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2016年は振り返れば驚きの連続。イギリスのEU離脱に始まり、不動産王のトランプ氏の大統領当選。国際的なテロも連続して起こり多くの人が巻き添えをくった。また内戦続きで国に居られず大量の難民が欧州を目指した年でもある。国内では熊本の大地震や日本各地で大規模水害が続く悲劇。そして最後の最後に国民的アイドルSMAPの解散。つくづく今年は良い事がなかったと思う。できる事なら2016年は丸ごとリセットして無かった事にしたいと思う さて、年内に高台寺まではさっさと終わらせます。書くこと無いようで、結構書く事が多いのに驚きます。やっぱり京都はどこも深いです。2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)方丈(ほうじょう)枯山水(かれさんすい)秀吉と寧々の霊屋(おたまや)高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)茶室 傘亭(かさてい)と時雨亭(しぐれてい)江戸期に数度の火災で仏殿、方丈などが焼失したそうだ。もし全部残っていたら壮観だった事だろう。創建時の建造物で現存しているのは前回紹介した開山堂と観月台。そして今回紹介する秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)に茶室(傘亭と時雨亭)などである。開山堂前からの方丈(ほうじょう)開山堂の苔むした庭園一部と奧が方丈作庭者の小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、二条城の二の丸庭園の作庭者でもある。※ 二の丸庭園の方は特別史跡名勝に指定されている。方丈内部は撮影禁止なので遠くから・・。創建時は伏見城からの移築だった方丈も火災で焼失。現在の方丈は勅使門と共に1912年に再建されたものだそうだ。方丈前庭の枯山水(かれさんすい)と勅使門(ちょくしもん)勅使門(ちょくしもん)枯山水(かれさんすい)発祥は平安頃か? 室町時代の禅寺で特に多く見られるようになったと言う水のない水の庭である。ひよっとすると枯山水の原型は歌合わせの州浜(すはま)から来ているのではないか? と思ったりして・・。方丈前庭では不思議な枯山水を見た。通常は枯山水と言えば石や白砂を使用して水面を表現するのが一般的。石、あるいは白砂を三角錐にしたものは山や島になり、平たく敷いた白砂は水面の波形を表現するのがポピュラーだ。ところがここのは全く違う。変わった四角形や円形の模様は何か特別な意味があるのか? 不思議な図形の意味を聞いた所、実はなんの事はない観覧時、特別プロジェクトで夜のライトアップをしていたそうだ。そこでプロジェクションマッピング(Projection Mapping)をする為に庭を造っていたらしい。それにしもナイスアイデアか? 面白い試みかもしれない。開山堂や霊屋、茶室 (傘亭と時雨亭)方面へのゲート霊屋(おたまや)表門 重用文化財臥龍池(がりょうち)を超えて山に登るとすぐ上に霊屋(おたまや)がある。ここは秀吉と奥方である北政所(寧々様)の霊廟である。本来は開山堂より臥龍廊(がりょうろう)と呼ばれる階段で霊屋までアクセスできるのだが一般開放されていないのだ。臥龍廊(がりょうろう)開山堂から山に登る階段が霊屋(おたまや)まで続いている。この屋根瓦が龍の背に似ている事から臥龍廊(がりょうろう)と名が付いたそうだ。木々が生い茂っていて外からの全景は無理でした。以前豊国神社の所で秀吉の本来の墓である豊国廟の事を書いたが、もし阿弥陀が峰に建てられていた豊国廟が現存していたらもっと贅沢にもっと豪華だったはずだ。桃山時代の霊廟は工芸技術がふんだんに使われて豪奢なのだ。屋根の裏や天井、柱の彫刻などものすごく凝っている。内部の方もそうだ。厨子も高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)と呼ばれる金彩のほどこされた漆(うるし)塗りでできている。秀吉と寧々の霊屋(おたまや)内部撮影禁止の為にパンフレットと、この間BS朝日で放送されたテレビから写真を持ってきました。基本入り口からのぞくだけなので、実際に見に行くよりもこの写真の方が大きく見えてます。BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から 秀吉の木像実際の秀吉のイメージより男前ではないか? と係の人と話していたのだが・・。これは北政所(寧々様)が発注した像らしいので多少イケメンに仕上げたのかもしれない。因みに近年元の色に化粧直しされたようで、それ以前は色がほぼ消えていたそうだ。内部の厨子の右には秀吉の木像が安置されている。同じく厨子の左には北政所(寧々)の木像が安置されている。基本ここは寧々様のお墓なので寧々様の像の下には丸々寧々様の遺骸が埋まっているそうだ。一方、秀吉の方は、基本、阿弥陀が峰の豊国廟に遺骸が納められていたので、ここには遺髪と喉仏(のどぼとけ)が納められていると信じられている。(住職達も確認していないらしい。)余談であるが、豊臣家が滅亡した1615年に徳川家康により、豊国神社は廃絶され、豊国大明神の神号も剥奪。阿弥陀が峰の社殿だけは寧々様の意向でかろうじて残されたらしいが、山腹の豊国廟の方は破壊されて跡形もなく消された。(明治になるまで秀吉の遺骨は行方不明であった。)BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から立て膝の姿が当時の女性の座りスタイル姿なのかな?BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から堂の内部は巨大な蒔絵の厨子。つまり仏壇のような物。秀吉と寧々様の像は夜は蒔絵の施された扉の奧に入る。高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)厨子の扉には秋草、松竹.須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。蒔絵とは漆が乾かないうちに金粉や銀粉、等をまき付けて定着させる技法である。桃山時代の漆工芸の粋が結集されたこの豪華蒔絵技術は、この寺の名をとって高台寺蒔絵と呼ばれたそうだ。寧々様はよほど蒔絵が好きだったのか? その他の調度品にも多く金彩の蒔絵の品が保存されている。因みにこうした豪華霊廟建設は、やがて日光東照宮の霊廟建設に繋がって行ったそうだ。高台寺のハガキから 須弥壇の階段にほどこされた高台寺蒔絵(一部)茶室 傘亭(かさてい)と時雨亭(しぐれてい) 重要文化財山側からの撮影。左が茶室 時雨亭(しぐれてい)。右が茶室 傘亭(かさてい)。利休の意匠のによるこの茶席は伏見城から移築したものだそうだ。茶室 傘亭(かさてい) 表側丸太造。茅葺(かやぶ)き屋根の傘亭は竹が放射状に組まれ、唐傘を開いたように見える事から傘亭と名がついたようだが、正式には安閑窟(あんかんくつ)と呼ばれているそうだ。利休好みの侘び(わび)や寂び(さび)の効いた茶室は、権力アピールの黄金の茶室に相対して心静かに茶の湯を楽しめる場所のようだ。秀吉は両極の茶室をうまく使い分けしていたのかもしれない。因みに黄金の茶室は組み立て式で可動できるので、あちこちに運ばれて茶会が開かれたようだ。秀吉のプロモーション用ツールだったのかも・・。BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から本来内部はこんなに見えない。何しろ入り口にも入れないのだから・・。左の扇のある所に秀吉と寧々様が座り、客人が右。 ここでも時々お茶会が開かれるらしい。時雨亭(しぐれてい)時雨亭は高床式? 目線の高さが上がるので京都の街が見渡せたそうだ。昔は絶景だったのかも・・。傘亭とは現在土間廊下で繋がっているが伏見城では別々に建っていたものらしい。竹林茶室 傘亭(かさてい)と時雨亭(しぐれてい)を出て山を下るとすぐに竹林である。これだけあると間引きするのも大変だろう。高台寺おわり
2016年12月28日
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19日夜、、ドイツの首都ベルリン(Berlin)で大型輸送トラックがクリスマス市のアーケードに突っ込むと言う許しがたい信じられ無いテロが起きた ベルリンは欧州の諸都市の中でも人口が多い街。もしかしてクリスマス市が狙われる・・と言う噂はあって警戒はしていたようだが、まさかトラックでクリスマス市に突っ込むなんて誰も想定できなかったろう。想像通り、後から過激派組織ISが犯行声明を出した。さらに同志に向かって車両を使って群衆を攻撃するよう呼びかけているらしい。改めて思う。過激派組織の目的は何なのだろう。よく、ジハード(jihād)と言う言葉が使われるが、本当のジハードは奮闘とか、努力と言った意味で、ムスリム(イスラム教徒)の守る大切な行いをさしているそうだ。過激派達はそのジハードを「異教徒を滅ぼす為の奮闘」と、かってに置き換えているのか?敵対する、あるいは迫害する異教徒のいた大昔ならともかく、今はお互いの宗教を重んじて異教徒同士でも手をさしのべあって生きていこうと言う時代なのに・・・。彼らの目的は世界をイスラム色で塗りつぶしたい・・と言う理由だけでは無いはず。(彼らは正統なイスラム教徒とは全くの別物。)彼らの真のねらいは? 世界を恐怖に陥れたいと言うだけの、非常にたちの悪いただの愉快犯なのではないか?あるいは彼らのトップはゲーム感覚で世界を版にして遊んでいる? 共鳴する同志? と言うコマにテロを起こさせ世界が恐怖するのを楽しんでいる? ※ クリスマス市については、古いですが、2009年12月「ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市) 」で書いてますから参考に見てね。リンク ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)リンク ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)リンク クリスマス市の名物グリューワイン2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)鷲峰山 高台寺(じゅぶさん こうだいじ)茶室 遺芳庵(いほうあん)家康と北政所の不思議な関係史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州八坂の塔の東北。東山霊山(ひがしやま りょうぜん)の山麓に鷲峰山 高台寺(じゅぶさん こうだいじ)がある。そこは最初、豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が、夫亡き後、出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)となって夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺であった。(この時点で高台院は曹洞宗)1624年に北政所が亡くなってから、北政所の兄(木下家定)により建仁寺の三江和尚を開山として迎え高台寺(正式には高台寿聖禅寺)と号したようだ。(建仁寺は臨済宗なので宗派替えとなった。)※ 豊臣秀吉(1537年~1598年)※ 北政所(寧々)(1548年~1624年)高台院塔頭全景図(看板を撮影)青屋根・・・・・・・・・方丈(ほうじょう)右上の紫屋根・・・霊屋(おたまや) 秀吉と北政所を祀る霊廟。方丈と霊屋の間・・開山堂 方丈手前の渡り廊下に観月台(かんげつだい)がある。地図の左側の石畳の道が「ねねの道」。その道より左手にねねの住まいである圓徳院がある。こんなに京都市内にもかかわらず、かなりの敷地でありしかも環境は素晴らしく良い。紅葉の名所としても有名で、竹林もある。桃山時代の作庭である庭園の素晴らしさはずば抜けている。さらに院内には茶室が何棟か建っており、テーマでいろいろ茶会が催されているらしいから調べてから行くのも良いだろう。(体験予約もできるらしい)入り口の正面は庫裏(くり)庫裏(くり)・・食堂や僧達の住居部茶室 遺芳庵(いほうあん)茶室、遺芳庵(いほうあん)は趣味人で京都の豪商であった灰屋紹益(はいやしょうえき)(1607年~1691年)と夫人の吉野太夫(よしのたゆう)との好みの茶席らしい。(1908年に紹益の旧邸跡から移築したもの)見える格子のついた丸窓は吉野窓。小さいながら高台寺を代表する茶席の一つだそうだ。見える建物が開山堂開山堂の周りは多くの石組で飾られた小堀遠州 作の桃山時代の庭園となっている。今回いろんな角度から庭園を紹介。偃月池(えんげつち)と亀島この庭が「鶴亀の庭」とも呼ばれる所以が池北側の亀島と南の岬の鶴島の存在だ。徳川家と北政所の不思議な関係実は高台寺の建設には徳川家康の尽力と資金援助があると言われている。資金だけではない、高台院創建に関しては伏見城からの移築物が非常に多くその労力も担っている。(家康は配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命している。)例えば堂宇は北政所の母、朝日局の菩提寺であった康徳寺の堂を移築して仏殿としている。※ 朝日局(あさひのつぼね)は高台寺内の旭雲院に葬られたがそれは今は無いようだ。伏見城からは今は焼けてしまった方丈や利休の意匠による茶室(傘亭、時雨亭)が移築されているし庭園の石もそうである。また伏見城の化粧御殿は高台寺前に移築され、そこが北政所の住居(現在の圓徳院)とされた。豊臣家を滅ぼした事を考えると破格の待遇のような気がする。何しろ家康は秀吉が嫌いだったはず。利休切腹の件もあり恨みは深かったと推測。しかも、豊臣家が滅亡する1615年には、秀吉を祀る豊国神社を廃絶させ、阿弥陀ヶ峰に葬られていた秀吉の墓はめちゃくちゃにされているのに・・。家康の時代に入ってからも(関ヶ原以降)北政所には大名並の領地や養老料など1万6千石近く与えられていたそうだ。だからこそ、高台寺(創建は時は高台院)は創建当時から立派なのである。ではその理由は何なのだろう?政治的配慮で家康が北政所に気をつかった? と言う説があるが・・。ひょっとすると、北政所を大事にしたかったのは徳川家康ではなく、息子 徳川秀忠(とくがわひでただ)ではなかったのか?徳川2代将軍となる徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579年~1632年)は実質的な人質の体で1590年に豊臣家に入っている。(彼は特に秀吉に気に入られ秀忠の名をもらっている。)つまり秀忠は11歳で秀吉の元に行き、子の無い北政所に実母のように面倒を見てもらい、秀吉にも気に入られて豊臣家で案外良い待遇を受けていたようなのだ。北政所が落髪して尼僧となったのが1603年。秀忠が将軍職を継いだのが1605年。そして高台院が創建されたのが1606年と考えるとまさに北政所の為にお金も骨も折ったのは徳川秀忠と言う事になる。実際、高台院が創建されてから秀忠は度々高台院を訪れて北政所に会っていたと言うのだからやっぱり? と言う気がする。鶴島がどれか解らなかったが、たぶんこの写真範囲にあるはず。観月台(かんげつだい) 重要文化財檜皮葺き(ひかわぶき)の唐破風造り。文字通り観月する為の建造物である。これは秀吉遺愛の台(うてな)だそうだ。それ故、これも伏見城からの移築物なのだろう。史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州開山堂の左右、西と東に池を持つ庭園は小堀遠州(こぼりえんしゅう)作の桃山時代を代表する池泉回遊式庭園である。この寺の最大の見所はこの庭園と言える。石は伏見城から運ばれたようだ。それを小堀遠州(こぼりえんしゅう)が組み替えて優雅な庭園を造り上げている。どの角度から見ても絵になる庭園である。織田信長が天下統一を図り、秀吉が天下を統一した時代。信長の安土城と秀吉の桃山城(伏見城)双方から安土桃山文化と呼ばれる時代がある。乱世が落ち着いて余裕の出できた武将達が茶の湯に興じ、器や調度品、茶席の造作、作庭、ふすま絵など素晴らしいものが沢山生まれた。貴人達が好む華やかな文化を武将達も求め花開いたのである。つくづく平和が文化を創る・・と思う。余談であるが、日本の文化がどれもこれもすばらしいのは、平和な江戸の時代が長く続いたおかげである 話はそれたが、桃山時代と称される秀吉の時代は利休を筆頭に茶の湯の優雅な世界が構築された時代である。この庭の作庭士、小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579年~1647年)もたくさんの肩書きを持っているが茶人である。大名、茶人、建築家、作庭家、書家。 彼は万能の総合演出家だったのだろう。西の偃月池(えんげつち) 開山堂正面側からこの撮影直後、目の前を突然カモが横切り偃月池(えんげつち)から臥龍池(がりょうち)に移動して行った開山堂(かいざんどう) 重要文化財入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂は創建時の建物で重要文化財であるが、これが前出、康徳寺の堂を移築したものかは不明。(寺の資料には書かれていなかった。)この堂の左が偃月池(えんげつち) で右が臥龍池(がりょうち)である。内部の撮影ができないし、内部は薄暗いので解りにくいが礼堂部中央の彩色天井に北政所の御所車の天井が使われ、前方の格子天井は秀吉の御座舟の天井が利用されているそうだ。現在は高台寺開山の三江和尚(三江紹益禅師)(1572年~1650年)を祀る塔堂になっている。東の臥龍池(がりょうち)高台寺つづくリンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2016年12月22日
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秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が亡き夫、秀吉の為に京都東山に建立したのが次に紹介する高台寺(こうだいじ)です。そして寧々様が晩年を過ごした圓徳院(えんとくいん)を続けて紹介予定です。清水寺の隣近所といった位置関係(清水寺と八坂神社の間)にあり、前々回から紹介していた清水坂から産寧坂、二年坂と辿ると調度 高台寺の南の裏口? にアクセスできるのです。産寧坂はともかく、二年坂や一念坂は「どこからどこ?」 と言うのが案外うやむやです。(地図でもはっきりされていない事が多い。)そんなわけで寺に行く前にやはり軽く二年坂も紹介しておく事にしました。2016年京都 5 (二年坂)二年坂の由来重要伝統的建造物群保存地区オレンジ・・・産寧坂紫・・・・・・・・二年坂黄・・・・・・・・一念坂緑・・・・・・・・ねねの道産寧坂から二年坂の入り口は、山椒ちりめんの「いづみ屋」の横です。前から通っていたけど、改めてここからが「二年坂」なんだ・・と、知りましたまだこのあたりは山の中腹です。比較的なだらかですが、階段が多い箇所が所々。ベビーカーやキャリーはちょっと駄目です。時代劇のセットにもなりそうな古い家々がほぼ土産屋か飲食店に変わっていました。3~4年前の二年坂はそんなに店はなかった気が・・・。外国人の増加に比例してこの1~2年で増えたのかも・・。二年坂の由来そもそも二年坂も産寧坂も清水寺への参拝ルートとして造られた道だそうです。前回の産寧坂のところで、俗称、三年坂について安産祈願の産寧説以外に、大同3年(808年)に道ができたからと言う説がある。と紹介しましたが・・。二年坂についても、大同2年(807年)に道ができたからと言う説があるようです。しかし、同じ寺への参拝ルートだったら全部ひっくるめて同じ年になりそうなもの。敢えて分けて呼ぶ意味が解せない・・と言う観点から産寧坂の手前なので二寧坂と通り名がつき、二年坂になったのでは? と言う説のが正しそうな気がします。因みに、その二年坂の手前には一念坂が控えています。こちらは一年に引っかけた一念のようで、実は平成2年(1992年)に整備された新参の道だったようです。ところで、この界隈はの寧々(ねね)様が77歳で没すまでの19年間を過ごされた場所です。東山地区との因縁は定かではありませんが、もともと豊国神社など秀吉が生前力を入れて寺院など建立していた場所故の縁があったのかもしれません。一説には寧々様が子宝を求めて泰産寺(たいさんじ)の観音様(子安の塔)に参拝したなどとの説から産寧坂(さんねいざか)の寧(ねい)の文字が寧々(ねね)に由来するとも・・。私も最初に文字を見た時は寧々様由来かと・・。二年坂降り口方面を振り返った所。重要伝統的建造物群保存地区産寧坂や二年坂の石畳や風情ある街並は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。市町村が選定した伝統的建造物群保存地区で特に価値が高いと国が判断した場合、国の文化財保護法の対象に指定。(文化財保護法第144条)産寧坂は由緒ある社寺建造物の他、江戸末期から大正時代にかけての伝統的京町屋郡を一体とした歴史的な集落、町並みの保存を図る事が目的で、京都市より1976年「産寧坂伝統的建造物群保存地区」に指定されている。それが国にも認められて1976年9月4日、「門前町」として文部科学大臣より重要伝統的建造物群保存地区指定されたと言うわけだ。因みに、京都市には国指定の重要伝統的建造物群保存地区が4箇所もある。二年坂の路地高台寺のカフェの前から二年坂方面を撮影↑ ・・二年坂(産寧坂方面) → ・・一念坂 入り口一念坂 入り口?石柱が一念坂の標識になっていたが、よく憶えていない。二年坂の終点は京都霊山護国神社の入り口手前鳥井の向こうは「維新の道」らしい。高台寺は写真左手から敷地。今回は触れませんが、京都霊山護国神社、(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)は明治天皇の勅令により維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀する為に建立された神社です。※ 国家のために殉難した英霊を奉祀する招魂社(しょうこんしゃ)で、靖国神社より古いらしい。そんな訳でこのあたり別の意味で人気があるようです。幕末維新ミュージアムがあったり、もちろん霊山護国神社には坂本龍馬や高杉晋作らの墓もあるらしい。高台寺カフェ前からの八坂の塔いつも素通りしていた所ですが、もっとこの界隈ゆっくり散策してみたいものです。撮影場所はちょうど高台寺の敷地で、最近カフェができたようです。そのカフェは日本人よりもむしろ外国の方が多くちょっと穴場的な場所。京野菜のカレーや天ぷらうどんが外国の方に人気? 自分はパニーニがとても美味しかったです 次回高台寺です リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)back numberリンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)2016年京都 5 (二年坂)
2016年12月15日
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タイトルを変更Break Time(一休み)また起きた飛行機の墜落事故(11月28日コロンビア、メデジンの国際空港手前13kmに墜落)事もあろうに登場していたのはブラジル、サッカー1部リーグ所属シャペコエンセ(Chapecoense)の選手ら乗客68人と乗組員9人(最終的な死者は71人。生存者は6人)。しかも事故の直接の要因は燃料切れと言うから驚きだ。また信じられないのは大量のサッカー選手がこの機に搭乗していた事だ。最近ではサッカーチームの移動はチャーター機が主流になっていたらしいから起こるべくして起きてしまった事故かもしれない。こんな事故の可能生も想定して、大手の企業では何十年も前から同じ機に従業員が複数乗らないよう社内規定を作ったりしている。一度に有能な人材を失わない為の対策だ。当然クラブ側の危機管理も問われるべきだろう。今となっては亡くなった方々の冥福を祈るばかりですが・・ さて、今回は京都はちょっと休憩。実は今、昔のフィルム写真のネガをパソコンに取り込んでデジタル化している最中です。そこでかなり古い写真ですが、珍しいのを見つけたので紹介します 超音速旅客機 コンコルド(Concorde)の残影超音速(supersonic speed)旅客機 コンコルド(Concorde)アームストロングリミット(Armstrong limit)今は知る人も少なくなったと思うが、かつて超音速の旅客機が飛んでいた時代がある。音速で水平飛行が可能な航空機は今や戦闘機くらいしか無い。しかし、1976年から2003年10月まで一般の人も乗れる超音速旅客機が確かに運行されていたのである。※ 主に大西洋上が定期航路。日本にはテストフライトや臨時便で数回来たらしい。超音速(supersonic speed)旅客機 コンコルド(Concorde)超音速(supersonic speed)旅客機とは、文字通り超音速で飛ぶ飛行機の事。つまり音の速さ以上の速度で飛行するものすごく早い飛行機の事である。※ その早さはパリ~ニューヨーク間で通常8時間かかる所を超音速旅客機(コンコルド)では3時間45分。コンコルド(Concorde)はマッハ2( 2200km/ h)と言う早さで飛行する旅客機だった。※ マッハ数は1は航空機やロケットなどの速度。マッハ1は音速と等しい速さで秒速約340m/s、1225km/h。エールフランスのコンコルド(Concorde)資料写真はコンコルド搭乗時に配られた冊子より。飛行高度の比較図図の2段目、通常のジェット機の飛行高度は20000~43000フィート(約6000m~13000m)。一般には33000ft(10000m)を飛行。しかし、コンコルドは成層圏まで達して飛行する。図の1段目、コンコルドは53000~62000フィート(約16000m~19000m)の高度を飛行する。50000ft(16000m)での大気圧は地球上の10分の1。空は紺色でほとんど紫色の宇宙空間に近い。この高度になると気象の影響は無い。アームストロングリミット(Armstrong limit)大気圧が10分の1と言う事は、空気の抵抗は少なくなるかわりに沸点が下がる。自分の体温温度で体の水分が沸騰すると言う気圧ラインがアームストロングリミット(Armstrong limit)である。高度にして60,000~62,000フィート(18000m~19000m)。それはまさにコンコルドの飛行高度なのだが、人間が生きていられなくなる限界高度がアームストロングリミット(Armstrong limit)と言う事になる。戦闘機のパイロットなどは肺気圧傷害を防ぐ為に圧力衣服が必要であるが、コンコルド内部は通常の旅客機と変わらない。むしろ気象の抵抗が一切無いので飛行中の揺れも無く快適なのである。但し、乗っている人間に影響は無いが、音速で飛ぶ為に音波による衝撃波が発生し周囲に影響する。(sonic boom)マッハ2に到達するまでの高度や距離のグラフ330km(27分地点)で高度30000ft(9000m)に達し、速度はマッハ1超え。 440km(35分地点)で高度42700ft(13000m)に達し、速度はマッハ1.7。 1255km(60分地点)で高度50200ft(15300m)に達し、速度はマッハ2.0。 冊子より見た目は戦闘機に近い。でもこれで100人は搭乗できる。コンコルドは、一般の飛行機よりダントツ早かった訳だが、燃費は高いし食うので、給油無しで太平洋の横断はできなかったらしい。(大西洋越が限界)当然その飛行運賃は高くなる。定員100人と言う事もあり料金は通常のファーストクラスの20%増しと言う値段も超高額であった。(それ故、乗れた人は少なかったろう。)当初なりもの入りで世界各国の航空会社からの受注を受けたようだが、時代はオイルショックの影響もあり、格安の大型輸送飛行の時代に突入。割高の航空運賃や結局相次ぐキャンセルが続き、開発国のイギリス(ブリティッシュ・エアウェイズ)とフランス(エールフランス)のみしか運航されなかったと言う経緯があった。※ 1972年には日本へもプロトタイプがテスト飛行。日本航空も当初購入予定からキャンセル。最終的にプロトタイプ以外に16機が製造されただけ。採算ベース(250機)には遠く及ばなかったそうだ。1988年2月のフランス、パリ、シャルルドゴール空港それでも超音速旅客機コンコルドは飛行機好きにはあこがれの対象だったはず。実はコンコルドは日本にこそ来なかったが、1988年にJTBがチャーターしてパリ~ルクソール間をフライトさせた事があった。(内容的にはコンコルド搭乗とエジブト旅行が合体したもの。)今回家族が乗ったその当時写真を少し公開しようと思います。ただ、当時はまだデジタルカメラが一般的でなく、普通のカメラで撮影。それをスキャナーで読み取っての紹介なので解像度がものすごく悪いしフィルムの劣化が難ですが・・。超音速の飛行機は半世紀以上前に完成していて、コンコルド含めて1960年代には各社が商業ベースにのせるべく開発競争をしていたそうだ。その中で開発に成功して実際1970年代にはテストフライト。1976年運行となったのがコンコルドである。因みにコンコルド(Concorde)の名前はローマ神話の協調や調和の女神であるコンコルディア(Concordia)から由来しているそうだ。座席は2席2席で狭い。ワインをサーブするフライトアテンダントの横に速度計がついている。写真ではボケて見えにくくなっていたがマッハ2を超えていた。1988年2月のエジプト、ルクソール国際空港解像度が悪すぎて拡大ができません。戦闘機のような超スーパー飛行機からタラップで降りるなんて・・。チャーターの特別フライトなのでそもそもルクソールへは通常飛ばない。パリ~ルクソールの所要時間は定かで無いが2時間程?食事なども定期便とは内容が異なっていたのでは? と推定。機内食など写真がボケていて全然使えませんでした。尚、搭乗前にパリでは特別ラウンジを使用しています。何より1988年です。いろんなものが古いです。でも、飛行機の速さで言えば、今の時代よりも早く飛んでいた・・と言う事になります。コンコルド搭乗証明書機内で配られたグッズ(レター・セット)一般の人も乗れる超音速の旅客機は1960年代に開発が進み、イギリスとフランス共同開発のコンコルド機だけが商業ベースにのり1976年から定期運行が開始されていた。が、2000年7月に起きたシャルル・ドゴール空港での墜落事故。原因は前に離陸した飛行機の落とし物が運悪くコンコルドの主脚にぶつかりタイヤが破裂。さらにタイヤ片が主翼下面にあたり燃料タンクを破損。直後に漏れ出た燃料に引火、そのまま炎上、墜落して113人の人的被害(地上の被害者もいた)を出したそうです。(ウィキペディア解説より)2001年には改修されて再運行になったようですが、システムの古さに加え、コストパフォーマンスの悪さ。さらに運が悪い事に2001年9月11日のNYの同時多発テロの影響があり収益性の回復が見込めず2003年4月、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは共に廃止を決定。同年2003年10月24日に最後の営業フライトを終えて超音速旅客機は二度と乗れなくなったのである。ある意味テクノロジーの後退と言える残念な出来事にガッカリしたのを憶えている。超音速旅客機コンコルド(Concorde)は飛行機ファンでなくても乗ってみたかったあこがれの航空機だったと思う。2007年4月 パリ シャルルドゴール空港コンコルドの機体はメモリアルとなって飾られていた。
2016年12月06日
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