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Break Time(一休み)総務省統計局で出している「都道府県別人口と人口増減率」を見ていて気が付いた。欧州には日本の一県よりも人口が少ない国があるのだ・・と。※写真はハーグの街の運河を紹介。さらにハーグ1の高級ホテルの写真も加えました日本の人口と世界の人口あれこれ (写真 ハーグの街)日本の人口はいかに多いか福祉国家、北欧の国の人口は日本の県レベルハーグの街(写真)ホテル・デス・インデス(Hotel Des Indes)日本の総人口であるが、1億2776万8000人。 これは世界で11番目に多い国に入る。そして東京の人口は1257万7000人(ほぼ日本の総人口の10分の1近く)以下気になる所をあげた。大阪府 881万7000人神奈川県 879万2000人愛知県 725万5000人埼玉県 705万4000人千葉県 605万6000人北海道 562万8000人兵庫県 559万1000人 福岡県 505万人 ※ 資料データは平成17年の国勢調査から東京の人口に近い国はベルギーの1131万6000人。日本のたった1都市だけでベルギー1国の総人数よりも上回っていると言う事実 そして人口密度が高いのは東京だけじゃない。大阪府や神奈川県の人口に近い国がオーストリアの国、870万人。(少し少ないがスイスも824万人。)国の面積は日本より大きいのに案外欧州の国の人口密度は低い。さらに数字が気になったのが福祉国家と言われる北欧の国。特に社会国家的な福祉政策を取るスウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、アイスランドの国はどうなのか?スウェーデンの人口 988万人デンマークの人口 570万人フィンランドの人口 549万人ノルウェーの人口 521万3985人アイスランドの人口 33万0,610人 ※ データは外務省の基礎データからどこも東京都の人口にも及んでいなかった。デンマーク、フィンランド、ノルウェーの人口は日本で言えば北海道や兵庫県の県レベルの人口に近い。しかもアイスランドに至っては日本の県庁ではどこも該当しないほど少ないのだ。調べみたらアイスランドの人口に近いのは東京の区レベルの人口であった。品川区 37万2077人北区 33万8084人新宿区 32万7712人むしろ東京では世田谷区87万4332人、大田区70万7455人と区単位で見てもアイスランドの国の倍以上の人口の市区町村がある・・と言う事実。理想的だと思われた北欧の福祉国家は、人口が少ないからこそなしえる事業なのではないか?例えば理想の福祉は何か? と言うと、デンマークの場合、医療無料。出産費無料。幼稚園から大学まで教育費無料。高い高齢者福祉。まさに「from the cradle to the grave (ゆりかごから墓場まで)」ずっと国が面倒を見てくれると言うシステム。(これはほぼ社会主義国の政策に近いくらいだ。)しかし、現実にそんな事が日本で可能なのか? と考えると。誰が考えても真似るには多すぎる人口の差がそこに見えた。なぜなら大家族の生計が苦しくなるのは必然だからだ。「ゆりかごから墓場まで」のイギリスの失敗ところで、「from the cradle to the grave(ゆりかごから墓場まで)」とは、実は第二次世界大戦後にイギリス労働党の掲げた社会福祉のスローガンだったそうだ。しかし、この政策は当然膨大な財政支出を余儀なくされた。そして、いたれり尽くせりの政策は勤労意欲の減退を産んで生産性も減った。イギリスは英国病に陥って破綻寸前までいったのだ。結局、保守党のマーガレット・サッチャーが大幅に福祉を削減して国家財政の立て直しを図った・・と言う経緯があった。つまり結果は元祖イギリスでは失敗だったと言う事だ。※ マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)(1925年~2013年)イギリス初の女性首相(在任: 1979年~1990年)それにしてもそれだけの社会保障を北欧の国はやっているのだから凄い。 現実に北欧の国がこれで現在も良好に進んでいるのなら問題ないが・・。何にしても理想の福祉を可能にするには、国家財政に対して人口がよほど少ないとか、有り余る財源があるとか、条件が付くと言う事になりそうだ。余る財源と言えば、北欧では高い福祉を得る為に高い所得税を払っている。そこそこの金額を超えると税金50%だそうだ。(それでは勤労意欲も失われる。)スウェーデンの場合、消費税だって高い(25%)。(食料は12%)(日本は消費税8%で大騒ぎ。15%でも足り無いのに・・。)当然、物価は高くなる。つまり、単純明快。理想と言える高い福祉を望むなら、とてつもなく多く税金を払わなければいけないと言う事は絶対条件になる。・・と言う事だ。すばらしくとも真似するにはお金がいるのだ。借金まみれの今の日本には余裕は無いね とにかく人口密度の非常に高い国、日本。やはり日本独自の道を模索するしか方法が無い・・と言う事になるのかも・・。ハーグの街ビネンホフ前のファーストフード店 ハーリング(haring)のスタンド実はここはオランダ人のソールフードであるharingを食べさせてくれるスタンドである。ハーリング(haring)とは鰊(にしん)を酢漬けにしたもので、5月末から6月にかけて北海でとれた油ののった鰊(にしん)を食べるのが中世の頃よりの伝統となっている。(最近では1年中食せるらしいが・・。)※ (蘭 haring、英 herring)ホワイトアスパラも5月の旬の食材。写真はパブで出されたもの。本場のオランデーズ・ソース(Sauce Hollandaise)に合わせているのはスモーク・サーモン。そしてこちらではシャガイモが付くらしい。以前紹介したブリッセルのホワイトアスパラとはちょっとソースが違う低地の国・ネーデルラント(Nederland)。国土の多くが低湿地で開拓地であるオランダ。アムステルダム程ではないが、ハーグもまた水路が多い。雨の後のせいか? 人が少ないからか? とても静かな街に感じた。運河のサイドは駐車場。橋の上には自転車。日本の駅前の違法駐輪のような悲惨な状況はなく、むしろオシャレでさえある。欄干のフラワーハンギングも美観に良いですね。アムステルダムでは運河観光があったが、ハーグにはなかった気がする。一部を除けば、ほぼリバーサイドに柵は無い。落ちたら自己責任ですね。よく見ればリバーサイドはレストランも多い。ホテル・デス・インデス(Hotel Des Indes)実はエッシャー美術館の目の前にあるこのホテル。ハーグ1と言われる非常にラクジャリーな5つ星ホテルです。なかなか敷居の高いホテルなので中を安易に入って見るのは難しい。だからせっかくなので紹介しておきます。因みに入り口は回転扉ですが、ドアマンはいます。もとは男爵家の邸宅として建てられたが男爵が1863年に他界した後にしばらくしてホテルに転売されたらしい。1900年にはすでに各部屋に電話も備えられ、1902年にはエレベータも備えられていたと言う。顧客は王族や貴族に首相などトップレベル。まさしく古の社交場ですね。ディナーの写真全部は載せられないので、食後のティーの部分だけ。ケーキの後のお口直しのティーですが、さらにチョコレート菓子がたくさん付いてきました。(日本で買ったら一個450円くらいしそう。)しかもポットは銀製です。最近は珍しいです アフタヌーンティーだけでも行くと良いかも・・です。でもカジュアルすぎの服装では入りにくいかも・・。朝食でも、ほぼスーツ姿の人ばかりでした。少し盛り過ぎましたが、分けるのも面倒なので・・今日はこれで・・。次回チーズのお店を紹介してからデルフトの予定です。
2016年08月25日
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オリンピック、連日の快進撃で深夜にテレビが止められないです。最近の選手は幼少期からの英才教育で伸びてきた人達が多い事、またこれも「ゆとり世代」と言うのか? 物怖じしない頼もしい選手が出てきた事。とても嬉しく思います 自分の子供の頃とは教育内容だけてなく物質的な意味でも取り巻く環境世界が変わってきている事も心理に影響しているのでしょうか? スポーツの世界にしても、昔なかった医学的見地や科学的根拠を元に分析され、合理的な練習方法が取り入れられ、みんな納得した練習を積んできている事もあるのかも知れません。何にしても選手個人のガンバリあってこその優勝ですが、今回の選手に特に感じた事があります。彼らの言葉の端々に「責任を持って日本を背負って戦いました」・・と言う強い使命感です。デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)ビネンホフ(Binnenhof)リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の誕生ビネンホフ(Binnenhof)が政治の中枢になった訳ビネンホフ(Binnenhof)はオランダ議会の国会議事堂だけでなく総理府や外務省など中央官庁の入った政治の中枢になっている場所です。ガイドツアーを申し込むと中の見学が許可されるので行ってきました。A・・・総督の門(通り側) A'・・ネーデルラント王国国王ウィレム2世(Willem II)(1792年~1849年)像 ※ 現王室のオラニエ公祖先B・・・リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館) B'・・ホラント伯ウィレム2世(Willem II)(1227年~1256年)像 ※ Cゲートを出た所 紫色がマウリッツハイス美術館D・・・ヘット トレンチェ(Het Torentje)(小さな塔) オランダ首相執務室写真は表通り側Aの建物Aのゲート、総督の門A総督の門を入ったリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)前の中庭今でも国家的行事の行われる中庭である。B・・リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)ビネンホフ(Binnenhof)(中庭)は、もとは中世ネーデルラント(8~13世紀)を支配したホラント伯(graaf van Holland)の領地だった場所。最初は狩猟場だったらしい。晴れの日のリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)ベンチが置かれて市民の憩いの場所にもなっている。リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の誕生ホフフェィファ(Hof vijver)の池のそばに最初に屋敷を建てたのはホラント伯フロリス4世(Floris IV)(1210年~1234年)。リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の建設を始めたのがフロリス4世の息子のウィレム2世(Willem II)(1227年~1256年)です。ビネンホフ(Binnenhof)と言えばがリッデルザール(Ridderzaal)を指していると行っても過言ではないこのゴシックの建物は1248年着工。1256年頃一部完成。その後息子のフロリス5世(Floris V)(1254年~1296年)に引き継がれて完成。B'・・ホラント伯ウィレム2世(Willem II)(1227年~1256年)像余談ですが、フロリス4世(1210年~1234年)もウィレム2世(1227年~1256年)も短命なのです。そしてホラント伯(graaf van Holland)家自体がフロリス5世の子供の代で家系は途切れ(1299年)、ウィレム2世の甥が受け継ぎ以降エノー伯爵(graaf van Hainaut)家に代替わりしています。つまり屋敷を造った当主一家は早々に消えたのです。前の中庭から後ろの中庭に繋がるゲート。この次のゲートをでるとマウリッツハイム美術館前に出る。まさに中世のお城と言った造り。実は中世初期の城は建築上窓など開口部もほとんどなく暗いのです。当然窓にガラスなど無い。あって板扉だが昼は開いたままで夜は閉じられタペストリーでカバーする・・と言った感じ。(タペストリーは装飾と寒さしのぎの実用品。ベルギーが発祥ですが、このあたりも必需品。)騎士の城、むしろ牢獄か? と言ったイメージのが強く、お姫様の住むようなファンタジー色は皆無です。中世の建物リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の見学がここの目玉です。地下はちょっとした資料館で、映像案内などもありますが、日本語はありません。尚、非常に詳しい冊子ももらいましたが、日本語バージョンはありません。上階に上がるとそこはイベントホールとなっています。天井は木造でまるで船底のようです。もともとホラント伯爵家の邸宅であり、このホールは謁見の間であるとか、食堂とか、舞踏場であるとか、各種イベントに使われたであろう場所。この広さが、後々裁判所や予算を決める閣議などいろいろな議事に利用される事になる。現在もビネンホフ(Binnenhof)の中に国会議事堂がありここも国家的イベントで利用される。ビネンホフ(Binnenhof)自体のルーツがこのリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の広間にあるのです。ビネンホフ(Binnenhof)が政治の中枢になった訳そもそもは1428年、オランダとゼーラントがブルゴーニュ公国の支配下に入っていた時に遡る。初期、総督はビネンホフ(Binnenhof)に住居していたのに裁判はブリュッセルで開催されていたらしく裁判の為に毎回遠方まで移動するのが大変だったようです。1464年本来ブルージュで開催される金羊毛騎士団(Golden Fleece)の集会をブルゴーニュ公はこのビネンホフで行った。他にもいろんな招集をかけてここで大会議した。※ 金羊毛騎士団はブルゴーニュ公フィリップ3世(Philippe III)(1396年~1467年)が1430年に提案した騎士団。そして時のブルゴーニュ公はフィリップ3世(Philippe III)自身。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)以来、次期ブルゴーニュ公となった子息シャルル(Charles)(1433年~1477年)(在位:1467年~1477年)も度々ハーグを訪れビネンホフ(Binnenhof)に滞在するようになった事から週3回のペースで議会や裁判がここで行われ、次第に行政の中心がこのハーグに、そしてビネンホフに集まりだしたのだそうです。そして1511年。この大ホールはオランダとゼーラントの最高裁判所となった。因みに当時、このホールは「The Hall of Rolls」と呼ばれていたそうです。その理由は法律上の例と判決が記録された羊皮紙をロール状に巻いた事に由来する。玉座毎年9月の第3火曜日はオランダの国会が始まる日。この日は違う意味で国民が盛り上がるお祭りの日。なぜなら、昔からの伝統にのっとり、オランダ国王が黄金の馬車でリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の中庭には乗り付け、国会の開会宣言を行うそうでその日はパレードと馬車を見る為に観光客も増えるのだそうです。※ ベアトリクス女王の退位により2013年オラニエ公ウィレム・アレクサンダー(Willem Alexander)が現オランダ国王です。オランダ議会には上院(第1院)と下院(第2院)があり上院が池側の建物。下院が新しい議会ホールを持ったモダンな建物になっています。同じ2院生でも日本とは全く別物。法案の審議や内閣の行動の監視を行っていて優位があるのは下院(第2院)の方だそうです。下院(第2院)にある新議会場中から見ると新旧の建物がガラスを巧みに使って融合されています。下は今回のガイドさんです。名前は忘れました。ガイド・ツアーはビネンホフ向かいにあるProDemos (プロデモス) と言う観光案内所でリクエストできます。新しい方の建物はセキュリティーが凄く全ての持ち物検査の後にロッカーに預けさせられました。カメラもここから先は一切無しです。その代わり現在の議会室なども見学させてもらえました ビネンホフ(Binnenhof)おわりBack numberリンク デン・ハーグ(Den Haag) 1リンク 日本の人口と世界の人口あれこれ (写真 ハーグの街)
2016年08月18日
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Break Time(一休み)お盆休みの特別企画海の写真を集めました。お休み旅行に出られない人向け企画。少し癒やされればいいな・・と思いますが、実は自分が少し楽する為の企画でもあります以前からハワイに行く度にノースショア(North Shore)の写真を紹介してきましたが、今回は以前の写真からチョイスしてきました。ノースショア(North Shore)サーフィンのメッカ。ノースショア(North Shore)と一口に言っても、実はたくさんのビーチがあります。2011年11月から12月にかけてノースショア(North Shore)のビーチを紹介しているので後で見てねハワイ最新情報 Hawaii Now 13 ノースショア(North Shore)1 ハレイワ(Haleiwa)リンク 2011 Hawaii Now 13 (ノースショア 1)ハワイ最新情報 Hawaii Now 14 ノースショア(North Shore)2 マツモト・シェイブアイスリンク 2011 Hawaii Now 14 (マツモト・シェイブアイス)※1と2はハワイ最新情報の形で紹介していました。リンク ノースショア(North Shore) 3 (サーフ・ショップ)リンク ノースショア(North Shore) 4 (ワイメア、ラニケア・ビーチ)リンク ノースショア(North Shore) 5 (ププケア・ビーチ・パーク)リンク ノースショア(North Shore) 6 (エフカイ・ビーチパーク)リンク ノースショア(North Shore) 7 (サンセット・ビーチ)リンク ノースショア(North Shore) 8 (サンセット・ビーチ 2)リンク ノースショア(North Shore) 9 (タートル・ベイ&カフク)※今回の写真はこの時のものではありません。(少しずつカメラのステータスが上がっています)リンク エフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park) 荒れた海リンク サンセット・ビーチ・パーク(Sunset Beach Park) サーフィンの大会ASP写真はほぼエフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park)からのサンセット・ビーチ(Sunset Beach)あたりです。海岸は波でえぐれて急激に深く落ち込んでいます。場所により1m以上の高低差があり、なかなか這い上がれない場所もあります。それ故、直前まで高い波が押し寄せるのです。なぜこんな綺麗に写真が撮れるかと言えば、先ほど紹介したように直前まで高い波が来るので皆さん案外近い距離でサーフしているのです。そしてサーフし終われば沿岸まで押し寄せられているのです。ノースショア(North Shore)のビーチは、ほぼ全てのビーチが遊泳禁止の札が立っています。泳ぎの得意な地元のサーファー達はともかく、沿岸は先ほどのように高い波が押し寄せる為に水浴び程度が最も危険です。(波にさらわれる)それでも低気圧が来た時の海はハンパなく荒れて10m級の波が立ちますから普通のサーファーもその時は無理です。1度嵐の時に来た事があり、命知らずのプロがエフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park)のバンザイパイプライン(Banzai Pipeline)でサーフしてケガをしていました。実はノースショア(North Shore)の高い波の理由は太平洋の荒波にもまれた岩礁にあります。海の底は岩だらけで岩の根に挟まって出られなくなり命を落とす事も多々あるそうです。サーフィンコンテストの最高峰トリプル・クラウン・コンテスト(ハレイワ、サンセット、パイプライン)の時は世界中から集まるので、大会中でもたまに亡くなるサーファーがいるそうです。海の底の形状を知っている地元の人だからこそ、根に潜っても這い上がる出口を見つける事ができるのだそうです。基本自己責任です。何か起きても浮上しなければ助けてもらえません。波の高い日はとても混雑するので危険です。波に乗るのは順番待ちがあるそうですが、沖まで行く間に波に乗ったサーァーが来た時のよけ方や逃げ方もいろいろあるようですね。ところでビーチパークと名の付く所にはたいていライフガードが居ますが、サンセット・ビーチ(Sunset Beach)の場合はいないので、代わりに緊急時、ビーチに入る入口の標識を通報する仕組みになっています。※ ノースショア(North Shore) 7 (サンセット・ビーチ 1)で標識の写真を載せています。サンセット・ビーチ(Sunset Beach)は砂浜のギリギリまで住宅が並ぶ。サーファーあこがれの住宅区です。当然値段は非常に高く都会並です。今回紹介したビーチは、なかなか個人では来れない場所です。私はいつも甥がサーフィンする時に便乗して付いてきています。甥は波の様子をいろいろ見ながら場所を決めるので毎回微妙に場所が違います。彼が波に乗っている間、ビーチで寝転がったり写真撮ったりウォーキングしたりしているのですが、ビーチはそんなサーフィンのお供で来た家族やガールフレンドばかりです他にもこんなビーチ、他、紹介しています。リンク 「天国の海」ラニカイ・ビーチ(Lanikai Beach)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 1 (出航)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 2 (ワイキキのホテル)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 3 (アクティブ)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 4 (ダイヤモンドヘッド)リンク マカプウ・ポイント(Makapu'u Point) 1リンク マカプウ・ポイント(Makapu'u Point) 2 (パワー・スポット?)リンク マカプウ・トレイル(Makapu'u Trail) 1リンク マカプウ・トレイル(Makapu'u Trail) 2 (マナナ湾・Manana Bay)リンク カエナ・ポイント(Kaena Point) 魂がジャンプする場所リンク Bicycle on The Bus (ハワイの市バス)リンク ハワイ・ウォーキング 1 (H1フリーウェイから) &同性婚リンク 帰化の問題リンク アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 1 (パークの歴史)リンク アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 2 (ハワイを造った会社)リンク アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 3 (マジックアイランド先端)リンク アラ・ワイ・ヨット・ハーバー(Ala Wai Yacht Harbor) 1 (船での出入国)リンク アラ・ワイ・ヨット・ハーバー(Ala Wai Yacht Harbor) 2 桟橋からリンク ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 1リンク ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 2さて、水の事故が多いようです。日本ではお盆の時に海や川に入るのは禁忌(きんき)とされています。お盆の期間にはこの世に戻った霊、特に無縁仏の霊達が山、海、などに集まり生きている人達をあの世に引きずり込む・・と考えられて来ました。単なる迷信と言えばそうかもしれませんが、お盆の時期にクラゲが発生して危険な事もあるのは事実です。サーフィンのメッカを紹介しておいて何ですがお盆期間はくれぐれも水の事故や山の事故に気を付けてください。
2016年08月14日
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ツアーコンダクターの友人に寄れば、ここの所のテロの影響で日本人の海外旅行客が激減しているそうだ。それは欧州方面だけでは無いらしい。危ないからしょうがないけど・・。さて、前に告知していたデルフト紹介の前にハーグを少し紹介してからにしようと思う。オランダ周遊の旅行でもなかなか立ち寄る事が少ないハーグやデルフト。(ハーグとデルフトはとても近いがそもそも両者行っても日帰り程度のツアーが一般的。)3年前ハーグに3泊したのに悲劇があった。その時、マウリッツハイス(Mauritshuis)美術館自体が建物工事の為に2~3年の期間閉館中であったのだ。(行く前情報にそんなお知らせ無かったので、行って知って驚いた )マウリッツハイスの工事期間中はハーグの市立美術館で絵画を公開していると言うのでそちらに出かけたが目当てのフェルメールは無くてガッカリ。どうも目玉となる通常貸し出しの禁止されている名画は、美術館の工事期間中、世界中に貸し出されてドサ回りしている事が解った。(そう言えば前年日本にも来ていたような・・。)工事期間中にお金を集めるのが目的なのだろう。そんな情報一切なく、わざわざ美術館近くのホテルに宿泊。ハーグくんだりまで行ったこちらのショックはいかに・・であるしかも連日の信じられないドシャブリ続きに踏んだり蹴ったり そんなわけで長らく紹介するのも考え物であったが、苦肉の策で、最っと以前の写真を組み合わせて少しだけ紹介する事にしました 何しろガイドブックにもあまり資料が無いからね。デン・ハーグ(Den Haag) 1デン・ハーグ(Den Haag)ホフフェィファ(Hof vijver)の池デン・ハーグ(Den Haag)のデン(Den)はハーグに付いた定冠詞。町の名前はハーグ(Haag)?実は本当の名前はスフラーフェンハーヘ( 's-Gravenhage)「 伯爵の生け垣」の意だそうだ。つまりここは中世ネーデルラント(8~13世紀)を支配したホラント伯(graaf van Holland)の領地であり、現国会議事堂であるビネンホフ(Binnenhof)はその宮殿があった場所だったらしい。オランダ地図(まずはハーグの場所から)オランダ第三の都市、デン・ハーグ(Den Haag)は北海に面した街。デルフトはその下。16世紀にはネーデルランド連邦共和国ができるとハーグに連邦議会が置かれオランダ議会の中心地となった。元、宮殿のビネンホフ(Binnenhof)は今もオランダ議会の国会議事堂となっている。また、国連機関である国際司法裁判所が置かれている街である。それ故王侯貴族がこの街に集まり、オランダ王室4つの宮殿の一つハウステンボス宮殿(Paleis Huis ten Bosch)もここにあり、前ベアトリクス(Beatrix)女王が居城していた事でも知られる。デン・ハーグ(Den Haag)地図一部左上が北海赤い円が市の中心地ピンクの円がビネンホフ(Binnenhof)紫の円が国際司法裁判所である平和宮(Vredespaleis)デン・ハーグ(Den Haag)中心の地図右のオレンジがデン・ハーグ中央駅左の黄の円がデパートやショッピングアーケード、ブランド店などが集まる地区。赤い円がビネンホフ(Binnenhof)とマウリッツハイス(Mauritshuis)美術館とホフフェィファ(Hof vijver)の池。ビネンホフ(Binnenhof)入り口からホフフェィファ(Hof vijver)の池前の広場方面ハーグの主な交通は路面電車である。本数も割と多い。ホフフェィファ(Hof vijver)の池の前の広場。名前は特に書いていなかった。ホフフェィファ(Hof vijver)の池はビネンホフ(Binnenhof)の左手に長方形に造られている。ビネンホフ(Binnenhof)と池ビネンホフ(Binnenhof)は現在も国会議事堂として機能しているが、広大な敷地の中庭は生活道となっていて、通り抜けができるのだ。もちろん新議事堂の方などセキュリティはかなり厳しい。夜間閉まるかはチェックしていませんが扉自体が無かった気がする。ビネンホフ(Binnenhof)の中庭を抜け出た所。池のはずれにマウリッツハイス(Mauritshuis)美術館がある。最近行った時は、先に述べたように外観も修復中で、ホロが被っていた。だから写真はもっと昔の物。マウリッツハイス(Mauritshuis)美術館に行くのであれば、池の側からよりビネンホフ(Binnenhof)の中庭を抜けた方が早い。ここの目玉はもちろんヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer) (1632年~1675年)である。特に写真の幕にもある「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの娘)」はフェルメールの中でも一番人気かもしれない。ここはかつては写真撮影OKであったが現在は解らない。(行った時に代替えで作品公開されていた市立美術館は撮影禁止であった。)昔撮った写真はあるので、どこかで載せられれば紹介します。雨の時の広場から池普段、傘をささない国民性? のようだが、さすがに傘をさしている人もいた。ものすごいドシャブリで5月下旬であったが寒くてオーバーコートを着込んでいる人もいた。日本で言えばまだ冬の寒さ。ホフフェィファ(Hof vijver)の池には沢山の野鳥が生息している。四角い池は護岸がしっかり整備されて遊歩道になっているので人が多数通る道でもあるのにカモの親子が固まっていた。ものすごいドシヤ降りの中、身を寄せ合う小ガモ。そして周囲を警戒する親鳥夫婦。何でこんな人の通る場所に? 彼らは翌日もそこにいた。そこできっと卵を抱いて雛がかえったのであろう。要するにそこが巣なのだろう。それにしても夫婦で小ガモの世話をするなんてちょっと驚き。カモは交尾終わると関係が終わり、通常はメスだけで子育てすると思っていたが・・。中洲で子育てしなかった理由がわかった。中洲に住み着いて群れていたのはカモメであった。ハーグは北海に面している。少し内陸ではあるが遠くはない。日本でも上野の不忍池までカモメが飛来してカラスと縄張り争いしていると聞いたがここでもカモの居場所をカモメに占拠されたのかもしれない。カモメはカラスよりも強いらしいし・・。欄干に止まるカモメ全くここの鳥たちは人を恐れない。路面電車からの平和宮(Vredespaleis)雨が酷すぎて降りる気にもなれなかった。市立の美術館に行く途中に通過したのだ。下は以前撮影していた平和宮(Vredespaleis)1913年にアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)(1835年~1919年)の出資により建設された。NYのカーネギー・ホールで有名なカーネギーである。彼は後半生を慈善活動に献げたそうだ。ここは国際連合の主要な常設の国際司法機関である。皇太子妃雅子様の御父上 小和田恆(おわだ ひさし)(1932年~ )氏が、2009年から2012年までが日本人として初の所長としてハーグに着任された事で有名な所だ。次回、議事堂の見学コースに乗ったので、ビネンホフ(Binnenhof)内部を紹介します リンク デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)
2016年08月06日
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