わたしのこだわりブログ(仮)

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2015年11月27日
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星


パリのテロのニュースには驚きました 号泣
せっかく平和になってきた世の中なのにばか者に平和が脅かされている事が非常に腹立たしいです。
何より無差別に罪の無い人達を巻き込んで来る彼らの横暴さは断じて許せません。
今回巻き添えを食った多くの罪なき人達のご冥福をお祈りします。

それにしても自爆テロが正当化される宗教って何なんでしょうね。
自爆してチリヂリになった者の魂は救われようが無いのに・・。天国に行ける・・と信じる者の魂は本当に天国に行けるものなのか?

そう言えば細川ガラシャ夫人は、カトリック教徒なのに自決のあと爆死で亡くなったとされています。
実はそれには疑問を持っています。

※  ガラシャ夫人については「信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓」で触れています。
リンク ​ 信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓

さて、今回も大幅に遅れてしまいました。父の入院が長引いて日中病院にいるので夜中しか作業ができないのです しょんぼり
今回はミュンヘンに古くからあるフラウエン教会にある悪魔の足跡を紹介したいと思います。


ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)


フラウエン・キルヒェ・ミュンヘン(Frauen Kirche München)
「悪魔の足跡」伝説
なぜ窓が見えないのか?

フラウエン・キルヒェ(Frauen Kirche)とは、実は聖母教会の事である。
二つのタマネギ型の尖塔を持つ塔はシンボリックにミュンヘンの象徴となっている。

建立は1468年~1488年。後期ゴシック建築だそうだが、二つの鐘楼のタマネギ型の屋根は遅れる事1525年に銅で作られて取り付けられた物でゴシックではない。
pict-フラウエンキルヒェ 1.jpg
撮影した昨年の7月時点では修復中で下からの外観の撮影ができていないのであるしょんぼり
pict-フラウエンキルヒェ 2.jpg
建築はイエルク・フォン・ハルスバッハ(Jörg von Halsbach)
建物は40m、幅37m、高さ109m
もともとここには 後期 ロマネスク様式 の三 教会が建っていたらしい。
1240年、ミュンヘンが ヴィッテルスバッハ家の支配になると、 邸宅の敷地内に教会を建立。1271年には教区権を獲得。
ミュンヘンの人口の増加と古い教会屋根の崩落で死者も出ていたそうで大人数を収容する教会建築が急がれたようです。


参考までにパンフレットから・・。
pict-フラウエンキルヒェ 3.jpg
左右の塔の高さは異なり、北塔は98.57m、南塔は98.45m
二つの鐘楼と両方に時計も設置されていて、双方の塔に上る事が可能。

ミュンヘンの象徴とも言える丸い円蓋であるが、実はこの教会はザルツブルグの司教座聖堂がモデルになっているらしい。実際ちょっと違うが・・。

教会の中からの撮影であるが、入り口のドアである。
pict-フラウエンキルヒエ 4.jpg
ここは、教会の拝廊に当たる場所。赤い矢印下が「悪魔の足跡(Teufelstritt)」である。

「悪魔の足跡」伝説
pict-フラウエンキルヒエ 5.jpg
伝説では、「この教会には窓がない」と、教会の完成をのぞきに忍び込んだ悪魔が喜んだ・・とか・・。

しかし、これは 教会の構造上ちょうど悪魔の足跡の地点(拝廊)からは窓が見えないだけにすぎず、中には大きな縦長の窓が25もある明るい教会です

礼拝所に踏み込んだ悪魔は「だまされた」と思い教会を壊そうとしたそうですが、堅牢な教会は壊れなかった・・とか・・。

今は鉄の柵で仕切られた拝廊と礼拝堂
pict-フラウエンキルヒエ 6.jpg
かつては壁やアーチ、柱廊や仕切りで区切られていたと言います。
足跡の位置には祭壇があったとも伝えられています。
もはや足跡はわざとつけた印・・と言う所でしょう。

今は信徒とそうでない人達の間に区分けはありませんが、 かつて拝廊は正式な信徒で無い人達の祈りの場として提供されていた場所のようです。つまり部外者はそこより中には踏み込めなかった・ ・と言うわけです。

そこで悪魔伝説を考えると、 信徒でない悪魔はそこより先の聖域に立ち入る事ができず、窓を見る事ができなかった・・と言う事に なります。(拝廊には窓は無い。)

25の大きな縦長の窓にはステンドクラスがはめ込まれている。(当時一枚ガラスは存在しない。)
ステンドグラスに使われる色ガラスの美しさは、この世のものとは思えない美しさを醸(かも)していたことだろう。
つまり、 礼拝所の荘厳さは天国を意味している。
天国に入りたい者は信者にならなければならず、悪魔は決して立ち入れない場所なのである


悪魔の足跡の前の障壁柵のところから撮影
pict-フラウエンキルヒエ 7.jpg
確かに正面以外に窓は見えない。
窓の無い拝廊はともかく、礼拝所内は横を見れば窓は存在する。
が、 身廊の中心線上。こうして写真の視野で正面を見ると、案外どの位置からも窓は容易に臨めていない事がわかった
pict-フラウエンキルヒエ 8.jpg
なぜ窓が臨めないのか?
その 理由の一つは太い大きな八角形の柱のせいである
この聖堂の収容人数は4000人近く。それだけ広い空間なので、強度の為に柱も太くなるし、また数も増えている。
身廊と側廊の柱の位置が視界をじゃまする位置に建っ ている
からなのである。
私が思うに、身廊の幅が狭すぎるのだ。(側廊、身廊、側廊の比率が1対1対1)
pict-フラウエンキルヒエ 13.jpg
また、 側廊にある礼拝所の数が多い事も理由の一つ
それらを仕切る壁が堂内にせりだしている事が一因していると思う。

問題は設計者が、意図的に窓が見えないようにしたのか? と言う事である。
pict-フラウエンキルヒエ 9.jpg

pict-フラウエンキルヒエ 10.jpg

中央祭壇。内陣
pict-フラウエンキルヒエ 11.jpg
ここらへんは近年のもの。
pict-フラウエンキルヒエ 12.jpg

側廊側の壁にある小祭壇
pict-フラウエンキルヒエ 14.jpg
だいたいこういうのはかつての貴族などのプライベート礼拝所になっている。
pict-フラウエンキルヒエ 15.jpg
聖母被昇のこの絵は、かつては祭壇画として描かれたもの。1620年。ペーター・カンディット作。

後年に作られた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の為の記念廟
pict-フラウエンキルヒエ 16.jpg
バイエルンのヴィッテルスバッハ家の出身の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(1282年~1347年)
(在位:1328年~1347年)の為に1619年~1622年にハンス・クルムパーにより建立。
ブロンズと黒大理石。
pict-フラウエンキルヒエ 17.jpg

次回はやはりミュンヘンからの予定。
リンク ​ ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)

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リンク ​ ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)
リンク ​ ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)
リンク ​ ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)
リンク ​ ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)
リンク ​ ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)
リンク ​ ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾)

リンク ​ ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)
リンク ​ ミュンヘン(München) 9​​ (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)
リンク ​ ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)
リンク  ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)

他関連
リンク ​ アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1
リンク ​ アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサイン
リンク ​ アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)

リンク ​ ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション





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Last updated  2022年01月08日 02時48分56秒
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