わたしのこだわりブログ(仮)

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2015年02月13日
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カテゴリ: 歴史の旅

季節がらクリスマスを盛り込んでいたようですが、今回は夏のザルツブルグを紹介します。
それにしても教会などは変わらないはずなのに、何だか街が様変わりしてました ぽっ


ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)

ハライン(Hallein)の塩
ザルツブルグ(Salzburg)の首長
ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教

イン(Inn)川の支流であるザルツァハ(Salzach)川。 上流の旧市街方面を撮影
pict-ザルツブルグ 4.jpg
ザルツブルグの街はハラインの川下。それをさらに下るとイン(Inn)川に合流する。ザルツブルグはどうしても通過しなければならない要所。

pict-ザルツブルグ 1.jpg

ハライン(Hallein)の塩
ザルツブルグ旧市街を流れるザルツァハ川上流15km。 ドイツ国境に隣接するハライン(Hallein)の街は古来岩塩の採掘で知られた街 です。
デュルンベルク(Durrnberg)の山腹、 バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑で 採掘された塩や、その通行税は中世ザルツブルグ司教の収入源となって司教区ザルツブルグを潤しました。

最初に岩塩を発見したのは紀元前10世紀頃ここに定住していたケルト人だそうです。
そしてそれは入植してきた古代ローマに引き継がれ塩を運ぶ為にザルツブルグ中心に道路網が整備。
(ザルツブルグのレジデンツ広場界隈にはローマ時代の遺構がたくさん出土している。)

ところが ゲルマン民族の移動によりローマ帝国の街は壊滅されザルツブルグは1度荒廃。
7世紀になって新たな布教者が現れるまでザルツブルグもハラインの塩も埋もれていたので

後で紹介していますが、 塩の採掘を再開して布教の資金にしたのがザルツブルグの初代司教 です

ザルツブルグで買った塩 ではありますがハライン(Hallein)のじゃないかも・・。
pict-ザルツブルグ 2.jpg
もとは赤茶の岩塩で、1度煮溶かし、不純物を除いて精製したもの。
何だかヒマラヤ岩塩に限りなく似ている気がします ぽっ

※今回は行ってないのですが、バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑では鉱山観光のアトラクションもあるそうです。(列車とバスでザルツブルグから小1時間。)

2010年7月「オーストリア、ハルシュタット 2 (マルクト広場と塩) 塩の産地ハル(Hall) 」の中でも紹介していますが、 ザルツブルグ交易の塩はハライン(Hallein)の塩だけではありません。
近郊のザルツカンマングート(Salzkammergut)地方のハルシュタット(Hallstatt)からももたらされています


ハルシュタット(Hallstatt)の精製前の岩塩
pict-ハルシュタットの塩.jpg

ウンタースベルグ山(Untersbergbahn)から
pict-ウンタースベルグ山 1.jpg
写真左見切れている方角がザルツブルグ。
写真右中手前見切れている当たりがーから先がハライン(Hallein)
写真右奧の山当 たりがザルツカンマングート(Salzkammergut)


ザルツブルグカードで無料で乗れるウンタースベルグ山(Untersbergbahn)のロープウェイ乗り場である
聖レオンハルト(St. Leonhard)村からハライン(Hallein)は目と鼻の先でした。
(残念ながら山頂の天候が悪くそちら方面の写真は撮れませんでしたが別の回で紹介予定)

ザルツブルグ市内地図
pict-ザルツブルグ 3.jpg
赤い丸ABCDEは主要観光スポット のある場所
ピンク1 写真撮影の橋
ピンク2 ホーエンザルツブルグ
ピンク3 メンヒスベルクの丘


ピンク1・・の橋から撮影

pict-ザルツブルグ 5.jpg
丘の 上に見えるのがこのザルツブルグの象徴も言えるホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)
pict-ザルツブルグ 6.jpg
丘の下は旧市街。
写真右の ドームがコレギエン教会(Kollegienkirche)
写真左のドームが ザルツブルグ大聖堂(Dom)

ザルツブルグ(Salzburg)の首長
ザルツブルグと言う砦の持ち主は神聖ローマ皇帝に仕える諸侯ではなく、実はローマ教皇に仕える司教だったのです。

布教の為の特別区は、一国となり、政治、軍事まで含む巨大な権力が司祭に集中。
司祭はもはや布教ではなく、街を維持する政治をする事に追われる。しかも塩による財力が豊富なのでいつしか神に仕える者とは思えない行為までしだすのです。

例えば王侯の宮殿のような大司祭の館(レジデンツ)。大司祭の愛人の為の館(ミラベル宮殿)。大司祭の夏の別荘(ヘルブルン宮殿)等々。
そんな所が観光名所として現在も残り公開されているのは皮肉ですが、
司教の王国・・と言うザルツブルグの特殊性がそこに見えて面白いかも・・。

旧市街に渡る橋
pict-ザルツブルグ 8.jpg
右に見える丘陵がメンヒスベルクの丘(Monchsberg)
pict-ザルツブルグ 7.jpg
丘の上の白いのが現代美術館(あの丘の上までは地下トンネルの先からエレベーターで一気に上がれる。)

ザルツブルグ4日の間、雨が8割。僅かの天気の間に撮影した写真です。
この時は天気で喜んでいた後に傘が役に立たないほどのひどいドシャブリに合いました しょんぼり

pict-ザルツブルグ 9.jpg

旧市街
pict-ザルツブルグ 10.jpg
旧市街と言っても市民が生活している街でもある。

ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教
696年頃ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 は バイエルン公よりこのあたりの領地をもらいサンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)を開設 した。


また塩鉱の権利をもらってゲルマン族の侵入以来途絶えていたハラインの塩鉱を復活させ、布教の財源とした事から、ザルツブルグ(Salzburg)・・・Salz・burg(塩の砦)と街の名は決まったようだ。

その後ルーペルト司教の活躍により サンクトペーター修道院は東部アルプス一帯の布教活動の拠点となる。
また彼の布教活動の成果を得て、 ザルツブルグには司教座が置かれルーペルト司教は最初のザルツブルグの司教となっています。

司教座になると、司教座聖堂が必要になる。最
初は
木造の簡素な聖堂が造られやがてそれは大聖堂建築に発展する。現在のザルツブルグ大聖堂(Dom)のルーツである。

8世紀になると布教活動はカール大帝の政策と一致を見る事になり、より活発な布教活動が展開。
798年にはカール大帝が教皇に進言してザルツブルグは司教区から大司教区に昇格。

つづく
リンク ​ ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)
リンク ​ ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)
リンク ​ ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)
リンク ​ ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)
リンク ​​ ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)
リンク ​ ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)
リンク ​ ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)

リンク ​ カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)


ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街) 」
ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) 
ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) 
ザルツブルク 4 (マルクト広場) 
ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市) 
ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市) 
使えそうなところのみリンク入れました。
リンク ​ ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教)
リンク ​ ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)
リンク ​ ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)
リンク ​ クリスマス市の名物グリューワイン






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Last updated  2020年10月21日 00時21分41秒
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