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次に関西に行った時に不足の写真を撮ってこよう・・・とずっと保留になっていた所です。
2016年京都の秋と2017年春の写真合作になってしまいましたが、やっとこの春に実現。
高台寺とその塔頭 にあたる圓徳院やその界隈「ねねの道」や「石塀小路」をサクッと紹介します
2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)
ねね(高台院) 終焉の地 圓徳院(えんとくいん)
北政所(きたのまんどころ)の称号
ねねの道とねねの小径
三面大黒天尊天
圓徳院(えんとくいん)と庭
高台院時代の寧々(ねね)様
石塀小路(いしべいこうじ)
2016年12月。
2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)
リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)
2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が、夫亡き後、出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)となった。
そして1606年、
夫の菩提と実母の菩提を弔う為にに建立した寺が前に紹介した高台寺の創建でした
。
出家した寧々(ねね)様は高台院を建立するにあたり、 1605年、伏見城(桃山城)の化粧御殿と桃山時代の代表作とも言える伏見城の前庭を山内に移築した。
それが現在の圓徳院(えんとくいん)の場所でそれ故、圓徳院の北庭は伏見城からの石組でできている。
以前も紹介したが、 高台寺の建設には徳川家康の尽力と資金援助があり
、
高台院創建に関しては伏見城からの移築物が非常に多くその労力も幕府が担って建設されている。
徳 川が排斥した豊臣の奥方なのに、 関ヶ原
以降も北政所には大名並の領地や養老料など1万6千石近く与えられていたそうだ。
秀吉の残したものはことごとく打ち壊されたにもかかわらず、別格の扱いがあり、伏見城は解体されても案外残された物はあるようだ。
高台 寺の秀吉と寧々の霊屋(おたまや)の所ですでに紹介した寧々(ねね)様の像。

※ 実物の写真撮影が禁じられているので、上の写真はBS朝日で放送されたテレビから引っ張ってきました。
北政所(きたのまんどころ)の称号
寧々(ねね)→北政所→高台院湖月尼(1548年~1624年)
1585年、夫秀吉が関白になった事により彼女自身も 従三位に叙せられ、北政所(きたのまんどころ)の称号を許された。
1588年(天正16年)には従一位を授かっている
。
彼女が序せられる以前は北政所と呼ばれる女性は多々いたようだが、以降北政所と言えば寧々オンリーなったようだ。
因みに秀吉の母は大政所(おおまんどころ)と呼ばれたそうだ。
圓徳院地図(以前紹介した高台院塔頭全景図の看板より一部切り取り書き加えました。)
ねねの道
より右側の山の上に高台寺の方丈などがある。( 台所坂より登る)
写真左に見切れているが 石塀小路
は下河原通まで続いている。
実はもとはその一体全て圓徳院の敷地だったそうだ。(明治期に税務対策で売却された。)
赤い→ 圓徳院 入口
ピンクの→ 楽市ねね
とねねの小径 入口
ねねの道とねねの小径
ねねの道 (北)八坂神社側から、(南)八坂の塔方面へ 左が高台寺
※ 基本的にはここら一帯が高台寺内である。
ねねの道より 高台寺に登る 台所坂
その真向かいあたりに圓徳院敷地内
「楽市ねね」、「美術館」、「三面大黒天」、「ねねの小径」入口

圓徳院敷地内の詩仙堂と三面大黒天の堂があるが、お土産やカフェスペースにされている(美術館もこの上)ので常に観光客でゴチャゴチャ![]()
ねねの楽市とは・
・・おみやげショップの集まりの事です
昔は高台寺の門前町として祗園方面まで賑わいがあったらしいですが・・。
ねねの小径と
は・・・軒の連なったお土産ショップを通り抜ける路地の事でここより裏の石塀小路への抜け道となっています。石塀小路界隈が昔はすべて圓徳院の土地だったようです。
三面大黒天尊天
の堂
堂は京都御苑よりの移築物らしいが、 本尊の三面大黒天は福徳信仰の象徴として、豊臣秀吉が念持仏としたと伝承される珍しい尊像
だそうだ。
つまり秀吉の出世守の本尊?
ねねの道より八坂の塔
圓徳院(えんとくいん)と庭
圓徳院入口

圓徳院(えんとくいん)
圓徳院とは、寧々(ねね)様の実兄、木下利房 公の法名である
。
木下利房 公は江戸幕府の元で賀陽郡と上房郡の2郡で2万5,000石を与えられ足守藩主と言う役を持っていたらしい。
妹寧々(ねね)を後見していた木下利房 公は、寧々(ねね)亡き後、1627年に法名、圓徳院(えんとくいん)を得ている。
そして1632年、ここを木下家の菩提寺として高台寺の三江紹益 和尚に開基を願い高台寺の塔頭の1つになったようだ。
※ 農民出身と言われる秀吉ですが、妻である寧々(ねね)様は戦国武将杉原家の出自。良家のお嬢様であった。
先ほど紹介したよう 当初の住まいとなる建物は伏見城の化粧御殿を移築したものだったらしい。 同時に木下家の客殿も建立? (それが現在の方丈らしい。)
木下利房 公は高台院である妹寧々(ねね)が1624年亡くなるとここを相続
したようだ。
高台院時代の寧々(ねね)様
高台院となった寧々(ねね)様は1605年にここを建立して1624年亡くなるまでここで余生を送っていた事になる。
が、のんびり余生を送っていたわけではなさそうだ。
先ほど書いたとおり 1588年に従一位
を授かった寧々(ねね)様は秀吉存命の頃より朝廷との交渉役をしていたようで、 公家の一員として高台院となってからも度々御所に献上品を送って
いた
事が記録から解っている。
北政所を慕う大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家、など多くの文化人がここを訪れて賑わっていたようだ。
また高台寺の所で
書いたとおり、徳川2代将軍となった 徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579年~1632年)自身が、高台院が創建 されてから
度々寧々(ねね)様に会いにきていた
事が知られている。
豪傑で面倒見が良く、人望のある女性だった事はいろんな逸話から知られる所です。
南庭 の書院
書院造りの和室 松竹梅図襖 木下育慶 作
南庭
徳村宗悦 作
日本庭園の研究者、造園史家の森蘊(もりおさむ)博士(1905年~1988年) 指導
国名勝指定の北
庭 北書院から
伏見城の化粧御殿と共に同時に移築した化粧御殿前庭は桃山時代の代表的な庭園で今に残されている。
賢庭 作 小堀遠州が手を加えた。池泉回遊式庭園。

※ 小堀遠州については2016年12月
2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)」の中「史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州」で書いています。
もとは池の中に巨石の橋が渡されていたものだが、今は本当に枯山水になってしまっている。
当時を残そうと少し荒れてしまっているのが残念な気がしました。

しかも幅広で全景が撮れませんでした。
石塀小路(いしべいこうじ)
ねねの道からの石塀小路入口

もとは圓徳院の敷地だった所だそうです。石畳が続くモダンな通りは大正時代初期のもの。
明治時代に圓徳院が明治政府への税金を納める為に土地を切り崩して手放し、宅地になった場所だそうです。
薄い黄色が高台寺
濃い黄色の通が石塀小路
レンガの塀は圓徳院の外壁。
レンガは当時の輸入物。非常に珍しいものだったそうだ。お金もかってますね ![]()
下は「ねねの小径」入口で先ほどの「楽市ねね」に繋がっている。
下の石畳は、昭和に入ってかららしい。
なぜならその敷石は当時市電の敷石に使われていたものらしいのだ。
当時から雰囲気はバツグンで文化人に人気の場所らしい。
ノスタルジックな雰囲気に今は観光客。特に外国人が多い気がした。
今はレストランや料亭などの看板が目立つが一般民家もある? 何れにせよ高級住宅地の感じ?
あちこちに「静かにしてください。」の看板が目立った。
下河原通りに抜ける細い路地は民家の屋根の下をくぐる。
下河原通り入口は2箇所あるが、ちょっと解りにくい。
高台寺と圓徳院 界隈 終わります。
Back number
リンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)
リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)
リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)
リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)
リンク 2016年京都 5 (二年坂)
リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)
リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
他秀吉関連
リンク 秀吉の墓所(豊国廟)
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