歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年02月28日
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カテゴリ: 江戸時代




(おばまはんりょうじょうおうがんねんいっき)とは、江戸時代に小浜藩領内で発生した一揆。承応元年(1652年)に指導者である松木荘左衛門が処刑されたことからその名がある。


小浜藩では年貢として大豆を徴収する例があり、元は大豆Ⅰ俵あたり 4 斗であった。ところが、藩主である京極氏が4斗5升(一説では5斗)に引き上げ、新しく領主になった酒井氏もこれを維持したために農民の間で反対運動が起きた。


寛永17年(1640年)に小浜藩内252か村の惣代が年貢引き下げの訴願を行い、以後も繰り返されたが認められず、8年後の慶安元年(1648年)になって、 藩側は松木荘左衛門ら惣代を逮捕した。


惣代たちは藩の厳しい吟味によって次々と藩に屈服したが、松木のみは最後まで主張を取り下げず、承応元年(1652年)になって松木を磔にしたものの、年貢は旧に復した。このため、松木は義民として祀られることになった。


評定所御詮議懸りによる郡上一揆の吟味ではまず幕府役人の吟味が先行したが、宝暦8年(1758年)7月の吟味開始直後から事件に関係した大勢の郡上藩役人、農民らが江戸に出頭を命じられ、江戸へと向かった。郡上から江戸に向かった農民は総勢309人に及んだとの記録も残っている。


また江戸に潜伏していた駕籠訴人の切立村喜四郎、前谷村定次郎は、宝暦8年8月26日(1758年9月27日)に、切立村吉十郎、前谷村吉郎治とともに御詮議懸り依田正次の邸に駆け込み訴えを行い、そのまま入牢となった。


評定所御詮議懸りによる吟味は、以前の駕籠訴吟味の時とはうって変わって農民たちに厳しいものとなった。


郡上藩役人、農民、そして石徹白騒動の関係者に対する吟味は、幕府役人に対する判決言い渡しが終了した宝暦8年10月29日(1758年11月29日)以降、集中的に進められた。吟味ではまず農民が新たに開発していた切添田畑の有無について確認した上で検見取を正当化し、続いて一揆の組織や首謀者について厳しく追及した。


拷問を含む厳しい取調べによっても農民たちはなかなか口を割らなかったが、宝暦₈年11月3日(1758年12月3日)には、駕籠訴、箱訴人を厳しく取り調べた結果、一揆勢の指導者が判明した。


藩主金森頼錦以下、郡上藩役人らの吟味も進められた。金森頼錦への尋問は、郡上藩の年貢徴収法改正に対して幕府役人である美濃代官が介入した件についてどのような関与を行ったかと、気良村甚助の違法な処刑、そして石徹白騒動の処理についてであった。


吟味の最中、宝暦8年9月26日(1758年10月27日)に金森頼錦は松平遠江守に預かり処分を受けた。そして郡上藩士の多くが江戸に呼び出されている状況が続いているとして、宝暦8年10月2日(1758年11月2日)には彦根藩に対して治安維持を目的とした郡上への出兵が命じられた。


宝暦8年(1758年)11月以降、厳しい尋問によって病人、そして牢死者が続出することになる。


宝暦8年12月末の判決言い渡しまでに、駕籠訴人の切立村喜四郎を始め名が明らかである農民だけで16名が牢死した。


また切立村喜四郎の遺体は取り捨て扱いとされた。厳しい取調べは農民ばかりではなく郡上藩役人らにも及び、郡上藩の検見取採用時に活躍した黒崎佐一右衛門も牢死した。


また幕府高官から農民に至るまでの大勢の人々を連日のように取調べることは、評定所御詮議懸りにとっても負担が大きかったようで、御詮議懸りの勘定奉行菅沼定秀は宝暦8年12月11日(1759年1月 9 日)、評定所で体調不良を訴えて退席し、宝暦8年12月24日(1759年1月22日)に死去する。


そして厳しい尋問が続く中、吟味が大詰めとなった宝暦8年(1758年)12月には、駕籠訴人、箱訴人、そして一揆の指導者から「公儀を恐れず」という発言が飛び出し、評定所御詮議懸りは更なる厳しい取調べを命じることになった。


一揆勢に対する判決


宝暦8年12月12日(1759年1月10日)には郡上一揆と石徹白騒動についての判決がほぼ固まり、宝暦8年12月15日(1759年1月13日)には申渡書が作成された。


判決言い渡しは5名の老中、側用取次の田沼意次、御詮議懸り 5 名らが列席する中、宝暦8年12月25日(1759年1月23日)夕刻から翌日早朝までかけて行なわれた。


判決の中で一揆勢の、騒動の原因は郡上藩の年貢徴収法改定の違法な押し付けで、百姓が安定して生活が営めることこそが国が上手く治まる条件であり、幕府の御慈悲によって郡上藩などの不正を取り締まることによってその実現を願っているとの主張を退け、逆に検見法の採用によって切添田畑の存在が明るみに出ることによる課税強化を恐れ、領主の申しつけに逆らって強訴を行い、更に駕籠訴を起こした上に、強訴と駕籠訴吟味の際には切添田畑の存在を隠したと、一揆勢を厳しく断罪した。


その他、駕籠訴人が郡上への帰国の際に帯刀したこと、公儀を恐れない行為の首謀者となったこと、村の秩序を破り庄屋らを脅し証文を取ったこと、騒動の活動資金を集める帳元となったこと、歩岐島騒動において藩役人らの命令に従わず暴動を起こしたこと、村預け処分でありながら脱走したこと、駕籠訴の判決を待たずして事実に反する内容で箱訴を行なったことなど、 判決ではこれまでの一揆勢の行動全般にわたって断罪された。


判決では一揆勢の頭取と判断された切立村喜四郎、前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門、寒水村由蔵の4名が獄門とされ、駕籠訴人の東気良村善右衛門、東気良村長助、那比村藤吉、箱訴人の歩岐島村治衛門、二日町村伝兵衛、市島村孫兵衛、東俣村太郎衛門、向鷲見村弥十郎、剣村藤次郎、そして鷲見村吉右衛門の10名がやはり一揆の頭取同様に当たるとして死罪を言い渡された。


その他遠島 1 名、重追放6名、所払い33名など、一揆勢は大量処分を受けた。判決後、獄門、死罪を言い渡された者たちは腰に獄門、打首と書かれた札を付けられ、次々と刑場に引かれ処刑が行なわれた。






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最終更新日  2024年02月28日 05時50分33秒
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