往左往してましたがさし当って現在定着したものが、ブログとFX為替保証金取引です。<ブログ>従来日記を書こうと始めるのですがいつも三日坊主で終わることが多く、日記らしい日記は残っておりません。ところが、ブログを始めてからというもの、毎日書くのが楽しくてたまらないという日が続いています。私の書くブログが、全国に流れ、どこかの誰かが読んでくれるかも知れないと思うと不思議に書くのが楽しくなります。ちょうどカラオケで、義理の拍手を勘違いして、歌手気取りで騒音を流すのと似た気分です。最初多くのアクセスがあったとき、喜んで開いて見ると、その大部分が商品の売り込み、怪しい出会い形サイト、等々でがっかりしましたが、そのうち数人の仲間が出来て、毎日楽しくブログのやり取りを楽しんでおります。このブログを契機に、今までの人生の記録やこれからの生き様を残して行こうと思っております。<FX外国為替保証金取引>これは、インターネットで初めて知った世界でした。本来インターネットを始めた契機は、株式のネット取引をやることだったのですがFXに出会い考えが変わりました。小額の資金でスタートできて、高い比率の利益が取れるからです。現在私は、ニュージーランドドル/円一本槍で、スワップ金利主体の取引で月に2~3回売買をやるだけで、月利10%は確実に取れています。もちろん下落時のロスカット対策も完璧にクリアしてのことです。銀行預金等からしたら夢のような利率ですが事実です。まだやられていない方は、すぐに始めるべきです。外為ドットコムでは、バーチャル取引で実際の取引と同じ体験が無料で出来ます。毎日計算通り金利が振り込まれるのは気持ちいいものです。
2006年11月30日
コメント(4)
昭和38年5月東証2部市場への株式上場手続きも完了し、ほっとしていたとき人事部長から、中野寮のK君が入社することになったが、精神的に弱いんで、他の部署だとすぐつぶれる危険性があるので、あなたの下においてくれないないかとの要請があった。もちろん、私もこれが最良の処置だと考え、気持ちよく引き受けた。その後、注意しながら見ていたが、予想以上に元気で、明るく行動しており夏の終わり頃には親しい友達も出来て、海や山に2回ほど遊びに行ってきたとかで大変元気だった。しかもその友達のA君は私も良く知っていたので、これなら心配しなくてもいいかなとほっとした気分になっていた。秋には、女の子も入れて3人で奥多摩の山にハイキングに行く計画があるといって楽しみにしていた。ところが、そのハイキングの翌日の月曜日、K君が出社していないので、お母さんに連絡取ったら、今朝いつもの時間に出かけていったし、特に変わった様子もなかったというのだ。もしかして事故にでもあったのじゃないかと、いろいろ調べたが、それらしいこともない。ハイキングに行ったA君に尋ねたが、特別変わった様子はなかったという。しかしA君が”あえてあげれば、山で道に迷ったとき、女の子の手前、K君がリーダーシップを取りたかったのに、それが上手く出来なかったといって気にしていたことがあった”といった。いずれにしても1日中連絡もなかったので、警察に捜索願いを出した。そして10日後、最悪の結果が報告された。自殺の名所として有名な熱海の錦ヶ浦で遺体が発見されたのだ。繊細な神経のK君の心に何が起こったのか想像するしかなすすべはなかった。1人息子を失った寮母の悲しみを癒す言葉はありませんでした。この美しい寮母は、一生を通じて過酷な修行を課されてこの世に生まれた魂に見えて仕方ありませんでした。
2006年11月29日
コメント(4)
経理部在籍時結婚までの1年間ほど、東中野にあった単身寮に入っていた。寮といっても普通の2階建ての民家で、1階の6畳と2階6畳2間の小さなもの。塀1つ隔てた隣の大邸宅は、”大利根月夜””チャンチキおけさ”の作曲で有名な作曲家 長津義司の自宅で毎日ピアノの音が聞こえておりました。寮の1階には寮母とその息子が住んでいた。この寮母は最初に会ったときから何か気になる存在だった。というのが、知性と教養に溢れたその上品な顔立ちから、華やかな過去が推測されるのだ。寮の食事にしても、限られた食材ですばらしい料理を作るのだ。私は帰りが遅いので、食事の時にしか話す機会がなかったが、小説等の読書の話になるとその読書量には舌を巻いた。私も純文学、大衆小説、推理小説等の読書量は、多い方だと自負していたが、まるっきりかなわなかった。この寮母の大きな悩みが、1人息子のK君のことだった。内気で、高校生なのに友達も出来ないし勉強もさっぱりしないしと悩みを打ち明けられた。そこで私が教育係りを引き受けることにした。幸い私には早くなついて何でも話すようになったので、休みの日はキャッチボールをして野球の楽しさを教え込んだ。勉強では会社に入ったら絶対役立つからと、商業簿記を教えることにした。そこで勉強の喜びを感じさせるために、商工会議所の簿記検定の試験を受けさせることにした。やる気を出させる仕組みとして、私も一緒に試験を受けるから競争しようということでスタートした。毎日問題集を解かせ、添削してやりながら一緒に勉強した。3~4ヶ月して3級の試験を受けたところめでたく合格。この時のK君の喜びの表情はいまだに忘れません。そしてこれを境にしてK君が見違えるほど明るくなり、学校の勉強にも積極的になったと寮母に言われたときは本当にうれしかったです。その翌年、2級もすんなり合格ーもちろん私もーし、K君更に元気になりました。それからまもなく私は結婚するため寮を出ることになりましたが、別れの日、寮母の美しい瞳が潤んでいたのを見て思わずもらい泣きしました。ところがこれから1年半後、奇妙な縁で、この親子と会うことなり、寮母の美しい顔が絶望の悲しみに震えるのを見ようとは神のみぞ知ることでした。
2006年11月28日
コメント(1)
丸ビル勤務2年目で、会社は有楽町の駅近くのN石油のビルに移転した。移転するとまもなく、会社の株式を東証2部に上場する計画が発表され、総務部に株式課が新設されそこの主任として、配属された。主任といっても株式担当は私一人のみ。全国規模の会社とはいっても、内容は個人の同族会社に毛の生えた程度のお粗末なものだったので社内管理体制の改革、帳票書類の整備等、新会社設立に匹敵する忙しさでした。私の仕事は、幹事証券のN証券との窓口で、N証券からの指導要綱を、会社の社長に説明し社長の名を借りて社内各部署に事務処理を依頼することでした。長年個人の同族会社感覚でやってきているだけに、社長の意識の改革に一番苦労しました。この時社長の、意識改革に大きな役割を果たしてくれたのが、N証券の一番若くして事業部長になったというT部長です。当時まだ30歳代で、その営業手腕ぶりは、証券業界の話題をさらっており、この時すでに将来、N証券の社長になることが決定していたのですからすごい男でした。その10数年後社長になり、N証券の驚異的な発展を成し遂げたのです。N証券の力添えにより昭和38年5月上場は完了しましたが、私にとってはまったく異色の人種と関係を持つこととなりました。 それは”総会屋”です。N証券では全ての総会屋の名簿を作成してあり、大物小物のランク付けもされていました。まず、総会屋との最初の接触は、上場決定後連日総会屋なるものが、会社の受付に”上場の祝辞”を述べにきたときでした。その風体は種々様々で、大会社の社長タイプ、ヤクザの親分とチンピラタイプ、おとなしいサラリーマンタイプ、変わったところでは、赤ちゃんをおんぶした奥さんタイプ(女です)とこれらが毎日5~6人来るわけです。来たらまず名前を聞き、密かに総会屋のランク表を調べるのです。ランクによって渡すご祝儀が違うわけです。確か500円1000円で大物のときは別途値決めをする仕組みでした。ご祝儀が少ないと怒鳴りだすのが多くて、苦労しました。今でも思い出すのは、中村銀次と名乗る身長1m80センチくらいで、頬に大きな切り傷のある総会屋が、金額が少ないと騒ぎ出し、応接間に通して話し合いをやろうとしたんですが、大声でわめくやら、今にも暴れだしそうな気配で1時間話したが収まらない。仕方なく社長に報告したところ、”よし、俺が話すから社長室へ呼んで来い”といわれ、くだんの男を社長室に案内した。すると5分もしないで出てきて、私のところに来て”申し訳ありませんでした。NK社長とは知らなかったので。今後一切迷惑掛けませんから”と別人のようにおとなしく帰っていった。その後2度と会社に来ることはありませんでした。これから、30年間、直接間接この総会屋なる人種と関係を持つとは考えてもいませんでした。しかもこの世界は、一匹狼もいますが、多くは暴力団、右翼等と裏で直結していますので様々なドラマが展開することになりました。
2006年11月27日
コメント(2)
googleのweb検索で、いろいろ遊んでいたところ、「70歳の青春」を検索したら、「70歳の青春 楽天ブログ」がトップに「インターネット狂騒曲第1番 楽天ブログ」が2番目にいずれも私のブログがトップに表示されていたので、思わずバンザイしちゃいました。たまたまこの言葉を使う人が少なかっただけのこととはいえ、なんか徳したみたいな気分になりました。これからますます調子に乗って、「70歳の青春」で過去の思い出とこれからの生き様を書き続けたいと、心に誓う好奇老人でした。
2006年11月26日
コメント(3)
入社してから結婚までの3年近くは、湘南の茅ヶ崎市に住んでいました。それも海水浴場まで歩いて5分ほどの、松林に囲まれ、広い芝の庭のある立派な邸宅でした。この家の所有者は、M商事の偉い方で、3年間海外に赴任するため、家の管理を依頼されたのです。家賃は0ですが、家の中の掃除やら庭の芝生の手入れ等結構大変でした。すぐ近くに、歌手の平尾昌晃、少し離れたところに加山雄三が、すぐ隣には有名な銀座のドイツ料理店のケテルのオーナーが住んでおりました。朝早く、金網の塀越にケテルさんと顔をあわせ、”グーテンモルゲン”と挨拶を交わす毎日でした。茅ヶ崎の駅まで歩いて15分ほど、毎日6時に家を出て、丸ビルの会社に入るのが7時30分、始業は8時半ですが、社長はじめ管理職は全て1時間前には出社しておりました。もちろん私は平社員で、電車で座るため毎日早く出社してたのですが会社の評価は”やる気のある男”と見られたようで、勤務評定ではかなり得をしたように感じました。仕事の方は、目茶苦茶忙しくて、毎晩23:00まで残業し、尚且つ日曜日もほとんど休みなし。最初の頃は上司から、慣れるまで月1回は休んでもいいと言われましたが、そこは”やる気のある男”ですから、きっぱり断り、最初に休んだ日曜日は入社から3ヶ月目でした。古参社員の間では、いろいろ不満も渦巻いていましたが、私にとっては最初に固定給0の苦しいセールスの仕事を経験してますから,座って仕事して高い給料をもらうなんて、なんて楽な仕事だろうと思っていました。事実肉体的にはほとんど疲れは感じませんでした。精神的には”恋に夢中”でしたから毎日が楽しく最高に充実した時期でした。23時に仕事を終えて、東京駅発平塚行き湘南電車の最終に乗り,家に着くのが1時、4時間寝て、また電車に乗る。これが日課でした。ところが、23:30発最終電車は常連客が多く、10人ほどの友達の輪が出来て毎日座るシートも指定席になってしまって、楽しい最終電車でした。最初の頃は眠ってしまって終着の平塚駅まで乗り過ごすこともありましたが、仲間が出来てからは、お互いに降りる駅が解りますので、1つ前で降りる人が起こしてくれるという決まりが出来て、乗り過ごしもなくなりました。今では考えられない勤務状態ですが、スポーツで鍛えた強靭な肉体に恋の守護霊がとり憑いたお陰か、”疲れた””苦しい””辛い”という感情は一切なく、むしろ毎日仕事すろことが楽しくワクワクの連続でした。そしてこの後、会社としても初めての新業務の部門に移され、私の挑戦意欲に火がつくことになりました。
2006年11月24日
コメント(2)
当時会社も景気がよく会社主催の慰安旅行の費用は会社が全額負担してくれたのでほとんど全員が参加した。仕事の関係から2回に分けて半数ずつが参加した。観光バスに分乗して、熱海で1泊、宴会、翌日箱根、伊豆半島の観光という行程だった。先輩幹事に注意事項、特に札付きの酒乱癖のある管理職5名ほどの名前を教えてもらった。なんとその中に、私の所属する経理部に2人もいるではないか。土曜日の午後丸ビル前を出発して熱海に向かった。第1班の最高幹部は、S経理部長。バスがスタートした途端宴会が始まった。1時間もしないうちに、社内は酔っ払い集団の巣窟と化した。私は前の方でガイドさんの品定めをやりながら、楽しんでいた。するといつも無口で、社長や副社長にしかられてはぺこぺこしているS経理部長が顔を真っ赤にして、大声でわめいている。完全に別人だ。”何が社長だ!威張りやがって!俺の方が年が上なんだぞ!てめーなんか早く死んじまえ!”普段押さえつけられている感情が一気に爆発した感じだ。また、周りの酔ったのが”そうだ!そうだ!その通り!もっとやれ!”とはやし立てるものだから、ますます気勢をあげて、社長副社長の悪口を連発。この旅行には2人とも参加しないことになっている安心感からの爆発だ。そこで、幹事3人でで示し合わせて、嘘の情報を伝えることに。”部長、今日の宴会に急遽副社長が出席することになりました”と耳元でささやいた途端顔色が変わり、声が出なくなった。さっきまではやし立てていた奴がこれに上乗せして”部長の言ったこと、副社長に報告しますから”と冗談言うものだから、部長完全に意気消沈、酔いもさめたみたい。夜の大宴会が幕を明けて30分ほどしたら、今度は同じく経理部のH主任がわめきだした。この人も普段は無口の経理屋の権化のような人。”奥さんが何だ!女の癖に威張りやがって!給料みんな取り上げやがって!飲み代くらいよこしやがれ!俺を誰だと思っているんだ!”ちらとうわさには聞いていたが、恐妻家のサンプルみたいな感じだ。しばらくしたら酔いつぶれたので、部屋に寝かしつけて事なきを得た。酒乱の横綱は設計部のSA部長。宴会が終わり、風呂に入って寝ようかという時刻に、浴室の方で数人の女性の嬌声が聞こえてきた。いってみたら、女性の浴室の中が大騒ぎ。聞いたらSA部長が女湯に入って中から鍵をかけて女の子を追い掛け回しているとのこと。何とか入り口の戸をこじ開け、女湯に入りSA部長を取り押さえた。女性の裸体もついでに鑑賞しようと周りを見たが、湯気でよく見えずやむなく断念。SA部長はかなり酔っていて暴れてしょうがないので、仲居さんに帯を借りて、ちょうどいい柱があったので、スッポンポンのSA部長を柱に縛りつけ、朝までそのまま見せしめにすることに。夜中に酔いが覚め、誰かが帯を解いたらしいが、この処置は拍手喝さいを浴びた。翌朝くだんのSA部長、女湯で暴れたことは一切記憶にないという。このことを境に、経理部からのお願い事に関して、設計部が一番協力的になったのは言うまでもありません。
2006年11月23日
コメント(2)
入社した建設会社は、主に食品関係、水産関係の工場建設が売り上げの大半を占めていた。本社事務所は、旧丸ビルの4Fと7Fで私の配属先の経理部は4Fだった。経理部の人員は、部長、課長、主任、この3人ともかなりの高齢者いやベテランというべき人たちだった。後は、私と同年のK君、みめ麗しい処女がいるだけ。関西弁の部長は社長の義兄、はげ頭の課長は、M財閥の末裔とかで、世の中のあらゆる辛苦を経験してきて、経営全般にわたって詳しい中小企業にうってつけの老人だった。H主任は、いわゆる一切融通の利かない経理屋タイプで尚且つ脳の細胞の死滅が加速している感じ。K君は、偶然にも大学が一緒で、1年前に入社したとのこと。人がよくまじめ一本の性格だった。最後の処女K子、私が好きだった東映の時代劇のお姫様役の女優と同性同名だったことから最初から親しくなった。暗い雰囲気の経理部にあって、それは太陽のような存在だった。私に与えられた最初の仕事は、振替伝票から科目別の台帳への転記の仕事だった。そこで練習してきたそろばんの見取り算が役立つことになった。そのスピードは、K子にはかなわなかったが、H主任やK君には引けを取らず、面目を保った。1ヶ月2ヶ月と過ぎた頃には、完全に、偽ベテラン経理マンの評価は高まり、一方料亭で行われた歓迎会で披露した即興都都逸の名調子が話題となり、その年の秋の慰安旅行では幹事に抜擢され、第1班200人の熱海での宴会を取り仕切り、大成功。社内の女子社員の注目を集めた。しかし、私の心は、K子に釘付けになり、1年半の逢引を重ねた結果、無事ゴールインとなった次第です。結婚式に当っては、手元資金がなかったので、社長に直接借金を申し込み無事結婚式を終えたといういわく付きです。
2006年11月21日
コメント(4)
出社開始まで1週間しかない。この間に”経理のベテラン”に変身しなければせっかくの就職がフイになってしまう。就職の喜びが一転して不安に変わった一晩中いろんなことが頭の中を交錯し、考えがまとまらなかったが、朝の太陽の光を見た瞬間、やるべきことが、整然と浮かんできた。まず実務面では、そろばんの見取り算の練習、日常取引の仕訳、残高試算表作成、決算処理の方法をマスターすること。理論面では、商法の会社法、企業会計原則、財務諸表規則の重点項目を頭に押し込むこと。この方針で勉強するため、そろばんの見取り算の練習帖と商業簿記検定3級2級の問題集を購入し、昼間はもっぱらこの2種類の練習。夜は、大学で使った教科書並びに参考書を寝る間も惜しんで、必死に読んだ。商法の会社法、「会計学一般理論」、「企業会計原則」黒澤清著、「簿記教科書」沼田著等々5~6冊を大学時代では考えられない真剣さで読み続けた。自分の中に大きな変化がおきていることに気付いたのは、2日目の「商法ー会社法」を読み出した時だった。従来このような種類の本を読むときは、少し読んではまた戻って考えをまとめてからまた先へ進むのが通例だったが,この時は、読む側からどんどん理解でき、しかも本の活字が行列を作って頭の中に吸い込まれるような感覚に襲われたのである。そして1冊読み終わり、記憶を呼び起こすと詳細にわたって完全に記憶され理解されていたのだ。過去の自分では考えられない奇跡だった。その後読んだ本については、さらに読むスピードを上げているのに、同じように全てが頭の脳味噌にしみこむ感じだった。一週間の最後の日、今まで読んだ本の内容全ての復習をやったところ、6冊の内容が全てきちんと頭の中で整理されていて、どこからでも詳細な内容が明確に思い出されるのだ。追い詰められて、死に物狂いでやった結果、隠されていた能力が発揮されたのだ。いわゆる火事場の馬鹿力的現象だったのだ。そろばんの見取り算も一応恥ずかしくない程度にできるようになり、簿記に付いては3日目で2級の問題が全て100%出来るまでになった。これで明日は堂々と出社できると、その夜は早々にせんべい布団の上に大の字で熟睡した。その夜夢を見たかどうかは記憶にない。そして明日、想像もしなかった大きな幸運に遭遇することも、知る由もなかった。
2006年11月20日
コメント(2)
ホームコースの11月月例会に参加。天気は快晴、風もほとんどなしの絶好のコンデイシオン。昨日の後半の調子なら、優勝も可能と、張り切ってスタートした。ところが、昨日の調子は何処へやら、さっぱりリズムがつかめず、ギッタンバッタンのゴルフ。それに加え、同伴競技者の女性が、ショートホールで5発OB連発、待つこと10分、こっちまで感染してOBを出し、午前中のOUT 49.午後のINでもだらだら大叩き。かの女性は、50ヤードずつの刻みゴルフ。待って待ってまた待って、漸く2打目を打つと、こっちまでチョロ。17番ロングでOB連発で、ついに2桁の10.ついに初心者に逆戻り。 IN 50でTOTAL 99の本年度 最多記録を達成。ところが同伴競技者のハンデイ12のH氏が信じられないスコア-103を叩いた。もう1人のY氏(18)が105と全員大叩き。かの女性は130台。これだけ叩くゴルフをやりながら、悪びれることなく、プレーする度胸のよさにには感心せざるを得ない。何者だろうと、聞いたら中学校の先生だという。顔は中の下くらいだが、不良生徒を押さえつける度胸のある先生とのこと。度胸はいいとしても、ゴルフはもう少し上手くなって、欲しいと心の中で思う次第です。ラウンド終了後、コースの人が”なんで3人して100も叩くの”といったのに対し女性教師の一言。”3人の生徒は、私の教え方がよかったので、みんな100点取りました”だって。
2006年11月20日
コメント(4)
入社試験の希望を提出した会社は、規模は小さいが、一応全国に営業所がある建設会社だという。私としては、会社の内容なんてどうでもよかった。ただ早く会社を決めて給料が欲しいだけだ。連絡を受けた面接場所は、東京駅の丸の内口から歩いて5~6分のS友ビルの7Fだった。初めて入るような、立派なビルだったので、少し緊張しながら、指定された部屋に入った。面接をしたのは、その会社の人事部長で育ちのよさそうな、上品な顔立ちの、やさおとこだった。”今北海道の釧路営業所が多忙でそちらに行ってもらいますが、よろしいですか”といわれ”はい。釧路でも網走でもどこでも喜んで行きます”といったら、人事部長も笑いながら”では、後日採否について連絡しますから、今日はこれで結構です”というので、挨拶をしてビルを後にした。翌日、紹介者の知人から、連絡があって、入社が決定したので、0月0日に人事部長を訪ねてゆくようにとのこと。当日人事部長を訪ねると、”本社の経理部でベテラン経理マンが病気で長期休暇をとることになったので、釧路行きをやめて、本社経理部配属になります。紹介者の話では、あなたは経理は相当詳しいと聞いていますので、大丈夫ですね”といわれ、一瞬心臓が破裂しそうにドキッとした。確かに大学では簿記会計専攻になっているが、もっぱらマルクス経済学の金融論のゼミに傾倒していたので、簿記会計はさっぱり頭に入っていないし、そろばん(当時は経理事務では必修)も出来ない。困ったなと思ったが、ここで出来ないと言うと採用取消になる恐れがある。そこで思い切って”経理は自信あります”と啖呵をきった。これで、1週間後から本社経理部勤務が正式に決定。この”1週間”という時間がなかったら、会社をだまして入社したことがばれて、採用取消になったかも知れません。この貴重な1週間は私の危機を救うと同時に、はかり知れない人間の能力を体感させられた時間でもありました。この1週間で何が起きたかは、次回で書きます。
2006年11月19日
コメント(0)
仙台駅前居酒屋とスナックを経営するKグループ主催のゴルフ月例会の本年度最終戦が杜の公園ミサワゴルフクラブで行われた。天気予報によると、晴れで最低気温4度、最高気温14度。山形との県境に近い山岳地帯なので、予報以上に寒いことも予想し今年初めて冬用ゴルフの完全装備で参加した。幸い風はなかったが、1日中どんよりと厚い雲に覆われて、太陽が出なかったので体感温度はかなり低かった。明日メンバーコースの月例があるので、練習のため、65歳以上のゴールデンテイーを使用せず、一般の白マークでプレーすることにした。9:30 OUT スタート 1番ロング 3打4打とミスが続きダボスタート。 2番390Yのミドル ドライバー左OB. こんな調子でOUTは最後まで、乱れっぱなしで、ついに50を叩く。12時4分 インスタート。 10番450Yのミドル。3打目50Yのアプローチを20センチ に寄せ、パー。 ショットはいまいちだったが、アプローチとパッとの調子がよくて パー6つのうち寄せワンパーが4つで、かろうじて40を切り 39で上がるも、OUTの50がたたり、8位(32人中)賞品は、沖縄産もろみ酢720ml壜1本、十六茶24本入り1箱。このコースには、来年4月までは、来ることがないので、いつも気を使ってくれているA課長に挨拶をしてコースを後にした。
2006年11月18日
コメント(1)
冬の訪れを感じる今日この頃です。先日のゴルフの時、冷たい雨が、雪の匂いを感じさせましたが、やはりその日宮城県と山形県の県境の笹谷峠や関山峠には雪が降っていました。その後また一時的に暖かくなりましたが、2~3日前から、また気温も下がり冬の雰囲気が定着してきました。これから3月まで東北は寒さと雪との戦いの季節です。東北6県の中では、宮城県、それも仙台市周辺は一番雪も少なく、住みやすいところです。雪深い新潟の山奥で育った私には、ここ仙台の気候は東北というより、関東の雰囲気です。県南の福島よりの海沿いのゴルフ場では冬でも、ほとんど雪が降らず、冬の期間もゴルフが出来ます。スキーの好きな人にとっても、1時間以内で行けるスキー場がたくさんありますのでこれまた天国といったところです。しかもスキー場は全て有名な温泉地の近くなので、楽しみは倍増です。代表的なのは、蔵王の遠刈田温泉、鬼首(おにこうべ)、鳴子スキー場では鳴子温泉等々温泉だらけです。私は、雪深い新潟の山奥で育ったことから、冬の雪は苦しみの思い出しかなくその反動で、スキーは好きじゃなく、高校卒業以後一切やってません。いずれにしても、ここ仙台は伊達政宗の選定眼がよかったのか、生活するには最高の土地柄です。ゴルフ、スキー、釣り、温泉、登山等全て近くで楽しめる仙台に住んで20年、これから30年この楽しみが満喫できるかと思うと、うれしくて、思わず野良猫のチビにキスをする70歳のボケ老人でした。
2006年11月17日
コメント(4)
P化粧品の1ヶ月の講習を終え勤めた営業所が中央線の新大久保駅から5分のところ。所長が偶然大学の先輩ですごくいい人だったので、救われた気分だった。ここには他に奥さんのセールスが2人いて、年上の奥さんは凄腕でサラリーマンの給料の10倍以上稼ぐとのこと。もう一人の奥さんも相当稼いでいた。所長にいろいろセールスの極意等教えてもらいスタートすることにした。極力地理的に詳しい地区の団地を重点的に毎日、朝から晩まで一生懸命セールスした。ところが1ヶ月を過ぎてもさっぱり成績が上がらず、先輩からは、最初はしょうがないよと慰められたが、2ヶ月、3ヶ月してもさっぱり売り上げが伸びない。そのうち、精神的に弱気になって、家の玄関のベルを押すのが怖くなってきた。仕方なく、知人、友人の奥さんたちにお願いして、少し売り上げを伸ばしたが気が弱くて、人のいい私は、セールスは向かないんじゃないかと、悩みだした。給料が少ないもんだから、アパートの家賃も遅延気味で、毎日の食費も侭ならず昼間は、水だけ飲んで過ごす日もだんだん多くなってきた。人と同じセールスでは、稼げないので、苦しんだ挙句いい案が出てきた。講習期間中メーキャップコンテストがあって、私はいつもトップクラスだったのだ。そこでいろんな、女性の集会を調査しそこの主催者に無料でメーキャップの仕方を教えますからといって、お願いしたところ喜んでやらせてくれるところが次々出てきた。10人から30人くらいの集まりで、若い娘が多いのでこっちも張り切って。1人1人にあったメーキャップの方法を教えたところ、全然セールストークは出さないのに予想以上の売り上げだった。この方法を交えながら細々とセールス活動をつずけていたある日東横線のある高級住宅街の中の一軒のベルを押した。中から皺だらけのおばあさんが出てきて、中に招き入れてくれた。立派な応接室に通され、立派な茶器でお茶を入れてくれた後、こう切り出された。”家の主人はある会社の社長をしていますが、外に彼女を作って家に帰ってくる日が少ないんです。これは私がもっときれいになれば、主人が帰ってきてくれるんでしょうか”真剣な顔で言われ、一瞬怖くなりましたが、その言葉を肯定して、皺をなくすという高級クリームを丁寧に説明し、買っていただきました。初めての高額商品の販売でうきうきした反面、このおばあさんの真剣な表情がいつまでも気になって悩みました。こんなことがあってしばらくして、ひょんなことから、自分の女性に対する反応が鈍くなっていることに気がついたんです。毎日毎日、朝から晩まで女性とのみ接触して、女性の汚い面のみ目にし、耳にしてきているうちに、女性を見ても以前のように、性的感情が盛り上がらなくなっているのです。以前は女性は美しいもの、性交は最高の快楽と感じていたのが、何か女性が不潔に見えて性的感情が起きなくなったのです。ストリップ劇場に勤めている男の人は、女の裸を見ても感じなくなっているという話を思い出しまさに、私もその現象が起きていると思いました。これでは、駄目だと思い、2年が過ぎた時に真剣に転職を考え、知人に相談したところ、2~3の話がありましたが、その中で、北海道の釧路勤務という求人が面白そうなので、面接を受けることにしました。この面接試験、入社をめぐって、自分の超人的能力(火事場の馬鹿力)の発露に驚かされることになりました。
2006年11月16日
コメント(4)
正義感に酔って、英雄気取りで会社を辞めたのはいいけれど、働く当てもなく、手持ちの金もどんどんなくなってきた。そんなある日蕎麦屋に入って、一番安い蕎麦を注文し食べながらテレビを見ていたら、セールスマン募集のコマーシャルが流れていた。かっこいい男のセールスマンが、かっこいいかばんを持って”P化粧品のセールスマンでございます”と売り込みをしている画像だった。現状では、手っ取り早く職を決めないことには、完全に干上がる寸前だったので、即応募することに決心した。最初はセールスの知識を身につけるため、1ヶ月の合宿に入った。場所は大森の競艇場に隣接する温泉の施設だった。これで1ヶ月間は、なんの苦労もなく飯が食えるとほっとした気持ちで合宿に参加した。全国から約200人が参加してきていた。どちらかというと、職がなくてさし当ってここにきたという人種が一番多かった。バンドマン、キャバレーのボーイ、私みたいにけんかして会社を首になったサラリーマン、水商売上がりの女性、家庭の奥さんといろんな人生模様が見て取れた。講習内容は、化粧品の知識、美容医学、メーキャップの手法等々、私にとっては、全て初体験の事柄なので興味津々だった。1月の後半は、セールス実習で、毎日違う団地等にバスで移動し、そこで1日戸別訪問の実習をやった。この合宿中に特に親しくなったのが、慶応大学卒でK市役所に勤務したのに、頭にきて上司を殴って首になったAと、バンドマンでギターをやっていたSだった。ある日3人で退屈しのぎに、隣の競艇場を泳ごうということになって、パンツ一丁で、窓から、競艇場に飛び込み泳ぎだした。ところがその水の汚いことといったら、ひどいもので得体の知れないごみが浮遊しているし、悪臭が鼻を突いて気持ち悪くなって、15分ほどで引き返した。引き返すとき合宿所の方を見たら、1F,2Fの窓から200人全員がこちらを見ていて、中には盛んにはやし立てるやつがいたので、3人調子に乗って、もう一度競艇場の中ほどまで泳いで、戻ってきた。英雄気取りで窓を這い上がると、目の前に会社の責任者が立っていて、こてんぱんに怒られる始末。延々30分小言を言われたが、これも食うためと反省を装って頭を下げ続けた。このことがあってから、われわれ3人は、合宿所のスターになって、女性フアンが急増し楽しい講習所の生活を満喫した。しかし楽しかったのもここまでで、実際のセールス活動は、今までの人生で最も苦しい体験の連続でした。(続く)
2006年11月15日
コメント(2)
今日のコンペが本年度最後の練習場月例会となったので、夜本年度の打ち上げ会を近くの寿司屋で開催した。これの経費は、いろいろな罰金制度が決めてあって、その罰金でまかなわれる。したがって、罰金を一番たくさん払った人を、上座に祭り上げて、酒のつまみにしようという魂胆である。一番罰金の少ないO氏と私が一番下座で、接待係りを担当した。O氏は身長165センチのタクシーの運転手さんだが、この会のトップの実力者で、今日も、36,38の74で優勝。どんなコースに行っても、めったに80台は叩かない。裏情報によると、仲間と掛けゴルフでゴルフ代は全てチャラにしているとのこと。今日も優勝で、1万円の商品券を受け取り、プレー代はただ。したがって今日の打ち上げ会では、接待におおわらわ。上座の多額納税者グループはハイピッチで、ビール、焼酎、日本酒をあける。かなり盛り上がったところで、上座の2人に敬意を表し、私のマジックを披露した。最初にに1000円札を借り、目の前で破りそれをを元に戻すもの。タネも仕掛けもなく、しかも目の前でやるので、効果絶大。次が相手の背広に火の付いたタバコを差込、背広には灰もつけないでタバコは消えてなくなるというもの。この会では初めての披露なのでやんやの喝采。マジックで盛り上がったところでお開きの時間。接待係りのO氏の音頭で1本〆で会を閉じた。外に出ると冷たい雨が激しく降っていた。プレー中に降られなかった幸運に感謝。
2006年11月14日
コメント(5)
今日は、練習場の月例コンペで、コースは秋保温泉を眼下に見下ろす山岳コースのライザックカントリークラブ。このコースは、バブル全盛時代、千昌夫が手がけたコースで話題を呼びました。倒産後は大阪の会社が買取り、ライザックカントリーとして営業しています。このライザックカントリーはなかなかユニークな営業形態で、土日は結婚式を主としてゴルフのお客はあまりいれません。各ゴルフ場が料金を下げる中、土日ですと2万5千円から3万円と高い料金を維持しております。但しキャデイーは全員若い別嬪さんを完璧にそろえております。千昌夫のお好みで作ったクラブハウスは、金ピカで何か高級ホテルの雰囲気なのでこれを結婚式に利用して成功を収めております。7~8年前倒産後料金が安かったときは、月に2~3回プレーしてました。今回プレーしてみて、コース管理の充実さには驚きました。フエアウエーは高級絨毯の上を歩いているような感触で、すばらしいの一語です。グリーンの芝も1点の乱れもない最高のタッチでした。さすが高い料金を取るだけのことはあるなと思いました。但し本日は、キャデーなしの特別料金で食事込みの9000円でした。本日の成績 OUT 42 IN 42 TOTAL 84 2位でした
2006年11月14日
コメント(3)
最初に勤めた酒類問屋の仕事にも少しなれ、いろいろ社内の人間を観察する余裕もでてきた。社長、社長の奥さん、事務の女性、ベテランの番頭、トラックの運転手と助手それに新卒のわれわれ3人と小さな商店といった感じ。特に目立つのが、女性事務員。少し派手な化粧で、男好きのするタイプでいやに威張っている。奥さんは清楚な感じの和風美人で感じがよかった。事務所は1階で、社長室が2階にあった。ある日、社長に用があって2階に上がって部屋の前まできたら、なんか気になる話し声。どう考えても仕事の話じゃなく、男女のあやしい会話。奥さんは下で仕事をしていて、事務の厚保化粧女がいない。思い切って社長室をノックすると同時にドアーを開けたら、なんとソフアーの上で社長と厚化粧女が絡み合っているじゃないですか。”失礼しました”といって1階に引き返したが、奥さんの顔を見ると、なんとも複雑な気持ち。それから新入社員3人で、ひそかに情報収集した結果、この関係は,本店にいた当初から続いていて、奥さんも知っているとのこと。われわれ3人は、美人で優しい奥さんのフアンだったので,これは何とかして、奥さんを助けなければと、3日3晩思案の結果、こんな社長の会社にいてもろくなことはないから3人そろって退職願いを叩きつけて、社長をこてんぱんに殴ってやめようという結論になった。もちろんこのことだけではなく、普段からの社長の言動にはみんな頭に来ていたのだ。狐が糖尿病を患ったような顔をして、毎朝わけのわからないことで社員を怒鳴りつけ、自分は昼間からさかりのついた猫みたいに女の肌を嘗め回している、最低の男だ。時は昭和33年9月の仏滅の日。純情一直線の3人は、後の生活のことなんか微塵も考えず吉良邸じゃなく社長室へ乱入。私が一通りの口上を述べた後、拓大猛者T君が机を蹴飛ばし、東経大のお坊ちゃんS君が横から社長の手をとって引き倒し、後は3人で殴ったり蹴飛ばしたりとメチャクチャな乱闘劇。その後奥さんにだけは、お礼とお詫びの挨拶をして、社員皆がポカンと見守る中,颯爽と会社を後にして靖国神社を横目で拝みながら九段坂を下る3人でした。(追記)2~3年後そこを通ったら、酒類問屋がガソリンスタンドに変わっていました。
2006年11月13日
コメント(1)
ホームコースでの本年最後のスポンサー杯ーアサヒビール杯に参加。昨日は気温も低く、暴風雨模様の冷たい雨が1日降り続いていたが、今朝起きたら快晴のいい天気。天気予報を見てもゴルフ場近辺は晴れのマークだった。気温は11度の予報だが、太陽が出ているから、そんなに寒くはないだろうと長袖のゴルフウエアーを着て、ズボン下は夏着のままで出かけた。午前中は、太陽が出ていたので、それほど寒さは感じなかった。ところが、後半のハーフをスタートする頃から、黒い雲が空を覆い、時々パラパラとにわか雨が降るようになった。山から吹き降ろす風が、雪の匂いを運んでくる。あちこちで寒い寒いの声がする。確かに今年初めて体感する寒さで、2ホール目くらいから手袋をしてない右手と耳が痛くなってきた。最終2ホールではついに大粒の雨が降り出し、霙じゃないかと思うほどの冷たさだ。スコアそっちのけで早く上がって風呂に入ろうとみんなで急ぎ足。結果としてはミスショットの連続で通常より時間が掛ってしまった。ホールアウトしたとき、右手の甲は完全に感覚がなくなった。今までが例年に比べて暖かすぎたので、体のセンサーが切り替わっていないため、極端に寒さを感じたのかも知れません。おそらく蔵王の山の上は雪が降ったのではないでしょうか。スコアの方は46,47=93でよくないですが、同伴者3人のレベルが100点台なのと、Wペリアの気軽さ、そしてこの寒さの悪条件を言い訳にしておきましょう。60人参加で順位は26位、参加賞のみ、アサヒドラフトワン24缶入り1箱。明後日は練習場のコンペで、秋保温泉の近くのちょっと異色のゴルフ場に行ってきます。いろんな話題が飛び出しそうです。
2006年11月12日
コメント(2)
昭和33年大学卒業。奇しくも、この年に日本の伝統文化の1つ”赤線”も廃止。世の中は不況のどん底。卒業が決まっても就職口がなく大卒の浪人が街にあふれてた。大学に来る求人が少ないたため、学校内で会社の就職試験を受ける人を決めるための試験が毎週行われていた。一流会社になると200人くらい受けて、受かった2人が初めて会社の試験を受けられるというものだった。私は10回くらい学内試験を受けて、1回だけ合格し、ある大手のレストランの会社の試験に行き筆記試験には通ったものの、面接で”今の日本の経済をどう思いますか”と聞かれ、得意のマルクス経済理論でまくし立てたものだから、そこで不合格決定。学校の就職課の担当者から、マルクス経済理論は出さず、近経で話すようにといわれていたがそんなごまかしは潔しとせず、惚れ込んでいた”資本論”の論理で押し通した。飯は食わねど高楊枝の心意気で颯爽と会社を後にするも、お先真っ暗、闇夜にカラス。翌日、学校に行って、掲示板を見たら、応募者が1人もない会社の札が寂しく風にゆれていた。よし!これに決めたと早速申し込み。後で落ち着いて募集要項を見たら、酒の問屋の営業で固定給5000円(当時の初任給は1万~1万3千円)で後は歩合とある。そのときの心境は、条件はどうであれ、就職できれば、後は野となれ山となれで何とかなるだろうと気楽な気分。その会社は、沼津市が本店でT醸造の日本酒 T 正宗を中心に扱う会社で、九段に営業所を新規に開設し、小売店の開拓に大卒3人を採用したのだ。他の2人は、拓大と東経大。仕事は、朝7時出勤、8時半までトラックに清酒10本入りの木箱を積み込む作業。力のいる仕事だったが、スポーツで鍛えた強靭な体には楽チンそのもの。それが終わると、東京都酒類小売組合会員名簿と酒のサンプルを持って新規開拓に出発。主に下町の江東区方面の小売店を片っ端から訪問するも10日過ぎても一軒も注文とれず。注文が取れないばかりか、大きな店では、”わけのわかんない問屋なんか敷居をまたぐのも縁起が悪い”と言って店の女主人に塩をまかれる始末。そんなある日、深川のとある大きな店に行ったとき、またも塩をまかれ追い返され、歩いているとその店から出てきた、大手の問屋のベテラン営業マンに声を掛けられた。その人が親切に教えてくれたことは1.深川地区は東京でも一番金持ちの酒屋がそろっているところで、深川に行ったら金を捨てろ といわれるほど厳しいところだから、お宅みたいな新規の問屋は無理だ。2.酒の小売店には90%店の娘が店頭に出ているから、あなたみたいな若い人は、まず 最初に娘に近ずいて親しくなりなさい。そうすれば必ず注文が取れるから。この教えに従って、小売店を回ると、確かにほとんどの店に娘がいる。別嬪もいれば、一方では人間離れした顔の娘もいたが、そこは目的が違うので、全て平等にお世辞の連発、ナンパの達人技を発揮して接触したところ、信じられないくらい注文が取れだした。過去の憂鬱な日々が嘘のように、毎日がばら色に輝きだした。ところが、6ヶ月が過ぎようかという時にとんでもない大事件勃発でサラリーマン生活が断絶。 (続く)
2006年11月11日
コメント(1)
学生時代に2人の兄貴と3人で横浜市の三沢公園近くのアパートに住んでいたときの思い出です。貧乏でお金がなかったので、夏の日曜日は、ただ同然の安さで使用できた、横浜市営の野毛山公園プールに行って遊んでいました。そこで6人ほどの中華街の中華学校の子供たちと知り合い、毎週水泳を教えていました。そんなある日、日活の映画制作の一団が来て、ロケをやるので協力願いたいとのことだったのですわ、金がもらえると飛び上がり、喜んで協力することにした。出演者を聞いたら、当時のスターたち3人ー大阪志郎、南田洋子、浅丘ルリコ、。この3人がプールで泳ぐシーンを取るので、水泳の先生(私のこと)に一緒に泳いで欲しいとのこと。しばらくしたら、純白の水泳着を身に纏った浅丘ルリコが登場。眩しいばかりの美しさにしばし呆然となる。いよいよ撮影本番。私の右が浅丘ルリコ、左が南田洋子、その向こうに大阪志郎の配置。浅丘ルリコの水に濡れた水着が透けて、全裸に見えるではないか。野獣の心臓はパックンパックン、息子は緊張して硬直、亀頭に痛みさえ感ずる有様。10回ほど撮りなおしたが、全然疲れは感じない。泳ぎながらも、水中で浅丘ルリコの胸元を視線が追う。夢のような時間でした。撮影も無事終了し、映画関係者が帰った後でもしばらく興奮が収まらなかった。エキストラ料もたっぷりもらったこともあり、最高の1日でした。映画の題名は”青春7つの楽しみ”という娯楽もので、封切のとき見に行きましたが私の顔は水の中で、その存在は表に出ることはありませんでした。
2006年11月10日
コメント(1)
先日会社に住み着いていた野良猫の子供を引き取って来ましたが、2~3日前からようやく信用してもらえるようになりました。今朝目が覚めたら、ベッドの布団の上に上がってきて、私の顔にチュウしてきました。これで完全な同居人として認められたようです。なでてやるとゴロゴロと気持ちよさそうに目を閉じています。中学時代までは、田舎の家で6匹の猫と生活していましたが、高校、大学と家を離れてからは猫との縁もなくなっていました。70歳にして、また猫と生活することとなり、何か猫には特別縁がありそうです。動物は全て、人間にはないような超能力を持っているそうですが、猫では”サブロー君”という超能力猫がいたそうです。その猫のタオルとシールが森田健の不思議研究所の通信販売で売られています。心臓発作で倒れた人が病院にかつぎ込まれたとき、その人の奥さんがサブロー君のグッズに向かって”助けて”といったら心臓が動き出しとか、体外離脱の研究者のロバート.モンローさんが、最初に体外離脱したとき、あまりにも多くの猫が体脱して遊んでいたので驚いたとか猫にまつわる不思議現象はたくさんあります。サブロー君のグッズに興味ある人は不思議研究所にアクセスしてみてください。これを書いてる最中もチビちゃんが膝の上に飛び上がってきて、じゃれています。子猫の好奇心旺盛なところは、私と同じです。昨日もゴルフボールを与えたら、転がしたり抱きついたり、大変なはしゃぎようです。ただ感心したのは、一番心配したトイレのことですが、初日からトイレ容器の砂の上で毎日きちんと大小を済ませていることです。砂の匂いか何か工夫がなされているんでしょうか。何はともあれ生活の中に楽しみが増えたので、体の免疫力が活性化し、病気の予防には最高の贈り物といったところです。
2006年11月07日
コメント(7)
久しぶりに、森田健主宰の不思議研究所の会報誌”不思議の友”NO.14が届いた。この会報が届くとどんな面白いことがかかれているかと、いつもワクワクする。今回も好奇心をくすぐられる新しい物がありました。それは”天機面相占術”といって、人の顔を診るだけでその人の全てがわかるという昔からある骨相学的なものらしいが、その的中率が信じられないほど高いという。この研究所ではすでに”六爻占術””盲師派推命占術”と2つの占いを中国で発掘して発表している。この2つはその基礎がいずれも陰陽五行論である。私は若い頃1時占いに凝り、四柱推命を数年間研究し、これが本物だと判断した武田考玄の四柱推命講義録に行き着いたが、あまりの難しさに途中で挫折した。しかし、人の性格、行動パターン、趣味趣向等に付いては、生年月日だけで相当の確率でわかるので、会社の人事担当者に新卒採用のとき使わせたら事前に分析していた四柱推命のデータが90%くらいの確率で当っているので面接試験がよりスムーズに進み喜ばれた。因みに当時私が調べた範囲内で大企業の人事部で四柱推命を参考データとして使用していたところが3社ほどありました。個人的には、当時財務に在籍し銀行の支店長と会う機会が多かったので、支店長が転勤し新しい支店長が決まったら事前に上場会社人事録で生年月日を調べ、性格等のデータをまとめておいてから、挨拶に見えたときそれとはなしに、分析すると気持ち悪いほど当っている人が多かったです。その中でもいまだに記憶に残っている人は、関西系のS銀行の丸の内支店長でした。性格はもちろんですが、趣味趣向の詳細が全て合致し、これが契機に急速に親しくなり仕事もスムーズ、ゴルフでもライバルで張り合いました。スケールの大きな豪快な方で銀行のトップ集団にまで上り詰め、つい最近では、村上フアンドの阪神電鉄株の件で話題を振りまき、元気な姿を久しぶりに拝見し感激しました。こんなことから、完全に会社を離れた暁には、”六爻占術””天機面相術”を本格的に勉強したいと、心に決め、青春日記人生計画表に書き込みました。これからやりたいことがたくさんあって、100歳じゃ時間が足りないんじゃないかと心配する今日この頃です。
2006年11月05日
コメント(6)
4月26日退院の朝提示された「診療費請求書」の金額は241万円これで血圧が急上昇、ベッドの上で心筋梗塞再発かと不安がよぎった。その時看護婦が”この右下の枠内の金額をお支払いいただいてから退院となります”と言うので、そこを見たら、723710円とある。ほっとして血圧が急低下。想定内の金額だったので一安心。気持ちが落ち着いて、看護婦の顔を見ると、なかなかかわいいので少し話がしたくなった。”私はわずかな年金で生活しているものですから、この金額も今日は支払いできないんですがどうしたらいいでしょうか”と言ったら”ご心配要りません。いろんな制度がありますので担当の相談員のところに行ってください”といって軽くかわされてしまった。 早速2Fの社会福祉相談室に行くと担当の女性が1人いた。もう少し魅力的なタイプを予想していたので、期待を裏切られたが、人は外見で判断したら失礼だと自分を戒め、早速相談に乗ってもらうことに。1.退院のとき医療費の3割723710円を支払った場合 3ヵ月後に社会保険協会から高額医療費算定分629696円が振り込まれます。 高額医療費=(医療費*0.3)-自己負担額 自己負担額=72300+(医療費ー241000)*0.01 自己負担額94014円 自己負担の算出は、年齢(70歳未満、以上)、所得額(市民税非課税所帯、一般課税所帯 上位所得者)により計算式が異なります。 私の場合は、70歳未満、一般課税所帯です。 2.退院のとき支払いできない場合。 退院のときは支払いしないで、退院後社会保険協会に行って高額医療費貸付金申請を行う。 2~3週間後に高額医療費の8割503700円が患者の口座に振り込まれるのでこれに自己資金を プラスして723710円を病院に振込む。 3ヵ月後に保留された2割125996円が患者の口座に振り込まれる。この説明を聞いてピンと感ずることがあり、質問をした。”高額医療貸付金には金利がつくんですか””金利はつきません”との回答。 これで即方針決定。高額医療貸付金制度を使えば手元にある70万が3週間FXで運用できるんです。10万NZドルを購入すれば、20日間で3万円のスワップ金利が稼げます。ラッキーチャンスにめぐり合えば即売却でこれを上回る金額が確保できます。保険制度に感謝感謝です。結果として私は高額医療貸付金制度を利用しました。4月26日退院5月12日 社会保険協会から503700円入金5月18日 病院に723710円振込み清算7月29日 社会保険協会から126093円入金 実質自己負担93917円+保険適用外9455円 =103372円診療費請求明細 手術輸血料(カテーテル手術2回) 1453650円理学その他 518500円 検査料 146030円入院料 130400円 画像診断料 89780円注射投薬 64890円その他 9110円 計 2412350円その後5月16日~21日まで入院第2回目の手術を実施。この際の医療費は1218990円で実質個人負担は87063円。今回も高額貸付金制度採用。8月7日~8日 1泊入院検査 182030円 実質自己負担 56170円11月16~17日 1泊入院検査 155860円 〃 48415円検査の結果100%異常なく、以前の健康体のときと同じ生活が保障された。
2006年11月05日
コメント(2)
今日はなんとも忙しい1日だった。私の担当の大手印刷会社の仕事で、緊急の仕事が入り、朝6時に家を出て東北自動車道を南下すること30分、蔵王の麓にあるダンボール加工工場K社に7時に到着、打ち合わせを済ませ、トンボ帰りで東北自動車道に乗り、泉インターで降り、ゴルフ場に8時20分到着。会社の社長、子会社の社長、D生命保険会社のOB M氏と遊びのゴルフ。9:08 OUT スタート 出だしの2打目でOB出すもその後パッとが好調で 42(14)12:26 IN スタート ショットパッととも無難な調子で 41(15)天気は最高、風もなし、あとハーフやりたい気持ちだったが、至急会社に戻らざるをえず、風呂も入らず、3:15 帰社。急ぎの仕事の進捗状況を確認し、山形の上山温泉の得意先に電話を入れ、納品時間が19:00~20:00になる旨了解を取り付け、配送担当者に指示。18:00から仙台ターミナルホテルで日本一賞品の多いコンペ”雄志会”のパーテイーに参加。今回は10月8日に行われた、第35回雄志会記念大会ゴルフコンペの表彰式と雄志会会長のS氏の仙台市政功労者受賞祝賀会を併せて行うもの。本日の出席者130名。三代目コロンビアローズ(仙台出身)の歌、津軽三味線の演奏、地元の子供たち30人ほどの伊達すずめ踊りが披露された。肝心の成績発表は、コンペ参加者80人中12位(前回18位)だった。賞品 果物引換券(5000円)、ゲルマブレスレット(10000円)、乾燥椎茸(3000円) 紀州梅干1K(?)、高級メロン1個、自宅に帰りほっと一息ついたのは、21時だった。
2006年11月04日
コメント(2)
この病院は11階建てで、建物も新しく、清潔感にあふれていました。私の病室は10階の裏側で窓からは、青葉城がある青葉山の緑が窓一杯に広がっていて気持ちのいい空間でした。廊下を挟んで反対側、表側の病室からは、右前方に東北大学病院、左前方のはるか山の上に仙台大観音が威容を誇っております。病室での生活は、朝起きると看護婦が来て、体温と血圧の検査、薬は5種類ほどを朝昼晩と3回に分けて服用。担当医の検診が午前中1回。最初のうちは、毎日レントゲン、心電図、心臓超音波検査等を受け、体には携帯心電図測定器をくくりつけ、腕には2本の点滴の管をつながれ、檻につながれた牛といったところ。トイレに行くのに点滴のスタンドと同行する姿は、まさに病人そのもの。以前テレビでこういう姿を見て、こんな哀れな姿の病人にはなりたくないと思っていたのに、今現実に自分がその姿なのには少々落ち込んだ。一番つらかったのが、食事。量も少ないが、塩味のないのが一番参った。やはり塩味を感じないと食べ物の本当の味は感じられないので、食欲が出ない。しかし1週間もすると、慣れたのか食事もおいしく感じるようになってきたが、今度は量が不満で絶えず空腹状態。仕方なく、看護婦に隠れて、2Fの売店でパンとお菓子を買ってきて、隠れて食べていた。2番目が薬の副作用。小学校2年のとき風邪で熱さましの薬を飲んだきり、薬らしき薬はほとんど飲んだことがなかったので、3日目くらいから、副作用で体中に発疹が出て真っ赤になった。院長回診で病院長が来たとき状況を話したら、理解してくれて、いくつかの薬を取りやめてくれた。それから3日ほどで赤みも薄らぎ楽になった。当初医師から、3週間入院が必要と言われていたが、10日が過ぎたとき、”内山さんは、経過が順調なので、4日後に退院と決まりました”と連絡を受けた。このときはうれしくて体が火照りました。退院したら真っ先にゴルフ練習場にいって球を打つぞと頭は完全にゴルフモード。退院当日朝9時に看護婦が”内山さん退院おめでとうございます。ところで請求書を持ってきましたのでよろしくお願いします。ちょっと高くなって申し訳ありませんが”と差し出された請求書を見て血圧が急上昇。いくらかは覚悟して用意はしてありましたが、全然足りない金額。今までも散々金の苦労はしてきたがここにいたってまたもピンチ。この後の状況は次回に請求明細等も含め状況報告いたしま
2006年11月03日
コメント(1)
社長の大きな声に驚いて、病院の待合室にいた3~40人の人たちの視線が全てこちらに集まった。と同時に事務所から責任者らしき人が出てきて、”申し訳ありません。すぐに診察いたしますから”と循環器科の診察室に案内された。診察室の前にはこれから診察を受ける人たちが10人ほどいたが、割り込みで先に診てもらうことになった。担当の医師はやんちゃ坊主的感じの若い医師だった。しかし、なかなか受け応えがはきはきしていて感じのいい先生だった。今までの状況を説明したとたん”今ここにいることが奇跡的ですよ。すぐ手術しないと大変なことになります。”といったかと思うと、集中治療室の手配やら各種の検査の手配を看護婦に命じてバタバタと短時間にやってくれた。レントゲン撮影、心電図検査、エコー検査等々あっという間に済ませ集中治療室へ運ばれ手術室のベットに固定された。ところがここで問題発生。ここの病院は手術の場合必ず家族が立ち会うことになっていて、ガラス張りの手術室の外で手術の状況を見させ、1人の医師が手術の進行状況を家族に説明すると言う決まりになっているのだそうです。”家族は?”といわれ、”家族はこちらにいないので立会人はいません”といったら、”じゃ会社の社長さんに立ち会ってもらってください”というので社長に立会ってもらうことにした。手術開始 4人の医師と看護婦が手術台を囲み、最初に左手首に麻酔の注射をされた。その左手首のところの血管にカテーテルという細い管を挿入されたが、この瞬間だけ激痛が走った。その後は一切痛みやら不快感はなく半分居眠り状態。途中で目を開けると何台ものモニターに私の血管が映し出されており、その血管の中を黒いひも状のものがどんどん入っていくのがはっきりと写っていた。しかし体は何も感じてない。不思議な感覚だった。最後の方で。何か血管に薬品でも入れたのか、暖かいものが2~3秒で全身を駆け巡った。何か温風の塊が体を通過した感じだった。”はい、終わりです。お疲れさんでした”という言葉で手術完了。時間にして30分ほどの短いものでした。今回の手術は冠状動脈3本のうち1本がほとんど詰まっていたので、ここにステントという金属の管をはめ込んだとのこと。あとの2本も60%くらい詰まっているのでこれに付いては1ヵ月後に再手術とのこと。1本の冠状動脈が95%ふさがっていたため、心筋の1部が壊死しており、もう少し遅れたら回復不能の状態に落ち入っていたとのこと。手術の後は、ベッドに括り付けられ、点滴の管が2~3本つながれたまま集中治療室へ運ばれた。集中治療室は、真ん中に看護婦の詰め所が置かれいろんな機器が設置されており、10人ほどの看護婦が常駐していた。それをとり囲むように患者のベッドが10床ほどおかれ、私が入ったときは6人ほどの患者が監禁されていた。手術が以外に簡単にすんだことから、気持ちに余裕が出てきたのと、何分にも入院そのものが初体験なので持ち前の好奇心が起きだして、ワクワクしてきた。若い看護婦たちが、きびきび動く様を見ているとなんとも応えられない。しかも、好みのタイプの看護婦さんがいたんです。笑顔がチャーミングで、声も魅力的機敏な動きでセクシームード満点。4日間の集中治療室生活は、彼女のお陰で予想もしない楽しいものになりました。私と目が合ったときのはにかむしぐさがいまだにまぶたに浮かんできます。5日目、一般病棟10階の4人部屋に移される日、これで彼女とお別れかと思うと寂しくてたまりませんでした。しかし一般病棟にもカワイ娘ちゃんはいるだろうと、気持ちを切り替えましたが、その後の2週間は該当者なく、頭は集中治療室の彼女のことばかり。寂しさを紛らわすため、売店で推理小説を買ってきて、二日に1冊読んでいました。この一般病棟での生活も全て初体験のため好奇心病の私にとっては、結構楽しいものでした。この辺の状況は次回でまた詳しく書く予定です。
2006年11月02日
コメント(2)
それはわたしの69歳の誕生日から1ヵ月後のことでした。息苦しくなって目を覚ますと枕もとの時計は2時でした。ここ1~2ヶ月、日に1~2回同じよう痛みと息苦しさを感じていたが、いつも1分ほどで収まっていたので、今回もすぐ消えるものと軽く考えていたのです。ところが今回は痛みも強烈で、呼吸はしているのに首を絞められて呼吸が出来ないような苦痛がだんだんひどくなって、ついいに意識が朦朧としてきた。この瞬間”これで俺も死ぬのか”という意識が頭をよぎった。次の瞬間”冗談じゃない、俺は死ぬわけはない。”という意識がわきあがってきて、以前から時々やっていた塩谷信男先生の”正心調息法”が意識に浮かび上がってきた。そこで痛みと呼吸困難に立ち向かって立ち上がり、懸命に腹式呼吸を繰り返す。途中何回か苦しさで倒れたが、死に物狂いで立ち上がり、体を動かし複式呼吸を繰り返す。このとき高校の野球部の猛特訓の100本ノックで3回気絶して殴られて意識が戻り、ふらふらになりながら白球を追い続けた情景が浮かんできて、”まだあの状態まで行っていないから大丈だ”という安心感が生まれ、さらに腹式呼吸を繰り返す。これからいくらも経たないうちに、息苦しさが薄らいできて、痛みも治まった。これで死神に勝ったという安堵感でベッドに座り込んだが、座りながらも腹式呼吸は続けた。時計を見たら3時40分だった。8時に出社してから、病院に行ってみようと決めて、いつものコーヒーを飲んだ。このとき心筋梗塞だという意識はまったくなく、ヘビースモーカーなので肺がんの発症かも知れないと考えた。何分強烈な痛みを感じる場所が、心臓ではなく左胸の首のすぐ下の部分だったから。出社して社長に話すと即座に心筋梗塞だと判断して、病院に連れて行ってもらうことにした。実は社長は2年前に心臓のバイパス手術を経験していたのだ。社長はD病院で手術をしたが、心筋梗塞では仙台厚生病院が日本一の実績があるのでそこに行くことにした。社長の車で、病院に到着し受付に行ったところ、”初診者の場合は、掛りつけの医者の紹介状か救急車の場合じゃないと受け付けられません”といわれた。そこではたと困ってしまった。何分69年間病気で医者に掛ったことはないし、薬も飲んだことがないので、紹介状をもらえる医者もいない。掛った医者は歯医者と目医者だけだから。どうしたもんかと考えていたら、強気強引さでは業界でも札付きの社長登場。”あんたなに言ってんだ!この人はさっきまで息が止まりかかっていたんだよ。あと2~3分で心臓が止まっちゃうんだよ。それでもだめだというんなら、ここの待合室の椅子の上で死なせるから、葬儀屋を呼べ。検死だけ頼むよ”この後社長の言葉が真実だったのが証明されたのです。 続きは次回で。
2006年11月01日
コメント(2)
全28件 (28件中 1-28件目)
1


