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性格、行動、話し方、もしくは思考を制し、抑え、統御すること。(Ge 43:31; Es 5:10; Ps 119:101; Pr 10:19; Jer 14:10; Ac 24:25)自制に関するヘブライ語とギリシャ語の用語は、字義的には自分に対して力や支配力を有することを意味する。自制は『神の霊の実』の一つ。(Ga 5:22,23)創造者である神は無限の力を持たれるが、常に自制を働かせてこられた。悪行者に対して直ちに処置を講じる代わりに、神は彼らが悪い道から引き返してご自分の恵みを得る機会を持てるよう、時の経過を許された。―Jer 18:7‐10; 2Pe 3:9.
2004年06月30日
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高慢な人は、自分が誇っていることを認めず、自分が誇っているという事実を直視するのを避けるために自分の行動を他の原因のせいにすることがある。人は各々自分自身と自分の動機を徹底的に吟味して、この悪い特性を持っていないかどうかを確かめるべき。使徒パウロは正しい動機の必要性と、この点で人が自分自身に関して持つべき知識を示して、次のように述べた。「ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても、また、自分の体を渡して自分を誇れる[カウケーソーマイ]ようにしたとしても、愛がなければ、わたしには何の益にもなりません」―1Co 13:3.したがって、人は自分自身の益のために自分の人格から誇りを根こぎにしなければならない。さらに重要なこととして、神を喜ばせたいのならこのことを行なわなければならない。人はそれ[誇り]を憎むようにさえならなければならない。神の言葉は次のように述べている。「神[“Jehovah”“Yahweh”]への恐れは悪を憎むことを意味する。自分を高めること、誇り、悪い道、ゆがんだ口をわたしは憎んだ」―Pr 8:13.自分の誇りを除かない人は苦しむことになる。『誇りは崩壊に先立ち、ごう慢な霊はつまずきに先立ち』(Pr 16:18)、『Jehovahは自分を高める者たちの家を打ち壊される』のである。(Pr 15:25)個々の人や王朝や国民が高慢であったために崩壊を被った例は数多くある。―Le 26:18、19; 2Ch 26:16; Isa 13:19; Jer 13:9; Eze 30:6、18; 32:12; Da 5:22、23、30.誇りは人を欺きやすいもの。使徒パウロは、「取るに足りない者であるのに、自分は相当な者であると考える人がいるなら、その人は自分の思いを欺いているのです」と助言している。(Ga 6:3)高慢な人は自分にとって最も有益な、もしくは有利な方法を取っているように思えるが、神のことを無視している。聖書はこのように述べている。「柔和な者たちと共にいてへりくだった霊を抱くのは、自分を高める者たちと共にいて分捕り物を分けるのに勝る」―Pr 16:19.
2004年06月29日
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過度のうぬぼれ。自分の才能や美しさ、富、地位などについての常軌を逸した優越感。侮べつ的な振る舞いや扱いをすること。不遜で尊大な態度。ごう慢な物腰。比較的まれなことだが、誇りは何らかの行動や所有物から生じる歓喜や意気揚々とした気持ちという良い意味合いを持つこともある。誇りの同義語には、自己中心主義や尊大さ、ごう慢さがある。ヘブライ語の動詞ガーアーは、字義通りには「育つ; 高くなる」を意味しており、この語は誇りという考えを伝える幾つかのヘブライ語の語根となっている。それらの関連した語形は、「ごう慢」、「自分を高めること」、そしてまた良い意味と悪い意味の両方で、「卓逸性」や「優越性」と訳されている。―Job 8:11; Eze 47:5; Isa 9:9; Pr 8:13; Ps 68:34; Am 8:7.同様に、「誇る、誇りとする、歓喜する」という意味のギリシャ語のカウカオマイは、良い意味にも悪い意味にも用いられており、どちらの意味に用いられているかは文脈によって決まる。―1Co 1:29; Ro 2:17; 5:2.
2004年06月28日
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人が自分を賛美するのは誇りの表われであり、聞く人を築き上げない。それは自分を他の人より高めることであり、愛に反す。(1Co 13:4)賛美を受けることがあるとすれば、称賛の言葉を述べることによって自らは何の益も受けることのない公平な観察者から自発的に出たものであるべきである。―Pr 27:2. 他の人から来るとしても、賛美はそれを受ける人を試みるものとなる。それは優越感や誇りを助長し、結果としてその人に崩壊が生じるかもしれない。しかし正しい精神で受け止めるなら、賛美は人に建設的な影響を与える場合がある。それによって、自分が神に負っていることを謙遜に認め、その称賛に値する倫理上の立場にもとることのない行動をするよう励まされるかもしれない。霊感のもとに記された箴言は、賛美が人の真の姿を明らかにする効果のあることを指摘している。「るつぼは銀のため、炉は金のため。人はその賛美による」―Pr 27:21. 人間にとって、是認された者として神に認められる以上に貴重な賛美や称賛はない。そのような称賛は、主イエス・キリストが栄光のうちに表わし示される時に与えられる。(1Co 4:5; 1Pe 1:7)この称賛は、肉的な功績にではなく、その人が神の僕にふさわしい生き方をしたかどうかにかかっている。(Ro 2:28、29)一方、政府の高官その他の人たちは、真のクリスチャンが法律に従い、廉直であるために称賛することもあるだろう。(Ro 13:3)クリスチャンが立派に振る舞うのは彼らが主権者なる神の献身的な僕だからであることが見る人に明らかになるとき、クリスチャンが忠節な弟子として従う神とそのみ子に賛美が帰されることになる。
2004年06月27日
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称賛また賞嘆の表現。それが神に向けられるときには崇拝の表現ともなる。ヘブライ語の動詞ハーラルとギリシャ語のアイネオーが、「賛美する」と訳されている。(Ps 113:1; Isa 38:18; Ro 15:11)ギリシャ語の名詞ヒュムノスは、英語の“hymn”(賛歌)の起こりであり、神に向けられた賛美または賛美の歌という考えを伝えている。―Mr 14:26.神のみ名を賛美することは、至高者ご自身を賛美することを意味する。(Ps 69:30)神は最大の賛美を受けるに値する方である。神は「善良」つまり道徳上の美点の究極であり、また、創造者、苦難にある者を助ける方、ご自分の民を支えて、救い出される方だからである。(Ps 135:3; 150:2; 1Ch 16:25、26)神は、この賛美を、崇拝する者に援助を施すことのできない、命のない偶像と分け合うことは決してされない。―Isa 42:8.
2004年06月26日
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特に湿った空気で化学的に腐食されるとき鉄の表面に形成される、赤みがかった多孔質のもろい被膜。広義には、腐食作用によって他の種々の金属のいずれの表面にも生じる被膜。鉄はさび、銅や銀は腐食すると言われており、金でさえ特定の酸や要因によっては腐食を受ける。「さび」とか「かす」と訳されているヘブライ語のヘルアーという言葉は、『患う』(2Ch 16:12)という意味の言葉に由来している。したがって、この語は金属に関しては「さび」を表わす。(Eze 24:6、11、12)ギリシャ語のブローシスは「食べること」を意味するのに対し(Mt 6:19、20)、イオスは「毒」(Ro 3:13; Jas 3:8)と「さび」の両方を意味する。―Jas 5:3. イエス・キリストは山上の垂訓の中でこう言われた。「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾やさび[ブローシス]が食い尽くし、また盗人が押し入って盗みます。むしろ、自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは蛾もさびも食わず、盗人が押し入って盗むこともありません」。(Mt 6:19、20)ひそかにため込まれた物質上の富は有益な用途に用いられることはない。それは使わずに置けばさび、ついにはその所有者にとってさえ無用のものになるかもしれない。
2004年06月25日
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この無脊椎動物は、成虫になると、頭部、胸部、腹部の三つの節から成る体、6本の脚と一対の触角、そして通常は2枚ないし4枚の羽のあることが特徴である。写実的な語法を用いる聖書は、昆虫のことを「四つばいで進む(もの)」と呼んでいる。モーセは、明らかに昆虫に6本の脚があることに通じていた。であるから、上記の表現は、昆虫の脚の数ではなく、その動き方に言及しているに違いない。羽のある昆虫の中には、ミツバチ、ハエ、スズメバチなども含め、6本の脚を使って四つ足の動物のように歩くものがいる。また、いなごのように跳躍用の2本の脚があり、そのためまさに残りの4本の脚をはい回るために用いる昆虫もいる。―Le 11:20‐23.昆虫は80万種余りが知られており、その多様性はパノラマ的景観を呈す。ごく地味な色彩のものもいれば、鮮やかな色合いで美しい模様の付いたものもいる。虹に含まれる色調はすべてそろっている。昆虫の大きさについて見ると、針の穴を通れるほど小さい甲虫の類から、体長が30cm余りに達する珍しいナナフシにいたるまで様々である。昆虫の中には組織的共同体を営むものがあり、また建築、農業、物の製造、長距離の飛行、跳躍、水泳、穴掘りなどの巧みなものも見られる。人間は研究と観察によって昆虫から多くのことを学べるが、最も重要なのは、昆虫が神による創造物であり、偶然の所産としてではなく、すべての知恵の源である創造者の働きによって本能的な知恵を付与されているという点である。―Job 12:7‐9.昆虫は農作物や人間の所有物に害を与え、さらに病気を媒介する害虫であるとされる場合が多くあるが、現在の環境下で有害とみなせる昆虫は実際にはごくわずかな比率にすぎない。大多数は無害か、あるいは直接、間接に人間に益をもたらすものに分類できる。昆虫は植物と重要な関係にある。昆虫による授粉に全面的もしくは部分的に依存している顕花植物は85%に上ると見積もられている。昆虫は土壌の育成や清掃にも有益な役割を果たす。カイガラムシの仲間からは染料やセラックが作られる。中東では、何世紀もの間、いなごなどの昆虫が食用に供されてきた。昆虫がいなければ、はち蜜や絹が知られることはなかっただろう。昆虫が地上の他の創造物との関係で重要な位置を占めていることは確かである。昆虫学と植物学の教授カール・D・ダンカンは次のような所見を述べている。「昆虫は、人間自身が行なっているよりはるかに大きな規模で人間世界の特徴を定めていると言っても過言ではない。仮に昆虫が突然に全く姿を消したとすれば、この世界は甚だしく変化してしまい、人間が、いかなるかたちにせよ組織化された社会を維持してゆけるかどうかは極めて疑わしいと言える」。
2004年06月24日
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偏りやえこひいきが見られないこと; 公明正大なこと。 公平とは、地位、上手に話す能力、富、わいろなどによって、あるいはその反対に、貧しい人や、他の面で恵まれない人に対する感傷的な見方によって左右され、ある個人に有利な判断を下したり行動を取ったりするのを避けることである。公平が期されるなら、すべての人は必ず、各々にふさわしく、また各々の必要に応じ、公明正大で公正な事柄に調和して扱われる。―Pr 3:27. 『不公平な扱いをする』と訳出されているヘブライ語の表現ナーサー パーニームは、字義的には「顔をもたげる」という意味である。(Le 19:15)東洋人のあいさつの一つに、謙虚に頭を下げ、顔を地に向けるという方法があった。あいさつされたほうの人は、それに気づいて相手を認めたことのしるしに、頭を下げている人の顔をもたげるか上に向けた。(Ge 32:20.ここでは、字義的に「顔をもたげる」という意味のヘブライ語の言い回しが、「親切に迎え……る」と訳出されている。)この表現は不正な優遇措置を指して、軽べつ的な意味で用いられるようになった。ナーカル パーニームというヘブライ語の言い回し(『不公平である』と訳出されているが、字義的には、「顔を認める」を意味する)も同じように用いられた。(De 1:17; 16:19)ギリシャ語の表現ラムバノー プロソーポン(『不公平な扱いをする』; 字義的には「顔を受け取る、もしくは受け入れる」)は前述のヘブライ語を模したものである。 これら二つの語の複合形は、『不公平; 偏り見ること』(Ro 2:11; Jas 2:1)「人を偏り見る」(Jas 2:9)「不公平な」(Ac 10:34)と訳出されている。
2004年06月23日
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暴力や脅迫により、あるいは他の何らかの方法で力を不当に行使し、不法な仕方で恐れを利用して、気の進まない人や嫌がる人から物を取ったり手に入れたりする行為もしくは習わし。 「ゆすり取る者」と訳出されているギリシャ語の言葉(ハルパクス)の基本的な意味は「引ったくる者」である。聖書は、とりわけ責任の重い立場にある人や公務に携わる人に、不当な利得を求めることを一切しないよう再三警告している。―Ex 18:21; Pr 1:19; 15:27.それにもかかわらず、パレスチナに対するローマの支配のもとで、ユダヤ人の収税人はゆすりを働くことが少なくなかった。彼らはその地位のゆえに、人々を犠牲にして不当に私腹を(そして疑いなくそのローマ人の主人たちの懐をも)肥やす多くの機会を得ていたのである。イエスはある例えの中でこの点をほのめかされたのかもしれない。それは、独善的なパリサイ人が収税人の傍らで祈って、自分はゆすり取る者などではないと言って自分を神に推薦したという例えである。(Lu 18:11)
2004年06月22日
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強情という概念を伝える原語の様々な言葉の基本的な意味は、特に悪い意味での固さ、もしくは強さである。多くの場合、神のご意志や命令に従うのを意識的に拒むことが関係する。(Ps 78:8; 81:12; Isa 1:23; 65:2; Jer 3:17; 5:23; 7:23‐26; 11:8; 18:12; Ho 4:16; Ac 7:51) 聖書の中では、強情な生き方を執ように続ける者に災難が臨むことが繰り返し強調されている。(De 29:19、20; Ne 9:29、30; Pr 28:14; Isa 30:1; Jer 6:28‐30; 9:13‐16; 13:10; 16:12、13; Da 5:20; Ho 9:15; Zec 7:12; Ro 2:5)
2004年06月21日
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時折、神の霊は人がこうこつとした状態、つまり深く集中した状態や睡眠に似た状態にある時、その思いに神の目的や幻の像を焼き付けたようである。クリスチャン聖書の中で「こうこつとした状態」と訳されているギリシャ語は、エクスタシスである。字義的には、捨て去る、または置き換えると定義されるこの語には、人の思いをその普通の状態から投げ出すという比喩的な考えが含まれている。こうこつとした状態にある人は文字通りの周囲の事柄を忘れて、幻を受け入れやすくなったのだろう。―Ac 22:17、18.
2004年06月20日
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聖書考古学とは、地中にうずもれていた、興味をそそる記録により、聖書中の民族や出来事について研究する学問のことである。考古学者は、岩石、荒廃した城壁や建造物、破壊された都市などを掘り起こして分析すると共に、陶器、粘土板、碑文、墳墓、その他の古代の遺物もしくは人工遺物を発掘し、それらの物から情報を集める。そのような研究により、聖書が書き記された当時の状況や古代の信仰の人々が生活した当時の状況をはじめ、それらの人々やその周囲の諸民族が用いた言語に関する理解が深まる場合も少なくない。また、聖書で触れられている地域のすべて、つまりパレスチナ、エジプト、ペルシャ、アッシリア、バビロニア、小アジア、ギリシャ、およびローマに関するわたしたちの知識も増えた。 聖書考古学は比較的新しい学問の一分野である。ロゼッタ石が解読されることにより、エジプトの聖刻文字が解明されたのは、つい最近の1822年のことである。アッシリアの楔形文字が解読されたのは、それから20年余り後のことだった。組織立った発掘調査が始まったのは、アッシリアでは1843年、そしてエジプトでは1850年のことであった。
2004年06月19日
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イエス・キリストが杭につけられて死を遂げた際に用いられたような刑具。(Mt 27:32‐40; Mr 15:21‐30; Lu 23:26; Joh 19:17‐19、25)新世界訳の中で「苦しみの杭」と訳されている言葉(スタウロス)は、古典ギリシャ語ではおもにまっすぐな杭もしくは柱を表わしており、クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちがこの語を、横木の付いた杭を指して用いた証拠はない。 ジョン・デンハム・パーソンズの著わした「キリスト教に無関係の十字架」という本は、次のように述べている。「新約聖書を構成している、ギリシャ語原語による数多くの著作には、どれを見ても、イエスの場合に用いられているスタウロスが普通のスタウロス以外のものであることを間接的にであれ証明する文章はただの一つもなく、ましてやそれが1本の木材ではなく、2本の木材が十字型に組まれて釘付けにされたものだということを示唆している文章など一つもない。……教会のギリシャ語文献を我々の言語に訳すに際してスタウロスという語に『十字架』を当てたこと、またスタウロスの意味として、注意深い説明を加えることなく辞典に『十字架』を挙げてこうした動きを支持したことは、我々の教師たちによる大きな誤りであった。加えるべき注意深い説明とは次のようなものである。すなわち、使徒時代には『十字架』はいずれにしてもこの語の第一義的な意味ではなかったこと、その後も長い間その第一義的な意味とはならなかったこと、またたとえその後そうなったとしても、それは、十分な確証がないにもかかわらず、イエスの処刑に用いられたスタウロスはその種の特定の形をしていたと何らかの理由で仮定されたからにほかならないということである」。
2004年06月18日
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聖書時代には、口づけの行為、すなわち自分の唇で他の人の唇や(Pr 24:26)ほほに、例外的には足にさえ触れることが(Lu 7:37、38、44、45)、愛情もしくは敬意のしるしとされていた。口づけは、男女の親族間でごく普通に行なわれたばかりか(Ge 29:11; 31:28)、男性の親族同士の間でも行なわれた。(Ge 27:26、27; 45:15; Ex 18:7; 2Sa 14:33)それはまた、親しい友の間での愛情表現のしぐさでもあった。―1Sa 20:41、42; 2Sa 19:39. 口づけには祝福することが伴う場合があった。(Ge 31:55)年老いたイスラエルすなわちヤコブは、ヨセフの子であるエフライムとマナセに口づけして彼らを抱きかかえ、それからヨセフとその二人を祝福した。(Ge 48:8‐20)この族長が後に12人の息子に命令を与え終わって息絶えると、「ヨセフは父の顔を抱いて泣きぬれ、また彼に口づけ」した。(Ge 49:33‐50:1)サムエルはイスラエルの最初の王となるサウルに油をそそいだとき、サウルに口づけした。―1Sa 10:1. 愛情をこめたあいさつには口づけが含まれ、泣くことや抱擁がそれに伴ったかもしれない。(Ge 33:4) 口づけはまた、愛する人同士の別れの際にも見られた。(Ge 31:55; Ru 1:9、14)使徒パウロがミレトスをたとうとしたとき、エフェソス会衆の年長者たちは愛惜の情に駆られて泣き、『パウロの首を抱いて優しく口づけしました』。―Ac 20:17、37. 聖書は異性間の愛と関連のある口づけについて簡潔に言及している。(Ca 1:2; 8:1)「箴言」は邪悪な女の計略に用心するよう忠告した際、人を引き込むような遊女の口づけについて警告している。―Pr 7:13. 口づけには偽善的なものもある。抜け目なく権力を得ようとしたアブサロムは、自分に近づいて身をかがめようとした人々に口づけした。(2Sa 15:5、6)裏切りをもくろむヨアブの口づけは、彼を信用しきっていたアマサにとって死を意味した。(2Sa 20:9、10)また、ユダ・イスカリオテがイエス・キリストを売り渡したのも、欺きの口づけを用いてであった。―Mt 26:48、49; Mr 14:44、45.
2004年06月17日
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ポリプと呼ばれるある種の海洋生物が作り出す石灰質の堆積物。暖流域に生息するこの小さな生き物は、群生しながら海からカルシウム塩を取り入れ、それによって、美しく枝分かれしたかん木のような構造物を作り上げる。これは石と同じほどの硬さになる。さんごの種類によっては、やがてこうした形成物が大きなさんご礁になったり、さんご島の基部になったりすることもある。さんごにもいろいろな色があって、白、黒、赤など様々だが、古代では赤いさんごが最も高価で、最も尊ばれた。ティルス(古代世界の大海運国の一つ)は一時期、地中海や紅海やインド洋で採取されたさんごの交易で有名になった。職人が未加工のさんごから芸術的に仕上げた様々な装飾品は大いに珍重された。さんごの価値が尊ばれたため、聖書は興味深い比較を幾つか行なっている。知識や知恵は確かにさんごの価値をしのいでいる。(Job 28:18; Pr 3:15; 8:11; 20:15)有能な妻についても同じである。「その価はさんごよりもはるかに貴い」のである。―Pr 31:10.
2004年06月16日
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パークハーストの「新約聖書希英辞典」によると、ギリシャ語のアビュッソスには、「非常に、またはひときわ深い」という意味がある。リデルとスコットの「希英辞典」によると、それは「測りがたい、果てしない」を意味する。ギリシャ語セプトゥアギンタ訳は、Genesis 1:2.7:11.に見られるように、ヘブライ語のテホーム(水の深み)の訳語としてこの語をいつも用いている。アビュッソスはクリスチャン・ギリシャ語聖書中に9回出て来るが、そのうち7回は「啓示」の書に見られる。象徴的ないなごは、王アバドンまたはアポルオン、すなわち「底知れぬ深みの使い」の指導の下に「底知れぬ深み」から出て来る。(Re 9:1‐3、11)神の「二人の証人」と戦ってそれを殺す「野獣」も、「底知れぬ深み」から出て来ると述べられている。(Re 11:3、7)Revelation 20:1‐3.は、サタンが将来千年のあいだ底知れぬ深みに投げ込まれる時のことを描いている。あるとき悪霊の軍団がしないで欲しいとイエスに懇願したのはそのことだった。―Luke 8:31.
2004年06月15日
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「箴言」の目的の一つは、若者に知識と思考力を得させることである。(Pr 1:1‐4)「箴言」に収められた情報は、人生に目的のある方向づけを与えることのできる健全な思考や考えを人が形成するのを可能にしてくれる。思考力があれば、誤った道に進んだり悪影響を与える人と交わったりするとどんな結果になるかを悟ることができるので、そのような行動を取らないように守られる。これは当人にとって祝福となる。知恵と思考力は災難に至る活動に携わることのないよう人を守るので、その人の魂にとって命となる。その人は、悪行の責めを負っているために司法の手が自分に及ぶのではないかと恐れる必要はなく、安全を楽しむ。―Pr 3:21‐25.しかし、真に思考力を働かせる人が憎しみの的となる場合もある。Proverbs 14:17.の、「思考力のある者は憎まれる」という言葉は、この考えを言い表わしたものと考えられる。自分自身考えることをしない人たちは、知能を活用する人々を好意的に見ないことが少なくない。また、神のご意志を行なうことに思いを働かせる人は、概して憎しみを受ける。イエス・キリストが、「あなた方は世のものではなく、わたしが世から選び出したので、そのために世はあなた方を憎むのです」と言われたとおりである。(Joh 15:19)もちろん、Proverbs 14:17.の「思考力」に当たる原語の言葉は、悪意のある思考も含み得る。したがって、この聖句は、悪事を考案する者は憎まれるという意味にもなり、一部の翻訳はそれに従って、「また、邪悪なことを企てる者は憎まれる」と読んでいる。
2004年06月14日
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道徳上の卓越性に関する神の規準に適合しない事柄は、邪悪な、悪い、よこしまな、あるいは無価値な事柄である。ギリシャ語のポネーリアという語と同様に、ヘブライ語の動詞ラーシャとそれに関連した語形は、邪悪な事柄を意味している。ポネーロス(ポネーリアと関連がある)は、多くの場合、道徳的な意味でのよこしまな、もしくは邪悪な事柄を意味し、イエス・キリストが「無価値な実」と言われた場合のように、物理的な意味で悪い、もしくは無価値なものを指して用いられることもある。この語は有害なものを表わす場合もあり、啓示 Revelation 16:2.では、「痛む」、また「悪性の」と訳されてきた。
2004年06月13日
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それ自体は必ずしも必須のものではなくても、何かの事物の外観を引き立てることを意図した装飾の品。飾りは特に女性によって用いられたが、男性も用い、建造物を飾るために使われたり、時には動物に着けられたりもした。 聖書は霊的な美しさのほうに力点を置いている。親の懲らしめは人の頭にとって「優美な花冠」であり、のどにとって「立派な首飾り」、「美の冠」である。「知識の唇」は工匠の手による金のどんな器よりもすぐれた「貴重な器」である。「適切な時に話される言葉は、銀の彫り物の中の金のりんごのよう」であり、「聴く耳に向かって戒めを与える賢い者は、金の耳輪、特別な金の飾り」である。(Pr 1:9; 4:9; 20:15; 25:11、12) きれいでも分別の欠けた女性は「豚の鼻にある金の鼻輪」に例えられている。―Pr 11:22. 節度が、とりわけクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で励まされている。婦人たちは、「よく整えられた服装をし、慎みと健全な思いとをもって身を飾り、髪のいろいろな編み方、また金や真珠や非常に高価な衣装などではなく、神をあがめると言い表わす女にふさわしい仕方で、すなわち良い業によって身を飾る」べき。(1Ti 2:9、10)ペテロは、「神の目に大いに価値のある」、「もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした、心の中の秘められた人」の美しさを追い求めるよう婦人たちに勧めた際、キリスト教以前の時代の模範に訴えることができた。そして、そのようにして身を飾り、「自分の夫に服していた」サラのような女性たちのことを指摘した。(1Pe 3:1‐6) このように、聖書は、もしそれに従えば、飾りや装身具をふさわしく評価するための、またそれを適切な平衡を保って使うための導きとなる。
2004年06月12日
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『我意を張る』、また「片意地」と訳されているギリシャ語(Tit 1:7; 2Pe 2:10)は、字義通りには、「自分を喜ばせる」を意味し、「利己心に支配され、他の人を思いやらず、自分の意志を尊大な態度で主張する人を指して」いる。 したがって、我意を張ることはキリスト教の精神と相いれない特性である。使徒ペテロは、クリスチャンとしての正しい振る舞いからそれた人を「向こう見ずで片意地な」人と表現した。―2Pe 2:10.
2004年06月11日
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「格言的なことば」もしくは「格言的な言い回し」と訳されているヘブライ語(マーシャール)は「似ている」あるいは「比べられる」(Ps 49:12)という意味の語根語から派生したと一般に考えられており、実際、多くの格言的なことばには類似表現や比較表現が用いられている。中には、「格言的なことば」という表現を、「支配する」という意味のヘブライ語動詞と関連づける学者もいる。それで、この表現は時には支配者のことば、力のこもった表現、あるいは知的活動における優越性を暗示する言葉と解釈することもできる。この見解と一致するのは、知恵のあることで知られていたソロモン王が3,000の箴言を語り、それら格言的なことばの多くを記録したことである。―1Ki 4:32.
2004年06月10日
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この言葉には、注意を払わない、軽視する、(人または物事の)世話や扱いにおいて怠慢である、(命令や義務などの)実行や履行を怠るという意味がある。この語には、故意にまたは計画的に怠るという含みもあれば、単に無関心や不注意のために見落とすという含みもある。ヘブライ語には「おろそかにする、なおざりにする」という意味の語が幾つかあるが、その一つはパーラという動詞で、字義通りには『解く』という意味がある。(Nu 5:18)この語には、身体上の外見に関しては、「整えない」(Le 10:6)、振る舞いに関しては、『気ままに振る舞う』(Ex 32:25)という意味があり、懲らしめを「おろそかにする」または「避ける」などの意味もある。別の語はアーザヴで、字義通りには『捨てる』を意味している。(De 29:25; 1Ki 12:8)例えば、ネヘミヤは真の崇拝者たちにまことの神の家を「なおざりに」しないよう励ました。おろそかにするという意味の別のヘブライ語は、字義通りには緩んだ弓のような「たるみ」を意味している。ギリシャ語のアメレオー(「ない」を意味するアと、「気にかける」を意味するメローから)はさらにはっきりと、無関心、気にかけない、という考えを含んでおり、何かをうっかり見落とす、あるいは見逃すという考えを含むことはそう多くない。モーセの律法への不従順に対する厳しい処罰を描写してから、使徒パウロは次のように述べている。『わたしたちの主を通して語りはじめられたという点で、これほど偉大な救いをおろそかにした[ギ語、アメレーサンテス、「(について)無関心でいた」]場合、わたしたちはどうして逃れられるでしょうか。しかも神は、その証しに加わられたのです』。ここでパウロは、『流されること』、つまり独り子を通して語られた神の言葉に対する不従順が、見落としの問題ではなく、関心の欠如の問題であることを示している。
2004年06月09日
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個人または集団が当然受けるべきところにしたがって報いもしくは処罰を施すこと、または受けること。特に悪に対する返報として加えられる、もしくは要求される事柄。 ヘブライ語の語根動詞シャーラムとガーマルの変化形または派生語は、「報い」、「返報」、「応報」、「相応する報い」、「返報する」、「返す」などと訳されている。ギリシャ語のアポディドーミ、アンティミスティア、ミスタポドシア、およびそれらと関連のある語も同様に訳されている。
2004年06月08日
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占いとは一般に、心霊術的なオカルトの力の助けによって、秘められた知識、とりわけ将来に起きる事柄に関する知識を得ようとすることに関係したすべての分野を包含する。 占いをする人は、ある種のしるしや兆しを読んでその意味を解釈する訓練を受けた人々に超人間的な神々が将来の物事を啓示する、と信じている。彼らは、そのようなしるしや兆しが次の様々な方法で伝えられる、と言う。すなわち、天文現象(恒星や惑星の位置や運動、食、流星)、地球の物理的な力(風、あらし、火)、生き物の行動(犬のほえ声、鳥の飛行、へびの動き)、茶わんの中の茶の葉の様子、水面にできる油膜の形状、矢の落ちる方向、犠牲動物の体の器官(肝臓、肺臓、腹わた)の外観、手のひらの筋、くじ引き、死者の「霊」などである。 ある種の占いには特定の名称が付けられている。例えば、ローマ人の間で流行した、兆し・異兆・思いがけない現象などを調べる吉凶判断、手のひらの筋から未来を予告する手相術、肝臓の様子を見る肝臓占い、内臓の様子を見る腸卜占い、矢で行なう矢引き占い、占い棒を用いる棒占い、夢で占う夢占い、死者に問うとされる口寄せ。ほかに、水晶占いや託宣などもある。
2004年06月07日
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着実で、たゆむことのない活動; 骨身を惜しまない努力; 精励; 熱心。 この語は一般に、適法で有益な労働を暗示する。無精や怠惰の反意語である。 聖書の中で「勤勉」と訳されているギリシャ語は、しばしば「真剣さ」、「真に真剣」、または「真剣な努力」とも訳される。「急ぎ」、「速さ」、「忙しさ」などの訳語でこの言葉の意味が伝えられている場合もある。
2004年06月06日
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古代人の間では、喪の期間に肉体に切り傷を付けることや、腕、手、顔にかき傷を付けることが普通の習慣であったようである。(Jer 47:5; 48:37)このことは死者たちの上に権威を振るうと考えられた神々を、静める、もしくはなだめる目的で行なわれたと考えられる。ギリシャの歴史家ヘロドトスは、スキタイ人の王が死んだ際、彼らの間でこの習慣が守られたことに言及し、こう書いている。「彼らは耳の一部を切り取り、頭をそり、腕の周りに切り傷を付け、額や鼻をかきむしり、矢で左手を突き通す」。しかし、傷を付けて肉体を苦しめることは喪の儀式の場合に限られてはいなかった。バアルの預言者たちは、自分たちの神が請願にこたえてくれることを期待しつつ、「彼らの習わしにしたがって短剣や小槍で身を傷つけたりして、ついにその身に血を流れ出させるように」なった。(1Ki 18:28)同様の儀式は古代の他の民族によっても行なわれた。例えば、ヘロドトスは、イシスの祭りの期間中、エジプトに住んでいたカリア人が小刀でその額を切ったことを述べている。 神の律法は、死者のために肉体に切り傷を付けることを明確に禁じていた。(Le 19:28; 21:5; De 14:1)その理由は、イスラエルが神にとって聖なる民、その特別な所有物であったからである。(De 14:2)そのような立場にあったイスラエルは、偶像礼拝的なあらゆる慣行から離れていなければならなかった。そのうえ、自分の肉体に傷を付けて苦しめることを伴う、そのような悲嘆の極端な表現は、死者の実際の状態と復活の希望を熟知していた国民にはあまりにそぐわないことだった。(Da 12:13; Heb 11:19)また、自己の体を損なうことを禁じた規定は、イスラエル人に人体という神の創造物に対する正しい敬意を植え付けたことだろう。しかし、イスラエル人は肉体に切り傷を付けることに関して、神の律法を無視したこともあったようである。―Jer 41:5.Mic 5:1.(現在のイスラエル国民とは異なる)
2004年06月05日
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精神錯乱。精神異常、または極端な憤り、もしくは甚だしい愚かさを示す状態。聖書の中で、長期にわたるものにせよ、一時的なものにせよ、そのような精神の混乱した状態を表わすのにヘブライ語やギリシャ語の様々な言葉が用いられている。それらの言葉の中には、発狂した人の異様な、時には激しい、または悲痛な叫びと関連づけられているもの、あるいはそれに由来するものもあるようである。
2004年06月04日
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人間または動物の身体。 ヘブライ語のゲウィーヤーという言葉は、生きたものであれ(Ge 47:18)死んだものであれ(1Sa 31:10; Ps 110:6)、体を表わす。 ヘブライ語ネヴェーラーは、ナーヴェール(「枯れる」; 詩 1:3)という語根動詞から派生しており、「死体」、「死がい」などと様々に訳されている。(Le 5:2; De 14:8; Isa 26:19) ヘブライ語で肉を意味する言葉バーサールは全身を表わす場合がある。「体」を表わすのに普通使われるギリシャ語はソーマ(Mt 5:29)だが、Acts 19:12.では、字義的には「皮膚」を意味するクロースが「体」と訳されている。語根動詞ピプトー(倒れる)から派生したギリシャ語プトーマは、倒れた体、すなわち「遺体」を指している。(Mt 14:12)様々な種類の肉体は、それぞれの種類の肉と生命力とから成っている。―1Co 15:39; Jas 2:26; Ge 7:22.
2004年06月03日
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研究者たちは研究や観察により、宇宙の事物には様々な一定不変の働きがあることを明らかにしており、自然現象の中のそうした一定不変性を包含する法則が存在することを認めている。その一例は“重力の法則”である。科学者たちは、それらの法則が複雑ではあっても、信頼できるものであることを認めており、それらを“法則”と呼んで、そのような法則を実施しておられる方が存在することを暗に示している。 懐疑論者は奇跡を自分たちが自然で、変更できない、不変なものとして受け入れている法則に反する事柄とみなす。それゆえ、懐疑論者は、奇跡は決して起きないと言う。それらの法則に関する人間の理解の範囲内でそれを理解したり説明したりすることができないなら、それは起こり得ないとする懐疑論者の態度を念頭に置くのは良いことである。 しかし、有能な科学者たちは、ある特定の事柄を不可能であると言うことについては、ますます用心深くなっている。米国のペンシルバニア大学のジョン・R・ブローベク教授は次のように述べた。「科学者は、ある事柄が不可能であると誠実に言うことはもはやできない。それは起こりそうにもないとしか言えないのである。しかし、ある事柄は現在の我々の知識の点からすれば説明不可能だとは言えるかもしれない。物質のすべての特性やエネルギーのすべての形態は科学により今やすべて知られていると言うことはできない。……[奇跡について言えば、]付け加えておく必要のある一つの事柄は、我々にとって生物学的にも生理学的にも未知のエネルギー源である。聖書では、このエネルギー源は神の力であることが明らかにされている」。(タイム誌、1955年7月4日号)この言葉が述べられて以来、科学はさらに進歩を遂げたので、その趣旨は一層強調されてきた。 科学者は熱、光、原子や原子核の働き、電気などの特性、あるいは物質の形態の特性をそれが普通の状態にある場合でさえことごとく十分に理解しているわけではない。異例の、もしくは異常な状態のもとでのそのような特性に関する科学者の理解はなお一層不足している。例えば、極度の低温状態での調査が大規模に行なわれるようになったのは比較的最近のことで、これまでの短期間に諸元素の数多くの不思議な働きが観察されてきた。鉛は電気の理想的な伝導体ではないが、-271℃まで冷却した液体ヘリウムに浸すと、不思議なことに超伝導体となり、そのそばに棒磁石を置くと、それは強力な電磁石となる。このような超低温状態では、ヘリウムそれ自体はガラスのビーカーの側面をはい上がり、縁を乗り越えて容器の外へ流出し、重力の法則を無視しているように見える。 これは科学者たちを仰天させ、科学者に以前の考えを覆させたように思われる数多くの発見の一例である。では、神が人間にとって驚くべき奇跡的な事柄と思える強力な業を行なったからといって、神はご自分の法則を破ったなどと言える人がいるだろうか。確かに、物質宇宙の創造者は、ご自分の創造したものを完全に制御し、ご自身がそれらの事物のうちに内在させた法則の枠内でそれらのものを操作することがおできになる。神はそのような業を行なうのに必要な状況を生じさせることがおできになる。種々の反応を速めたり、遅くしたり、緩和させたり、中和させたりすることがおできになるのである。あるいは、人間よりも大きな力を持っているみ使いたちが、創造者である神のご意志を遂行する際にそうすることもできる。―Ex 3:2; Ps 78:44‐49. 科学者がある化学作用の進行を速めたり、遅くしたりするために、熱を加えたり、温度を下げたり、あるいは酸素を加えたりしても、物理的法則を無効にしたり、あるいはそれを超えて物事を行なったりしているのでないことは確かである。それでも、懐疑論者は創造の“奇跡”を含め、聖書中の奇跡を疑う。そのように疑う人たちは事実上、自分たちはこれまでに生じた状況や過程すべてに精通していると主張していることになる。創造者の働きは物理的な事物を支配している法則に関して自分たちの理解している狭い範囲に限定されなければならないと主張しているのである。 スウェーデンのプラズマ物理学の一教授は科学者たちのこの弱点を認めて、次のように指摘した。「地球の大気が力学や原子物理学の諸法則に従っていることを疑う者は一人もいない。それでも、それらの法則が大気の諸現象に関係したあらゆる状況に関してどのように働くかを確認するのは我々にとって極めて困難なことであると言えよう」。同教授はこの考えを宇宙の起源に当てはめた。神は地球や太陽や月を支配する物理的な法則を定められたので、その枠内で人間は驚くべきことを行なえるようになった。確かに神は、人間の予期しない結果を生じさせるために諸法則を働かせることもおできになったはずである。紅海を二分して、両側で『水が壁になる』ようにさせるのは、神にとって少しも問題ではなかっただろう。(Ex 14:22)人間にとって、水の上を歩くことは驚嘆すべき離れ業だが、『天を目の細かい薄織りのように張り伸ばしておられ、それをその中に住むための天幕のように広げて』おられる方の力をもってすれば、いとも容易にそうすることができただろう。さらに、神は天にあるものすべてを創造し、それを支配しておられる方として描写されており、「満ちあふれる活動力のゆえに、その方はまた力が強く、それらの一つとして欠けてはいない」と言われているす。―Isa 40:21、22、25、26. 重力の法則などの存在を認めるには、超人間的な卓越した知性と力のある法則制定者の存在が前提となる以上、驚嘆すべき事柄を行なうその方の能力をなぜ疑うのだろうか。その方の働きをなぜ人間の知識や経験の極めて狭い範囲に限定しようとするのだろうか。そのようにして自分たちの知恵を神の知恵と対抗させる者たちを神は闇と愚かさに陥るままにさせるが、族長ヨブはそのさまを描写している。―Job 12:16‐25.
2004年06月02日
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驚異もしくは驚嘆の念を引き起こす出来事。人間もしくは自然界のあらゆる既知の力を超越した物質界の作用で、またそれゆえにその原因が超自然的な働きに帰せられる作用。 ヘブライ語聖書の中で時々「奇跡」と訳されているモーフェートという言葉には、「異兆」、「不思議」、および「印」という意味もある。(De 28:46; 1Ch 16:12)この語はしばしば、「しるし」という意味のオートというヘブライ語と一緒に使われている。(De 4:34)ギリシャ語聖書では、「力」という意味のデュナミスという言葉が、「強力な業」、「能力」、「奇跡」などと訳されている。―Mt 25:15; Lu 6:19; 1Co 12:10. 奇跡とは、見守る人の能力ではとても行なえない、もしくは十分に理解することさえできないため、見守る人の目を見張らせるような事柄である。また、それは見守る人が持っている以上の大きな力、もしくは膨大な知識を要する強力な業。しかし、それはそのような力の源となっている方から見れば奇跡ではない。奇跡を行なう方はそれを理解しており、またそうする能力を持っている。であるから、神のなさる数多くの働きは見守る人間を驚嘆させるが、その働きは神がご自分の力を行使された結果にすぎないのである。もし神を、とりわけ創造の神を信じるのであれば、見る人に畏怖の念を起こさせる事柄を成し遂げる神の力を否定するのは首尾一貫したこととは言えない。―Ro 1:20.
2004年06月01日
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