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今日大変うれしいことがありました。私のブログで、11月1日から4回にわたって、昨年の心筋梗塞の体験を書きましたが、お父さんが心筋梗塞で入院手術された家族の方の目に留まり本日掲示板にお礼のお言葉をいただきました。最高の感激です。自分の趣味で書いているブログが、人様のお役に立てたということは最高の喜びです。私のブログ元年の締めくくりに、こんなすばらしい出会いに恵まれるとは幸せいっぱい胸いっぱいです。この喜びで寿命がまた延びました。来年も人様のお役に立てることを願いながら、ブログを書き続けたいと心に誓う70歳の健康優良児でした。
2006年12月30日
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京都にある有名な宗教法人00本願寺の東北別院が仙台市にあり東北一円の系列寺院を管理している。この東北別院に京都の本院よりK住職が転勤してきた。K住職は当社の大阪支店が本院の附属棟の工事を受注した時裏で画策してくれたお金がこよなく大好きな住職だった。ある日K住職に呼び出され、東北全体の会議があり20人ほどの坊主が秋保温泉に集まるので、会議の終わる深夜に、楽しい映写会をやりたいので手配してくれとのこと。当時は今と違って、裏のフイルム(当時は8ミリフイルム)は一般の人にはなかなか入手困難だったので、地元出身の営業部員に相談したら、何とかできるとのこと。2~3日後、その彼がフイルムと映写機を携えてやってきた。どこで手に入れたのかと聞いたところ、某警察署で押収したものがたくさん保管されていたの秘密ルートで借りてきたとのこと。坊主の会議の当日、夜11時に車で秋保温泉のホテルに駆けつけた。広間にツルツル頭の坊主が20人ほど,酒に酔っ払ってかなり乱れていた。ところが映写会が始まったら全員がスクリーンに釘付けの状態。雨が降っているような画面に絡み合う男女の裸体がアップになると、奇声を上げる者、目が血走る者、猿のマスターベーションを思わせる行為に走る者、暗闇のなかで坊主頭が光っているし、なんとも表現の仕様のない、異様な光景だった。日常お堅い職業ー先生、警察、銀行員等々ーの方たちの中の一部の人はこういう席では、人格が180度変わる傾向が強いことは、私の70年の人生の中で数多の確証を得ております。一方では、表も裏もなく乱れっぱなしの、私みたいなものもいます。どちらがいいのかは神のみぞ知るところかも。ところで今回のこの異様な風景を仏様はなんと思われるんでしょうか。
2006年12月28日
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ゴルフ練習場の仲間3人で松島チサンカントリー松島コースでプレーする。先週の天気予報だと快晴で気温も10度くらいまで上がるとのことだったのに今日の天気は曇りのち雨気温4~5度の悪コンデシオン。9時スタートで最初のハーフは何とか雨に会うことなく終了。どんよりと雨雲がたれこめていたので、気温以上に寒さを感じた。お昼は、海鮮焼きそばのレギュラー(ミニ、レギュラー、ジャンボの3種類)を注文したら予想を上回る量で驚いた。私の標準からすると1.5人分だ。しかし、イカ、ホタテ、エビ、カキ、アサリ、?貝等具がたっぷりなので、無理して何とか食べつくした。味も上々で満足した。小食のKはミニなのにかなり残していた。ミニでも十分だった感じだ。11時50分INスタート。テイーショットを打ち終わり歩き出したところで、ついに雨が来た寒い上に雨に降られ、戦闘意欲減退。後半は早く終わることを願うのみ。OBもないのに、51 48 の99 遊びとは言え少し不満。とはいえ寒さから開放されてほっと一息。 支払ったプレー代 6000円。食事はメンバーのYにご馳走になったため。寒さと雨のゴルフはやるものじゃないというのが実感です。
2006年12月26日
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12月24(日)ハーバーライフのイベントが141ビル5Fセミナールームで開催されたので参加して来ました。最初に参加したときよりほんの少し具体的な内容が説明されましたが、この説明だけでは始めての方は、疑心暗鬼になると思います。私は前にも出席していたのと、ホームページ、メール等で探索した結果、基本的なシステムの概要は見えてきて、興味が増して来たので、1歩踏み込むことにしました。私が最初に興味を示した目的は、インターネットによる副業で金が入るということだったのですが、イベントに参加してきている多くの人たち(すでにスタートしている人)に直接話を聞いたところ、生活習慣病関係が顕著に改善されてきているという談話が多かったので、違った意味で関心が高まりました。今回参加された方で、以前より酒がおいしくなって、血圧、コレステロールが正常になってきた人が何人かいまして、意外な感じでした。普通ダイエットというと、肥っている人がスマートになることと思いますが、虚弱体質で極端にやせている人が筋肉がついて健康体になっているケースも相当あるのも予想外でした。事実会場で体験談を語ったサラリーマンの方は2年前と別人みたいに変わっているのも驚きでした。それと1ヶ月保証がついていて、1ヶ月試して効果がない人には購入代金を全額返す制度があるので、1ヶ月試すことにしました。ビジネス面も、インターネットでホームページをもって顧客を開拓する方式なので副業としてやる人には面白いかもしれません。ただ感じたのは、何回もイベントに参加しないと内容がつかめないというやり方にどういう意味があるのか、理解に苦しみます。最初から、全体のシステムを解りやすく説明する方がいいのじゃないかと思うのですが何か特別の意味が隠されているようで、今のところわかりません。膨大なメールから読み取れるのは、WEB2.0 の世界をふまえた新しいマルチシステム商法の確立を模索しているのかなと考えられます。商品の効果が体験できる人には、最高の副業になりそうな予感がします。1ヶ月間の体験結果はまた報告します。
2006年12月25日
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事故から3時間ほどして自宅に到着、妻と娘が驚いた表情で出迎えてくれました。特にいつもニコニコしている娘の表情がこわばって悲しい表情になったことがいまだに忘れられません。ともかく3人のお客に怪我がなかったことが、不幸中の幸いだった。命に別状がなかった幸運を喜びながら、夕食を食べていたら、地元TBCのニュースのテレビに私の顔がアップで映っているじゃないですか。解説では 「同乗者には怪我がなく、運転していたUが、右手首の骨折、頭部裂傷などで3ヶ月の重傷.....」と述べていた。翌日の地元紙河北新報の3面に写真入りで大きく報道されてしまった。新聞でもやはり「3ヶ月の重傷」と書かれていたが、私としては、翌日から会社に出ざるを得ない事情があったのです。本社に東京国税局の税務調査が入っていて、月曜日から支店の調査が始まることになっていたのです。しかも本社からは経理部長も来ているし、責任者の私が休むわけに行かなかったのです。当日朝、会社に出たらみんな大騒ぎです。全身包帯だらけの透明人間が出現したような感じですから、無理もありません。さすがに調査員も経理部長も、休むように言ってくれたんですが、固辞して3日間調査に立ち会いました。それというのも、当時の会社は大変厳しい会社で、病気や私的な都合であっても、3日休むと、会社から「出社に及ばず」という電報が入って即くびになるのです。したがって本社にこのことが知れるとまずいので経理部長にお願いして上層部には一切内緒にしてもらいました。本社経理部にいた時の上司だったことが幸いしました。怪我の経過は大変順調で2ヶ月くらいで骨折と頭部は完治状態でしたが、膝の内出血の血が足の筋肉の間を下まで下がる間痛みがひどく、全て完治まではやはり3ヶ月かかりました。振り返ってみて不思議だったのは、骨折と頭の裂傷についてほとんど痛みを感じなかったことです。唯一の痛みは内出血によるものでした。そんなことから、事故の恐怖感は一切残らなかったので、2ヶ月経過後位から事故車を修理して運転再開しました。これだけの事故で死亡しなかった大きな原因は、車が古いダットサンブルーバードだったことです。格好はよくないですが頑丈でした。警察、自動車修理会社等からもそのことは繰り返し言われました。この事故は私にとっては大きな教訓になり、以来40年間無事故の運転を続けています。100歳まで無事故運転を続けようと心に誓う70歳でした。
2006年12月23日
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仙台に来て2年目の春に、運転免許を取得、知人から日産ダットサンブルーバードの中古車を安く手に入れた。それから3ヵ月後に、おふくろと甥、姪の3人が仙台見物に訪れた。そこで日曜日に塩釜、松島方面を車で案内することにした。娘の薫は風邪で熱があるため、妻と家に残ってもらい、4人で出発した。青葉城、塩釜、松島と観光ルートをたっぷり案内し、夕方帰路についた。松島湾の絶景を左に見ながら、塩釜方面に向かって車を走らせていた。途中のトンネルを抜けて1~2分した時、バックミラーに黒のクラウンが見えたので追い越しさせるべく左に寄ったその時、バーンという大きな音とものすごい衝撃が走って左のガードレールに激突し、跳ね返って道路上で1回転して、右側の5メーターほど下の田んぼに突っ込んだ。ガードレールに激突した瞬間、”俺はこれで死ぬんだ、父さん母さんごめんなさい”という意識と、子供のころ田舎で家族全員で楽しく食事をしている風景や野球をしている風景がスチール写真のようにパッパッパと浮かんで来て、最後に田舎の葬式で大きな棺桶を担いで焼き場(焼却場)に向かう行列の風景が見えて、焼き場の近くまで来たところで写真が消えて意識が戻ったのです。気がついた瞬間、おふくろや甥姪のことが心配で声を掛けたら、3人とも顔色は青ざめていましたが、奇跡的に傷もなければ、打撲もないというので安心しました。フロントガラスはメチャクチャに割れて、運転席のドアが開いた状態でした。私はすぐに車から出て、立ち上がったが、どこも痛みもないし、助かったと思いました。ところが、上の道路に人だかりが出来ていて、ガヤガヤ騒いでいるのです。その中で 「あの運転手は助からないんじゃないかな。あの出血じゃ」 という声が耳に入ってきたので、何のことだろうと手で顔の汗をぬぐおうとしたら、汗じゃなく血がべっとりと手についてきて、下を見たら上着もズボンも血だらけ状態。頭の後ろの方が大きく切れていてそこからの出血だった。通りすがりのタンクローリーの運転手さんが 「早く医者に行かないと危ないから、私の車に乗ってください」 と声を掛けてくれたので、助手席に乗るべく車の取っ手に手をかけたら手首のところが骨折していて折れ曲がってしまったのです。塩釜市の一番近い病院で当直の若い医師が1人だけいて、手当てをしてくれた。まず頭の切れたところを縫ってもらい、手首の骨折はギブスをつけてもらい、左の膝を強打していて骨が少し欠け、1部内出血を起こしていた。また下唇の両側が切れていたのでここも2~3針ずつ縫い合わせた。治療が終わり、病院の鏡に写る自分の姿を見て大仰天。顔は目、鼻、口が見えるだけで全部白い包帯でぐるぐる巻き。右手はギブスをはめて包帯でつっているし、左の足も包帯でぐるぐる巻き。透明人間が姿を現した感じだ。そこに警官が見えて、「追い越した車の人たちも立会いで調査したが、車同士ぶつかった形跡はどこにも見当たりません。しかし追い越した方でも大きな音と衝撃は感じたというので、何か特別な風圧か何かが原因なのかよく解りません。」とのこと。またあれだけ車が破損しているのに怪我したのが運転手一人で他の3人が無事だったのも、 どう考えても不思議でしょうがないと首を傾げていました。警察の事故処理は始末書一枚ですませてもらいました。やさしい警官に感謝です。病院からタクシーで自宅に帰ったところ、またまた仰天ニュースが待っていました。(続く)
2006年12月22日
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東京から転勤してきた昭和39年の6月14日新潟地震が発生しました。当時会社の仙台営業所は、仙台駅表口のすぐ右側にある第一ビルの7階でした。午後の仕事が始まって間もない頃でした。突然大きな揺れが来て、机に向かって座っていた私は、そのままの状態で前後に飛ばされました。鉄筋コンクリートの梁と柱が”ゴツーン、ゴツーン”とぶつかりあう音がして、今にも天井が落ちてきそうな恐怖に襲われました。女性を中心に10人ほどの社員は喚声を上げながらエレベーターホールへ飛び出しました。窓から前のMデパートの屋上を見ると鉄パイプで造られているビヤガーデン用の建物が竹のように曲がって左右に揺れ動いているのが見えて、揺れのすごさを実感しました。何分かして揺れもなくなり、社員も一応落ち着きを取り戻しましたが、これだけの地震は初めての体験でした。その後の情報で、震源地は新潟沖の粟島付近で、仙台も新潟と同じ震度5だったのです。ただ、仙台市は地盤が固かったため被害は軽微でした。その後8月のお盆休みに家族で新潟の実家に帰るとき、新潟駅前の4階建てのビルの2階にあるレストランで食事をしようと入ったところ、床が完全に傾いていて、不思議な感覚に襲われました。表から見たら、ビル全体がピサの斜塔そのものの状態でした。新潟市付近は昔の大きな砂丘の上に立っているため、市内のビル、団地の一戸建て住宅等倒壊した建物が多かったのです。仙台では、その後昭和53年6月には宮城沖地震で大きな被害を受けることになるのですが43年には東京本社に転勤していていたためこれに遭遇することはありませんでした。これを書いていて気がついたのですが、新潟地震 昭和39年6月14日宮城県沖地震 昭和53年6月12日(新潟地震から14年後)新潟中越地震 平成17年6月20日(新潟地震から40年後)いずれも6月に発生しているのです。また14年後、40年後と”4”の数字が含まれていることは、やはり”4”は、忌数なのでしょうか。いずれにしても、新潟宮城地域は、6月が要注意月なのかもしれません。また6月は唯一祝日のない月です。地震のない月であって欲しいものです。
2006年12月21日
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私が仙台在任中の39年~42年の頃は、キャバレー華やかなりし時代でした。仙台には、ソシュー、クラウン、ニュータイガーという3大キャバレーがあり、それぞれかなりの数のホステスが在籍していました。会社の接待関係では、ほとんどの企業が、このキャバレーを利用していましたので建設会社にとっては格好の情報収集の場だったのです。人気のあるホステスを秘密諜報員として会社から手当てを出していろんな会社の建設情報を盗み出すわけです。もちろん各社がやっていますから、競争相手の手先のホステスの調査もする必要があり、まさに情報戦争の現場だったわけです。また一流芸能人のショウも毎週ありましたので、それ目的のお客さんも多かったと思います。私がお客さん接待の時、出演していたのが、朝丘雪路とバーブ佐竹でした。ちょうどバーブ佐竹の「女心の唄」が昭和39年にヒットした直後だったので幸運な出会いでした。あの特異な顔と魅力的な低音がかもし出す、女唄の切ないムードがたまりませんでした。私が好きなのは「ネオン川」です。今でも私のカラオケには欠かせない愛唱歌です。”誰がなずけた川なのか 女泣かせのネオン川........"夜の歓楽街で苦労して生きてきた女性の涙を誘う歌詞とメロデイーが好きで、歌詞を噛みしめながら歌うと、3分間のドラマの世界に没入します。最近、昔のキャバレーと同じ「ニュータイガー」という看板をよく見かけますが全て巨大パチンコ店です。キャバレーの雰囲気が懐かしく感じられる70歳の冬の1日でした。
2006年12月19日
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昨日仙台市内のホテルで会合があり、タクシーで行くことにした。自宅から仙台駅までだとタクシー代は2000円くらいなので、会合のあるホテルまでは3000円あればお釣りがくるなと計算してタクシーに乗った。乗ったタクシーの運転手が行き先のホテルを知らないというので地図で見た記憶をたどって場所を指示した。なんか鈍い運転手でいらいらしたが何とか目的地に着いた。料金は2550円で、1万円札で支払おうと思ってズボンのポケットに手を入れたら出かける前に近くのCOOPのATMで引き出した2万円がない。あれっと、あわてて違うポケットに手を入れたら、4000円が出てきたので何食わぬ顔で支払って、タクシーを降りた。ホテルの前で、ポケットをいろいろ調べたがどこにもない。記憶をたどっているうちに思い出した。金を下ろした時はいていたズボンは履き替えたのでそのまま家に残っていて、金を取り出すのを忘れたのだ。はて、どうしたものかと考えたら、会合の終了時間は16:00の予定だから17:00までATMは使用できるから何とかなると安堵した。ところが会合が終わったのが17:30.金のことはすっかり忘れていて、ホテルを出てタクシーに乗ろうかなと思った瞬間思い出した。幸い来る時降っていた雨も上がっていたので、しょうがない家まで歩こうと即決。駅前まで30分で到着。ここで吉野家に入って豚あいがけカレー440円を食べて一服。ここから家までは歩いて1時間の道のりだが、今年だけでも6回ほど夜中宴会の後歩いているので、安心感がある。ここのところゴルフのラウンドが少ないので運動不足解消にはもってこいのチャンスといつもの早足のペースで歩き出した。仙台駅から松島塩釜方面に向かう産業道路をまっしぐら。途中ローソンに寄り、ジャイアントポークフランクを1本買い、かじりながら行進を続行。通るのは車ばかりで歩道を行き交う人はほとんど見当たらない。30分を過ぎた頃、体調の悪い時は疲れを感じ、足も痛くなるのだが、今回は絶好調。かなり気温も低いはずだが、体はぽかぽか、気分よくペースを速めて、ラストスパート。部屋に入って時計を見たら19:30、途中食事の時間を差し引くと1時間40分ほどで夜のハーフラウンドが終了。野良猫のチビちゃんの大歓迎を受けて終わった70歳の1日でした。
2006年12月18日
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ここ北の都仙台では、冬に入っているのに、週のうち2~3日は大変暖かい天気が続いています。これに乗じて毎日ゴルフ練習場に出勤していますが、200球打つと軽い汗が滲んできて大変気持ちがいいものです。最近書店に「体を温めると病気にならない」という類の書籍が大量に出回っています。有名な石原結実先生のものが一番多いが「免疫革命」の安保徹先生も最近体温温熱について書いています。昔から漢方医学ではこの体温を上げる食事等が重要視されていたが、最近になって医学界全体でこの点がクローズアップされてきているようです。癌患者の増加、若い世態の低体温化による精子の数の減少等の現象が1つの契機になっているのかも知れません。私は20年近く前「万病を治す冷えとり健康法」進藤義晴著に出会い興奮したことを覚えています。これ以来、体温の管理には注意を払い、衣服や靴下まで冷えとり健康法を実施しその効果を実感しております。そして毎日のゴルフの練習も、体温管理に大きな役目を果たしていることがわかったのです。体温で重要なのが、体内の温度がいかに高く保たれるか(37度以上ー表面体温は0.5~1位低い)ということで、いろんなスポーツが役立つと思います。私の場合はゴルフの練習が、手軽に出来て、尚且つ楽しくてたまらないという精神的面からの効果もあるため最高の手段になっております。昨日16日(土)は、午前中200球、午後200球練習しまして寿命が1年延びました。元気で長生きしたい方は、ゴルフをやりましょう。
2006年12月17日
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仙台営業所に赴任した昭和39年は、急激に仕事量が増し超繁忙期だった。店内の事務処理体制が遅れていたため女子社員の増員が必至だった。2人ほどは中途採用で補充し、残り2人は高校新卒を採用することとなった。そこで、いずれも女子高の、To学園と県立第0女高校に的を絞り、お願いに参上した。当時はまだ知名度が低く、苦労はしたが、株式上場の時、思い切って金をかけて作成した分厚い会社概要が大いに役立った。両校から1名ずつ提示された候補者は、成績優秀、容姿端麗のすばらしい女子だった。特にTO学院のO子は、首席の優等生で、顔は小倉優子に似た感じで、芯もしっかりしていた。県立高女のS子も成績はベスト10内で、非常にはきはきしていて明るい可愛い子だった。いずれも学校側で推薦してくれたわけであるが、もちろん一発で採用決定した。その時感じたのは、こんな可愛い女の子を、飢えた狼の群れのなかに入れるかと思うともったいないやら、悔しいやら、複雑な気持ちでした。会社勤めをはじめてからの彼女たちの働きぶりは、予想をはるかに上回りすばらしいものでした。採用責任者としては、最高の喜びを感じたのは申すまでもありません。ところが、この2年後私は東京本社に転勤し、しばらくして仙台に出張する機会があって支店に顔を出したら、2人の彼女がいないではないですか。聞いたところ、狼どもの争奪戦が激しくて、2人とも相手が決定して退職したとのこと。せっかく仕事が順調に運んでいたのに、一番仕事の出来る二人に退職されて困っているとのことだった。可愛い子を採用するのも考え物だと採用した私が悪いかにように支店長から散々言われ、とんだトバッチリを受ける始末。ところがこの補充に採用した女の子が全てブス揃い、何でも支店長が飲み屋のママから頼まれて入れたのだという。若い狼たちにはかなり不満のようで、夜の懇親会では、支店長に対する不満爆発、異常な盛り上がりでした。どこにでもあるサラリーマンの鬱憤晴らしの酒宴でした。
2006年12月16日
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ゴルフを覚えて間のない頃の出来事です。本コースでプレーするのは、経済的に問題があり、せいぜい年4回程度でした。爆発しそうなゴルフ熱を充足するため、河川敷ゴルフ場の早朝ゴルフに、週1回通っていました。当時、住まいが千葉県の姉ヶ崎だったことから、早朝ゴルフをやるため、2時に家を出てゴルフ場(北越谷パブリック)に4時に到着して、7時までプレーして、会社に出勤するという状態でした。何回かいくうちに、悪い考えが浮かび、ハウスから遠く離れたコースに土手から進入してプレー後そこから逃げ出せばタダゴルフが出来ると踏んだんです。そこで普段お世話になっているT銀行のゴルフキチガイのM氏を誘ったらホイホイ乗ってきて実行することに。当日4人で、示し合わせたとおり、あらかじめ調べておいた場所に車を隠し、コースに土手から進入し楽しくプレーをやっていた。ところが、その日に限って、ゴルフ場の人が、バイクで見回りに来て、捕まってしまった。そこで免許証を出せのなんのともめた挙句、M氏が高級腕時計をしていたので、それを担保に預けることになってしまった。プレーが終わり、クラブハウスに行き、料金を支払い、さんざ説教をされた後高級腕時計が戻ってきたという、お粗末な結果になりました。これ以降は、真摯に反省し、更正の道を選んだのは言うまでもありません。しかしこの一件がきっかけで、M氏との交友が深まり、会社の資金調達がよりスムーズに進むようになったのが何よりの成果でした。 これを思い出すたびに、コースの対岸にあるK醤油会社から風に乗って流れてくる大豆を煮る甘い香りが漂ってきます。
2006年12月14日
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仙台営業所に赴任早々の仕事は、営業マンの採用でした。即戦力が必要のため、ある程度営業畑の経験と素質を備えていなければならないので地元の新聞「河北新報」に広告を掲載し、応募を呼びかけました。まだ東北では社名も知られていないので、果たして希望者がいるかどうか不安でしたが何とか20人ほどの応募者があり、面接することになりました。面接の結果、最終的に2人を選びましたが、1人が病気もちだったため本人から辞退してきて、結果1人に絞られました。地元TG大学の柔道部出身で体もガッシリしていて明るくて素質十分でした。地元では石を投げればTG大学出身者に当るといわれるほど、地元の企業への 就職者が多いので人脈の点でも有利と判断したわけです。この時の読みが見事当り、20分の一のH君は仙台支店を背負って立つ営業マンとして成長し、30年後仙台支店長となりました。しかし彼は、3年前に他界してます。この原因の1つが彼の昇進を影で長年支援していた恩人を裏切ったことです。そして彼の死に様を私が予言しその通りになるという因縁がありました。このことは、私のサラリーマン生活30年の最終章で詳しく書きます。辞退した1人のの穴埋めとして、人の紹介で応募してきた高校卒のO君の面接をしたところわがままな性格だったが、根性がありそうなので採用を決定。このO君も見事な成長を見せ、仙台支店の営業部長になりました。この彼とは奇妙な縁があって、昨年わたしが毎月参加しているクワハラグループのゴルフ会のメンバーに同じ姓で顔がそっくりな人が入ってきたので、気になって声を掛けたら、なんとO君のお兄さんだったのです。世間は狭いものです。営業部員の補充が終わり、今度は女性社員の採用となりましたが、こちらは高校の新卒採用のため女子高詣でと相成り、私のまじめな性格が幸いして2つの女子高から成績も首席、容貌も1番のすばらしい女性を採用することが出来ました。しかし、容貌をそろえすぎたことが、不幸を呼ぶとはこの時は微塵も考えませんでした。女子社員採用編は次回に譲ります。
2006年12月13日
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今日は朝から曇り空で気温が低くことさらに寒さを感じる。昨日TOP印刷に呼び出しを受け、来年1月納品の大きな仕事を受注した。パッケージ業界では、毎年1月~3月は例月の半分近くに仕事が落ち込むのでこういう仕事は感謝感激雨霰といった感じです。しかも笹かまでは老舗のA蒲鉾店の正月用の高級化粧箱なので、やりがいがあります。蓋の形態が6角形で”雪見かまぼこ”の文字は金箔押しで、この金箔も見る角度によって微妙に色調が変わるホログラムという高い金箔を使います。しかも蓋は6角形でありながら上の部分はドーム上に丸みをつけるという手の込んだもの。内職さんが手作業で折込んで仕上げるのですがなかなか技術が入ります。折り紙の厚紙パターンといったところです。A蒲鉾店さんは、お土産用の高級化粧箱は季節ごとにデザインを変えて購買意欲を刺激してます。6角形は上品さを醸し出し、なかなかいいものです。中身の蒲鉾も柔らかくて形もきれいでおいしいですから、目にした方は箱の形態美と蒲鉾の味をご堪能ください。なんか、営業マンの癖が出ちゃいました。午後仙台空港近くのM水産よりお歳暮用の化粧箱が在庫が少ないので至急納品して欲しいとの連絡。生憎、1台のトラックは遠出しているし、もう1台は運転手が腰をいためて休んでいる。仕方ないので担当の私が走ることにした。5~6年前までは、よくトラックで福島県の二本松や岩手県の盛岡まで配送したものだが、ここしばらくは人も増えたのでトラックに乗ることもなくなった。久しぶりのトラックだったが、かっては、天才ドライバーと評価(自己評価)された能力は健在でM水産の車幅ぎりぎりの倉庫にバックで挿入いや進入、M水産の肉付きのいい、カワイ子ちゃんをしびれさせた。ここの倉庫はプロドライバーでも嫌がるところで、行くときは、果たして入れるか不安もあったが、可愛娘ちゃんのお陰でスムーズに納品完了。今日は久しぶりに仕事をした感じになった。
2006年12月12日
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インターネットで遊んでいたら、食傷気味のアフリエイト関係とは雰囲気の異なる”SOHOメーリングサークル”という表題が気になってアクセスしてみた。ところが、その翌日から2~30通のメールがザクザク入って来て、これにはさすがのKOUKISINBOYも驚いた。しかもその内容のほとんどが、借金地獄の状態からこの副業のお陰で立ち直り今は月収100万円を越えてますという類のものだ。どういう会社で、どんな商品を売っているのかどこにも出てこないので、何か胡散臭いなとは感じたが、毎日読んでるうちに、好奇心が騒ぎ出し、内容を突き止めたくなった。すると12月10日に仙台で、イベントが開催されるとあったので早速申し込んだ。仙台市の中心部の141ビルの5Fのセミナーホールで12時~16時までびっしり説明会が行われた。大体手口はマルチ商法の勧誘と同じだったので、ほぼ予想していたところだ。従来アメリカ系の健康食品、食器等の販売システムに多いやり方だ。このイベントで初めて、ダイエット食品を売るアメリカのハーバーライフという会社であることがわかった。今回のイベントの進行係りは、5~6人の成功者で、最初にそれぞれの体験談の発表が行われた。中で注意を引いたのが、2バツで子供と母との3人暮らしの40歳代の山形のおばちゃんだった。なんと年収2800万で車はベンツの高級車にのっているという。また仙台の35歳のサラリーマンは月給が25万でこの副業で毎月40~50万だという。広告塔としてはなかなかすばらしい人たちだ。ただイベントが終わって不満だったのは、肝心のインターネット手法の説明がなかったことだ。この会社は、健康産業の世界では世界的な大会社で社名は知っていたのでその点親しみは感じた。そこで家に帰ってハーバーライフにアクセスし仙台地区の加入者のホームページを検索したところ、それぞれ個性のある立派なホームページを持っている。そこにまたメールが入って来て、イベントで説明されていなかったインターネットセールスのシステムの1部が説明されていた。推測ではホームページは全て会社の方で指示し作成させ、情報収集方法等もそれぞれのグループの親が子に指導するシステムだ。何でもヤフーメッセンジャーとスカイプを使ってチャットで緻密な連絡を取り合うとのこと。詳細は加入者でないと明かさないとのこと。従来のセールスと大きく変わってきたのは、個別セールスの必要がないため、パソコンさえ操作できればどんな人でも個人事業者になれることだ。しかも市場はその地域ではなく全国区で行えるというまさにWEB.2の世界での商売に変わってきている。今回のイベント参加は有意義でした。パソコン初心者にはヤフーメッセンジャーとかスカイプとかまた1つ勉強になりました。早速女の子とチャットして楽しむことでバラ色の人生が開けるかも。年を考えろ!
2006年12月12日
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今日は朝から、細かい雪が暗い空から舞い落ちている。冬の訪れを確信させる風景だ。去年の冬は、病気の後ということもあって、冬場のゴルフは差し控えた。しかし今年は、10月以降体調は100%に回復したにもかかわらず、迷えるゴルフアーを脱却できなかった苛立ちもあって、冬場もガンガン練習することにした。11時いつもの練習場に到着。寒さと雪で入場者は少ないと予想してたら、意外と多くの人たちが来ていた。さすがに、老人は見えず、若い人がほとんどだ。入念に右のグローブもはめて、200球を消化。この冬場でマスターするポイントが見つかったので、今月はじめからこの1点に重点をおいて練習している。今日は、かなり満足のいく練習だった。練習とラウンド、どちらも楽しくてしょうがない。ゴルフは本当にすばらしい。あと30年この楽しみが享受できる幸福感に酔いしれる今日この頃です。
2006年12月09日
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仙台駅前で居酒屋、スナック、ゴルフ教室を経営するクワハラグループの忘年会が、パレス平安で開催された。今日はいろんな会社の忘年会が集中したため、欠席者が多く80名の出席にとどまった。昨年までは、外部から歌手等呼んでいたが、今年はカラオケだけにするということだったので、ゆっくりと料理が食べられると安心していた。ところが2日前になってから、グループ代表から電話が入り、幹事達から強い要望があったので、マジックをお願いしたいとのこと。急な話で、準備や練習も出来ないので、簡単なロープ奇術を3~4点やって終わりにすることにした。代表挨拶ー会長挨拶ー来賓挨拶ー乾杯と進み軽く酒と食事をした頃に真っ先に私のマジックとなった。舞台が大きく高いので、大変やりやすい設営になっていた。演題1.紐の結び方のマジック的手法 * 両手の待った紐を、両手を交差させるだけで 瞬間的に結ぶ。 * 両手に持った紐を、同時に空中に投げて結ぶ2。両手に紐を持ち、一回も手から紐を離さずに結んで輪をつくる。 観客8人に、私と同じ動作をやってもらうが 私だけが出来て8人は出来ないのです。3回繰り返すが結果は同じ。3.2本のロープを借りた背広の袖から袖に通し、一回結んだ紐を強く引くと 背広は紐から外れて下に落ちる。 以上を演じて15分間の持ち時間終了。2番の演題は、簡単ではあるが秘密のテクニックは誰にも気ずかれないのでなかなかいい手品です。かって勤務していた建設会社の25周年記念で、松旭斎すみえ師匠を呼んでマジックショウを上演してまらった時、私が助手をやり、師匠をあわてさせたという思い出のある手品です。会の後半はカラオケが続いたが、会場の雰囲気に合わない歌と、上手さを人に押し付けるような歌い方が多く、ちょっと盛り上がりに欠けた。全員をうっとりさせるムード艶歌を歌ってあげようかとも思ったが、そこは一歩下がって、形だけの拍手に終始した。ふと横を見たら、酒が脳まで周り狂人1歩手前の社長が、隣の人とわけのわからない話をしてた。
2006年12月08日
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本日、不思議研究所の機関紙「不思議の友14.1」増刊号が届いた。別冊で「天機面相占術資料」が同梱されていた。先般初めて紹介されたこの占術のテキストが、不思議研究所から発売されることになったのだ。もともと中国で昔から使われていた占術ですが、書物としては存在せず、口伝で伝わってきたものを、不思議研究所の森田健氏が企画し、中国の面相師に記述させ完成したものだそうです。この占術でどんなことが読み取れるのか、書き出して見ました。1.金運の訪れが事前に解る2.あなたは何をすると金持ちになれるか3.運気を好転させることが出来る4.あなたを傷つける人が解る5.商売で信用できない人が解る6.いつ交通事故を起こすか事前に解る7.性の一致、不一致が解る8.女性が幸福になれる男性の顔が解る9.運気をあげる女性の眉の描き方が解る10.現在の健康度が解る「天機面相占術資料」より(文章1部変更してます)これはほんの1部の例に過ぎないそうです。実際、森田健氏が観てもらった結果が記載されていますがほんの1部だけ取り上げても、全て信じられないことばかりです。引越しした回数、兄弟の人数、脚の怪我の跡、お父さんのなくなった時期、娘さんの腕のアザ、等々中国の多くの会社では、社員の採用、取引相手の信用度等の判断に活用しているそうです。これをマスターすると、ナンパが100%成功するとのこと。これはなんとしても、マスターしなくてはと固く心に誓う70歳の青春男児でした。
2006年12月07日
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NHKの”歌のアルバム”のテレビを見ていたら、にしきのあきらが、出演していていつもの”空に太陽が....."を歌っていた。彼の顔を見たとき、ふと昔のことが思い出された。それは、彼が大麻事件か何かで表舞台から姿を消していた時期だった。歌舞伎町のコマ劇場の裏通りのビルの地下に”青い城”というクラブがあってそこによく彼が遊びに来ていた。得意の白いスーツをビシッと決めて、なかなか格好よかった。この”青い城”のマスターが、ラテン系のギター奏者で、歌と語りのワンマンショーで客を楽しませる店で、毎晩超満員だった。お客は、ビジネスマンが半分、後は芸能人やスポーツ選手が多かった。私が行くたびによく顔をあわせたのが日大出身の力士”荒瀬”だった。顔に似合わない、ムード歌謡はなかなかのものだった。私は高校時代の運動部仲間でT不動産の常務をやっていたS君と毎週のようにこのクラブに通っていて、ギターの伴奏で得意ののどを披露していた。特に私の”シバの女王”は好評で、常連客から必ずリクエストが出る状態。あの頃は、のども絶好調の時期で、銀座、六本木、赤坂、新宿と歌いまくっていました。若かりし頃の良き時代の1ページでした。
2006年12月06日
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高校時代は、野球部で甲子園の夢を追いかけていたため、勉強はさっぱりだった。落第だけはしない程度の実力というのが正解だ。甲子園大会県予選2回戦で、甲子園への夢破れ2~3ヶ月は何も手につかずぶらぶらする毎日。大学に入り東京に出てみたいという夢もあったので、気持ちを入れ替えて勉強を始めた。両親からは、入学金だけは出してあげるが後は支援出来ないから、学費の安い国立に入るように言われたが、何分実力がないので、自分では無理だと決めていた。しかし親の手前姿勢だけは示さないと悪いので、上の兄貴が一橋大学にいっていた関係上受験だけすることとした。もちろん奇跡は起きなかった。私立大学はどこでもよかったが、学費の安いのを探したら中央大学が一番安かったので迷わずそこに決めた。試験科目は、国語、日本史、英語だったが、英語は以前から好きで結構自信があったので日本史だけを徹底的に勉強した。作戦功を奏し、自分の採点では、3つとも100点を取り合格晴れて上京できることになった。ところが下宿するにも貧乏で金がないので、兄貴の所に同居することにした。当時すぐ上の兄貴は、大学在学中で、その上の兄貴が、一橋大学の会計課に事務員として勤務していて、大学構内の廃止になったボイラー室の休憩所の3畳の小屋にタダで寝泊りしていた。国の施設ですから本来は無料で使用するのはいけないことなんですが、当時の関係者の暖かい配慮により、私の同居も許可され2年間過ごしました。近くに大学の総長の車の運転手の社宅があり、いつも風呂に入れてもらったり、食事もご馳走になっておりました。貧乏な3人兄弟として、大学構内では有名な存在になり、有名な大学の先生方から様々なおこぼれを頂戴したものです。大学祭の時など津田塾大学の女子大生がたくさん来るのですが、私は一橋大学の学生に成りすまし、もてまくりました。また野球部が人が足りないというので、他の大学との対抗戦に選手で狩り出されつかの間の一橋大学生を味わったこともあります。こんな恵まれた大学生活を送れたのも、全て会計課に勤めていた、江田島の特攻隊員の生き残りの兄貴のお陰なんです。すでにあの世に召されましたが、兄貴には一生頭が上がりません。
2006年12月05日
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長女が生まれて1年が経とうとしていた、昭和39年3月、突然仙台営業所への転勤を命ぜられた。当時は、東北というと、はるかかなたの北の未開の地に行くような感じだった。都会育ちの妻のK子が心配だったが、一緒に行くことを、積極的に受け入れてくれたことは大変うれしかった。当時、仙台への出張、転勤には、上野駅23:30分発の寝台列車”新星”とか”北斗”だった。多くの仲間に見送られて、上野駅の暗い夜のプラットホームから列車が滑り出した時はなんともいえない寂しさを覚えた。当時の寝台車は、A,B,Cのランクで、Aは個室、Bは2段ベッド、Cは3段ベッドだった。普段の出張ではCだったが、転勤ではBの2段ベッドで比較的ゆったり出来た。翌朝7時、東北の都仙台駅に降り立った。最初の印象は、人間の数が少ないことと、その少ない人たちの動きがゆったりしていることだった。完全に別世界に来た印象だった。社宅は、東照宮近くの新築木造アパートの1階で、6畳2間台所6畳で、今までの生活からすると一番上等の部類だった。その1年後鉄筋コンクリート4階建ての日本住宅公団仕様の2DKの新築アパートに移りそこで3年間過ごすことになった。
2006年12月04日
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メンバーコースの本年度最終の月例競技会に参加した。天気予報だと、最高気温3度で山添は雪とのこと。このコースは山岳地帯というほど高地じゃないんですが、近くの山から吹き降ろす風がまともに雪を運んでくるので、冬は雪でクローズになることが多いのです。あさ家を出るときは、気温は低かったにもかかわらず、快晴で無風だったため寒さはあまり感じませんでした。ところがゴルフ場まであと10分というところに来たら、空は完全に雪模様の曇り空。ゴルフ場入り口の団地のところでは、まだ雪は見えなかったが、2~3分坂道を走って、ゴルフ場に入ったら細雪の世界。8時36分スタートしたら、細かい雪がちらちら程度で、プレーに支障なくハーフを終了。OB2発で 46 これなら後半頑張ればいけると言い聞かせお昼はうな重(特性うなぎの肥満体)を食べ後半の頑張りにかけることに。ところが、午後はスタートから、本格的な雪が舞い落ちてきて、視界不良。2ホール進んだところで、グリーンに雪が積もり、プレー不能に陥り中断の連絡が入った。成績はハーフのスコアで順位を決めることになったため、実力(?)が発揮されることなく、11位に終わる。実は、この寒さに無理して参加した狙いは、他にあったのです。このコースでは、年間を通じて月例会の皆勤賞として2万円の商品券が支給されるのです。今日の参加で、商品券2万円ゲットしました。15時には家に帰ったが、車で30分の距離の仙台市内は、雪はほとんど降っていなかった。男子プロゴルフのテレビを見たら、インドのシンちゃんが優勝した。経済で急成長のインドと中国の選手が、ゴルフの世界でも急成長なので、日本の若手も頑張ってくれなければ、困ります。
2006年12月03日
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結婚して最初の新居は,川崎市の6畳1間の安アパートでした。給料に見合った家賃のところを探し回って漸く見つけたところです。風呂なし、トイレは共同で、風向きによっては京浜工業地帯の煙で洗濯物もすすけるし、悪臭もしました。ただし市民税は日本一安かったのです。しかしこの環境の悪さには、子供が出来たときのことを思うと耐え難いものがあって6ヶ月で転居しました。移った先は、以前住んでいた茅ヶ崎市の駅から海岸とは反対方向に歩いて10分ほどの、1戸建ての借家で、小さいながら落ち着ける環境でした。会社の方は相変わらず忙しく、朝6時に家を出て帰りは翌日1時という状態が継続していました。ただし日曜日は月1回は何とか休めるようになっていました。そのうち妻が妊娠して、おなかも大きくなってきて、毎日の家事も大変そうなので実家に帰って出産することを進めました。ところが妻は、どんなに辛くてもここで子供を生むからと生まれる前日まで家事を完璧にやってくれました。頭が下がりました。近所の人に地元の病院を紹介してもらい,いざというときはタクシーを呼んで入院するよう親しかった隣の奥さんにお願いしておきました。出産予定日に病院で診察を受けたら、担当医師から”予定が遅れているので、帰りに茅ヶ崎海岸の砂浜を1時間ほど散歩してください。そうすれば、出産が早まりますから”といわれ、病院の帰り道,海岸の砂浜を1時間半ほど歩いて家に帰った。3月とはいえ、湘南海岸はポカポカのいい天気で、薄っすらと汗もかくほどだった。家に帰って3時間ほどした頃、突然陣痛が始まったのです。あわててタクシーを呼び、苦しむ妻を励ましながら、10分ほどで病院にたどり着きました。この病院は数少ない全身麻酔出産の病院で主人の立会いが義務つけられておりました。したがって、妊婦も出産時の痛みは全然感じなかったそうです。考えていた以上に、短時間に終わり驚きましたが、赤ちゃんの産声を聞いたときの感激はいつまでも忘れません。そして苦しみに耐えて頑張ってくれた妻に対しての感謝の気持ちから夫婦愛の真髄を体感した瞬間でした。そして月1回の休日に出産日が一致した幸運にもただ感謝あるのみでした。
2006年12月01日
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