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中国では、経済成長に伴い、人々は自転車よりも自動車を選ぶようになっている。一例として、自転車をおもな交通手段とする北京市民は10年前には60%だったが、今ではわずか25%である。「北京だけでも、車の交通量は毎年少なくとも40万台ずつ増えている」と、カナダのトロント・スター紙は述べている。その結果、北京市内の「平均走行速度は時速12キロにすぎない」。2004年6月号のナショナル・ジオグラフィック誌によると、2003年に中国では専門職に就く新富裕層の人々が「200万台強の自動車を購入した。2002年に比べると70%の伸びだ」。さらに通勤者がペダルをこぐよりもガソリンの力に頼るようになっているため、「中国はすでに日本を抜き、世界第2位の石油消費国になったという見方もある」。とはいえ、中国にはまだ4億7000万台の自転車があると見られている。
2004年12月31日
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「近ごろは、学位を取っても仕事があるとは限らない」と、メキシコ市のエル・ウニベルサル紙は述べている。メキシコで最近行なわれた調査によると、「1991年から2000年にかけて、専門訓練を受けた人の40%が自分の学位とは関係のない仕事に就かざるを得なかった」。75万人ほどの大卒者が、学位を必要としない仕事、例えば「電話交換手、運転手、手品師、ピエロ、バーテンダー」などをしている。この報告によると2006年までにメキシコでは、13万1000人の管理者、10万人の会計士、9万2000人の小学校教諭、そして8万7000人の弁護士が資格を生かした仕事にありつけないことになる。 さて、日本ではどうか?たいして変わらないんじゃないかなぁ。ある意味飽和状態かもしれないし、貪欲が根本にあるような不景気状態にあるから…
2004年12月30日
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幸いなことに、タンパク質はたいてい正しく折りたたまれ、驚くべき協調性、効率性、精確さをもってそれぞれの役割を果たしている。人体には10万種を超えるタンパク質が存在し、複雑な鎖すべてがありとあらゆるパターンでたたまれていることを考えると、それは特に驚嘆に値する。 タンパク質の世界はまだまだ謎に包まれている。それについてもっと知るために、研究者たちはアミノ酸の配列順序からタンパク質の形状を予測する高性能のコンピューター・プログラムを考案している。わたしたちがたんぱく質についてしっている事柄はわずかだが、それは「生命の鎖」が高度に組織化されているだけでなく、深遠な知恵を反映していることをはっきりと示している。
2004年12月29日
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郵便物の配達を手早く行なうために、多くの国の郵便制度は、すべての手紙の住所に郵便番号を含めるように求めている。創造者はそれと似た方法を用い、タンパク質が細胞内で確実に目的地にたどり着けるようにしている。それはとても大切なことである。細胞は非常に忙しい場所で、10億個に及ぶタンパク質を擁しているからである。それでも、新たに作られたタンパク質は、分子の“郵便番号”とも言うべき特殊な配列のアミノ酸のおかげで、常に受け持ちの場所に到達できる。 細胞生物学者のギュンター・ブローベルは、この驚くべき概念を発見して1999年にノーベル賞を授与された。しかし、ブローベルはそれを発見したにすぎない。生きている細胞や、気が遠くなるほど多くの分子を創造した方は、なおのこと誉れを受けるに値するのではないだろうか。―Revelation 4:11.
2004年12月28日
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近年、科学者たちは、プリオンと呼ばれる異常なタンパク質が原因とされる病気に注目してきた。その病気は、異常なプリオンタンパク質が正常なプリオンタンパク質と結合し、正常なタンパク質を誤って折りたたませるために生じる、というのが科学者たちの理論である。結果として、「その病気を伝播し、新たな伝染物質を生み出す連鎖反応」が起きる、とサイエンティフィック・アメリカン誌は述べている。 プリオンによると思われる病気が初めて世間で注目されるようになったのは、1950年代のことである。パプアニューギニアで、宗教儀式として一種の人肉嗜食をしていた部族がクールーと呼ばれる病気にかかっていたのである。その症状はクロイツフェルト・ヤコブ病の症状に似ていた。病気にかかっていた部族がその宗教儀式をやめたところ、クールーは急減し、今では事実上生じていない。 さて、上記の例から見て分かるように本来自然界ではあり得ないことが人間の手によって行なわれている。商業主義に走り、牛の成育が良いからといって牛の骨粉やその種の成長ホルモンを混ぜた飼料を使う…その結果は皆さん知ってのとおりである。今後、遺伝子組み換えの技術が発達したとしてもそのすべてを人間が把握することは不可能である。仮に安全だとされても、一部の貪欲な人間のためにどのように使われるか…そのような貪欲さから生じた過去の悲惨な例は枚挙にいとまがない。 わたしたちは皆、「罪人」であり、物事を近視眼的に見る傾向のあることを忘れたくないものである。
2004年12月27日
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タンパク質を構成するアミノ酸の連鎖に欠陥があったり、正しく折りたたまれていなかったりすると、幾つかの病気が引き起こされる場合がある。鎌状赤血球貧血などはよく例として挙げられる。鎌状赤血球貧血は遺伝性疾患の一つで、その病気の人は、赤血球中のヘモグロビン分子が正常とは異なっている。一つのヘモグロビン分子には574個のアミノ酸があり、4本の鎖に配列されている。4本の内2本でアミノ酸が一つ入れ替わるだけで、正常なヘモグロビンは鎌状赤血球に変わってしまう。(見た目がまさに鎌形) また嚢胞性線維症のほとんどは、タンパク質を形成するアミノ酸連鎖の重要な場所で、フェニルアラニンというアミノ酸が欠けているために生じる。特にその欠陥は、腸や肺の内側の粘膜が必要とする塩分や水分のバランスを失わせ、その表面を覆う粘液の濃度や粘度を異常に高める。 ある種のタンパク質がなかったり、極端に少なかったりすると、白皮症や血友病といった病気になる。白皮症という色素欠乏症の最も一般的なものは、チロシナーゼと呼ばれる重要なタンパク質がないか、それに欠陥があるために生じる。チロシナーゼの以上は、人間の目、髪の毛、皮膚に通常含まれているメラニンという褐色色素の生産に影響を及ぼすからである。血友病の原因は、血液凝固因子となるタンパク質の数値が非常に低いか、欠乏していることである。タンパク質の異常によるとされる病気は、乳糖不耐症、筋ジストロフィーなど、ほかにもいろいろある。
2004年12月26日
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タンパク質は、その形状によって細胞内での働きが決まる。アミノ酸の連鎖はタンパク質の形状にどんな影響を与えているのだろうか。アミノ酸は、自在に曲がる金属やプラスチックのチェーンと違って、一定の角度でつながり、規則的なパターンを作る。そのパターンの中には、電話コードのようなコイル状のもの、またプリーツのようなひだ状のものもある。次いでそれらは“折りたたまれ”、さらに複雑な三次元構造になる。こうしたタンパク質の形状は決して偶然によるものではない。実際、その形状はタンパク質の働きを決定づけるものなのである。それは、アミノ酸の連鎖に何か欠陥が生じた時にはっきり現れてくる。タンパク質はどのように折りたたまれるか 個々のタンパク質がつながって…一つの鎖となり、次いでそれが…コイル状、ひだ状といったパターンを作り…折りたたまれさらに複雑な三次元構造になる。しかしそれは…複雑なタンパク質のサブユニットの一つにすぎない。
2004年12月25日
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DNAが使う“文字”は四つだけ:A,T,C,G DNAにある“つづり”はRNAに複写される。RNAはTの代わりにU(ウラシル)を使う それぞれ三つの文字の順序によって、特定の“単語”つまりアミノ酸が“つづられる”。例えばバリン=G,U,C チロシン=U,A,U リジン=A,A,Gという具合である。 このようにして、20種類の共通のアミノ酸に対応する文字が“つづられる”。“単語”が鎖状につながって“文”つまりタンパク質ができる。
2004年12月24日
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アルファベットは多くの言語の基本単位である。その文字が組み合わさって単語になり、単語が集まって文となる。生体も分子レベルでは同じ原理になっている。基本となる“アルファベット”はDNAによって供給される。驚くべきことに、この“アルファベット”には、A,G,G,Tの四つの文字しかない。これらは科学塩基のアデニン(Adenine)、シトシン(Cytosine)、グアニン(Guanine)、チミン(Thymine)を表わす。DNAのそれらの四つの塩基は、RNAを介し特定のアミノ酸を指定する。このアミノ酸は単語になぞらえることができる。しかし、普通の単語とは異なり、一つのアミノ酸に対応する文字数はすべて3文字である。次に、リボソームと呼ばれる“タンパク質組み立て機”がアミノ酸をつなぎ合わせる。その結果できる鎖がタンパク質である。これは文に似ている。1個の典型的なタンパク質分子は、通常の会話や文章の一文よりも多くの要素から成っていて、300個から400個のアミノ酸を含む場合もある。 解説書が述べるとおり、自然界には何百種類ものアミノ酸があるのだが、たいていのタンパク質に含まれるのはわずか20種類ほどである。しかし、それらはほとんど無限の組み合わせで配列できる。仮に、20種類のアミノ酸を使って100個のアミノ酸を並べた鎖を一つ作るとする。その鎖は、10100以上のパターンで配列できるのである。
2004年12月23日
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タンパク質は、生命に欠かせない大型の分子で、実に多くの種類がある。抗体、酵素、伝達物質(メッセンジャー)、構造タンパク質、輸送体などはみな、タンパク質である。多様な抗体、中でも免疫グロブリンは、細菌やウィルスといった外敵と闘う。他のグロブリンは,外傷を受けた血管の修復を助ける。 酵素は触媒として働き、消化に関連したものなど各種の化学反応を促進する。実際、「酵素がないと、一度の食事で摂取したものを消化するのになんと50年もかかるので、人間はすぐに餓死してしまう」と、「命の糸」という本は説明している。各種の酵素は流れ作業のように働き、個々のタンパク質がそれぞれ特定の仕事をこなす。例えば、マルターゼという酵素は、マルトースという糖を2分子のブドウ糖に分解し、ラクターゼはラクトースつまり乳糖を分解する。原子や分子を結合させて新しい物質を生成する酵素もある。それらの仕事は目にも留まらぬ速さで行なわれる。酵素の分子は、たった一つで毎秒幾千もの化学反応を引き起こすことができるのである。 ある種のタンパク質はホルモンとして分類され、伝達物質として働く。ホルモンは血中に放出され、体の他の部分の活動を促したり抑制したりする。例えばインシュリンは、細胞を刺激して、そのエネルギー源であるブドウ糖の吸収を促す。構造タンパク質、例えばコラーゲンやケラチンなどは、軟骨、髪の毛、つめ、皮膚のおもな成分である。それらのタンパク質は、「細胞の支柱、梁、壁板、セメント、釘に相当する」と、「生命の仕組み」の本は述べている。 細胞膜にある輸送タンパク質は、ポンプやトンネルのような働きをして、物質が細胞に出入りできるようにする。では、タンパク質は何からできているのだろうか。またその鎖状の構造はその働きとどのように関係しているのか。調べてみよう。
2004年12月22日
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1:細胞核にあるDNAに個々のタンパク質を作るための指示が収められている2:DNAの一部がファスナーのように開き、その部分の遺伝情報がメッセンジャーRNAにコピーされる3:リボソーム―“情報解読・タンパク質組み立て機”―がRNAに結合する4:転移RNAはアミノ酸をリボソームに運んでくる5:リボソームがRNAの情報を“解読”してゆくにつれ、それぞれのアミノ酸が一定の順に並んで長い鎖、つまりタンパク質ができる6:連鎖状のタンパク質は、それぞれの機能を果たすため精確に折りたたまれなければならない。典型的なタンパク質1個に300を超える“鎖の輪”がある この一連の過程を模式図にすれば結構面白いし、視覚的な面でたいへん理解し易い。人間の体ってこんな鎖の集まりなんだ。と感心してしまう。
2004年12月21日
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あなたはご自分の体が微小な鎖の集まりだということをお考えになったことがあるだろうか。ないかもしれない。しかし、実際のところ、生命は「それに関連する最も小さな成分のレベルで見ると、基本的に鎖によって組織されている」と、「生命の仕組み」という本は述べている。そのため、それら鎖の一部にほんの小さな異常があるだけで、健康に大きく影響することがある。その鎖とは何だろうか。どんな働きをしているのだろうか。わたしたちの健康や生活とどんな関係があるのか。 基本的に言うと、それは鎖状の分子で、大きく二つに分類できる。一つはタンパク質の分子でもう一つは,遺伝情報の保存や伝達を行なうDNAやRNAである。もとより、これら二つのグループは密接に関連し合っている。実際、DNAやRNAのおもな働きの一つは、生命が必要とする多様なタンパク質を生産することである。
2004年12月20日
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今日の世界では一般開業医が少なくなり、公立や私立の病院施設で医療を行なう勤務医が多くなっている。とはいえ、多くの医師は自分と患者の関係に第三者がかかわるのを好まない。短い時間でより多くの患者を診るように医療機関から求められることもしばしばである。「患者1人あたり7分から10分で診察しなければならない」と、英国の一般医師シーラ・パーキンズは述べている。「しかもその時間の多くは情報をコンピューターに入力するのに費やさなければならない。患者との関係を築く時間はほとんど残らない。これが非常にストレスとなることがある」。 医療の世界は変化し、患者が力を持つようになっている。かつて、医師の指示に異議を唱えることなどなかった。しかし、今日、多くの土地で、医師は可能な治療法と生じ得る結果を伝えて患者からインフォームド・コンセント(十分に情報を与えられた上での同意)を得る務めがある。医師と患者の関係は変化してきた。なかには医師を一種の技術者と見るようになった人もいる。 社会は急速に変化しており、女性の医師も多くなっている。 たいていの人は、患者の気持ちやストレスを理解してくれる医師をありがたく思う。では、患者側は医師の気持ちやストレスを理解しているだろうか。この質問は道理にかなっているといえる。この点を知り、考えることによって医師と患者の関係はいっそう良いものとなるはずだからだ。先に書いてきたものをこの観点でみていただければうれしく思う。
2004年12月19日
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多くの国で医療過誤訴訟の急増が伝えられている。取るに足りない点を請求してもうけようとする弁護士さえいる。「そうした人のせいで医療損害賠償の保険料が急上昇している」と、アメリカ医師会会長は述べている。「そのような訴訟は別の苦悩をももたらす。不当な訴訟は医師に多大の悪影響を及ぼしかねない。当惑させ、時間を奪い、ストレスや不安を生じさせる」。追い詰められて自殺した医師までいる。 その結果、“防衛医療”を行なわざるを得ないと感じる医師が多くなっている。患者にとって最善かどうかではなく、法定で、自己防衛する必要が生じた場合を考えて決定を下すのである。「保身を考えて医療を行なうのが、現在のやり方」と、フィジシャン・ニューズ・ダイジェストは述べている。 医療・介護等の現場で実施されているリスク・マネジメントも患者や利用者の過剰な反応に対する過剰防衛の手段になってしまっているきらいがある。本来の趣旨を見失っているようにも感じる。
2004年12月18日
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たいていの医師は、患者との関係で生じるストレスについて尋ねられると、扱いにくい患者の話から始める。あなたも次のような人が思い当たるかもしれない。しかし、そのような患者に対応することを避けられるものではない。 まず、直ぐに本題に入ってどこが悪いのかを話すのではなく、関係のない話をして医師の時間を奪うタイプの患者がいる。また、要求の多い患者がいる。緊急ではないのに夜間や終末に電話をかけてきたり、医師が勧めていない治療を求めたりするのである。医師を信用しない患者もいる。ある人は自分の症状についてインターネットなどで有用な情報を調べる。その情報が役立つ場合もあるのだが、そのような調査をしたために、診察する医師への信頼を失うこともある。医師には、そのような調査で見つかったすべての情報の非を論じるだけの時間がないかもしれない。患者が不信感を抱き指示に応じなくなると、医師はストレスを感じる。最後のタイプは、せっかちな患者である。効果が出る前に治療をやめてしまい、おそらくは別のところにアドバイスを求めるのである。 とはいえ、世界のある地域では、医師にいちばんストレスを与えるのは患者ではなく弁護士であることをご存知だろうか。
2004年12月17日
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医師は科学者としての訓練を受けるが、多くの医師にとって、仕事の大きな部分は患者と話すことである。医師と患者の関係を作り上げるだけの心構えができていないと感じる医師もいる。特に扱いにくい場面の一つとしては、患者やその家族に良くない知らせを伝える時である。毎日のようにそうせざるを得ない医師もいる。苦境にある人は自分の苦悩を打ち明けずにいられない場合が多く、医師はそれに耳を傾けることを期待されている。不安におびえている人と接するのは非常に骨の折れるもので、一種の燃えつきの犠牲になる医者もいる。それは現在、共感疲労と呼ばれている。 年数を経ると、ストレスは軽減されるのだろうか。普通は長年働いていると責任が増える。生死のかかわる決定は即座に下さねばならないことが多く、しかも情報が十分でないことがある。「若い時は、それも気になりませんでした」と、英国の医師は語る。「若者が危ない運転をしても気にしないのと同じです。でも年とともに、生きることの貴さへの認識が深まります。今は、治療法の決定にこれまで以上に悩まされています」。 ストレスは医師にどんな影響を及ぼすだろうか。患者と感情的な距離を置くことが習慣となって、家族にも同じように接してしまうことがある。そうならないようにするのが時に難しい。医師の中には、際立って思いやりに富み、感情面でも患者の助けになろうとする人がいる。しかし、共感疲労の犠牲にならずにどこまでそうすることができるだろうか。これが医師のジレンマである。
2004年12月16日
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医学の授業の早くも1週目に解剖室を初めて見学し、大きな衝撃を受けることがある。ほとんどの学生は人の遺体をそれまで見たことがないだろう。萎縮した遺体が段階的に切り開かれて、人体の構造が分かるようになっているのを見るのは、必ずしも気持ちのいいものではない。学生は自分の感情に対処する方法を身につけなければならない。ユーモアを働かせ、それぞれの遺体にややこっけいな名前をつけたりする。部外者からはひどく無神経で不敬にも見えるこの行動も、学生にとっては、死ぬ前にその人はどんな人だったかなどと考えないために必要なのである。 その後、病院での臨床訓練がある。一般に、人が命のはかなさについてじっくり考えるのは中年になってからだろう。しかし、医学生は若い時代に難病や死と向き合う。ある学生は、初めて病院で訓練を受けた時のことを、「気持ちが悪くて嫌悪感を生じさせるほどだ」と表現している。また、貧しい国でも豊かな国でも、お金がないために必要な治療を受けられない人がどれほど多いかを初めて知り、かなりショックを受けることもある。 新たに資格を得た医師は、どのようにストレスに対処するのだろうか。医療に携わる人たちは多くの場合、患者個人には深入りしないようにして、感情的距離を置かざるを得ない。関係者は世話の必要な個人に注意を向けるのではなく、「先生、2番、骨折です」などと言うこともある。このように言う理由が分からなければ、こっけいにさえ聞こえるかもしれない。
2004年12月15日
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患者が診察室に来て、医師の抱える問題について考えることなど普通ない。自分が助けてもらうことで頭がいっぱいである。そのため、医師がどれほどストレスを抱えているかに気づく人はまずいない。 もちろん、人は皆ストレスに対処しなければならないし、医療従事者だけがストレスの多い職業というわけでないことは先に記述したものからも分かる。とはいえ、ほとんどの人は多かれ少なかれ医師と患者という関係を経験することになる。なら、医師が抱えるストレスとそれが及ぼす影響を理解していることには価値があるのではないだろうか。 医師になる人は、まず医学校に入るために奮闘し、人生の早い時期からストレスを抱えて生きるようになる。そのうえ、医学の訓練が始まると、ほとんどの場合、忘れられない衝撃にぶつかる。医学生の感情を、その性格までをも変えかねない過程が始まるのである。
2004年12月14日
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「健康上の最大の問題」。 これは、米国ストレス研究所が発表した記事の見出しである。記事によると、今日最も健康を脅かしているのは、がんでもエイズでもない。「推定では、病院を訪れる初診患者の75%から90%は、ストレスに関連した問題が来院の理由だ」と記事は述べている。 現代人はストレスの猛攻撃を受けている、と言っても過言ではない。全米消費者連盟によると、「生活の中で問題やストレスを抱える成人にとって、その一番の原因は仕事(39%)で、次が家族(30%)。ほかの原因として健康(10%)、経済不安(9%)、テロなどの暴力犯罪や国際紛争に対する不安(4%)」などが続く。 とはいえ、ストレスは米国だけの問題ではない。2002年の英国の調査によると、「2001年と2002年に、英国民の50万人以上が、仕事に関連して健康を害するほどのストレスを経験している、と考えて」いたようである。「仕事に関連したストレス、憂うつな気分、不安」のため、「英国では、年間1350万日の仕事日が失われていると推定」されている。 こうした重苦しい実情は、ヨーロッパ大陸の方でも同様である。欧州労働安全衛生気候によると、「仕事に関連したストレスは、職種にかかわりなく非常に大勢のヨーロッパ人に影響を及ぼして」いる。「毎年[欧州連合の]約4100万人が仕事に関連したストレスに悩まされている」という調査もある。 アジアの状況はどうか。東京で開かれたある学会の報告は、こう結論づけている。「仕事上のストレスは、発展途上国、先進工業国を問わず、世界の多くの国に共通の懸念材料である」。同じ報告は次のようにも述べている。「中国、韓国、台湾を含む東アジア諸国は、急速な工業化と経済成長を続けており、現在、仕事上のストレスと、それが健康に及ぼす悪影響に対する懸念が高まっている」。 とはいえ、人々がストレスにさらされているという調査報告などは特に必要ないかもしれない。ストレスは、あなたにも影響を及ぼしていることだろう。
2004年12月13日
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ギリシャ人やローマ人を含め、古代の異教諸民族の間では多くの場合、すべての人の運命、特に個人の寿命は神々によって前もって決定されていると考えられていた。ギリシャ神話は、命の糸を紡ぐクロト(紡ぐ女)、寿命を決定するラケシス(運命を割り当てる女)、時間が切れた時に命を絶つアトロポス(変えることのできない女)という3人の女神が人の運命を支配していると述べている。同じような三つ組は、ローマ人の神々の中にも見られた。 ユダヤ人の歴史家ヨセフス(西暦1世紀)によれば、パリサイ人は、運命の概念と神に対する自分たちの信仰、さらには人間に与えられている倫理的に自由な行為能力との調和を図ろうと努力した。「新シャッフ‐ヘルツォーク宗教知識百科事典」は、「[西暦4世紀から5世紀の]アウグスティヌスよりも前に、キリスト教においては、予定説の理論にこれといった進展は見られなかった」と述べている。アウグスティヌス以前に、ユスティヌス、オリゲネス、イレナエウスなど、初期のいわゆる“教父”たちは、「絶対的な予定説なるものを知らず、自由意志を教えて」いた。彼らはグノーシス主義に対する反論の中で、人間の倫理的に自由な行為能力は、「人間の人格の際立った特色、倫理的な責任の基盤、神に喜ばれることを選択する際の根拠となる神からの賜物」であるという信条をいつも決まったように言い表わし、「人間の自主性や、強要する方ではない神のみ旨」について語っていると述べられている。
2004年12月12日
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神は、メシアの苦しみ、メシアが遭遇する死やその後の復活を予知し、また予告された。(Ac 2:22、23、30、31; 3:18; 1Pe 1:10、11)神がそのように予知力を行使して決定された事柄が実現するかどうかは、一方では神ご自身の力の行使に、また一方では人々の行動に依存していた。(Ac 4:27、28)しかし、そのような人々はあえて、神の敵対者、悪魔サタンに乗ぜられるがままになっていた。(Joh 8:42‐44; Ac 7:51‐54)そのため、ちょうどパウロの時代のクリスチャンが『[サタンの]謀りごとを知らないわけではなかった』のと同様に、神は悪魔がイエス・キリスト、つまり神の油そそがれた者に対して企てる邪悪な欲望や手段を予見された。(2Co 2:11)また、神の力をもってすれば、預言されていた方法や時と一致しない、メシアに対するいかなる攻撃や企ても、妨害する、もしくは阻止することさえできたのは明らかである。―Mt 16:21; Lu 4:28‐30; 9:51; Joh 7:1、6‐8; 8:59. 神の犠牲の子羊であるキリストは、「世[コスムー]の基が置かれる[ギリシャ語カタボレーの変化形]前から予知されて」いたと使徒ペテロは述べたが、この言葉は予定説の信奉者によると、神がそのような予知力を人間の創造前から行使されていたという意味に解釈されている。(1Pe 1:19、20)「基が置かれる」と訳されているギリシャ語のカタボレーという言葉は、字義通りには、「下に投げること」を意味しており、Hebrews 11:11.のように「胤を宿す」ことを指す場合もある。Hebrews 4:3、4.が示しているとおり、神が最初の人間の夫婦を創造された時に、人類の世の『基は置かれ』たが、その夫婦は後に神の子供としての立場を失った。(Ge 3:22‐24; Ro 5:12)しかし、神の過分のご親切により、二人は胤を宿して子供を産むことを許された。その子供のうちの一人は神の恵みを得て、請け戻しと救いを受けられる立場に立ったことが聖書に特記されている。それはつまりアベルのことである。(Ge 4:1、2; Heb 11:4)イエスがLuke 11:49‐51.で、「世の基が置かれて以来流されたすべての預言者の血」に言及し、その対句として、「アベルの血から……ゼカリヤの血に至るまで」という言葉を使っておられるのは注目に値することである。したがって、イエスはアベルを「世の基が置かれる」ことと結び付けておられる。 メシア、すなわちキリストは約束の胤になることになっていた。約束のその胤を通して、地のすべての家族の中の義にかなった人々がみな祝福を受けるのである。(Ga 3:8、14)そのような「胤」について初めて言及されたのは、エデンでの反逆がすでに始まった後であったが、アベルの誕生よりは前のことだった。(Ge 3:15)それから4,000年ほどたって、そのメシアなる「胤」の実体が明示されることにより、「神聖な奥義」が明らかにされた。であるから、それは確かに、「久しいあいだ沈黙のうちに保たれ」ていた。―Ro 16:25‐27; Eph 1:8‐10; 3:4‐11. 神はご予定の時にご自分の初子であるみ子を、預言された「胤」の役割を果たしてメシアになるよう選任された。み子が創造される前から、あるいはエデンで反逆が起きる前から、み子がそのような役割を演じるよう“運命づけられて”いたことを示すものは何もない。神が、預言を成就する責任をゆだねられた者として最終的にみ子をお選びになったことにも、事前の根拠がなかったわけではない。み子が地に遣わされる前に神とみ子との間には親密な交わりの期間があったため、神は、み子が預言的な約束や描写を忠実に成就することを確信できる程度にまで、み子のことを『知っておられた』に違いない。―Ro 15:5; Php 2:5‐8; Mt 11:27; Joh 10:14、15
2004年12月11日
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裏切りを働くに至ったユダ・イスカリオテの歩みは、神の預言を成就し、み子の予知力のみならず神の予知力を実証した。(Ps 41:9; 55:12、13; 109:8; Ac 1:16‐20)しかし、神はユダ自身がそのような歩み方をするようあらかじめ定めておられたとか、そのように運命づけておられたなどと言うことはできない。預言は、イエスの親しい知人のだれかが裏切り者になることを予告していたが、そうした知人のうちのだれが裏切り者になるかは特定していなかった。この場合も、聖書の原則からすれば、神がユダの行動をあらかじめ定めていたとは考えられない。使徒が述べた神の規準によれば、「だれに対しても決して性急に手を置いてはなりません。また、他の人の罪にあずかる者となってはなりません。自分を貞潔に保ちなさい」と言われている。(1Ti 5:22.1Ti 3:6)イエスは12使徒の選択を賢明に、また正しく行なうことに対する関心のほどを表わし、ご自分の決定を知らせる前に夜通しみ父に祈られた。(Lu 6:12‐16)もしユダが裏切り者になることがすでに神によってあらかじめ定められていたとすれば、神の指示や導きは矛盾していることになり、前述の規則によれば、神はその人が犯した罪にあずかる者となってしまう。 それで、ユダが使徒として選ばれた時点で、ユダの心が反逆的な態度の明確な証拠を何も示していなかったことは明らかであると思われる。ユダは、「有毒な根が生え出て」自分が汚されるのを許し、結果として道から外れ、神の導きを受け入れるのではなく悪魔の指導を受け入れて、泥棒と背信の道に進んだ。(Heb 12:14、15; Joh 13:2; Ac 1:24、25; Jas 1:14、15)こうした逸脱がある段階にまで達した時、イエスご自身もユダの心を読み、その裏切りを予告することがおできになった。―Joh 13:10、11. 確かに、John 6:64.の記述には、一部の弟子たちがイエスのある教えにつまずいた時、「イエスは初めから[「最初から」、エルサレム]、だれが信じない者たちか、まただれがご自分を裏切る者かを知っておられた」とある。「初め」(ギリシャ語、アルケー)という言葉は、2 Peter 3:4.では創造の開始を指して使われているが、それ以外の時を指す場合もある。(Lu 1:2; Joh 15:27)例えば、使徒ペテロは、聖霊が「初めにわたしたちの上にも下ったのと同じように」異邦人の上に下ったと述べた時、自分が弟子または使徒になった初めの時ではなく、自分の宣教の重要な段階、つまり西暦33年のペンテコステの日に聖霊が特定の目的のために注がれるようになったその「初め」の時に言及していたことは明らかである。(Ac 11:15; 2:1‐4)それゆえに、John 6:64.に関し、ランゲの「聖書注解」に記されている次の所見に注目するのは興味深いことである。「初めとは……形而上学における万物の初めからという意味でも、……[イエスが]各人と知り合った初めの時からという意味でも、……ご自分の周りに弟子たちを集めた初めの時、つまりメシアとしての宣教の初めの時からという意味でもなく、……ひそかな不信の兆しが初めて芽生えた[そのために一部の弟子たちがつまずいた]時からという意味である。そのような意味においても、イエスは初めから裏切り者を知っておられたのである」。
2004年12月10日
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幾つかの級に関する予知に加え、幾人かの個人も神の予測に特定の目的でかかわっている。その中には、エサウとヤコブ(前述)、エジプト脱出の時のファラオ、サムソン、ソロモン、ヨシヤ、エレミヤ、キュロス、バプテスマを施す人ヨハネ、ユダ・イスカリオテ、神ご自身のみ子イエスが含まれる。 サムソン、エレミヤ、およびバプテスマを施す人ヨハネの場合、神は彼らが誕生する以前に予知力を行使された。しかし、予知したとはいっても、彼らの最終的な運命がどうなるかを特定したわけではない。むしろ、神はそのような予知に基づき、サムソンがナジル人の誓約にしたがって生き、フィリスティア人からイスラエルを救出することに着手し、またエレミヤが預言者として奉仕し、さらにバプテスマを施す人ヨハネがメシアの前駆者として予備的な業を行なうことをあらかじめお定めになったのである。(Jg 13:3‐5; Jer 1:5; Lu 1:13‐17)そのような特権にあずかった彼らは大いに恵まれていたものの、それによってとこしえの救いを得ることが保証されたわけではなく、死に至るまで忠実を保つことさえ保証されたわけではなかった。(もっとも、この3人は全員忠実を保った。)例えば、神は、ダビデの多くの息子の一人がソロモンと名づけられることを予告し、ソロモンが神殿を建てるために用いられることをあらかじめお定めになられた。(2Sa 7:12、13; 1Ki 6:12; 1Ch 22:6‐19)しかし、このようにソロモンは恵まれ、聖書中の幾つかの書を記す特権にさえあずかったが、それでも晩年には背教に陥った。―1Ki 11:4、9‐11. エサウとヤコブについても同様に、神の予知は、彼らのとこしえの運命を決するものではなく、むしろその二人の息子から出る国たみのうちどちらが他に対して優勢な立場を得るかを裁定する、あるいはあらかじめ定めるものだった。(Ge 25:23‐26)優位を予見するこのことにより、ヤコブが長子の権利を得ることが指し示された。その権利を得れば、それに伴って、アブラハムの「胤」が出る家系に連なるという特権にあずかれるのである。(Ge 27:29; 28:13、14) 神はこのようにして、個人を特定の仕方で用いることに関するご自分の選択が、人間の予想と一致するような普通の習慣や手続きに拘束されないことを明らかにされた。また、神から割り当てられる特権は、業だけに基づいて与えられるものでもない。もし業に基づいて与えられるとすれば、人はそのような特権にあずかる『権利を報酬として得た』とか、そのような特権が『自分に与えられるのは当然だ』といった見方をしてしまうかもしれない。使徒パウロはその点を強調しながら、神が過分のご親切により、かつてはイスラエルのために取って置かれていたように思える特権を異邦諸国民に与えることがおできになった理由を示した。―Ro 9:1‐6、10‐13、30‐32. パウロは、神が『ヤコブ[イスラエル]に対する愛とエサウ[エドム]に対する憎しみ』を抱いておられるという言葉をMalachi 1:2、3.から引用している。それは、ヤコブとエサウの時代よりもずっと後に書かれた言葉である。であるから聖書は必ずしも、神がその双子に対して彼らの誕生前からそのような見方をしておられたということを述べているわけではない。子供の全般的な性向や気質の多くが、それぞれの親の提供した遺伝的要素によって受胎の時に決まるというのは、科学上の既定事実である。神がそうした要素をご覧になれるのは自明なことであり、ダビデは、神が「胎児のときのわたしをも」ご覧になったと述べている。(Ps 139:14‐16.Ec 11:5)神がその二人の少年に関する物事をあらかじめお定めになる際に、神のそうした洞察力がどの程度影響したかは分からないが、いずれにしても、神がエサウよりヤコブを選ばれたこと自体は、エサウやその子孫のエドム人を滅びに定めるものではなかった。のろわれたカナン人の中にさえ、神の契約の民と交わる特権を得、祝福を受けた人がいた。(Ge 9:25‐27; Jos 9:27)しかし、エサウが涙ながらに「考えの変化」を切に求めたことは、長子の特別な祝福がすべてヤコブのもとにとどまるという父親イサクの決定を変えさせようとする試みにすぎず、それは成功しなかった。したがってそれは、エサウが神のみ前で物質主義的な態度に関して悔い改めたことを暗示するものではなかった。―Ge 27:32‐34; Heb 12:16、17. ヨシヤに関する神の預言では、ダビデの子孫の中のだれかがその名前で呼ばれることになっており、その人がベテルという都市で偽りの崇拝に対して行動を起こすことが予告されていた。(1Ki 13:1、2)それから300年余りたって、ヨシヤという名の王がその預言を成就した。(2Ki 22:1; 23:15、16)とはいえ、この王は「神のみ口から出たネコの言葉」に留意せず、それがもとで殺される結果になった。(2Ch 35:20‐24)したがってヨシヤは、神によって予知され、特定の業を行なうようあらかじめ定められていたが、それでも忠告に留意するか、それを無視するかを選ぶことのできる倫理的に自由な行為者だった。 同様に神は、ユダヤ人をバビロンから解放するために、キュロスという名の征服者を用いることを200年近く前に予告された。(Isa 44:26‐28; 45:1‐6)しかし、やがて神の預言の成就としてその名を与えられたペルシャ人は、神Jehovahの真の崇拝者になったと聖書に記されているわけではない。一般の歴史は、キュロスが偽りの神々の崇拝を続けたことを示している。 したがって、個人の誕生に先立って物事が予知されたこれらの事例は、神の啓示された特質や表明された規準と対立してはいない。また、神がその個人に対し、当人の意志に反する行動を強制したというようなことを暗示する箇所もない。ファラオ、ユダ・イスカリオテ、および神ご自身のみ子の場合、当人が存在する前に神の予知力が行使されたという証拠はない。これらの個々の事例には、神が物事を予知したり、あらかじめ定めたりすることに関係がある幾つかの原則が例示されている。 そのような原則の一つは次のようなものである。神はある状況や出来事を生じさせたり、それが生じるのを許したりすることにより、あるいはご自分の霊感による音信をある個人に聞かせることにより、そのような個人を試される。その結果、当人は決定を下すために選択の自由を行使せざるを得なくなり、そのようにして一定の心的態度を明らかにし、神はそれを読み取られる。(Pr 15:11; 1Pe 1:6、7; Heb 4:12、13)神は個人の反応の仕方にしたがって、その個人を当人が自らの意志で選択した方向に形作ることもおできになる。(1Ch 28:9; Ps 33:13‐15; 139:1‐4、23、24)であるから、まず「地の人の心」がある方向に向かってから、神はそのような人の歩みを導かれるのである。(Pr 16:9; Ps 51:10)試みを受けると、人の心の状態は不義や反逆のうちに固くなるか、神とそのご意志を行なうことに対する破れることのない専心のうちに堅くされるか、いずれかの仕方で不動のものになり得る。(Job 2:3‐10; Jer 18:11、12; Ro 2:4‐11; Heb 3:7‐10、12‐15)個人の選択がそのようなところまで達したなら、その時点でその人の歩みの最終結果を予知して予告するとしても、それは不正なことではなく、人の倫理的に自由な行為能力に対する侵害でもない。―Job 34:10‐12. すでに考察した忠実なアブラハムの事例は、これらの原則を示す一例である。それと対照的なのは、良い反応を示さなかったエジプト脱出の時のファラオの事例である。Jehovah神は、「強い手をもってするのでなければ」、ファラオがイスラエル人に出て行く許しを与えないことを予知し(Ex 3:19、20)、初子の死を招く災厄をあらかじめお定めになった。(Ex 4:22、23)神がファラオをどう扱われたかに関する使徒パウロの論議は、神があらかじめ定めた目的にしたがい、個々の人の以前からの傾向や心的態度とは関係なく任意に個人の心をかたくなにするという意味に誤解される場合が少なくない。(Ro 9:14‐18)同様に、多くの翻訳によれば、神はモーセに対し、「[ファラオの]心を固くする」とお告げになった。(Ex 4:21.Ex 9:12; 10:1、27)しかし、幾つかの翻訳はこのヘブライ語の記述を、Jehovah神が「[ファラオの]心を大胆にならせる」(ロザハム)とか、「[ファラオの]心をかたくなにならせる」というように訳している。ロザハム訳の付録は、このような訳し方の裏付けとして、ヘブライ語では、ある出来事の誘発や許容が、あたかもその出来事の原因でもあるかのように提示される場合が多く、「明確な命令でさえ、許容を意味するにすぎないと解さなければならないことがある」と述べている。例えば、Exodus 1:17。の元のヘブライ語本文は字義通りには、産婆が「男の子たちを生きるようにさせた」となっているが、実際には、子供たちを殺さないでおくことによって生きることを許したという意味である。ロザハムは、裏付けとしてヘブライ語学者のM・M・カーリシュ,H・F・W・ゲゼニウス、およびB・デーヴィスを引き合いに出した後、ファラオに関する本文のヘブライ語の意味は、「ファラオが自分自身の心を固くすることを神は許され―彼を容赦し―彼の内にあった悪を成し遂げる機会つまり好機を彼にお与えになったということ、まさにそういうことにすぎない」と述べている。 この理解を確証しているのは、ファラオ自身が「その心を固くした」ことを記録が明確に示しているという事実である。(Ex 8:15、32.「その心を鈍くして」)それで、ファラオは自分自身の意志を働かせて、自分自身の強情な傾向に従った。その傾向の結果を、神は正確に予見し、予言されたのである。ファラオは神から繰り返し機会を与えられて決定を下さざるを得ず、そうする際に態度を硬化させた。(Ec 8:11、12)使徒パウロがExodus 9:16.を引用することによって示しているように、Jehovah神はご自分の力を明らかにし、ご自分の名を全地に知らせるため、事態がそのようにして十の災厄の最後に至るまで進展することをお許しになった。―Ro 9:17、18.
2004年12月09日
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一方、神が特定のグループや国民、また人類の大多数が進んでゆく方向を実際に予知することにより、彼らの将来の行動の基本的な方向を予告し、それに対応してご自分がどんな行動を取るかをあらかじめお定めになった場合もある。しかし、そのように予知したり、あらかじめ定めたりするとはいっても、人類のそうした集合体もしくは集団の中にいる個人が、自分の進む特定の方向に関して自由な選択をすることができなくなるというわけではない。以下の例にその点を見ることができる。 神はノアの日の大洪水に先立ち、人間と動物の命が失われることになる、滅びをもたらすその行動を起こすというご自分の目的を発表された。しかし聖書の記述が示すところによれば、神のそうした決定は、暴虐や他の悪行を含め、そのような行動を必要とするような状況が生じた後に下された。さらに、『人間の子の心を知る』ことのできる方である神は、調査を行なって「[人間の]心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かう」のをご覧になった。(2Ch 6:30; Ge 6:5)しかし個々の人、つまりノアとその家族は神の恵みを得て、滅びを免れた。―Ge 6:7、8; 7:1. 同様に、神はイスラエル国民に対し、神の契約を守ることによって「祭司の王国、聖なる国民」となる機会をお与えになったが、約40年後、同国民が約束の地の境界付近にいた時、神は、彼らが契約を破り、国民として神から見捨てられることを予告された。しかし、この予知には先立つ根拠がなかったわけではない。国民としての不服従と反抗はすでに明らかになっていたからである。それで神は、「わたしは、自分が誓った地へ携え入れる前の今日すでに彼らが現わしている性向をよく知っているのである」と言われた。(Ex 19:6; De 31:16‐18、21; Ps 81:10‐13)このように明らかになっていた傾向のゆえにそののち悪が増し加わってゆく点でどんな結果になるかを神が予知されたからといって、そのような事態になるのを神のせいにすることはできない。それはちょうど、技量の劣る人が粗悪な材料を用いて造った建物の崩壊をだれかが予知したからといって、そのような崩壊をその予告した人のせいにすることができないのと同じである。神の法則は、『まいているものを刈り取る』ことを定めている。(Ga 6:7‐9.Ho 10:12、13)幾人かの預言者たちは、神によってあらかじめ定められた裁きの表明に関する預言的な警告を述べたが、そのすべての警告には、すでに存在していた状況や心的態度の中に根拠があった。(Ps 7:8、9; Pr 11:19; Jer 11:20)しかし、この場合もやはり、各個人は神の助言や戒めや警告にこたえ応じることができたし、また実際にそうすることによって神の恵みを受けた。―Jer 21:8、9; Eze 33:1‐20. 神のみ子も人の心を読むことができる方であり(Mt 9:4; Mr 2:8; Joh 2:24、25)、神から予知力を賦与され、将来の状況や出来事、さらには神の裁きの表明を予告された。また、一つの級としての書士やパリサイ人に対してゲヘナの裁きを予告されたが(Mt 23:15、33)、それによって、個人としてのそれぞれのパリサイ人や書士があらかじめ滅びに定められている、と言われたわけではない。そのことは使徒パウロの事例からも分かる。(Ac 26:4、5)イエスは、悔い改めないエルサレムや他の都市が災いを被ることを予言されたが、それらの都市にいる各個人がそのような目に遭うようみ父があらかじめ定めておられる、ということをほのめかされたわけではない。(Mt 11:20‐23; Lu 19:41‐44; 21:20、21)イエスはまた、人間の傾向や心的態度がどんな結果につながるかを予知し、「事物の体制の終結」の時までに人類の間で進展する事態、さらには神ご自身の目的が達成されることを予告された。(Mt 24:3、7‐14、21、22)イエスの使徒たちも同様に、「反キリスト」のような特定の級や(1Jo 2:18、19; 2Jo 7)、そのような級にあらかじめ定められている結末に関する神の予知力を示す預言を告げ知らせた。―2Th 2:3‐12; 2Pe 2:1‐3; Jude 4.
2004年12月08日
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聖書の記録全体を通じて、神が何かを予知したり、あらかじめ定めたりされる場合、それは常に神ご自身の目的や意志と調和している。「目的を持つ」とは、自分の前に何かを、達成すべき念願もしくは目標として置くという意味である。(「目的」と訳されるギリシャ語のプロテシスという言葉は、字義通りには、「[何かを]前方に、もしくは前に置くこと、もしくは据えること」を意味する。)神の目的は必ず成し遂げられるので、神は結果を、すなわちご自分の目的の最終的な実現を予知することができ、それぞれの結果や、それを達成するためにご自分でよしとされる幾つかの措置をあらかじめ定めることができる。(Isa 14:24‐27)そのため神は、将来の出来事や行動に関する目的を『形造る』あるいは『形作る』(「陶器師」[Jer 18:4]という意味の言葉と関連のあるヘブライ語ヤーツァルに由来)と言われている。(2Ki 19:25; Isa 46:11.Isa 45:9‐13、18)偉大な陶器師であられる神は、ご自分の目的に合わせて「ご意志の計るところに応じてすべてのものを作用させ」(Eph 1:11)、ご自分を愛する者たちの益のために「そのすべてのみ業を協働させておられ……ます」。(Ro 8:28)したがって、神は特にご自分のあらかじめ定めた目的に関して「終わりのことを初めから、また、まだ行なわれていなかったことを昔から」告げられるのである。―Isa 46:9‐13. 神が最初の人間夫婦を創造された時、二人は完全だった。そして神は、すべての創造の業の結果を観察し、『非常に良い』とみなすことがおできになった。(Ge 1:26、31; De 32:4)記録によると神は、その人間夫婦が将来どんな行動を取るかについて疑念を抱いて心配するどころか、『休まれまた』。(Ge 2:2)そうすることができたのは、将来どんな行動、状況、あるいは不測の事態に直面しようとも、神の全能性と最高の知恵のゆえに、それが神の主権者としての目的の実現を阻むような克服し難い障害や取り返しのつかない問題になる可能性はあり得なかったからである。(2Ch 20:6; Isa 14:27; Da 4:35)であるから、神がこの点で予知力の行使を差し控えるなら、神の目的は危うくなり、「先見不足のゆえにいつ何時とんざするか分からなくなる。また、倫理的行為者たちの行動による不測の事態のゆえに神の体制が乱されるので、神は絶えず体制を立て直していなければならない」という予定説の論議には聖書的な根拠がない。また、先見の力をそのように選択的に行使するからといって、予定説論者が主張するように、被造物が「[神の]施策をくじき、絶えず神の考えを変えさせ、神を悩ませ、困惑させる」力を得るわけではない。神の地上の僕たちでさえ『次の日のことを思い煩う』必要が実際にないのであれば、強大な諸国民を「手おけの一しずく」とみなされる創造者がそのようなことを思い煩うことなど過去においても現在においてもないということになる。―Mt 6:34; Isa 40:15.
2004年12月07日
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予定説に代わるもの、つまり神は予知力を選択的あるいは任意に行使されるという考え方は、神ご自身の義の規準と調和し、神がみ言葉の中でご自分について啓示される事柄と一致しなければならない。予定説の理論とは対照的に、数多くの聖句は、神がその時々の状況を検討し、その検討結果に基づいて決定を下されたことを示している。 例えば、Genesis 11:5‐8.の説明によると、神は地上に注意を向け、バベルでの状況を調査した上で、そこで行なわれていた不義の企てを終わらせるために取るべき行動を決定された。ソドムとゴモラで悪が明らかになった後、神は、「それについてわたしに達した叫びのとおりに彼らが行動しているのかどうかを見る」ために、(み使いによって)調査を行なうというご自身の決定をアブラハムに通知し、「もしそうでないのなら、それも知ることができよう」と言われた。(Ge 18:20‐22; 19:1)神は、『アブラハムを親しく知った』と言われた。また、アブラハムがイサクを犠牲としてささげようとまでした後、神はこう言われた。「わたしは今、あなたが自分の子、あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので、あなたが神を恐れる者であることをよく知った」。―Ge 18:19; 22:11、12.Ne 9:7、8; Ga 4:9. 選択的な予知とは、神が被造物の将来の行動をすべて無差別に予知することはしないでおこうと思えばそうすることもできるという意味である。ということは、創造以来の全歴史は、すでに予見され、あらかじめ定められていた事柄の単なる再演ではなく、むしろ神が全く誠実な気持ちで最初の人間の夫婦の前に、悪のない地上で永遠に生きる見込みを置くことは可能だったという意味になる。したがって、ご自分の最初の人間としての息子と娘が罪のない完全な行為者として行動し、自分たちの子孫で地を満たし、地をパラダイスにし、さらには動物を管理するようにという指示は、単にその二人の側で失敗することが最初から定められていた任務を与えるものではなく、本当に愛ある特権の授与、またその二人に対する神の純粋な願いの表明となり得た。神が「善悪の知識の木」による試みを設けられたことや、エデンの園の中に「命の木」を創造されたことも、無意味な、もしくは皮肉な行為ではなかったことになる。もし、その人間の夫婦が罪をおかし、「命の木」からは決して食べることができないということを神が予知しておられたとすれば、そうしたことは無意味で皮肉な行為になってしまう。―Ge 1:28; 2:7‐9、15‐17; 3:22‐24. 非常に望ましいものを、満たし得ないことがあらかじめ分かっている条件を付けて他の人に提供するのは、偽善的であると同時に残酷なこととみなされる。神のみ言葉には、永遠の命の見込みがすべての人にとって達成可能な目標として示されている。イエスは聴衆に、神からの良いものを『求めつづけ、探しつづけなさい』と勧めた後、父親はパンや魚を求める子供に石や蛇を与えたりしない、ということを指摘された。それからイエスは、人の正当な望みを裏切ることに関するみ父の見方を示して、こう言われた。「それで、あなた方が、邪悪な者でありながら、自分の子供たちに良い贈り物を与えることを知っているのであれば、まして天におられるあなた方の父は、ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです」。―Mt 7:7‐11. したがって、神がすべての人に、益と永遠の祝福を受けるようにとの招待や機会を差し伸べておられるのは、誠意に基づく事柄である。(Mt 21:22; Jas 1:5、6)神はイスラエルの民にしたように、全く誠実な気持ちで人々に、『違犯から自分を立ち返らせて、生きつづけよ』と勧めることができる。(Eze 18:23、30‐32.Jer 29:11、12.)論理的に言って、個人個人が邪悪な状態のまま死ぬ運命にあることを神が予知されるとしたら、全く誠実な気持ちでそのように勧めることはできないはずである。(Ac 17:30、31; 1Ti 2:3、4)神がイスラエルにお告げになったとおりである。「また、ヤコブの胤に、『あなた方はただいたずらにわたしを求めよ』と言いもしなかった。わたしはJehovahであり、義なることを語り、廉直なことを告げるのである。……地の果てにいるすべての者よ、わたしの方を向き、救われよ」―Isa 45:19‐22. 使徒ペテロも同様の論調でこう書いている。「Jehovahは[来たるべき清算の日に関する]ご自分の約束に関し、ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ、ひとりも滅ぼされることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので、あなた方に対して辛抱しておられるのです」。(2Pe 3:9)もし神がすでに何千年も前から、どの人がとこしえの救いにあずかり、どの人がとこしえの滅びを被るかを明確に予知し、あらかじめ定めておられたとすれば、神のそのような「辛抱」にどれほどの意味があるのか、また「すべての者が悔い改めに至ること」を願う神の気持ちはどれほど純粋なものなのか、と問うのはもっともなことである。霊感を受けた使徒ヨハネは、『神は愛です』と書いた。また、使徒パウロは、愛は『すべての事を希望する』と述べている。(1Jo 4:8; 1Co 13:4、7)すべての人が救いを得ることを神が望まれるのであれば、人々が救いに値しない者、救い難い者であることを実証するまで、すべての人に対して全く偏見のない親切な態度を示すのは、神のその際立った特質と調和する。(2Pe 3:9; Heb 6:4‐12)使徒パウロが、人を『悔い改めに導こうとしている神の温情』のことを述べているのはそのためである。―Ro 2:4‐6. 最後に、もし神の予知により、ある人々、もしかしたら幾百万という人々にとって、キリスト・イエスの贖いの犠牲の益にあずかる機会が誕生前から完全に閉ざされていたとすれば、またそのために、その益にあずかるに値する者であることを決して実証できないとすれば、贖いがすべての人のために備えられたとは言えなくなる。(2Co 5:14、15; 1Ti 2:5、6; Heb 2:9)神の公平さが単なる言葉のあやでないことは明らかである。「どの国民でも、神を恐れ、義を行なう人は神に受け入れられる」のである。(Ac 10:34、35; De 10:17; Ro 2:11)「神を求める」選択は、すべての人に、実際に、また本当の意味で開かれている。「それは、彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが、実際のところ神は、わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」。(Ac 17:26、27)であるから、「だれでも聞く者は、『来なさい!』と言いなさい。そして、だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」という、「啓示」の書の巻末にある神の勧告の中で述べられているものは、決してむなしい希望でも白々しい約束でもないのである。―Re 22:17.
2004年12月06日
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神が将来の出来事や状況をすべて事細かに予知されないとすれば、それは神の側の不完全さの証拠になるという論議は、完全さに関する独断的な見解にほかならない。何にせよ完全かどうかは実際のところ、その価値を判定する有資格者によって定められた優良性の規準に全くかなっているかどうかということなのであるから、完全さの正しい定義によれば、その概念をそのように絶対的かつ総括的に適用する必要はないのである。結局のところ、何が完全かということを決定する要素は、人間の意見や概念ではなく、神ご自身の意志であり、意向にあるのである。―De 32:4; 2Sa 22:31; Isa 46:10. 例を挙げて考えてみよう。神の全能性は間違いなく完全であり、能力の点で無限である。(1Ch 29:11、12; Job 36:22; 37:23)しかし、神は強さの点で完全ではあっても、ありとあらゆる場合にご自分の万能性の許す最大限の力を行使しなければならないわけではない。神がそのようにしてこられなかったことは明らかである。もし神がそうされたとすれば、大洪水や他の場合のような、不興と憤りの力強い表明を伴う神の裁きの執行によって、単に幾つかの古代都市や一部の国民だけが滅ぼされるのではなく、地球とその中のすべてのものがとうの昔に消滅させられたことだろう。(Ge 6:5‐8; 19:23‐25、29.Ex 9:13‐16; Jer 30:23、24)したがって、神の偉力の行使は、単に無限の力を発揮するということではなく、むしろご自分の目的によって常に制御され、必要に応じて神の憐れみにより調節されているのである。―Ne 9:31; Ps 78:38、39; Jer 30:11; La 3:22; Eze 20:17. 同様に、もし神がある点に関し、ご自分の無限の予知能力を選択的に、またご自分の望む程度にまで行使することを選ばれるのであれば、確かにどんな人間もみ使いも、「あなたは何をしているのか」と正当に言うことはできない。(Job 9:12; Isa 45:9; Da 4:35)したがって、これは能力の問題、つまり神は何を予見したり、予知したり、あらかじめ定めたりすることができるかという問題ではない。「神にとってはすべてのことが可能」だからである。(Mt 19:26)問題は、神は何を予見したり、予知したり、あらかじめ定めたりすることをよしとされるかということである。「神は……すべてその喜びとすることを行なわれた」からである。―Ps 115:3.
2004年12月05日
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神は予知力を限りなく行使し、実際にすべての人の歩みや運命をあらかじめ定めておられるという見解は、予定説として知られている。その信奉者たちは、神が神たる者であり完全な方であるからには、神は過去と現在のみならず将来に関しても全知でなければならないと論じる。この概念によれば、神がすべての事柄を微細に至るまで予知しないとすれば、それは神の不完全さの証拠となってしまう。イサクの双子の息子エサウとヤコブの例などは、神が被造物の誕生前に物事をあらかじめ定めている証拠として挙げられる。(Ro 9:10‐13)また、Ephesians 1:4、5.などの聖句は、創造が始まる前でさえ神がすべての被造物の将来を予知し、それをあらかじめ定めておられた証拠として引き合いに出される。 言うまでもなく、この見解が正しいとすれば、それは前述のすべての要素と調和していなければならない。その要素の中には、聖書が示している神の特質、規準、目的、さらには神が被造物を扱われる際の義にかなった方法などが含まれる。(Re 15:3、4)その点を踏まえれば、そうした予定説の見解の意味するところを正しく考慮することができるだろう。 この概念によれば、神はみ使いや地の人を創造するに先立って予知力を行使し、そのような創造の結果として生じる事柄をすべて予知し、予見しておられたことになる。そうした事柄の中には、霊の子たちの一人が反逆し、それに続いてエデンで最初の人間の夫婦が反逆すること(Ge 3:1‐6; Joh 8:44)、また、そうした反逆が今日に至るまでもたらしてきた、またこれからもたらすあらゆる悪い結果が含まれる。さらには、歴史に記録されてきたすべての悪(犯罪、不道徳、圧制、その結果としての苦しみ、偽りや偽善、偽りの崇拝や偶像礼拝)は必然的に、神が極めて細かな点まで将来を予知しておられたという意味で、創造の始まる前から、神の思いの中では存在していたことになる。 人間の創造者が実際にご自分の力を行使し、人間の創造以来歴史上生じてきた事柄をすべて予知しておられたとすれば、結果として後に生じた諸悪はみな、『人を造ろう』と言われた時に神が承知の上であえて開始させたことになってしまう。(Ge 1:26)こう考えてみると、予定説の概念の合理性と一貫性は疑わしくなる。弟子ヤコブが、無秩序や他のいとうべきものは、天におられる神に由来するのではなく、「地的、動物的、悪霊的」な源から来ると述べていることからすれば、特にそう言える。―Jas 3:14‐18.
2004年12月04日
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ならば、次のような疑問が生じるのではないだろうか。神は予知力を限りなく、無制限に行使されるのか。神は、霊者であれ人間であれ、すべての被造物の将来の行動を何もかも予見したり予知したりされるのか。また、神はそのような行動をあらかじめ定めるばかりか、すべての被造物の最終的な運命がどのようなものであるかを、場合によっては彼らが存在する前から予定するようなことをされるのか。 それとも、神の予知力の行使は選択的で任意のもの、つまり、予見や予知を行なうことにした事柄はそのようにされ、予見や予知を行なわないようにした事柄はそのようにされないということなのか。また神は、被造物のとこしえの運命を、被造物の存在に先立って決定されるのではなく、被造物の生き方や、試みのもとで実証した態度に関する裁きを行なった後に決定されるのだろうか。これらの質問に対する答えは、必ず聖書そのものから、また、み子キリスト・イエスを通して啓示された事柄を含め、神の行動や被造物に対する神の扱い方に関して聖書が提供している情報から得られるはずである。―1Co 2:16.
2004年12月03日
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神に関係した予知やあらかじめ定めることに関する問題を理解するには、幾つかの要素をどうしても認めなければならない。 まず、神の予知能力やあらかじめ定める能力は聖書の中で明確に述べられている。神ご自身、裁きや処罰に関する行動のみならず救いや救出に関する出来事をも予知し、あらかじめ定め、次いでそのような事を実現させるこの能力について、それをご自分の神性の証拠として述べておられる。神の選ばれた民はこれらの事実の証人である。(Isa 44:6‐9; 48:3‐8)神によるこうした予知やあらかじめ定めることが、真の預言すべての基盤となっている。(Isa 42:9; Jer 50:45; Am 3:7、8)神はご自分の民に敵する諸国民に対し、彼らの力ある者たちや偶像の神々のいわゆる神性に関して証拠を提出するよう挑んでおられる。救いや裁きに関する同様の行動を予告し、次いでそれを生じさせることにより、そのような証拠を提出するよう要求しておられる。この点で彼らが無能であることは、その偶像が『単なる風であり、実在しないものである』ことを証明している。―Isa 41:1‐10、21‐29; 43:9‐15; 45:20、21. 考慮すべき2番目の要素は、神の理知ある被造物の倫理的に自由な行為能力である。聖書は、神が理知ある被造物に、自由選択の特権と責任、つまり倫理的に自由な行為能力を行使する特権と責任を与えておられること(De 30:19、20; Jos 24:15)、またそのようにして被造物が自分の行動に責任を取らなければならないようにしておられることを示している。(Ge 2:16、17; 3:11‐19; Ro 14:10‐12; Heb 4:13)したがって、そのような被造物は単なる自動装置やロボットではない。人が倫理的に自由な行為者でないとすれば、「神の像」に創造されたとは言えなくなる。(Ge 1:26、27.)であるから論理的に言って、神の予知(および、あらかじめ定めること)と、理知ある被造物の倫理的に自由な行為能力との間に矛盾があってはならないはずである。 考慮しなければならない3番目の要素は、見過ごされることのある点であるが、神の道徳規準や特質という要素である。その中には、公正、正直、公平、愛、憐れみ、親切などが含まれる。したがって、神の予知力や物事をあらかじめ定める力の行使に関してどんなことを理解するにしても、その理解はこれらの要素の一部だけではなく、そのすべてと調和していなければならない。明らかに、神が予知することは何でも必ず生じなければならず、それゆえに神は、「無い物を有るかのように」呼ぶことができるのである。―Ro 4:17.
2004年12月02日
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予知とは、物事が起きる前、あるいは存在する前にそれを知ることを意味する。先見とも呼ばれる。これは聖書の中では、専らではないまでも、おもに創造者である神やその目的と関係がある。あらかじめ定めるとは、物事を前もって定める、決める、もしくは決定すること、またはあらかじめ定められている特質や状況を意味する。 原語の言葉 一般に「予知する」、「予知」、「あらかじめ定める」などと訳される言葉はクリスチャン・ギリシャ語聖書に幾つかあるが、ヘブライ語聖書でも同じ基本的な考えが表現されている。 「予知」という語は、ギリシャ語プログノーシス(「前」という意味のプロと、「知識」という意味のグノーシスに由来)の訳語である。(Ac 2:23; 1Pe 1:2)これと関連のある動詞プロギノースコーは、人間に関する二つの事例の中で使われている。一つは、ユダヤ人がパウロと『以前から面識があった』(パウロを前もって知っていた)というパウロの陳述の中で、もう一つは、ペテロが第二の手紙の中で語りかけた人々の「あらかじめ知っている」事柄に言及した箇所で使われている。(Ac 26:4、5; 2Pe 3:17)この後者の場合、そうした予知が無限のものでなかったことは明らかである。つまり、それらのクリスチャンは、ペテロが論じていた将来の出来事や事態の時間や場所や状況に関する詳しい事柄をすべて知っていたわけではない。しかし彼らは、予期すべき事柄の大まかな概略を確かに把握していた。その概略は、神がペテロや聖書の著作に寄与した他の人たちに霊感をお与えになった結果として授けられたものだった。 「あらかじめ定める」という語は、ギリシャ語プロオリゾー(「前」という意味のプロと、「境界を定める、もしくは決める」という意味のホリゾーに由来)の訳語である。(英語の“horizon”という言葉は、ギリシャ語の「限定する」あるいは「制限する」という意味のホリゾーンという言葉の音訳である。)ギリシャ語動詞ホリゾーの意味を示す一例は、「人の子」が、「定められた[ホーリスメノン]ところにしたがってその道を行く」という、イエス・キリストご自身の言葉である。パウロによれば、神は「定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました[定められた、ホリサス]」。(Lu 22:22; Ac 17:26)この同じ動詞は、弟子たちが困窮している兄弟たちに救援を送ることに「決めた[ホーリサン]」時のように、人間の決定に関しても使われる。(Ac 11:29)しかし、クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で、あらかじめ定めるということに特に言及している箇所は、神に関してのみ当てはまる。
2004年12月01日
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