歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年02月29日
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カテゴリ: 江戸後期





蛮社の獄 (ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。


天保年間(1830年代)には江戸で蘭学が隆盛し新知識の研究と交換をする機運が高まり、医療をもっぱらとする蘭方医とは別個に、一つの潮流をなしていた。


渡辺崋山はその指導者格であり、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。この潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ同好の集団、社中。「蛮学社中」の略)と呼ばれた。


後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府の文教部門を代々司る林家の出身であった。


儒教を尊んできた幕府は儒学の中でもさらに朱子学のみを正統の学問とし、他の学説を非主流として排除してきた。


林家はそのような官学主義の象徴とも言える存在であり、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる林一門にとって蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また林家の門人でありながら蘭学に傾倒し、さらに多数の儒者を蘭学に引き込む崋山に対しても、同様の感情が生まれていた。


以上の通説に対して田中弘之は、林述斎(耀蔵の実父)は儒者や門人の蘭学者との交流に何ら干渉せず寛容であり、また後述するように述斎はモリソン号事件の際、幕府評定所の大勢を占める打ち払いの主張に反対して漂流民の受け入れを主張しており、非常に柔軟な姿勢がうかがえること、鳥居も単なる蘭学嫌いではなく、多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して反対するなど、その実用性をある程度認めていたこと、そもそも林家の三男坊にすぎなかった鳥居耀蔵は鳥居家に養子に入ることにより出世を遂げたため、鳥居家の人間としての意識のほうが強かったことを指摘している。


また、崋山の友人である紀州藩の儒者・遠藤勝助は、救荒作物や海防について知識交換などを目的とした学問会「尚歯会」を創設したがこの会の常連であったために「蛮社=尚歯会」「蛮社の獄=尚歯会への弾圧」という印象が後世生まれたが、尚歯会の会員で蛮社の獄で断罪されたのは崋山と長英のみであり、その容疑も海外渡航や幕政批判・処士横議で、会の主宰であった遠藤をはじめ他の関係者は処罰されておらず、そのような印象は全くの誤解だとしている。


対外的危機と開国への期待


天保年間、日本社会は徳川幕府成立から200年以上が経過して幕藩体制の歪みが顕在化し、欧米では産業革命が推進されて有力な市場兼補給地として極東が重要視され、18世紀末以来日本近海には異国船の来航が活発化し始めた。


寛政5年(1793年)のラクスマンの根室来航を契機として、幕府老中松平定信は鎖国祖法観を打ち出した。幕府の恣意的規制の及ばない西洋諸国との接触は、徳川氏による支配体制を不安定化させる恐れが強く、鎖国が徳川覇権体制の維持には不可欠と考えたためである。


一方でこの頃から、蘭学の隆盛とともに蘭学者の間で西洋への関心が高まり開国への期待が生まれ始め、庶民の間でも鎖国の排外的閉鎖性に疑問が生じ始めていた。文政7年(1824年)には水戸藩の漁民たちが沖合で欧米の捕鯨船人と物々交換を行い300人余りが取り調べを受けるという大津浜事件が起こっている。


また、異国船の出没に伴って海防問題も論じられるようになるが、鎖国体制を前提とする海防とナショナルな国防の混同が見られ、これも徳川支配体制を不安定化させる可能性があった。


そのような中で出されたのが文政8年(1825年)の異国船打払令である。これについては、西洋人と日本の民衆を遮断する意図を濃厚に持っていたと指摘されている。また、文政11年(1828年)には幕府天文方・書物奉行の高橋景保が資料と引き換えに禁制の地図をシーボルトに贈ったシーボルト事件が起こり、幕府に衝撃を与えており、天保3年から8年(1832年  –  1837年)にかけては天保の大飢饉が発生して十万人余が死亡し、一揆と打ち壊しが頻発した。特に天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱・生田万の乱は全国に衝撃を与えた。


また、対外関係は、19世紀初頭に紛争状態にあった北方ロシアと関係改善されるも、インド市場と中国市場を獲得したイギリス政府が日本市場を狙い台頭する状況から、イギリスの小笠原諸島占領計画、モリソン号渡来が蛮社の獄に影響し、これら内外の状況が為政者の不安と有識者の危機意識を掻き立てていた。


ただし、これについては田中弘之は、当時のイギリスは清国との関係が急激に悪化しており、そのため日本人漂流民の送還もアメリカ商船モリソン号に委ねなければならなくなったと指摘している。


小笠原諸島は清国との有事の際のイギリス商人の避難地およびイギリス海軍の小根拠地と考えられていたにすぎず、香港を獲得するとイギリスの占領計画も自然消滅しており、当時の幕府もイギリスの小笠原諸島占領に全く無関心であったとしている。モリソン号の来航を機に鎖国の撤廃を期待したのが高野長英・渡辺崋山らで、崋山は西洋を肯定的に紹介して「蘭学にして大施主」と噂されるほどの人物であった



発端


モリソン号事件


蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保8年(1837年)に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。


彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キング(英語版)が、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。


天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである






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最終更新日  2024年02月29日 11時47分45秒
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