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「若者の肥満はまるで流行病のようだ」。―S・K・ワングヌー。インドのデリー、インドラプラスタ・アポロ病院の内分泌科医長。 上記の言葉が示すように、インドの多くの中産階級の家庭で生活様式が変わり、十代の若者にも肥満が生じる結果になっている。この現象は世界規模の流行で、多くの国々に広がっている。体をあまり動かさない人やジャンクフードばかり食べている人が増えているためである。青年期医学の専門家は、「[英国の]次の世代は……史上最も肥満であろう」と述べた。ガーディアン・ウィークリー紙は次のように伝えている。「肥満はかつておもに大人の問題だった。しかし英国の若年層は今、食習慣や座っていることの多い生活様式により、当初は米国で見られた様々な問題を抱えるようになっている。長期にわたる肥満は、糖尿病、心臓疾患、がんなどの病気にかかりやすくする」。 「フード・ファイト」という本の著者は、「栄養不良ではなく過剰な摂取が、世界の主要な食糧問題になっている」と言う。ドン・ペックはアトランティック・マンスリー誌に、「現在、約900万人のアメリカ人は『肥満症』で、大体50キログラム以上太りすぎている」と書いている。米国では、太りすぎの関係した病気で年におよそ30万人が早死にしている。これは「喫煙に次いで多い」数である。「肥満はやがて飢餓や感染症を抜いて、世界の保健衛生の最重要課題になるかもしれない」とペックは見ている。であるから、肥満の脅威を無視してよい人がいるだろうか。ウォルター・C・ウィレット博士は、「食べて飲んで健康でいよう」という本にこう書いている。「喫煙するかどうかを別にすれば、将来の健康の最も重要な指標は、体重計に表示される数字である」。ここでのキーワードは将来の健康である。
2004年08月31日
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内面的な美しさは人を引きつけるだろうか。結婚して10年近くになるある妻はこう言う。 「これまでずっと、わたしに対する夫の正直さや誠実さに引かれてきました。主人の生活で最も大切なのは神に喜ばれる者となることです。思いやりのある、愛の深い人であるのはそのためです。何かを決めるときもわたしのことを考えに含めてくれるので、大切にされていると感じます。本当に愛してくれているのが分かります」。 ある夫はこう語る。 「妻はわたしから見て美しい人です。外見の魅力だけではなく、人格的な美しさのゆえに妻への愛は深まっています。妻はいつも他の人のことを考え、みんなが気持ちよく過ごせるように気を配ります。クリスチャンとして大切な特質を持つ女性です。一緒にいると心地よく感じるのです」。 見栄えを重視するこの世界にあって、表面に見える以上のものに目を留める必要がある。“理想の”容姿になることは、不可能ではないにしても難しく、仮になれたとしてもごく限られた価値しかないことを知る必要がある。しかし、真の内面の美しさとなる、望ましい特質を培うことは可能である。 聖書は次のように述べている。「麗しさは偽りであることがあり、美しさもむなしいものとなることがある」。そして、こう警告してもいる。「きれいであっても、分別から離れて行く女は、豚の鼻にある金の鼻輪のようだ」。―Pr 11:22;31:30. 神の言葉は、わたしたちが「もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした、心の中の秘められた人」を大切にするよう助けてくれる。そのような内面の美しさこそ外面の美しさよりはるかに重要である。しかも、だれもが身に着けることのできる美しさなのである。
2004年08月30日
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人は、自分が魅力的と思う人に引きつけられる。では、何が人を魅力的にするのか。結局のところ、遺伝的に受け継いだ体の特徴を変える点で無理なく行なえることには限りがある。しかも、外見の美しさは、はかないもの。今のところ、老化や病気の影響を受けない人はいないからである。ではもっと大切な美しさ、もっと長く続き、身に着けることのできる美しさがあるだろうか。それは内面の美しさである。外見がいくら美しくても、それによって傲慢さや不忠実さが覆われることはない。
2004年08月29日
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“理想の容姿”を目指して、あるいはできるだけきれいになるため、美容外科手術を受ける人もいる。この分野の医療は次第に費用が下がり、治療の種類も増えている。この美容手術はどのように始まったのだろうか。 ブリタニカ百科事典によると、現代の形成外科の技術は第一次世界大戦後、戦傷者の傷あとの修復手術とともに始まった。以来その技術は、やけど、けが、先天性奇形などによる重度の欠損や損傷の修復手術でも役立ってきた。しかし、同事典も指摘しているように、形成外科手術はしばしば「単に容姿を美しくする目的で健康な人に施されて」いる。例えば、鼻の整形、顔や首のしわ取り、耳を小さくする、腹部や腰回りの脂肪除去、体の特定の部位を豊かにする、へそをもっと“魅力的”にするといった手術まである。 だが、健康な人が容姿をもっと美しくしたいという理由で何かの危険を冒すことまでするのはどうだろうか。そのような手術にはどんな危険があるのか。メキシコ形成・美容・再建外科協会の事務局長アンヘル・パパドプロスは、訓練を受けていない人がこの種の手術を行なって大きな被害の生じることもある、と説明している。体形をすっきりさせるために危険な物質を投与するクリニックもある。2003年初めに、ある新聞が伝えたところによると、カナリア諸島ではエステティックサロンの不衛生な状態が問題になっている。そこで手術を受けた幾百人もの女性が被害に遭った。 男性も“理想の容姿”の追求に夢中になることがある。ある人たちはスポーツ施設で多くの時間を費やし、自由な時間のほとんどすべてを、体形を良くしたり体を鍛えたりするために当てている。ミレニオ誌は、「長期的に見ると、運動に病みつきになって社会的活動や他の人たちとの関係がおろそかになる」と述べている。筋骨たくましくなりたくて、ステロイドのように、体に有害な薬剤を使う人も少なくない。 容姿を気にしすぎるあまり過食症や拒食症などの摂食障害に陥った若い女性もいる。短時間で驚くほどやせることをうたっていても、信頼できる保健機関から認められていないダイエット食品を取る人もいる。そのような製品は深刻な影響を及ぼしかねない。 容姿を気にしすぎると身体面で危険が生じるだけではない。米国ブラウン大学のキャサリン・フィリップス博士によると、容姿をあまり気にすると、身体醜形障害と呼ばれる精神的な病気になることがある。その結果、自分の容姿に欠点があると思い込み、それが頭から離れなくなる。50人に1人が発症するとも見られている。この病気の人は、「自分は醜いと信じ込んで友人や家族との接触を避けることがある」と、博士は言う。「うつ病になり、自殺を考えるようにも」なる。そしてフィリップス博士は、一人のきれいな少女を例に挙げている。この少女はにきびが少しできただけなのに、顔中ににきびのあとがあると思い込み、人前に出るのを嫌がって、中学2年生で学校をやめてしまった。 では、“理想の容姿”になるために精神的、身体的健康を犠牲にしなければならないほど、外見は重要なのだろうか。あなたは努力して身に着けるべき、もっと大切な美しさがあると思われるだろうか。
2004年08月28日
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この考えを推進する点で大きな役を担ってきたのはメディアである。美しさの追求に潜む落とし穴はそこに端を発す。 広告板やテレビで商品の宣伝をする人たちは大抵、すらりとした人や、筋骨たくましい人である。そのようなイメージによってある種の安心感や達成感を売り込もうとしているのである。同じことは、映画やテレビのスターにも言える。 こうしたメッセージは、若者を含む一般の人々にどんな影響を与えているだろうか。体形に関するイメージを取り上げた最近のある記事によると、「平均的なアメリカ人女性は高校を卒業するまでにテレビを2万2000時間以上見る」ことになるそうである。そのかなりの時間、“完璧な”スタイルの魅力的な女性の映像を見せつけられる。「そうした映像を繰り返し目にしているうちに、その理想的体形と名声、幸福、愛、成功などと結び付けて考えるようになる」と、自分はやせなければならないという気持ちになった、と答えた少女が47%もいたのも不思議ではない。しかし、実際に太りすぎと思われる少女は29%だけだったのである。 ファッション業界も、人の持つ美しさの概念に強い影響を与えている。メキシコ市でモデルとして働くベネズエラ人のある女性はこう言う。「わたしたちの仕事はきれいに見せることです。今の時代、それはほっそりしていることです」。フランスのあるファッションモデルの女性はこう語る。「スリムでいるようにと周囲から強く求められるわけではありません。自分でそれを求めているのです。それが世界的なトレンドです」。若い女性たちを対象にした調査によると、その69%が、美しい容姿についての自分の見方は雑誌のモデルに影響されていると答えた。 もっとも、“理想体形”の影響を受けやすいのは女性だけではない。メキシコのエル・ウニベルサル紙は、「男性用の美容関連商品がこれほど多く出回ったことはかつてない」と述べている。
2004年08月27日
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真の美しさを判断する基準とは何だろうか。「美は見る人しだい」ということわざがあるそうだ。確かに、美しさの感覚は一般に主観的なものである。しかも、何を美しいと見るかは、文化や時代によって大きく変化してきた。 米国コーネル大学の栄養学准教授ジェフリー・ソバルはこう指摘している。「19世紀にほとんどの社会では、太っている人は社会的地位が高いと考えられた。かっぷくがよいのは繁栄と健康のしるしとされたのに対し、ほっそりした体つきは貧しくて食事が取れないことを意味した」。そのような概念は当時の多くの芸術作品に表われていて、作品のモデル―ほとんどは女性―は腕も足も背も腰回りも肉づきのよい人たちだった。作品の多くは、その当時、美の典型とされた実在の人々を描いたものである。 人の美しさは単に太っているかやせているかで決まるものではないが、かつての概念は今日でも一部の土地に見られる。南太平洋のある地域では、肥え太っていることが今も評価されている。アフリカのある土地では、結婚式前の女性が“肥育所”に入れられ、魅力的な花嫁になるためにこってりした食事をたっぷり与えられるそうである。ないじぇりあのあるナイトクラブの支配人はこう言う。「アフリカの女性は大抵がっちりした体形をしています。……それを美しいと考えています。わたしたちの文化ではそうなっています」。ラテンアメリカの文化でも昔から、がっしりした体格は豊かさと成功のしるしとして評価されている。 もっとも他の多くの国では、逆の見方が一般的になっている。なぜなのか。交易の拡大と工業化の進展によって豊富な食糧が広く流通し、かつては裕福な人々しか手に入れられなかったものを“下層”の人々も食べられるようになったため、と考えられている。やがて、ふくよかな体形を礼賛する見方は次第に姿を消していった。しかも、太りすぎを大食と結び付ける宗教的戒めもあるため、がっしりした体格に対する悪いイメージが作られてきた。さらに、肥満と関係のある健康上の危険が科学的にも明らかにされてきた。こうした様々な要素によって美しさに対する一般の見方は変わり、ここ何十年かの間に世界の多くの地域ではスリムな体形を理想とする考えが広まった。
2004年08月26日
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彼女は社会的にも成功している若い女性で、感じの良い家族に恵まれている。でも、幸福だとは思っていない。なぜか。自分の容姿に不満を感じているのである。家族からどれほど褒められても、自分はちっともきれいではないと思っていて、そのことで落ち込んでいる。 彼は良い家柄の青年で、幸福の条件はそろっているように見える。それなのに、自分のような者に良い相手は見つからないと思っている。どうしてか。自分はさえない容貌で、不器量だとさえ感じているのである。ふさわしい女性で、こんな自分に注目してくれる人などいないと思い込んでいる。 8歳のある男の子は学校が好きで、なかなか社交的な子である。友達とも楽しく遊んでいる。しかし、友達に太っちょとからかわれて、よく泣く。 これらは珍しい例ではない。単に自尊心が弱い人たちの問題として片づけられない面もある。実際、容姿のせいで人に受け入れてもらえない辛さなど、だれも味わいたくはないだろう。 とはいえ、この社会には、容姿を重く見すぎる傾向がある。実際、人の成功が顔立ちの良さで決まるかに思えることも少なくない。例えば、容姿端麗な人は就職の機会が広いように見える。「中南米カリブ海地域女性健康ネットワーク」の理事の一人、ピラル・ムリエダスは、女性にとって「見た目の良さは成功の重要な条件」と述べている。ラウラ・マッルティネス博士によると、「就職時には結局のところ容貌が大いに物を言う」ことを女性たちは知っている。 もちろん男性の中にも、“完全な”肉体を作ろうと躍起になっている人がいる。確かに、男性でも女性でも、美しくなるためにどんな努力も惜しまないという人は多くおり、食事を抜き、理想の顔や体型のために痛い手術を我慢する人もいる。そのように奮闘することには本当に価値があるのだろうか。何の危険もないだろうか。
2004年08月25日
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断られたという事実を受け止めるには時間がかかるかもしれない。時の経過とともに愛情が深まったのだから、その過程を逆転させるのにも時間が必要である。恋愛感情は電灯のようにぱっと消せるものではない。日によっては、その感情に押しつぶされそうになるかもしれない。辛抱強くあってほしい。時がたつにつれて、そうした気持ちも消えていくだろう。しかし、もっと早く消えてほしいなら、気持ちを募らせるようなことを避ける。 例えば、思いを打ち明けた時の自分の言葉やしぐさを一つ一つを思い返して、あれこれ考えるのはやめるべき。そうしないと、彼は本気で断わったのではないとか、別の近づき方をすればうまくいくのではないかとか思うようになるかもしれない。相手の気持ちを変えることはできないという事実を直視すべきであり、おそらくどんな近づき方をしたとしても、返ってくる答えは同じだっただろう。 空想もわなとなる。自分とその青年がいつまでも幸せに暮らす姿を思い描くとする。そうした空想は痛みを和らげてくれるように思えるかもしれないが、現実ではない。空想から覚めると、喪失感とともに苦悩が再び頭をもたげる。快い気分のあとの耐え難い心痛は、その循環を断とうと努力しない限り長く続くかもしれないのである。 空想を頭から払いのけるようにすることは賢明であると言える。空想しそうになったら、立って散歩に出かけてみるのもいいかもしれない。体を使うなどして、考えを別のところに向ける。気落ちさせる事柄ではなく、励みになる事柄に思いを集中する。(Php 4:8)最初は難しいかもしれないが、やがて闘いに勝って心は穏やかになるだろう。 親しい友人の支えも助けとなる。とはいえ、ある女性はこのように勧める。「友達が同じ年の独身で、結婚を望んでいる人ばかりならよくありません。物事を客観的に見るように助けてくれる年上の友達も必要です」。
2004年08月24日
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望みがかなわないことが分かった今、その青年を見つめ直すのは良いことかもしれない。相手に夢中になっている時は、他の人の目に明らかな性格上の欠点や霊的な欠点が見えないこともある。例えば、彼はあなたの募る思いに気づかなかったのだろうか。それとも、交友を続けることによって故意にあなたの思いが募るようにしたのだろうか。もし後者であれば、思いやりと同情心のある夫になる心の準備ができていないのを示していることになるのではないだろうか。そうであれば、つらいとしても、そのことを知って良かったことになる。 一女性は、ある青年から特別の関心を示されるようになり、胸が高鳴った。それで相手の意向を尋ねると、交際するつもりはないと言われた。失意に対処するのに何が助けとなったのだろうか。彼女はこう言う。「感情ではなく理性で考えることは、気持ちを整理するのに役立ちました」。彼女は、夫たちに対する聖書の要求を思い起こし、青年がその要求を満たしていないことに気づいた。それは悲しみを乗り越える助けとなった。 また他の女性もある青年との間で、似たような経験をした。そして後に、青年の取った行動が未熟さの表われであることに気づいた。結婚する心の準備が青年にできていないと思うようになったのである。事実そうであったのだが、それに気づくことができたのである。 もちろん、言うまでもなく、大抵の青年は立派に振る舞い、断わるにしても正当な理由でそうするだろう。そうではあっても、断わられた方はその後の気持ちにどう対処できるだろうか。次回考えてみる。
2004年08月23日
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聖書は夫に、『自分のように妻を愛する』ようにと命じている。(Eph 5:28)また、妻に『誉れを配する』ようにとも命じている。(1Pe 3:7)その青年はあなたを友達として大切に思っているだろう。しかし断わることによって、あなたを妻として愛し、誉れを配する心の準備が今のところできていないことを示したのである。彼にはその選択をする自由がある。こう考えてみてはいかがだろうか。彼がそのように感じているのであれば、本当にあなたにとって良い夫になるだろうか。あなたを愛し大切にしようとしてくれない人と一緒になった場合の、満たされない気持ちを想像してみてほしい。
2004年08月22日
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あなたは彼を友達だと思っていた。しかしある時から違った目で見るようになる。彼の礼儀正しさ、あるいは自分に話しかけた時の笑顔に引かれたのかもしれない。いずれにせよ、時がたっても彼は何の恋愛感情も示してこない。それで友達以上の間柄になる気持ちがないかどうか尋ねることにした。しかし、親切ながらもはっきり断わられ、深く失望する。 当然ながら、彼女は傷ついた。しかし過敏に反応せず、正しい見方をするように努めるべき。確かに、彼はあなたとの交際に関心がないと言った。だからといって、人としてのあなたの価値が変わるわけでも、みんなから愛されて大切にされている事実が消えてなくなるわけでもないことを忘れないようにしてほしい。彼が断わることに決めたのは、個人的な目標や優先順位のためで、あなた個人とそれほど関係ないことかもしれないからである。 自分はダメな人間だと感じたり、結婚に向かないのではないかと心配になったりすることがあるかもしれない。しかし、今回その青年に“ぴったり”でないようだからといって、ほかの人に“ちょうどぴったり”である可能性がなくなるわけではない。それで、自分に合う人を探そうとしたことを失敗とみなすのではなく、一つの有益な結果を生み出したと考えるようにしてみてはどうだろうか。その青年が自分に合わないことが分かったのである。なぜそのように言えるのか?次回考えてみよう。
2004年08月21日
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最初のステップは、親自身としての自分の生き方と交友関係を考慮することである。あなたやあなたの友人たちが追い求めている目標やライフスタイルは、高潔なもの、利他的なものだろうか。霊的なもので、物質を中心とはしないものだろうか。ある父親はこう述べている。「行ないは言葉よりも雄弁です。子どもは、親、親の友達、その子どもの態度や行ないに注意を向けるものです」。 多くの動物でさえ、本能的に、そして時には激しく子どもを危険動物から守る。クマの研究家によれば、「母グマは、危険と察知すれば何からでも小熊を保護するとされて」いる。人間の親がクマに劣ってよいだろうか。ある若者はこう語っている。「わたしの両親は、聖書から筋道を立てて諭してくれました。ある種の交友は避けたほうがよいことを理解させてくれました。最初は、『ひどいよ!それじゃ友達なんかできやしない!』と言いましたが、時たつうちに親の言葉の正しさが分かりました。両親の辛抱強さのおかげで守られました」。 さらに、子どものために、良い手本になる人や、子ども自身が健全な目標を定めるのを助けてくれる人と交わる機会を積極的に設けてみてほしい。 親の皆さんがそうした努力を払うなら、お子さんにとって家庭は、健全な友情が芽生えて育つ苗床のような場所となるだろう。
2004年08月20日
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子どもは、まず家庭で多くのことを学ぶが、友達関係についても同じである。理想的には、おもに家族生活の中で、仲間を求めるごく幼い子どもの欲求が満たされるのがよいだろう。しかしたとえそういう環境にあっても、子どもの考え方、感じ方、振る舞い方は、家族外の人との接触を通して大きく影響される。簡単な例として、移民の子どもたちの多くが他の子ども達と一緒に過ごすだけで新たな言語をいとも簡単に習得することについて考えてみていただきたい。 親の皆さんには、友達を賢く選ぶようにお子さんを助ける特別の機会がある。幼い子どもや思春期の若者はまだ、親の導きがないと賢明な判断を下せない。とはいえ、一つの問題がある。若者はたいてい、親や年上の人よりも同年代の仲間のほうに親しみを感じることである。 一部の専門家によれば、十代の若者が親よりも友達に引かれる一因は、多くの親が親としての道徳上の権威をはっきり示せないでいることにある。親は、子どもと心を通わせ、常に子どもとかかわりをもてるようにし、親としての責任を果たさなければならない。どのようにすればよいのだろうか。 家族療法の専門家ロン・タフェル博士は、青年期の若者の扱いに不安を感じている多くの親と面会している。同博士は、多くの親が子どもに対して本当に親としての役割を果たすというより、むしろ「メディアが次々にもてはやす子育て方法に振り回されている」、と書いている。なぜそのような子育て法に頼るのだろう。「子どものことを十分に理解しておらず、子どもと向き合って心を通わせることができない」からである。 とはいえ、どんな場合にもそうなるわけではない。子どもは家庭で必要が満たされないと友達を頼るようになる、という点を親は理解しなければならない。子どもは何を必要としているのか。タフェル博士はこう述べている。「若者が必要とするものはいつの時代も同じである。しつけ、認めてもらうこと、安心感、明確な規則、何が期待されているかをはっきり示してもらうこと、家族の一員という実感である。残念ながら現代のほとんどの青年男女は、大人からこうした必要を満たしてもらっておらず、家族と一緒にいても本当に“くつろいで”はいない」。
2004年08月19日
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望んでいても、待っていても、こうした日記を読んでも、それだけで本当の友達ができるわけでないことはだれにでも分かること。 友達ができることは、自転車に乗れるようになるのと似ていると、今までご紹介してきた記事は例えている。どちらの技術も本だけで学ぶことはできない。出かけていって練習する必要がある。たとえ何度か転ぶとしてもそうする。あなたは、本当の友達を作ろうと心に決めておられるだろうか。では、あきらめてはならない。利他的な姿勢で自分から近づけば友達を作ることができるだろう。
2004年08月18日
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良い友情関係を持つために、必ずしも新しい友達を作る必要はない。大切にすべき仲間がすでにいるなら、その友情関係を強めるためにできる事柄を考えるのはどうだろうか。長年の友達は非常に貴重な宝物のようである。まさに大切な宝を扱うようにして、友達に接するべき。ずっと友達でいてくれたことを決して当たり前とみなすことがないようにしたいものである。 何といっても、真の幸福は、また真の友情も、自分自身や自分の時間や持つものを与えることによって得られるのである。その報いは、払った努力や犠牲をはるかに上回る。友達を作る際に自分のことばかり考えているなら、決してうまくかないだろう。だれと友達になるかを考える際、自分が高く評価する人や何かを得られる人だけを選ぶことのないようにしたいものだ。他の人から見過ごされがちな人や友達作りの苦手な人も含めることができるだろうか。「何かの機会にみんなで集まろうとする時、一人で寂しそうな子がいるなら、一緒に加わるように声をかけます。こう言います。『一人でずっと家にいるの?よかったら一緒に来ない?仲良くなりましょうよ』」。と、あるフランスの若い女性は述べている。 逆に、友達になろう、と親切な声をかけられたら、すぐに断わらないでいただきたい。「以前に自分が除外されたという思いがあると、少し腹立たしい気持ちになることがあるかもしれません。『どうせ、友情なんてわたしにはどうでもいいことだわ』と考えるかもしれません。そして無口になり、人を避け、自分のことばかり考えるようになります。友達を見つけようとする代わりに、殻に閉じこもってしまうのです」。と、あるイタリアの若い女性は忠告している。理由のない不安や利己的な関心事のために、自分のほうから友達になるのを避けてしまうのではなく、自分の気持ちを相手に話すようにする。友達になろうとしてだれかが関心を示してくれるなら、大いに感謝すべきである。
2004年08月17日
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年齢の違う友達同士は、相互の人生を豊かにする。若い人たちが自分の経験から語った言葉を幾つか紹介したい。 「しばらく前に、あるご夫婦と親しくなりました。わたしが自分のことを打ち明けると、うれしいことに二人もいろんなことを話してくれました。わたしが若いというだけで軽く見られるようなことはありませんでした。それで、もっと親しくなりたいと思いました。この二人との友情は、問題を抱えた時に本当に助けになります。同じ世代の女の子に問題を話すと、あまり考えずに、こうしたらいいと言われることがあります。でも年長の友達には、わたしたち若者にはない経験や識別力、そしてしっかりした平衡感覚があります。そのような友人からの助けによって、良い判断を下すことができます」。 「交わりの時には、若い人だけでなく何人かの年上の人にも加わってもらいます、個人的に感じる点ですが、年長の人と若い人が一緒に過ごすと、その日の終わりにはみんなが本当に元気づけられているようです。物の見方がそれぞれに違うのでとても楽しいです」。 年長の皆さんも、若い人たちに積極的に近づくことができるだろう。これらの言葉が示しているように、多くの若い人は、皆さんの経験の豊かさを高く評価しており、一緒に交わることを喜んでいる。夫を亡くした80代のある女性は、こう述べている。「若い人たちとの接触を保つよう、自分のほうから行動しています。若い人たちのエネルギーと活力は、わたしの気分を高揚させてくれます」。そのような相互の励まし合いから生まれる良い影響は、さらに広範囲に及ぶことがある。成人して充実した生活を送っている若い人たちは大抵、自分の成功は、もっと若かった時に模範を示してくれ、良いアドバイスを与えてくれた年上の友達によるところが大きい、と言う。 わたしもそのような年上の友達を持ちたかった…今、考えてみれば母がそうだったと思う。親であっても良い友として互いに築き上げることは出来るのである。あの時話した数々の霊的会話や傾聴の姿勢を示してくれた母はわたしにとって大切な友人であった。
2004年08月16日
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友達は自分と好みがぴったり同じでなければいけない、と考える人がいる。ある小さな男の子は、「ぼくは、チーズケーキが嫌いな子とはぜったい友達になれないよ」と言った。確かに友達同士は、理解し合えるだけの共通の部分が必要であり、道徳的また霊的価値観が基本的に同じであることは最も大切な点である。とはいえ、個性や背景まで一致していなければならないという意味ではない。実際には人生経験の違いのゆえに友情が深まり、互いの益となることがある。 聖書中には、現代にも通用する二つの友情物語があるその一つの例はヨナタンとダビデである。その友情は、神と神の原則に対する専心の念が共通の基盤となっていた。注目できるのは、年齢や背景の大きな違いを越えて築かれた友情であったという点である。このことから、友情について別の事柄を学べる。つまり、年齢差のある友達同士は、互いに多くを与え合うことができるということである。
2004年08月15日
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すでに知っている人と友達になりたいと思う場合、『その人の友達はどんな人たちだろう』と考えるかもしれない。どんな人と親しい交友があるかを知ると、その人について多くのことが分かる。また、その人の周囲にいる円熟した尊敬できる大人は、その人のことをどう感じているだろうか。さらに、友達になれそうなその人が自分にどのように接してくれるかだけでなく、他の人たちに、とりわけ、何の利益も関係しない人たちにどう接するかを考慮することも賢明だろう。正直さ、誠実さ、辛抱強さ、思いやりといった特質を、いつでもだれに対しても示す人でないのなら、あなたに対して必ず好意的に接してくれるとどうして言えるだろう。 真の人となりを知るには、辛抱強さ、巧みさ、それに時間をかけて普段のその人を監察することが求められる。「人の心にある計り事は深い水のようだ。しかし識別力のある人はそれをくみ上げる者となる」。これは聖書の述べている言葉である。(Pr 20:5) 友達になれそうな人とまじめな内容の話をする必要がある。本当の人格や動機、価値観が分かるような話をすることが必要なのである。その人はどんな人だろうか。親切か、冷たい人か。基本的に積極的で明るい人だろうか、否定的で皮肉っぽい人だろうか。利他的な人あるいは自分の益だけを考える人のどちらか。信頼できる人だろうか、不実なところがあるだろうか。あなたの前で他の人を批判する人なら、あなたについてもほかの場所で悪く言うのではないだろうか。「心に満ちあふれているものの中から口は語る」。(Mt 12:34)その人の口から何があふれ出るかを聴くのは良いことである。
2004年08月14日
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ずばり、高い道徳的価値観。 まず、私自身がしっかりした価値観を持たなければならないことは言うまでもない。善悪を、つまり何が正しく何が間違いかをわきまえ、常に高い道徳規準を守る必要がある。 「鉄はまさしく鉄によって研がれる。同じように、ひとりの人が他の人の顔を研ぐ」。聖書の別の格言である。(Pr 27:17)鉄のような道徳的強さを持つ二人が友情で結ばれるなら、相互に成長し、友情のきずなは強まってゆく。 ある若者はこう述べている。「僕にとって本当の友達とは、話を聴き、親切な言葉をかけ、愚かなことをした僕を叱ってくれる人です」。最良の友は、どんな年齢の人であれ、正しい道からそれないように助けてくれる人である。聖書は、「友人から受けた傷は、誠実さの証拠」と述べている。
2004年08月13日
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ある若い女性は、苦しい胸中を打ち明けた。友達と思っていた男性が、実は殺人犯だったのである。『自分の信頼した人がそんなことをするなんて、いったいだれを信頼できるの』と言った。それを聞いた人は彼女に、その男性がどんな価値観を持つ人か知っていたか、と尋ねたところ彼女は「どういう意味?」と言った。「価値観」と言われても何を聞かれているかが分からなかったのである。わたしたちはどうだろうか。自分の友達がどんな価値観を持つ人かを知っているだろうか。 この女性の経験が示すように、この点を理解しているかどうかは、文字通り生死を分ける問題になりかねない。聖書の格言はこう述べている。「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり、愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」。(Pr 13:20)しかし先の女性のように、ただ“フィーリングが合う”だろうか、一緒にいてどんな気分になるだろうか、ということだけで友達を選ぶ人が多くいる。一緒にいて楽しいと感じる人と共にいたいと思うのは自然なことだが、それだけを基準に友を選び、その人の実際の内面的特質について、ほとんど、あるいは全く考えないなら、あとで失望させられるかもしれない。人がしっかりした価値観を持っているかどうかはどのように分かるのだろうか。
2004年08月12日
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友達ができたら、その人との友情を当たり前のものと考えてはならない。時間的または距離的に離れているとしても、友達同士は互いのことを考え、互いのために祈る。たまにしか会えなくても、すぐに互いのことが分かる。特に問題や何かの必要がある時に、友達の助けになってあげることは大切。友達が問題を抱えているなら、ほとんどの場合、身を引いてはならない。あなたが一番必要とされている時かもしれないからだ。「真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり、苦難の時のために生まれた兄弟」なのである。さらに本当の友達は、何か誤解が生じたとしても、すぐに解決して相手を許す。困難や障害があるからといって相手を見捨てることはしない。 利他的な動機と積極的な態度で他の人に近づくことにより、あなたも友達を作ることができる。とはいえ、“どんな”人を友達とするかも重要である。
2004年08月11日
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当然ながら、人と人が知り合うと、互いの長所だけでなく短所もよく見えるようになる。そのことゆえに友達になることをためらうべきではない。友達になれそうな人に多くを期待しすぎる人がいる。良いところばかりであってほしいと思うのであるが、それは無理というものである。完全な人は一人もおらず、人に完全さを要求するべきではない。わたしたちは、不完全さを受け入れて許してくれることを友達に期待する。友達の弱点についても、勝手な想像をしたり大げさに見たりすることなく、むしろ大目に見ようとするべきではないだろうか。著述家のデニス・プラーガーは、「欠点のない友達(つまり、決して不平を言わず、どんな時も愛してくれ、絶対にがっかりさせられることのない友達)と言えば、それはペットだけである」と述べている。大の親友としてペットではなく人間の友達が欲しいのであれば、『愛によって多くの罪を覆うように』という助言に留意しなければならない。―1Pe 4:8. 友情は喜びを倍にし、悲しみを半分にする、と言われてきた。とはいえ、現実的であるためには、友達はどんな必要も満たしてくれ、あらゆる問題を解決してくれる、などと期待すべきではない。それは、友情を利己的に見ることにほかならない。
2004年08月10日
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長く続く楽しい交友関係には、互いへの敬意が欠かせない。(結婚関係も同じ)それには、相手の感情を配慮することも含まれる。好みや意見が友達と異なるとき、相手が気を利かせて自分に合わせてくれたらと思うことがないだろうか。では、わたしたちもそのようにするべきではないだろうか。 敬意を示す別の方法は、友達を拘束しないことである。真の友情関係には、しっと心も独占意識もない。『愛はねたまない』のである。どの友達にも自分とだけ親しくしてほしいと考えることのないようにしたいものである。友達が、自分以外の人に秘密を打ち明けても、腹を立てたり、場合によっては避けたりすることがないようにすることも大切である。だれもが自分を広くしなければならないということを理解されたい。友達にも他の人との友情を深める機会を与えることは道理に適っているからである。 友達のプライバシーも考えていただきたい。人は、自分の時間を必要とする、夫婦も、自分たちの時間が必要である。人に近づくのをためらうべきではないが、平衡を保って配慮を示し、相手の時間を奪いすぎて嫌われることのないようにすべきである。聖書はこう忠告している。「あなたの仲間の者の家に足を運ぶのをまれにせよ。あなたに飽きが来ないためである」。―Pr 25:17.
2004年08月09日
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あらゆる人間関係における成功のかぎは“利他的な愛”である。これは2000年ほど前に、イエス・キリストが示したことである。そして、「あなた方は、自分にして欲しいと思うとおりに、人にも同じようにしなさい」と教えた。(Lu 6:31)この教えは黄金律として知られている。本当の友達を作る最良の方法は、自分自身が、利他的で自らを寛大に与える友となることなのである。つまり、友を得るには友になれ、ということである。親友の間柄になるには、求め合うのではなく、与え合わなければならない。自分の好みや都合よりも、友人の必要とするものを優先させる態度が求められる。 真の幸福は与えることから生まれる。受ける側の人も幸福だが、与える側の人はもっと幸福である。どうしているかを尋ねたり、直面している問題について理解しようとしたり、相手が求めてくるより前に何かできる事をして上げようとすることにより、自分を与えることができる。それで、すでに友人になっている人たちも含め、自分のほうから相手に近づく。さほど価値のないことやあまり意味のない物事に打ち込んで、友情を犠牲にしてしまうことのないようにしたい。友達は、時間を割き、関心を払うべき存在である。「だれかと友達になってその友情を保つには、何といっても時間が大切です。特に、良い聴き手となるには時間がかかります。わたしたちは皆、相手が話す時に、最後まで耳を傾けて関心を示す点で自分を改善できるかもしれません」。
2004年08月08日
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人と一緒にいるのが元々好きな人でも、友達との間に相互の信頼を築くには、共に過ごしていろいろな体験を分かち合うことが必要。その際、人にどう思われるかはあまり心配しないでほしい。ある人は振り返ってこう述べている。「何か言おうとするたびに、上手に言えないのでは、と不安になるのがわたしの悪いところでした。そんな時は、『本当の友達なら理解してくれる』と考えるようにしました。間違ったことを言ってしまったら、自分で自分のことを笑いました。すると、みんなも一緒に笑ってくれました」。 リラックスすること、あるがままでいいのである。演技をしても効果はない。「人の魅力が最もよく表われるのは、ありのままの自分になっている時だ」と、家庭問題カウンセラーのF・アレクサンダー・マグーンは述べている。本当に幸福であれば、それを装ったり、人に強いて印象づけようとしたりする必要はない。飾らない自分であってはじめて、心から打ち解けた交友関係を持つことができる。同様に、人にも自分らしくさせてあげる必要がある。幸福な人は、その人のあるがままを受け入れ、ささいな欠点を気にしたりはしない。自分が描いたとおりの友達像に相手を変えよう、と考えることもない。そのようにして幸福な人、批判がましくない人になることに努めたいものである。
2004年08月07日
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だれかと本当に友達になるには、相手に心を打ち明け、自分の内面を知ってもらう必要がある。本当の友情を築く上で、そのように意思や気持ちを通わせることは、外見の良さや特別な個性よりもはるかに重要。「長くて親しい交友関係を楽しんでいる人たちの中には、内気な人も外交的な人も、若い人も年取った人も、のんびりした人も聡明な人も、器量のいい人そうでない人もいるが、すべてに共通しているのは、人に対してありのままでいることだ。包み隠さずに、心の内を人に話す」と、カウンセラーのアラン・ロイ・マクギニス博士は述べている。 これは、感情を露骨に表わすとか、話しにくい人にも内奥に秘めたことを打ち明けるという意味ではない。自分の本当の考えや感情を、相手を見ながら少しずつ明かすということである。一人の女性はこう述べている。「はじめのうちは、自分の気持ちを外に出さないでいました。でも、わたしが感じていることを友達に理解してもらい、親しく感じてもらうには、自分を変え、自分の感情をもっとはっきり表わすようにしなければなりませんでした」。
2004年08月06日
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内奥の考えや感情は、話すことに、さらには人に与える印象にも影響する。あなたは人生に対して確かな考えを持っていらっしゃるだろうか。そうであれば、表情には幸福感がにじみ出るだろう。心からの純粋な笑顔は、人が身に着けることのできる最も魅力的な装いである。「それは全世界共通」で、「誤解されることもほとんどない」と、ボディー・ランゲージを研究するロジャー・E・アクステルは説明している。加えて明るいユーモアのセンスを身に着けるなら、人は自然とあなたに引き寄せられるだろう。 そのような好ましい特質は人の内面から生じるということを忘れないでほしい。それで、自分の思いと心を健全で前向きな考えや感情で満たせるように、意欲的に励む。最近の出来事、外国の文化、自然界の現象などを扱った、興味深くて読みごたえのある物を読むことも役立つ。また気分を高揚させる音楽を聴くことも良いかもしれない。しかし、テレビや映画や小説の内容に影響されるままになり、空想的なことばかり考えてしまうことがないようにしたい。なぜなら、大抵の場合、スクリーンに映し出されるのは、現実の生活でも実在の友情でもなく、人の想像の産物だからである。
2004年08月05日
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自分を憐れんだり、友達が多くて付き合い上手な人をうらやんだりするのではなく、次のように語ったイタリアの女性のように、積極的に考えてみるのはどうだろうか。こう述べている。「特に十代の時期、みんなの中に溶け込めないと感じていました。何とか改善しようとして、良い友達を持つ人たちの様子を観察しました。その人たちの優れた特質を身に着けて、もっと快活な人になるように努力しました」。 実際に行なえることとして、身体面と精神面で自分を整えることができる。健康的な食事、適度の休息、十分な運動はどれも、他の人に良い印象を与え、自分も爽やかな気分でいるのに役立つ。きちんとした身なりで清潔にしているなら、周囲の人たちから好まれ、自尊心を健全に保てる。とはいえ、容姿や外見を気にし過ぎるという落とし穴は避けたいものである。「流行の服を着ても、それによって本当の友達ができるわけではありません。良い人は内面を見ているのです」とフランスのある女性は語っている。
2004年08月04日
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「孤独は病気ではない」。「親密さを求めて」という本はこう述べている。「孤独感は健全な欲求で、交友相手がいない時の自然な反応である」。おなかが空くと滋養になる物を食べたいと思うように、孤独で寂しいと、良い友達が欲しいと感じる。 しかし、一方で人との接触を全く絶ってしまう人がいる。理由はどうあれ、自分を孤立させることは問題の解決にならず、孤独感をつのらせるだけである。聖書の格言は、「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求める。その者はあらゆる実際的な知恵に逆らって突き進む」と述べている。(Pr 18:1)それでわたしたちは、人間には交友関係が必要であることをまず認め、ついでその点について実際に行動しなければならない。
2004年08月03日
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少し前までは生活のペースがそれほど慌ただしくなかった地域でも、社会の状況は急速に変化している。「以前は友人たちともっともっと気持ちが通い合っていました。でも今は、自分の仕事や個人的な関心事に明け暮れている人が少なくありません。だれもがいつも忙しくしていて、長年の友情も少しずつ薄れているように感じます」。とある女性は言う。時間的なゆとりのない中で、友達との関係は後回しにされることがある。 それでも人は、友達が欲しいと強く感じる。若い人は特にそうだろう。「若いときは、人から認められ、仲間との連帯感を持ち、だれかと仲良しでいる必要があります」。と別の女性は言う。 老若を問わず、わたしたちはだれも、楽しくて充実した交友関係を必要とする。難しいときもあるが、本当の友達を得て、その友情を保ってゆくためにできることはたくさんある。次はそのことを考えてみる。
2004年08月02日
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現代生活は、人々を忙しくさせ、エネルギーを消耗させる。「都会で生活する現代人が一週間に接する人の数は、17世紀の村人が一年もしくは一生のうちに出会った人の数より多い」と、レティー・ポグレビンは「友に囲まれて」という本の中で述べている。日常生活の中で何百人もの人と接するかもしれないが、深い友情関係を築いてそれを保ってゆけるほどの個人的な関心を払うのは難しいだろう。
2004年08月01日
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