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楽天ブログから移動するにあたり、総括を少ししてみたくなりました。楽天ブログをはじめたころは、ブログサービスが出始めも出始めの頃でした。それで、そのはじめには、 『僕のHPでの、「宗教的な内容」についての基本的な考え方について』 とあらかじめ宣言して、自分の考えを綴っていたわけですが、実際は、学んでいる人にはわかっていたように、僕は、幸福の科学を信仰しています。楽天ブログをはじめたときに、特定の宗教を勧めるものではない、とあえて宣言していたことには、大きく2つの理由があります。ひとつは、幸福の科学においては、法がまちがって伝わらないように、十分に学ばなければ、講師のようなまねをしてはいけない、という明確な決まりごとがあるということです。この決まり自体は、今でも十分に生きているものだと思いますが、ブログというサービスがはじまったときに、さて、ここに幸福の科学の名前を出していいものか、と大変悩んだものでした。それは、学びの未熟な自分がそうした活動をすることで、幸福の科学本体にご迷惑をかけてしまわないか、という恐れのようなものでした。これについては、今でも、よくよく自戒しなければならないことだと、考えています。ただ、現在の幸福の科学では昨年幸福実現党を立党し、世間での認知度も80%を超えるようになり、また、さらにブログサービスも一般化し、多くの会員の皆さんが、自分の考えや信仰を、ブログやツイッターなどで表明されることが多くなってきましたので、もうそろそろこの足かせははずしてもいいのかなと、思うようになった次第です。(この決意自体は、遅いほうかもしれませんけど。もう、かなり以前から、多くの会員の皆さんがブログ活動をやっていますから。)もう一つの理由は、5年前のその頃には、まだ、霊的なことに一般的ななじみが薄かったということがあります。僕がブログをはじめた頃は、細木さんや美輪さんや江原さんが、ようやくテレビにではじめたくらいのものでした。今では、お三方ともテレビの世界からは退いておられ、どうやらこうした霊的なはしりみたいな現象は終わり、(お三方には、ある一定の使命があったとは思っています。)ようやく本格宗教の時代が到来したのだと考えています。言葉を換えれば、真実の信仰を、万人が持つ時代です。この新しい時代の扉を開けようとして、今、日本全国の同志たちが、汗みどろになって活動しています。僕もそのうちのひとりです。さて、しかし、この楽天ブログをはじめたころには、僕は、浅はかにも、この幸福の科学の信仰を元に、ブログを綴ることで、その「特定の宗教」ということで壁をつくってしまって、多くの人が、せっかくの真実の法に触れる機会を失ってしまうのではないか、と考えたのです。幸福の科学という宗教の看板がなければ、どの内容もみな、素晴らしいといっていただけるのに、宗教の名前を出したとたん、そこで思考がシャットダウンしてしまう、というのが、あの頃の、そして、今でも、多くの日本人が持っている特性だろうと思います。それは、確かに真実で、僕としては、なんとかして、悩める方のところに、この真理をお伝えして、本当に幸福になっていただきたいと考えて、「特定に宗教に依らないこと」としていたのですが、5年たった今、それは、大きなまちがいであったと、深く反省しています。やはり正しい信仰の上に、すべての幸福の方法論がなりたつのだということが、会員になって20年以上、今ようやく腑に落ちました。その気づき自体を、移転先のアメーバブログにすでに綴りました。さらに、ヤフーブログには、この楽天に綴ったことが、幸福の科学のどの法と関連するのかといったことなどを、自分の学びのためにも綴ってみようかと考えています。そのこと自体が、今、幸福実現党という名前を知った皆さんが、次には、幸福の科学の教えの中身はどんなものなのか、それは、日本の、そして、世界の人々を、真実に幸福にするものなのか、という、その疑問に答える入り口になると思うからです。Tatsu1965 あらため 中村龍盛
2010.07.10
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僕は、今、インナーチャイルド改訂版という本を、精読する機会に恵まれていますが、その中で、瞑想用BGMとして紹介されている音楽がありまして、それを、今回、聞いてみたところ、非常に素晴らしく、ご紹介をしたくなりました。ジョン・ブラッドショー氏が、瞑想用BGMとして紹介しているのは、「ダニエル・コビアルカ」という方の「家路」という曲です。そこで、「家路」を含むCDをはじめ、今回3枚今回購入して見ました。家路「エンジェルズ」「歓喜の歌」星に願いをそれらのCDの中にあるコビアルカの紹介等の文章を、引用しておきます。まず、ダニエルコビアルカの、「見性」・「ピークエクスピアリアンス」のお話です。ダニエル・コビアルカは若い頃からすでに、「音楽には、何か心におよぼす力があるのではないか」と気づくようになりました。15歳のある日、カーネギーホールの舞台で演奏中、今まで日常感じたことのなかった、すべてのものがひとつにつながっている次元が、確かに存在するのを感じるという経験をしたのです。後のコビアルカは「バイオリン演奏を通じて、私が非常に深い瞑想状態になっていたのでしょう」と述べていますが、当時のコビアルカ少年にとって、この出来事は、<音楽と心の関係>を探究する決定的な契機となったのでした。次は、ダニエル・コビアルカのコメントです。私たち人間の内側には、美しさの記憶というものがあります。それを天使と呼ぶこともできるのではないでしょうか。私たちが「天使」のことを思うとき、純粋な気持ちになり、希望に満ち、勇気や強さを与えてくれ、すべてがひとつであることを思い出させてくれます。この素晴らしい地球は聖なる場所であり、私たちにさまざまなものを与えてくれます。私たちの人生は、たくさんのものが絡みあっていても、本当はシンプルなものです。By.ダニエル・コビアルカ最後に、ジョンブラッドショー氏の、コビアルカ推薦の言葉です。わたしはコビアルカ氏と彼の音楽に感謝している。インナーチャイルドに出会うワークショップにおいて、「家路」は参加者のヘルプとなる、最もパワフルな音楽である。By.ジョン・ブラッドショーコビアルカの音楽は、欧米の専門医師や心理療法家たちによって、医療の現場で頻繁に使われているそうです。幼児期のトラウマを癒すインナーチャイルド・ヒーリング・セラピー、外科手術の最中、分娩・出産時、ガン治療に有効な瞑想法などのBGMなど、さまざまな使用法が、専門家たちによって紹介されているそうです。
2005.12.18
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辛い記憶は思い出さなくてはならないものなのか...つまり、僕がここで書きたいことは、こういうことです。過去を振り返って、現在の生きづらさの原因を見つけましょう。ということです。この原因がわかっただけでも、ずいぶんすっきりするものです。そして、その過去の葛藤の頃の感情は、心の中の、たとえて言えば、固い土くれの中に閉じ込められていますから、そこに閉じ込められた鬱積した感情を、すべて表出させましょう。ということです。それは、時期的なものもあると思います。タイミングのようなものもあるでしょう。母の体験は、かなり、宗教的な「許し」の境地になっていますが、齢65歳の人生歳晩年の境地ですから、葛藤の深く大きい場合は、若いうちにそこまでいくのは、むずかしいかもしれません。苦しみを見つめることが、かえって、自分を追い詰めるようなことになるのなら、それは、まだ、過去を振り返るには、まだ早いのかもしれません。時期を見計らう必要があるかもしれません。そこは、ご自分の状態を良く考えてくださいね。けれども、人生のどこかの時点では、最終的には、必ず、苦しみの根っこを探し当てることが必要なのだと思います。ただ、まず、そこで目指すべきは、「許し」や「和解」の前に、嘆くべきことを嘆き、悲しむべきことを悲しむことです。そして、十分に嘆いたならば、次には、自分の人生を、客観的に見ることができるようになることだろうと思います。自分を客観的に見ること。自分の環境を客観的に見ることができること。そして、等身大の自分を発見すること、です。過去の葛藤や失敗や挫折で、自分に価値などないと見るのでなく、また、きちんと、努力もしていないで、井の中の蛙となって、自分は人よりも偉いのだと奢るのでなく、自分と自分のおかれた環境を、冷静に、客観的に、第三者の目で、感情を離れて、理性的な目で見つめることができるようになることです。誰しも、家庭や社会の中で生きぬく中で、自分の本当の姿を見失ってしまうことが、おうおうにしてあります。厳しい競争社会の中で、自分の本当の姿がわからずに、尊大になりすぎてしまったり、卑屈になってしまったりします。ですから、いつかは、根本的な問題と向き合い、自分の本来の姿を、自分で見ることができるようになることが必要である、というのが、現時点での僕の結論です。そして、葛藤のあった相手もまた、心の中に、幼い傷ついた子供の心を抱えて苦しんでいる、自分と同じアダルトチルドレンである、ということを、客観的に理解する、ということです。ここまでくることも、やはり、むずかしいことかもしれませんが、相手に対する深い「理解」までできれば、それは、相手を、愛するということ、そして、和解するということ、許すということ、までは、非常に距離が短いところまできています。「インナーチャイルド」と「コア・マテリアル」 で、「コア・マテリアル」として触れたように、過去の記憶を清算しないと、いつまでも、ゆがんだレンズを通して、自分の人生を見てしまいますし、その見た世界観に基づいて、人生の岐路での判断をしてしまいますから、実にパターン通りに、おなじようなところでつまずく結果になってしまいます。ですから、これを、正しい見方に修正すること、これが、仏教的にいえば、「正見(しょうけん)」正しく見るということなのです。 「正見(しょうけん)」と「正定(しょうじょう)」にも書いたように、八正道の大きなポイントは、「正見(しょうけん)」と「正定(しょうじょう)」にあります。
2005.10.16
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辛い記憶は思い出さなくてはならないものなのか...インナーチャイルド改訂版のジョン・ブラッドショー氏によれば、その答えは、「YES]です。僕も、確かに、そう思います。ここは、長い長い引用になりますが、大事なところなので、「インナーチャイルド 本当の自分を取り戻す方法」から引用させていただきたいと思います。ジョン・ブラッドショー氏は、この作業を、オリジナルペイン・エクササイズと呼んでいます。----------------------------------------------------オリジナルペイン・エクササイズは、抑圧されている原感情を実際に感じとり、体験することです。私はそれを、「再体験過程」と呼んでいます。私の一人ぼっちで傷ついたインナーチャイルドは、一度も初期の苦痛の解放をしていなかったため、私は強迫的に行動化を繰り返していました。アルコール依存症のプログラムに参加し、自分のアルコール依存症を抑えました。しかし、強迫的行動はほかの形で続いたのです。(中略)私がその時気づいていなかったのは、自分の内に潜むうちひしがれた小さな男の子の孤独感と、父や家族、自分の子供時代の喪失体験による悲哀感が、未解決のままになっていることでした。私は、このオリジナルペインを、温かく抱きしめてやる必要があったのです。これこそが、カール・ユングが言っている、「悩むべくして悩む悩み」なのです。「執着」と「苦しみ」について 参照オリジナル・ペインエクササイズの中には、自然の治癒過程が含有されています。グリーフ(悲しむこと)は癒しの感情です。私たちが悲しむことを許されるならば、自然に自分を癒してゆけるのです。グリーフ・エクササイズがなされないからこそ、傷ついたインナーチャイルドは凍結されているのです。仮に今でもあなたが辱められ、無視され、あるいはかつて両親をなだめる役割をしていたという事実を合理化したり、矮小化したりしているならば、そのこと自体があなたの心を傷つけているという事実を受け入れる必要があります。あなた方のうち何人かは、肉体的、性的、精神的にひどい仕打ちを受けたことでしょう。ではなぜ、私たちは明らかな虐待を認める必要があるのでしょうか。不思議なことに、ひどい仕打ちを受けた人ほど、自分が悪かったと思ったり、両親を理想化するものです。(中略)すべての子供が両親を理想化します。それは、子どもたちが生き抜いていく術なのです。しかし、苦しい虐待を受けた子供が親を理想化すると、その子どもはその虐待を受けたのは、自分のせいだと思うようになるのです。「親がたたいたのは、自分が悪い子だからだ」「親が自分にセックスしたのは、自分が悪い子だったからだ」「親が自分をどなりつけたのは、言うことをきかなかったからだ」「自分のせいであって、親は正しいのだ」と。親の理想化は、自我防衛の核となっています。それを捨て去る必要があります。親自身は確かに悪かったわけではありません。彼らも傷ついたチャイルドだったのです。次のことを想像してみてください。あなたの5倍もある70キログラムの体重の3歳の子どもと、あなたの4倍もある55キログラムの体重をもつ3歳の子どもに、育てられているあなた自身をです。そうすると、あなたのインナーチャイルドが浮き彫りにされてきます。両親は自分たちにできるベストを尽くして、あなたを育てました。しかし、それは、3歳の子どもであった彼らの手に負えることではなかったのです。今まで述べたことが、あなたにとってショックなことだったなら、それは素晴らしいことです。なぜなら、ショックは悲哀の始まりだからです。ショックの後に抑うつがきて、否認がおこります。否認は自我防衛を再び呼び起こします。また、それは普通ひらきなおりのような形でおこります。「まぁ、そんなに悪くはなかったさ。雨露はしのげたんだし」といったりして否認しています。私を信じてください。それは、あなたにとって本当にひどいことだったのです。精神的に傷つけられること、すなわちあなたの両親が、あなたがあなたであることを禁じるのは、あなたにおこりえる最悪のできごとなのです。あなたが怒りをあらわにした時、「親に向かって2度とそのような大声を出すな!」と言われたはずです。そのようなことの積み重ねであなたは、自分であること、怒ったりすることは、良くないことだと学びました。恐怖や悲しみ、喜びを感じたときにも同様なことがあなたにおこったのです。あなたがとても気持ちいいと感じたとしても、(親や兄弟やあるいはその他の他の人が)自分の性器を触ったりすることは良くないことだったのです。あなたが感じることを感じたり、思うことを思ったり、欲しいものを欲しがったり、想像することを想像したりすることは、良くないことだとされてきました。ときには、見たり、匂いをかいだりすることもダメでした。結局、あなたは他人と違ったことをしたり、自分自身であることをダメとされてきたのです。私が言っていることを受け入れ、理解することは、傷ついたインナーチャイルドの核に横たわっている心の傷を認め、その存在を確認することなのです。悲哀の過程で普通、次に現れる感情は怒りです。それもまた精神的な傷に対する反応として、当然出てくる感情です。確かにあなたの両親は、あなたを育てるためにできる限りのことをしたかもしれません。しかし、オリジナルペイン・エクササイズでは、あなたの両親の意思は関係ありません。問題は、実際にあなたにおこったことです。たとえば、あなたの両親が車をバックさせて道へ出ようとした時、誤ってあなたの足をひいてしまったとしましょう。それ以来、あなたはずっと足が不自由になりましたが、あなた自身は、その原因を知らないとします。あなたは、過去に自分に何が起こったか知る必要がありますか?また知ることによって傷つき苦しむ必要がありますか?この二つの質問に対する答えは、言うまでもなく「はい」です。たとえ故意でなくてもあなたにおこったことに対して、怒ることは当然のことです。事実、あなたが自分のインナーチャイルドを治癒したいと思うならば、怒るべきです。しかし、私はここで絶叫したり叫んだりする必要があるとは言っていません。(あなたはそうするかもしれませんが・・・)ひどいことに対して怒ることは当然だと言っているだけです。過去に私におこったことに対して、責任があるのは両親だとは言っていません。二人の中に潜む傷ついたインナーチャイルドがなしうる限りの力を尽くして、私を育てたことは知っています。しかし、またそのことが、私たちが自分や他者に対してしていることをとめる責任は、すべての自分たちにあるのだということです。今後私は、自分の家族システムを牛耳っていた機能不全といじめに、我慢することはないでしょう。怒りの後には、心に傷がつき、悲しみがやってきます。仮に私たちがなんらかの犠牲になっていたとするならば、私たちはその裏切り行為に対して悲しみを表すべきです。あるいは、今まで夢や野望になりうるはずだったものに対しても悲しむべきです。私たちは満たされなかった発達欲求の弔い(グリーフ)をする必要があるのです。心の傷や悲しみの後には、しばしば自分を責めることがあります。このことが別の形でおこっていたならば、別のやり方があったのに、という言い方をよくします。つまり「もし私が父親をもっと愛し、自分には父親が大切な人だとちゃんと伝えていたならば、私を見捨てたりはしなかったのに」という考えです。私が近親相姦や肉体的にひどい仕打ちを受けた、犠牲者たちをカウンセリングした時のことです。彼らのほとんどが、自分におこった事件に対しては、自分が悪く、最悪感や自責の念を抱いていました。私たちは周りの誰かが死んだ時、嘆き悲しみ、その人ともっと一緒にいてあげればよかった、などと自責の念にかられることがあります。しかし、子どもに時代に見捨てられたことをグリーフする時には、幼い子どもには別のやり方がなかったのだということを、十分にあなたのインナーチャイルドにわからせてあげることが大切です。苦痛は、彼におこったことなのであって、彼自身のことではないからです。(私たちは)見捨てられたことによって恥ずかしさを感じるようになったのです。自分が汚れているかのように、悪いのは自分だと思うようになります。その恥辱感はやがて孤独感へとつながっていきます。インナーチャイルドは、欠乏感や欠陥があるという感覚を持つので、真の自己を適応した偽りの自己で覆い隠さざるをえません。そして、偽りの自己のアイデンティティを形成していきます。真の自己は疎外され、孤立したまま置き去りにされます。苦痛感情の最深部の鉱床にい続けることは、グリーフ過程の最もつらい部分です。「たった一つの方法は、そこを通り抜けること」。私たちは治療場面で、いつもこのことを言っています。恥と孤独レベルにとどまることはきついことです。しかし、私たちがこの感情を温かく包み込むことによって別の面が生じてきます。私たちはずっと隠れてきた自己に出会うことができます。私たちが自分からの他者からも隠してきた自己を、はっきりとみることができます。自分の恥辱感と孤独感を温かく包み込むことは、真の自分に触れはじめたことになるのです。インナーチャイルド改訂版より
2005.10.15
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さて、母の反省的瞑想の体験談を紹介させていただきましたが、その内容は、みなさんの心に、良くも悪くも、少なからず、ショックを与えたもののようです。まず、一番多いのが、「幼い頃の記憶をなかなか思い出せない」というご意見です。なるほど、確かに、過去の記憶を思い出すのは、簡単ではないのだろうと思います。母も、足掛け14年の修行の日々です。もちろん、それ以前の苦悩の日々を考えれば、もっともっと長い歳月をかけて、魂を磨いてきたのだといってよいと思います。通常は、なかなか思い出せなくて当然だろうと思います。特に、虐待の度合いがひどければひどいほど、辛ければ、辛いほど、思い出すことができないのでしょう。たぶん、僕が思うには、精神的に危機的な場合は、自分の精神を防衛するための手段として、記憶をさせないような機能が、人間にはあるのではないかと推測しています。そして、その辛い記憶を封じ込めるために、固く固く心が閉ざされていくんだろうと思います。それは、例えていうならば、心というのは、「畑」のようなものみたいな気がします。耕せば耕すほど、柔らかくて、柔軟で、豊かな実りをもたらすものになるわけですが、耕さないと、固い固い、鍬の歯もはじめはたたないような土の塊となる...そういうイメージがします。で、その固くなってしまった畑のような心を耕すためには、一鍬、一鍬、ちょっとづつ耕していくと…それが、今日一日の出来事を振り返ることですし、そうしていくと、1週間先、1ヶ月先…と、だんだん、心の奥深くに入っていけるようになるようです。僕が、そんなことを考えていたのは、おおよそ20歳の頃です。もう、その頃には、僕は、反省や瞑想という手法を明確に知っていて、そうしたことに考えをめぐらせる日々を送っていました。その頃には、無農薬栽培のお茶を栽培している農場で、アルバイトをしてみたこともあります。農薬を使わないので、お茶の枝に絡みついた、つたのような雑草を、一本一本解きほぐして、根っこまで掘り起こして、そして、根っこごと、その雑草を取るという作業をしたことがあります。そのときに、あぁ、反省っていうのは、こういう作業かもしれないなぁと思いました。表面のつただけをとっても、根っこが残っているから、後から後から、そのつたが生えてくるんですね。だから、根っこから、取り除かなくてはいけない...でも、根っこにたどりつくためには、表面的なところから、解きほぐしていかなくてはいけない...僕の母の体験でも、先日の弟の体験でも、現在の葛藤を見つめるところからはじまっています。今日一日を振り返ること、最近1週間を振り返ること、そして、この一ヶ月を振り返ること、さらに、1年前、5年前、10年前と、エポックを振り返る習慣をつくっていくと、幼い頃のことも、思い出せるときがくるのではないかなぁと思います。
2005.10.14
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(私の今の心境のうたです。)一、主に愛されて 主の命を受けこの恵みの中に 生きてきた日々に苦しい時はなぐさめを かなしい時に喜びを私に下さった感謝の心で 主の愛を示し望みを主にかけて この日を生きたいニ、主に心をむけて 祈るひと時を多くの人々のために ささげたい神の望み御心に あわせて愛の行いを私に出来るなら 感謝の心で主の愛をしめし 助けを主にもとめこの日を生きたい三、主に愛されて 主の命を受けこの恵みの中に 生きて行く日々にやすらぐ心保つため 涙を希望のともしびに返れるなら 感謝の心で主の愛をしめし望みを主にかけて この日を生きたい(私の賛美歌になりました。)手をつなぎ輪になり踊りましょう。ラララ、ラーララ、ラーララ ラーララーララ、ラーララ ラーラララララ、ラーララ、ラーララ ラーララ春の雨のように 主の哀れみがのぞむゆたかに 私の胸に 降りそそぐさあ今 受け取ります恵み 哀れみ 永遠に喜び踊ろうと一人でも多くの人を この輪の中に 招き入れたいのです。祈り主よ、あなたの愛の中でいこわせていただいて感謝します。私をどこに導いて、人々を愛させてくださるか期待で毎日わくわくしています。賛美と、感謝と、喜びを持って、静けさのうちに、イエズス様の教えられる真理を追究させていただきます。ありがとうございます。 おわり 2005年7月
2005.09.16
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♪主よ、あなたにささげます。♪私の自由を、私の記憶、知恵、意志を、みな受け入れてください。♪私のものは全てあなたからのものです。♪今すべてをささげます。みむねにゆだねます。♪あなたの愛と恵みをください。♪愛と恵みで私は満たされる。それ以上は何も望みません…、この賛美歌も、心から歌うことができるようになり、自分のものとなりました。その後、聖体拝礼の時には、すぐこの祈りから初めるようになりました。そして、すっとイエズス様の御心に入り私は自由です。礼拝四回目主人との生活よく頑張った人でした。礼拝五回目息子三人とのかかわりごめんなさいとあやまる事がいっぱいでした。(子供の気持ちを考えなかったことに…。)礼拝六回目隣人とのかかわり多くの近所の方々に、たくさん良くしてもらい、愛されてきたことが思い浮かびました。祖父母、父母、兄、姉、妹からなども…。礼拝七回目それから、ずっと神の愛の内にとどまり、くつろいでいます。自己中心から神中心に価値観が変えられました。回りの状況は変わっていませんが、回心したとは、こんなことを言うのでしょう。また、息子が言うように性格が変わったのでしょうか。
2005.09.15
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私を通して神の力が働きますように願います。主よ、御国の建設に参加するよう呼びかけてくださって感謝します。今日まで自分は、この与えられた体と命を自分のものと思い、足腰や肩が「もう限界だよ」と教えてくれているのに、叱咤して、使うだけ使い、ボロボロになる寸前だったと気付き、イエズス様の御言葉の「私の恵みは、貴女に十分である。力は弱さの内にこそ十分に発揮されるのだ」(パウロ、コリントの手紙2,12,9)との意味も、心から理解させていただいた時間でした。(自分の体力・能力の限界を認めた日でもありました。)三人の息子も、我が家のことも、これも自分のものではない。神様から与えられて預けていただいているもので、自分のものは何もない事にも…。これから、大切にあつかって、お返ししなければいけないと、又、繰り返し誓いました。
2005.09.14
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十字架上での苦しみの内で、イエズス様は御父に祈られます。「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)そう祈るイエズス様のお姿が思い浮びました。なんと、あたふたした自分のために祈ってくださっているイエズス様。自分もイエズス様を苦しめていたとは…。申し訳なさに許しを願い、ありがたさに感謝して涙しました。それから、時間が足りない。「この焦りの心は、なぜ?」と、考えていると、二つほど、その原因が見つかりました。 その1主人が十五年前、仕事中に急性心不全で、突然あの世に旅立ちました。私もいつ死ぬか分からない。明日死んでも良いように、身の回りを整えて、やりたいことをして、後悔のないようにしよう、と思っていたこと。その2主人が残していった、三人の息子達と、この住まい(家)を私が守らねばならぬ。この二つが執着になっていたことに気付かさせて頂きました。実は、自分が守らなければ…、と、力んでいたことは、裏を返せば、彼らに守ってもらいたいと、しがみついていたのです。すべての執着を取る、手放す、捨てることが大切だと、次男にも言われていましたが…。“どうやって…”次の日の朝早くに起きてから、またそのことについて瞑想してみました。しばらく瞑想しながら考えていると、ふと次のような考えが思い浮かびました。“捨てる”ことはできないけれど、“神様にお返しする”ことは出来るのではないか…。その時に、「私の物は何ひとつない。すべて神様からの預かりものである」という、知識として知っていた言葉が、腑に落ちてきました。心の底から、そのような“思い”が湧き出てきたのでした。そうだ、”みむねにゆだねる“と言うことは、お返ししてからなのだ!「神様、すべてお返しします。」と祈ると、“パッ”と握っていたものを捨てるように、自分のものは何もなくなり、自分さえも自分のものではない事に気付きました。とても、心がさわやかになりました。「私の物は何ひとつない。すべて神様からの預かりものである」という“知識”が、心の底から理解できた瞬間でした。その後に、ご聖体を通してやわらかい光を注がれている感じになり、体の痛みも忘れて重たい体がフワーと軽くなりました。賛美の歌が心からこぼれだしてきて、大勢の人と輪になって手をつなぎダンスして、心から神様に愛されている喜びに満たされました。(イメージ)そして、自分中心に物を見る、自己愛の強い私を、ずっと見守って下さっていた存在を実感することが出来たのです。さらに、呼吸する、この何気ない当たり前のことも、空気があるから…、それも神の愛の現れで、地球を作り、すべてをいとおしく見守られている。その中にすっぽりと私を包み込み、生かされている…。この存在は神様のものである。だから、大切にあつかい、この命を神様の愛のために使わせていただかなくては…、という“思い”が湧き出てきたのです。知識的には知っていた事ですが、心から湧き出て来たこの“思い”は、これからの私の“一番の宝物”です。生活のための仕事も、イエズス様の愛を与えるために派遣されているのだ…。掃除をするのも、自分の心を研くつもりで、より隅々まできれいしようと、心を込めることができるようになりました。
2005.09.13
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体は休ませていただいていますが(座っているだけ)、頭は、何時から何をして…、と忙しく回転しています。イエズス様、何も考えたくありません。頭も休ませて下さいと祈りました。こんなにも頭を使っていたとは気付いていませんでした。また、「みむねに委ねます。」と祈りながら居眠りをさせて頂きました。今度は、夢の中で、私は広い水池の中の水草の間を、多くの仲間と気持ちよく小魚になってスイスイ泳いでいます。(私達は魚のよう、神様の愛の中で泳ぐ、神様を賛美しよう、その愛は永遠…と、うたいながら…)少しして、“池の上に行きたいなあ”と思うと、美しい蓮の葉っぱの上に…。今度は、私はカエルになったつもりです。ピョンピョン跳ねていましたが、“花にとまりたいなあ”と思うと、今度は蝶になったつもりで、花から花に渡り歩きました。どんどん気持ちよくなり、“もっと上を飛びたいなあ”と、トンボをイメージしたら、今度はトンボになったつもりで、私は自由にすいすいと美しい蓮の花の咲く池の上を飛んでいます。とっても幸福感で心が満たされていきました。つぎには雲になったつもりで、今まで旅行に行って感動した風景なども、その時と同じ目でもって上から眺めていました。(幸福感に満たされた1時間位の時間でした。)…何かの物音で目が覚めました。何処までが夢で、何処までが自分の想像なのか分かりません…。次の朝早く、目が覚めて黙想しました。「イエズス様、私の忙しい心はどうしたものでしょうか?」“昨日の夢”を思い、満たされた心で考えると、色々と趣味が多いことに気が付きました。「イエズス様、何を減らしたら良いのでしょうか?」イエズス様は一緒に考えてくださいます。すでに、縫い物・俳句の会・フラダンス等、好きだったことも、後ろ髪引かれる思いで辞め、さらに、テレビを見ないことで、随分、心の余裕が出てきても良いはずだったのです。しかし、今度は部屋の模様替えに余念がありません…。自分の体にムチ打ち、「この足腰さえ痛くなければ、もっとはかどるのに…。」、と叱咤しながらやっています…。午前中の四時間の仕事は、大切な収入源だから減らせないし…、と、いろいろ考えてみましたが、答えは見つかりませんでした。
2005.09.12
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午前中の仕事を終えて聖体の前に座ると、どっと疲れが出て、「体の置場がない、腰が痛い、足が痛い、肩が痛いです。横になりたいです。イエズス様、イエズス様・・・」と、1時間ぐらい嘆いていました。すると、ふと、「あなたは嘆いてばかりで、どうありたいのですか?」と、もう一人の自分が問い掛けてきました。「この痛みが取れたらいいなあ」色々一人で二人の会話をしていると「私にゆだねなさい」とのイエズス様の御言葉が思い浮かびました。そして、「すべての疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」と…。(マタイ11、28)これから、私を休ませてあげようと、私を呼んでくださって、今ここに居させてもらっているのだと知りました。「ああ、イエズス様、私は疲れているのですね。ここで、お膝元で休んでいいのですね。御言葉をかけていただいて有難うございます。みむねにゆだねます。」と、感謝して頭を垂れ、ぐっすり1時間位、居眠りをさせていただきました。中には、礼拝中に居眠りをしてはいけないと気にされる方もいますが、基本的に自由でいいとのことでしたので、イエズス様のご聖体の前に、当分休みに来させていただこうと思った日でした。
2005.09.11
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前にも少し触れましたが、今までに何度見たか分からない“必死になって人の後を追う夢”の意味が分かってから、私の生活が変わってきました…。以前は、疲れている時に、同じ夢をよく見ていました。子供や荷物を背負って、崖などの危なっかしい所をみんなに遅れないように、汽車とか船とかに乗り遅れないようにと、必死で歩く夢です。(不思議な事に絶対に落ちたりしません。)前にも書きましたが、この何度も見てきた夢が、あの三才の時の苦い記憶の“焦り”に基づいていたことが、反省により分かったのです。この事が分かり、記憶の癒しを受けてから、「時間が足りない、時間が足りない!」と毎日あたふたしていた自分はいなくなりました。私の心の中で、この前までの自分では考えも及ばないことが起っています…。この四ヶ月余りで性格が変わったように、すっかり落ち着き、心身共にリラックスできるようになったのです。本当の自分を取り戻したようです…。具体的には、以前、疲れて昼寝をしていた時には、「この怠け者が…、やることをやらないで…。」と自責の念でいっぱいでした。しかし、今では、同じ昼寝をしていても、「この時間を与えていただいて感謝です。」と、体を労わって休めることができるようになったのです。このように変わった成り行きは、次の通りです。いつもの“夢”と同じように、何かに急かされて、計画通りに事が進まず、体にムチ打って焦っている私の行動を見て、次男に、「お母さんは、何か執着があるのではないか。心の中を探してみたら…。」とアドバイスを受けました。私は、「性格だからどうにもならない」と言うと、「なんでそんな性格になったか理由があるはず…」と言うのです。「理由が分かれば性格も変わるかもよ」と言われました。そう言われた同じ月(二月)に、カトリックの○○教会で、聖体礼拝が始まっていました。今年は、カトリック教会の聖体の年にあたり、1月末より、毎週木曜日の朝6時半から夕方5時まで、聖体を掲示してあります。私も、自分の体と時間の許す限り、三時間ぐらい、イエズス様の聖体の前で礼拝するようになり、その時間が、かけがいのない大切な時間となっていきました。なぜなら、礼拝し、黙想することを通して、その度に気付きがあるのです。以前に書いた通り、3歳頃の辛い記憶を、イエズス様の両腕に抱かれながら語り、力と慰めをいただき、心の痛みがいやされたことも、この聖体礼拝でのことでした。
2005.09.10
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(イメージ)幼い時の苦い記憶の中に入り、イエズス様を呼び求め、自分の辛かった状況をイエズス様に語りました。イエズス様は、小さい三才の私を、両腕にしっかりと抱きしめ、「辛かったね」とやさしく慰めて下さいました。私の苦しみを分かって頂き、私はたくさん泣きました。その心の傷の記憶は消えませんが、本当に記憶に残る“痛み・苦しみ”は、涙と共に癒されたようです。それからの、私のイエズス様は、やわらかい光につつまれた優しい慈愛に満ちた眼差しと、私の父、母にも似た、暖かい懐です。その内で行なう私の祈りとは、聞いてもらうことです。「こんなことがあったんですよ。」と。一日の反省は、いつもイエズス様と一緒です。小さい子供になって、暖かい懐の中でお話します。(イメージ)「ああ、よかったね。」「ああ、嬉しかったんだね。」「ああ、辛かったんだね。」「ああ、それはどんな意味があるのか、一緒に考えようか。」何でも受け止めて下さることで、私の心はすっかり癒され、心は平和になります。イエズス様はおっしゃっています。私に来る者を決して拒みはしない。(ヨハネ6.37)母に求めた愛でもあります。私自身も、こんな人になりたいとの願望でもあります。実は、この反省的瞑想に、大きく影響していたことがあります。それは、カトリック教会の聖体拝礼です。そこで、静かな時間を取ることの大切さを知りました。その中で、いろいろな気付きがあったので、それもここに記したいと思います。
2005.09.09
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母は、家に帰り、荷物を降ろして、泣く私を抱こうとしました。私は拒みます。「抱いて欲しかったのは、あの時だ!」「今さら抱かれない!」と、心の中で叫びつつ…。それからの駄々が、すざましいのです。 「汚れた体を、近くの川に洗いに行こう。」と言われても、座り込んで動きません。引っ張られて、ずるずる、そびかれて川に辿りつきました。そして、「イヤダ、イヤダ」と泣いて抵抗する私は、母に無理やり強い力で川に引き入れられたのです。私は泣いているので水を飲んでしまったのでしょう。すごく苦しかったのです。その時の“苦しみ”が強烈に“心の傷”として残っていたのでした…。小さい子供がいくら悪い事をしたからって、なんで川の中に…、と、ずっと疑問だった事でした。体を洗いに行ったのですね…。私の性格の、“嘘をつく人が大嫌い”でカッカッしてしまう性格と、“強制される事が大嫌い”な性格と、“早く、早くと、遅れないように一生懸命に先走る”性格は、この、母の後を追い掛けた、あの時の“気持ち”そのままだったと気付いたのです。以前に、瞑想で自分の心を探った時に、小学2・3年生の頃、運動会の障害物競走で、みんなに遅れてしまい、焦れば焦るほど出来なくて、一番ピリになった事が思い出されました。その時の“悔しい気持ち”が“人に遅れないように…”と、日常生活での思いになっていたことに気付いたことがありました。また、その気持ちが、今までに何度見たか分からない、“必死になって人の後を追う夢”にも現れていたことに気付きました。(夢の話はまた後ほど…)実は、それが、すでに三才の時に、母に遅れないようにと後を追い掛けた、“あの時”の“焦りの気持ち”に基づいていたのでした。その気付きの後に、さらに忘れていた記憶がよみがえってきました。(ほんとうに不思議です…。)その“川での事件”の後、母が畑仕事に行く時は、十軒近い御近所の家に代わる代わる預けられるようになったようです。そこで、自分の好きな性格が培われたことに気付きました。1.人見知りをしないこと。(何処の家でも可愛がってもらいました。そして、私が可愛がられてうれしかった体験から、小中学校のころには、近所の子供達のお守りをして、子供達を喜ばすことに励んでいました。そして、将来は幼稚園の先生になりたかったことも思い出しました。)2.花が好きなこと。(いつも、草花を摘んでいって喜ばれたこと。人様の家を訪ねる時は、現在も花を携えていきます。)3.今でも、歌や踊りが大好きなこと。(唄を歌ったり、踊りをしたりして、「じょうずだね」と、いつも誉められ、得意になっていたことを覚えています。その後、小学校・中学校の学芸会で毎度、歌や踊りで舞台に上がっていました。)
2005.09.08
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私は、一人置いてきぼりです。 母の、畑に行く後姿に叫び続ける・・・。(芋掘りかな?)私、「早く帰ってきてねー。」(早く・・・。)母、「分かった、早く帰ってくるからね。」「泣かないで待っていてね。早く帰ってくるからね。」振り返りもせず、どんどん小さくなっていく母の後姿を、見えなくなるまで見つめています…。六十年余りの歳月を超えて、明確に思い出しました。「泣かないで待っていてね。早く帰ってくるからね。」との母との約束に、三才の私は、泣きたいのを我慢して、家の戸口の所で、母が遠ざかっていった方向を見ながら、今か今かと一ヶ所で立ったり座ったりして待っています。とっても、とっても、ながーい、ながーい、時間でした。今考えると、山道の往復だけで一時間はかかったでしょう。その後、母が帰ってきた時に、気持ちをこらえきれなくなって、 私の心は爆発しました。激しく、激しく泣きました。「早く帰ると言ったのに…、嘘つきだ!」三才頃に、嘘つきとの言葉が出たのかは分かりませんが、心の中で、 「もう、騙されない!」「待つ事は、もう我慢できない!」と強く、強く思ったのです。そして、次に、「家で待っていなさい」と母に言われても、「もう、待たない!(騙されない!)」と、言うことを聞かずに、畑に行く母についていきました。小さい裸足の足には、とってもキツイ、石ころの坂道です…。母は、連れて行く気がないから、知らんふりです。“聞き分けの無い子”としか思っていないのでしょう…。母に遅れないように、“必死で”歩きます…。その帰り道に、山道の横の溝に落ちました。私は、“起こして助けて欲しい”と泣いて訴えました。けれども、母は知らないふりをして、どんどん先に行きます。ずぶ濡れになって、泥で体が重くて、母との距離が遠く離れて行きます…。泣いて、泣いて、後を追います…。私は、“その時”に母に助けて欲しかったのです。“求めた愛”とは、この事でした。こんな、小さい子供と母親の姿をよく見かけます。子供の泣く姿を見て、私も幾度も可愛そうになり、涙が滲んだものです。自分も幼い息子三人にした事でもあります…。小さい子供には、ちゃんと理由があるのですが、うまく表現で出来なくて、泣くしかないのですよね…。
2005.09.07
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さて、以上は、7年前の反省的瞑想の体験を、その当時、書いてもらったものです。そして、その続きがあるのです。 それから、さらに7年の歳月が流れました。私は65才を迎えようとしていました。そんなある日、また反省的瞑想をするキッカケが与えられました。…時々襲ってくる“怒りの心”を反省する必要があるのではないかと、息子に指摘されたのです…。私は、嘘をつく人が大嫌いです。“許せない!”と怒りがこみ上げてきます。その感情をコントロールできないので、嘘をつく人には関わりたくなくて無視します。自分が騙された事でもないのに、他の人の話を聞かされるだけで「カッ、カッ」ときて、心が掻き乱されるのです。 そのような状態を身近で見ていた息子に、そこを、修正する必要があるのではないかと、指摘されたのです。イエズス様に“人を許しなさい”との教えを受けているのに、私の心の中から、この感情をなくすることが出来なくて、実は、それが悩みの種でもあったのです。 それで、幼い頃の事について、もう一度、瞑想する時間を取ることにしたのです。そして、母との葛藤の事は、もうキレイに心は癒されていると思っていたのですが、さらにもう1つ、耐え難い出来事があったのを思い出したのです。それは、あの三才の頃の事件の発端についてです。なぜ、母に水の中に顔を押し込められたのか…、自分が何をしてあれ程母を怒らせてしまったか…、その訳を思い出したのです。7年前に書いた文章を読み返して見ると、「母に求めた愛が得られず、泣きながら駄々をこねた時に…」としたためてあります。自分が駄々をこねた、その理由を思い出したのです。
2005.09.06
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その気付きを得た翌日に、一緒に瞑想指導を受けたMさんに、きのう今日と、実りの多い学びがあり、一番の問題を解決することができた喜びを話しました。「母に叱られてばかりで、愛された記憶のない自分のこと。」「それは、母は怖い人だと、自分から遠さかっていたからだと気づいたこと。」「母は、父にばかりあまえている私に嫉妬して、つらく当たっていたのだと気づいたこと。」「だから、母との楽しい思い出はないのでしよう…。」など。Mさんは、母の立場で考えられて、いろいろ話されました。その中でも、「自分の娘に背かれて淋しい人生だったでしょうね。」の一言が強く心に響きました。家に帰り、寝る前に床の上に座ってから、「憎しみがあったら、相手の立場で考えたら“どうして”が解けますよ。」とのアドバイスと、Mさんの「自分の娘に背かれて淋しい人生だったのでは…」との言葉を思い出していました。ふと、「見たくもない」と、タンスの中にしまい込んでいた母の写真を見たくなり、取り出して母の顔に見入りました。母の写真は、子供四人と写っているのですが、私が一番似ています。(たぶん性格も似ていたと思います。)こんなに“見つめた”のは初めてです…。そして、写真の母に話しかけました。「私がお母さんに優しくされた覚えがないのは、私がお母さんを避けていたからなのね。そして、私が、お父さんにばかり甘えているのが、お母さんの気に入らず、少しの事で叱られていたのね。きのう、やっとお母さんの気持ちが分かったのよ」と。すると、今まで思い出さなかった、私の母へ対する「みにくい心」の思い出がよみがえってきました。私は花が大好きです。子供の頃からそうだったみたいです。私が野の花を摘んできて花瓶に挿してあるのを母が見て、言いました。「まあ、きれいな花、いい匂いね。」私の心の中「フン、お母さんのために摘んできたのではないわ。」頼まれて洗濯をしてきた後に、母は言いました。「まあ、きれいになったわ。石けんの匂いがいい匂い。」私の心の中「フン、うまいことを言って、また洗わそうと思って…。」等々、次々に思い出されてきたのです。そして、「私の心を傷つけて、きびしくしたのを謝りもせず、死んでいって…。生んでからしっかり躾もしてくれず、死んでしまって…。私がつらい思いをするのは、お母さんのせいだ…。」と恨んでいたのが、実は「謝らねばいけないのは私だった」と気付いたのです。こんなにも母の気持ちをないがしろにしていたとは…。「ごめんなさい。お母さんの愛を受け入れなかった私を許して…。」と、写真を見ながら心から涙して詫びました。…今まで「きびしい母」の写真と思っていたのですが、「やさしい母の顔」がそこにありました。生きてそばにいる感じです。「そんなに、ひどく傷つけていたのね…。」と言われた気がしました。目に見えないけれど、母の存在をすぐそばに感じ、和解しあえたその喜びで、しばらく「ごめんなさい。ごめんなさい。」と声に出して泣いていました。すると、不思議なことに、今度は“母に優しくされた記憶”が思い出されてきたのです。一年生の時、図工の時間に何でも良いから書くように言われたけど、何も書けなかったことを伝えたら、「好きなものを書いたらいいよ。あなたは花が好きだから、それを書いたらいいよ。」と言って、洗濯物を干していた手を休め、スミレの花とチューリップの花を、地面に書いて見せてくれた事を思い出しました。うれしかったです。ここ数十年探し求めていた、やさしい母の記憶です。そして、次々に“母に優しくされた思い出”がよみがえってきました。その度ごとに新しい発見のように、幸福で私の心は満たされました。現在、私の楽しみにしている、草花を描くことや、縫い物をすること、踊りやダンス、水泳など、みんな母から教わったことでした。その一つひとつの記憶が、明確に思い出されたのです。それが母の置きみやげであることに気づき、「お母さんありがとう。ありがとう。私を産んで育てて下さって、本当にありがとう。」と私の心は感謝でいっぱいになりました。そして、“母に愛されていなかった”という“思い”は消え去っていきました。今では、母の写真をベッドのそばに置き、毎日感謝の気持ちでありがとうと語りかけています。母に愛された記億のないことが、執着になっていたのですね…。それが、魂にくもりを作っていたのですね。自分のあやまちに気づいて心から詫びると、魂のくもりが取れ、だんだん心の内の光が輝き、回りを照らし、暗い部分がなくなって、心が満たされ、喜びに変わるのですね。この喜びを多くの方々に伝えたくて、つたない文にまとめました。この教訓から、自分の考えよりも、まず相手の気持ちを理解するように努めます。そして、回りの方々の長所を見つけて、それを認め、愛語を努めて口にするように心がけるようにします。「主よ、私の心の傷を癒していただき、本当にありがとうございました。」Tatsu1965注釈: “愛を感じる瞑想”とは、 僕が、 P.P.I.com in livedoor 」心おだやかにいきるために 前編- の中で、 「悩みを打ち明けること」 「与えられていることに感謝すること」 で書いた「内観」とほぼ同じ内容のものです。 ライブドアのHPでは、 愛を与えられたことを、 紙に書き出すという方法として紹介させていただきましたが、 ある程度、心境が進めば、 瞑想の形をとって、 自分が与えられた愛を、 一つ一つ思い出して、心に描くとよいと思います。 この母の体験のように、 一度では、うまくいかなくても、 二度、三度やっていると、 だんだん、心の奥深くに入れるようになるものです。 また、いったん、浮上したと思っても、 何度でも繰り返して行って良いものです。 繰り返すたびに、気づきも深くなることでしょう。
2005.09.05
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1.三歳頃、母に求めた愛が得られず、泣きながら駄々をこねた時に、川の中に顔を押し込められて、ひどく苦しかった自分のこと。(特にこの出来事が強烈で、心に深い傷をうけたようです。)2.小学一年生の頃、雨の中に放り出されて、家の中に入れてもらえず、すごく寒くて震えている自分のこと。(後で思い出したのですが、実は自分で家の中に入ろうとしなかったようです。母のせいにしていたため、こう思いこんでいたようです。)3.柱にくくりつけられて、誰もいない家で泣いている自分(これも小学一年生の頃です。)4.小学四年生の頃、体が弱くて寝込んでいる母から頼まれて、買い物に行った時のことです。 (それは、恥ずかしいくらい少しのお金で、砂糖かなにかを分けてもらいに行った時のことです。)あまりにも持たされた金額が少なかったので、恥ずかしさのあまり、店の前で長いことうろうろしながら迷っていましたが、どうしても店に入れずに帰ってしまったことがありました。その時に、一方的にひどくしかられました。その時、“私の気持ち”を聞いてもらえず、すごく悲しかったこと。この四つの出来事のほかに、母の思い出を何も思い出せないのです。愛された記憶がないと言っても、私は生きて今ここにいる。食事は母が作ってくれたはず…母の姿を記憶の中に捜し求めるけれども、何かにかき消されたように何も思い出せないのです。この“愛を感じる瞑想”の後、指導してくださった方に、子供の頃の不幸感覚しか思い出すことが出来ず、そこで瞑想が止まってしまったことを伝えました。そして、「どう思いますか?」とたずねてみました。その方は、「あ、それは相手の立場に立って考えたら良いですよ」と、アドバイスして下さいました。その後、「父が優しい人で、愛を受けたことがたくさん思い出に残っています。」など、いろいろと会話するうちに、「はっ」と気づいたことがありました。「母は、父と私に嫉妬していたのだ…」と。すると、思い当たる事が次々と思い出されてきて、母が私にきびしくした気持ちが「そうだったのか…。」と分かったのです。その途端に、とめどもなく涙が溢れ出してきました。
2005.09.04
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ここからは、僕の母の文章です。母は、(僕や、弟にとっては「祖母」ですね^^)糖尿病を患い、私が、小学5年生の時に他界しました。その母との葛藤が、私の人生に大きく影響していることを明確に悟ったのは、つい最近のことです。ようやく紐解けたのです。私は、14年前に、“愛を感じる瞑想”というものを息子に勧められ受けました。“愛を感じる瞑想”とは、今までの人生を振り返り、父親、母親にしてもらったこと。兄弟姉妹にしてもらったこと。祖父、祖母にしてもらったこと。先生や友人にしてもらったこと等を、つぶさに思い出していく反省的瞑想法です。その時に、母から与えられたことについて思い出そうと試みました。しかし、思い出すことは、母から受けた厳しい体罰のことだけでした。どうしても、“母から優しくされたこと”を思い出すことができなかったのです。…何かで封印されているようでした…。私がいけなかったから、厳しくされたのだと思っても、“何が悪かったのか”思い出せません。ただ、その時に、51年間持ち続けてきた“自分の嫌な性格とコンプレックス”は、母から受けた“心の痛み”から現れているようだと、その時に知ることが出来ました。その時から、“悪の心”がわいた時に、自分を正しく立て直すべく努力し、毎日感謝の日々が送れるようになっていきました。その7年後58才の頃に、また息子に勧められて、同じ“愛を感じる瞑想”をする機会が与えられました。しかし、そのときにも、母親に対して本当の意味で感謝することは出来ませんでした。 体罰を受けた“悲しみの記憶”を思い出すと、「どうして、このような体罰を受けなければならなかったのか…」と、考えが止まってしまうのです…。
2005.09.03
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僕自身の体験談をまとめながら、反省的瞑想について書いていこうと思いつつ、思いつつ…多忙のため、なかなか、筆が遅々として進まず…どうしたものかと思っていたところに、母の反省的瞑想の文章がまとまったと、弟からメールが届きました。こちらから、先にUPしたいと思います。これから、読んでいただく内容は、私の母の14年という歳月をかけた“反省の体験”をまとめたものです。私の母は、縁あってカトリックの信者として、教会に出入りしています。しかし、これから読んでいただく体験談は、カトリックの教えだけでなく、仏教的な勉強をしている息子達の影響を受けて、自分の問題を解決していった体験を記したものとなっています。ある意味、キリスト教と仏教がごちゃ混ぜになっています。しかし、そういった宗教的な側面があることにあまり囚われすぎずに、一通り目を通して頂ければと思っています。なぜなら、人生の問題集を解くカギの一つとして、“反省”という方法が、とても有効であることを知っていただきたいからです。実は、この体験談は、無理を言って書いてもらったものです。実際には、体験談を書くように勧めたものの、うまく書けないからと、最初の何日かは「出来ない」と言われました。しかし、身近にいて話を聞いていた私としては、一度文章にして書き出して見ると、考えが整理されて、その後の反省も深まるはずだと思いましたし、他の人の勉強にもなるからと、敢えて、何度も書くように言い続けました。しばらくは、どのように書いたらよいか悩んでいたようですが、一度ノートに向かうと、自然に文章を書くことができたと言っていました。内容的には、少しキリスト教的色彩が強くなっていますが、母の内面をよりリアルに表現するために、そのまま賛美歌を引用したりしています。その点は、ご了承いただければと思います。とにかく、“反省”とは、「このようなものなのだ」ということを、多少なりとも御理解いただけるのではないかと思っています。“何か”一つでも、読まれる方にとって、現在直面している問題を解決するヒントがあればと願っています。
2005.09.02
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この「執着」の苦しみから逃れる方法を説いたのが、釈尊、ブッダ、そう、お釈迦様なのです。お釈迦様は、この四苦八苦から逃れ、幸福の道に入る方法として、「四諦」(したい)という4つの真理を説きました。(「諦」とは真理。)「苦」「集」「滅」「道」(くじゅうめつどう)という方法です。「苦」諦 自分が苦しみの中にいることを発見すること ↓「集」諦 苦しみの原因を探ること ↓「滅」諦 その苦しみの原因を取り除こうとすること ↓「道」諦 八正道の実践によっておだやかな心をとりもどすという四つのプロセスを踏むことで、幸福への道に入りなさい、という考え方です。僕は、うつ状態のその中で、この「四諦・八正道」に取り組みました。「苦」諦 自分が苦しみの中にいることを発見することまず、前回のように、自分の状況を、四苦八苦に当てはめて考えてみました。「集」諦 苦しみの原因を探ることそして、その苦しみの原因を探りました。「集」とはすなわち原因を集めてくる、ということです。今、悩んでいることと、その原因になりそうなことを、紙にすべて書き出していくのです。僕の場合は、そのときのうつ状態の原因としては、もちろん、彼女のことだけではありませんでした。仕事上の失敗もありました。休みをとらなかった面もあるでしょう。仕事の持つ重圧に耐えられなかったという面もありました。睡眠時間がたりなかったことや食べ物の偏りもあったと思います。家族との葛藤もありました。僕の場合は父との葛藤が大きいものでした。その父も、失恋と前後して無くなりました。そのことも原因だったでしょう。そうした心の葛藤をすべて書き出しました。「集」とは、また、その原因を一点に絞るということでもあります。それぞれの問題について、考え、問題の優劣、大きい小さいを分けていきます。そして、最大の心のとらわれ、執着とは何かを見抜くのです。僕の場合は、父の死と彼女への執着が最大の原因だったわけです。「集」とは、また、情報を集めるということでもあります。なぜ、忘れなければならない女性のことを忘れられないのか。その、原因を探るために何冊もの本を読みました。そして、「依存心」の克服というものにぶち当たったのです。父の死と彼女への執着、これが実は、潜在意識の中でリンクしていたことがわかりました。僕の父と母は非常に愛の深い、人当たりの良い、素晴らしい人でした。しかし、通常の家庭がそうであるように、家庭内暴力とまではいかなかったのですが、夫婦間がしっくりいっていなかったことは事実です。離婚の危機もあったようで、その葛藤で、母がかわいそうだと、僕はずいぶん父を憎んでいました。恐らく、体育会系で楽天的な人であれば、そうはならなかったと思いますが、非常に繊細で心の弱い僕の場合、そのことが、心の不安定さを生んだのだと思います。そして、その満たされない思いを、異性に求める傾向性が、僕の心に、潜在意識にあるのだということががわかりました。そして、その潜在的な原因がわかれば、次は、「滅」諦 その苦しみの原因を取り除こうとすることです。「滅」とは、この苦しみの原因を滅ぼそうと思うことです。原因と戦うことの決意です。僕の愛されたいという気持ちは、幼い頃からの傾向性の心となっていましたから、これを切りかえることは、本当に苦しかったのです。人に求めないで、自分の神経を一時的に麻痺させて、その場をしのぐような物事に依存しないで、不動の自分をつくる、精神的な根をつくることは、血反吐を吐くように辛かったです。しかし、この傾向性を切り替えない限り、解決の道が無いことはわかっていましたので、日々の決意をくりかえしました。絶対に良くなってみせると。それから、「道」諦... 「道」諦とは、八正道の実践です。八正道とは、「正見(しょうけん)」 正しく見ること ↓ 「正思(しょうし)」 正しく思うこと ↓「正語(しょうご)」 正しく語ること ↓「正業(しょうごう)」 正しい行為をすること ↓「正命(しょうみょう)」 正しい生活すること ↓「正進(しょうじん)」 正しく修行をすること ↓「正念(しょうねん)」 正しく念ずること ↓「正定(しょうじょう)」 正しく定にいることの8つの道、方法です。
2005.09.01
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執着とは、ひとつのことに心がとどまり、四六時中、そのことが頭に浮かび、そのことにとらわれ、自由がきかなくなることです。その執着が、人やものであるとは限りません。「怒り」「うらみ」「憎しみ」「のろい」「嫉妬」「ねたみ」「そねみ」「愚痴」「不平不満」「深い悲しみ」「過去に受けた心の傷」「うそをついたこと」「うそをつかれたこと」「人から受けたひどい言葉」「ひどい言葉以上の暴力」「いじめたこと」「いじめられたこと」「恐怖心」「臆病」「不安」「取り越し苦労」「持ち越し苦労」「劣等感」「挫折感」「自己憐憫」「自己卑下」「自己処罰」「自己顕示欲」そして、「情欲」「不倫」「配偶者への裏切り行為」...そうした、過去の記憶が、何度も思い出される...表面で思っていなくても潜在的に蓄積されている場合もあります。これもまた執着です。自分でこうしたマイナスの思いを握っているのです。こう書くと、そんなことはない!私は害されたのだ!と怒りたくなる人もいるかもしれませんが、静かに心を静めて考えてみてください。害されたのは事実だと思います。自分に責任がない、理不尽な暴力であることも多いと思うんです。でも、その事実をいつもいつも心に刻んでいるのは、自分なのです。ここ、難しいかもしれませんけど、良く読んでください。「その事実をいつもいつも心に刻んでいるのは、自分なのです。」これを握っているというのです。これを執着といいます。これを真正面から受け止めるのは、たいへん辛いです。僕も、これを書きながら、涙が出るのです。辛いです、苦しいです。そんなことはないと思うでしょう。私を愛さなかった、あの人が悪いのであって、私がわるいはずがない。自分をいじめたあいつが悪いのであって、私がわるいはずがない。そう、思うでしょう。神も仏もあるもんか、と思うでしょう。いるなら、神様は不公平だと思うでしょう。いるなら、神様、あなたを憎むよ..と思うでしょう。でも、ポイントはここなんです。ここを乗り越えたらわかります。山登りのがけを上りきる一歩手前です。のりこえたら、平安と安らぎの草花の咲き乱れる大地にでます。そのときにわかります。すべてが自分の成長のために必要な出来事だったということが。
2005.08.31
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多くの人は、誰でも、おそらく何らかの形で、「執着」の元になるものをにぎっていると思います。僕が思うには、かなりのパーセンテージの高さで、僕と同じように、それは、表面的には、伴侶となった人も含めて、異性の問題であることが多いと考えています。もちろん、人によって、それはさまざまですが、異性や、愛人、それから、親、子供、兄弟等の家族関係、そのほかにも、お金や収入、出世や名刺の肩書き、地位や名誉、会社の椅子やポスト、さらには、遺産や土地や持ち家などの場合もあるでしょう。あの人は「私の」ものだ私の恋人だ私の妻だ私の子供だ私の親だ私の部下だ私の名刺だ私の机だ私の椅子だ私の会社だ私の客だ私の家だ私の土地だ私のお金だ私の貯金通帳だ私のお墓だ...いってみれば、これが「執着」です。僕の苦しみの例でいえば、僕の好きだった彼女を自分の所有物と見ていたわけです。「彼女は『僕の』もの..」良く恋愛ドラマや恋愛ソングで出てくる言葉ですが、本当にそうでしょうか?彼女は、「僕のもの」ではなかったのです。後にも先にもそうであったことなどないのです。縁あって、共に同じ時を過ごしただけなのです。でも、「自分のものである」、「自分の所有物である」、そう考えて、自分の思いどおりにならないから腹を立てる...僕の場合も、「愛している」といっても、本当には愛していなかったのです。自分を愛して欲しいから、手放したくなかっただけなのです。これが執着です。愛という言葉を使えば、それは「奪う愛」だったのです。この20代の時の失敗を経験した今、僕は、僕の妻や子供たちを、自分の所有物だとは微塵も思っていません。自分の思い通りにしたいとは少しも思いません。ただその幸福を願って、僕にできるだけのことをしてあげるのみです。これを仏教では「慈悲」といいます。愛という言葉を使えば「与える愛」です。よくよく考えてみれば、何一つとして、自分だけのものなどないはずなのです。それは、あなたのものであって、あなたのものでない...非常に難しいですけど、このニュアンスを理解して欲しいと思います。それらはすべて、仮に、自分の近くにあって、自分が生きていくために必要なときに、ひととき与えられているものなのです。一緒にいてくれて、一緒にあってくれて、どうもありがとう...そうした、感謝の対象であるのみなのです。これを勘違いして、自分のもの、自分の所有物と考え、自分の思いどおりにしたいと考える...そして、自分の思いどおりにならないと腹をたてる...自分の思いどおりにしてもらえないと腹をたてる...自分を思いどおりにあつかってくれないと腹をたてる...この怒りから、憎しみが生まれる、口論になる、最悪の場合暴力に発展する...この「執着」から苦しみが発生するのだと思います。
2005.08.30
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この「苦諦(くたい)」を詳細に更に分類したのが、有名な、「四苦八苦」です。「生老病死」の四つの苦、そしてさらに「怨憎会苦」(おんぞうえく)「いやな人、憎しみあっている人と会わなければならない苦しみ」「愛別離苦」(あいべつりく)「愛するものと別れる苦しみ」「求不得苦」(ぐふとっく)「求めても、求めても得られない苦しみ」「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)「肉体煩悩が燃え盛ってどうしようもない苦しみ」の4つの苦しみを合わせて八苦とします。僕の20代の頃の苦しみを、この四苦八苦に当てはめてみると…「生」の苦しみ、 うつ状態のとき、こんなに苦しいのなら、生まれてこなけばよかったと思いましたね。「老」の苦しみ、これは、若いせいもあり、あてはまりませんでしたが、年々年老いていく苦しみもあります。(最近少し、感じ始めていますが..)「病」の苦しみ、そのころは、心の病そのものの苦しみもありましたし、肉体的には、慢性の胃炎、十二指腸潰瘍で、夜寝る前などは特に痛い思いをしていましたし、最終的に、そのストレスは、椎間板ヘルニアとなって、立ち上がれずに、入院したこともありました。「死」の苦しみ、うつになると、自殺願望が強くなるといいますけど、僕も、高いところにいると、飛び降りたい衝動にかられたものでした。しかし、「死」ほど恐ろしいものはありませんでした。それから、「怨憎会苦」(おんぞうえく)「いやな人、憎しみあっている人と会わなければならない苦しみ」彼女とうまくいかなくなって、次第に怒りや憎しみが込み上げるようになりました。それでも、会わなけれはならない状況も続きました。いわゆる社内恋愛ですね。心の葛藤を隠して仕事をしなければならない...そして、言葉を交わしても、どろどろの泥仕合がはじまるだけでした。「愛別離苦」(あいべつりく)「愛するものと別れる苦しみ」彼女とうまく行かなくなって,最終的に別れるとき、引き剥がされるようにつらかったですね。「求不得苦」(ぐふとっく)「求めても、求めても得られない苦しみ」それでも、好きで好きでたまらないのですね。会いたくて、一緒にいてくれないと駄目になる...そんな状態でした。「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)「肉体煩悩が燃え盛ってどうしようもない苦しみ」そして、その恋愛感情と性的欲求が結びついて、気が狂いそうな苦しみを生みました。これ、まさしく「執着」=とらわれの心なのです。握っている手を放せば楽になるのに放せない...「アルジェリアの猿」状態なのです。今振り返れば、僕が愛すべき人は今の最愛の伴侶でありますし、そのときだって、その彼女でなくても、他に素晴らしい女性もいたのに..だめなんですね。つかんだ手が離せないのです。これは、僕の恋愛をもとにした説明ですけど、皆さんの苦しみの状態を、この四苦八苦にあてはめてみてください。おそらく、なんらか心当たりがあるのではないかと思います。アダルトチルドレン問題に立ち戻って、その苦しみを、「四苦八苦」にあてはめて考えてみると、「インナーチャイルド」の苦しみとは、主には、「求不得苦」(ぐふとっく)「求めても、求めても得られない苦しみ」になるのかなぁとも思います。理想的な両親や家庭環境を、求めても、求めても得られない…苦しいですね…まさしく、「求不得苦」(ぐふとっく)…だろうと思います。
2005.08.29
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僕が、20代の不安定な精神状態を立てなおした過程は、基本的には、仏教の実践的原理「四諦(したい)」という方法によって、です。反省的瞑想へのプロセス 「四諦(したい)」参照仏教では、苦しみから目をそむけません。人生における「苦」を見つめます。なので、仏教の実践的原理「四諦(したい)」の、第1番目は「苦諦(くたい)」です。この世は「苦」である、という真理です。これが、世間的に、仏教が、どこが厭世的な、暗い印象を与えている原因かもしれませんが、この、「苦」を見つめる、「苦」を真正面からとらえる、「苦」であることを受け容れる、ということは、とても大切なことなのです。そして、この「苦」を真正面からとらえて、そこから、「真実の世界」へ突き抜けることによって、本当の「光明の人生」へと至ることができるのです。インナーチャイルド改訂版にも、その大切さが書かれています。それは、ユングの言葉として。「神経症は悩みの置き換えである」これは、ユングの言っている、大切なキーワードです。子供時代を再生させるには、苦痛がともないます。なぜならば、そのころに抱いた心の傷を味わい、悲しい思いをしなければならないからです。しかし、私たちはそれを実践し、克服することができるのです。悲しみをともなうエクササイズ、すなわち、グリーフ・エクササイズは、今まで神経症などに陥ることによって避けてきた、当然悩むべきことがらのあぶり出しのエクササイズです。ユングも言っています。「神経症は悩みの置き換えである」と。苦痛に対して無関心になってしまうのは、現実に耐えられなくなった時に用いる、種々の自我防衛によるものです。もっとも一般的なのものは、否認(本当はおこっていないんだ)とか、抑圧(けっしておこらなかった)、切り離し(何がおこったのか思い出せない)、投影(それは他人におこっているのであって、自分にではない)、転換(それがおこっていると感じるとき、食べたり、セックスしたりする)、矮小化(それは実際におこったが、たいしたことではない)、などです。基本的に、私たちは、自我防衛することによって、今感じている苦痛から、気をそらしているのです。インナーチャイルド改訂版より両親の未熟さや劣悪な家庭環境などからくる苦痛をさけるために、その苦しみの原因から目をそらし、自分の心を守るために、歪曲して、ものごとをとらえて生きていくのは、幼い子供が、生き延びるための、いわば本能のようなものですから、これは、もう仕方がないことではあります。しかし、十分に大人といわれる年齢となった僕たちは、「現実」を「現実」として、受け容れなくてはなりません。悩むべきことを、十分に悩むことが、大切なのです。これを、グリーフ・エクササイズといいます。「現実」を受け容れないと、自己矛盾が起こりますから、精神的に不安定になってしまうわけです。たとえば、「死」の問題があります。誰しも、いつかは「死」に至ります。悲しく、厳しい「現実」です。この、「死」を認めない!と言い続けたらどうでしょう?「死」は現実ですから、受け容れるよりしようがありません。これを受け容れないとすれば、自分の精神の方を変えなくてはいけない…そうして、自己矛盾が起こります。「老い」についてもそうです。いつかは、「老いさらばえなくては」ならない…「病」もそうです。何一つ病気にならないで、人生をまっとうできる人はまれでしょう。そのように、「現実」を、「現実」として、受け容れることが重要なのです。これを、お釈迦様が、2600年前に、「苦諦(くたい)」として、まず、第1番目の真理としたのです。
2005.08.28
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>手で何かを握り締めたり、>手放したり、捨てたりすることができるように、>心の中でも、実際の手と同じように、>何かを握り締めたり、>手放したり、捨てたりすることができるようなのです。>私の場合は、>握り締めて離さないものが“ニセモノの自分”であり、>“人を蔑む心を持った自分”だったのでした。>それを手放す(執着を去る)ことで、>心の平安を得ることができたのだと、現在理解しています。反省的瞑想 弟編 7、反省(3)・・・結論 参照弟のこの言葉は、僕自身の経験からも、まったくそのとおりである、と感じます。「アルジェリアの猿と、その猿を捕える猟師の話」というものがあります。アルジェリアの猟師は、猿を捕まえるときに、椰子の実にサルの手がギリギリ入るくらいの穴をあけて、コメやナッツなどのエサを入れ、その実を木に括りつけておくそうです。猿は、エサがほしいから手を入れてエサを握るんですが、握ると拳が引っ掛かって手が抜けなくなるんです。エサを放せば助かるんですが、握った拳を放せなくて翌朝猟師に捕まってしまう...これは「執着」について説明するときに良く使われるたとえ話です。 P.P.I.com in livedoor -心おだやかにいきるために-の中でも書いたように、20代のころの僕の精神状態は、本当に不安定なもので、その20代のうつ状態の原因は、まさしく、「執着」と呼べるものにありました。僕は「アルジェリアの猿」状態だったのです。僕のうつ状態の原因は...それは、直接原因としては、その当時好きだった女のコのとの葛藤でした。お付き合いをして、うまくいかなくなって、別れ話になり、そして、憎しみあい、別れ、考えてもしょうがないのに、四六時中彼女のことが頭から離れない...そういう「執着」が一番の原因ではありました。しかし、そういう精神状態になるには、もっと、心の深いところで、未解決の課題をたくさん抱えていたことが、本当の意味での原因だったと思います。いままでの日記でも、折に触れこのときのことを書いてきましたが、この僕の20代の苦しみの日々を題材にして、そして、その状態から回復に向かう過程で実践してきた、「瞑想」の方法についても触れていきたいと思います。
2005.08.27
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僕は、この瞑想や、インナーチャイルドについて書くに先駆けて、一見脈絡もなく、 「霊的世界の諸相について」 を書き綴りました。それは、何故かといいますと、「瞑想」で「思い描く」ということは、思い描いたことを、「霊的世界」に実現させる方法だからです。自殺編~「いまのあなたが考えていることが、あなた自身である」に書いたように、「今、考えていることが、あなた」であって、「霊的世界」では、「今、考えていることが、すべて」であって、ひっくり返して言えば、「今、考えていること」が、「霊的世界」を形作っているわけで、「瞑想」して思い描くことは、「霊的世界」ならば、すべて実現することができるということを意味しているのです。それは、実は、「今」だけに、言えることではなくて、「過去」においても同じなわけです。とくに、「過去」において、「強い思い」によって刻まれた記憶は、「霊的世界」においては、すでに、実現してしまっていて、なんらかの形で、その記憶に折り合いをつけなければ、その記憶は、いつまでも、「霊的世界」あるいは「潜在意識の世界」の中で、実現したままなのです。そして、その記憶の領域が、なんらかの形で傷ついていれば、自分で自覚しないでいても、心の奥底で、いつも不協和音が小さな音で鳴りつづけているかのように、なんとなく不快な感じが延々と続きます。そして、その不快感は、なんらかの事件をきっかけに、病気となってあらわれたり、なんらかの不幸の形を伴って、あらわれたりしてきます。その意味では、「インナーチャイルド」とは、子供の頃の原風景と直結する表現であり、確かに、人生の全般にわたって影響を及ぼす、「コア・マテリアル」になりやすいという意味では、「インナーチャイルド」と「コア・マテリアル」参照確かに、「子供の頃の記憶」なのですが、潜在意識に刻まれた記憶が、自分の現在の生き方に影響を及ぼす、という意味では、幼い子供の頃の記憶に限定されるものではなく、中学や高校などの、学生時代でも、あるいは、20歳を過ぎてからでも、あるいは、30歳でも40歳でも、大きな出来事はすべて、その後の人生に影響を及ぼす、「インナーチャイルド」を同じ意味合いを持つものとなりえます。反対に、瞑想によって、自分の心が変わると、自分に近しい人の態度が変わったりして、自分だけでなく、周りの環境も良くなっていったりする例も、報告されていますが、これなども、「霊的世界」と「潜在意識」の関わりを示しています。ユングは、個人の「無意識」(潜在意識)の領域と、他の人の「無意識」の領域が、心の奥底で一つの大きな領域を形作っているという、「集合的無意識」という理論を唱えました。これなどは、まさしく、「霊的世界」の説明そのものです。ユングは、「霊的世界」という、目に見えない真実の世界を、いかに常識的な現実の科学的な世界に理解させるかを、悩みに悩んで、「集合的無意識」という世界観を提唱したのだと、僕には、そう思えてなりません。「集合的無意識」の世界は、イコール「霊的世界」なのです。各人の心の奥底では、すべての人が密接な関係を持って結びついていて、心の中の思いが変われば、その思いは、他の人の潜在意識にも影響を与えていくわけです。
2005.08.26
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「インナーチャイルド」に関する幾つかの本を読むと、瞑想中に、過去の子供の頃の自分があらわれきて、それは、あたかも、幽霊のような、霊的存在のようにあらわれきて、自分自身に語りかけてきたりする例があり、これは一体なんなのかと、不思議に思う方もあるかもしれませんし、僕も、すいぶんいろいろと考えてきたのですが、今の段階の僕の結論は、これは、やはり、「潜在意識に刻まれた、過去の記憶」なのだと考えています。「インナーチャイルド」とは「潜在意識に刻まれた、子供の頃の記憶」なわけです。「瞑想」等の手段によって、その潜在意識領域にアクセスすると、「潜在意識に刻まれた、子供の頃の記憶」が、不思議に具体的なイメージとなってあらわれてくるわけですが、これは、例えて言えば、CDやDVDの中に収められた音楽データや映像データが、プレーヤーで再生されると、あたかも、その場に、そのデータが収録された時の「時間と空間」が、その場にあらわれるような感じとよく似ています。最近では、「ホログラフィー」というような、立体を再生するような装置もありますが、まさしく、そうしたものと同じように、潜在意識という目に見えない記憶領域に、過去の思いと行いが収められていて、瞑想、あるいは、瞑想に似た状態にあると、これが、非常に具体的に、イメージとして、自分自身に直接働きかけてくるわけです。さらに、CDやDVDや、ホログラフィーでは考えられない不思議な現象として、そのイメージが、自分とは別人格のように、語りかけてきたりするわけですが、これが、「潜在意識」の不思議さで、科学ではまだまだ、証明しきれない部分ですが、僕は、これは、十分ありえる現象だと思います。なぜなら、「潜在意識の世界」とは、イコール「霊的世界」のことだからです。
2005.08.25
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反省的瞑想 弟編 7、反省(3)・・・結論 では、弟の反省的瞑想の実体験を紹介させていただきましたが、ここには、非常に大事な考え方のポイントがあります。「ほんものの自分」と「にせものの自分」という考え方です。これを、アダルトチルドレン用語に強引に(!)あてはまると、「ほんものの自分」=「ワンダーチャイルド」であり、「にせものの自分」=「インナーチャイルド」というふうに考えていいのではないかと思います。そして、>手で何かを握り締めたり、>手放したり、捨てたりすることができるように、>心の中でも、実際の手と同じように、>何かを握り締めたり、>手放したり、捨てたりすることができるようなのです。>私の場合は、>握り締めて離さないものが“ニセモノの自分”であり、>“人を蔑む心を持った自分”だったのでした。>それを手放す(執着を去る)ことで、>心の平安を得ることができたのだと、現在理解しています。というふうに、弟は、反省的瞑想 弟編 7、反省(3)・・・結論 の中で書いていますが、「にせものの自分を握り締めている」ということは、「インナーチャイルド」、すなわち、子供の頃の傷ついた自分の心を、握り締めて離さない状態、あるいは、離せない状態であるといえるかもしれません。それは、例えていえば、子供の頃の傷ついた自分が、古くて傷ついてやぶれてしまった、ぬいぐるみを、いつまでも、いつまでも、抱きしめて、握りしめて、泣いている…そんな姿にも似ているかもしれません。そんな子供の心が、ずっと今も、心の奥底に閉じ込められているとしたら…それが、まさしく、インナーチャイルドです。
2005.08.24
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「ワンダーチャイルド」というのは、仏教でいうところの「仏性」に非常に近い考え方だなぁと思えます。反省的瞑想の理論 「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」 参照それも、そのはずで、このジョン・ブラッドショー氏の本には、自分の心の内なる、天真らん漫な子どもの心を、「ワンダーチャイルド」と名づけた最初の人として、後年深く東洋思想に傾倒したユングの名前が、繰り返し登場するのです。仏教的思想でもって、自分の過去の記憶をクリーニングし、リセットし、再生してきた僕としては、この「インナーチャイルド」や「ワンダーチャイルド」等の、アダルト・チルドレンに関する思想は、なんと仏教的な側面を持った考え方であろうと、なんとも不思議な感覚に打たれます。ユングのワンダーチャイルドとの出会いとは、以下のような話です。ユングのワンダーチャイルドとの予期せぬ出会いは、ユングの人生がいきづまっている時にやってきました。彼は、とても混乱し意識を失いそうになって、「精神障害」がきたと恐れました。この問題の根本原因を見つける努力をしている時に、ユングは、子どもの時の記憶を探究したのです。ユング自伝によれば、次の通りです。「最初に表面化したのは、10、11歳の記憶だった。そのころ私は、積み木に夢中になって遊びたいという衝動があった。驚いたことに、この記憶には、多くの感情がともなっていた。『なるほど』それらはまだ、息づいていたのだと一人でつぶやいた。その少年は、今でもこの辺にいて、私に欠けている創造的な人生をつくりだしているのだ」この子どものエネルギーと再び連結しなければならないと決意して、ユングは子どものようなゲームによって子どもの生命を取り戻し、これによって再建しようを思い、積み木を1セット購入しました。彼は、内的な批判的な声(古い秩序)からくる、多くの抵抗を経験しました。しかし、負けずにお城や教会のある村全体を組み立てはじめました。彼は、毎日、昼食後と夜にそれを行ったのです。家族もいぶかしげに質問しました。しかし、彼は、『自分の神話を発見する途中にあるとの内的な確信だけがあったのだ』と書いています。インナーチャイルド改訂版より「ワンダーチャイルド」は、イコール「仏性」ではないかもしれませんが、しかし、自分の心の中に、天真らん漫で、夢と希望にあふれた、力強い、純粋な、正義感にあふれた子どものような心が、どの人にも必ず宿るというのは、これは、まさしく、仏教的な性善説だなぁと、僕は、そのように思います。そして、僕は、休みのときは、時間をとって、7歳の末の娘を連れて、海にさかなつりにいったり、生き物のいる小川にいって、虫をとったり、さかなをとったり、その生き物を持って帰って、娘と一緒に育てたりしています。そうした時間を大切にしています。それは、娘にとっても、おとなになったときに、心の重心となる大切な思い出づくりでもあると同時に、僕自身の精神を健全に保つための、「ワンダーチャイルド」との出会いの瞬間なのかもしれないなぁと、そんなふうに思います。
2005.08.04
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アダルト・チルドレン問題の中で、「アダルト・チャイルド」というときは、「アルコール依存症や児童虐待をする父母に育てられた子」のことで、被虐待児の意味になります。そして、アダルト・チルドレンに関する書物には、「インナーチャイルド」という言葉が頻繁に登場します。「インナーチャイルド」とは、「過去の子供時代に傷ついた心」のことです。この「過去の子供時代に傷ついた心」を癒すための方法を、「インナーチャイルドを抱擁する瞑想」として、インナーチャイルド改訂版「インナーチャイルドー本当のあなたを取り戻す方法」のジョン・ブラッドショー氏は、詳細に書き綴っています。毎日時間を取って、この「インナーチャイルドと会話をする」という瞑想を続けることで、「インナーチャイルド」を再生し育て直すことで、インナーチャイルドの創造的なエネルギーが現れる、としています。「インナーチャイルド」は、一度統合されると、再生と新生のバイタリティの源となります。これが「ワンダーチャイルド」です。「ワンダーチャイルド」とは、文化や親のしつけに汚染されていない、生まれながらの純粋で、屈託のない、天真らん漫な子どもの心です。「ワンダーチャイルド」は、私たちの探究心、畏怖の心、および創造的存在のための生来的な潜在能力です。「ワンダーチャイルド」とは、創造的、快活、明るく生き生きとした心のことであり、「インナーチャイルド」は、この自然な子どもの心が傷ついたものといえます。
2005.08.01
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それでは、ここで、ご存知の方も多いとは思いますが、「アダルト・チルドレン」関連の用語について、概略を説明しておきましょう。「アダルト・チルドレン」とは、厳密には、「adult children of alcoholics」「アダルト・チルドレン・オブ・アルコホリックス」といって、「アルコール依存症の家族のいる家庭で育って、大人になった人」という意味で、酒浸りの親が、家で暴力を振るったりする、いわゆる虐待を受けるような、機能不全の家庭に育って大人になった人のことを指します。ですが、最近では、アルコール依存症の家庭に限らず、子どものとき、心を傷つけるような言動や暴力などのある家庭で育ち、人間関係などがギクシャクして、理由のわからない生きづらさを感じるようになった人のことも、広い意味で、「アダルト・チルドレン」と呼ばれているようです。「本当はいやなのについつい周囲の期待にそって振る舞ってしまったり、相手にNOと言えない、自分の感情が自分でわからない、生きることが楽しいと思えないといった、生きづらさを抱えてしまった人たちのことです。」「アダルト・チルドレンと癒し」西尾和美著 よりですが、ある専門家は、「機能不全の家庭があるのではない。社会全体が機能不全なのだ。」というふうにもいっており、「機能不全の家庭」というのは、多かれ少なかれ、大多数の家庭にあてはまる言葉ではないかと思います。
2005.07.31
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沈黙の時間を取り、心を落ちつけて、静かな時間の中で、自分の心の内を見つめ、悩みを書き出してみると、大概の場合は、親や兄弟などとの、幼い頃の家庭環境から生じた葛藤が、最終的な、最重要課題として浮かび上がってくるだろうと思います。この最重要課題に取り組むことが、ほとんどの人にとって、もっとも大切なことだと、僕はそのように考えています。今、「アダルトチルドレン」問題に関する本を、少しづつ読みすすめています。(最近、他に勉強しないといけないことが増えまして、なかなか、読みすすめることができていないのですが…)その中でも、インナーチャイルド改訂版「インナーチャイルド-本当のあなたを取り戻す方法」ジョン・ブラッドショー著 NHK出版という本には、トラウマを瞑想によって解決する方法について書かれています。僕が書きたいこととも、多分に重複していますので、まだ、お読みでない方には、ご一読おすすめしておきます。この本の中では、親や兄弟などとの、幼い頃の家庭環境から生じた心の葛藤という、最重要課題のことを、「コア・マテリアル」という言葉で表現しています。「コア・マテリアル」とは、「中核的な信念体系」というような意味ですが、要は、僕が、 P.P.I.com in livedoor -心おだやかにいきるために-第三章で潜在意識について書き綴ったように、潜在意識に刻まれた過去の記憶、特に、幼少時、青年期に強く心に刻み込んだ「思い」が、中心的な考え方の基礎となる信念となっているということを指しています。「コア・マテリアルが一度形成されると、すべての体験がこれを通過しなければならないフィルターになります。これがよくわかる例としては、ある人が破壊的な恋愛の関係にわざわざ陥るような相手をいつも選ぶとか、または、トラウマ(心理的外傷)を反復的、連続的に経験する人生を送る、あるいは、失敗をプラスに変えることができない、などがあげられます。フロイトは、この過去を反復する衝動を、「反復強迫」と呼びました。それは、人があたかも色めがねをかけているようなもので、日光がいくら輝いていても、いつも同じフィルターがかかっているということです。レンズが緑色だと視界は緑色に着色されます。レンズが茶色だと明るい色はあまり見えないものです。これから明らかなことは、私たちが変わりたければ、自分たちのコア・マテリアルを変えなければならないということです。」インナーチャイルド改訂版には、このように書かれていますが。これは、まさしく、前述の、「正見(しょうけん)」と「正定(しょうじょう)」 で書いた、仏教でいうところの、「正見」と「邪見」のことをいっているわけです。そして、ジョン・ブラッドショー氏も、この「コア・マテリアル」を、すばやく、直接的に置き換える(描き換える)方法として、「瞑想」という方法を推奨しているわけです。
2005.07.29
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小さなまとまりについて、「因果の理法」「原因結果の原則」にもとづいて、それぞれの課題ごとに、原因を探究していきますが、解決の順番にも「原理原則」があります。それが、「優先順位の原則」です。問題を解決するにあたっては、最高のコンディションの時に、最大のエネルギーを使って、最も重大な問題を解くことに、全力をつくすことです。幾つかの仕事を片付けるときも、「優先順位」の高い最高に難しい問題を、一番頭が働く午前中の最初の時間にやっつけてしまいます。これが「優先順位の原則」です。悩み解決にも、これが応用できます。一番大きな問題が解けると、あとの問題は、たいした労力も必要とせずに、簡単に解決する場合があるものです。一見、ばらばらの問題で、因果関係が無いように思えた問題が、実は、同じ事件を発端にして、はじまっているという場合もあります。なので、一つの重大問題を解くと、他の問題もパラパラと簡単に解決したりすることもあるわけです。ただ、順番に関しては、そのときのコンディションで変えるべきでしょう。「周辺から攻める」というやり方もあります。簡単な問題から片付けて、「本格的な問題に取り組む」ほうがいいときもあるかもしれません。「棚上げ」できる心の力も必要です。悩みには、時間をかけないと解決できない種類のものもあります。そのときには、「棚上げ」「ペンディング」ですね、いったん、その課題のことを考えないようにする力も必要です。そのときは、「時間の軸をずらして物事を見る」という手法もあります。瞑想の時間の中で、今課題としているものは、1年後には、解決していないだろうか?3年後や5年後にも、自分は同じ問題を考えているだろうか?そうしたことに思いをめぐさらせてみるのも、一つの方法でしょう。このように、「周辺から攻める」方法、「棚上げ(ペンディング)する」方法、もありますが、まずは、「優先順位の原則」が基本です。優先順位の高い問題から順番に、各個撃破で、ひとつひとつ悩みを粉砕していきましょう。
2005.07.28
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反省的瞑想の基本スタイルに則って、目を閉じて、しばらく沈黙の時間をとり、心を落ちつけたら、最初の段階でまずやっていただきたいことは、「悩みを書き出すこと」です。用意したノートに、思いつくままに、悩みを箇条書きにして、書き出していきます。「悩み」を「検討課題」と置き換えてもいいです。「検討課題を書き出すこと」です。だいたい、ものごとは、いくつかの複合体からなりたっています。「コンプレックス」という心理学用語も、イコール「劣等感」として、現在一般的に使われていますが、もともとの意味は、「複合」という意味ですから、いろいろな要素が、複雑に重なり合い、からみあって、ひとつの心の状態が形成されているということを表現しているわけで、この複雑なる心の中身を、整理分類してみるわけです。なので、心の中をみつめる作業として、まず、とりかかるべきことは、表面的に考えている「悩み」あるいは「検討課題」を、思いつくままに、ランダムに書き出していくことなわけです。これは、僕も日常的に良くやっている方法で、仕事においても、朝の仕事の準備の際には、今日やるべきことを思いつくままにザッと書き出して、一つ一つチェックしながらつぶしていきますし、どうも頭が煮詰まって、すっきりとしないなぁというときは、部屋の掃除や、机の整理からはじまって、書類の整理、パソコンの内部情報等の整理など、自分の周辺の環境の整理整頓をやって、そして、おもむろに、仕事内容等の問題点を書き出して、頭の中を整理していきます。こういう方法は、仕事や勉強ににおいては、みなさんよくやっていると思いますけど、「心」についてはどうでしょう?このように、問題を解くときの原理の一つは、「細分化の原理」です。悩みにとらわれている場合は、複合的にからまった大きな悩みの塊が、ごちゃっと、心の中にわだかまっているわけです。「細分化の原理」とは、「大きな問題は、小さなまとまりにして解決せよ」ということです。小さなまとまりをつくるためには、いったん、全体の構成要素を、全部ばらばらにして、分けられないくらいに小さくすることです。そのために、思いつくままに、悩みをどんどん書き出していきます。そして、中には、同じようなものがあるでしょう。それを、一つのまとまりにします。そして、その小さなまとまりごとに、その悩みの原因を探究していくわけです。
2005.07.23
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それでは、反省的瞑想の方法について書いていきたいと思います。何度も繰り返して申し訳ありませんが、心の病も重症である方の場合は、専門の医者のもとでの治療を主体としてくださいね。あまりに心の傷が深い場合には、反省的瞑想によって原因を探る行為が、病状をかえって悪化させることになってしまうというのは、良く注意されているところなのです。もしも、これから語る反省的瞑想の最中に、何か不思議な感じがしたり、体が動いたり、寒気がしたり、感情があまりにも高ぶるようでしたら、そのときは、瞑想の作業は、即座にやめてください。あまり睡眠時間が足りなかったり、疲れすぎていたら、十分眠ってゆっくり休んでくださいね。ただ、それ以外の方にいうとすれば、「反省的瞑想」というのは、そんなに難しいことでも、特殊なことでもありません。ただ、今日一日を含めて、過去の出来事を思い出すだけです。一人静かに自分の心の内側を見つめて、思うにまかせて、思い浮かぶことについて、考えをめぐらせていくだけです。そして、日頃、日常的なことで、散漫になり、まとまらなかった頭の中を、整理し、リセットし、すっきりさせて、今後の将来的な自分の生きていく方針を、明確にしていくということです。高度な瞑想になると、無念無想とか、いろいろなものもあると思いますが、僕は、そこまで語るつもりはないのです。弟は、ひとり静かな時間をとって、反省的瞑想の世界に入っていった旨を書いています。そのように、まず、落ちつける場所で、一人の時間をとるところからはじめましょう。自分の部屋であるなら、少し、整理整頓して、かたづけてすっきりした環境づくりをしたほうが、心も落ち着くことでしょう。それから、紙とエンピツを用意してください。たくさんの大切な事柄を書いていくことになると思うので、しっかりとした、日記帖のようなもののほうがいいかもしれません。僕はB6サイズのノートを愛用してきました。単行本の大きさと同じサイズですね。16歳の頃から、このサイズのノートに、日記のように、思いつくことや、大切な言葉を書いてきました。瞑想をしていると、いろいろなインスピレーションが湧いてきますので、それを書きとめるわけです。後のち読みなおすと、自分の心の傾向性が見えてきて、非常に参考になるものです。書くものも、エンピツでもなんでもいいですけど、書きなれたものがいいでしょう。あるいは、気に入った書きやすいものを、あらたに購入してもいいかもしれませんね。僕は、製図につかう、シャープペンシルをつかっています。座り方は、椅子でも、座禅のポーズでもなんでもいいのですが、背筋はピンとのばす必要があります。頭の上から、背骨を一本の黄金の糸が貫いていて、自分の体は、その糸によって、上からひっぱられているような感じです。手は、まず、手のひらを下に向けて、ふとももの上に、軽くおいておいてください。そして、目を瞑(つむ)って静かに、深呼吸をします…鼻から息を大きくすって、口から少しずつ静かに息をはいていきます。腹式呼吸です…大きくお腹で息をすって、ゆっくりとはいていきます。心が落ちつくまで、この腹式呼吸を続けます。心が落ちついたら、胸の前で、合掌のポーズをとってください…そして、自分の守護霊様に、感謝の言葉をかけてあげてください。「ありがとうございます…」「ありがとう…」守護霊様は、感謝の言葉はなくとも、その存在を知られずとも、ずっと、あなたを、やさしく、あたたかい目で、見守ってきてくれました。これからも、もしも、あなたが、その存在を忘れてしまったとしても、守護霊様は、あなたを、ずっと見守っていてくださいます。守護霊様への感謝の思いを手向けたら、「これから反省的瞑想に入りますから、どうか、わたしに良い気づきを指し示してください」と心の中でお願いしてみてください。そしたら、合掌の手を解いて、また、ひざの上にもどしてください。さぁ、心を落ちつけて、現在の自分の心を見つめてみてください。今日の自分の一日を振りかえってみてください。最近あったことを思い出してください…………………………一定の時間沈黙の時間を続けたら、また、合掌して、感謝の思いで終了してください。最初は、3分とか、5分とか、短い時間で、瞑想の感覚をつかんでいってください。まぁ、はじめは、こんなところでしょうか?瞑想の基本スタイルは、こんなものでしょう。
2005.07.18
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「正見(しょうけん)」と「正定(しょうじょう)」八正道のポイントの一つは、「正見」です。「正見」に対する、悪い業は「邪見」です。「邪見」とは、その呼び名の通り、「よこしまな見方」のことです。「間違った見方」でもありますし、「誤った思い込み」といってもいいかもしれません。弟の体験でいえば、幼い頃の、母への間違った見方、お母さんは、自分の言うことなど聞いてくれない…自分のことなど愛してくれない…その「見方」がベースとなって、他の人にも対しても、社会に対しても、同じように見てしまう「癖」「傾向性」「業」が、生まれてしまっています。そして、その「間違った見方」、いわゆる「邪見」は、(これは、現代的な心理学用語を使えば、「認知のゆがみ」ということになると思いますが…)その後の、自分の思いと行いに影響を及ぼしていきます。弟の体験を分析すれば、「お母さんは、僕のいうことなど聞いてくれない」という見方をして、「正見」が出来ないから、 ↓「正思(しょうし)」 正しく思うことができない…お母さんへの恨みがはじまります。 ↓そして、「正語(しょうご)」 正しく語ることができなくなる…親子間の対話がギクシャクしていきます。おそらく、他の人間関係でも、正しい会話がなりたたなかったことでしょう。 ↓さらに、「正業(しょうごう)」 正しい行為をもできなくなります…弟も、他の人の思いや行動に左右されてしまう、主体性のない自分になってしまったといっています。 ↓こうして、「正命(しょうみょう)」 正しい生活もできず、 ↓「正進(しょうじん)」 正しく修行もできず、 ↓そのため「正念(しょうねん)」 正しく念ずること、つまり、正しい夢も希望もない自暴自棄な人生が続きます。 ↓こうした状況で、「正定(しょうじょう)」 正しい瞑想をしようとしても、なかなかうまくいきません。かえって、その行う瞑想の中で生じる様々なビジョンに、翻弄されることが起こり得るわけです。ですから、まず、「正見」なのです。「邪見」を廃し、「正しい見方」を獲得しなければなりません。「正しい見方」「正見」のためには、まず、正しい思想を得ることがなによりも大切です。知識のベースで、正しい考え方を知るということです。僕が、ライブドアのブログから、ずっと続けて書いてきたような内容を、 P.P.I.com in livedoor -心おだやかにいきるために-参照まず知ること、そして、受け容れることです。「性悪説」と「性善説」のふたつの考え方も、これも、大きな意味で、物事の「見方」なのです。「性悪説」で社会を見たときと、「性善説」で社会を見たときには、社会そのものの見方が変わってしまうわけです。あの世があるか、ないかという考え方でも、物事の見方がわかれます。「転生輪廻」の考え方もそうです。「生まれて、死んで、はい、それまでよ!」という人生観と、「人間は永遠の生命である!」という人生観では、その人の生き方、考え方はがらりとかわってしまうはずなのです。ですから、まず「正見」を得るためには、正しい考え方を学ぶという必要があります。おそらく、この正しい考え方を学ぶということだけで、心が軽くなったという方もいると思います。正しい考え方を知ることで、なぜだかしらないけれど、思いも行動も、しゃべる言葉の内容も、変わっている自分を実感されている人もいると思います。さぁ、ここまで来たら、八正道のポイントは、「正見」から「正定」にそのウエイトが移ってきます。さらに、深く、自分の過去の記憶に入りこんで、その記憶の内容を変えていく作業に入ります。そうすることで、更に、「正見」正しく見ることができるようになります。八正道は、ループなのです。「繰り返し」です。まず、浅い段階から、「正見」正しい見方を取り戻し、「正思」「正語」「正業」「正命」「正進」「正念」の正しい思いと行いを取り戻していきます。ある程度の心境にいたれば、「正定(しょうじょう)」によって、過去の記憶について「反省」し、自分の今までの潜在意識に刻まれた、思いと行いの集積を、クリーニングし、リセットします。そうすると、また、いろいろなことを、今までとは違った角度から見ている自分を発見するでしょう。そして、また、ループ、繰り返します。こうして、マイナスの見方にとらわれていた自分が、積極的な自分へと、そして、更には、本当の意味で、身近な人に愛を与えることができる自分へと高まっていくわけです。
2005.07.01
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「道」諦における「八正道」とは、「正見(しょうけん)」 正しく見ること ↓ 「正思(しょうし)」 正しく思うこと ↓「正語(しょうご)」 正しく語ること ↓「正業(しょうごう)」 正しい行為をすること ↓「正命(しょうみょう)」 正しい生活すること ↓「正進(しょうじん)」 正しく修行をすること ↓「正念(しょうねん)」 正しく念ずること ↓「正定(しょうじょう)」 正しく定にいることの8つの道、修行の方法です。古来より、悟りをひらくために「道を求める」といいます。では、その求めるべき「道」とはなんなのか、というと、それは、具体的には、この8つの道、八正道なのですよ、と、お釈迦様が教えてくださったわけです。八正道の内容は、「心の三毒」、そして「六大煩悩」で書いた、「十善戒」の内容とリンクしています。「十善戒」とは、以下の10の戒めです。1.「不殺生(ふせっしょう)」、人の命を奪わないこと2.「不愉盗(ふちゅうとう)」、盗みをはたらかないこと3.「不邪淫(ふじゃいん)」、ふしだらな不倫をしないこと4.「不妄語(ふもうご)」、うそをつかないこと5.「不悪口(ふあっく)」、悪口をいわないこと6.「不両舌(ふりょうぜつ)」二枚舌をつかわないこと7.「不綺語(ふきご)」、おべんちゃらをつかわないこと8.「無貪(むどん)」、足ることを知らない、むさぼりの心を去ること9.「無瞋(むじん)」、怒りの心を去ること10.「不邪見(ふじゃけん)」、智慧の足りない、愚かな心を去ること、また、その「十善戒」の前には、「業(カルマ)」と「十悪業(じゅうあくごう)」 で書いた、苦しみの原因となる「十悪業」があります。「十悪業」とは、以下の10の悪い業、悪い「思いと行い」ですね。1.「殺生(せっしょう)」2.「愉盗(ちゅうとう)」3.「邪淫(じゃいん)」4.「妄語(もうご)」5.「悪口(あっく)」6.「両舌(りょうぜつ)」7.「綺語(きご)」8.「貪(とん)」9.「瞋(じん)」10.「痴(ち)」(あるいは「邪見(じゃけん)」ともいいます)つまり、悪い「思いと行い」が、習慣化されると、悪しき魂の傾向性、心の傾向性、潜在意識の傾向性となります。この悪い傾向性である「業」を、「戒」をもって、正しくしようと心がけ、「八正道」によって、それらを、つねづね、反省し、最終的には、この悪しき「業」を良い「業」へと変えていきましょう、というのが、この「八正道」なのです。「八正道」というのは、魂の傾向性を切りかえる方法なのです。対応表的に書けば、以下のようになります。 十悪業→十善戒→八正道 1殺生→不殺生→正業 2愉盗→不愉盗 3邪淫→不邪淫 4妄語→不妄語→正語 5悪口→不悪口 6両舌→不両舌 7綺語→不綺語 8貪→無貪→正思 9瞋→無瞋 10痴→不邪見→正見このように、「正見」 正しく見ること ↓ 「正思」 正しく思うこと ↓「正語」 正しく語ること ↓「正業」 正しい行為をすることというのは、心身を、戒によって、ある程度自分の力で調和しようと努力する段階であるわけです。さらに、次には、 ↓「正命」 「正思」「正語」「正業」の3つを合わせて正しく生活すること ↓「正進」 良い生活というレベルから、 積極的に道を究めようという、 修行の意志を含んだ生き方をすること ↓「正念」 夢や希望などの将来的なビジョンを正しいものとしていくことという、マイナスのものをゼロにもどす段階から、プラスを生み出していくレベルへと発展していきます。そして、最終的な段階として、 ↓「正定」 より深く正しい瞑想をおこなう段階へと入っていきます。もちろん、「正見」の段階から、初歩的な反省的瞑想ははじまっています。戒めをもうけて、それができたかどうかを振り返ることから、反省、そして、反省的瞑想がはじまっていくわけです。
2005.06.30
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弟の行った反省的瞑想へのプロセスは、問題解決のための具体的なプロセスであり、仏教の実践的原理そのものでもあります。プロセスというのは、「手順」ですね、ものごとをすすめていくための順番、段階的な考え方のことです。僕も、この問題解決ための思考プロセスをつかって、今までもさまざまな問題を解決してきましたし、現在でも、家庭においても仕事においても、何か問題、課題が持ちあがると、この思考プロセスで問題を解決しています。この仏教における問題解決のための思考プロセスを、「四諦(したい)」と言いまして、これは、仏教の根本教説です。 お釈迦様が悟りを開かれた後、まず最初に説いた教えが、この「四諦(したい)」です。「諦(たい)」とは、「サティア」…「真理」という意味で、「四諦(したい)」とは、「四つの真理」という意味です。「四つの真理」とは、「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の「四つの真理」です。「苦諦(くたい)」とは、「この世は苦である」という真理。「集諦(じったい)」とは、「苦の原因は世の無常と人間の執着にある」という真理。「滅諦(めったい)」とは、「無常の世を超え、執着を断つ事が苦を滅した悟りの世界である」という真理。「道諦(どうたい)」とは、「滅諦」にいたるためには、「八正道(はちしょうどう)の正しい修行方法によるべきである」という真理。「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」をひとつにまとめて、「四諦(したい)」は、「苦集滅道(くじゅうめつどう)」とよばれます。この4つは、プロセスを示していて、上記の解説をもう少しわかりやすく書くと、「苦」諦 自分が苦しみの中にいることを発見すること その苦しみを直視すること その苦しみから逃げないこと ↓「集」諦 苦しみの原因を探ること 苦しみを客観的な目で分析してみること 苦しみを第三者の冷静な視点から見ること 苦しみの要因を分けること 悩みを全部書き出してみること 悩みを解決する方法、情報を集めること その悩みの根本原因を突き止めること 最大の問題点に焦点を絞ること ↓「滅」諦 苦しみを滅しようと決意すること その苦しみの原因を取り除こうとすること 苦しみの原因は何らかの執着、こだわり、思いこみにあり、 その執着を断とうと決意すること ↓「道」諦 八正道の実践によっておだやかな心をとりもどすことという四つのプロセスを踏むことで、幸福への道に入りなさい、という考え方です。
2005.06.29
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さて、ここ数回にわたり、弟の反省的瞑想についての体験をUPしてみました。ここで少し、その体験を、仏教的観点から、理論的に解説してみましょう。まず、反省的瞑想に入る前に、前提的な理論として大切なことは、「心の中には、ダイヤモンドの原石(仏性)がある」という、仏教的な思想です。これを、「仏性(ぶっしょう)」、「仏の性質」といいます。仏教では、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と言って、これは、「この世の生きとし生けるものは、すべて生まれながらに仏性を宿している」という考え方です。「万物にこれ仏性あり」「この地上の生きとし生けるものすべてに、仏の性質が宿っているのだ」という考え方です。みんな仏さまの子供だということです。みんな神さまの子供だということです。あなたの中に仏さま、神さまはいるのだ、ということです。そして、それと同様に、自分以外のすべての人が、「本来は」仏さまの子、神さまの子なのだということです。みなさん、中学校だか高校だかで勉強されたかと思います。「性善説」と「性悪説」です。人は、生まれながらに善であるか。それとも生まれながらに悪であって、悪いものであるから規則をつくり、罰しなければならないものなのか・・・どちらも考え方としては、大切なものではあります。特に伝統的なキリスト教では、「人間は本来的に罪の子である」という考え方が強いのです。そして、罪をおかしやすい存在であるから、よくよく気をつけて、罪をおかさないようにしましょう、罪をおかしたならば、よくよく神さまにわびて、二度と同じ間違いをしないようにしましょう、という考え方になっていくわけで、これも、確かにリアリステックに見れば、本当にその通りで、この世には、理解しがたい悪い人も悪い行いも多いのも事実なのですが、しかし、もう一段突き抜けて、自分の人生を素晴らしいものし、世の中を素晴らしいものとしていくためには、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という考え方を中心としていった方が良いと僕は考えています。最終的に、真理はひとつであり、どちらかを選べといわれれば、僕はまちがいなく、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」の真理を選び信じます。反省的瞑想といって、過去を振り返ってみても、この自分の心の奥底には「仏性」があるということを信じなければ、みにくく、いたらない自分の姿が見えてきて、「反省」とはならず、「後悔」を積み重ねるだけになってしまいます。弟も、この仏性があることを理論上では知ってはいても、反省をはじめた当時は、とても、「心の中に、ダイヤモンドの原石(仏性)がある」と、“信じきる”ことはできていなかった旨を書いています。そして、反省的瞑想を行う中で、自分の仏性を発見していくわけですが・・・なるほど、確かに、「人間の本質は善である」という確信は、なかなか得がたい考え方なのかもしれません。ちなみに、僕自身は、「仏性ありやなしや」というようなことを、あまり考えなかったタイプなのです。「万物に仏性あり」ということを読んだのは、いつのときだったでしょう・・・誰の本だったでしょう・・・よくわかりませんが、それを知ったときには、僕は、そのまま、ああ、そうなんだと、そのまま素直に受け入れて、それは、すぐさま、自分の中で、ひとつの確信となりました。しかし、どうも、そんなに簡単に、自分が本来的に素晴らしいものだという感覚は、得られないのかもしれませんね・・・そんなわけで、弟の「仏性」をつかむ体験のほうが、多くの人の役にはたつのかもしれないなぁと思います。まぁ、とにもかくにも、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」なのです^^まずは、「仏性」があることを「信じて」、反省的瞑想の作業を積み重ねていっていただければ、いつか、仏性の存在の確信は、次第に生まれてくるのではないかと思います。「仏性」は、古来「金剛石(こんごうせき)」にたとえられてきました。「金剛石」とは「ダイヤモンド」です。そう、あなたの心は「ダイヤモンドの原石」です。たとえ、誰かにはずかしめられたとて、たとえ、自分がまちがいをおかしてしまったとて、それは、光り輝けるダイヤモンドに、少し、ほこりがついたぐらいのもの・・・目を閉じて…この「ダイヤモンド」をイメージしてみてください。そして、そこに少しくもりがあるようなら、きれいな布をイメージして、それを拭い取ってみてください。また、そのダイヤモンドを最高度に輝かしていくためには、磨きこみの作業が必要です。その魂を磨くための砥石(といし)として、この三次元世界には、たくさんの葛藤が用意されてもいます。また、以前にも書きましたが「仏性」は、古来「真珠」にもたとえられてきました。真珠ができるためには、あこや貝の中に、わざと、鉛やガラスなどの、「異物」を挿入します。その異物による苦しみが、真珠ができる要因として必要なのです。「異物」を包み込むことで、あの美しい真珠が出来あがるそうです。僕たちは、幾転生を繰り返しながら、この真珠をつくりあげてきたわけです。過去の転生の最中には、戦争もあったでしょう。理不尽で不幸な経験も、数々あったでしょう。でも、すべては、夢のまた夢です。役者がいろいろな役を演じるように、そうした様々な経験を積み重ねながら、心という名の真珠を磨きあげ、大きく育て上げてきたわけです。目を閉じて…この「真珠」をイメージしてみてください。きれいな、うつくしい、光り輝ける大粒の真珠をイメージしてみてください。また、「仏性」は、古来より「満月」にもたとえられてきました。目を閉じて…まあるい、まあるい、光り輝ける満月をイメージしてみてください。胸のあたりに…直径10センチぐらい?20センチぐらい?そのぐらいの、光輝ける満月を…そう、それがあなたの仏性…光り輝けるあなたの「心」の本質なのです。
2005.06.28
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そして、個人的に最近、気付いたことがありました。それは、人の心は、ある法則の基にあるらしいということです。私は、仏教的アプローチを通して、そのような体験をしましたが、私の母が学んでいるカトリックの世界でも、同じような体験があるようです。実は、私が体験したものよりも、もっと奥深い、神秘的な体験も宗教の世界ではあるようです。宗教が連綿として続いている理由もそこにあるのではないかと思いました。とにかく、心が、みな同じような構造に創られているとしか、考えられないように感じています。そんなに難しく考える必要はありません。例えば、映画や演劇等を見て感動している時、本を読んで感動している時、大自然を目の前にした時、劇団か何かに入っているのであれば、無心になって役になりきっている時、歌の好きな方であれば、無心になって歌っている時、人のために一生懸命になっている時、人から励まされたりして、人の優しさに触れた時、お産の時、反省をして、人の愛を実感して、感謝の思いが湧いてくる時、男女が健全に愛し合う時、とにかく、自分のことから心が離れて無心になっている時等に、心が軽くなったり、心が温かくなったり、何らかの気付きがあったり、何らかの幸福感や、感動、場合によっては神秘的な体験や思わず涙が流れてくることがあったはずなのです。結局、私が他の方とも実際に話しをして、共通するなと感じたことは、自分のことで頭が一杯のときではなく、「自分が…」という思いを忘れて、自分以外の誰かのために一生懸命になっている時や、人から何か(やさしい言葉や、励ましの言葉など)を受けて、心から感謝できている時(これも自分のことから心が離れている時です…。)、心の中に何か光とでも言うべきものが心の中に差し込んできたりするようだ、ということでした。そんな体験は今までありませんでしたか?たぶん、そんな体験がある人はとても多いと思うのです。やはり、一人ひとりの心の奥深くには、ダイヤモンドの原石(仏性)が眠っているのではないかと思えてしょうがないのです。そして、その心に差し込んでくるもの、心の奥から溢れ出してくるものは、“愛の光”と言ってもいいでしょうし、“宇宙に蔓延しているエネルギー”と言ってもいいような気がしています。そして、反省的瞑想という手段の場合、瞬間的に“何か”を感じることとは少し違い、後々の人生そのものに大きく影響していくという意味で、とても重要なものであると実感しています。実際に反省的瞑想を行なって、すぐに実感できる方、私のように、反省というものの存在を知ってから7年近い月日が係る方、もっと時間が掛かる方もいるかも知れませんが、どこかで行き詰ってどうしようもなくなってしまった時には、この反省的瞑想という方法があることを思い出してください。あきらめずに、自分以外の考え方からも学び、粘り強く自分自身と向き合っていく中で、きっと、自分自身や他の人を、深く、正しく理解できるようになると思います。そして、自分自身の立脚点が分かり、そこから抜け出す正しい方法が見つかると思います。もちろん、この方法が現時点で適していない方もいると思います。あまりに、過去の経験が辛いものである方や、現在の病状が重い場合は、ゆっくりと休むことを心がけると共に、専門の医師によるカウンセリングをお勧めします。辛い事件や過去の事柄が、少し距離を置いて見えるようになったなら、反省的瞑想に取り組む時節到来です。少しでも多くの方々に、反省的瞑想というものの、本当の効果(威力)を“感じて”いただければ幸いに思います。 2005年6月吉日
2005.05.15
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結局、反省的瞑想を続けるなかで、断片的に思い出される嫌な思い出が、一本の糸のように連続してつながっていることを、客観的に認識することができたのでした。その結果、“嫌いな自分”である、『人を蔑む心(感情)が湧いてくる自分』になってしまった原因は、一番身近な母に対して、“求めること”をしなくなってしまったこと、すなわち母(人)は自分を理解してくれない。もう母(他人)に自分を理解してもらうことは求めない。そう幼心に強く思ったことにあり、結局、人に求めなくなると同時に、自分の意見(欲求)も表に出すことができなくなっていったことを起点として、主体性のない人生になっていき、人の想念に左右されてしまいがちな自分となっていき、結果として、虐めに加わり、人を蔑むような心の芽がでてきてしまい、それに修正をかけることもなく、野放しにしてきたことに問題があったことが分かってきたのでした。まるで木が育つように、一つの間違いから、いろいろな枝が育ってきていることに気付いたのでした。その枝のひとつが、『醜い心を持った自分』となって育ってきていたのです。さらにそこから“自己嫌悪”の枝が育ってきていたのでした。そのような結論に至り、なぜか僕は、今まで、『醜い心を持った自分』を、自分自身だと思って、“自己嫌悪”に陥っていたけれども、果たしてこの自分は、“本物の自分”なのだろうか、“ニセモノの自分”なのだろうかと、心の中で自問自答していました。自問自答しているうちに、ふとこのようなことに気が付きました。今までは、この“嫌いな自分”を自分自身だと思いこみ、自己嫌悪してきたけれども、自分の本質部分ではなかった、ということに気が付いたのでした。なぜなら、その起点となる、母親との葛藤以前には、“自己嫌悪”の基になるものが微塵も存在していないことに気が付いたからです。さらに、その起点よりも以前の自分を思い出したときに、天真爛漫な自分がいたことも思い出したのです。そして、起点以前の自分と、起点以後の自分を比較したときに、後からできたものは“本物の自分とは言えない”。そう“感じた”のです。その時に、“嫌いな自分”を自分自身だと思う必要はない!この“嫌いな自分”はニセモノだ!こんなニセモノの自分は要らない!そう思い、心の中で、今まで“自分自身だ”と思っていた“嫌いな自分”を捨て去りました。すると、どうでしょう。途端に、心と体か軽くなり、心に光が差してくるような感じを受けたのでした。初めての体験でした。今思えば、“本物の自分”と“ニセモノの自分”という考え方を知っていなければ、「だから、自分はダメなのだ!」「だから、生きている資格がない」と、落ち込み、「この世の中から消えてしまいたい」と思っていたかもしれません。しかし、幸いにも、“本物の自分”と“ニセモノの自分”という価値観を学んでいたおかげで、問題が、解決する方向に向かっていったのでした。そして、今現在はよく分かるのですが、手で何かを握り締めたり、手放したり、捨てたりすることができるように、心の中でも、実際の手と同じように、何かを握り締めたり、手放したり、捨てたりすることができるようなのです。(心には、実態がないけれども、行為の奥には思いがあるので当然のことかも知れません。)私の場合は、握り締めて離さないものが“ニセモノの自分”であり、“人を蔑む心を持った自分”だったのでした。それを手放す(執着を去る)ことで、心の平安を得ることができたのだと、現在理解しています。
2005.05.14
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さらに、そのようなレッテルを貼ってしまった目で、母にレッテルを貼るに至った、印象的な事件は二つあります。それは、いずれも、幼稚園のころの話になります。一つめは、夜、寝る前に怖いもの(今思えば霊だったのでしょう。)が見えて、ものすごく怖くて母にしがみつきに行ったと思うのですが、その怖さを理解してもらえず、突き放されたことがありました。その時に拒絶された感覚は、怖かった感情の分だけ、心の傷となって残ることになったのでした。ちなみに、「怖いものが見えたことは、大人になってからも絶対に、絶対に、忘れないぞ!」と、子供心ながら強く心に刻み込んだことを覚えています。(実際に見えていたかどうかは、今となっては、定かではないのですが…。)そして、二つめは、幼稚園に行く前にお腹が痛くなり、幼稚園に行きたくないということを母に訴えたけれども、仮病だと思われ、受け入れてもらえず、幼稚園に行かされたことがありました。(ちなみに、心因性の腹痛だったろうとは思いますが、当時はよくおなかが痛くなり、何度か幼稚園を休むことがあったため、仮病だと思われ、無理やり行かされたという背景もあります。)実は、その当日、幼稚園で下痢をもらしてしまい、とてもとても恥ずかしい思いをしたのでした。(このときの恥ずかしい思いは尋常ではなかった覚えがあります。)さらに、とても体調的に苦しかったことも重なり、「母のせいだ!」と強く恨んだ覚えがあります。単純にその二つだけの問題でなく、私の母は、「こうだ!」と決めたことは、一切曲げようとしない、少し念の強いタイプの性格だったため、我がままは許してもらえず、何時しか、自分の欲求を受け入れてくれない人だと思い込んでしまったようです。ちなみに、私にはそのように見える母なのですが、後々、私の弟は、「一生のお願い」と言って、よく母にいろいろなことを求め、それが受けいれられることがあったように思いますので、実際には、母もいろいろな経験を通して、少しずつ子育ての対応を変えていたのだと思います。しかし、私の場合は、最初でレッテルを貼ったことで、微妙な母の変化には気が付くことができなかったようです。(気付こうとしなかったのかもしれません。)弟に対する対応を見ると、「何で自分の時の対応と違うのかなあ」という感じで、微妙に不満が溜まっていったように思います。また、母は、自分に対して心を開かなくなってしまった子供(私)を見て、その後、子育てについて、どこかの有名な先生に相談するなどして、いろいろとフォローを試みたようです。しかし、既に手遅れで、僕の心は母に対して、根本的な部分では求めないようになってしまっていたのでした。そうはいっても、まだ子供なので、求めたい心はいつも燻ぶっておりながら、素直に自分の気持ちを伝えないという、中途半端な状態だったように思います。(誤解のないように補足させていただきますが、当然、生活をしていく上で、母に依存しなければならない状況があったので、完全に母を拒絶してしまった訳ではありません。)そのような中途半端な状態で、自分の意思(欲求)を伝えることがうまくできない(実際には伝えようとしない)ものだから、当然、いつも自分の思いが満たされることがなかったわけです。そして、「母は、いつも自分を分かってくれない!」と、勝手にそう思い込み続け、さらに不平不満が溜まっていくのでした。その結果、母との心理的な溝を、自分自身でさらに深くしていっていたのでした。(この点を母の立場で考えると、自分に対して心を開かない子供、何も求めようとしない、どう扱ってよいか分からない子供と、長い間過ごすのも、それなりに苦しいことだったと思います。ごめんなさい…。)このように、自分自身の殻の中に閉じこもって、自分の意思(欲求)を伝えることすらできていないのですから、当然、“積極的な行動”をとったことがなかったのでした。
2005.05.13
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それでは、具体的に私がどのようなプロセスで、“自己嫌悪”の問題を解決していったのか、その内容に入っていきたいと思います。私の場合は、とにかく、今の“嫌いな自分”がどのようにして出来上がってきたのかを、徹底的に追求していきました。この反省は、“感情”と“自分”が一体になりすぎていると、とても難しいように思います。しかし、幸か不幸か、私は自分自身の“嫌いな部分”を以前から見つめ続けていましたので、感情的にならずに、比較的冷静に分析していくことができたように思います。念のため申し添えますが、自分自身を振り返るときに、感情の部分が大きく膨れ上がってしまい反省ができない方(時)でも、他の人の反省体験から“何か”を学ぶことはできると思いますので、気は落とさないようにしてください…。最初は、一人静かな空間に座り、呼吸を整え、心を鎮めていきました。そして、次に以下のような感じで自問自答をしていきました。「人を蔑むような心(感情)」はなぜ出てくるのだろうか…?…そういえば、いつも一人のときに、ふと頭の中に、過去の思い出したくない場面がよぎってきて、そこから自己嫌悪に陥ってしまっているような気がする…。また、ある条件が整うと、この醜い感情がでてくるような気がする…。…どんな時にそのような感情が出てきていただろうか…?…どうも、普通の人より劣っている部分(肉体的な部分、精神的な部分を問わず…。)を、他の人の中に発見するときに、そのような感情が出てきているな…。…では、いつ頃から、そのような感情が湧いてくるようになってきたのだろうか…?……それは、やっぱり中学生のあの時期だな…。その過去は思い出したくない部分なので、出来るだけ目をそらし、見ないようにしていた部分でしたが、そこを見つめないと先に進めないので、さらに目を向けて過去を振り返っていきました。そして、見たくない過去を振り返ると、実際に、自分よりも弱い、いじめられっこの雰囲気を持った人を、精神的に虐めている自分がいました。実際、何らかの欠点をもった人が、クラス中の仲間はずれにされたりすることがありますよね。そのような人を虐める人たちがいますよね。そういった人たちに、混じって一緒になって虐めていたのでした。今思えば、クラス中の全体の虐めの想念に飲まれて、自分の意志ではない部分で過剰に反応していたようにも思います。周りの人がそうしているから、自分も同じようにしていたようです。正直、微妙に罪悪感がありました。しかし、周りがそうだから…、という感じで、自己正当化していたような気がします。どうも、この頃に、人を蔑む心(感情)の芽がでてきてしまったようです。今思い返すと、虐められていた相手は、何も悪いことはしていないのに、精神的に虐められて、さぞ苦しかっただろうと、とても悲しくなり、罪悪感がよみがえってきてしまいます…。本当にすみませんでした。この場を借りて謝罪させてください。ごめんなさい…。このように、“自己嫌悪”する基になった出来事を思い出しつつ、さらに、そのような行為を行なってしまった自分について、深く掘り下げていきました。…では、なぜそのような虐めに加わっていたのだろうか…?…クラスの空気というか雰囲気に呑まれて、必要以上に過剰に反応していたような気がする…。では、なぜ、過剰に反応していたのだろうか…?…それは、他の一部の人が期待しているような行動をとっていたのかもしれない…。…仲間はずれになりたくなかったのではないか…?…主体的な判断をせずに雰囲気に左右されていたのではないか…?…過去、自分が虐められた経験から来ているのではないか…?…どちらにしても、主体性のある判断をせずに、雰囲気に飲まれていたのは間違いない…。では、なぜ主体的な判断を下せない自分になっていたのだろうか?なぜ、自分自身の良心に忠実に行動することができなかったのか…?………それは、自分自身に自信がなかったせいではないか…?では、なぜ自信を持てなかったのだろうか…?…それは、積極的に物事を成してきたことがなかったからではないか…?では、なぜ積極的になれなかったのだろうか…?…いままで、積極的な行動をとってきたとこがあっただろうか…?…やはり、なかったような気がする…。…では、なぜ…?……と、芋づる式に根こそぎ掘り出した結果、行き着いた先は、自分が母に一番“理解して欲しい”と思ったときに、母に受け入れてもらえないことがあり、その時、「母は自分を理解してくれない人なのだ」と、勝手に解釈し、母にレッテルを貼り、その後、母に“求めること”を止めてしまったことが原因であると判明したのでした。
2005.05.12
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私の場合の、“自己嫌悪”に陥る原因となった“嫌いな自分”とは、『人を蔑む心(感情)が湧いてくる自分』でした。具体的には、他の人の中に、普通の人より劣っている部分を発見すると、それに反応して、人を蔑む心(感情)が出てくるのです。そんな自分であることが、歳を重ねるごとに嫌になっていきました。そして、ある時を境に、「もうこんな自分には耐えられない、徹底的に反省するしかない。」そう思うに至ったのでした。実際に反省した時のことを思い出してみると、たしか、静かな空間の中で、1週間近く、一人で過去を振り返っていたように記憶しています。(たしか、ゴールデンウィークに仕事をして、少し遅れて、まとまった代休を取ったため、そのような時間をとることが可能となったのだと記憶しています。)実は、それ以前から、過去を振り返って、反省することが必要なのだなと、知識的には知っていました。しかし、“嫌いな自分”、“醜い心を持った自分”、というものを直視することは、実際には、なかなかできていませんでした。そんな自分が、なぜ反省しようと思えたのか…。今になって考えてみると、「心の中には、ダイヤモンドの原石(仏性)がある」という、仏教的な思想を知っていたこと。それを“信じて”反省してみようと思ったことが、一つの大きな要因であったように感じています。そして、反省をはじめた当時は、とても、「心の中に、ダイヤモンドの原石(仏性)がある」と、“信じきる”ことはできていませんでした。しかし、実際に自分自身の苦しみの原因を探り、その過去の過ちから教訓を得て、問題解決することができた体験と、そのような実例が他の文献でも確認されていることを考えると、反省の効果(威力)を信じていただいたほうがよいのではないかと思っています。
2005.05.11
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私の場合、25歳前後に、“自己嫌悪”のピークに達していました。そのころの自分を思い出してみると、何度も何度も、『醜い心(感情)』が、頭の中をよぎり、その都度、こんな自分は嫌だ、何とか自分を変えることができないものだろうかと思っていました。しかし、変えることができなくて…そういう『醜い心』がでてくるたびに、悶々としていたのでした。それは、断続的に数年間に亘り続いていたのでした。そして、当時は、そんな“嫌いな自分”を変えたくても、出てくる感情を出さなくすることは、無理なように思っていました。しかし、この“嫌いな自分”と決別すること(悪しき傾向性を正すこと)はできるのです。反省的瞑想という手段によって!私も、これを体験させていただきました。心だけでなく、体まで軽くなった気がしました。また、心が暖かくなったことを覚えています。
2005.05.10
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“自己嫌悪”にさいなまれている人は、実際には、結構いらっしゃるのではないでしょうか?当然、自己嫌悪してしまうような自分なのですから、誰にも胸の内を明かすことなく、事あるごとに、一人で苦しんでいる方もいるかもしれません。また逆に、甘えられる人が出てきたときに胸の内を明かし、相談し、他の人からのアドバイスをもらっている方もいるかもしれません。ただ、それでも根本的な解決にならず、しかも、何度も同じ問題を人に相談するわけにもいかず、結局一人悶々とした日々を送っていらっしゃる方もいるかもしれません。もしかしたら、頼る人を求めて、彷徨っていらっしゃる方もいるかもしれません。そして、そんな自分に嫌気がさしている人もいるかもしれません。また、逆に、探し続けて進むべき道が見つかった方、見つかりつつある方もいるかもしれません…。結構、この“自己嫌悪”の問題は、さらに奥深いところの“自己信頼のなさ”と関係していますので、とても根深い問題のように感じています。場合によっては、この世の中から消えてしまいたいと思う事だってあるかもしれません。しかし、この問題は、最終的には解き明かすことができると信じています。少なくとも、私の場合は、長い時間をかけ、自分と向き合うなかで、少しずつ紐解けていっています。実際に私が会って、話をしてきた方の一人は、自分の過去の嫌な記憶が、ふと頭の中をよぎり、それをキッカケとして、どんどんマイナスの思考が加速していき、結局は、自分はいらない存在なのではないかという結論に達するという思考を、事あるごとに繰り返していた方もいました。また、別の人は、自分の子供に対して厳しく当たってしまい、後悔しつつも、また子供に厳しく当たってしまい、何度も同じことを繰り返しつつ、自分を変えたいと思いつつも変えられずに、罪の意識と、後悔の念にさいなまれて、自己嫌悪に陥ってしまった方もいました。前者も後者も、その自己嫌悪の基になっている自分を、「ニセモノの自分であり、本物の自分ではない」という価値観を受け入れ、ニセモノの自分を捨て去ることで、 “自己嫌悪”から脱し、一歩、前進することに成功し、次のステップに進んでいます。幸いにも“自己嫌悪”から脱出することができたようです。ひょっとすると、今から綴る、私の体験を読んだだけで、問題解決の糸口を掴むことができる方もいるかもしれません。ただ、実際には、ほんの一例でしかありませんので、当然、全てをカバーすることはできません。しかし、私と同じようなタイプの方にとっては、何らかの参考になるかもしれません。また、そのプロセスを応用して、自分なりに問題を解決することができることができる方もいるかもしれません。自分の問題を自分で解き明かせる方が一人でも増えたらいいなと思っています。
2005.05.09
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1、 はじめに人生の苦しみは、私の想像を超えて多岐にわたることを知っています。だから、私の体験は非常にささやかな体験であるように感じています。そんな私でも、反省的瞑想の中で得た学びやプロセスは、他の方々が、人生について考える上で、何らかの考える材料になると信じ、私のつたない体験を公表させていただくこととしました。また、過去の私自身は、内向的で、自虐的で、自信が持てないタイプの人間でした。(他の人からどう見られていたかは定かではありませんが…。)しかし、現在では、内向的である傾向性には変わりないものの、自虐的な部分と、自信のなかった部分は相当解消されました。そして、次の段階として、少しずつ前に歩み続けています。正直に言うと、たまに、フラッシュバックのように、過去のビジョンが思い出されることがありますが、その都度、正反対のもので打ち消すか、これから向かうべき方向に意識を集中させ、歩き続ける中で、少なくとも過去に執われることはなくなってきました。私自身も発展途上であり、いつ後退してしまうか分からない状態ではありますが、一度解決した問題に後戻りすることは、いまのところありませんので、反省的瞑想の効果はすごいなと感じています。それでは、私自身がはじめて克服した“自己嫌悪”の問題について書いてみたいと思います。
2005.05.08
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ちょっと理論的になりすぎているかなぁと思って、自分の体験を交えながらの、瞑想論にしなければいけないなぁと考えていたところだったのですが、ちょうどいいところに、僕の弟が、反省的瞑想に関する体験談を書いてくれましたので、しばらく、そちらの方をUPしていきたいと思います。僕が、自分の考えをブログに書きはじめて、もうすぐ1年になろうとしています。妻は、もちろん、最初から知っていますが、自分の実の母や兄弟には、なんとなくはずかしくて、ブログのことは言っていませんでした。しかし、その兄弟も、このブログのことをだんだん知るところとなって、今、家族のそれぞれが、自分の体験や考えを文章にしはじめています。僕の実家の家族構成ですが、父は、14年前に、急性心不全で亡くなり、この世にはいません。母は、現在、65歳。そして、弟が二人います。すぐ下の弟が1968年生まれ。末の弟が、1970年生まれですね。この1968年生まれの、すぐ下の弟が、今回、反省的瞑想の体験について書いてくれました。次回からの文章は、弟によるものです。一切、手を加えずにUPします。参考になればと思います。
2005.05.07
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さて、先日は、さぁ、瞑想(めいそう)の世界へで、「瞑想」とは、「霊的世界へのアクセス方法」だと書きました。そして、「霊的世界にアクセス」して、得られる効用の一つに、元気になる、ということがあります。心身がエネルギーで満ち溢れた状態になるということです。これは、現在、最先端の科学の世界で、本格的に研究されはじめているのですが、あの世の世界は、エネルギーで満ち溢れているそうです。大宇宙には、エネルギーが満ち溢れているということです。そして、そのエネルギーのある大宇宙というのは、どこか、はるか彼方にあるのではなく、今、ここに、あなたのいるそこに、その身の回りの空気中に、爆発的なエネルギーが存在するということです。その「空間」そのものがエネルギーを持っており、しかも、「微小な空間」になればなるほど、そのエネルギー量も莫大なものになるという仮説のもとに、今、最先端の量子力学の世界で研究が進められています。>微小な空間になればなるほど、というのが、あの世と呼ばれる世界ではないかという仮説のもとにね^^これを、「生霊(いきりょう)」といいます。では、「エネルギーがすいとられる」経験について書きましたが、こうした精神的に疲れてしまう状態からのリカバリーのために、僕は、良く瞑想を行っています。これから、僕の行ってきた、あるいは、行っている瞑想について、順次書いていこうと考えていますが、瞑想以前の段階として、こうした霊的エネルギーを取り入れる方法がありますので、まずは、それから、書いてみたいと思います。まず、何度も書いていますけど、「言葉」の力ですね。波長同通の法則について、繰り返し書いていますけれども、「言葉」というのは、その波長を具体的にあらわための、一番簡単で、最適なものなのです。積極的な言葉は、積極的な波長を持っています。「これから毎日あらゆることがいっそう良くなる必ず良くなる」という言葉は、その明るく、積極的な言葉を使うことで、明るく積極的な波長を、心から発する比較的簡単な方法なのです。これは、マイナスの存在を打ち払う剣ともなります。マイナスのエネルギーには、プラスのエネルギーでもって闘うことです。これが、この言葉の本当の意味なのです。他にも、積極的な言葉を選んで使うことをお勧めします。それから、睡眠も大事です。睡眠中には、肉体的な疲労の回復だけでなく、霊的にもエネルギーが充電されるんです。できたら、早寝早起き。眠る時間は9時から12時前、起きる時間は4時から6時ぐらいがいいですね。朝の光を受けることも、エネルギーを得る方法です。僕は、なるべく、朝の精妙な空気の中で、瞑想をすることを心がけています。宗教的な本、精神世界の本、積極的な本を読むことも、充電のための1つの方法です。もちろん、正しい教えのものでなくてはいけませんけどね。おかしな宗教の本は、反対に憑依の原因になることになりますから、そこは十分吟味してください。僕が、フリーページ等で、良いと思われる本を紹介しているのは、そうした本でエネルギーを充電してほしいという意味があるんです。別に、僕のHPから買う必要はありませんよ^^古本屋でもコンビニでもどこでも良いのです。気に入った、明るい、積極的な本を手元において、くり返し呼んでください。音楽でも充電できますよ。明るい音楽、テンポのはやいものも元気づけにはいいでしょう。どちらかというと、クラッシック、モーツァルトの明るいものなど良いですね。ベートーベン、チャイコフスキー…バッハ、ヘンデル、ヨハンシュトラウス…あと、ラテン系とかサンバ系とか、ノー天気な奴もいいかもしれません。自分が元気の出るテーマ曲など、決めておくのも1つの手です。ロッキーとか、スーパーマンとか^^それから、食事からもエネルギーがもらえます。栄養のあるものをとる、「にんにく」とか「朝鮮人参」とか、実際に、霊的にもエネルギーがあります。運動も大切です。適度な運動を心がけてください。プールや温泉なども悪い「気」が抜けます。体力をつけることも、極めて大事です。スポーツマンが総じて明るいのも、筋力が明るさを生んでいるからでしょう。僕は、自分の得意分野が精神的なものなので、それ以外のことはこのブログであんまり取り上げていませんが、個人的には、食べ物や健康食品、運動や体操、体力づくりなどにも、気を配っています。鬱は、食事で治せるという人もいるようですが、それも、一理ありと考えています。もちろん、薬の効果もあると思います。人間の体は、大きく分ければ、精神と肉体によって成り立っていますので、バランス良く、心、食物、運動、その他の身の回りのものに、それぞれ気を使いながら、心身のエネルギーの調整を行っていただきたいものだと考えています。
2005.05.06
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