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自分自身はそうでないのに、そうであるように見せかける人。言葉と行ないが矛盾している人。 ヘブライ語の語根ハーネーフに由来する幾つかの語は、ジェームズ王欽定訳、ドウェー訳、リーサー訳などの一部の翻訳では「偽善者」、あるいは「偽善」と訳されているが、他の翻訳者はそれらの語を「俗なる」、「不信心な」、「神を認めない」、「背教者」などと様々な仕方で訳している。ブラウン、ドライバー、ブリッグズ共編「旧約聖書ヘブライ語‐英語辞典」によれば、ハーネーフは形容詞として使われる場合、「俗なる、反宗教的な……神を認めない」などと定義することができ、また動詞としては、「汚れて、神聖さを汚して……正しいことから逸脱する」と定義できるようである。聖書の中では、ハーネーフは、神を忘れる者たち(Job 8:13)、邪悪な者たち(Job 20:5)、悪行者たち(Isa 9:17)などと並んで出ており、廉直で罪のない人たちと対比させて使われている。―Job 17:8.「偽善者」と訳されているギリシャ語の言葉(ヒュポクリテース)は、「答える者」を意味すると共に、舞台俳優をも意味している。ギリシャやローマの俳優は、声を増幅させる機械装置を取り付けた大きな仮面を使った。したがって、ギリシャ語のヒュポクリテースという言葉は、だます人、もしくは見せかける人を表わす隠喩的な意味で使われるようになった。この同じ言葉はギリシャ語セプトゥアギンタ訳のJob 34:30.と36:13.に出て来る。偽善者たちは「不忠実な者たち」であり、聖書で使われている「偽善」(ヒュポクリシス)という言葉は、「邪悪さ」や「こうかつさ」を表わすこともある。 イエス・キリストは、これ見よがしに憐れみの施しをする人々、人に見せるために祈ったり断食したりする人々、および自分たちの兄弟のわらのような欠点を非難しながら自分自身の垂木のような欠点を取り除こうとしない人たちが偽善者であることを明らかにされた。キリストはまた、自分は神の僕であると唱えていながら、自分たちの生きている時代の重要性や起きている出来事の意味を悟らず、それでいて地や空の様子から天気がどうなるかをすぐに判断する人々を偽善者として類別された。―Mt 6:2、5、16; 7:1‐5; Lu 6:42; 12:54‐56.
2004年05月31日
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自分の間違いを認めてその間違いを正すよう当人を動かすために、過ちを犯したことを当人に納得させる目的で与えられるもの。叱責は戒めとは違い、証拠を挙げて過ちを明らかにすることを何ら伴わないけん責の形を取ることもある。 ヘブライ語の動詞ヤーカハ(戒める)は、『責任を問う』(Isa 37:4)および『事を正す』(Isa 1:18; 2:4)とも訳されている法律用語である。これに対応するギリシャ語の言葉は、エレンコーである。どちらの言葉も、大抵の場合、罪を悟らせて当人に悔い改めるよう要求するという考えを伝えている。ヤーカハが出て来る多くの箇所を翻訳するのにギリシャ語セプトゥアギンタ訳がエレンコーを用いていることに関して、新約聖書神学辞典はこう述べている。「それは、神がご自分の司法活動の結果として人を懲らしめ、教育することを表わしている。このことには、罪人に罪を悟らせることから懲罰や処罰を与えることまで、また厳しい試みによって義人を教え諭すことから教えや訓戒によって導くことまで、教育のあらゆる面が包含されている」。 罪深い人間には、戒めやそれを与える人間の僕に憤りを抱く傾向がある。しかし、この傾向に屈する人は、道徳的な識別力の欠けた、道理をわきまえない獣と同じ水準に堕落してしまう。そのことを霊感による箴言は、「戒めを憎む者は道理をわきまえていない」と述べている。(Pr 12:1)それとは対照的に、詩編作者ダビデは、彼自身幾度も戒めを受けたが、こう書いている。「義にかなった者がわたしを打つとしても、それは愛ある親切です。彼がわたしを戒めるとしても、それは頭の上の油であり、わたしの頭はそれを拒もうとはしません」―Ps 141:5. 戒めはそれを受ける人の益になり得るとはいえ、戒めを与える人の払う努力は必ずしも感謝されるわけではない。それで、Proverbs 9:7、8.はこう警告している。「あざける者に矯正を施している者は自分の身に不名誉を得ており、邪悪な者に戒めを与えている者は―自分に欠陥を。あざける者を戒めてはならない。その者があなたを憎むようにならないためである。賢い人に戒めを与えよ。そうすれば、彼はあなたを愛するであろう」。洞察力、識別力、をよく働かせる必要があるともいえる。
2004年05月30日
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敵意が存在するために他の人と口論したり、言い争ったり、争ったりすること。「争う」または「闘争する」と訳されるヘブライ語動詞の一つは、「かき立てる」、また「奮い立つ」とも訳されている。争いや闘争の原因として聖書の中で暗に言及されているものには、憎しみ(Pr 10:12)、激怒(Pr 15:18; 29:22)、悪巧み(Pr 16:28)、あざけり(Pr 22:10)、大酒(Pr 23:29、30)、中傷(Pr 26:20)、尊大さや誇り、および正しい教えの欠如(Pr 28:25; 1Ti 6:4)などがある。争いは平和と幸福を損なう。それは人々に不快な思いをさせたり人々を引き離したりする作用があり、そのことは「箴言」の中で繰り返し強調されている。(Pr 19:13; 21:9、19; 25:24; 27:15)かつては兄弟の関係にあった人たちの間に口論が生じると、それは和解をほとんど不可能にするほどの障害を引き起こすこともある。「違犯をおかされた兄弟は強固な町をもしのぐ。住まいの塔のかんぬきのような口論もある」―Pr 18:19.争いや闘争あるいは口論は神の憎まれる肉の業の一つである。であるから、絶えず口論あるいは争いや闘争を引き起こす人は、神から不利な裁きを受ける人たちの中に数えられている。―Ro 2:6、8.
2004年05月29日
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良い特質、もしくは良い状態のこと; 道徳的卓越性; 徳。善良は、悪や腐敗のない、あらゆる点で善そのものであることである。それは積極的な特質であり、他の人に対して良い有益な活動を行なう際に表わされる。聖書中の「良い」もしくは「善い」に相当する最も一般的なヘブライ語はトーヴ、ギリシャ語はアガトスである。アガトスは普通、道徳的もしくは宗教的な意味で用いられる。善良でありたい…
2004年05月28日
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危害や侮辱に対する返報として罰を加えること。報復行為。「復しゅうをする」と訳されているギリシャ語のエクディケオーという言葉は、字義通りには「公正から」という意味で、その行為が、公正の遂行を表わしていることを暗示している。「復しゅう」という語は、聖書で用いられている場合、普通は神が公正のために行なわれる報復を指しているが、人が自分で正当あるいは公平とみなす事柄を自分の満足な程度に行なうことを指す場合もある。復しゅうを求める不完全な人間の傾向 自分に不当なことをする者や自分が憎む者に復しゅうしようとするのは、堕落した不完全な人間の傾向である。別の男の妻と姦淫を犯す者は、その夫から仕返しとして復しゅうされる危険がある。「箴言」が次のように述べているとおりである。「強健な者の激怒はねたみであり、彼は復しゅうの日に情けを掛けないからだ。彼はどんな贖いも考慮せず、あなたがどれほど贈り物を大きくしても応じようとはしない」。(Pr 6:32‐35)それでも、人が自ら進んで復しゅうを遂げる場合、それは大抵怒りを制御せずに行なわれるので、良い目的に資することはなく、むしろ神の怒りが、復しゅうをしているその当人にもたらされる。―Jas 1:19、20.人間には復しゅうの執行者としての資格は備えられてはいない。ただ、神からやそのみ言葉によって指名されて復しゅうの執行者としての資格を備えているのでない限り、自分や他の人のために復しゅうを試みるのは不当な行為を働くことになる。この見方に賛同される人が今の世にどれだけいるのだろう…
2004年05月27日
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「浮かれ騒ぎ」と訳されているギリシャ語のコーモスという言葉は、クリスチャン・ギリシャ語聖書に3回出ており、どれも望ましくない、悪い意味で使われている。ジョセフ・セアの「新約聖書希英辞典」によると、それは古代ギリシャ語の文書の中で、「夕食の後、バッカスや他の神[または競技の勝者]を祝して、たいまつを掲げ、音楽を奏でながら通りを練り歩き、男友達や女友達の家の前で歌ったり騒いだりする、半分酔っ払って、ふざけまわる人々の騒々しい夜の行列」を指している。人々が町中を練り歩きながら繰り広げる、現代のある国々で見られるカーニバルにも似たそのような放縦で不節制な行為は、使徒時代のギリシャの諸都市では珍しいことではなかった。それゆえ、このことに関する警告の助言は真の崇拝者にとって適切で、有益だった。浮かれ騒ぎはクリスチャンにとって確かにふさわしいことではない。それは神の言葉により非とされている。ペテロから手紙を書き送られたある人々は、ギリシャの影響を受けていた小アジアの諸属州に住んでおり(1Pe 1:1)、クリスチャンになる前は、「みだらな行ない、欲情、過度の飲酒、浮かれ騒ぎ、飲みくらべ、無法な偶像礼拝に傾いていました」。しかし、クリスチャンになると、彼らはそのようなことをやめた。(1Pe 4:3、4)甚だしい好色と放とうを伴う浮かれ騒ぎは「闇に属する業」であり、クリスチャンはそのような事柄のうちを歩もうとはしなかった。―Ro 13:12‐14.聖書は喜びや楽しみを禁じているわけではない。人間は自分の創造者にあって歓び、夫は自分の妻と共に歓び、労働する人は自分の手の業を、また農夫は自分の労苦の実を歓ぶようにと告げられている。(Ps 32:11; Pr 5:18; Ec 3:22; De 26:10、11)食べ物や飲み物は歓びに付随し、歓びに寄与するものだが(Ec 9:7; Ps 104:15)、それでも節度を保つべき。(Pr 23:20; 1Ti 3:2、11; 1Co 10:31)楽しみの度を過ごして酩酊し、騒ぎを起こしたり、肉欲にふけったりするなら、それは浮かれ騒ぎにほかならない。パウロは浮かれ騒ぎを「肉の業」に含めた。それを習わしにする者は「神の王国を受け継ぐことはありません」。―Ga 5:19‐21.
2004年05月26日
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見境なくみだらな事柄に身をゆだねる人、一般には女性; 特に、報酬を目的とした性交のために見境なく自らを差し出す女性; 娼婦。売春婦、遊女を指すヘブライ語はゾーナーで、この語に相当するギリシャ語はポルネーである。『死への道』 賢王として知られているソロモンは箴言 7章の中で、自分が観察したある場面を描写し、遊女の手口とその誘いに乗る者たちに臨む結果を説明している。ソロモンは、夜の近づくころに遊女の家の近くの街路を通り過ぎる若い男性について述べ、その若者のことを「心の欠けた」者、つまり識別力や分別の欠如した者と呼んでいる。その女は不謹慎な遊女の装いをし、待ち伏せして若者に近づく。彼女は滑らかな唇をもってまことしやかな話をするのだが、その実際の気質は騒がしくて強情であり、心がこうかつである。この遊女は、ちょうどその日に共与の犠牲をささげたと述べることにより(共与の犠牲をささげた人は、自分と家族のために決まってその犠牲にあずかったので、ごちそうとなる食物があることをほのめかした)、義にかなっているふりをした。―Pr 7:6‐21.今やこうした段階まで唆された若者は、ソロモンが示しているとおり、彼女と共にいやおうなく罪へと引かれて行き、一切の分別をかなぐり捨て、「ほふり場に向かう雄牛のように」進んで行く。彼は、足かせを掛けられて、自分が受ける懲らしめを逃れられない人のようである。ソロモンが述べるとおり、「そして、ついには矢が彼の肝臓を切り裂く」、つまり、霊的にも身体的にも死をもたらす傷を負うことになる。というのも、その若者は死を招く性行為感染症(進行した梅毒の場合には、細菌が肝臓を損なう)に身をさらしただけでなく、「それが自分の魂にかかわることであるのを知らないでいる」からである。その存在全体と命が深刻な影響を被っており、彼は神に対して重大な罪をおかした。ソロモンはその記述を結ぶにあたり、「その家はシェオルへの道であり、それは死の奥の部屋へ下って行く」と述べている。―Pr 7:22、23、27.
2004年05月25日
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目の、色のついた虹彩の中にある開口部。瞳は黒く見えるが、これは瞳の後ろにあたる眼球内部が暗いからである。虹彩が周囲の明るさに順応するのに応じて、瞳の大きさは変わる。光は透明な角膜に入り、瞳を通過して水晶体に至る。ヘブライ語のイーショーン(De 32:10; Pr 7:2)は、アイン(目)とともに用いられると、字義的には「目の小児」を意味する。同様に、La 2:18.ではバト(娘)が「目の娘」という概念で用いられており、どちらの表現も瞳のことを指している。Psalms 17:8.ではこの二つの表現が強調のために組み合わされており(イーショーン バト・アイン)、字義的には「目の小児と娘」(「目の瞳」)を意味している。これは、他の人の目の瞳の部分に映って見える、自分の小さな像のことを言っているようである。目は極めて傷つきやすく敏感なので、まぶたと眼球の間にたとえ細い毛や一片のほこりが入ってもすぐに気づく。瞳を覆っている目の透明な部分(角膜)は、保護し、大切にしなければならない。もしこの部分がけがで傷ついたり、病気のために濁ったりすると、物がゆがんで見えたり盲目になったりすることがあるからである。聖書は、最も大切に保護されるべきもののことを述べる際に、力強く、なおかつ繊細に「あなたの目の瞳」という表現を用いている。上記の適用とはかけ離れているのだが…この心の言い表わし尽くせぬ痛みが今わたしを支配している…瞳が痛い…心のそれに比例するかのように…まだ2年経っていない…まだまだたくさん話をしたかった。孝行したかった…本当の意味で前を見て歩くにはまだ時間が必要なようだ…
2004年05月24日
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穏やかなものでも激しいものでも、身体的に経験する不快な感覚。また、精神的あるいは感情的に味わう厳しい苦しみ。人間は、のろわれた地面を耕すための、体力を消耗させる労働(Ge 3:17‐19; 5:29)、人を傷つける言葉(Pr 15:1)、人が善意にこたえ応じないこと(Ro 9:2)、病気その他の逆境(Job 2:13; 16:6)などのゆえに、精神的、感情的、身体的な苦痛を味わってきた。現実のものであれ想像上のものであれ、怖れや恐怖を抱かせる状況も痛みを感じさせてきた。
2004年05月23日
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過度の、あるいは飽くことのない欲望。ヘブライ語の動詞ハーマド、およびギリシャ語の動詞エピテュメオーはどちらも「願う」を意味している。(Ps 68:16; Mt 13:17)これらの語は、文脈によっては、悪い利己的な欲望を表わすことがある。(Ex 20:17; Ro 7:7)ギリシャ語のプレオネクシアは、字義的には、「より多く持ちたいという欲望」を意味し、聖書中では、「貪欲」や「強欲」を表わすのに用いられている。貪欲は、金銭に対する愛、権力や利得に対する欲望、食物や飲み物や性その他の物質的なものをしきりに欲しがることに現われる。聖書はこの堕落的な特性に用心するようクリスチャンに警告し、だれであれクリスチャンの「兄弟」と称しながら貪欲を習わしにする者との交わりを避けるように命じている。(1Co 5:9‐11)貪欲な者は、淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、盗む者、大酒飲み、ののしる者、ゆすり取る者と同列に置かれているが、確かに、貪欲な者は一般にこうした事柄のあるものを習わしにしている。人が貪欲を退けないなら、神の王国を受け継ぐことはない。―1Co 6:9、10.使徒パウロは愚かな話や卑わいな冗談を非として、淫行や汚れまた貪欲が『あなた方の間では、口に上ることさえあってはならない』と命じた。これは、そのような行ないがクリスチャンの間に存在してはならないというだけでなく、肉を喜ばせる目的で会話の話題にすることさえあってはならないという意味であろう。
2004年05月22日
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極端に放縦な生活、とりわけ暴食にふける、利己的で貪欲な人。どのような形にせよ、大食は聖書の教えや原則に全く反している。大食は「肉の業」として別個に挙げられてはいないが、大抵、酔酒や浮かれ騒ぎが付き物で、確かに、『神の王国を受け継がない』人々が習わしにしている、「そのような事柄」という包括的な表現の中に含まれている。(Ga 5:19、21)他のすべての活動の場合と同様、食習慣における節度はクリスチャンの美徳の一つである。―1Ti 3:2、11.
2004年05月21日
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真実の反対。偽りやうそには普通、真実を知る権利のある人に偽りごとを語り、しかもその人や他の人を欺いたり傷つけたりする意図を持ってそうすることが関係している。偽りやうそは口から出る言葉によるものとは限らない。虚偽の生活を送っている人の場合のように、それは行動に表われることもある。真実でないことを語るという考えを伝えるヘブライ語動詞はカーザヴである。(Pr 14:5)もう一つのヘブライ語動詞シャーカルには、「偽りの行ないをする、もしくは偽りの行動をする」という意味があり、その名詞形は「偽り事; 欺まん; 偽り」と訳されている。(Le 19:11; Ps 44:17; Le 19:12; Ps 33:17; Isa 57:4)時に「虚偽; 偽り」と訳されるヘブライ語シャーウは基本的に、値打ちのないもの、むなしいもの、価値のないものを指している。(Ps 12:2; De 5:20; Ps 60:11; 89:47; Zec 10:2)ヘブライ語動詞カーハシュ(欺く)には、「失望となる」という基本的な意味があるようである。(Le 19:11; Ho 9:2)ギリシャ語のプセウドスとそれに関連した幾つかの語は、うそをつくことや偽りと関係がある。
2004年05月20日
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完全という考えはヘブライ語のカーラル(完全なものにする)、シャーラム(終了する)、ターマム(全うされる、盛りになる)などの動詞に由来する語によって表現されている。クリスチャン・ギリシャ語聖書では、テレイオス(形容詞)、テレイオテース(名詞)、およびテレイオオー(動詞)という言葉が同様の意味で用いられており、完成させる、もしくは十分な状態にさせる、十分に成長する、大人になる、もしくは円熟する、および適当な、または定められた目的、意図、もしくは目標を達成するという考えを伝えている。
2004年05月19日
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「事物の体制」という表現は、クリスチャン・ギリシャ語聖書に出て来るギリシャ語アイオーンの意味を表わした言葉である。アイオーンはこの意味では30回余り出ている。アイオーンの意味について、R・C・トレンチはこう述べている。「[コスモス、世]と同様、それ[アイオーン]にも主要な文字通りの意味と、それに付け加えるべき副次的で倫理的な意味がある。この語は主要な[意味]において、長短を問わず切れ目なく続いている時を意味する。……しかし本質的には、創造された万物が存在する状態としての時、およびそれら創造物の存在の尺度としての時を意味する。この語はこのように時を意味することから、現在では、時間という状態の下で世界に存在するすべてのもの、……そして、より倫理的には、この世界の物事の動きと流れを意味するようになっている」。トレンチはこの後者の意味を裏付けるものとして、ドイツの学者C・L・W・グリムが述べた、「時の流れにおいて、外面に現われる物事の全体」という定義を引用している。この定義の後半部分においての意味を理解するための助けとして、英語の“age”、“era”、“epoch”などの語(いずれも時代を意味する)の特定の用法を思い起こすことができる。それらの語は、出来事の独特の展開や推移を特徴とする、あるいは何らかの著名な人物や一つもしくは複数の典型的な特色によって区別される、歴史上の一時期という意味で用いられる。コロンブス、マゼラン、クックその他の海洋探検家の活躍した時を指して「探検の時代」と言ったり、「封建時代」、「暗黒時代」、「ビクトリア女王時代」、あるいはもっと最近では「宇宙時代」と言ったりする。どの場合にも、際立っているのは、その時期そのものというよりも、その時期を他と区別する、あるいはその時期の特徴となる一つもしくは複数の特色である。それらの特色は、ある期間の始まりと持続と終わりを印づける決定的な要素、もしくは輪郭となる。それらの特色が伴っていないなら、その期間は特定の時代ではなく、単なる時となってしまう。今の時代を特色付けることは、言わずと知れている。様々な不公正が蔓延り対処し難い危機の時代であるということである。
2004年05月18日
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聖書の用法では、一般に姦淫は既婚者が自分の配偶者以外の異性と意図的に行なう性交、もしくはモーセの律法が有効だった時代には、男子が既婚の、または婚約している女性と行なう同様の性交を指している。「姦淫を犯す」という意味のヘブライ語の語根はナーアフで、これに対応するギリシャ語はモイケウオーである。一部の未開社会では、同じ部族内の者とであれば自由に関係を持ってよいことになっているが、部族外の者との乱交は姦淫とみなされている。姦淫の歴史に関して、「フンクとワグナルズの民間伝承・神話・伝説標準辞典」(1949年)はこう述べている。「それは世界のあらゆる場所で行なわれており、それは多くの文化によりとがめるべき行為とみなされながらも、あらゆる文化の中で、またあらゆる時代を通じて、かなり一般に受け入れられてきた」。それが古代エジプトで広く行なわれていたことを証拠立てる記念碑もある。自分と関係を持つようヨセフに迫った、ポテパルの妻は、そのようなエジプト人の一人だった。(Ge 39:7、10)歴史的に見ても、また現在でも姦淫は一般に禁じられているが、処罰されることはめったにない。十戒の7番目のおきては、間違えようのない率直な言葉遣いで、「あなたは姦淫を犯してはならない」と述べている。(Ex 20:14; De 5:18; Lu 18:20)姦淫によって他の男子の領分を侵すことは、ほかの形態の性的非行と同様、禁じられていた。モーセの律法のもとでは、姦淫に対する処罰は厳しく、罪を犯した当事者双方に対する処罰は死刑であった。「人が所有者に所有される女と寝ているところを見いだされた場合、その両人は……共に死ななければならない」と記されている。これは婚約している女性に対してさえ適用され、もしそのような女性が正式の婚約者以外の男性と関係を持ったなら、姦淫を犯したとみなされた。(De 22:22‐24)妻は、もしも姦淫の疑いをかけられたなら、裁判を受けなければならなかった。―Nu 5:11‐31.クリスチャンはモーセの律法のもとにはないが、やはり姦淫を避けなければならない。「『あなたは姦淫を犯してはならない』……[という]法典は、この言葉、すなわち、『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』に要約されるからです」。このことで偽善があってはならない。(Ro 13:9; 2:22)イエスは聖書の種々の原則を教えた際、クリスチャンのための道徳規準をさらに高く引き上げられた。そして、姦淫という事柄を拡張して、それは男が自分の配偶者ではない女と持つかもしれない性的な接触に限られていないことを示し、「女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と言われた。そのような人は、『姦淫に満ちた目を持つ』者の一人である。―Mt 5:27、28; 2Pe 2:14.イエスはまた、夫もしくは妻のいずれかが淫行(ギリシャ語、ポルネイア)以外の理由で離婚して再婚するなら、その再婚は姦淫に等しいということを指摘された。独身の男が離婚されたそのような女性を妻としてめとる場合でさえ、姦淫の罪をおかすことになる。―Mt 5:32; 19:9; Mr 10:11、12; Lu 16:18; Ro 7:2、3.姦淫は「まさに神に対して罪をおかすこと」である。(Ge 39:9)神は姦淫の罪のある者を裁かれる、そういう行状を改めない人はだれも『神の王国を受け継ぐ』ことはない。(Mal 3:5; 1Co 6:9、10; Heb 13:4)「女と姦淫を犯す者は心が欠けており、そうする者は自分の魂を滅びに陥れるのである」という箴言は、何と真実なのだろう。―Pr 6:32‐35.
2004年05月17日
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悪行の告発。訴えられた者は申し開きを求められる。「告訴」と訳されるヘブライ語の一つ(スィトナー)は、「抵抗する」という意味の語根動詞サータンに由来している。(Ezr 4:6.Zec 3:1)「訴える」に相当する最も一般的なギリシャ語はカテーゴレオーで、ふつう司法上または法律上の意味でだれかに『反対して意見を述べる』という考えを伝える。(Mr 3:2; Lu 6:7)Luke 16:1.で『訴えをなす』と訳されているギリシャ語ディアバッローは、『中傷する』とも訳されることがある。この語は英語のDevil(悪魔)の語源であるディアボロス(中傷する者)と関連している。
2004年05月16日
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苦痛、悲しみ、あるいは苦しみをもたらす事柄。非常に意味の広いヘブライ語のラという言葉は、その考えを正確に伝えるために文脈に応じて、「悪」、「憂うつそうな」、『醜い』、「厳しい」、「災いとなる」、「悪性の」、「寛大でない」、「そねむ」などと様々な言葉に訳されている。ギリシャ語のカコスという言葉は、(1)道徳的に悪い、(2)破壊的な事柄と定義でき、「悪い事柄」、「悪」、「有害な」、「害をもたらす」、「悪いこと」などと訳されている。ヘブライ語のカーラルという動詞には、「……の上に災いを叫び求める」という意味がある。このラという言葉は、聖書中の最初の用例に見られるように、善の正反対の言葉である。アダムは善悪(悪; ヘブライ語でラ)の知識の木からは食べないようにと命じられ、不従順の結果についても警告された。したがって、明らかに、何が善で、何が悪かに関する規準を設けるのは神であって、神を差し置いてそのような規準を設けることは、人間の特権の範囲内の事柄ではない。アダムは神の明確な律法を破ったが、その違犯を神のせいにすることはできない。「悪い事柄[カコスの変化形]で神が試練に遭うということはありえませんし、そのようにしてご自身がだれかに試練を与えることもないからです。むしろ、おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです」。―Jas 1:13、14
2004年05月15日
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聖書は「だれかに対して不満の理由がある場合でも、引き続き互いに忍び、互いに惜しみなく許し合いなさい」と助言している。(Col 3:13)人はもし自分の過ちをすべて問いただされるとしたら、みな例外なく有罪の宣告を受けることになるだろう。過ちの多くは見逃すことのできるもの。聖書は邪悪な者について、「あなたは座って、自分の兄弟を非難し、自分の母の子について落ち度を明かす」と述べている。―Ps 50:16、20.
2004年05月14日
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口論もしくは論争、または訴訟。聖書は、理由もなく言い争いや口論にかかわってはならないと助言している。(Pr 3:30)「通りすがりに自分に関係のない言い争いに憤怒する者は、犬の耳をつかむ者のようだ」とProverbsは述べている。(Pr 26:17)愚鈍な者の話は容易に言い争いに至り、愚かな者は言い争いを避けるための抑制力を働かせない。(Pr 18:6; 20:3)言い争いは「怒りを押し出す」ことから生じるので(Pr 30:33)、怒ることに遅ければ逆の効果が生じる。―Pr 15:18.言い争いは平和な雰囲気を打ち壊し(Pr 17:1)、最も柔和な人にも自制を失わせることがある。例えば、水がないためにイスラエルがカデシュでモーセやアロンと言い争ったため、二人は性急に行動してしまい、結果として約束の地に入る特権を失った。言い争いが有害な結果をもたらすので、Proverbsは、「言い争いが突然始まってしまう前にそこを去れ」と助言している。(Pr 17:14)アブラム(アブラハム)はこの点で良い模範を示している。自分の畜類を飼う者たちと、おいのロトの畜類を飼う者たちとの間に言い争いが生じないようにと気遣って、アブラムは互いに別れることを提案した。そして、利他的な態度を示し、動物を放牧する範囲を選ぶ機会をロトに与えた。(Ge 13:7‐11)他方、イザヤの時代の不忠実なイスラエル人は、その父祖アブラハムのようには行動しなかった。彼らについて、「あなた方は言い争いや闘いのために……断食をするのであった」と言われている。断食の最中でさえ、彼らは言い争いをしたのである。―Isa 58:4.モーセの律法は、言い争いの結果として身体に危害の及ぶような場合も包含していた。そして、仕事から失われた時間に対して被害者に償いをすることを定めていた。―Ex 21:18、19.
2004年05月13日
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過ちとは怠慢、失敗、欠点、とが、不完全さのこと。それは正しいことを行なわないこと、また失敗や悪行に対する責任を意味する場合もある。聖書の用法では、過ちは多くの場合、責められる根拠となることや、非とされる原因となる特定のことを指す。とがめだて 「とがめる」という表現はヘブライ語聖書にもギリシャ語聖書にも出て来る。ヘブライ語のその表現は、体で、言葉で、あるいは法に則した裁判で「争う」という意味を持つ動詞、リーヴを訳したもの。そのため、「とがめる」のほかに、『言い争う』、『闘う』、『訴えを処理する』などの訳語が用いられている。「とがめる」という表現の中に見いだされるギリシャ語アイティアは、「理由」、「罪状」、「根拠」とも訳されている。(Ac 13:28; 25:18; Mt 19:3)ピラトはユダヤ人の行なった告発に関してイエス・キリストを尋問したが、有罪の証拠を何も見いだすことができず、ユダヤ人に3度、「わたしは彼に何の過失も見いださない」と言明した。(Joh 18:38; 19:4、6)「とがめる」という表現は、「責める; 責めを負わせる」という意味のギリシャ語メムフォマイの訳語でもある。
2004年05月12日
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苦しんでいる、もしくは困っている人に対する、または何であれ苛酷に扱われてきた物事に対する優しい感情。複数形の名詞ラハミームは、「哀れみ」、「憐れみ」、「内なる感情」を表わす。ギリシャ語では、動詞スプランクニゾマイに、「哀れみまたは同情心に動かされる」、「哀れみを抱く、または、感じる」という意味がある。この語は字義的には「腸」を意味する名詞スプランクナから派生したものである。強い感情は体の腹部に影響を及ぼすことがあるので、ギリシャ語の名詞スプランクナは「優しい愛情」もしくは「優しい同情心」を指すものとしてよく用いられる。
2004年05月11日
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不利な境遇にある者に救済をもたらす、親切な思いやり、もしくは哀れみの表明。優しい同情。裁きや罰を軽くすることを意味する場合もある。ヘブライ語のラハミーム、およびギリシャ語のエレオス(動詞、エレエオー)は、大抵の場合、憐れみと翻訳されている。これらの語とその用法を調べれば、その趣や意味を十分に理解することができる。ヘブライ語のラーハムという動詞は、「ほてる、優しい感情で温かい気持ちになる; ……同情的になる」という意味である、と定義されている。(「ヘブライ語・カルデア語辞典」、B・デーヴィス編)辞書編集者のゲゼニウスによれば、「その主要な概念は、慈しむこと、なだめることに、また心の穏やかな感情にあるように思われ」る。(「旧約聖書ヘブライ語‐英語辞典」、E・ロビンソン訳、1836年)この語は「胎」に相当する言葉と密接な関連があり、また「はらわた」を指す場合がある。それらは、人が温かく優しい同情や哀れみを感じるときに影響を受けるからである。聖書の中で一度だけ、人間の側から神に対してラーハムが用いられている。それは、「わたしの力、Jehovahよ、わたしはあなたに愛情を抱き[ラーハムの変化形]ます」という詩編作者の言葉である。(Ps 18:1)人間同士の間では,ヨセフが弟ベニヤミンに対して『内なる感情[ラハミームの変化形]が高まった』時この特質を表わし、ヨセフはどっと涙を流した。人々は、自分たちを捕らえた者たちから、あるいは上位の権威の役人たちから苛酷な、あるいは無情な扱いをされそうなとき、そのような人たちの前で哀れみや憐れみを受けて、恵み深く、穏やかに、思いやりをもって扱われることを願い、またそう祈った。
2004年05月10日
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超人間的な力を持っている、目に見えない、邪悪な霊の被造物。悪霊を意味する普通のギリシャ語(ダイモーン)は、クリスチャン・ギリシャ語聖書ではMatthew 8:31.にただ1回だけ出ており、ほかの箇所にはダイモニオンという言葉が出ている。「霊」を意味するギリシャ語プネウマが、邪悪な霊者、すなわち悪霊を指して使われることもある。(Mt 8:16)また、「邪悪な」、「汚れた」、「口のきけない」、および「耳しいの」などの語で修飾されている場合もある。―Lu 7:21; Mt 10:1; Mr 9:17、25.そのような悪霊は神によって創造されたのではない。最初に自ら悪霊となったのは悪魔サタンであって、サタンは、やはり自ら悪霊になった、神の子らである他のみ使いたちの支配者となった。(Mt 12:24、26)ノアの時代に、それら不従順なみ使いたちは肉体を備えて現われ、女性と結婚し、ネフィリムとして知られる混血の子孫を生んだが、やがて大洪水が起きた時、肉体を解いて見えなくなった。(Ge 6:1‐4)しかし、それらみ使いたちは霊の領域に戻りはしたものの、自分たちの元の高い立場を取り戻したわけではない。というのは、Jude 6.にこう述べられているからである。「自分本来の立場を保たず、そのあるべき居所を捨てたみ使いたちを、[神は]大いなる日の裁きのために、とこしえのなわめをもって濃密な闇のもとに留め置いておられます」。(1Pe 3:19、20)であるから、それら悪霊たちの活動は、今ではそのような濃密な霊的な闇の状態の中に限定されているに違いない。(2Pe 2:4)悪霊たちは肉体を備えて現われることは差し止められているものと思われるが、依然として人間の思考や生活を支配する大きな力や影響力を持っており、人間や動物に入ってこれに取りつくことさえできる。事実の示すところによれば、悪霊は家や呪物やお守りなどの無生の物をも用いる。
2004年05月09日
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「殺す」、「殺人をする」、「打ち殺す」と様々に訳されている原語の幾つかの言葉は、人の命を取ることを指している。故意に、また許されていないのに、あるいは不法に人の命を取るような行為が関係しているかどうかは、文脈や他の聖句によって決まる。例えば、「あなたは殺人をしてはならない」という命令(Ex 20:13)の場合、この句の『殺人をする』と訳されているヘブライ語(ラーツァハ)は、明らかに故意に行なわれる不法な殺人を指している。しかし、Numbers 35:27.で、この同じ語は、血の復しゅう者が遂行することを許された行為を表わしている。であるから、「あなたは殺人をしてはならない」という命令は、犯罪者の処刑のような特定の状況下で人間の命を取ることを許していたMosesの律法全体の枠内で理解しなければならない。初期の歴史で殺人は人類史のほとんど最初から知られてきた。最初の人間アダムはその不従順により子孫に罪と死を伝え、こうして事実上、自分が殺人者であることを示した。(Ro 5:12; 6:23)アダムの妻エバを罪に誘うことによりこの出来事の元を故意に作ったのは悪魔で、この者はそのようにして、神を中傷する者としての歩みを始めた時点で、自ら人殺し、または殺人者となった。―Ge 3:13; Joh 8:44.それから130年もたたないうちに、最初の暴力的な殺人、つまり兄弟殺しが発生した。アダムの長子カインがねたみの絡んだ憎しみに駆られて自分の兄弟である義人アベルを殺害したのである。(Ge 4:1‐8、25; 5:3)この行為のためにカインはのろわれて追われ、地にあってさすらい人、また逃亡者となった。(Ge 4:11、12)神はNoahの日の大洪水後に至るまで、人間が殺人に対して死刑を執行することを許されなかった。―Ge 9:6.
2004年05月08日
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見境なくみだらな事柄に身をゆだねる人、一般には女性; 特に、報酬を目的とした性交のために見境なく自らを差し出す女性; 娼婦。売春婦、遊女を指すヘブライ語はゾーナーで、この語に相当するギリシャ語はポルネーである。
2004年05月07日
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良いものを得ること、あるいは期待することによって引き起こされる感情。幸福である状態。歓喜。聖書中で喜びや歓喜、歓び、喜んでいる状態を表わすのに用いられているヘブライ語とギリシャ語の言葉はいろいろな意味合い、つまり喜びの様々な段階や度合いを表わす。関係している幾つかの動詞は内面的な喜びの感情と外面に現われる喜びを表わし、「喜ぶ; 歓喜する; 喜びの叫びを上げる; 喜び躍る」など様々な意味を持っている。
2004年05月06日
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ヘブライ語およびギリシャ語では、人間の子孫を指すのに、様々な役立つ詳細な点を伝える語が使われている。子供を表わす一般的なヘブライ語は、エレドである。(Ge 21:8)その関連語であるヤルダーは、「女の子」や「お嬢さん」を指す。(Joe 3:3; Ge 34:4; Zec 8:5)どちらの語も、「生み出す; 産む」を意味する語根ヤーラドに由来する。子供を表わす他の二つのヘブライ語(オーレールとオーラール)は、「乳を飲ませる」という意味の語根動詞ウールに由来する。(1Sa 22:19; Jer 6:11; Ge 33:13)少年すなわち若い男子を意味する普通のヘブライ語は、ナアルである。(Ge 19:4; Jg 8:20)しかし、この語は生後3か月のMosesのような幼児に関しても使われている。ヘブライ語タフ(幼子; 幼い者)は、「軽やかな足取りで」歩く者という基本的な考えを伝える。(Ge 43:8; 45:19; Isa 3:16)ギリシャ語には、テクノン(子供)、テクニオン(小さな子供)、パイディオン(幼子)、アルセーン(男の子)などの語がある。(Mt 10:21; Joh 13:33; Mt 2:8; Re 12:13)ギリシャ語ネーピオスは「みどりご」を指し(1Co 13:11)、ギリシャ語ブレフォスは「幼児」を指す。(Lu 1:41)「息子」を意味するヘブライ語およびギリシャ語が、時には「子」と訳される場合もある。
2004年05月05日
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驚異もしくは驚嘆の念を引き起こす出来事。人間もしくは自然界のあらゆる既知の力を超越した物質界の作用で、またそれゆえにその原因が超自然的な働きに帰せられる作用。ヘブライ語聖書の中で時々「奇跡」と訳されているモーフェートという言葉には、「異兆」、「不思議」、および「印」という意味もある。この語はしばしば、「しるし」という意味のオートというヘブライ語と一緒に使われている。ギリシャ語聖書では、「力」という意味のデュナミスという言葉が、「強力な業」、「能力」、「奇跡」などと訳されている。奇跡とは、見守る人の能力ではとても行なえない、もしくは十分に理解することさえできないため、見守る人の目を見張らせるような事柄である。また、それは見守る人が持っている以上の大きな力、もしくは膨大な知識を要する強力な業である。しかし、それはそのような力の源となっている方から見れば奇跡ではない。奇跡を行なう方はそれを理解しており、またそうする能力を持っている。であるから、神のなさる数多くの働きは見守る人間を驚嘆させるが、その働きは神がご自分の力を行使された結果にすぎない。もし神を、とりわけ創造の神を信じるのであれば、見る人に畏怖の念を起こさせる事柄を成し遂げる神の力を否定するのは首尾一貫したこととは言えない。
2004年05月04日
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誇りや尊大さのないこと; へりくだった思い。それは弱さではない。ヘブライ語聖書の中の「謙遜」という語は、「悩まされる; 低められる; 圧迫される」という意味の語根語(アーナー)から派生している。この語根から派生した幾つかの語は、「謙遜」、「柔和」、「悩み」などと様々に訳されている。「謙遜」と関連したヘブライ語の他の二つの動詞は、カーナ(字義、[自分を]従える)とシャーフェール(字義、低くある、もしくは低くなる)である。クリスチャン・ギリシャ語聖書では、タペイノフロシュネーという語が、「謙遜」および「へりくだった思い」と訳されている。それは「低くする」を意味するタペイノオーと、「思い」を意味するフレーンという語から派生している。人は、聖書に略述されている、自分と神、および自分と仲間の人間との関係について推論し、次いで学んだ原則を実行することによって、謙遜の状態に達することができる。「自分を低くする」と訳されているヘブライ語ヒトラッペースは、字義的には「自分を踏みつける」という意味である。その語は「Proverbs」の賢明な筆者が描写した行動をよく表現している。「我が子よ、もしあなたが仲間の者の保証人になったなら、……もし自分の口のことばによってわなに掛かったなら、……あなたは仲間の者の掌中に陥った(の)である。すなわち、行って、自分を低くし[自分を踏みつけ]、その仲間の者にあらしのように懇願を浴びせよ。……自分を救い出せ」。(Pr 6:1‐5)言い換えれば、誇りを捨て、自分の間違いを認め、物事を正し、許しを求めるのである。イエスは、人は子供のように神の前で謙遜になるべきであり、目立とうとするのではなく、自分の兄弟たちに仕える、もしくは奉仕するべきであると訓戒された。―Mt 18:4; 23:12.また人は、経験によって低められ、謙虚にさせられることによって謙遜を学ぶこともある。へりくだろうとしないなら、もしくは謙遜にならせる懲らしめを受け入れようとしないなら、そのような人あるいは国民は、しかるべき時に屈辱を被ることになる。―Pr 15:32、33; Isa 2:11; 5:15.
2004年05月03日
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侮べつ的な誇り、横柄、尊大。ごう慢は謙遜の反対である。「ごう慢な」とか「ごう慢」と訳されるギリシャ語とヘブライ語の言葉には、自分自身を「高い」、「高められた」、「高尚な」、「高位の」者として見せる、という基本的な意味がある。ごう慢な人は、自分が優れていて仲間の人間より高められていると考える。その結果、そのような人は大抵、しかるべき程度を超えた誉れや注目を求め、他の人を不敬また不遜に扱う。
2004年05月02日
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人の外見を変えたり、美しくしたり、魅力を高めたりするために人体の顔や他の部分に付ける物質もしくは処理剤。そのような調合剤は、皮膚、爪、髪の毛などに付けることができる。英語の“cosmetic”という言葉は、「飾るのが上手な」という意味のギリシャ語コスメーティコスから派生した。聖書の中で、化粧品や装飾品を節度のある趣味のよい仕方で用いることは非とされてはいない。しかし、パウロとペテロは、「慎みと健全な思いとをもって……神をあがめると言い表わす女にふさわしい仕方で」装うように、また、「神の目に大いに価値のある」、「もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした、心の中の秘められた人」を飾りとするようクリスチャンの女性たちに訓戒した。(1Ti 2:9、10; 1Pe 3:3、4)また、良い妻に関する霊感による評価の中で、適切にも次のように述べられている。「麗しさは偽りであることがあり、美しさもむなしいものとなることがある。しかし、神を恐れる女は自分に称賛を得る」―Pr 31:30.
2004年05月01日
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