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最近考えていることがある。仕事をしていくことにしても何にしても変わらぬ情熱があるかどうかということです。どんなものでも飽きがくる。新鮮さはいつしか失われる。いい仕事をしていたとしても長い時間をかけるほど同じことの繰り返しになっていく。そういうことが次第に情熱を奪っていく。けれど、時間とともに磨り減っていくようなものはきっと本物ではない。迷うことがあっても原点に立ち返るかのように情熱を取り戻すことができる。それが本物だと思う。それを知るためには時間が必要だ。色々と経験してとりあえず頑張ってみて物凄い壁にぶち当たったり小さな壁が延々と続いたりしても情熱は冷めないというか執念があるというかそれでも続けていきたいという気持ちが自分の中にあったら絶対本物だと思う。情熱が尽きない人はその仕事に見合うだけの喜びを知っている。情熱を燃やすための価値を知っている。それははたから見ると凄く些細なことだったり、何の価値があるのか分からないものだとしてもその人にとっては極上の喜びなのだ。それは、その人にとって物凄く細かい具体的な理由がある。学年トップを取らせたい出来ない子を出来るようにしたいただ笑った顔が見たいひとそれぞれに具体的な理由を持ってはずだ。それを良く知っているからこそ情熱というエネルギーが自然と生まれてくるのだ。勤めていたとき塾長が会議で言っていた言葉がある。「教えるということは一種の麻薬みたいなものだ。」あながち嘘ではないなと思う。きっと講師はそれによる極上の喜びを知っているからこそ情熱が尽きないのだと思う。だからその喜びが具体的に、どう快感なのか自分で理解できなくなったとき情熱は冷めていくのだと思う。
Sep 29, 2006
Y先生から引き継いだ教室は 2月一杯で閉じる教室だった。 その教室は商業エリアの中心にある教室だった。 Y先生が去るとき、塾長に伝えていたことがあった。 「今の教室はドーナツ化現象のちょうどど真ん中なんですよ。 これではほとんどの生徒は大手に取られるだけです。 移転するのなら住宅が密集しているここしかありませんよ。」 そう言い残して塾を去っていった。 春になったら会社を辞める僕にとって そんなことはどうでもいいことだった。 けれど、その教室を1ヶ月程度まかされるようになってから 僕の気持ちは次第に変わり始めていた。 特に中2の生徒たちが個性的で興味があった。 授業は8時からだ。 8時になったら真面目なYがやって来る。 そして中2で紅一点のFさん。 その二人だけだ。 8時半になったら一斉に男集団が流れ込んでくる。 勉強は2の次で今はクラブだけ そういう連中だった。 けれど、妙にこの連中のことが気に入っていた。 きっと疲れていたんだと思う。 自分の力が至らなすぎて 教育熱の熱い地域の子達に対して その希望を答えてあげられない自分に 憤りを感じていたのだ。 けれど、自分のなかで 塾の道をどうしても諦めきれないところがあって もう一度再起したいと願っていた。 だから、この生徒たちと一緒にいつの日か、あの地域の子達を打ち負かしてやる… そんなことを目標にしていたのだ。 新しい教室は Y先生の言い残した言葉通り 今の教室から4キロほど離れた住宅地帯にできることになった。 塾長は新しい教室長の候補を探していた。 そのために求人を出していた。というのも、今いる社員は既存の教室の運営のために 担当の教室から離れることはできなかったし 新しい教室は本部からかなり離れていることもあって 誰も志願しなかったからだ。 そんな最中 「この子たちを最後まで見たい」 そういう気持ちが大きくなっていた。 1年間、受験生などを見てきて 幾人かの生徒たちとは 信頼関係もでき、それなりに達成感もあったのだけれど 大きな感動はまだ実感していなかった。 やり残した感を感じずにはいられなかった。 自分に一番合った道だと思って、進んだ塾の道だ。 自分が納得できる何かを掴むまでは 諦めがつかなくなっていた。それに、この教室の生徒たちはY先生から引き継いでいる。愛着もあるし、何かしら縁のようなものを感じていたかったのかもしれない。 僕は塾長に、再び社員になって新しい教室を任せて欲しい旨を伝えた。 塾長は快くそれを了承してくれた。 他の社員にもお願いした。 根回しにも必至だった。 今、思い出しても 僕が新しい教室で 教室長をしていなければ 今の自分はない。 違う人生を歩んでいたかもしくは、もっと遠回りをしていたに違いない。 それだけにその教室は 僕の原点であった。 僕はもう一度 自分の道が 塾にあるのかどうか 試してやろうと思っていた。
Sep 25, 2006
初めての授業は 最も教育熱が熱い地域にある教室の一番上のクラスの数学だった。 前任はウチの塾で一番の看板講師のK先生だ。 嫌でも比較される。 どんな授業をしたのか今でも覚えている。 とにかく生徒のことを考えない最悪の授業だった。 おめでたいことに そのときは自分の授業がなぜ駄目だったのか 全く分からなかった。 次の日、本部にクレームが入った。 早速会議にかけられ、僕はひとつ下のクラスに回されることになった。 そのクラスは幸いにも僕を暖かく迎えてくれた。 ただ、上のクラスの生徒のことを考えるたびに 強烈な自分へのコンプレックスを抱えることになった。今でも思っていることがある。塾というのは人気商売だ。たとえ同じ会社であっても生徒の人気をとってナンボなのだ。講師間でしか見えない競争がそこにある。決してK先生は僕を助けてはくれない。自分で乗り越えるしかないのだ。 その悲しさを乗り越えるのに手を差し伸べてくれた人たちが Y先生とI先生だった。 だいたいの自分のポジションが見えてきた頃 唐突にY先生とI先生が会社を去ることになった。 リーダー格だったK先生も一緒に去っていった。 僕はひとり取り残されたような気分になって 僕も辞表を出した。 もう一度、建築の道に戻ろうと思っていた。 けれど、塾長に引き止められて 僕は非常勤講師になって春まで働くことになった。 授業は手を抜かなかったが 気持ちは宙に浮いたような感じだった。 一体俺の人生ってなんやんねん、とかかなり投げやりな気持ちになっていた。 そんなときだった。 Y先生が教室長を務めていた教室に 僕がしばらくの間、入ることになった。 僕は立場上、その頃は非常勤なのだが 社員としての仕事を知っているので 春になって新しい社員が入るまでの間 僕がその教室を管理することになった。 その教室の雰囲気は今でも覚えている。 場所のイメージは… シティーハンターの冴羽遼の事務所みたいな雰囲気の漂う教室だった。 そしてその教室は僕の特別研修の場所でもあったし なんども寝泊りした、本当に思い入れのある教室だった。 Y先生を良く知る生徒たちは 僕にとって、なんとかしてあげたい生徒たちであった。 春になったら辞める僕にとって なんともふさわしく、なんともいえない解放感を 感じていた。
Sep 24, 2006
金曜の授業の終わりごろ アメリカに留学中だったUくんがやって来ました。 時差ボケで、夜の10時ごろはバリバリに目が覚めているらしい。 まぁそんなことは置いておいて 彼は日本に留まっていたくなくなったそうです。 あっちで何かを掴んできたみたい。 あれから3日経ったけど 今も心のなかでくすぶってるんやろうな… 窓から見える一面に広がる小麦畑 日本に帰ってきて、梅田を見て なんてヒトが多いんだって思ったらしい。 中学生になってはじめて梅田に行ったとき なんて都会なんだ!って思ったのは なんだったんやろう… そうやって過去の自分と比較したところに Uくんの秘めたる想いを感じずにはいられなかった。 彼は熱い想いを秘めて帰っていった。 僕は思った。 人間は人生の節目で 可能性を失っていく。 たとえば高校に入学した。 もしその高校が私立の進学校ならば 公立のような自由な校風を捨てた。 クラブ活動を捨てた。 そういう犠牲を払ってまでも 掴み取る何かのために さまざまな可能性を失っていく。 僕も残された仕事の道を 塾だけに絞った。 今更、建築の道や 教員の道を目指すことはないだろう。 いくつかあった夢も 今は過去のことで 後は残された夢にすがりつくだけ。 ただその夢は狭いが 以前よりも深く、濃く、具体的だ。 限りない可能性に嫉妬することなく 僕自身の限られた可能性の素晴らしさを 誇らしく思おう。 夢をカタチに変えていくことの リアルな喜びを証明してみせよう。 本当に面白いのはきっとここからだと思う。
Sep 18, 2006
新年度の授業が始まるまでの準備期間は5日間。 けれど残り2日は入塾説明会があって 僕達新人は塾長に同行しなければならない。 準備と研修は実質3日間でした。 研修といっても ほとんどが事務の研修で 授業の研修は1回だけだった。 社員の人たちの前で 新人の僕達が模擬授業をするというものだった。 僕は月曜日の最初の授業でする 「乗法公式の解き方」のところを 模擬授業をした。 今思い出すと 正直思い出したくないくらい 回りくどい説明だった。 ただ、注意を引くような授業がしたくて シンプルに伝えればいいものを 余計な説明ばかり盛り込んだ どうしようもない授業だった。 途中で社員のI先生が教室を出た。 僕はそれを見て、さらにあせった。 あせればあせるほどどんどん偏った授業になっていった。なんとか模擬授業を終えた後 K先生が色々とアドバイスしてくれた。 けれど、僕にはそのアドバイスが何だったのか覚えていない。 なにが正しいかというものが全く分かっていなかった。それだけ僕は現場を知らなすぎた。答えは現場の中にあることを経験のない僕は知る由もなかった。そのときの僕は 教場に立つだけの力量がないことを知ることもなく 根拠のない自信と、授業への期待と、漠然とした不安が ドロドロに入り混じっていた。 授業の研修が終わり、社員の人たちは 自分の教室の準備のため本部を出た。 僕たち新人は、本部校の準備をしていた。 テキストセットや座席表、出欠表、名簿などの作成。 結構な量で大変でした。 夜の8時頃 準備も終わり、第1教室を覗いてみた。 その教室は、3月中旬に行われる公立高校の受験勉強のため 自習する場所として使われていた。 塾は2月末で卒塾になっていて、後は塾を自習だけに活用していた。 数名の受験生が、黙々と赤本を解いていました。僕は久しぶりに見た受験生に なんだか不思議な親近感と 早く指導をしたいという期待感から 赤本の数学を解いている生徒に声をかけた。 「どう?分からへん問題とかある?」 どんな問題だったかは覚えていない。 けれど、その生徒が笑顔だったことは 覚えています。 授業をやっていると 通りかかった事務のHさんがやってきて 「先生は熱心ですねぇ」 と言ってくれた。 おめでたいことに そんな他愛もない言葉が 僕を元気づけた。 分からない問題をだいたい説明し終わって 僕はその生徒に聞いた。 「君はどこの高校を受けるん?」 「…高校です。」 「ああ、そっか…うん、頑張ってな!」 「はいっ」 僕は大阪の高校のことは全然知らなかった。 色々なことが無知だった。 塾講師でやっていくに当たって あまりにも知らないことが多すぎた。 そんなことも知らず かすかな満足感を胸に 帰りの阪急電車に乗り込んだ。 社会人として乗った 見慣れた阪急電車は また違った感覚があった。 電車のなかで考えたことは さっきの気持ちで授業に臨めば大丈夫やろ。 ってことでした。 複雑な感情が入り混じりながら 何かにすがるような気持ちであったのを覚えています。
Sep 14, 2006
塾に就職したのは3月の頭。新年度は3月6日の月曜日から授業でした。 それまではテキストセットなどの新年度の準備、事務の研修、入塾説明会やらで てんやわんやだった。 初日の日は流石にインパクトが強かった。 今年の新入社員は新卒の僕と、もとサラリーマンのK先生とベテラン塾講師のI先生の3人でした。 初出勤したとき、まだ他の社員は来ていなくて 僕とK先生とI先生と塾長の4人で雑談をしていた。 正午の時間が近くなると ゾロゾロと社員の方達が来られた。 その光景はなぜか今も覚えている。 なにやらニヤニヤとにやついているY先生。 社員の中心格らしいK先生。 新人の挨拶の後、会議が始まって、Y先生が塾長に噛み付いた。 何の話だったのか、今は覚えていないが しばらくたってから中心格のK先生が間に入って なんとか話はまとまった。 僕の印象としては なんというか濃いな…の一言でした。 ああ、この人たちが塾という現場で 日々揉まれている人達なのか… そんなことを考えると妙にワクワクした。 会議が終わって、休憩時間になった。 ゾロゾロと社員の方たちが外に出て行く。 最後尾のY先生が僕とS先生を手招きして言った。 「ちょっとコーヒーでも飲みにいきましょかー。」 連れられて行ったところは 塾から50メートルくらい離れた路地裏にある 自販機の前だった。 何人かの社員の人たちが さきほどの会議の内容のことを話し合っていた。 僕はただその話を聞いていた。 そのうち、そばにいたI先生が僕とS先生に言った。 「塾長の話は話半分でいいよ。 まずは俺達で話し合って決めるから。 なにか分からないことがあったら何でも聞いてね。」 するとS先生は即座に答えた。 「まだ塾の実情をよく知りませんから 色々と教えてくださいね。」 僕はS先生のその応対に とても慣れている印象を受けた。 その一方で僕は困惑していた。 これからどんな仕事が待ち受けているのか。 例えば、僕の配属される教室には どんな講師がいて、どんな生徒がいるんだろうか。 そういう分からないことは 塾長ではなく、社員の方達に聞けばいいのか… そんなことを考えながら なんだかちょっと面倒だなぁと思った。 面倒なことはあまり関わらないで とにかく早く授業をしたいなぁと思っていました。
Sep 11, 2006
この前、いつも仲良くさせて頂いている T塾長先生に昼食をご馳走させてもらった。 いろいろと話をするなかで 印象に残る会話がありました。 「塾業界って美容師業界と似ていると思わへん? どちらも手間隙かかる仕事だしよく独立するしね。」 「そうですね。そういう意味で物凄く似ていると思います。 ただ、僕のイメージでは、塾業界は設計事務所の業界と似ていると思うんですよ…」 学生の頃 塾のバイト以外に 朝から晩まで毎日休むことなく働いたバイトは 設計事務所のバイトでした。 所長と社員1人とバイトの僕の3人。 僕はずっと図面の清書と模型作りで 朝から晩まで働いた。 社員の方は若く、たぶん当時20代後半くらい。 給料はすごく安いらしい。 けれど、いつか独立を夢見ていて 業務以外にも勉強をしているような感じがあった。 「どこからそんなエネルギーが湧いてくるのだろう…。」 当時僕は不思議でしょうがなかった。 僕が彼と同じように設計の道に志して しんどい業務に耐えながら、夢へのエネルギーを 絶えることなく供給することは無理だと思った。じゃあ大学で勉強していることって何なの? という気持ちが常に自分の中にあって 社会のなかでバリバリ建築で頑張る自分を まったくといっていいほど イメージすることができなかった。 社会で生きていく自分を 塾という場でしか、見出せなくなっていたのでした。 大学を卒業して この業界に本気で入っていって 6年半だ。 6年半の中でも 色々なことがあった。 日々の授業の現場を通して仕事に対しての自信と確信を掴んでいく。そういうものが蓄積されていってさらなる大きな仕事に目を向けていけるんだと思う。設計事務所のバイトの頃にグサッとくる衝撃を受けたのは仕事の現場で、とんでもなく忙しいのに自然と仕事をこなす姿だったと思う。まだ夢が叶っていないけれど絶対に叶えるに違いないと思わせる何かがありました。そういうものがないと仕事は絶対に駄目なんだと思い知らされたのでした。
Sep 9, 2006
僕の住まいは神戸で塾は大阪にあります。電車で30分くらいかかるんですがいつも思う不思議なことがあります。それは言葉の微妙な違いです。当然関西なので関西弁なんですが神戸弁と大阪弁では微妙に違います。夜、神戸の駅に降りると駅前で話している声が耳に入ってくる。「何しとんねん・・・」なんて聞こえてくる。ああ神戸やなぁと思う。神戸弁は「動詞+う」の形になります。塾にいると「知ってる?」なんて言葉を頻繁に使いますがこれを神戸弁で言うと「知っとう?」になります。僕の塾の講師のなかには生粋の神戸人が2名いるので神戸の人たちがいるんだなぁとしみじみ思う。他に思いつく神戸弁ではずせないのが本当に頭にきた時、相手に浴びせる言葉として良く使う「ダボ」です。いわゆる「アホ」や「バカ」の意味です。僕も本当に怒りで煮えくり返ったときは「このダボが!!」と思わず口に出してしまいます。その他に思いつくものといったら「バリ」でしょうか。「めっちゃ」つまり「とても」と同じ意味です。とても美味しい食事(たとえば ぼくのふらいぱんのハヤシライスとか)をしたときなどは「バリ美味い!」と言います。ほんの電車で30分の違いで言葉はこうも違ってくる。些細なことだけど、結構面白いものです。
Sep 4, 2006
8月も終わりの頃高校生のU君が読書感想文のための本を読んでいなくて困っていました。しかも提出日が明日ということらしい。なにか後書きが付いている小説とかないですか?ということで最近、友人に薦められて読んでいる本を鞄から取り出しました。…後書きがない。力になってあげることはできませんでした。というかUくん。君は結構、本が好きだっていう話をしていたはず。 別にこの夏に本を読んでいなくても今まで読んだ本から書けばいいんじゃないのか。そんなことを思ってから数日後盆の終わりの頃から行き帰りの電車の中で読んでいる本が読み終わった。「ノルウェイの森」という小説です。なんというか、この本って ほとんどが会話です。 主人公が話す相手は思いつくのでも 直子、永沢さん、レイコさん、緑、ハツミさん 基本的にはこの5人だけ。 話の展開としては かなり単調なもの。 ダラダラと大学生活を送っているだけ。 だけど結構惹きつけれられました。 それは何かというと 登場人物は基本的に普通ではなくて なにかにこだわりすぎていて そのために大きな犠牲を払って 生きているってところです。 話の展開が単調なのは 気にならなかった。 不思議な登場人物たちの会話に 読む楽しみを見出したからです。 ただ、気に入らないというか 理解できないことは そのなかの二人が 最終的に死を選んだことです。 僕が凡人すぎるからだろうか。 死を選ぶ理由がよくわからない。 登場人物同士は 価値観が同じ部分と 違う部分の両方を尊重しあっていたし あらゆる面で理解し合える雰囲気を 持っていた。 けれど 最終的には直子は自殺した。 単純に考えられるのは 直子は 精神的に病んでいる自分(直子)に引きずられている 主人公ワタナベを解放したいと願っている。 けれど、過去のしがらみがあって 心の底からワタナベを愛せない。 生きていくことで、ワタナベを解放できない。 よって自分が死ぬしかない。 そう考えてみたものの やっぱり理解しがたい。 けれど物事というのは あらゆる矛盾が内在していて その中でいつも矛やら盾やらを そのときの判断で選択していたりする。 今回僕が もっと単純に生きればいいのに と思ってみても その一方では もっと複雑に考えて生きなければいけない なんて思うこともある。 どちらが正しかったかなんてのは 結構時間がたってから分かるものです。 とにかく直子は 心の整理がついて 死んだということ。 心の整理がついたら 死ぬんかい! と今はつっこみいれたくなる そんな感想でした。
Sep 1, 2006
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